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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年8月21日 (日)

共感して欲しいことのズレ

 これまでもぼちぼち書いてきたことと思いますが、以前、私はパートナーの言動を見て、どうしてこんなにも自分の喜びや悲しみに共感してもらえないのだろう、ということを感じて辛かったし、やがてそういう期待をすること自体をあきらめるようになっていったし、そうすると、子育てと経済的なことを除けばなんのために一緒に暮らして居るんだろうということもわかんなくなりましたし(というか、経済的には私の方は十分暮らせたわけだから、それを差し引けば子どものことだけですね)、さらにそれを過ぎて「自分が拒絶されている」と思わざるを得なくなってからは本気で離婚を考えざるを得なかったわけです。
 
 そのあと、パートナーがアスペルガーだという共通理解ができて、「そうか、共感ということが彼女はできないし求めないんだ」という理解になってちょっとそれまでの私の感じ方が変わってきて、でもその次に「ほんとに共感がないんだろうか」ということが疑問になり、実は「アスペルガーの人は共感能力がないわけでも、共感的な関係への欲求がないわけでもないのでもなくて、ただどんなときに何をどんなふうに共感したいと思うか、どんな状態を共感的と感じるのか、それをどう表現するのか」ということが定型とずれているので、定型からそう見えてしまうのではないかと考えてみたわけです。

 医者や専門家だって基本的には定型の視点から問題を考えているわけで、(医者というのは基本的に「定型」を「健康=あるべき姿」と考えて、その状態に「患者」をどう近づけていくか、どう「患者」を矯正していくか、という発想を普通はするので、そういう「視点の偏り」を医者が逃れるのはものすごく難しいと思います)、そういう視点からアスペルガーの人の特徴を整理すれば「感情理解の障がい」とか、共感性の欠如、とかそういう言い方になりやすく、そうするとそう診断されたアスペルガーの人も「ああ、自分はそういう障がい(あるいは脳)の持ち主なんだ」というふうに「定型的な目で、定型の言葉でアスペルガーとしての自分を理解する」、ということをしやすいわけですよね。実際アスペルガーの人の場合は「定型的な共感」が圧倒的に苦手な人が多いのは事実な訳ですし、定型的な基準で判断すれば当然そうなる。

 でも、パートナーとのこれまでのことを考えてみれば、「アスペルガー」という共通理解が成立するずっと以前から、そして今に至るまで、私が彼女に「共感してもらう」ことが難しいだけではなくて、彼女の方が私に理解してもらえないことをずっと苦しんできた歴史があります。そして彼女自身がその気持ちを何度か言葉にして私に伝えてきていました。

 この「自分の気持ちを理解してほしい」という気持ちって、広い意味では「自分の世界を共有して欲しい」ということだし、「自分の苦しみを共有して欲しい」ということ、つまり「共感」への欲求だと今は思えるんです。ただ、以前は自分が彼女の何を理解していないのか、ということ自体が私には想像のおよばないような、全く理解できないような世界だったので、彼女が「理解されずに苦しむ」ということ自体が全然実感できないことだったわけです。それよりも自分自身の苦しみが自分には圧倒的にリアルだったので、それに比べて「何をそんなことで苦しんでいると言えるわけ?」という疑問しか浮かばない状態だったと思います。

 ああ、そういえば定型とアスペの関係が全く逆の立場ですけれど、カレン夫妻の場合もアスペルガーであるカレンの夫さんがカレンさんの苦しみを全く理解できず、そのことでカレンさんが「理解されないことを苦しんでこられた」わけですよね。ちょうどその裏返しの関係みたいなもので、私はアスペルガーであるパートナーの苦しみや、彼女の「共感されることへの熱望」を全くと言っていいほどに実感できなかった。どれだけ言葉でそう言われても、ほんとにぴんとこなかったというのが正直なところです。だから当然適切な対応もできなかったし、実質的にはそのパートナーの苦しみは私にとっては「無いこと」に等しくなってしまいました。そして自分の苦しみだけがリアルに実感され、積み重なっていって自分をむしばんでいったわけです。

 そういう経過を経て、今は「共感能力の有る無し」ではなくて、「共感して欲しいこと、共感の仕方にズレがあって、お互いに通じ合いにくく、共感し合いにくいんだ」という風に考えることの方が私には自然になってきています。

 けれども、そう考えるからと言って「共感して欲しいことのズレ」が無くなるわけではないし、それがどうズレているのかということもなかなかうまく理解できないというのは正直なところです。前に比べるとちょっとなにか手がかりのようなものがかすかに見え始めたかなあと言う位で。そこがもう少し言葉になるくらいに見えてくれば、またずいぶんと前進するんだと思いますし、場合によっては他の皆さんとも共有できることが増えるだろうと思うのですが、まだまだ大きな課題のひとつ、という段階ですね。まあ「課題が見えてきている」と言うこと自体はとても大きな前進だと言うことは言えると思いますけれども。

 

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コメント

>パンダさん
修行はどうした!っていう感じですけど、出張に向けての荷造り中に一言。

Jちゃんもね、メールの返信なんかで「おいおい、反応するのはそこかい?」ということがよくある。で、「私が一番答えて欲しかった点は、こっちなんだけどぉ」と。

友だちレベルだと、「Jちゃんて、本当に面白いよねぇ」ですむんだけどね。

弟の場合は、兄弟としても、配偶者としてもOKな感じ。弟は「アスペ寄り」程度かもしれないけどね。でも、離婚届けに印鑑もらうために元夫のアスペ疑いのこと打ち明けたら「うーん、それってボクもそうかもぉ」と言ってました。

私にとっては、弟は、非定型だからこその魅力をその魅力のひとつに含んでいる存在。義妹にとってもそうなんだと思う。

いや〜、それにしても、「ハハはアスペルガー?」どころか、「弟もアスペルガー?」問題が浮上するなんて・・・。ということは、我が家には遺伝子ある訳で「孫はアスペルガー」かもね。ってか、私もなのかぁ? 元夫のアスペにつきあってるうちに後天的アスペになったのか(by アストン博士の診断)と思ってたけども、先天的?

定型×非定型の結婚は、「家族が支えてあげましょう。家族だからこそ出来るのです」なんていうキレイ事ではすまない「実害」もあります。実際、私も「発狂寸前」でカウンセリングに通ってようやく正気保ってる状態だったし、今も「吐く」という激しい身体反応出てますしね。

その「キレイ事」じゃすまない部分をキッチリと示すことが必要だと思ってます。

他方で、「定型=支援者、非定型=被支援者」、そして、「非定型なんかと結婚しちゃったら、いつだって、一緒にいてもひとり」で「相手があなたの気持ちを彼が受け止めてくれるなんてことはずぇ〜ったいにないけど、定型×非定型の結婚は可能よぉ」「あなたが自分の気持ちを納得させる方法さえ見つければなんとかなるわ〜」という、本当だったら非定型と結婚しない方がいいけど、結婚しちゃったんだったら道がない訳ではないわよ〜、あなたが淋しさに折り合いつける技を身につければいいのよぉ、トラブル減らす技もあるわよ〜とも取れるような、なんか「定型偉そう」な図式、「技術論」的叙述にも、すご〜く違和感を覚えます。

あ、行かなきゃ! 皆さんが、この後、どんな風に議論発展させるのか、楽しみ! 出張先で書く時間はないと思うけど、チラ見くらいは出来るかも。行ってきます!

私の場合は、父がおそらく間違いなくアスペルガー。理系の人なので、理系の知識や思考力はものすごくて、しかも、とても細かい・・・そんな細かさ中で、生活のあらゆる場面で、ミリ単位できっちり指導されるような日々を過ごしました。

思春期に入るまでは、体を使った遊びをしてくたり、当時の最新のおもちゃを買ってきてくれたり、とてもいい父だったという記憶しかないのですが、思春期に入ってからは、例にもれず親の言う通りにはならない娘の言動のひとつひとつを完全に管理するぐらいの勢いで、「この家にいる限りは、すべて親の言うことに従ってもらう」と、ことあるごとに宣言されていました。

そんなこんなで、私は高校時代に勉強で1科目だけひどく落ち込んだとき、「完璧でなくなった私」に激しくショックを受け、それをきっかけに摂食障害にもなり、摂食障害は子どもの誕生によって完治したものの、それからもずっともどこか「完璧でない自分」という罪悪感や理由のわからない苛立ちのために、自己評価はとても低くなっていました(見かけは元気でしたから、周りの誰も気づきませんでしたが)。

パンダさんの奥様の場合は、ご家族が定型の方だったのかアスペルガーの方だったかわかりませんが、私の場合は、アスペルガーの父と、その父に悩むあまり私に頼りすぎていた母の、どちらにしても、ありのままの私自身を認めてくれず支配しようとする両親それぞれから、それぞれのやり方で(本人たちは「よかれ」と思ってのことだったのでしょうが)長年にわたって「私なんかダメだ」と思わせられるような暗示をずっとかけられていたのだと思います。

