2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« お互いの小さな工夫 | トップページ | 定型と非定型のバランス »

2011年8月26日 (金)

気遣いの矛盾

 今回はアスペと定型のお互いの気遣いの難しさについて多少順序立てて考えてみたいと思います。ちょっと考えただけでほんとに沢山の問題が見えてきて「わあ大変!」とも感じますし、でも一方では「こういうことについてひとつひとつ工夫をしていけばいいんじゃないかな」という道筋のようなものが見えてくる感じもします。

 アスペと定型の間では、自分にとって気遣いであることが相手にとっては全く意味がなかったり、却って不誠実なことを意味してしまったりすることがある、ということはこれまで繰り返し考えてきました。つまり「相手のために」と思ってすることが、相手にとっては逆の意味を持ってしまったりすると言うことです。

 そのことがお互いに理解されるようになると、まずは自分のやり方でそのまま相手に対することにためらいが出てくるようになるように思います。そしてだんだん「相手にとって喜ばれるやり方」をするほうがいいのだろうという気持ちも出てくる。

 とはいえ、口で言うほどそれは簡単なことではなくて、まず「相手は何が嬉しいのか」ということが簡単にはわからないという壁にぶつかります。少なくともそれまでの自分の人生経験の中から学んできた「これをすれば相手は喜んでくれる」という「常識的」なパターンが通用しないことがしばしばあるのですから、なかなかそこまで想像力を働かせることは難しい。少なくとも私のような凡人にはなかなか手が届かないことが多いです。

 いくら私のぼんくら頭で考えてもわからないし、また定型同士で相談したところで、結局定型的な発想しか出てこないことがほとんどですから、それもなかなか難しい(もちろん立場を変えてアスペの人同士でも同じ事になるでしょう)。ということでしょうがないから直接相手に尋ねてみる、ということをすることになります。

 そうすると次に訪れるむつかしさは、「そんなこと聞かれても、うまく説明できないよ」という場合が少なくないと言うことです。というのは、だいたいそういうことって自分自身は普段意識もせずにしたりされたりしていることなので、改めて口で説明してみろと言われても結構難しいんですね。たとえ話をすれば、自転車を乗れるからといって、自転車が乗れない人に対して口で「こうすれば乗れるようになるんだ」ということをうまく説明するのはほとんど不可能に近いようなものです。

 そこをなんとか頑張って言葉で説明したとして、その次に問題になるのは、その言葉の理解がまたお互いにずれてしまう場合が多いと言うことです。だから「こういうときはこうして欲しい」というようなことをこちらが説明したつもりでも、実際には相手はびっくりするようなときにそうしてくれたり、あるいはびっくりするようなやりかたでやってくれたりする。

 私のパートナーの場合で言うと、「こういう言い方をすると定型の相手は傷つく」と説明されたとします。で、彼女自身はそれに気をつけて話をしているつもりなのに、また相手から同じように傷ついたと言われたりする。なんでそういうことが起こるのかというと、「こう言う言い方をすると……」という説明には、実は説明している本人も気がついていないような、いろんな前提がくっついているのが普通なんですね。つまり「こういう場合には、こういう言い方をすると……」というような。しかも「こういう場合」というのは一例を挙げているだけなわけですが、ではその例にはそのほかにどんな場合が含まれているのか、ということの理解がずれてしまう。

 そうするとパートナーにとっては定型にとってどういう場合にそういう言い方がよくて、どういう場合はだめなのか、訳が分かんなくなってしまいますから、相手を傷つけないためには一切そういう言い方自体をしないという選択肢しかなくなってしまったりするわけです。

 もう少し具体的な例を挙げると、定型の相手の言ったことに対して彼女が素朴に疑問をなげかけたつもりが、相手は単に揚げ足を取られたような気持ちになったり、馬鹿にされたような気持ちになったり、激しく批判されたような気持ちになったり、果ては喧嘩を売られたように感じたりすることがある。

 定型の私からすれば、そういうときは「こういう言い方をすれば大丈夫」と思えるようなことで、そう説明しても、「どういうとき」に「どういう言い方」なのか、そこがうまく通じ合わないことがある。そうすると彼女としては気をつけているつもりなのに、また相手にショックを与えたり、反発されたりしてしまうことが繰り返されたりするわけです。そうすると定型の相手との関係を悪化させないためには、「一切相手の言うことには疑問を投げかけないでおく」というような選択肢しかなくなったりする。

 もちろんそういう一方的な「我慢」は定型の側がそうしたとしても、アスペの側がそうしたとしても、誰にとってもしんどいことなわけですし、言いたいことが言えない関係は深まりもないままですし、いずれ「我慢」が「不満」になって爆発するかも知れない。結局本当の問題の解決にはなりません。

 それでも少しずつ経験を経て、「こう言うときはOK,こう言うときはだめ」という場合分けをひとつひとつ学んでいって、なんとかうまくいくことも出てくるようになったり、あるいは幸いにして「こう言うときは」という例の理解が比較的簡単に共有できた場合、それでそのままハッピーになることもあるでしょうが、ここで新たな問題が出てくることがあります。というのは、「そこでそうやるのは、定型的にはいいのかも知れないけど、アスペ的にはとても不誠実な対応に感じてしまう(あるいは定型とアスペを入れ替えても同じです)」という場合のことです。

 定型的にはこう言うときはこうして欲しいと思う。そのことをアスペの側が理解したとして、でもそれをすることはアスペとしては不誠実に感じられれば、それをすることにやっぱり何かブレーキがかかってしまうとか、あるいは気乗りしない形でそうしても、なんとなく罪悪感を抱えてしまう。

 昨日パートナーと話していて言われたんですが、たとえば相手が怪我なり病気なりをして、ケアをしなければならない状態になったとします。定型的にはまず「わあ、痛そう!」とか「辛そう!」とかいう気持ちが湧いてきてそれと同時にケアをする、という形になることが多いと思います(もちろん、相手との関係によっては「ざまー見ろ」となる場合があるのかもしれませんが (^ ^;)ゞ)。

 で、そこで思わず「痛い?」「辛いでしょう?」とか、気持ちを共有するような言葉かけをしたり、「傷は浅いぞ!しっかりしろ!」とか励ましてみたり、そういう相手の気持ちへの働きかけがわりに自然に生じるし、そうされる側の定型もそれは嬉しいだろうと思います。

 ところがパートナーの場合はそういう感情がまず発生するのではなく、「この事態にどう対処すべきなのか」ということを考えて行動することの方が大事になる。そうやって具体的なケアをすることの中に「相手への気遣い」が積み重なっていくわけで、それ抜きに気持ちへの働きかけ、みたいな「(定型的)共感」がいきなり成り立つわけではないと言うわけです。

