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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年8月15日 (月)

アスペと定型どっちがつらい?

 KSさんがこんなことを書かれていました。

「アストン博士の本も「定型の側がどうやって自分を納得させるか」という本というように読めないこともない。「定型×非定型の結婚は可能だが、定型の側により大きな負担がかかる」ともキッパリおっしゃってるし。」

 これを見ると、定型とアスペの結婚、定型の方が割りが悪いようです。アストンさんは沢山のカップルをご覧になっているから、少なくとも結婚、という関係になるとそうなのかなあという気もします。たとえば私のパートナーももちろんいろいろ苦しんだ訳ですが、私の方がより厳しかっただろうと言います。どうしてそう思うかと聞くと、私は鬱状態になり、通院が必要になりましたが、彼女は鬱にはならなかったからと言います。

 でもこれ、ほんとはどうなんかな、というのは今の私にはよく分かりません。まず、少なくとも結婚という枠を外して考えた場合、定型が多数派で定型に合わせて作られているこの世の中で、生きづらいのはやっぱりアスペの方ですよね。統計的なデータはよく知りませんけれど、就職の難しさや失業率だって、転職経験の多さだって、アスペの人の方が状況が悪いだろう、というのはまあ容易に想像できます。子ども時代にどっちがいじめを受けやすいかと言うことも同じでしょうね。

 そういう社会的な環境の中で、深刻な鬱状態になったり、いろいろと苦しむアスペの人の割合はやっぱり定型よりも多いでしょう。

 ということは、アストンさんのような見方が出てくるのは「結婚」という特別の関係の場合に限るのかも知れません。あるいはそこに「親子」を含めてもいいかもしれない。でも、もしそうだとして、それは何で、と言うことになるのでしょうか?

 「『結婚』の意味のズレ」でもちょっと考えてみましたけれど、多くのアスペの人にとって、特にこの世の中では家庭の中で立場が女性よりも強くなりやすい男性のアスペの人にとって、「結婚」はもうひとつの安定したゴールで、会社での人間関係のように無理をしてずっと気を遣い続けたりする必要のない場、と考えられやすいかも知れません。もしそうなら、いつも細かく気遣いをして関係を調整しようとする定型の女性の方は、なかなか酬われない苦労をずっと続けることになりやすい、ということも考えられます。

 女性の方がアスペであるカップルではどうでしょうか。たとえばjoさんのご家庭など、joさんから教えていただいた内容から想像すると、アスペである奥さんも自罰と他罰激しく行き来したり、生活の基本的な計画のような部分でもうまくできないことが多かったり、精神的な部分でも実生活上の部分でもずいぶんと苦労されて居るんだろうとは思いますが、少なくとも発達障がいを持ったお子さんをしっかり受け止めながら、家族が抱えている困難に一生懸命に取り組んでこられたのはjoさんの方という印象が私にはあります。 

 なんでそうなのかと考えてみると、joさんは定型向きに作られているこの世の中の決まり事、常識などを周囲の定型の人たちと共有されていて、奥さんや娘さんがそこからはずれることが多いことを強く意識されているし、それを何とかしなければならない、それができるのは自分しかいないと考えられている。それに対して、奥さんの方はそのズレの問題をjoさんと共有することを避けていらっしゃるようなので、自分がそのことで努力しなければならない、という気持ちが生まれにくいのではないか、と想像するのです。仮に何か努力が必要と思われたとしても、何が問題なのかをjoさんと一緒に考えようとされなければ、どうしていいかも分からないままでしょう。

 奥さんは会社でも苦労されているようですし、上にも書いたように実生活上も苦労をされているし、「苦労している」という点ではjoさんとどっちがより厳しいのかは私にはわかりません。けれども「家庭内の関係の調整への負担」ということで言えば、やっぱりjoさんの方が相当大きいような印象を持ってしまいます。

 繭さんの家庭では、お互いにずっと正面から向き合い続け、ぶつかり合い続け、話し合い続けてこられたということですし、その感じは繭さんの書かれたことからもよく伝わってくるように思います。その意味ではお互いの関係を調整しようという「負担」は同じだったとも言えそうに思いますし、そこがすごいなあとしみじみ感じさせられるところでもあります。ただ、繭さん自身はこんなことを書かれていました

 「とてもざっくりとしたイメージなのですが、定型側は「求めるものが得られない」ことが多くて、アスペルガー側は「出来ないことを求められる」ケースが多いように感じます。私は夫に「あきらめ」を考える程に強い満たされなさを感じることはとても少ないですが、反対に夫は、多かれ少なかれ満たされないことの「あきらめ」を持っているのではないかと思っています。」

 もしそうだとすると、定型の側の方が「強い満たされなさ」をより多く感じる点ではやはり「負担が多い」ということになるのでしょうか?