4年前の新緑体験や、その後の入院中の諸々のできごとは、思春期以降、親や世間の価値観に合わせようとガチガチに固まらせてきた、私の頭の中の超分厚い壁を壊すものであり、

そのとんでもなく分厚い、世間という実体のないものの価値観でガチガチに固まった壁を壊し何もなくなったところで、今度は、自分の内側からちゃんとした土台を作り始め中身も作ってきた・・・この数年は、そんな作業をしてきているように感じています。

(両親との関係も、今、ちょっと前向きにいろいろ検討中です。)

それとは対照的なのが、夫。

夫は、そういう土台の部分が、夫の実家でしっかり培われてきた人だと思います。ありのままを受け入れられ、いいところを伸ばす機会に恵まれ、やりたいことをさせてもらえる環境にあり・・・そんな中で、自己肯定感を作ってこられたのでしょう。(「学校は、いかにサボるかをいつも考えていた」と、何度となく聞いてます。)

そういう意味で、夫は、「アスペルガー的共感」を十分にしてもらいながら育っていますから、そのような共感こそが「共感」である思っていたことは当然かもしれません。

そういえば、夫にとっての「共感して欲しいこと」、最近、またちょっとしたエピソードがあったのですが、これについてはまたいつか。

それから、KSさんからの「非定型の彼の○○がいいよね」についても、早くお答えしたいと思いながら、今日も別のことを書いたため、時間切れですm(__)m ま、KSさんも出向中ということですし、また追い追いということで、失礼します。

>医者や専門家だって基本的には定型の視点から問題を考えているわけで、(医者というのは基本的に「定型」を「健康=あるべき姿」と考えて、その状態に「患者」をどう近づけていくか、どう「患者」を矯正していくか、という発想を普通はするので、そういう「視点の偏り」を医者が逃れるのはものすごく難しいと思います)、

この分野の医者や専門家の中には??な人がかなりいます。沖縄の後藤先生(?だったかな「やんばる」某というHPの)は自己宣言しているし。私はこの件で自己啓発するようになって医者や専門家の講演をいくつか聴きに行ったりしましたが、「あんたもか」と感じる先生が結構いました。どの分野でも「秀でた専門家」は、ザ・ベルカーブの裾野ですから、AS的な人が多いのは当たり前のことでしょう。

一方、私たちの主治医は、きわめて定型的な感じです。少なくとも私への対応は。著名な先生でも定型的な感じの人もいます。その違いが、何か質的でカテゴリー的峻別ができるような気も確かにします。

しかし、医者とて日常生活に適応して正気を保っている脳の持ち主だとすれば、次のような可能性もあります。私の主治医は、私に対しては定型的共感を持って接する、他の当事者の患者に対してはAS的共感を持って接する、そのような適応を、自動的か意識してかわかりませんが、行っている可能性がある。私がAS的な著名な専門家と見た人らは、医者として、偏りのある人と共感しながら過ごすことを日常としているから、講演などの際に不特定の相手に対するときの感覚のベースラインがずれている可能性がある。--- これはいづれのカテゴリーの医者たちをも定型的と仮定しても辻褄のあうストーリーです。

一方、私らの主治医をはじめいずれのカテゴリーの医者たちも非定型だと頭から仮定してかかれば、何しろ「医者」という、理系でしかもザ・ベルカーブの裾野に属する人たちなんだから、それでも辻褄のあうストーリーが構成可能です。面接時間という限定した環境で定型的共感を示すことは、高機能型…にとっては造作もないこと。高機能型…の中には、勤務時間中は一切こまらない人も多いんですから。

むしろ家族と過ごす時間なんて、覚醒時間の割合からすればものすごく特殊な環境でしょう、職業人ならば。そこで多少の軋轢が生じても社会的に機能している限りは障害でもなければ異常でもないと言い切ってしまうことも不自然ではない。いえ、もちろんわかってます。家族の人が機能しなくなるほどの軋轢を起こすこともある。(カレンさんとか私の退職の例。パンダさんは何度かの危機をどうにか保っていてここへ来て休職。)

KSさんもカレンさんも理系の父を持つというところが、私には興味深い。私は就職してから理系の人らと交流、同化(共感)したわけです。定型的集団パニックを引き起こすような、自動的な盲信にブレーキをかける、真摯な懐疑主義の「疑わしきは罰せず」というような感覚が、生まれついた性質としても有り得るし、科学の基礎トレーニングで身についている場合もあり得ます。

カレンさんのコメントで、「思春期に入ってから、お父さんが変わった」という表現ですが、ご自分が劇的に変化する思春期ですから、客観的にお父さんが変化したのかどうかは?です。(子供にとってお月さまはついてくるものなんです。人間にとって地球がぐるぐる回っている実感は、ないはず---認知の限界を超えているので。)

「躾」とか「社会性」とかは、複雑なルールや様式があるけれども本質的に「抑制」ですから、相手の「抑制」を欲求する限りは自分の「抑制」ができないことを吐露していることになります。そしてルールや様式は、家族も含め「社会の合意」です。カレンさんはルールや様式の整備をされている最中なのでしょう。………「社会」=「合意」と考えた方がいいのかな。合意のない社会は成立しているとはいえないし、合意できればその点ではつながりがもてるわけだから。

うーん。支離滅裂になっちゃった。

joさん

 書かれたこと全体についてはすぐには何かを書けそうにありませんが、次の

「「躾」とか「社会性」とかは、複雑なルールや様式があるけれども本質的に「抑制」ですから、相手の「抑制」を欲求する限りは自分の「抑制」ができないことを吐露していることになります。そしてルールや様式は、家族も含め「社会の合意」です。カレンさんはルールや様式の整備をされている最中なのでしょう。………「社会」=「合意」と考えた方がいいのかな。合意のない社会は成立しているとはいえないし、合意できればその点ではつながりがもてるわけだから。」

 については「まさにその通り」と思える部分が多かったです。特に「社会」=「合意」のあたりですね。で、この「合意」が成立している、と確信している側は、合意に反した相手の行為に怒り、非難し、そしてその「合意」に従うことを強要する。その意味で「複雑なルールや様式があるけれども本質的に「抑制」です」ということにもなるのでしょう。

 ただ「相手の「抑制」を欲求する限りは自分の「抑制」ができないことを吐露していることになります。」というところが、その流れでまだよく理解できないままです。もし「合意」が成立しているのなら、それにしたがって「相手の「抑制」を欲求する(当然自分も同じルールに従う)」のは自然な事でしょうし、それがあるから社会が成り立つと思えるので、むしろ「自分の「抑制」」はそれに反するとも思えたのですがどんなものでしょうか?

 お互いのルールが異なることを理解しているときに、相手に自分のルールに基づく「抑制を欲求する」場合なら、それは自分の方が「抑制」できていない、ということなら分かる気もするのですが。

 もしその意味なら、その場合は「お互いのルールが異なるんだから、自分のルールを単純に相手に押しつけることはやるべきでない」という「ルール」がお互いに共有されている場合に、そのルールに従えない、という意味で「抑制できていない」という意味になるのでしょうね。

 とはいえ、だいたい私たちが日常で身につけているルールというのは、ほとんど無意識に実行してしまうようなものがほとんどで、わざわざ意識的に「抑制」するまでもないほど本人にとっては「自然」な「あたりまえ」のことが多いのだろうと思います。そこまで身についてないと、いちいち意識的に抑制していては体が持たないですし (^ ^;)ゞ。 で、ときどきその「違反」が起こったときにだけ、そのルールが意識され、「抑制」が生じる。定型とアスペの間ではお互いにそういう「違反」をやりあっているのでしょうね。
 

 ああ、だから「アスペと定型のズレがある」という理解が共有されるかどうか、ということはこのあたりに関係しそうです。つまり、「お互いに違うルールを持っているんだから、それを単純に押しつけてはいけない」という<ルール>を共有できるかどうかという問題ですね。それが共有されていれば、「お互いに適度に抑制し合う」ということがやりやすくなるし、そうなるとjoさんが強調されている「反応性」の話じゃないけど、お互いに余裕が出てきて、それまでの悪循環がプラスの循環に変わっていく可能性が出てくる。

 それと、joさんのお宅で今起こっているとても大きな(と感じました)変化は、それとはまた少し違う視点から理解する必要もありそうですね。何なのかな。

 joさんからの「抑制」と娘さんからの応援(?)によって、奥さんとの関係に少しずつゆとりができてきて、それでjoさんの言う「反応性」の矛盾が弱まり、プラスの循環にかわり始めたのかしら?