 そうすると、怪我や病気になった人を見て、まず「痛い?」とか「辛いでしょう?」とか、「(定型的)共感」の言葉かけをすることは、彼女にとってはむしろ不誠実になると言うのですね。だってその言葉は「心から言うこと」ではなく、言ってみれば嘘をついているようなものになるからです。「一番大事なことは適切な対処をしっかりすること」であり、それにともなって「素直に心から出てくる言葉を語る」ことこそが誠実な対応だ、と考えたとすれば、「どういうときにどんな気持ちになるか」ということに、アスペと定型のズレがあるわけですから、彼女にとってはそれが不誠実な対応だ、という思いになることは理解できる気がします。

 KSさんが以前戸惑って書いていらしたことにもつながると思いますが、「自分にとっては不誠実なことだ」と思いながら、「でもそうすることが相手にはハッピーなことだ」という矛盾した場面で、それでも「まあ相手が喜んでくれることだからそうしてもいいんじゃないか」と思えるようになったり、あるいは「相手が喜んでくれることだからむしろそうすべきだ」と素直に思えるようになったり、そういう変化が起こることってあるんでしょうか?あるとすればどうすればそんな風に変化するんでしょうか?


 
 

« お互いの小さな工夫 | トップページ | 定型と非定型のバランス »

コメント

〉カレンさん

先日の件…一概にうちと逆という訳ではなかったのですね!
カレンさんの努力プラス2人の歩みよりの結果なんだと思いました。

〉パンダさん
体調よくなってきましたか?!
パンダさん、病気や怪我をした時の例えなど…
程度や状況にもよるし、定型の基準というのも様々あってよくわかりませんが、パンダさんの奥さまは手当てをしてくれるのであれば、言葉はなくてもそれで充分なんじゃないでしょうか???
痛い?辛い?かわいそうに…大変でしょう?とか、何年も生活を共にしている夫婦で、そのような言葉が飛び交っている家は逆にあまりないと思います。
と言いながら、でも、パンダさんの気持ち何となくわかります。
パンダさんは単純に言葉や気遣いが欲しいわけではないと思います。
(違ったらごめんなさい!)
結局、普段から何気ない会話があったり、少々でいいから、ふっとした時、たまに、(ああ、なんだ自分の事ちゃんと考えてくれてるじゃんという)気遣いのようなものがあれば、体調が悪い時にまで今日のような記事は考える事もないんじゃないでしょうか。
パンダさんの奥さまは孤立型でしょうか?私の主人は完全孤立型ですが、主人みたいなタイプだと、言葉をちょうだいするには、
「気にかけて欲しい」とか「寝込んでいる時は不安だから、大丈夫?とか優しい言葉をかけて欲しい」と頼めば、答えてはくれます。
ただうちの場合は、そう伝えたら、「大丈夫?」「大丈夫?」と大丈夫?だけ頻繁に聞いてくるようになって→心こもってない+具合悪いために逆にウザったくなってしまうので→「(主人が)寝るまでの間で、2時間置き位に「大丈夫?」と声をかけて欲しい」と具体的に頼んだりします。そうすると主人は、時計を見ながら本当に2時間置きに「大丈夫?」と声をかけてくれます(笑)
これだけでは、状況も案配も気持ちもわからないようです。
もっと書かせてもらえば、主人から言えば、その案配が解らない理由は上記のように、私が「声を掛けて欲しい」…と言ったり、逆に「具合悪いから放っといて!」と怒ったり、寝てたり…どうして良いかイマイチよくわからない…と理由をつけます。(これも主人からはダブルバインドになるのでしょうね)
ですから、私は2時間置きとか、主人が寝る前に一度とか、状態によって具体的指示系でお願いをする形にしました。
そして、その通りになされた時はありがとうといいます。(一貫性を守ります)

心配して(同情・共感)…という事については、ホントに酷い辛い(重大)と目に見えて判断できた時でなければ同情や共感、心配は得られないです。
私の甘えやごまかしは審査がきびしく一切ききません。

でも、実際酷い場合であっても、孤立型の主人は気にしてもいない、見てもいないのでわからないという前提があるので、わかってもらうには最初から難しいのですが、こちらから体温計を見せて説明してお願いしたりすれば心配してくれますし、胃の激痛の時はのたうちまわるので、うるさがられたりしますが、そんなんでは病院に行こう…と連れて行ってくれたりします。(←ここら辺がパンダさんの記事に重なります。痛くて酷いのはわかった、でもそれなら騒がれてもオレはどうにもできない、それなら病院に行こう)→(大丈夫か?とかないんです。でもそんな時は、こちらも…大丈夫、なんて答えれる場合じゃないですからね、私はそれで妥当だと思います)

私は主人と出会った年から、ストレスから夜間の胃の酷い激痛が年に一回程度忘れた頃にやってくるのですが、今はお互い慣れたもんで、胃痛が徐々に始まってやばくなりそうな感じになってくると、主人は気にかけ、薬を飲むか聞いてきたり、最悪夜間病院に連れていける準備をしておいてくれます。

私の意思表示は絶対必要ですが、主人の対応は
悪く言えば、甘えは一切きかない、
良く言えば、判断し現実的に対処してくれるという感じでしょうか…。

私の場合は別に同情して欲しい訳でも具合悪い時に優しい言葉をかけてもらいたい訳でもありません。
・もしこのまま私が倒れても主人は暫く気付かないんじゃないか?しかもTVやゲームごときで…という理解しがたい不安と、
・具合悪い時くらい、一回位こっちを見てよ!?なぜ常に自分以外は透明人間なのか?という2つから、意識づけや意思表示のためにこのような具体的な指示系のお願いをしたりします。

パンダさんちとも少し違うような、同じような?

