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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年9月 8日 (木)

負担に感じられると負担

 なんか夏の猛暑のお疲れが出たのか、なんとなくだるめの日々が続きますが、みなさんお元気でお過ごしでしょうか。

 以前、「相手にとっては望ましい関わり方が、自分にとっては抵抗感や罪悪感のあるようなもの」であるときに、そこをどう対処したらいいんだろう」ということを書いて、いくつかのコメントも頂きました。カレンさんのところなどはさすがにもうそういうところは乗り越えていらして、相手が望むことであればこちらには抵抗感なく応じられるようになったということでしたし、やっぱり抵抗が残るという方もあったと思います。

 私自身もそのあたり、まだまだ解決ができていないところで、パートナーがこういう関わり方を望んでいる、ということが頭で分かっても、なんか気持ちがついていかないというか、悪いことをしてるみたいな気持ちになってしまってうじうじとしてしまうことがあるわけです。

 特に「人間関係ではこういう風に対応することが<相手を尊重すること>だ」という、一種の道徳観というか、倫理観というか、付き合い方の掟というか、そういう部分に関わる場合は、良心にも反する行動に思えてしまって、そこから自分が自由になりにくいんですね。

 実は異文化の人同士の間でもそういうことは頻繁に起こるように思うんですが、これは実体験ではなくて、昔なんかで読んだ話なんだけど、あいさつの時相手の顔につばをかけるのが礼儀、というのもありました。ほんとかなとも思いますが、ほんとならこれはなかなかキツイですよね。相手がそれを望んだとしても、ちょっとためらってしまうでしょう。もうちょっと穏やかなところでは、ロシアとか、あいさつでキスをするわけですけれど、男同士でも口と口でブチューっとやる。これも(やったことないけど)ちょっと勇気がいる感じ。

 欧米とかで車を運転して事故ったとき、日本的な感覚で、自分に非がない場合でもとりあえず謝ったりっしたら、それでもう終わり、という話もしばしば聞きます。非はすべて自分にあることになって全部賠償しなければならなくなる。もちろん自分に多少非がある場合でも絶対そこで謝ってはならないといいます。向こうの人にとってはそれは当然の態度なんだろうけれど、でもどうも私の場合はそれは良心に反するような気がして、抵抗感があります。

 郷に入れば郷に従え、とは言いますけど、なかなか簡単にはいかないですよね。いや、少なくとも私の場合はそこがへたくそなのかも知れません。なんか「自分の基準」にこだわってしまう。うーん、それってある意味「アスペ的」と言えるのでしょうか???

 ま、そういう私の性格もあるのかもしれないけれど、少し大げさに言えば自分の「信念」にかかわるような所では、やっぱりなかなか柔軟に相手に合わせると言うことができなくて(それをやると「自分が失われてしまう」と感じたりするので)、そのあたりは日々手探りの所があります。

 昨日もそういう感じの問題があって、わりと長い時間話し合ったんだけど、ありがたいことに最近はかなり「前向きにお互いのズレから来る問題を解決していこう」という姿勢で話し合えることが少しずつ増えてきて、昨日もそうなりました。で、昨日の場合は結果としてもかなりうまく調整ができたように思えるんですが、なんでそれがうまく行ったのかなあと改めて振り返って考えてみているところです。

 正直、まだよくわかんないんですが、「相手に負担を掛けたくない」とか「嫌な思いをさせたくない」という点ではお互いに姿勢が共有されている、ということはなんか伝わり合っていた感じがします。言葉としてもなんども繰り返されましたし。それで「こういう風なやり方をすればあなたの方は私に負担を掛けると感じるかも知れないけれど、自分はそういう感じ方はしない」と言われ、さらに「むしろそこで負担を掛けるかも知れない、と気に病まれることの方が自分にとっては負担になる」と繰り返されたことは結構大きかったような気がします。

 つまり、どういうことかな。うーんと、「これは相手にとって負担になることだ」と思ってそういうやり方とか言い方とかをしないことが、逆に相手にとって負担になってしまうということがこちらに素直に伝わってきたとき、なんか変化が起こるのかも知れません。

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コメント

パンダさん、大丈夫ですか?前のテーマのコメントの感じからパンダさんがちょっとお元気ではないように思い、ちょっと心配していました。猛暑が続いたり強烈な台風が来たり、なんだか体がついていきませんよね。

>「こういう風なやり方をすればあなたの方は私に負担を掛けると感じるかも知れないけれど、自分はそういう感じ方はしない」と言われ、さらに「むしろそこで負担を掛けるかも知れない、と気に病まれることの方が自分にとっては負担になる」と繰り返されたことは結構大きかったような気がします。

最初にあの掲示板に出会った時、さかのぼれば「一緒にひとり」を読んだ時、「夫が言うようなことをそのまま言う人たちが夫以外にいるんだ・・・!」とすごく驚いたことを今思い出しました。パンダさんの奥様も、夫の言うこととホントに同じこと言われるんですね~!