カレンさん

 「パンダさんの奥様の場合は、ご家族が定型の方だったのかアスペルガーの方だったかわかりませんが、」

 ですが、パートナーのお父さんがかなり強烈なアスペルガーの方でした。技術畑の仕事でそれなりに責任ある管理的な地位についていらっしゃいましたけど。

 それにしても、少なくともここで議論をされている皆さんなどは、定型かアスペかにかかわらず、ご自身の育った家庭が大変だった方が多いですね。なんかそのことが「定型とアスペのズレ」がカップルの中でどういう風に展開するか、ということに大きく影響するんじゃないだろうか、という気がだんだんしてきています。

>「相手の「抑制」を欲求する限りは自分の「抑制」ができないことを吐露していることになります。」というところが、その流れでまだよく理解できないままです。もし「合意」が成立しているのなら、それにしたがって「相手の「抑制」を欲求する(当然自分も同じルールに従う)」のは自然な事でしょうし、それがあるから社会が成り立つと思えるので、むしろ「自分の「抑制」」はそれに反するとも思えたのですがどんなものでしょうか?

パンダさんの考えてるレベルは

抑制 > 抑制しない
抑制しない < 抑制

というルールが既にあることが前提でしょう。そういうのって、ある種、部分的であれ、上位>下位の関係が前提になってません?たぶん私の頭にあったのは、そういうルールの数々から様式ができあがってくる過程に働くメタルールみたいなものだったのかも。以下のところでもう少し考えます。

>だいたい私たちが日常で身につけているルールというのは、ほとんど無意識に実行してしまうようなものがほとんどで、わざわざ意識的に「抑制」するまでもないほど本人にとっては「自然」な「あたりまえ」のことが多いのだろうと思います。そこまで身についてないと、いちいち意識的に抑制していては体が持たないですし (^ ^;)ゞ。 で、ときどきその「違反」が起こったときにだけ、そのルールが意識され、「抑制」が生じる。定型とアスペの間ではお互いにそういう「違反」をやりあっているのでしょうね。

いろんな場面、場合、で、無意識的に合意するのは、「あなたがそうするのなら、私はこうするね。私がこうするから、あなたはこうしてね。」というようなことを、細かいレベルのいろんなところでやってる。そこではお互いに細かく小刻みに抑制したり開放したりしながら落とし所をさぐっていくというようなプロトコルがあると思うんです。そういうプロトコルの中では、頻繁に細かい衝突しながら進みます。開放><開放は衝突するので、上位下位に関わらず抑制><抑制でバランスを調整するときもある。(もちろん普段意識してないですし、いま私が勝手に無意識を意識化しようとして考えてるだけですけど。)

そういうときに抑制<開放がパターン化してしまうと上位下位というような関係に流れていくと思う。自己中って言われる人はそういうパターンを持ってる。そして発達障害とか自閉傾向で注意、意識の届く範囲の狭い人の場合は、どうしてもそういうパターンを(社会的に)上位でないのに示してしまう。そこが相手を怒らせるメカニズムなんじゃないでしょうか。ジェントルな人はそこをうまくすり抜けるんですけど、職場や家族が閉塞環境を作り出す場合には、逃げ場が無くなることが多いんでしょうね。どこかにストレスが溜まっていく。

そんなとこじゃないでしょうか?

joさん

 まだ、多分よく理解できていないんですが (^ ^;)ゞ

「そういうときに抑制<開放がパターン化してしまうと上位下位というような関係に流れていくと思う。自己中って言われる人はそういうパターンを持ってる。そして発達障害とか自閉傾向で注意、意識の届く範囲の狭い人の場合は、どうしてもそういうパターンを(社会的に)上位でないのに示してしまう。そこが相手を怒らせるメカニズムなんじゃないでしょうか。」

 のところ、二人の関係の中で要求とか欲望とかを一方が「抑制」して相手に合わせ、他方は「開放(抑制しない)」して思い通りにする、というような関係ができちゃうと、それは上下関係になっちゃう、ということと、もうひとつは発達障がいの人はそこで自分を抑制せずに「開放」の方で進んでしまうので、相手の定型の人が無理矢理「抑制」させられる形になって怒ってしまう、というようなことでしょうか。もっと簡単に言えば発達障がいの人は状況がよく読めなくて、相手の事を考えられずにいつも自己中になってしまい、定型の人の怒りを招く、というようなことでしょうか?

 もしそうだとすると、少なくとも私のパートナーについてはちょっとイメージが違って、自分を「開放」することがとても難しいように思います。それは周りに気を遣うんだけど、でもその気遣いの仕方が定型の求めるものとはずれてしまっていることが分かるので、結局自分の気遣いは周りに迷惑を掛けるから、それを避けるために自分を過度に抑制する、みたいな感じがします。このあたりは同じアスペルガーの人でも人によってとか、時期によってとか、いろいろなパターンがありそうな気がしますし、定型にも似たようなことがあるようにも思います。

 だから 発達障がい=抑制しない 定型=抑制する という図式で理解するよりも、定型とアスペの間では、どこで抑制し、どこは抑制しないのか、というそのバランスの取り方にズレがあって、そこがお互いうまく調整できなくていろんな衝突が起こってしまう、という風に理解した方がもうちょっとわかりやすい気がするんですが、どんなもんでしょう。

ああ、そうです。うちの子もがまんしすぎて後で癇癪おこしてます。間合いの取り方が定型発達の社会基準とずれてるんでしょう。後で思い出して抑制させられてたことに気付いて癇癪おこしたり、リアルタイムで反応しないから相手もその癇癪反応の理解ができないようになってたりします。で、ずっと後になってから、時には数年前のことを、「あのときはこれこれがイヤだったから癇癪おこして泣いた」なんてことを言われて仰天することもままあります。この子は「処理速度」という検査項目が著しく凹なので、そういうことになるのでしょう。もちろん逆の「○組のときあんなことしてごめんなさい」というのもあります。

なんらかの凸凹(定型からの隔たり)のせいで自己中になったりタコチューになったりしてしてるんでしょうけど、相手から見える状態像は「いつも自己中」になるんでしょうね。だって抑制しないで受け入れられた行為はそこで容認されたことになり意識にのぼりませんからね。でもそういう無意識のやりとりが社会ルールを確立させる基礎プロトコルになってるんじゃないでしょうか。

そういう、細かい小刻みに行われる調整が無意識のうちにたくさん行われてから「あの人は私よりえらいから、こういうこと言うと怒らせちゃう」とか「この件に関しては私がイニシアチブをとってるから上司でも説得できる」とかいう意識にのぼってくるんでしょうけど、特定の凹のために、そのプロトコル発受信の周波数が低いというか(処理速度の場合)、環境情報解析の解像度が粗いというか(注意力の場合)、そういう疎な環境情報に基づいて意思決定や行動をせまられる人がいるんでしょうね。

>そこまで身についてないと、いちいち意識的に抑制していては体が持たないですし (^ ^;)ゞ。

これを意識的にやらなければならないのが社会の中での発達障害の人たちではないでしょうか?ニキリンコやらRosaさんの記述を読むとそんな感じがします。

ただし凹が何か別の凸の代償だったりしたら、のんびりゆったり育ててもらえれば天才肌に育ったりできるんでしょうが、フツウの親はそれだけ余裕がない。出かけるとき靴をはくのに5分10分待ってあげられる親は少ない。まして「幼稚園がイヤ?じゃ、やめればぁ~」と言える親は奇特でしょうね。

だから「必要以上の言語化とか確認」が功を奏することがあるんじゃないですか。パンダさんとかカレンさんのお話から感じられることです。「言わなくてもわかるだろう」というのは高度に様式化された♂の性質で、「言ってくんなきゃわかんない」というのが♀の様式かもしれないと考えると、そこはジェンダーに還元される部分もあったり。ここでも「理系の父」いう表現も頻繁にでてくる。もしかしたら原因は複層していて、原因を求めることに意味はないのかも。

joさん

 なんかjoさんの書かれてきたことの意味が、私なりにだいぶ理解できてきたように感じ、また考えるヒントを頂いたような気がします。

 「なんらかの凸凹(定型からの隔たり)のせいで自己中になったりタコチューになったりしてしてるんでしょうけど、相手から見える状態像は「いつも自己中」になるんでしょうね。だって抑制しないで受け入れられた行為はそこで容認されたことになり意識にのぼりませんからね。」

 というところ、きっとそうなんだろうと思います。なんで「相手(定型)から見るといつも自己中」なのか、というと、joさんが書かれているように、アスペの人の「タコチュー」の部分は定型は意識できないことが多いし、「自己中」の部分は今度はアスペの人の側が意識しない「当たり前」に思える行為の場合が多いのではないかと思います。

