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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年8月13日 (土)

「結婚」の意味のズレ

 前々回の記事「ずれまくる夫婦の暮らし」の中で、パートナーが私と結婚した理由として「守って欲しかった」ということをそのひとつとして話してくれたことを書きました。この「守る」ということについては、いろんなズレがお互いの間にあったということをそこでは書きましたけれど、昨日もう少し話をしてみて、さらにその私の理解にまたずれがあって、そのずれた理解にパートナーがショックを受けていることが分かりました。

 どうずれていたのか、私も今手探りで理解をしようとしているところですし、これを今書いているのもそのためというところがありますけれども、とりあえず彼女の口から出てきたのは「男として弱い女性を守って欲しい」というような、そういう意味での「守って欲しい」とは違うと言うことでした。

 彼女は(今考えれば)アスペルガーと定型のズレによって、子どもの頃からずっと他の子どもたちからいじめられ、排除され、否定され、親からも大人からも理解されることが少なく、孤立して人となかなかつながれなかったのですし、就職後も職場での人間関係がうまく取れず、何度も職を変えています。当時私は仕事の内容が性に合わないのかと思って「適職」が見つかるといいなあと思いながら「見守る」だけでしたし、職場の人間関係がおかしいと訴えられたときには、不当と思えることについては問題を共有できる人と一緒に改善するために闘うべきだ、というようなことを言っていたのですが、今考えればこれほどとんちんかんな「助言」もなかったわけですね。そんな風に他の人と一緒に問題を解決していく、ということが難しいからこそ沢山の問題を抱えていたし、色んな意味で「闘う」ということのできない人なのですから。

 まあ、そのときの私のとんちんかんさについてはとりあえず置いておくとして、とにかくそうやって孤立し続けたパートナーにとって、結婚というのはその自分が「人とつながれる」ということの証明でもあったようなのです。そしてそのこと自体が、彼女にとっては自分が「守られる」ということの大事な意味だったようです。

 ここは私もまだまだよく理解できていないところなのですが、人との関係がうまくいかず、そのことで周りから責められ続け、否定され続け、しかしパートナー自身としてはそこにアスペと定型のズレの問題があることは全く気がついていない時期のことですから、なぜ周囲に自分が責められ、まともな人間として扱われないのかが理解できず、むしろ被害者の意識しか持てない。そんな自分とつながれる人、関係を持てる人、受け入れられる人を彼女は求めていたのでしょう。

 その気持ちは単に定型の人間同士で彼女(彼氏)ができるかどうか、というようなレベルの話ではなかったのだろうと思います。なぜなら定型同士では基本的に(定型的に)普通のつながりはみんなできるわけで、もちろん上手下手の差はあるでしょうけれど、そこで排除され続けるというようなことはない。そういう基本的なベースの上に、さらに「親密な」人間関係として恋人を獲得することになります。ところがパートナーにとって切実に問題になっていたのは、まずはその「基本的なベース」の部分を獲得することだったのかもしれないわけです。

 それはもしかすると、「自分がちゃんとしたひとりの人間として周囲からも認められるかどうか」という事にも関わるような切実な問題だったのかも知れません。だから「結婚する」ということは、生まれて初めてと言っていいほどに、社会的にも自分がつながりを持てる一人の人間として認められること、という意味を持ったのかも知れない。そしてそういう私との関係を獲得することで、これまで自分が不当な形で受けてきた周囲からの非難からようやく「守られる」状態になったのかもしれない。

 改めてパートナーの語った言葉をつなぎ合わせながら私なりに考えてみると、そんなイメージが湧いてきます。

 この私の理解もパートナーから見てまたずれまくっていて、ショック!というようなことになる可能性もあるわけですが、前よりはちょっとはマシになっているのではないかと思いたいところです。そして、もしこの理解が全然的外れではないとすれば、定型とアスペのカップルが抱えやすい問題のひとつが理解しやすくなるような気がします。

 つまり、定型の側は定型同士の通常のつながりを越えた、「親密」な関係を相手に対して求める。ところがアスペの人にとっては定型にとっての「通常のつながり」を確保すること自体が大変なことで、それができる関係が成り立つことが素晴らしいことで、そこである意味目標は十分達成されていて、そこで十分満足できるし、それ以上の「親密さ」を望むこともないし、またそういう「親密さ」はイメージしにくくもある。

 ところが「それ以上」の「親密さ」を求める定型の側は、そういうアスペの側の姿勢によって、常に満たされない思いにさいなまれ、「自分は必要とされていないのではないか」「結婚していることになんの意味があるのだろうか」という思いにとらわれやすくなる。そして不安になって「あなたにとって自分はどんな意味があるのか」と尋ねたくなり、場合によっては「あなたには私は必要ないのでしょう」と言いたくなる。そしてそういう見方は今度はアスペの人からは意味が分からないものになる。なぜならアスペの人にとってはその状態が十分相手を「必要としている」ことなのですから。

 うーん、なんか自分としては結構すっきりする部分がありますが、さてパートナーはどう受け止めるのでしょうか。また他のみなさんはどう感じるでしょうか。

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コメント

私がいつも謎なのは、パンダさんなんでそんなに「必要とされる」ことにこだわるのかなぁってこと。これって、ジェンダー?