これ、それこそ、同じことを何度言われてきたことか。もう数えきれないほど。

毎度同じフレーズになってしまいますが、アスペルガーのことを知る前、私にはサッパリ意味がわからなかったし、夫は夫でいつも「見解の相違だね(怒)!」となっていました。でも、「アスペルガーのこと」そして、それにちょっと遅れる形で「定型のこと」を知った今では、「なんであんなにもめてたんだろう???」という感じです。

正規職員としての仕事を失った効用を、今、いろんな形でつくづく感じるのですが、そのひとつに、友人その他の人たちの「個人としての生活」「家庭の姿」「生育環境」等々を知る機会が増えたことがあります。仕事のつきあいオンリーではなくなったからこそ、話せること、見えること、聞けること、というのが、ものすごく増えたんですね、ここ数年。

そうやって見ていると、本当に、個人の数だけ生活の形があって、家庭の形があって、生育環境があって、個人の数だけ物事に対する見方・考え方があって・・・そんな、ごく当たり前のことに、あらためて驚くことが多いんです。

特に、実際、よその家に上げていただくようなつきあいも増え、そのたびに、当たり前のことながら、我が家とは違う価値観や習慣があることに気づきます。

そして、思うんですよね、「職場の人間関係」「外で会うのみの人間関係」と、「家庭の中での人間関係・家族としての人間関係」がいかに異なるものかということを。

どんなに仲のいい友人でも、家の中でその人が主導権を持って家を仕切っているのを見ると、「あー、この人とでも、ひとつの家で一緒に住んだら、意見の違いとかやり方の違いでぶつかるだろうなぁ」なんて思うこともしばしば。

話が回り道にそれましたが、そんなことを経験するだに、夫という、まさに元他人と、しかもアスペルガーと定型という違いがありながら(と、2年半前に気づいたばかりですが)、よくここまで20数年、まがりなりにも、「我が家」と思えるものを作ってきたなぁ、という気がします。

以前は、「夫は、私そのものではなく、私が備えている機能や条件を好んでいるだけなのでは?」と真剣に悩んだ時期がありましたが、今は逆に、「私と一緒に、今、これだけの生活ができる人は、夫以外にいない」とすごく思います。

部屋の置物の配置、置物の種類、日々の生活時間帯、子どもたちとの時間、それぞれの時間の使い方・・・そういう、条件すべてを、今のようにそろえてやって行ける相手は夫しかいない、と、しみじみ思うんですよね。

2年半前アスペルガーのことを知ったのは私にとって福音だった、と、ここで何度も書きましたが、本当にここまで穏やかな生活ができるようになるとは、自分でも予想していませんでした。とにかく、その時、その時、一生懸命でしたから。

カレンさん

 「そうやって見ていると、本当に、個人の数だけ生活の形があって、家庭の形があって、生育環境があって、個人の数だけ物事に対する見方・考え方があって・・・そんな、ごく当たり前のことに、あらためて驚くことが多いんです。」

 これは実感ですね。これまで私はものを考えるときに、どっちかというと「大きな枠でざっくり考える」という傾向が強く、日常の一人ひとりの生活の細かい違いにはあんまり目が向かなかったんですが、子どもの問題も含めて改めて「家族」というものと本格的に向き合うようになり、またそれとともにこういう場でみなさんのことを聞かせていただくようになり、むしろ日常の一人ひとりの生活の違いの方が自分にとって大きな意味を持つ感じになってきているようです。

 ひとりひとりの人が自分にしかない、絶対に他人が取って代わることのできないただひとつの、個性的な人生を歩んでいて、その人がまた違う人生を歩んでいる人たちとの間に、それぞれ独特の関わり合いを作り、そういう関わりの大きなものとして家族がある。

 もちろん人間同士、一緒に生きていくためにいろんなすりあわせをやるので、「ひとりひとり違う」と言っても、そこになんとか通じ合う、共通する部分も作り上げていくわけですし、その過程でうまく関係のすりあわせができる場合も、なかなかうまくできない場合もあるわけですし、関わり合い自体もまた千差万別になる。