子供が寝込んだりした時は、無関心な主人の行動に更に更に困惑しました。

私がアスペルガーというものを知ったのは別居した後だったので、今思うと、パンダさんが書かれているとおりのやりとりを繰り返していました。夫が具合が悪いとき「大変だね。大丈夫?」と言えば、「熱があるんだから大丈夫じゃないに決まってるよ。」というような反応に何か自分は悪いことを言ったのだろうかと落ち込んだり、私の具合が悪いときに夫を冷たく感じたり。1年ちょっとの生活でしたが、アスぺを知らずとも私なりに学んで、具体的に「水を持ってきて」とか指示をすれば言われたことはやることは分かりましたが、渋々やっているように見えて淋しかったものです。
そのあたり、みみさんは徹底していて、すごいですね。
でも、子供さんのときには困惑したとのこと。私は、子供が入院したときの夫の対応が許せませんでした。今では、夫は本当に悪気がなかったと分かりますが、分かっていても今後また同じような対応を目の前で見せられたら、同じように腹がたったり落ち込んだりすると思います。定型も、学習はできても、こうした感覚自体を変えることは難しいんじゃないかな。だからこそ、みみさんはすごいなと思うんですけど。パンダさんも。

私は貧血があって、たまに倒れたりするのですが、そういうとき声をかけてもらったり手を握ってもらうと、本当に遠くなった意識が戻ってきて、気休めではなく効果があると思うのですが、アスペルガーの人にはそういう効果は実感できないものなのでしょうか?
病院内で倒れたときは、お医者さんが手を握って声かけしてくれたので、多分、医師のマニュアルにもあるのだと思いました。気を失ってるときと具合が悪くて寝てるときでは、また違うのかもしれませんけど、ふと疑問に思いました。

>「自分にとっては不誠実なことだ」と思いながら、「でもそうすることが相手にはハッピーなことだ」という矛盾した場面で、それでも「まあ相手が喜んでくれることだからそうしてもいいんじゃないか」と思えるようになったり、あるいは「相手が喜んでくれることだからむしろそうすべきだ」と素直に思えるようになったり、そういう変化が起こることってあるんでしょうか?

そういう変化はあります。

「あります」と断言するのもどうかと思い、ちょっと他の言葉も考えてみましたが、実際にうちではそういう変化が起こってきているのに「ない」と言ってしまうと嘘、「あると感じる」あると思う」というのも、それこそ不誠実だなぁ、と思い、そのまま率直に書きました。

そして、このことは、ついさっき、別のパソコンでこのパンダさんの文章を読んでいた夫にも尋ねてみたのですが、「(そういう変化は)ある。100%ある!」と言っていました(100%という表現が、いかにも夫らしい・・・笑)。

>あるとすればどうすればそんな風に変化するんでしょうか?

ここは、私の答え方で表現すると、これまでに、このパンダさんのブログの中でも書かせていただいたような過程があるから・・・という、ちょっと曖昧な表現になるのですが、

夫に尋ねると、「そうした方がメリットがあると確信したから」「カレンさんにとってメリットいいことは、結局自分にとってもメリットがあると確信したから」だそうです。

数年前までの私であれば、「結局自分のことしか考えてないのね(怒&悲)!」となっていたと思うのですが、今は、夫の言うことがよくわかります。「夫にとっていいことは、結局私にとってもいいこと」と思うようになっています。

ここで、以前KSさんからお尋ねがあったこととも関連するのですが、

現在、夫と私の関係は、一般的に言われるような「定型がアスペルガーの人をサポートする」という形とは全く異なるものです。

2週間ほど前から、何度か夫とも話を重ねてきていますが、私のイメージとしては「心臓と肺」、夫のイメージとしては「車の両輪」「2つの滑車で動くものの、その2つの滑車」。さらに話を重ねたところ、要するに「どちらも順調に動いていれば、全体が順調に運ぶ」「どちらかが、うまく動かなくなると、全体の動きが悪くなる」というようなことで意見が一致しました。

それから、「非定型の彼の○○がいいよね」ですが、以下に順不同で列挙してみますね。

(パンダさんがおっしゃるように、「非定型だから」なのか「その人だから」なのかの区別がつかないところもありますが、そこのところは、ほんと、厳密な区別は難しいので、ご容赦ください・・・m(__)m・・・)


○ 自分自身の中に「絶対に揺るがない何か=命」のようなものを持っている。

*本人は当然のことと思っているので、気がついていないようですが。これは、昔、ある人に、夫の魅力を尋ねられたときに私が即答した内容です。

○世間一般の常識にとらわれずに、客観的に物事を考えることができる。

○「なんとなく」という感覚ではなく、何か結論を出すには明確な理由・根拠がある。

○(誰にしても多かれ少なかれあることではあるけれども)私とは全く別の視点を持たせてくれる。

○人の思惑や感情を気にしない分、物事の決断や仕事が速い。

○夫を見ていると、物事の必要最低限のラインがわかる。

○政治・経済・スポーツ・娯楽等々、社会の流れや情勢をとてもよく知っている。

(*とにかく、文字が好き。本・新聞・ネット・広告等々、興味・関心のあることについては、ありとあらゆる文字をあっと言う間に読んでしまい、理解して知識となっている・・・←このへんは、表現が難しい! とにかく、私から見ると、読むのがものすごく速いんです、夫だけでなく娘も息子もですが。)

○もともとの明るい&前向きな性格が、アスペルガーによって、より前面に出ている。

○以上のようなことも含めて、私とは全く違った視点・思考パターン・言動を子どもたちに示すことができる。

(*子どもたちは、アスペルガーと定型の、両方の視点を持つことができる。あるいは、それら取捨選択し、それに自分たち独自の視点を考え方を持って世界を広げて行ける。)

・・・・と、まあ、今思いついて、書けるだけのことを書いてみました。

もちろん、言うまでもなく多くの悲惨な状況もあったわけですが、今回は「いいよね」の部分だけ。

まだあるような気がするのですが、今、時間がありません。また思いついたら、追記しますね。

おひさしぶりです。

ブログは毎日のように見ています。
コメント欄もしっかり読んでいます。

私が病気をしたり怪我をした時の夫は「病院へ行け」です。
でも私が待ち時間や持病との兼ね合いとかを考えて
「家で休みたい」を選択すると、
夫の中で「病院へ行かない」→「普通の状態」と
変換されるみたいなのです。
実際はちょっと違うらしいのですが、こちらとはしてはそういう風に
感じます。

「ご飯は?」「○○はどうすればいいの?」と何度も聞いてきたり、
ネットやゲームに集中して子供をみてくれないので
子供は私のところに来てしまい、ちっとも休めないとか
ある意味「気合で早く治さねば!」と思えていいのかも(涙)

だけど、そこを指摘すると「じゃ、病院へ行けよ」になるので
調子が悪い時は夫と話すのを控えます。

今は調子がいい時に、私の具合が悪くなったら
「ご飯は丼物じゃない物を私と子供の分も買ってきてほしい」
「2時間は横にならしてほしい」とか言ってます。

病気の時に何かしてほしいのならば
上記のようにメモでも渡しておけばいいのですよね。

でも、何かを言ってほしいとか何かをしてほしいというよりも、
「もっと優しくしてほしい」とか
「不安な時に手を握っていてほしい」とか
とっても主観的で夫に分かってもらいにくい部分、
気持ちの問題なんだと思います、私の。