パンダさんが奥さんを必要としてるっていうだけでも別にOKだと思うんだけどな。奥さんの「○○が好き」っていうのだけじゃダメなの?

なんか、難しく考え過ぎてるように思っちゃうんだけど。

男パンダとしては気恥ずかしいのかもしれないけど、非定型の女性って、定型の女性にはないこんな魅力があって、そこが好き!というのを言ってくださると、ココチさんや私も、「ほぉ、非定型×定型の結婚には、そんないい面がありますか」というのをイメージしやすくなると思います。(>無理のない範囲で、さしさわりのない範囲で教えていただけると嬉しいです)

友だちレベルだとアスペルガーってスパイシーと書きましたけど、アスペ疑いのJちゃんとの同業者&友だちづきあい(と私の側は思ってるが、あっちは単に仕事上のつきあいとしてしか思ってないのかもなぁ)は、友だちレベルなら「面白い」発言の連発で、私には「ほぉ、そういう見方もあるか」という「発見」の連続で、Jちゃんは私にとって、そういう「面白い」こといっぱい言ってくれるから「必要」なのかぁって思う。1秒で即レスしてくるかと思えば、1ヶ月も2か月も放置っていう、そのギャップも友だちレベルなら、「もう、んっとに」と面白ろがることも出来る。これも友だちレベルでの「必要」で、私にとってのJちゃんの魅力な部分でもあるかも。

私は、アスペルガーの人との恋愛結婚はもうあり得ないと思うのですが(人間の器量的に無理)、(仲良くしたい)お友だちにアスペルガーの人がいれば、その人とは無駄な摩擦なく友情を楽しみたいし、仕事関係の人にアスペルガーの人がいれば、お互い少しでも気持ち良く仕事したいので、「コミュニケーションの可能性」ということについては「配偶者の場合」とは別の次元に場を移して今後も考えていきたいです。

「必要とされたい」という気持ちが人一倍強い人がアスペルガーの人と結婚しやすい
と何かで読みました。
実生活で周りを観察してもそう思います。

私はそういうタイプではないせいか、KSさんと同じように思っています。

KSさん

 「男パンダとしては気恥ずかしいのかもしれないけど、非定型の女性って、定型の女性にはないこんな魅力があって、そこが好き!というのを言ってくださると」

 ということについては「面倒くさそうにお手伝い」のコメント欄にも書きましたけど、
 あとから考えれば「ここは非定型の傾向がからんではいるなあ」と思うことはあっても、
 「非定型」だから好きになる訳じゃないし、やっぱり好きになったパートナーが
 その性格のひとつにアスペルガーという部分を持っていたということだと思います。
 そうじゃないと私は非定型の女性みんなを好きにならなきゃいけない感じですよね。
 それはないと思うなあ。
 定型の人も好きになってたけど、今考えても定型だから好きだった訳じゃないし。

 もともと恋愛ってお互いに「蓼食う虫も好き好き」なわけですし。

 「必要とされたい」ということについては、一般的には人間だいたいそういう気持ちは
 あるんだと思うし、「誰にも必要とされない」状況はつらいんじゃないのでしょうか?
 ただ、その強弱はたしかにあるのかも知れないですね。

 私がその傾向が強い方だとして、それは持って生まれた個性なのか、
 あるいは母親が強烈な境界性で、徹底的に精神的に支配されてきた経験があるから、
 そこで作られた傾向なのか、そのへんはよく分かりません。
 
 もし後者だとすると、私はそんな形で自分の魂にまでぐいぐい入り込んでこられるような
 境界性的関係から逃れておだやかな世界を切望していたと思うので、
 パートナーのサラサラした関係が救いだったということはありそうですね。
 それがココチさんのいう「必要とされたい人」がアスペルガーの人と
 結婚しやすい傾向がある、ということの理由のひとつなのかもしれません。 

 もちろんそこで「必要とされたい」のに「サラサラした関係を求める」という
 矛盾が最初から成立しちゃってるので、だんだんそれが問題になるわけですが。

つっこませてもらっていい?