 アスペと定型ではそのすりあわせの仕方に、アスペ同士や定型同士では起こりにくい独特のズレが起こるので(今回もカレンさんが書かれているように、ほんとに全然違うカップルなのに、不思議なほど「全く同じ会話」が繰り返されたりしますよね)、そこで混乱して苦労する人が沢山出てくるわけですけれど、カレンさんご夫妻のようにそのズレもうまく組み込んで次へ進むカップルもあるわけですね。それはお二人が同じ人間だからできるすりあわせではなくて、違う個性の、違う生き方を持った二人だからできたすりあわせということでしょう。
 
 あ、まあある意味では当たり前とも言えるかな。だって自分自身と結婚したいと思う人はまずないでしょう。また大部分の人が配偶者として異性を求めるのだって、自分と違うから求めるわけですよね。ただ、そこにも「すりあわせ可能な範囲の違い」ということが、これもまたそれぞれのカップルごとにいろいろあるんだと思いますけれども。

 うーん、夏ばて続きかまとまりがない話ですみません m(_ _)m

>ズレもうまく組み込んで次へ進むカップルもあるわけですね。

今日も、わかっていたことではあるけれど、やっぱり本当にはわかっていなかった新たなズレを発見して、それを組み込みこもうとしているところです。

ちょっと2人で外出したのですが、その最中のこと。

夫:「あー、喉が渇いた。」

私:(断続的に)「あ、じゃあ、何か飲み物を買う?」
  「予定していた買い物をやめて、早めに帰る?」
  「まだ、予定の買い物までして大丈夫?」

夫:「そんなに気を遣わなくてもいいよ。」

私:「あー・・・、そうか! 夫さんは『喉が渇いた』、という事実を言っただけで、そのことで   私にどうこうして欲しいと言ったわけではないのよねー! あー、そうか。つい忘れて   た・・・!」

かつて、夫が「暑い」と言えば、私や周りの人間は「じゃあ、クーラー入れようか?」と反応し、そのたびに、夫は「入れなくていい。ただ暑いと言っただけだから」と言っていたので、

夫の「暑い」は、「ただ暑いと言ってるだけだ」と認識していたのですが、

今回の「喉が渇いた」ということに関しては、やっぱり、すごく定型的な反応をしていたことに気がついて、自分で本当にびっくりでした。

「暑い」はわかっても、「喉が渇いた」となると、やっぱり定型的な反応をしてしまい、それこそ、夫から見ると、「定型の人は、いちいちアスペルガー的な見方を言わなければわからないんだね。応用がきかないなぁ」ということなのでしょうね。

いやはや・・・。

自分の側からは、自分が喉が渇いて何か飲みたいと思ったら、「喉が渇いた」だけでなく、「喉が渇いたから、何か買おう」とか「喉が渇いたから、早く家に帰ろう/帰りたい」とか、とにかく夫には全部言ってしまう必要があるとわかっているのに、夫の「喉が渇いた」が単なる事実を言っているだけとは、すぐに気づかなかったとは・・・!

よく「アスペルガーの人には、場面ごとにひとつひとつ言わないとわからない」とか「アスペルガーの人は応用がきかない」ということ表現を目にしますが、

これは、「アスペルガー的観点から見た定型についても同じことが言えるんだろなぁ」と思った今日の一コマでした。

「夫に対する自分の話し方」にはずいぶん慣れてきたつもりなのですが、「夫の話の聞き方」はまだまだ、だとわかり、ちょっと新たな目標(?)ができた感じです。

日常の、ほんの些細なシーンだったのですが、おかげで、アスペルガー的発想と定型的発想の違いについて諸々のことを夫と話すいい機会になりました。

まさに、「負担に感じられると負担」の一場面だったので、ちょっと覚書もかねて書いてみました。

カレンさん

 「のどが渇いた」と言われると、やっぱり「なんか飲もうか」と言わないと
 申し訳ないような気に私はまだなってしまいますね。
 
 今日、散歩から帰ってきたときに12時すぎたところで
 ちょうどお昼というタイミングだったので、
 「ちょうど12時すぎたところだね」
 とパートナーに話したら、彼女から
 「定型の人はそれで何を言おうとしているわけ?
  12時なんて、見たら分かることなのに」
 と言われました。

 改めて聞かれると「はっきりとこれを伝えたかった」ということも思いつかなくて、
 敢えて言えば「ちょうどお昼の時間に帰れたね」とか、
 「ああもうお昼なんだね」とか、なんかそんなことなのかな。
 言ってみれば「なんか会話の種を蒔いてるだけ」で、
 特に大きな意味も無かったように思うんですが、
 そのあたり、ずれるんですね。
 このパターンはカレンさんの例とはどういう関係になるんだろう?