 ということは、アスペの人が「タコチュー」になっている場合は、アスペの人から見れば定型の方がすごく「自己中」で、無理矢理それに自分を合わせさせられているという状態になり、逆にアスペの人が「自己中」の時は上に書いたように意識しない、とすれば、アスペの人から見れば「定型はひたすら自己中だ」という風に見えても不思議ではないですよね。だとすれば、アスペも定型も、お互いに相手のことを「なんて自己中なやつ(ら)なんだ!」と感じているのかも知れない。特にアスペの多くは人は社会の中でいつも少数派の苦悩を味あわされてきているから、ますますそう感じるかもしれません。

 で、

 「でもそういう無意識のやりとりが社会ルールを確立させる基礎プロトコルになってるんじゃないでしょうか。」

 についてなんですが、娘さんが「我慢をする」ということを繰り返されてきたように、アスペの人も「与えられたルールに我慢して従う」ということはあるんだと思います。というか、むしろ定型よりも律儀に、というか融通が利かないと感じられるほどに、そのルールを必死で守ろうとされることもあるような気がします。

 ところがそのルールの理解の仕方自体が定型とずれてしまって、定型ならそれほど苦もなく「こう言うときにはこのルールを使う」、「こう言うときはこのルールは適用しない」みたいな線引きの仕方を(無意識のやりとりなども含めて)お互いに共有してしまうのに、アスペの人は定型とは少し違う線引きをするために、定型の行動を見て、「あれ?ここはこのルールに従うべき筈なのにそうしていないのはなぜ?」と混乱してしまったりすることが結構あるように思うんです。私のパートナーの話なんか聞いてるとそういう感じがします。(というわけで、彼女は「定型は身勝手だ」というようなことを感じることがしばしばあるようです)
 
 だから
 
 「これを意識的にやらなければならないのが社会の中での発達障害の人たちではないでしょうか?」

 と書かれているように、定型が多数派を占める社会の中では、アスペの人にはあまりにわけのわからないことだらけで、定型なら無意識にこなしてしまうようなことについて、いちいち意識的にいろいろ考えて行動しなければならなくなる。そうすると

 「この子は「処理速度」という検査項目が著しく凹なので」

 と書かれているようなことが生じたりするのではないかという気がします。つまり脳をコンピューターに喩えて言えば、計算の速さ(処理速度)自体は定型と変わらないとか、あるいはむしろ速いくらいかも知れないのに、ある問題を解くためのプログラムが違うので、答えを出すのに時間がかかったり、違う答えが出たりしてしまう。あるいはマックのOSの上でWindowsのOSを走らせ、それを使ってWindows版のソフトを使うので、余計に時間がかかってしまうとかいう喩えもあるかもしれません。

 アスペの人は疲れやすい、ということもあったりするようですけど、それも定型向きに作られた社会の中では、自分には理解しにくい定型ルールをなんとか自分なりに工夫して理解して応用するために、定型が想像できないくらいに沢山のエネルギーを使わなければならないからなのかもしれないと思うんです。定型でもいろんなルールが違う外国を旅したり暮らしたりすると、すごく気疲れするようなもので。

 そんな風に考えてみると、

 「もしかしたら原因は複層していて、原因を求めることに意味はないのかも。」

 ということについては、「複層していて」というよりも、「アスペと定型の(コミュニケーションの作り方の)ズレ」の問題が一番重要な「原因」なんじゃないだろうかと私は思うんですね。それなのに定型を基準にして、そこから外れた部分をアスペの特徴とし、そうなる原因のすべてをアスペの人の中に探して問題を理解しようとするから、なんか無理が起こって却ってお互いの違いを前提にしたコミュニケーションを作りにくくしてしまうのではないかと思うんです。原因はアスペの側でもないし、定型の側でもないし、それぞれの人が自分にとって自然に生きようとするときに、その生き方にズレがあるためにうまくコミュニケーションが共有されない、というその「関係」の中にあるのではないでしょうか。

気遣いの矛盾の所にも、ダラダラ書いてしまいましたが…

結局私は主人との関わり、かみ合いから、途中からローナウイングの3つの類型を強く意識するようになりました。

私から見れば主人はマイペースで関わりが一切なくても平気な孤立型。

しかし、そんな主人から見れば私が仮に定型だとしても、受動型、もしくは積極奇異型にも映ると思います。

確かに私は知識を共有しようとしたり、好きな人とは関わりたがる所もあるので、うちの場合は、そのような差幅は広くあると思います。
もしかしたらうちはどちらもアスペルガーなのかも知れません。

しかし、職場などでは、長年それぞれそれなりにやっていたと思うので、医者の診断は意識しないように私から調整に入りました。

私がいつも思うのは、
ウイングは自閉症の連続として今日のアスペルガー症候群を確立し、自閉症の人との関わりを発達水準から3つのタイプにわけましたが、

この分類は、特に夫婦や家族など距離が近い間の中では、仮に定型であっても性格としてわりとはっきりとよく表されていると思います

家庭内だけで見れば、joさんの言う「反応性障害」にもなってきますし、定型の基準は難しいと思います。
診断について、医者が(登校拒否・ニートなど)社会不適合を基準の一つにしてアスペルガーを判断診断するのも、
家庭のしがらみは民事問題として視野に入れないのも、(入れたらキリがないし)

ウイングの言う類型で見ると、家庭のいざこざではアスペルガーの判断は難しいと思います。

診断がついてない場合、自分は定型で相手はアスペという前提でお話される方は、どこらへんを基準にしているのでしょうか?いつも気になります。

ずっと以前、joさんが言われていたように、気付いた時点で何かしら学習されていければ、定型と言えるのではないか?とも思ったりするし、
逆に、ウイングはタイプを発達水準により移行…と言っているように、
気付いた時点で…と言っても定型の基準からは遅すぎる気付きなので非定型なのかも知れないし、(joさんの言われてるプロトコルにあたるでしょうか)

結局相対で見れば、気付かない人、あくまでこだわっている人もその時点で気付いてないわけで(joさんのいう抑制のお話)、どちらもアスペルガーなのかな?とも思ったりします。
ですので、家庭での定型の基準がよくわかりません。

ですから、joさんの反応性障害や、UCさんの思いやりと余計なお世話…や、パンダさんの気遣いの矛盾などは、どのように展開していくのか、興味がある所です。

他人のご家庭や生育歴を全て覗くのは無理な事な以上、私は皆さんやみなさんのパートナーを定型だとかアスペルガーだとか意識しないように参考程度に読んでいますが、
ズレの問題を考える時、みなさんのお気持ちがよくわかる反面、自分の過去も振り返りながらですが、何か違和感を感じる時が多いです。

そして、ウイングがアスペルガーは自閉症の連続であるとしているように、
自分が定型であるとすれば、アスペルガーに対してそれなりにこちらのこだわりを捨てた理解が必要かと思います。

>>「もしかしたら原因は複層していて、原因を求めることに意味はないのかも。」

> ということについては、「複層していて」というよりも、「アスペと定型の(コミュニケーションの作り方の)ズレ」の問題が一番重要な「原因」なんじゃないだろうかと私は思うんです

「単独の原因を求めることに意味はないのかも」に訂正します。

・一つには、♂はAS的、♀はADHD的というジェンダーに基づく一般的傾向がある、(ベルカーブのズレということですから全ての個体についてではないです、以下の全部についていえることですが。)、
・それから、理系はAS的、文系は定型的という一般的傾向、(これは教育システムの中で数の割合がそうなってる)、
・それから、例えば技術職はAS的、営業職は定型的というような一般的傾向、(というのか向き不向きの結果、鶏と卵かもしれないけど。理系の♂でも営業センスを身につけられる人もいるし。)
・それから、父親が理系だったとか、母親が科学者だったとか、
・それから、のんびり育ててもらえる余裕が生家にあったとか、
、、、、
・それに「AS・高機能自閉症」といわれてる脳神経的な(といわれているけれども生理学的な定義が未整備で診断的な基準にたよっている)違いがあり、
、、、、
諸々の要素で、ある人からの視点を固定して見ると相対的にAS的になる要素がたくさんあるわけでしょう。その中のいくつかが重なれば、2個体間の相対的な距離感は十分「AS:定型」の一般的問題に到達するのではないでしょうか?「AS」は幻想だと言ってるわけではないんですよ。「AS」は原因の一つかもしれないけれど、全部ではないかもしれないと言ってるんです。

だとしたら、一つ一つ解明して調整できたら、理想的には脳の神経生理にかかわる「AS」だけが残り、そうはならなくても、残りの原因がある程度少数になれば、もはや問題に発展するだけの強度がなくなるのではないか、パンダさんやカレンさんがやりかけてるのは、それじゃないんだろうか?と思うんです。

だとすれば解決の方向は多様で、それぞれのツガイで解決に至る道筋は数多くあることになります。その方が希望が持てるんじゃないですか。「ASだ!脳神経の異なりだ!」と言ってしまうよりも。

(いえ、もちろん脳神経生理による「AS」傾向だけでも強度十分で問題に到ることもあるでしょうが、その場合たぶん高機能型にはなれないんじゃないかな。加えて言えば、神経生理の偏りの中でも遺伝によるのと環境によるのがあるでしょうが。)

私自身、ちょっと前まで「脳神経の違いだ!関係調整不可能だ!」と叫んで暴れていたのですからね。一応、私は検査も受けましたけど、うちは「片方がASで他方が定型」という合意には到ってません。パンダさん、カレンさんはその合意がかなり大きかったと言ってられますが。たしかにそれはかなり大きなものの一つなのでしょうが、全部ではないような気もするのです。うちでは、子の知能の成長が、けっこういろんなところで拮抗していた何かを崩してきたような感じ。私との食い違いに混乱していた母ちゃんのシステムに何かの情報を提供する源になってくれはじめたという感じでしょうか。

それで臨界点付近まで降りてきたのかなぁ?
安定停止できるのか、再臨界の危険はあるのか???