普段は夫との違いをだいぶ認識できるようになってきてるのに
病気の時には「普通」というのが顔を出します。
「普通、私を心配していたらこういう事にならないよなー」
「普通はもっと心配するよなー」と。

夫に心配する気持ちがないワケじゃないというのは
わかっています。私に対しての伝え方が違うというのも。
そして、時差があるのも。

だいぶそのペースがつかめてきたと思うのですが、
病気の時はそんな余裕もなく・・・。
早く回復する為にとりあえず2時間でも
布団にもぐって寝るに限る!と思っています。

>カレンさん

ありがとう! 「うまく行ってるカップル」のイメージが少し掴めてきました。

「定型×非定型」のうまく行ってるカップルには「定型×定型」では体験できない「良さ」もある、というのはステキなことですよね。弟たち見ててもそう思う。

「定型×非定型」は「うまく行かないこともないけど、それは定型側のガマンや技術によって成立する」というのって、なんか違うなぁ・・・という気がしてるんですよね。だって、それじゃ「一方的な介護ぢゃん」と思う。基本形は「多少の苦労はしてもあまりある魅力ゆえに惹かれ合う2人」なんじゃないかなぁと思うので。

アストン博士の「カサンドラ症候群」のワークショップは、「傷ついてる人をまずは癒す」が目的だから、「あれれ?」と思うくらい、ASに対して否定的?という感じがしました。こんなことされれば、あなたが傷ついても当然なのよ、と。

(もうひとつの「定型×非定型カップルとして生きる人向け」のワークショップの方だとASの良さが強調されるのかもしれません。カレンさんの場合はこっちに出る方がいいのかも)

カレンの夫さんの「ASゆえの良さ」は弟やJちゃんの「ASゆえの良さ」ともかなり通じる気がします。

○ 自分自身の中に「絶対に揺るがない何か=命」のようなものを持っている。
→これは弟に一番あてはまるかな? 元夫は若いころはそう見えたし、そうだったけど、その後の職業生活の中でそれを失って漂流している感じ。Jちゃんはその中間かな? 母は一見これがありそうに見えるんだけど、本当はない気がする。なので、「これは正義」と安心出来ると過剰に攻撃的になる。

○世間一般の常識にとらわれずに、客観的に物事を考えることができる。
→これは昔の元夫にあてはまるかも。今はなんかヘロヘロで「客観的」というよりは、むしろ客観性を失ってるかも。母は一見そう見えるけど、根っこの部分で不安もありそう。

○「なんとなく」という感覚ではなく、何か結論を出すには明確な理由・根拠がある。
→アスペ寄りな感じのする息子に一番あてはまるかも。

○(誰にしても多かれ少なかれあることではあるけれども)私とは全く別の視点を持たせてくれる。
→Jちゃんはそんな感じ。アスペ寄りな感じのする息子はすごくそう。最近よく怒られるんだけど、息子の言うことはもっともだなぁと思う。

○人の思惑や感情を気にしない分、物事の決断や仕事が速い。
→Jちゃんは一応「調整役」も勤めるけど、仕事は速いなぁ。逆に弟は「こだわり」が強すぎて仕事は遅いです。元夫も思惑を気にしないがゆえにいい仕事をすることもあるけど、思惑を気にしないがゆえのトラブルで干されることも多い。母は「闘う」となったらすごいし、仕事も的確で速い。

○夫を見ていると、物事の必要最低限のラインがわかる。
→これはアスペ寄りな感じのする息子にあてはまるかな?

○政治・経済・スポーツ・娯楽等々、社会の流れや情勢をとてもよく知っている。
→これはJちゃんにあてはまりまくり。「歩く辞書」とはこのことか!と思う。元夫についても、「流れの本質をつかむ」力がすごいと思う。弟は遅いけど、専門の分野については良く知ってるし、ニュースなどについてもよく押さえてる。母もニュースに強いなぁ。

○もともとの明るい&前向きな性格が、アスペルガーによって、より前面に出ている。
→これは、カレンの夫さんの最もステキなところですね。元夫は悲観的で世を恨んで生きている。すべてを他人のせいにする。母は世の中とのズレから来ると推測される「くったく」がある。Jちゃんも多少悲観的なとこがあるかな。弟はマイペース過ぎで、「明るい」とか「前向き」というところとは別次元にいる感じ。

○以上のようなことも含めて、私とは全く違った視点・思考パターン・言動を子どもたちに示すことができる。
→なるほど〜。元夫は昔は多少そういうところあったけど、今は反面教師みたいな感じかなぁ。息子も高校途中くらいまでは元夫のこと尊敬してたけど、今は失望している。息子はJちゃんからは大学受験に際して貴重な助言をもらってます。母は「とにかく有能」という点では息子から尊敬されてます。「娘の心にナイフぐさぐさ」な点については息子もあきれてるけど。

払った犠牲の方が大きすぎたし、元は取れないけど、ここ数年の間に学んだことを、Jちゃんとの友情や、弟との家族愛に生かしていきたいと思ってます。Jちゃんに対してはJちゃんが「何かやってる時には話しかけない」「定型的な反応を期待しない」「余計なことは言わない」など、私なりに新しい気遣いをするようになってます。母とは「いい関係」は難しいかなぁ。「マシな関係」ぐらいですかね、目指すのは。

元夫との今後の調停では「息子に財政的被害が及ばないようにする(父親として財政的責任を果たしてもらう。息子に行くべき財産を少しでも余計にこちらの手元に残す。あちらに置いとくと使われてしまうから)」というのが私にとって最大の課題なので、私の場合は、みなさんとは異なり、「分り合う」ではなく「子どもを守る」という目的のために「定型×アスペ」のコミュニケーションの「技術」を学ぶことが必要なんですよねぇ。

 みみさんによって、私が実は未だに子どものように甘ったれであることが暴露されてしまいました (^ ^;)ゞ だからアスペルガー的な関わられ方に寂しさをとくに強く感じてしまうのかも知れないですね。
 でもチロさんやみおさんもお仲間のようなので、ちょっと安心……していいのかしら?