 >「非定型」だから好きになる訳じゃないし、やっぱり好きになったパートナーが
 >その性格のひとつにアスペルガーという部分を持っていたということだと思います。
→私も基本、この立場です。夫との離婚も、アスペルガーだから元夫と離婚したんじゃなくて、アスペルガーのために増幅されている困難も含めた元夫の総体がイヤになったから離婚したんです。

にもかかわらず、Jちゃんとか見てると、非定型がその人の「良さ」に影響してる面もあるなぁと思うのです。Jちゃんは異常に物知りで(アスペルガーの一変種でそういうのあるらしい。名前忘れた)、非定型の人がみんなJちゃんと同じじゃないとはいえ、Jちゃんにはやっぱり「非定型ゆえの」魅力ってのがあると思います。

つらつら思うと私の弟もアスペかそうとうアスペ寄りです。弟は、芸術方面で頑張ってるんですけど、弟の妻は、弟の「(かなり?)変わってるところ」を気に入ってくれてて、弟のこととても大事にしてくれてます。

弟は、会話のテンポとかはヘンだけど、家事も得意でよくこなすし(丁寧すぎてノロいけど)、子どもは本当にパパッ子で(ものすごい根気強さで子どもにつきあう。この尋常ならぬ根気も子どもの頃から。そのため、学校ではちょっと困ることも起こった)、その意味で、「ギブ」もいっぱいあると思うけどね。

弟の魅力のかなり大きな部分が「アスペ寄り」ってとこから来てると思うのね。ほんとに最近気づいたことだけど。

2人が一緒にいるところを見てると、「あぁ、弟は愛されているなぁ」って思う。姉として本当に嬉しいし、弟の妻には感謝! 「変わり者の弟と結婚してくれて、しかも、こんなに大事にしてくれてありがとう!」っていつも思ってます。

弟夫婦の場合は「一緒にいても一人」っていうような感じではなく、だから、あくまでも「アスペ寄り」程度なのかもしれないですけど、ひとつの「可能性」は示しているかも・・・と、思います。

ちょうど今、弟一家が出向先に止まりに来ていて、彼らを見ていて、ふっとそう思いました。

KSさん

 なるほど。そういう意味ならアスペ的な部分がある人には魅力になる場合もあり得ますよね。誰にでもそうだと言うことではないけれど。

 その辺は相性の部分も多いと思う。
 
 あと、アスペルガーの人でも育ち方によってほんとに違うんじゃないかと最近ますます思うようになってきたんだけど(息子もそう言ってます)、子どもの頃に十分受容されて育った場合などは、「ちょっと変わった子ちゃん」位の感じで、却ってみんなから受け入れられたり好かれたりすることもあるんじゃないかなあと、そういうことも思います。まあ、あんまり自信があるわけではないですけど。

 この場合なんかは「アスペ的な部分」が多くの人にプラスに受け入れられる原因になるのかも知れないですね。

パンダさんの奥さんの「守ってほしかった」という気持ち、少し分かる気がします。パンダさんを通じて社会での居場所を確保したかったと理解しました。
私も同じような気持ちがありました。夫と出会ったのは新人研修で、初めての土地でドギマギしていた私は同期のグループに馴染めず、馴染んでいるように見えた夫と付き合うことで自分もグループに馴染めるような気がしました。交際は隠していたので、自分の心の中でそう感じただけですが。自信がついたというか…。
奥さんは、子供の頃から社会に馴染めない感覚があったとしたら、パンダさんと結婚したことは大きな安心になったでしょうね。

チロさん

 「パンダさんを通じて社会での居場所を確保したかったと理解しました。」
 
 ああ、なるほど。そういう言い方ができるんですね。なんかチロさんの表現がすごく気持ちにフィットする感じがして、私にはとってもわかりやすくなりました。(といっても私の書いたことをもとにチロさんが書いて下さった訳なので、パートナーが実際そういうことを言いたかったのかどうかは私にはまだ分からないですが (^ ^;)ゞ )

 「奥さんは、子供の頃から社会に馴染めない感覚があったとしたら、パンダさんと結婚したことは大きな安心になったでしょうね。」

 ありがとうございます。もしそうだったのなら、私という人間にも多少は意味があったのかなあと思えてきて、ちょっと救われる感じがします。 (^_^)

>パンダさん

たしかに育ちは大きいかもしれないです。

弟は幼稚園の時、半年くらい不登園っていうか、そんな感じだったんですが、両親は慌てるでもなく、「ま、体調わるいんならいいんじゃない?」という感じでした。で、弟はその間、絵を描きまくり、TVの教養番組を見まくり、百科事典を読みまくり、自分ペースで生きてました。