出張から帰りました。

joさんがおっしゃってることまだ理解しきてれないけど、一言だけ。

アストン博士の本に「彼にあなたの感情を理解してもらおうとしてもムリ、彼にはその能力がないのだから。脳のその部分の発達が不全なのだから」というようなことが書いてあります。

他方、solitudeさんのとこで、凸凹の凹がどこにあるかが大事ということを学びました。

夫婦関係において「なんとかうまくやっていける」最低ラインを満たすための条件として、凹の位置がどこにあるか、とか、「夫婦関係作る上で大事な」部分の凹がどの程度深いか、というのは、あるような気がします。

差し障りある表現ですけど「ASの人は感情面では3〜5歳と思って接するように」というのを読んだこともあります。チロさんと「もしかしたら、5歳未満の大人とは夫婦関係築くのムリだけど、6歳程度にまで行ってれば大丈夫とかいう臨界点があるのか?」というようなことをおしゃべりしたことがあります。

「(夫婦関係で)頑張ってもダメ」のケースの中には、上記のような「物理的にムリ」なものもあるのではないかと思っています。そういうケースの場合は、定型側に「うまく行ってるカップルもあるよ。あなたも頑張りなさい」と言うのは、とても残酷なことだと思います。

みみさん

 山ごもりから戻ってこられましたね!お帰りなさい!
 
 「ウイングの言う類型で見ると、家庭のいざこざではアスペルガーの判断は難しいと思います。」

 これ、考えていくと結構重要なポイントかもしれません。みみさんが書かれている意味を私がうまくつかめているかどうかわからないのですが、世の中で「障がい者」を見るときと、家の中で同じ人を見るときは全然違って見える、という話はカナータイプの自閉の子どもを抱えたお母さんの話として聞いたこともあるからです。

 そのお母さんの場合は家の中ではその子との間に、「違いを前提としたやりとり」がもう前提としてかなり普通のことになってしまっていて、その意味で家族の中では「それで当たり前の生活」が成り立っちゃってるし、そうするとその子のことをことさらに「障がい児」として意識する必要もなくなってきて、時々「あ、この子は障がい児と言われる子なんだ」と思い出すだけのような感じになるらしいんです。又聞きなので、どこまで正確な話かはわかりませんが。

 ところが一歩外へ出てみると、そこは別世界で、その子の生き方は全然「当たり前」にならず、いろんなところで次々に「障がい」に突き当たってしまう。そうすると外の世界ではその子は「障がい児」になっちゃうというわけです。

 ウィングさんの診断基準とか類型とか、いわゆる医学的な診断なんかも、だからどういう場で(家でか、外でか、同じ家でもお互いの付き合いがうまくこなれてきた家か、そうでないかなど)それを見るかによって、実際の意味が随分変わってきてしまうことがあるように思います。

 そのあたりのことはまたおいおい考えていきたいことのひとつですね。

 「診断がついてない場合、自分は定型で相手はアスペという前提でお話される方は、どこらへんを基準にしているのでしょうか?いつも気になります。」

 ここはそれぞれの方で違う面も共通する面もあるでしょうから、コメントなどで「こういう点がアスペと定型のズレとして困った(困っていた)ところだ」ということを具体的に書かれていることが少なくないと思いますので、そこで質問をしてみられたらどうでしょうか?多分その方が話が具体的なところでできるので、話も噛み合いやすいのではないかと思います。


joさん

 少しずつですけど、joさんの見方のポイントが私にも伝わって来つつあるような気がしました。つまりこんな感じなのかな。

 アスペルガーというのは脳の障害と言われているけれど、実際のアスペルガーの人の「アスペルガー的な具体的な特徴やその強さ」はすごく様々で、それは脳の話だけで説明するよりも、むしろその人が育った環境とか、今置かれている状況とか、そういう後天的な条件によって大きく左右されるものと考えた方が分かりやすい。
 その条件が(少なくとも定型的な視点から見れば)理想的な場合には、仮に同じ脳の持ち主だったとしても、その人は限りなく定型に近くなるだろうし、逆に条件が悪ければ、どんどん定型との距離が開き、アスペルガー的な特徴が強力になっていって問題が難しくなっていく。
 そしてそういうその人の「アスペと定型の距離」を左右する条件にはいろいろなものがあって、たとえば親が理系かどうかとか、のんびり育ててもらえる環境だったかどうかとか、様々な要因が重なって作られていく。それらの要因がたくさんあればあるほど、アスペルガー的な特徴が強くなり、少なくなればなるほどより定型的になる。

 joさんの視点のポイントは、私なりにまとめてみるとだいたいそんな感じなのかなと思いましたがどんなものでしょう?

「うちは「片方がASで他方が定型」という合意には到ってません。パンダさん、カレンさんはその合意がかなり大きかったと言ってられますが。たしかにそれはかなり大きなものの一つなのでしょうが、全部ではないような気もするのです。うちでは、子の知能の成長が、けっこういろんなところで拮抗していた何かを崩してきたような感じ。私との食い違いに混乱していた母ちゃんのシステムに何かの情報を提供する源になってくれはじめたという感じでしょうか。」

 ここ、私も大事なポイントのような気がします。多分「どうやってある程度の安定した関係に至るか(離婚という「関係」も含めて)」という道筋は、カップル事にすごく違うんだと思います。考えてみればアスペにしろ定型にしろ人間ひとりひとりものすごく違うわけで、その組み合わせはほんとに多様ですから、ある程度の共通点はあるにしても、具体的な場面ではあるカップルの経験がそのまますべて別のカップルに応用できる、ということはほとんどありえない位だと思うんですね。

 もちろん「参考になる」ということはたくさんあるし、そのことはとても大事なんだけど、それはやっぱり「参考」に留まるので、具体的なところでは改めて自分たちの現実に合わせていろいろ創意工夫しながら自分たちに一番あったやりかたを探していくしかないでしょう。

 だから「夫婦で合意する」というのも、それを可能にする条件がなぜか揃ったためにそうできただけで、どのカップルでもそうできるわけではないし、また絶対そうしなければならないというものでもない。そういう条件がないカップルではまたそれなりの工夫があって、たとえば最近のjoさんのご家庭のように、お子さんがそこに積極的に関わるようになって、家の中のある種のバランスの変化みたいなことが起こり、状況が好転するという場合もある。あるいはみみさんのように、「アスペと定型の違い」にこだわるのではなく、むしろそんな風に問題を固定的に考えることの危険性を感じて、ひとりの人間として(かな?)パートナーに向き合って努力することで関係を改善する、というスタンスもある。

 こういうやりとりが意味があるなあと思うのは、他の人のやり方を見ることで、「成功した人に学ぼう」みたいなことではなくて、「ああ、あの人のここは使えるな。でもここは自分のところは違いがあるし、違うやり方を考えないとな」とかいう風に、その人自身にあったやり方を探る手がかりが沢山得られる事じゃないかと思います。

「高機能自閉症」とか「広汎性発達障害」というものが私なりに理解しようと懸命になっているにもかかわらず、あまりにも曖昧模糊としていて、こういうものだという具体的イメージが未だにつかめないでいます。身近にサンプルと思しき個体が2人もいるのに。いや、この人たちフツウなんだよ、思いたい気持ちがあるからなのか、どのレベルでどの部分で標準からずれているのか、どうもつかみきれないです。そのとらえどころのなさが私をパンダさんの言う「相対化」に追い込んでいくのかもしれないですが。この人たちをフツウと考えられるのか、それはムリ。この人たちをそういう障害だと仮定すればすっきりするのか、する部分もあるししない部分もある。いろんな方向からアプローチしてみて、世の中で言われていることもなんかすっきりしないし。。。

KSさん
>「ASの人は感情面では3〜5歳と思って接するように」というのを読んだこともあります。チロさんと「もしかしたら、5歳未満の大人とは夫婦関係築くのムリだけど、6歳程度にまで行ってれば大丈夫とかいう臨界点があるのか?」