 で、チロさんの

 「でも、子供さんのときには困惑したとのこと。私は、子供が入院したときの夫の対応が許せませんでした。今では、夫は本当に悪気がなかったと分かりますが、分かっていても今後また同じような対応を目の前で見せられたら、同じように腹がたったり落ち込んだりすると思います。定型も、学習はできても、こうした感覚自体を変えることは難しいんじゃないかな。」

 ということなんですが、やっぱり自分については我慢できることでも、子どもについては我慢できない、ということはすごくあるような気がします。ここはjoさんもみみさんもチロさんも私もみんな共通している感じですよね?それって何でなんでしょう?改めて考えてみるといろいろ大事な問題が出てきそうな気もします。

 「定型も、学習はできても、こうした感覚自体を変えることは難しい」という点については、私もやっぱりそうだと思いますね。体に染みついてしまった感覚というのは、そんなに簡単に変わるわけではない。好き嫌いの例でいうと、私、食べ物の好き嫌いは少ない方かも知れないけど、「昆虫」は苦手なんですね。地方によってはイナゴの佃煮とか出てきたりするんだけど、頭では「これは立派な食べ物だ」と思っても、あのぎょろっとした眼を見ると、なかなか箸をつけられません。酔った勢いで生まれて初めて蛙を食べたときも、翌日はなんかお腹の中で蛙が跳ねているような変な感じが残り続けたりしました。でもヨーロッパの人が気持ち悪がるらしいタコとかは平気でおいしいと食べますしね。

 蛙についてはその後食べる機会が何度かあって、数年後には「おいしい」と思って食べることも出てきました。だから絶対にいつまでも変わらない、というものでもなさそうです。ただ変化するにしてもすごく時間がかかるのかも知れない。人にも依るでしょうけれど。あと、子どもの頃に食べられなかった物が大人になると食べられる、とか好きになる、ということもありますね。逆に子ども時代にとても好きだったものが、大人になるとダメになる場合もある。あれ、体質の変化かなんかなんでしょうか?味覚が変わるみたい。

 ……って、食べ物の話ばっかりですね。人間おいしいものが食べられれば結構幸せとか思う方なので (^ ^;)ゞ

 ということで、話を食べ物からちょっと離すことにして、みおさんの

 「普段は夫との違いをだいぶ認識できるようになってきてるのに病気の時には「普通」というのが顔を出します。「普通、私を心配していたらこういう事にならないよなー」「普通はもっと心配するよなー」と。」

 この話、リアルに「そうそう!」とか思ってしまいました (^ ^;)ゞ
 やっぱり頑張って違いを理解している、ということがあるから、病気の時のように気弱になって元気がないときにはその頑張りが効かず、元から持ってる「地」の部分がまた顔を出してくるんですよね。もしかするとカレンさんの場合なんかはその「地」の部分にまで完全に変化が起こってしまっているのかも知れなくて、すごいなあと思いますけれど。
 
 で、そういう弱っていて、余裕がないときにはほんとに「普通、こうだよなあ」という愚痴のような思いがつい頭をもたげてきます。「普通の人」という多数派を思い出すことで、弱っている自分を守ろうとしているのかも知れません。そう考えると、そうなるのはある意味で当たり前の「普通のこと」なのかも……

 まあ、でもアスペの人から言えばその「普通」は別に普通でも何でもなくて、逆に「苦痛」だったりすることもあるのでしょうから、なんとかそのズレを調整していかないといけないわけですけれどね。いろいろ難しいですね。


 

うちの例)や、主人を説明するために、またお説教まがいな事を書いちゃったかもしれませんが、(パンダさんごめんなさい〜)
パンダさんの感覚も、チロさんやみおさんの感覚も、ふつうなんだと思いますよ!
ただパンダさんの書いてるふつうは…の普通の部分は、時々ちょっとドラマの見過ぎ!と思ったりします(笑)
私だって今でもみなさんと同じ気持ちがありますよ!
的確なロボットじゃない訳ですから、主人の感覚に惑わされながらも、自分の中ではそういうファジーな気持ち(多少の甘え)はいつも忘れず持っていたいものです。

チロさんの書いてる事もみおさんの書いてる事もうちの主人と全く同じです。
みおさんの病院に行かない時の話…同じ。こちらが寝込んだ時の話…同じ…(ため息)
ゲームやTVにハマっていて、「おっ!ようやくこっち向いた!」と安心すると、
「今日のメシは?…マジかよ…あっそ」と言ってまたTVに戻り、何か適当に食べて、お風呂に入り、「寝るよ」とも言わず寝てしまう…
えっ?私は?子供は?って感じですよね。何も気にもならないから暴言やDVも起きないんでしょうね、きっと。それが救いですけどね…。
「あなた昨夜はいくらなんでもちょっと酷いんじゃない?呆気にとられてショックだったわよ」と言うと
うちは「何が?」「あ、あーごめん。忘れてた」とか言うタイプですから。
忘れてたって、どういう意味でしょうか?と理解不能になっちゃう訳です。
(よく聞いて見れば、日本語の使い方の間違いで、そっとしておいた方がいいかと思ったという意味だったんですが)
聞けばそう答えますが、真相は未だにわかりません。
昔は、めんどくさかったから…と言うのが失礼だから、とっさに「忘れてた」と言ったようにも見えたりします。
「私はそれよりも、一声かけてもらった方が嬉しいからそうしてくれ」という事を伝えれば、そのようになされます。
(ロボット的です)
私の場合も、そのやるせなさで更に具合悪くなるのではなく、子供もいるし逆に「自分は寝てられない」と、あくまで力の源になっていたような気がします。
みなさんもそんな感じだと思います。
子供がいなかったらどのような経過を辿っていたのか計り知れません。

主人が変わった事と言えば、「自分のそんなような部分は確かによく考えれば悪い」とは思うようで、少しづつですが相手を視野に入れる部分が見えてきた事です。

相手の気持ちなどに対して、
でも、言われなければそんな事は考えなかった、と言います。「じゃあ言われてどうしてそう思えるようになった(心の変化)の?」と聞けば「やっぱりお前が長年そんだけ何回も同じ事を言うんだから、そうなのかな?と思った」と答えます。
ここら辺が私が主人をアスペだと思う理由です。
言われてわかった?言われなきゃ考えなかった?私が何回も言うからそう思った、だけ?自分でそう思わないの?「思わない」と答えます。
「じゃあどうして悪いと思ったの?」
「お前が長年そう言うから…」
あとは同じ繰り返しです。
私には改めて考える事ではないごくごく当たり前の感覚が、主人は全てこんな感じです。
空想で、その時の相手の気持ちを自分に置き換えたりする事がほんとうにできないんです。

でも、最近は相手の立場に立って考える事は少しづつですが実際できています。
今までなかった概念?が発生してきた…という感じです。だから、能力が無いわけではなく、概念がなかったのでつちかってきたもの(意識・感覚)がなかった…という事です。
考える事が苦痛のように見えますが、一生懸命自分と相手を引っ返して考えてくれます。

でも、私は主人に明るく健全であってほしいので、悩ませる求める事は殆どやめました。あまり悩まず生き生きしてもらいたいから!