 こういう「ズレ方事例集」を積み重ねていくとおもしろそうでもありますね。
 みなさんから教えていただいたズレの事例を記事に整理して
 蓄積していくのもいいかも……
 

話の流れを止めてしまうようですが、事例ということで。
私の夫は、こっちがハッキリ言わないと伝わらないのは同じですが、自分の要求をはっきり言いません。
例:車で送ってほしいとき。夫「バスで行こうと思ったんだけど、本数が少ないんだよなぁ」「ちょうどの時間がなくて…」と、こっちが「じゃぁ、車出そうか?」というまで、繰り返します。

この前KSさんが書いていたようなコンビニ事件に似たこともありました。
夫の家に子供を連れて行くとき、夫が行く数日前から電話で「何を用意したらいいか?」と聞くので、「子供の飲むお茶とかジュース」と答えてました。行く前日にも電話で同じ質問。当日も、電話で同じ質問。さて、夫の家に着くと、お茶もジュースも買ってませんでした。夫は「せっかく買いに行って、また買い足す物とかあったら面倒だし。」と言って、まだ行く気配なし。私が「じゃあ、今から買い物言ってきて」と言って、やっと出かけました。
これは本当に不可解だったのですが、夫は買い物に行くのが面倒、もしくは飲み物代を払うのが嫌で、何度もしつこく「何を買えばいいか?」と聞くことで、私が「もう、いいよ。私が買っていくから。」というのを待っていたのではないか?と思いました。

夫はアスぺの診断を受けておらず、私がそう思っているだけなので、アスぺの例にはならないかもしれませんが。

補足です。
夫も、暑いと思ったから「暑い」と言っただけということもあります。「暑い」というと文句を言っているようなことになる状況でも、思ったままに言うようなところはあります。そこは同じなのですが、「クーラーをつけてほしい」ときも、「暑い」とだけ言うこともある、ということです。しかも、しつこく。
並の定型以上に、相手が定型的に気を回すことを期待して、はっきり言わずに自分の要求を通そうとするところがあるんですよね。もしかすると、夫の面倒を見すぎていた母親のせいかもしれません。

上のパンダさん(上野パンダ?さん)のコメントの中の、

パンダさんの台詞「ちょうど12時時すぎたところだね」に、もし私がだったら「そうですね、12時過ぎですね~。そろそろお昼ごはんにしましょうか」と答えそう。

もし、夫が答えるとしたら、「そうですね、12時過ぎですね。お腹すいたー!」と答えるか、「そうですね、12時過ぎですね。で、それが何か?」と答えそう。

この12時過ぎに絞るとわかりにくいのですが、

子どもが小さい頃、夫に「あそこに行きたいな」と夫に言ったとき、夫は「あなたが行きたいと思っていることはわかった。で、私にどうして欲しいわけ?」とか、「あなたが行きたいという希望はわかった。で、何?」というような対応をよくしていました。

まあ、一事が万事で、私や子供たちの「○○したよ」ということに対して、夫は「○○したのはわかった。それで?」という感じの対応が多かったです。(今は、ずいぶん定型的な反応の仕方も覚えて、「へぇ、それはよかったね/残念だったね」みたいな対応も多いです。こと、褒めることについては、昔から上手ですが。)

今日もちょっと話したのですが、夫は、「定型の人って、相手が『○○だ』と言ったら、それに対して、何かしら気を遣ったり、心配したり、思いやりと称して何かをしてあげる、というのが普通なわけ?」と私に尋ねてきました。

「程度問題ではあるし、あまりにも先回りして反応してしまうとやりすぎになったり甘やかしになったりすることもあるけど、普通は瞬間的&自動的に相手に対して、何かをしてあげよう、という気になることが多いし、一般的に、人はそれを自然に求めてるんじゃないかな」と私。

夫は、「定型の人って、大変だね!/面倒くさ~い!/お疲れ~!」みたいなことを言っていました。このようなこと、狸穴猫さんも、よく書かれていますけど。

・定型の人は、アスペルガーの人の言葉を、言葉通りに受け取るのが苦手、
・アスぺルガーの人は、定型の人の言葉の先にあるもの・裏にある思い等、言語外の思い・要求等を感じ取るのが苦手

このズレはしばしばセットなって起こるもので、このズレに気づかないと、モヤモヤとしたりイライラしたり、要するに、だんだん頭に来てしまうのだと思います。

今回のうちの場合にしても、以前なら間違いなく、喧嘩に発展していたでしょう。でも、「夫はアスペルガー」「妻は定型」という認識認があるおかげで、「あれ?なんか受け取り方、ズレちゃったね・・・(^^;)・・・」と、ご愛嬌ですみました。

