2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 定型と非定型のバランス | トップページ | 記憶と信頼 »

2011年8月31日 (水)

ズレの大きさという問題

 joさんが「うちの例をさらします」と前置きをされて奥さんについてこんなことを書かれていました

「「あれやっといてね」、と頼んだことはスパッと抜けてたりするし、抜けてたことは後に督促状や追徴金が来て明るみに出る始末で、あげく「あなただって完璧じゃないから忘れることぐらいあるでしょう(怒)」みたいな防衛反応。」

 で、joさんとは家庭での体験が共有される部分がいつもとても大きいんですが、面白いことに(?)ここはちょっと違いました。私の恥をさらすことになるんですが、この奥さんのパターン、まるっきり私のパターンみたい (^ ^;)ゞ

 私はほんとにそういう事務的なことがだめなんです。無能の極地みたいなもの。ところが逆にパートナーの方はものすごく律儀にこなしますし、私がそういうの抜けてることを知っていますから、時々心配して注意してくれたりもします。ただし本人としては書類作りとか、そういう事務的なことについては苦手意識が強いらしく、非常にエネルギーを使って間違いをしないように仕事をしているようなんですけれども。

 印象としてはカレンの夫さんはなんかそんへんばりばりこなして行かれる感じもするし、多分、そういう「苦手さ」についてはアスペルガーの人にはいろんなレベルがあるのではないかという気もします。中にはほとんど問題なく社会生活をこなせる人(あるいはむしろ律儀にこなして重宝される人)もいれば、苦手意識はあるので、すごくエネルギーを使うけど、なんとかそれでこなしている人、そして苦手意識があって、実際に頑張ってもなかなかうまくできない人、さらにはもしかすれば苦手意識もなく、しかもうまくもできないという人もあるかも知れません。

 もちろん定型の人にもそういういろんなレベルがあると思うので、そういう同じ「できなさ」にもアスペルガー的な特徴とか、定型的な特徴がそれぞれあるのかもしれません。よくわかりませんけど。

 関連してKSさんとみなさんのやりとりで出てきた「記憶」の共有のむつかしさという問題も、いろんなレベルがあるような気がしました。ほんとに書かれたことからの漠然とした、素朴な印象に過ぎないんですが、KSさんやjoさんの(元・現)お相手の方の場合は、かなりキツイ感じがするんです。もし私のパートナーも同じくらいに私とのズレが大きかったとすれば、お互いの関係は今より相当難しかったろうなあという気がします。

 前にKSさんがアスペルガーの人の「障がい」のレベルを、定型的な発達のものさしで考えたときに、「もしかしたら、5歳未満の大人とは夫婦関係築くのムリだけど、6歳程度にまで行ってれば大丈夫とかいう臨界点があるのか?」という見方もあり得るのではないかと書かれていました。もちろん「夫婦関係」というのをどういう基準で考えるかとか、その物差しでは測れない部分での相性の問題とか、いろんな要素が絡むと思うので、一律にすべてのケースを同じ基準で考えることは無理だと思いますけれど、でも少なくとも「このカップルの場合にはどこまでは可能か(どっから先は大変か)」というようなことはある程度ありそうな気がします。

 そうすると、アスペと定型のコミュニケーションを考える、というときに、一般的にどういうところがどんな風にずれやすいか、それに対してはどんな対処の工夫が考えられるか、ということを考えるだけでなく、それぞれのカップルのズレの大きさに合わせた工夫を考えていく、ということも大事になるのではないかと、なんとなく思うようになりました。

 具体的にはまだよくわからないんですが、たとえば同じように「記憶の共有が困難」ということがあったとして、それがどのレベルまで難しいのか、ということについて、ある程度段階を分けることができるかもしれません。そうするとKSさんやjoさんが書かれていたように、記憶の共有というのはお互いの人生の思いでの共有の意味を持ったり、約束の共有という信頼関係に関わる意味を持ったり、人間関係にとってはすごく大事なものだから、その困難さの度合いが強まるほど、それに対する工夫も難しさを増してくることになりそうです。

 そう考えると、KSさんが思い出を共有できない(無かったことになってしまう)相手と、人生を共にすることにすごい辛さを感じられたのは自然なことだと思うし、それらの結果として別々の人生を歩むという結論を得たことも無理ないことに感じます。

 他方で色んな面で私の所と共通する面を持ちながら、けれども「アスペと定型のズレ」という理解は共有できず、感覚や記憶などの共有の面でも私の所より一段大きなズレを抱えられているように感じられるjoさんの場合、おそらく私のところ以上の苦しみを抱えて頑張ってこられただろうし、それに対するさまざまな工夫もより深いものを模索されているに違いないと思えます。だから「ああ虚しいなあ」というため息をつかれるのも無理はないと思える。

 うーんと、何が書きたかったのか、というと、だからたとえばjoさんのご家庭の問題を考えていくとき、一般的に定型とアスペについて考えるレベルだけでは手が届かないところがあって、joさんと奥さんの個性的な特徴みたいなこととか、ズレのレベルのこととか、そういうより具体的なところをじっくりと見つめて考えていく必要があるのではないかという気がするという、なんかそんなことだと思います。

« 定型と非定型のバランス | トップページ | 記憶と信頼 »

コメント

「結婚してるならアスペじゃない」「就職してるならアスペじゃない」というようなことを言う医者の「アスペルガーの定義」は、「『結婚可能の臨界点』『就職可能な臨界点』を越えらることが出来ない者」ということかもしれないですね。臨界点をかなり低く設定してあるというか。