色んなタイプや程度があって、難しい問題ですが、パートナーの方もそれぞれのやり方や思いがいろいろあるのだと思います。

> KSさん

こちらこそ、ありがとうございます!私が書いたこと+KSさんの身近な方の観察・分析を書いていただき、とても興味深く読ませていただきました。

上で書いていなかったことで、あと2つ「いいよね」を思い出したのですが、それは

○夫は本当に思ったことしか言わないので、本音を探ったり、へんに気を回す必要がなく)て、KSさんが弟さんのことで言われているように「ラク」。

(*定型にありがちな「表では○○と言っているのに裏では△△と言っている」というのは、私自身、大の苦手。特に表ではいい顔をしておいて、裏で悪口・誹謗・中傷するのは、私の最も嫌うところです。「言うならきっちり公の場で言うか、言いたい相手にきちっと言う」というのが、昔から好きです。)

○夫のやったことは、基本的に自分で「しよう」と思ってしたことなので、反省はしても、へんに後悔したりうじうじしたりすることがない。自分のしたこと(と意識していること)については、人のせいにしない。

(*以前は、私これでたくさん失敗してるんですよね~・・・職場でも家庭でも。「人のため」「家族のため」「体裁を整えるため」みたいなのが、今思えばとても多くて、「私は人のためにこんなに頑張っているのに」とか、「○○のためにやったのに」「なんで私だけ」のような意識が強かったです・・・(^^.)・・・)

ところで、

>Jちゃんに対してはJちゃんが「何かやってる時には話しかけない」

を読んで、何年も前からずっと疑問に思っていることと重なったので、どなたか教えてください。

これ、うちの場合、私がJちゃんみたいな感じです。例えば今のように、文章を考えているときに話しかけられると、「文章つくり」と「会話」は同時には成立しません。文章つくりを中止して話をするか、文章つくりに専念するために「今、会話は無理」と相手に言うかのどちらかです。

夫は、文章を作りながらでも本を読みながらでも会話ができるし、話をしながらテレビのニュースを聞くということもできるらしく、それができない私を不思議がるんですよね。

私の場合は、音楽を聞きながら話すとか文章を作る、とか、運転しながらラジオを聞く、
家事をしながら会話をする、などということはいくらでもできるのですが、「言葉」と「言葉」はどうしてもどちらかに集中するので、両方はできない、

でも、夫は、私から見ると、まるで左脳が2つあるか2倍あるかのように、2つ以上の言葉の聞く・話す・書くが同時にできるのです。

その反面、夫には注意・関心のないことがらについては、ササッとシャッターが下りるようで、「聞いてない」状態にもなるのですが、それは夫によると、複数のことを同時に聞くのも1つに絞るのも、全く聞かないのも、完全に自由自在だということなのですが。

私のように「言葉」と「言葉」が同時には成立しない、というのは、定型的なことなのか、アスペルガー的なことなのか、それとも、そういうこととは関係のない、全くの個性なのでしょうか?

ちなみに、何年も前に友人たちに尋ねてみたら、その時には、できる・できない、がちょうど半々ぐらいでした。

カレンさん

 「私のように「言葉」と「言葉」が同時には成立しない、というのは、定型的なことなのか、アスペルガー的なことなのか、それとも、そういうこととは関係のない、全くの個性なのでしょうか?」

 私の昔の賢い上司が、会議で別の書類を読みながら同時に議論に加わっていたり、あるいは学生時代にすごい賢い友人が、やっぱり何かを読みながら私と会話を継続したりしていて、そのときは私はびっくりしてましたし、そういうのはできませんでした。

 ところが気がついてみると、いつの間にかぼんくらの自分もそういうことができるようになっていました。新聞を読みながらテレビを聞きつつパートナーと簡単な会話をする、というようなこともしたりするので、そうすると彼女は私が新聞を見ているからテレビは見ていないと思ってチャンネルを勝手に変えてしまうようなこともしばしばあって何度かトラブリました(^ ^;)ゞ 予め話すことがだいたい決まっているようなことなら、話しながら頭では別のことについて思考したり、ということもあります。
 
 逆にパートナーの方は本を読んだり料理をしたりしている時など、何かに集中している時に話しかけられるのを嫌がります。そのあたり、カレンさんとちょっと似ている感じかも。

 ということで、そこは定型かアスペか、ということより、個性もあるでしょうし、経験とか、ある種の訓練とかも効いてくるのではないでしょうか。言葉ではありませんが、ピアノを弾く方だと、複数のメロディーラインを同時に意識しながら弾いたり聞いたりとかもできるみたいですね?そういうのは訓練が効いている気がするし、なんかバッハなんかは即興で6つのメロディーラインを持つ曲を演奏したとか、何かで読んだことがありますが、そこまでいくと個性(才能)なのかな。そういうのもある意味言葉と同じようなことかも知れません。

 

 

パンダさん、ありがとうございます。

>新聞を読みながらテレビを聞きつつパートナーと簡単な会話をする

このぐらいだったら、私もできてるかなぁ? ただし、「拾い読みしながら、拾い聞きしながら、簡単な会話」ですけど。あ、ちなみに、井戸端会議も普通にできます。

夫や子どもたちは、「きっちり文章つくりながら、きっちり別の会話も普通にする」「しっかりテレビを見ながらしっかり勉強も進んでいる」「しっかり読書しながら、しっかり会話もできる」ので、なんか時間を有効に使えていいなぁ、なんて本当に思いますね。

夫からは「両方一緒にした方が時間の有効活用ができるじゃん」などと言われますが、そんなこと言われも、「う~、私には無理・・・(・・;)・・・!」

ピアノは、高校時代まではバッハも含めていろんな曲を弾いていたので、ピアノでは私もできます。なので、その例だと「なるほど、訓練か」と納得することもできますね。

ちなみに、子どもたちは(娘も息子も、「言葉」と「言葉」両立できる)いつもリビングにいるので、テレビ・会話・勉強・読書等々、みんがてんでバラバラ&いっしょくたになってやっている状態に慣れています。それがずっと普通だから、それが自然と訓練になっていたのかも???  