それにしても、チロさんのご主人のパターンは、また全然違いますね・・・!
個々のこういう具体的な話聞くと、「へぇ!」という感じで本当に勉強になります。やっぱり、生育環境って大きいのでしょうね。

それにしても、ほんと真面目に、アスペルガーの人向けに、定型のことを知ってもらうための本が出るといいなぁ、と思います。:「定型の人とは~である」「定型の人はこのようなとき、言語として表出しなくても、これこれのことを期待しているものである」などという、ことを説明した、まとまった1冊があると助かりますよね。

直感ですが、そんなに抽象度の高いレベルの問題じゃないような気がしてます。そんな外国人や文化の比喩で理解がおぼつくような問題であるはずがないんじゃないだろうか。何かもっと感覚とか感性とか原初的なところに、何かがあるような思いに囚われています。

どうしても表出(アウトプット)の問題に注目してしまうけれども、覗き見ることのできない知識体系、思考法(処理系)の部分や、さらには5感の感覚(インプット)にどういう違いがあるのか?認めなければいけない違いは何だろうか、という気がしてます。

外国人との比喩で手が届く範囲だとすれば、

カレンさん> 定型のことを知ってもらうための本が出るといいなぁ、と思います。:「定型の人とは~である」「定型の人はこのようなとき、言語として表出しなくても、これこれのことを期待しているものである」などという、ことを説明した、まとまった1冊があると助かりますよね。

定型については、KSさんご指摘のとおり、文化人類学のフィールドでしょう。だとしたら、すでにあるに違いない。一般むけの良書がないとしたら、その分野の学者が説明責任を怠っているのでしょう?

非定型については、それぞれの様式に「文化」と認められるほどの一般性があるのかどうか?それは非定型の方たちがつながった結果、発信される可能性があるけれども、そのハードルはもっとずっと高いような気がします。現在おこりかけていることではありましょうが。

カレンさんが記憶とつながる五感に言及されたということが印象的です。考えが整理できません。またいづれ。

solitudeさんが教えてくれたんだけど、非定型は、脳内と脳外の仕切りの区別があいまいなんだって。だから、頭の中で「思った」ことと「言った」ことの区別がついてない場合があるんだって。

でもって、やんばる先生が、受動型で依存型のアスペルガーの場合は、「彼らは自分の要求をすべて相手が察してくれてやってくれて当たり前って考えている」って考えると、彼らの言動を理解しやすくなる、とおっしゃってました。

ケース①外に出た言葉=「暑い」、脳内の言葉=「暑い」→「暑い」のみ。→ここで「クーラつけようか」などと言うと、「暑いって言っただけだ!」とキレる。

ケース②外に出た言葉=「暑い」、脳内の言葉=「暑い。クーラーつけてくれ」→ここで、何もしないとしつこく「暑い」を繰り返したり、キレる。あるいは「窓開けようか」と言っても、「なんで窓なんだよ! クーラーつけろって言ってるだろ」とキレる。

外に出た「暑い」は同じなのにねぇ。これ、普通の定型には、対応無理だよねぇ。エスパーじゃないんだからさ、頭の中は読めないもん。

さらに、最近は「アスペルガーの人は思ったことをストレートに言います」とかいう情報もあふれてるから、ケース②を読むのがなおのこと難しくなっちゃったりしますよねぇ。

最近思うのですが、もしかすると、この世の中には文法がニ体系走ってるんじゃないだろうか? よく非定型は「不自然に丁寧な言葉遣いをする」っていうのも、彼らは、非定型とは異なる文法体系を身につけているんじゃないだろうか。非定型同士が「交信」してる訳でもないのに、同じようになんか不自然な丁寧さをもった日本語を話すってのには、なにか「秘密」があるんじゃないだろうか。

アメリカ人妻と日本人夫というカップルを知ってるけど、子どもは英語は母親の発音を、日本語は夫の発音を「自然に」身につけたらしい。どっちが「正しい」発音かってのを本能的に知って選択的に身につけてたらしい。しかし、家庭内には母の日本語や夫の英語も走っていた。でも、そっちは捨てられた。

それと同じように、もしかすると、定型が無意識に「捨てている」文法(親しい人には丁寧語は使わないなど)を非定型は話しているのかもしれない。

あるいは、ある種の文化も。

だから、私の元夫がよく言うフレーズや態度である「誰も教えてくれなかった」「知らなかったんだからしょうがない」「分らなかったんだからしょうがない」というのも、一部のアスペな夫と共有していてビックリします。「あなたたちもしかして宇宙人なのでしょうか? お互い交信してるんでしょうか?」と言いたくなるほどです。