「結婚」のように「生計をともにし、一緒に色々なことを話し合い決め、協力して実行し、さらには性的関係もともにし、子育てもやらねばなrない」というような「タスク」が出来るのか、「就職」のように「言われたことをきちんとやり、同僚と雑談もし、顧客とのやり取りもし、時に気をまわして危機を回避しなければならない」というような「タスク」が出来るのか・・・ということが問題になる訳ですが、こうした医者は「それが出来ない人」を「家庭生活、社会生活に入ることすらできない深刻な障がいをかかえた人」と考えて「障がい」と定義しているのかもしれません。

「結婚」は相手や環境により、「就職」も業種や会社の文化により、条件の違いはあるにせよ、これらを成り立たせる「最低限のライン」(たとえば4歳とか4.5歳とか)というのがあるのかもしれません。

しかし、結婚は出来ても就職は出来ても、その後というのがあります。

私の場合は、子どもが生まれて「子どもに関してはひとつの結論を出さねばならない」という状況が出て来てからおかしくなりました。大人だけだった時は「それもいいね」とお互いの決定を尊重し、それぞれが自分の決定に従って生きることも可能でした。しかし、子どもについては、たとえば「保育園にするのか、幼稚園にするのか」とか「小学校受験させるのか」とか、「それもいいね」じゃ、物事が進まないですよね。子どもをまっぷたつに割く訳にもいかないし。

就職だって同じですよね。新人の間は「言われたことをやる」ですむけど、ベテランになっていけばそうはいかない。

だから、結婚しても、就職しても、その後で「越えられない臨界点と遭遇」という場合が多々あり、そこでトラブルが頻出し、二次障害が起こる・・・ということもあるのかもしれません。年齢とともに家族が増えたり介護の問題が起こったり、出世して仕事が複雑になったり・・・という中で求められる臨界点が5歳、6歳と上がって行く中で、破綻が起きる。

環境に恵まれたり、業種が向いていたり、凹の底が比較的高かったり。凸の頂点の高さが図抜けていたり、色々な条件に恵まれて、臨界点を越えなければ、アスペルガーであることは「個性」ですんだり、むしろ「可愛げ」として愛されたりするのかもしれません。

「臨界点」を越えることを求められるのは、当事者にとってもきついのでしょう。繭さんが言っていた「出来ないことを求められて苦しい」というのは、そういうことかな?と、思いました。

しかし、「臨界点以下」の者を「一方的に」支え続けるのは、定型にもムリでしょうね。結婚においても、職場においても。結婚も職場も「福祉施設」じゃないですから。

福祉施設においても「一方的に」支える関係のみではないと思いますが、「支援なしに」生きていけない・・・という、その最低ラインを越せないからこそ施設に入ってる訳ですものね。

家族でも、子どもだったり親だったりすると、きつくてもかなりの程度までの支援が可能かもしれないけど、「悪い関係の夫婦」の場合だと、要支援になってしまった時のがんばりはなかなか効かないですよね。

差別的な発言に聞こえると思いますけれど、ここ、シビアに考えないのは、かえって差別的な気がします。きれいごとじゃすまないですもん。

「出来ない=悪い、劣っている」と思ってるから、「出来ない」をハッキリさせないんですよね、結局。(>私って、やっぱりアスペ化してるのかしら? この白黒ハッキリさせる態度は、定型にあるまじき態度かしらん?)

KSさん

 「差別的な発言に聞こえると思いますけれど、ここ、シビアに考えないのは、かえって差別的な気がします。きれいごとじゃすまないですもん。」「「出来ない=悪い、劣っている」と思ってるから、「出来ない」をハッキリさせないんですよね、結局。」

 違いを明確にすること自体は差別にはならないと思います。違いを理解しなければ、どうやって違いを乗り越えてうまくやっていくかはわからないままですし。もちろん「違いに目をつぶってなんとかやっていく」という方法もあるけれど、それにも限界がありますよね。定型とアスペのズレが問題になるケースはその段階でもう限界を超えてしまっているわけだから、違いにこだわらないわけにはいかないと思います。

 差別というのはたくさんある「違い」の中から、特定の人々にとって都合の良いものを勝手に選び出して、その違いによって相手の人々を社会的に不利な状況に追い込むことなんだと思います。しかもその「違い」はその人が選んだものではなくて、生まれながらにして与えられた条件で本人には変更し得ないようなものの場合ですね。

 ただ、日本の人間関係の場合、「違い」よりも「同じ」であることをすごく重要視して、「同じだから仲間だ」と考えることで関係を保とうとする傾向がものすごく強いから、「違う」と考えること自体が相手を「仲間はずれにすることだ」という感覚で受け止められやすいとは思います。そこが実際の場面では難しいところなんじゃないでしょうか。

アスぺルガ-・・・っていうか、まあ、自閉症スペクトラムは3歳以下、2歳児って専門家に言われてますね。

名無しさん

 情報ありがとうございます。

 自閉症スペクトラムは2歳児ということですが、
 「スペクトラム」というのは定型とアスペの間に明確な線引きができなくて、
 「典型的なアスペ」から「典型的な定型」まで境目なく連続して続いている、
 ということを表す言葉だと私は理解していました。

 そうすると「自閉症スペクトラムは2歳児」という意味がよくわかんなくなるんですが、
 もしよろしければその専門家について教えていただけますか?

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/41433696

この記事へのトラックバック一覧です: ズレの大きさという問題:

« 定型と非定型のバランス | トップページ | 記憶と信頼 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