KSさんの質問にカレンさんが答えた「非定型の○○なところがいい」について、私の夫にあてはまるものがほとんどなくて考え込んでしまいました。夫に対する私の目が曇っているのかもしれませんが、仕事や決断は遅い、世間体に囚われている(周りにどう思われるかは気にしてないようですが)、世の中のことを意外と知らないなど正反対に思える部分もあり、本当に一筋縄ではいかないと思いました。もともと、カレンさんの夫さんは私の夫とは違うタイプだとは感じてましたが、改めて。

そして、こんなに夫の欠点なかり並べ立てて、私は一体夫の何がよくて結婚したんだろう?という疑問に戻ってしまいます。これは、ウツになったときにグルグル考えすぎた疑問で、一応のところ「人は間違うこともある」という結論で落ち着かしているのですが、本当に謎です。裏が無いというのは確実にありましたけど、裏が無い人なら定型にもいくらでもいますからね。自分に無いものを持っているような感じはあったかな。ま、この問題は、時間が経てはわかるかもしれないし、一生わからないかもしれないし、気長に持っておこうと思います。

それにしても、ここまで違うのに、同じアスペルガーであると思ってしまうのはなぜなのか、私なりに考えてみました。
アスペルガーを知らないとき、私が夫を合わないと感じる理由は、いくらでも思いつきました。B型(私はA)、都会育ち(私は田舎)、理系、バブル世代などなど。あるいは、自己中、男尊女卑、エリート意識。それか、私の自信の無さ、ひがみ根性、心の狭さが原因かも。
けど、そういった性格や育った環境や価値観では説明できないものがありました。夫はサリーとアンのテストに正解できないのではないかと思える部分です。(その当時はサリーとアンのことは知らなかったので、私は夫のことを「トンチンカン」「1たす1が2にならない」「国語ができない」と表現してました。)

そこに友人から「それってアスペルガーじゃない?」と言われて、最初は「まさか…」と思いましたが、ウツのときの主治医に夫の言動を話してアスペルガーじゃないかと疑っていると言ったら、「その可能性はある」と言われ、「ああ、そうだったのか。」と。

職場にも、頭が悪いとかヤル気が無いとかでは説明のつかない、ありえないような仕事ぶりの人がいて、その人もアスペルガーで考えてみたら納得できました。
私の場合は、自分の理解の範囲を超えている部分をアスペルガーで納得してるところがあります。だから、タイプが違う配偶者のことも、みんなアスペルガーで納得してます。

そして、自分のことは、まず、アスぺであろう夫と全くかみ合わないということで自分は定型だと思っていて(←これ、かなり客観性を欠いてますね。)、さらに、サリーとアン・テスト的なものが理解できること(もっと複雑になっても正解する自信がある)、鋭い感性や独特な感覚からは程遠い俗物であることから、アスぺではないだろうと自己判断してます。

今でも、夫はアスペルガーではないかもしれないと思うこともしばしばありますが(何しろ、「これがアスペルガーです」というのを本やテレビでしか知らないので。)、私の「人とは大体こういうものだ」という思い込みの範疇から夫が外れているのは確実。
ここで、いろんな人のいろんなケースを知ることができて、別の考え方や味方があることが分かってよかったです。
私も、KSさんと同じく、離婚の方向ですが、子供の親としてまだまだ付き合っていかなければいけないので。


夫以外に、アスぺらしき人は知人や職場にはいたけど、あまり深い付き合いではないので、

すみません。上のコメントの最後の一行「夫以外に…」は無視してください。
なんか書きかけてたのですが、話が散漫になって、消したつもりが消し忘れです。

>カレンさん
○夫は本当に思ったことしか言わないので、本音を探ったり、へんに気を回す必要がなく)て、KSさんが弟さんのことで言われているように「ラク」。
→元夫は、ここ違うなぁ。息子が元夫への信頼を捨てたのは、この点でした。ある人に「いや〜すごいですねぇ」と言い、その場を離れたとたんに、「あんなやつはダメだ」みたいに言ったので。あ、でも、元夫も最初は「思ったことを言う」という感じでした。私が最初に夫に惹かれたのはその点でした。
Jちゃんは、「おいおい」というくらい本当のこと言うので、時々とまどうけど、最近、「あぁ、この人は思ったことをそのまま言うんだ」と思って、対処しています。母の「おいおい」には傷つくことが多い。Jちゃんのはそうでもない。なんか「本当のこと」のツボが違う感じ。弟は裏表はないタイプだけど、「おいおい」というような発言はない。

○夫のやったことは、基本的に自分で「しよう」と思ってしたことなので、反省はしても、へんに後悔したりうじうじしたりすることがない。自分のしたこと(と意識していること)については、人のせいにしない。
→ここもカレンの夫さんの良いところの中で、私がいいなぁと思うところのひとつ。カレンの夫さんって、男らしいよね。すごくステキ。
元夫は正反対。すべてを他人のせいにします。母も闘うとなったらすごいけど、そこの手前の場面では、なんかウジウジしてる面もある。たとえば母は自分の「好み」に、すごく自信なくて、よそのお宅を訪問する時のお土産ひとつ買うのに「これでいいか」ってしつこく聞いてきたりするのよね。どこかで自分がKYじゃないかっていう気分があるのではないかと推測するんだけどね。
弟はいつでもマイペース。やりたいことを、やりたいように、やりたいペースでやって、まわりがヤキモキしても、「は、それがなにか?」という感じ。それでまずいことになっても誰かを責めたりは絶対にしない。

「Jちゃんが何かしている時は話しかけない」問題については、私自身は「ながら」が苦手。

TV見ながら編み物とか、音楽聴きながら料理とかの「手を動かす」は大丈夫だけど、「読む」「書く」とは「ながら」が両立しないの。

うんと軽い読み物なら音楽かけても大丈夫な場合もあるけど、基本は静かな方がいい。あ、でも、音楽かかってる喫茶店なんかで小説読んだり手紙書いたりは平気。なのに、自分で選曲してCDかけるとダメ。自動車の音とか、人の気配や、内容が分らない程度の話し声なんかは大丈夫。受験生の頃は自宅より図書館の方が勉強はかどりました。(このあたり、なんか我ながら「ヘン」な人だなぁ)

メールチェックしてる時に息子に話しかけられると、軽い話題ならある程度ついていけるけど、「上の空で聞いてるでしょ!」と息子に言われてしまうように、半分くらいしか聞けません。でも、料理しながらなら大丈夫。