元夫の「なんでも他人が悪い」という文化も、定型は人生のどこかで「捨てて」いるけれど、実は、同じ空間、時間の中に走っているのかもしれない。一部の非定型は、その文化を「主流」と考え、採用しているのかもしれない。だから、世代が違ったり、会った事も亡い私の元夫と、他のアスペルガー配偶者が、ほとんど一文字も違わないフレーズを、違う空間で使っているのかもしれない。

だけど、カレンの夫さんのように、自分の責任をキッチリ取る雄々しい非定型もあり、そのあたりが物事をとても複雑にしてますよね〜。

joさんが言われるように、そして、KSさんがどこで書かれていたように、「定型」については文化人類学のフィールドで、すでに様々な文献によって記されているのだと思います。
ただ、私が思っている本というのは、アスペルガーの人から見ての際立った(?)「定型の特徴」なんです。

一昨日も、「定型の人って、人が何か言うたびに、その人が言ったことに対して何らかのリアクションをしてあげようと思うわけ?」と尋ねられ、「リアクションを起こそうと思って起こすわけではないけれど、自然に瞬間的にリアクション起こすことが多い」と説明したのですが、

なんか、普段自分が当たり前にしていることって、とても説明が難しかったんですね。

そして、その私の上記の説明に対して夫が改めてとても驚くものだから、その夫の驚きに対して、今度はこちらが驚いたんです。なんか、うまく説明できませんが、「本当に、定型の反応の仕方って、アスペルガーの人にとっては『未知』なんだなぁ・・・」という感じで。
   
以前にも書いたように、夫の読書量はものすごいです。小説・論評・エッセイ・フィクション・ノンフィクション・漫画・・・とにかく、〔理科系を除く〕あらゆる分野のものを、私から見ると、超高速で読んでいます。
                       ↑
(超高速なので、他に時間もたっぷりあり、趣味のスポーツも継続しているし、子供や私と話したり、一緒にテレビ見たり、お酒飲んだりもしています。私の何倍も人生の時間があるようで、時々羨ましく思うこともあります。ま、私は私で、ゆるゆるペースでやってますが。)

なのに、なのに・・・ですよ、夫は、「定型」の感覚や思考パターンのことは、全く知らなかったんですよ(私も夫も「アスペルガー」のことを知らなかったのと同様に)。

アスペルガーのことわかる前のこと、私は「『心の機微』とか『人の心理』なんて、小説でもノンフィクションでも、心理学関係そのものずばりの中でも、いくらでも出てくるのに、なんでそれがわからないの(怒)!」と、夫に対して怒りをぶちまけたことがあります。

その時の夫の答えは、「『心の機微』なんて、それは本の中の世界のことであって、現実の世界とは別だ(怒)!現実にはないものを書いてあるのが小説だろ(怒)!そして、現実にはないものを書いてあることに小説の意味があるし、フィクションだから面白いんだろ(怒)!」という内容。

このやり取りは、わずか3年前のことなのですが、

「アスペルガーのことを知らない」ということは「定型のことも知らない」、ということで、本の中でどんなに定型のことが書いてあっても、夫にとっては「本の中の世界のこと=現実の世界の中では夫には感じられないこと=フィクション」だったようです。

今でこそ、「定型の人にはこういう心の機微みたいなものが、本当にあるんだねー(・・)」という感じですし、「そういうものが定型のカレンさんにはあるようだ」と思っているので、一昨日のような場面でも喧嘩にはなりませんが。

「アスペルガーであることを共有する」ことの大きな意味をずっと感じてきましたが、ここに至って、両者が「アスペルガーのことを知る」と同時に「定型のことを知る」こと、も大事なんじゃないかと、すごく思い始めているのです。

書きたいこと、頭の中にはいろいろあるのですが、時間がありません。中途半端ですが、とりあえずこれで。

>カレンさん
狸穴猫さんの「定型発達者研究」(だったかな?)というのが優れものだと思います。

時間がないと言いながら・・・

「インプット」のこととか、「脳の仕切り」のこと、いろいろ思うことありますが、今は時間が足りません。

なので、今はひとつだけ。

1月に夫にあちらの掲示板を初めて見せたとき、夫はすごく驚いていました。

「『一緒にいてもひとり』とか、聞いているアストン博士の本とかで、カレンさんが定型だといういことはわかってたけど、定型の人って、こんなにたくさんいるんだ!(夫の知っている範囲で?)カレンさんだけが定型で、他の人はみんな自分と同じタイプだと思っていたけど、違うんだねー!」・・・なんて言いながら、目が点になってましたから。

あの時は、夫のこの反応に私もまた目が点になったのですが、少なくとも夫にとっては、これほどにも「定型」というのが「未知」だったのでしょう。

あ、KSさん、入れ違い・・・!