「幼児的自己中」のことですが、、、5歳前後というと「三山問題」とか「アンとサリーの課題」が解けるレベルかですが、興味深いコメントですね。ホントにそのまま大人になってれば立派に自閉症でしょうね。ただ、アスペルガーのお墨付きをもらってる子らも9~10歳あたりでこれらの課題を解けるようになるそうです。ただし3~5歳あたりで解けるようになる定型の子らとは、解く戦略が異なると考えられてるみたいです。

>joさん
こないだ弟一家が来て、「私と弟の生育家庭の子育ておよび私&弟の子育て」vs「義妹の子育て」の「違い」の話になりました。

前者は「急いで」ということを言わない子育てで、特に弟と私は「子どものペースに合わせる」が徹底している。弟や私は、子どものペースに本当に根気よくつきあう。無理してやってるっていうよりは、子どものペースに寄り添って「しまう」という感じ? 私は子どもと過ごす時間は、子ども時間に「ワープ」したみたいな感じになってしまっていた。脳みそが「変質」してしまうような感じだった。

姪っ子は定型の良さをたっぷりともった義妹が、「社会の掟」「社会のペース」をしっかりとたたきこんでいるので、とても「まとも」な「一般人」として育っているし、将来的にもとても立派な一般人として育っていくでしょう。

私の息子は、①私の「子どものペースに寄り添った子育て」ということ、②元夫も基本子どものペースに合わせてた(ただし、夫の頭の中にある「生活のイメージ」「タイムスケジュール」を子どもの年齢やそこから推測される能力と無関係に押しつけ、そこからはずれるとひどく怒るという場面もあった。私は夫が息子を叱る時のポイントに共感したことは一度もない)のと、③もともとの資質、の3つにより、こんなに「のんびり」した子になっちゃったのかも。

まぁ、今のところ受験も乗り切ってるし、大学の勉強もきっちりこなしてるし、サークル活動での実務もしっかりこなしてるし、足りない所は「アスペ的可愛げ」があるから友だちが手を差し伸べて補ってくれてるし、なんとか今後もやってけるのかなぁ・・・と思いつつ、実は、若干不安でもある。(この年の子どもをこんな風に心配するってのは、「子離れ」出来てないってことでしょうか?)

でも、息子に義妹みたいに「定型の掟」を叩き込む子育てしてたら、息子は「潰れた」かも・・・とも思う。姪っ子は息子よりはるかに「頑丈」な感じ。

あ、でも、息子、あんがい「したたか」だから、潰れなかったかなぁ。元夫は、時々、息子に対してひどい叱り方をして息子は一度小学校4年の時に「自殺」まで考えたことがあるのだけれど、そのあたりから父親に対して「こいつの言うことはおかしい」と思ってたらしく、とりあえず、神妙なフリして父親の言うことを「聞き流して」いたとのこと。離婚のことで色々息子と話し合う中で知ったのだけれど。

元夫には元夫の「理屈」「正義」があったのだろうけれど、私は未だにそれが理解出来てません。私は「世の中には色々な価値がある」ということを息子が学ぶことも大事だろうし、元夫の「正義」を尊重することも大事だろうから、と思って、元夫が息子を叱るのには介入しないようにしていた。だけど、息子が「今日、お父さんに理不尽に怒られて、マンションの屋上に登って飛び降りて死のうと思った」と私に打ち明けた時には、「私はあなたを選ぶから。もし、どうしても辛かったら私はお父さんと離婚するから」と言った。今思えば、私が離婚を決意したのは、約10年前の「あの日」だったのかもしれないです。(この話、たしか、前にも書いたよね。すみません)

この時はさすがに「息子が自殺を考えるような叱り方はやめてほしい」と言ったけど、でも、その後も時々ひどい叱り方をしてた。すでに、この頃から息子が父親の精神年齢を越えていたので、なんとか今日まで無事に来たけど。あるいは、息子は私が「あなたを選ぶ」と言ったことで息子は安心し、そこを「基地」に、父親の言うことを相対化出来るようになったのかもしれない。

あの時点では、「なんとか家庭内均衡を保つ」で私は精一杯で、元夫の「理屈」と格闘しなかったし、私は、今日までそれをしていないです。あの時に格闘していれば、離婚はもっと早い時期だったのかもしれない。私たちの場合は格闘しても「関係修復」はなかったと思う。

そもそも、私の場合は、どうやって元夫の「理屈」と格闘していいか分らないのよね。我が家の場合は「受動型」なのか、「議論」になると「言うこと」が無節操に変わっていくし、記憶障害もあるみたいだし、記憶の変容もあるみたいだし。「定型×非定型」でうまく行く場合、非定型の「型」というのもある程度関係するかもしれない。元夫みたいなタイプの人との「ズレ」の修復はきわめて困難だと思います。

あ、話が逸れてしまって私の愚痴になってしまいましたが、なんとなく思ってることは、アスペ的な性格の子は、その性格の度合いが強い時は「定型の掟」を叩き込もうとすると、性格に「歪み」が来て、かえって「アスペ度」が高まるかもしれないなぁ(世間から引きこもって)ということ。アスペ的な子には「待ちの子育て」が向いてるかも。でも、「待ちの子育て」は他方で「定型の掟」と同調しない性格も生み出すから、大人になってちゃんとやってけるか・・・という問題もある。

このあたりも「臨界点」やそれに応じた対応の必要性がありそう。そして、成長後の環境とも関係がありそう。

弟も「定型の掟」との妥協は、かなり危ういところで保ってるという感じ。あとほんのちょととヤバければ、社会人としてはムリでしょう・・・という感じです。霧妹がしっかりとサポートしつつ、弟の才能や人柄を愛して受容くれてるし、姪っ子がパパ大好きなので、気持ちが安定してるから、大人になってからの性格もいい感じに育っているんだと思う。違うお嫁さんだったら、社会人としても破綻してたかもなぁ。

でも、まぁ、定型だって、キャパ越えれば心や身体壊すし、悪い環境にいれば性格悪くなってくんだから、同じことなのかな?

>パンダさん&みなさま
私の愚痴の方に話が戻りますが、記憶障がい、記憶の変容があるアスペの人との「対話」ってどうやったら成り立つのかしら? 良い知恵があったら教えてください。私、今後の調停において切実なのです。 

>パンダさん
病み上がりなのにいっぱい書いちゃってごめんなさい。出張中、いろいろ考えてたことがたまっちゃってて。お身体、お大事に。

>「言うこと」が無節操に変わっていくし、記憶障害もあるみたいだし、記憶の変容もあるみたいだし。「定型×非定型」でうまく行く場合、非定型の「型」というのもある程度関係するかもしれない。

こういう「え!?」てのはうちもよくありましたよ。でも、たぶん、いつもいつもじゃないでしょう?ある程度、追い詰められたときでしょう?私の感覚としては、ほんのちょっと(定型なら「しょうがねえなあ」と思って我慢できる程度の)ストレスがかかったら、もうアウトになって、激変する。定型でもそうとう追い詰められたら自己防衛に凝り固まってそういう反応出ると思うけど、そのレベルが(私から見れば)かなり低い感じ、なので「自己中!」って思ってしまうんです。

相手の立場に立つと、実際、追い詰められた原因は本人以外のところにあるわけだから、泥棒にも一分の理、みたいな感じはあるんですよね。まさに、子供の屁理屈みたいな、という感じ。

だから、正常に機能する範囲に留まらせるためには子供みたいに相当あまやかす必要がある。それには経済力をはじめとして諸々の余裕が要りますよね。私が仕事に集中して、独身に毛の生えた程度の家事を任せてたときは、それもかなり出来ばえはひどかったけど、私は完璧に一人暮らしできる人だったので期待値も高くなかった。別に私はつべこべ言わなかったので、(まあ、こんなもんかな)、と思ってどうにかやってたんです。赤ん坊が入ってくるとそうはいかない。最低限の期待値というのがグンとあがってしまう。そこまで家の中を赤ん坊にとって安全なレベルにするためには、、、結局、休職っつうか、自信があったので一旦、離職したのですが、そのまま復帰不能に陥っていったのです。そうなると経済力をはじめとする余裕の部分で負の連鎖です。とても甘やかして適当にやっていくというようなことができないですから。

お互いがお互いの環境として、善いものかどうかってことでしょうかね。何を基準に善い悪いってことにもなるけど。

>joさん
>だから、正常に機能する範囲に留まらせるためには子供みたいに相当あまやかす必要がある。
>それには経済力をはじめとして諸々の余裕が要りますよね。
→うーん、そうなんですね。我が家も子ども生まれる前、元夫が正規の就職する前は、比較的うまく回ってたんですよね。時々、「あれ?」と思うことはあったけど。