母は自分も生きづらさを抱えてたから、弟の「行きたくない」気持ちに寄り添えたのかもしれないです。定型の親だったらなんとか行かせようとしたかも。まぁ、幼稚園だから、学校ほど深刻じゃないというのもあったと思うけど。

その頃は、まだDVもほとんどなかったし、その後、大変なことになっていくとはいえ、弟が「変わってるけど面白い」とか「天才肌」とか言われて、周囲の人から可愛がってもらってるのは、両親(とくに母?)がおおらかに弟のペースを尊重したからかも。

Jちゃんも何日か行っただけで、幼稚園やめたそうです。「行きたくない」って言ったら、親は「あっそ」とアッサリやめさせたそうです。Jちゃん家も、Jちゃんのペースを尊重してくれたみたい。

弟もJちゃんも「なんで他の子は行けるのに行かないの?」と親が無理に他の子と同じようにやらせようとしたら、今、2人が持ってる「才能」(の芽)が育たなかったんだと思う。幼い頃に自分を受け入れてもらって、ゆっくり下地を作ったから、その後、小学校にあがってから他の子とは違うペースでやってても、何とかやっていけたのかもしれないです。

弟もJちゃんも、そのマイペースぶりは、なんともいえない「可愛げ」みたいなものをかもしだしてます。弟もJちゃんも、自分の分野で一応の業績あげてるから(Jちゃんの場合は日本では間違いなくトップクラス。世界からもおよびがかかる)周囲も許すというのはあるかもしれませんが。

KSさん

 なんかほっとするような、ほんわかできるような、嬉しい話ですね。弟さんとJさんのこと。

 子どもの頃にちゃんと自分の「生き方」を受け入れてもらえて、心に大きなマイペースのゆとりの世界を作りながら大人になれると、たとえアスペと定型の間のズレがあったとしても、それがすぐにギリギリした問題を生むことなく、遊びを持ってむしろ楽しさを感じさせるような関係を周囲と作れる可能性もある、ということなのかな。

 うーん、これって、もしそうならすごい大事なことのような気がしました。定型とアスペがよりよい関係を作っていく上でも、あるいはもっと広げて矛盾を抱えて苦しむ人と人が改めて関係を見つめ直し、作り直していく上でも。「遊び」とか「ゆとり」の持つ大きな力でしょうか。

遺伝か環境か、というクラシックな問題ですが…

非定型だったから通過儀礼を避けたのか
通過儀礼を省くことによって非定型になれたのか
さらには、
親が非定型だったからそういう対応になったのか
そういう対応をする親だから非定型とされているのか

どっちでもいいんですけどね。

「仕事している」とか「結婚してる」とかをASの診断基準に持ってくる医者もいて、こういう医者にあたった関係者は、ネットで激しく毒づいてたりしますが、つきつめて考えてみても灰色グラデーションに無理やり線引きするとしたらそういうことになりかねないでしょう。

個性か?障害か?ってね。「適応する脳」ということを考えると自他の区別は限りなくぼやけてしまう。それを自閉症的というならどういうことになるんだろう。生き物はみんな自閉症?

KS仙人の修行とも通じると思いますよ。

環境を取り去った「私」というものが存在するんでしょうか。何も変化のおきない真っ白な部屋に何日か入っていたら「私」というものが現れてくるのでしょうか。私には、「私」が崩壊するだろうと思えてしかたないのです。

よりよい環境を望んでやまないことは、私もみなさんも同様です。環境に働きかけて環境を変えることができるという自信は、非常に多くの場合、有用なのですが、変わらない環境に対しては、、、

変わらないかどうかという見極めも自分の命の灯火と相談して決まる相対的な現実なのでしょう。

できることの一つは自分が別の環境へ動くことで、もう一つは自分を変えることなんでしょうね。

joさん

 環境と自分がひとつながりのものだとすれば、自分が変わることは環境が変わることでもあるし、環境が変わることは自分が変わることでもある、と、理屈ではそうなるんでしょうけれど。

 というか、環境にも変わりやすい部分もあれば、安定していて変わりにくい部分もあるし、同じように自分にも変わりやすい部分も、変わりにくい(絶対変わらないかどうかはわかりませんが)部分もあるし、他者という環境も同じでしょう。ただ、一見安定して動かないように見える環境も、見方を変えること、見る側面を変えることで新しい姿を見せてくれたり、新しいつながりが見えてきたりすることはありますよね。そのときは自分の「見方」という「自分自身の一部」も同時に新しいものになっている。
 
 なんかそういう抽象的な話でjoさんの問題とするところとずれてないか、ちょっと心配ですけれど。

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