狸穴猫さんの、それ、読みました読みました!夫にも、何か月か前に勧めたんだけど、読んだかなぁ?また勧めてみます。ありがとうございます(^^)

ところで、チロさんの「何を用意しといたらいいか?」という事例のナゾ、どなたか分りますか?

私の元夫の「僕が行こうか?」は、joさんが解明してくださったように、定型なら「申し出」になるところが、非定型では、単なる質問で、しかも、相手が答えなければ「行って」と言わなければ、「じゃ、KSが行くんだね」となる、という「流れ」でしたが、チロ夫さんの、What?の質問は何だったんだろ?

「何を用意しといたらいいか?」というのも、「僕は何を用意しといたらいいか?」という定型的な「申し出」ではなく、「僕あるいは君たちは何を用意しといたらいいか?(しかし、どっちが買って来るかはまだ決まっていない)」ということなのでしょうか?

意味不明で頭混乱するんですが、「事例を重ねる」はきっととても大事なことですよね。非定型の方、教えてくださらないでしょうか?

なんか、小骨がノドにささったみたいで、「正解」を知りたいんですけれど・・・。

あらら、カレンさん、またまた入れ違い!
お忙しそうですね。頑張ってね!

チロさん、KSさん
ナゾの答にはならないけれど、一言コメントします。

夫君の言動、自分だったらどういう反応をするかと考えてみました。

お子さんが到着した段階で、飲み物がなかったとしても生死にかかわるわけではないし、「一緒に買い物に行って選ぶ楽しみ」を味わいたかったのかもしれない、というのが一例。

事前に電話でやりとりした時に具体的な商品名が出ていないので、字義通り「好みに正確に応じる」ため、前もって買い物をするのを控えたというのが次の一例。

単純に忘れていたというのが最後の一例。

それまでの家族関係(ご夫婦・親子)がわからないので、このぐらいしか言えません。
そしてASのことを知り、自覚をもとにあれこれ修正を続けている私の「解答例」は多分に「定型的」になっており、「数年前の私」の答とは大きく異なっているだろうということを申し添えます。

夫婦でコメントするのも何ですが、

カレンの夫さんの

>お子さんが到着した段階で、飲み物がなかったとしても生死にかかわるわけではないし、「一緒に買い物に行って選ぶ楽しみ」を味わいたかったのかもしれない、というのが一例。

「生死にかかわるわけではない」という文言は、いかにも夫さんらしい(笑)
けれども、「『一緒に行って選ぶ楽しみ』を味わい」たいという発想は、本人も書いているように、数年前には(あまり?ほとんど?)なかった発想ですね! 

そして、確かに、今はこういう発想のもとに夫さんが動いていることがとても多くなっていると改めて思います。

あとの2つは、数年前までの夫さんの、ある種定番のパターンだったかも(苦笑)

定型についての文化人類学的な異文化研究も、定型的「前提」のもとになされているかも、と思います。部族の多数派が「非定型」みたいな部族が、それなりの数存在すれば別ですが。なので、文化人類学の文献をいくら読んでも「非定型」の人が「定型」の文化を解明する手がかりにはならないかもな〜と思う。「前提」違っちゃってますけどぉ〜というところが肝心なんだよね。

かなり前のことですがNHKで「英語のソーシャルスキル」というのをやってました。本にもなったと思います。日本で長年英語を教えていたイギリス人の講師が「日本人は礼儀正しい人たちなのに、彼らの話す英語はなんだってこんなに無礼で傲慢に聞こえるのだ?」というのを分析し、日本人向けに「礼儀正しい」を「実践」するための日英の文化比較を行い、日本人が礼儀正しい英語を話せるようになるための「指導」をするために開発されたプログラムです。

たとえば、人をお誘いする時、日本では「○月○日、(私が)パーティを開きたいのですが、来ていただければ(私が)嬉しいのですが、ご都合は?」と聞きますが、英語では「○月○日、(あなたは)私のパーティに来たいですか」(Would you like...?)と聞きます。講師によれば、イギリス人が「来たいですか?」と聞くのは「相手の気持ちを尊重している」「相手が来たくない時に断りやすくしている」とのこと。

でも、日本で「あなた私のパーティに来たいですか?」と聞いたら、ちょっと失礼ですよねぇ。日本人の場合は、「来て欲しがってるのは私なんです」「あなたは来たくなくてもいいんですよ」みたいな思考のメカニズムが働いているように思います。