「キャパを越える」は定型、非定型問わず、その人を壊すけど、その「キャパ越え」の臨界点が傾向的に定型より極端に低いってことなのでしょうね。それも、全部じゃなくて凹のところの「最低ライン」が問題になるから、他が高くても、凹の最低ラインが低いと、「キャパ越え」が簡単に起こるということなのかもしれないですね。

私は、妊娠中、もし生まれた子どもが障がいもってたら、仕事辞めよう(正規の職を得るのが難しい業界ですのでもったいないけど)と思ってました。もし、子どもが早期に分る程度の発達障がいだったら、私、joさんと同じ境遇になってたんでしょうね。私、その場合は療育に専念しようとしたでしょうから。joさんの人生は、私の人生とピッタリ重なるのかもしれない。

最後の数年は、ほとんどすべてのことに関して、「話が噛み合ない」状態でした。ごく簡単な日程調整や、一番ひどい例では「一緒に出かけた帰りにどっちがコンビニに寄って買物してくか」というようなことですら、話が食い違ってしまうのです。すべての会話が「記憶障がい」「記憶変容」だと、正気を保つのがとても難しいです。

さっきまでの私の「過去」私の「時間」がすべて否定されて消されてねつ造されていくんです。どっちがコンビニに行くか、ということを「話し合ってた」時間がすべて無意味化されていく・・・。自分という人間の存在が消されて行くんです。それも、すべてのことにわたって。

幸い、別居結婚だったから、なんとかしのいだけど、同居だったら、私、今頃完全に廃人だったと思います。

>joさん
元夫は女性問題、金銭問題で「キャパ越え」になってたのだと思います。それらについても、すべて他人のせいにし、口汚く関係者をののしっていました。

「泥棒にも一分の理」として、でも、その「尻拭い」は一体誰がすべきなんだろう。

KSさん

 「記憶障がい、記憶の変容があるアスペの人との「対話」ってどうやったら成り立つのかしら? 良い知恵があったら教えてください。私、今後の調停において切実なのです。」

 これ、相手の人の状態やその人との関係にも依ると思うんですが、「お互いに納得する」ということを断念して「事実を確認する」という一点に目標を絞らなければならない状態の場合には、やはり録音をする、その場でメモを取り交わす、その場で相手の目の前でメモをこちらだけでも取る、事後にでもメモを取って手元に記録しておく、といった形で、なんらかの物証を残すとか、誰か第三者に立ち会ってもらうとか、弁護士さん同士の話し合いにゆだねるというような方法をとるしかなさそうですね。

 ただ、お互いに誠意を持って真摯に向き合おうとする「対話」という感じでは無くなるのかも知れませんけれど……。これについてはせめて録音やメモを取るときに、「どうしても後から話をうまく思い出せずに話が食い違うことがあるように思えるので、後から確認できるように」という感じで、「少しでもスムーズなコミュニケーション(交渉)維持のために」という姿勢を示すことくらいしか、今は思いつきません。

 目標が「お互いの信頼関係を作り直す」ということにある場合には、また違う見方や工夫が必要になると思いますけれど。私も関係が一番シビアだった頃には、あまりに「何を言ったか(言わないか)」「どういう言い方だったか」についての記憶がすれ違うので、「そこまで言うならもう、録音するとかするしかない、ということになるよね」と言ったことがあります。なにしろ「言った(言わない)」のズレは、一番基本的な信頼関係にも影響してしまいますからね。

 ただ私の場合、それは「二人の関係の間で、自分はそんなことをしたいわけじゃないんだ。そのくらいシビアな問題だと理解して欲しいんだ」という含みで言ったんですが、今考えればパートナーはストレートにそのままの意味で取っていたかも知れません (^ ^;)ゞ

>パンダさん

>私も関係が一番シビアだった頃には、あまりに「何を言ったか(言わないか)」「どういう
>言い方だったか」についての記憶がすれ違うので、「そこまで言うならもう、録音するとか
>するしかない、ということになるよね」と言ったことがあります。なにしろ「言った(言わ
>ない)」のズレは、一番基本的な信頼関係にも影響してしまいますからね。
→パンダさん、そこまで行ってたのに「復活!」したんですね。すごい! 不死鳥みたいですね。そこまで行っても関係回復可能なんですねぇ。

「悪意」で言うこところころ変えるんだったら、「やめてよ!」と言えるし、「やめてもらう」ことも可能だけど、相手は「本当のこと」を言ってるという意識だし、こっちも「本当のこと」を言ってるという意識だから、お互い、混乱の極みになるし、信頼もズタズタだし、一体どこから手をつけていいのやら・・・という感じだし、何も「重なっていかない」ですもんねぇ。積み上げても積み上げても、すべてのことが根底から覆され続ける底なしの虚無・・・。

よく、そこから奥様との対話が成り立つところまでもっていかれましたねぇ。奥様の資質ということもあるのでしょうが、パンダさんの根気や誠意というものが並外れているのでしょうね。

>パンダさん
お礼を忘れました。参考になる助言をありがとうございました。
「記録を取る」「録音する」「他人に入ってもらう」などの「技」、使えそうです。
不必要な摩擦を避けるために、これ以上ズタズタにならないために、いろいろと工夫して交渉に臨みたいと思います。

KS仙人さま

 「よく、そこから奥様との対話が成り立つところまでもっていかれましたねぇ。奥様の資質ということもあるのでしょうが、パンダさんの根気や誠意というものが並外れているのでしょうね。」

 あ!それ、美しい誤解です!

 うちの場合、帰宅時に「お帰り」と言ってくれないのが寂しい、と言ったら、「ちゃんと言ってる」と言われたりとか、たとえばそんなレベルの話です (^ ^;)ゞ

 あと、喧嘩状態になったときに前にどう言ったかの記憶や解釈がすごいずれたりとか。KSさんのところのように、交渉事の中で「確認事項」が積み重ならない、というようなレベルにはいっていなかったと思うので、全然「並外れて」いない、平凡な話だと思います m(_ _)m…… (冷や汗)

>「そこまで言うならもう、録音するとかするしかない、ということになるよね」と言ったことがあります。なにしろ「言った(言わない)」のズレは、一番基本的な信頼関係にも影響してしまいますからね。

そっくりそのままの会話、うちでもありましたよ。さらに、私は実際こっそり録ったこともあります。そのころって自分の言ってることも自信なかったですからね。ただし、隠し録りしてたので、後で自分で何度か聴いたことはあったけど、誰にも聴かせてませんし録った事実も私一人の胸の内です。あ、ここで初めて外に出たかな?でも、なんかそういう卑怯なことしたこと自体が情けなくなって、その後二度とやる気も失せましたけど。

>喧嘩状態になったときに前にどう言ったかの記憶や解釈がすごいずれたりとか。

これもよくあった。

>交渉事の中で「確認事項」が積み重ならない、というような

ことは日常の家事分担みたいなことで、よくあったと思う。そういうことが信頼関係を築けないなぁ、と考えたわけです。基本的に共同作業を協調的に行おうとすることにかなりムリがあったんでしょうが。まさかそんなこととはつゆ知らずでした。

記憶のことは、ここで皆さんが書かれているように、うちも、「言った」「言わない」で、もうすっちゃかめっちゃかな不毛の争いが日常的にありました。

私にしてもある程度はそういうことはあったかもしれませんが、夫は、ストレスがかかたっときのことは本当に覚えていませんでした。

夫が、後付けのように&人ごとのように「(自分は)あの時はたぶん○○だと思っから、△△と言ったんだろうね(怒)!」ということを言うので、それでまた私が「なんで自分のことなのに、そんな言い方をするの(怒)?」 それに対して、「覚えていないものは覚えていない。それを正直に言っただけし、そのことで責められても困る(怒)!」

・・・という感じで、もともと何について話をしていたのかが、どちらもわからなくなるような状態で。

なので、正直なところ、私も「録音」や「ビデオ撮影」しか手立てがないのではと思っていた時期があります。(そこまでは行かずにすみましたが。)

以前にもどこかで書きましたが、うちの場合は、

①とにかくバンバンぶつかる(=大きな声も出してストレスも発散にも一役。ただし、反面どんどんエスカレートして自分たち自身どうにもコントロールができない状態)
         ↓
②1日か数日あけて冷静になって&ある程度整理できた状態になってから再度話し合い

というパターンを、本当にたくさん積み重ねました。①のときは、ただの不毛の争い、なんらかの解決か前進を見ることができたのは、いつも②においてでした。

こちらがとにかく冷静に話す、夫が少々気色ばんでも、とにかく冷静さを保つ、言葉の中身は「ショック」「辛い」「悲しい」「こういうことに留意してほしい」ということでも、とにかくそれをあくまで冷静に穏やかに伝える、そのうち夫の表情も柔らかくなり会話が成り立つよになり、最後は笑顔で雑談・・・このやり方で、特に、アスペルガーのことを共有する〔前後?〕までは、ものすごく慎重にやっていました。