カレンの夫さんの「技」は羨ましいなぁ。ほんと、人生効率的に生きられそう。

カレンの夫さんからの助言により、「Jちゃんが忙しい時には放っておく」というのも、最近の「技」で、これによって私自身がかなりラクになりました。Jちゃんからは「普通こういう時は返信するっしょ」という時にメールや電話がなかったりで、以前は「はぁぁぁ??」となってたけど、それって仕事に夢中になってたり、体調悪かったりする時がほとんどなので。

Jちゃんのこの仕事への集中力や病気の時は「まず自分を治す」に専念するところもJちゃんの良いところかもねぇ・・・と思えるようにもなり、「待ち」の姿勢で臨むようになりました。どうしても困る時はカレンの夫さんの助言に従って「返信無理というだけでもいいから状況教えて」と言うことにしようと思ってます。(その後、まだこの手を使う場面がないです)

つい最近、定型の友人Sちゃんに離婚のこと話したんですけど、Sちゃんのの「そうだったんだね。大変だったね。なんか態度が不自然だなぁと思ってたんだよ」という言葉や、Sちゃんの表情や、身体全体がかもしだす雰囲気に、私は話しながら、胸がつまり、なんども涙ぐみ、実際、涙があふれでました。

そう言えば・・・と思い出したんだけど、弟に話した時、Jちゃんに話した時は泣かなかったなぁ。弟やJちゃんも「へぇ、そうだったんだ」とちゃんと話は聞いてくれたんだけどね。母に話した時も、やっぱり泣かなかった。

さらに思い起こせば、定型のNちゃんに話した時は泣いた泣いた。この時は大泣きした。仕事でよく使う店だったので、そんなに大泣きしちゃヤバかったんだけど、涙を押さえられなかった。IちゃんやMちゃんに話した時も泣いたなぁ。Oちゃんなんかは、電話の向こうで「私が泣いてもしょうがないけど」って大泣きしてくれた。私がもらい泣きするのもヘンだけど、もらい泣きして私も泣いた。

パンダさんが、「社会全体で考えた時にアスペルガーの存在が必要」って言ってたのは、こういうところにもあるのかも・・・と思いました。

Nちゃん、Iちゃん、Mちゃん、Oちゃんから「温かく受け止めてもらった」という「安心」をもらって、いっぱい泣いた。涙とともに「毒」が流れ出た感じがした。励ましてもらって、「うん、ありがと。がんばる!」と「がんばる気力」の情緒の部分が動いた。

弟やJちゃんと話してると、相手の反応が情緒に訴えてこないから、泣かずに話せる。弟は出向先に一家で遊びに来てくれて「楽しいひととき」をくれ、その中でずいぶんと気持ちが癒されたし、Jちゃんは話は聞くけど深入りせず、話をうまく転換して仕事上の話にもっていき(別に私を思いやってわざとやったんじゃないかも。この話をいつまでも続けても無意味と思っただけかも)、私を「仕事の原点」に立ち戻らせてくれたり、「仕事やるぞ!」という気にさせてくれた。

弟やJちゃんからもらった「がんばる気力」は、情緒面じゃなくて、実践面というか。実際に「先に行く」機動力というか。

私個人のレベルで見た場合も、もしかすると、定型と非定型の両方からもらってるサポートがいい具合にバランスを保っているのかも。片方だけだったら、私、ここまで来られなかったかも。

みみさん

 「ただパンダさんの書いてるふつうは…の普通の部分は、時々ちょっとドラマの見過ぎ!と思ったりします(笑)」

 うっ! 韓流ドラマの見過ぎということまでばれてしまった! 恐るべき透視力!


カレンさん

 「夫や子どもたちは、「きっちり文章つくりながら、きっちり別の会話も普通にする」「しっかりテレビを見ながらしっかり勉強も進んでいる」「しっかり読書しながら、しっかり会話もできる」ので、なんか時間を有効に使えていいなぁ、なんて本当に思いますね。」

 これって、コンピューターに喩えれば、CPU(計算するところ、パソコンの頭脳の中心)が二個着いていて、並行して二つのことを処理できる、みたいなことですか?だとすればすごいなあ。頭が二つあるみたいなもんですよね。

 私の場合は多分一個のCPUを、試行錯誤(訓練)によってプログラムを作って、細かく時間分けして二個のように使っている感じだと思うので(なんとなくですけど (^ ^;)ゞ)、意識的なことについてそういう完全に並行しての処理ができるというのはびっくりです。

 あと、一生懸命に何かを考えようとしているときには、音楽を聴きながらというのが私はできません。なんか両方がまじってきてしまって、わかんなくなるんです。よく論理的思考の頭脳は左脳、音楽は右脳とか言いますけど、私の場合、どっちも右(または左)脳を使っていて、混線しちゃうのかな、と思ったりします。

 あ、今気づいたけど、もしそうなら、私って脳を半分使ってないということじゃん!どうりでぼんくらなわけだ!

KSさん、みみさん、

「言葉」と「言葉」は両立できる? の疑問に対してお答えいただいて、ありがとうございました。KSさんのパターンは私と似ているようですね。みみさんのパターンは、またちょっと違う感じ。ま、これについては、人それぞれということなのでしょうか。

この件に関しては、うちの4人の中ではどうも私だけが他の3人と違うので、私ひとりが少数派になっていましたが、広い範囲でお伺いすると、個々人の特徴というぐらいのものなのでしょうね。

謎が解けてきて、ちょっとスッキリ。ありがとうございます(^^)

それから、KSさんの元夫さん、みみさん、チロさん、みみさんのご主人の方のお話を伺い、こちらはこちらで「アスペルガー」とひと言で言っても、本当に個別のケース、個々人の性格・特徴等々は違うのだなぁ、とあらためて思っています。

主にあちらの掲示板に書いていた頃、そして、ここのブログにおじゃまし始めた頃には、それこそ「アスペルガー=うちの夫のイメージ」しかなかったのですから、ここのブログで勉強させていただいてきたことって、ものすごくたくさんありますね。

以前の自分の見識の狭さを反省しつつ、さらにいろいろと興味が湧いてきています。

あ、パンダさんからもコメントいただいていました・・・!

そうそう、上にも書きましたが、実際私は夫や娘に「左脳が2つあるんじゃない?」なんて、言ったことがあります。

パンダさんの、音楽聞きながらだと考えがまとまらない、というのは、面白いですね。
ほんと、人それぞれなんですね~。科学的にみんなの頭の中を調べてもらったりしたら面白い結果が出るかもしれませんね(^^)

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/41366471

この記事へのトラックバック一覧です: 気遣いの矛盾:

« お互いの小さな工夫 | トップページ | 定型と非定型のバランス »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