どちらも「相手が断る時に断りやすい」「相手の判断を尊重する」「相手に負担をかけたくない」という「前提」があります。

しかし、非定型の場合には、そんなつまらない気遣いは不要、行きたきゃいけばいいし、行きたくなきゃ行かなければいい、来たくない人は来なきゃ良い・・・なに、そんなまどろっこしいことやってる訳? 定型ってナゾ!という、そういう「世界」なのでは?と思います。

だから、「そもそも」がズレてる訳で、定型の文化人類学社がやる定型が多数派の異なった社会の分析は、joさんがいつだかおっしゃってたけど、定型vs非定型の文化ギャップとは「質的に異なる」(まぁ、これを「極めて異なる」と「量」と捉えることも可能ではあるが)と思います。

さて、チロさんの件ですが、やっぱりまだナゾ。チロさんのブログで花火大会事件について読んだので、私、みなさんより少し余計に情報もってますが、とーってもナゾ。

>お子さんが到着した段階で、飲み物がなかったとしても生死にかかわるわけではないし、「一緒に買い物に行って選ぶ楽しみ」を味わいたかったのかもしれない、というのが一例。
→だとすれば、チロ夫(呼び捨てご免。「さん」つける気がしない)は、なぜ、「飲み物はそちらで買っておいて」と言われた時に、「後で一緒に買いに行こう」と言わなかったのか。しかも、自分の方から、「飲み物は何が良い?」と何故、何度も聞いたのか? 「自分が買いに行く」と思ってたから聞いたのではないのか? アスペルガーの人は思ったことをハッキリ言うのではないのか? 

>事前に電話でやりとりした時に具体的な商品名が出ていないので、字義通り「好みに正確に応じる」ため、前もって買い物をするのを控えたというのが次の一例。
→では、なぜ、「商品名を言ってくれ」とは言わないのか? 上と同じくアスペルガーの人はハッキリとモノを言うのではないのか? 何度も何度も「何を買えば良い?」と聞かれて「お茶とジュースとアイスクリーム」と同じことを答えられて、それが不満なのなら、「それだけじゃ分らない」となぜ言えないのか? しかも、ブログの方には、結局みんなが来てからもう一度同じ指示をしたら、お茶のみ買ってきたんだったか、何だったか、とにかく「指示」の一部しか「実行」しなかったという「その後」のことにも書いてあった。なぜ??? なぞ〜! 「お茶、ジュース、アイス」の3つも覚えられないのか? チロ夫はちゃんとお勤めをしている。なのに、なぜこの3つが覚えられない??? 仕事だって気を回さねばならない場面はあるだろうに。そっちは出来て、なぜこっちは出来ない??? なぞ〜!

>単純に忘れていたというのが最後の一例。
→これが一番分り易いかなぁと思いますが、何度も「何を買えば良い?」と言ってるのに、忘れてしまうことが出来るのか? 記憶障害の話とも関わるのだけれど、記憶障害がここまで深刻なのか? 仮にこの程度のことも「覚えていられない」なら、定型はどんな風に「折り込み済み」で定型と折り合っていけばいいのか? しかも、「覚えてられないから聞かない」ならともかく、何度も「何を買えばいい?」と何度も聞くからよけい話がややこしくなる。しかし、「私は記憶障害があるので、何かを頼まれても忘れますので頼まないでください」と言ってくれれば、定型は暮らしやすいのか? それって虚しすぎないか? 「おーいお茶の1リットル入りを3本と、果汁100%の農協リンゴジュースの1リットル入り1本と、ハーゲンダッツのストロベリー味のカップアイスを5個」という指示があれば出来るのか? その程度のことも「自分で考える」ことは出来ないのか? 仮にそれが出来ないとして、非定型の側は、すべて指示され、それに従っているということではっぴぃなのか? 「定型の細かい指示→非定型が実行」というパタンではっぴぃなのか? 定型の側は、そこまで細かく指示を出すのであれば、もう自分でやった方がラクだったりもするし、とても虚しくもなる。こういう関係じゃ、どっちにとっても不幸な気がします。「対等」じゃないですよね、少なくとも。

>カレンの夫さん
色々考えてくださってありがとうございます。さらなる私の「突っ込み」についても、お教え願えれば幸いです。

>カレンさん
夫婦で色々話し合えてうらやましいわ。

>みなさま
なんかスッキリしないです。「花火事件」のナゾの真相、知りたい! どなたか、ナゾを解いてくださいまし。

あらら、間違ってた。訂正とお詫び。

仮にこの程度のことも「覚えていられない」なら、定型はどんな風に「折り込み済み」で定型と折り合っていけばいいのか?
→非定型と折り合っていけばいいのか?

です。失礼いたしました。

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