皆さんからすでにアドバイスがあっている「記録」「録音」「第3者の立会い」の他に「ビデオ撮影」、②のやり方・・・というのが、今私に思いつく方法です。

状況が状況なので、とても難易度の高いことだと思いますが、とにかく元夫さんのシャッターが下りないように話を進めていけることを願っています。

交渉事でズレるより、一見「なんでもないこと」でズレてく方が、心にはずんとこたえるような気がします。

日程調整や家電製品のお金の分担でもズレまくりでしたが、こうした交渉事はまだ「対処」がやりやすいと思います。もちろん、これらも決して容易ではないし、なんでこんなことですらズレるんだ?????とは思いましたが。

「お帰り」と「言った」「言わない」というような一見「ささい」なことでズレてく方が、ずーんと心にダメージが来るように思います。

私の場合、一番こたえたのは、先にもあげた「帰りがけにどちらがコンビニに寄るか」でした。

関係修復のための努力を重ねていた頃、3人で出かけた帰り道、「買ってくるものがあれば、コンビニに行って、僕が買物してこようか?」というので、「何か足りないものあったかなぁ。牛乳はたしか、まだあったよね」などと、話しながら家の前まで来たら、「じゃ、買物はKSが行くんだね」と言われて、「はぁぁぁ???」となりました。「僕が買物してこようか?」以下の約5分間の「時間」と、その5分間に存在していた「私」のすべてが「消された」感じがしました。

たった5分くらいのことだけど、「自分が消される」空しさ、恐ろしさって、底なしの穴に落ちてくような感じ。

あとは、相手の心の中で「ストーリー」ができあがっちゃってて完結しちゃってるような場合(「KSが可哀想だから離婚して『あげる』」とかね)、表面がつるつるすぎて、「対話」のとっかかりがどこにもなくて、ただ静かに絶望するしかない。一体どこからそんな「ストーリー」が紡ぎ出されたんだか、意味不明すぎで。

joさんが、「自分の言ってることに自信がもてなかった」というのも、よく分ります。繰り返し、「自分の言ったこと」が否定されたり、なかったことにされると、精神の歯車狂ってきますよね。

私、よく、頭かきむしりながら絶叫して部屋の中を駆け回りたい衝動にかられました。まさに発狂寸前ですね。

やっぱり、パンダさん、すごいですよ。キリストの復活並みかも・・・。

あらら、カレンさんと入れ違い。

カレンさんとこも記憶の問題があったんですね。カレンさんも不死鳥ですね。

でも、カレンの夫さんは「忘れた」という「自覚」があったから、そこを「とっかかり」に出来たのかな? 「忘れたかどうか」についての「対話」が成り立ったってことですよね。

そうそう、上で「自分が消される」空しさと書いたけど、「自分が消される」とともに「元夫と一緒に過ごした時間」「一緒に過ごすことの意味」もぜ〜んぶ消される感じがしましたね。私が「重ならない」ことで、一番空しさを感じたのは、その点です。一緒にいる時間、一緒に話し合ったこと、それらが、ぜ〜んぶ消えちゃうんですもん。「一緒にいることの意味」が全く見えなくなった瞬間でした。

うちの例をさらします。
「あれやっといてね」、と頼んだことはスパッと抜けてたりするし、抜けてたことは後に督促状や追徴金が来て明るみに出る始末で、あげく「あなただって完璧じゃないから忘れることぐらいあるでしょう(怒)」みたいな防衛反応。こういうところで前にも言ったけどの回数比率みたいな感覚が働かず、白黒デジタルになります。忘れることがあるか、ないか。といえば人間なら誰しも忘れる。すると、こういったこともグレースケールでどこからが忘れん坊かわからなくなるんです。今考えれば、グレースケールに線を引くことの方が不自然です。1割と5割の間に線を引くのは簡単だけど、22%と24%の間に線を引くのは無理ですからねえ。「何と何を何%忘れたらあなたは私を責められるか」と言われてる気になる。今思えば、彼女の視点では、自分が定型に入るためには、白黒デジタルになるんです。それは合理的。防衛のメカニズムなのかなあ。

もっとおかしいのは、公共料金支払いみたいな大事なことは忘れた上に開き直るんだけど、旅行に行ったオミヤゲを近所に配る、みたいな(私からみれば)やったほうがいいかもしれないが、どっちでもいいことには、ものすごく熱心で、リスト作ってきっちりやってる。こちらは私はむしろやらない主義だったりするから、(相手も気を遣うし、行ったり来たりが迷惑に感じる人もいると思う、ま、自分がそうだし)自分から進んで配ったりしない人です。日頃からほんとにお世話になってるなあという人だけ、気持ちこめてこっそり渡すけど。

この奇妙な対比も今から考えてみると、現実的プレッシャーがかかるしご褒美もないような場合は忘れちまって、しかも防衛機制にはいる。プレッシャーがなくて自己評価が上げれる(社交辞令でもニコニコとお礼いわれますから、それがご褒美になるんでしょう)場合は忘れず「きちんと」やれる。ということだったのかも。

そういうのが、私の目から見ると、どうでもいいことに奔走する→時間や資源やエネルギーがなくなる→大事なことがスッポリ抜けてる→家族の不幸。というパターンに見えてます。写真を撮ったり、オミヤゲを買うのに追われて、家族で楽しむ時間とか資金、エネルギーがなくなって、ふくれっ面や泣き顔やひきつった笑顔の写真でいっぱいです。

子の発達障害にもちっともコミットしてくれなかった。そのくせ療育手帳は使いたがる。自分が行きたい美術館などへタダで入るために、嫌がる子供を無理やり引っ張っていった。本末転倒ですが、そういうのだって、文化施設へつれていくりっぱな理由なんていくらでも後付けできます。そうして母子バトルをしながら帰ってくることが常です。今では、お出かけは9割が父子、0.5割が3人で、0.5割が母子ぐらいの比率に落ち着いてます。

そんなんだけど、私は意識して楽しい場面を共有して記憶に残すということは、かなりムリしてつみあげてきました。最初から「あれ?」という感じの人だったので、ほとんど期待値がなかったもんで、多少わざとらしくなっても機会をつかんでは、いろいろんな所へ行って楽しませてきました。それがまた、自然体でほっこりできないのが私の負担になってたのでしょうけど。

「そのとき」を味わうことって限りなく孤独ですよね。後に残るのは「記憶」しかなくて、そこは限りなく主観の世界だから、記憶の「そのとき」の記述は食い違う。同じ立ち位置で見た「そのとき」だけがやや似通った記憶になって残る。それらを足がかりにして「関係」という共同幻想をつくっていくんでしょうね。

KSさん、
一緒にすごして共有した楽しい時間は消えましたか?
子育てなんかで、わずかでも共闘ができた時間は消えましたか?

そういうお話をしてあげると、和みます。防衛が緩みます。発達に偏りのある人たちは、つらいことだけでなく、うれしかったこともフラッシュ記憶になってるみたいで、こっちが忘れていることもよく鮮明に思い出してくれます。そこでまた食い違いがおきたりするんですが、楽しかったことについては、「そうだったかねえ…」で済んじゃいますから。

落ち着いて話をするには、要は過剰防衛をおこさせないように話の流れをコントロールすることかな、と最近思ってますが。

ああ虚しいなあ。

>joさん
思い出すの辛いかもしれない具体例も交えて教えていただき、ありがとうございます。

「記憶の変容」は私にも起こっているのかもしれません。記憶って「現在がどうか」というところから「読み替え」が起こるしね。あちらの掲示板に登場した頃は、「いい時期もあったんだし、結婚自体は後悔してない」とよく書いてた気がします。

今は、かつて「いい時期」と思っていたのは「幻想だったのかも」と疑ってます。「同床異夢だったんじゃないか」とか「実際は一緒にいても一人だったんじゃないか」とかね。今は、「楽しかった(かもしれない)こと」を「楽しかった」として「思い出す」ことを、心が拒絶している感じです。

ただ、私の記憶の変容は「解釈」の部分で、「事実」の部分に起こってる訳ではないことが、元夫の記憶変容とは異なりますね。非定型の記憶変容と定型の記憶読み替えは、質的に異なるのかしらね。

今は、「楽しかった(かもしれない)こと」を思い出して元夫と話すというのは、「懐柔策」と割り切ったとしても難しそうですけど(多分、吐くなぁ、後で)、調停に臨む時にはalonaさんのご苦労を思い起こして、歯を食いしばって精神構造を二重にして、相手の「過剰防衛」を防ぐようにしたいと思います。

母親は子どものためには「鬼」に「悪魔」にもならないといけないもんね。

元夫にとっても、少しでもストレス少ない方がはっぴぃな訳だし、私も「実」が取れれば(息子のために)はっぴぃな訳だから、割り切れるように頑張ってみます。

精神鍛えなくちゃ! 有益な助言、感謝!です。

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