 こんな風に書いてみると、やっぱりアストンさんが言うように、「結婚に於いては定型の方が負担が大きい」のかなあという感じもある一方で、いや、でもなあ、ほんとにそうかなあ。という感じもやっぱりどこかに残るんです。なんかちょっと違う視点で見る必要もあるんじゃないかと。

 それがなんなのか、言葉になるにはもう少しかかりそうな気がします。

 

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コメント

こんばんは 初めて書き込みさせて頂きます。
UCと申します
「パパはアスペルガー」サイトで時々相談させて頂いている者です。

僕自身がアスペなのか奥さんがアスペなのか
両方共なのか?両方違うのか? は 少し置いておき・・

今回のテーマ「アスペと定型どっちがつらい」を読んで
最近自分が思っていることに近いな~と思ったので
書き込みさせて頂きます。

「満たされる」「諦める」 と言うことですが
僕が最近思っていたのは 自分は
すごく小さな事で満たされてしまい幸福を感じます。
でも多分普通の人は こんな事で幸せを感じないのかな?
と思うようになってきました。
例えば 今家庭が複雑な状況なんですが
子供が僕に気を使ってくれている それだけで僕は幸せですし
こんな風になる前までも 家族みんなでご飯を食べTVを見るだけで
僕は幸福でした。
でも普通の人は それじゃ収まらないというかもっと幸福になりたいと
思うのではないか?と・・・
(どっか行ったり 服を買ったり などなど・・
 行ったり服を買うことを僕は反対したことはないです
 奥さんの自由にやってくれたらいいと思っていました
 (突き放している意味ではないです でもそう取られるんでしょうね)
 )

今回書かれているテーマを見た時
なるほど 「あきらめ」を持っている為(意識したことは無いですが)
ちょっとした事で幸福感を得れるのかな?と思いました。

UCさん

 はじめまして。

 「子供が僕に気を使ってくれている それだけで僕は幸せですしこんな風になる前までも 家族みんなでご飯を食べTVを見るだけで僕は幸福でした。でも普通の人は それじゃ収まらないというかもっと幸福になりたいと思うのではないか?と・・・」

 昔、僕の友だちで、家庭的な男性(?)でしたが、洗濯物をしていて、洗濯物が洗濯機の中でぐるぐる回っているのを見ているだけで幸せな気持ちになる、と言っていた人がいたことをふと思い出しました。その人は間違いなく定型だと思いますけれど、それを聞いた当時は、「変わった人だなあ」と思って面白く聞いていましたが、いろいろなことを経て今思い返すと、そういうことに幸せをちゃんと感じられるって「すごいことだ」という気がします。私も最近は家族の洗濯物を畳んでいるときに幸せを感じることがあったりしますけど ……いつもというわけではなく、「めんどくさい」と思うことも多いですが (^ ^;)ゞ

 UCさんのご家族のことはもちろん私には分からないのですけれど、「奥さんの自由にやってくれたら」と思われていたことが「突き放している」と受け止められたらしいということを読ませていただくと、UCさんがアスペルガー的で、奥さんが非アスペルガー的なのかなと想像しました。もしそうだとして、改めてUCさんの「幸福感」について読ませていただくと、ああ、もしかすると私のパートナーもそんな風に自分の中で幸福感を持っていたことがあったのかもしれないという気もしてきました。ただ、それが私との間でうまく共有されなかった(パートナーから見れば「理解されなかった」)のかもしれません。そう考えると説明がつきそうな、過去のお互いのすれ違い場面がいくつも思い出されます。

 定型的に考えると、そういう「幸福感」を共有できるか、あるいは少なくとも相手がそういうところに幸福感を得られることを理解して、それを大事にできるかどうかは、お互いにとって大事なことのような気がします。

 うーん、この「幸福感の共有」という問題、また改めてゆっくり考えてみたいテーマですね。

 

こんにちは パンダさん
辛さや不満という観点から 幸福感に
話をずらしてしまってすいません。
(表裏一体だと思ったので 書きこませて頂きました。)

暑い中 庭掃除と畑仕事してきました(汗)
今から冷やしている水羊羹でも食べようかと思っています(笑)

「「奥さんの自由にやってくれたら」と思われていたことが
 「突き放している」と受け止められたらしいということを
 読ませていただくと」

そうですね
当然そんな風に思っていなかったのですが
奥さんが服を買ったりエステ行ったりしたよと言っても
「似合ってるやん」とか「ええやん」ぐらいしか言わず
自分の服や身なりには気にしない僕とのギャップを
感じていたのかも知れません
当然お金が余るほどあるのであれば(笑)
僕だって服を買いたいなとかそれなりにしたいなとかは思いますが
子どもや奥さん優先と考えすぎていて 自分を全く出さない事が
普通の人の感性と離れているのかも知れません。

僕の奥さんは 非常に難しい人だと
付き合っている時から思っていました。
干渉されるのが嫌なのに何処かで寂しがり
自信満々に見えるのに自己評価が実は低く
自信があまりない
周りの評価も能力の割には評価されていない様に思えました。
(奥さんも たぶん僕のことをそう思っていたのだと思います。
 ですので お互いがお互いの傷を見ていたのかも知れません)

でも自分ならなんとかリラックスしてあげれる、助けてあげれると
お互い思い上がっていたのかもしれませんね
そしてそれで幸福感を得ていたような気がします。

しかし お互いがお互いを遠慮しながら生活していく中で
幸福の共有感は 子供が大きくなるにつれ
薄れていったように思います。
(子供が小さいうちは そこが共有の場だった
 しかし下の子が小6になり 手が掛からなくなった)

夫婦でなにを共有できるのか
もうそういうことも出来ないのかも知れないけれど
僕はいつまでも考えたいと思います。

UCさん

 自己評価の低さと自信満々に見えるところとのギャップなど、他のアスペルガーの方についてコメントされてきた事ともつながる感じもありますね。あと、子どもの問題が絡んだときにお互いの関係がシビアになっていく、ということも幾組かのカップルでみられたことのように思います。

 夫婦で何を共有できるのか、ということもこのブログでもいつも問題になり続けていることのように思います。

 UCさんのご家族についてよく分からないで書いていますので、全然的外れかも知れませんが、とりあえずそんな「共通点」があるかもしれないと思いました。

まずは、今回のこのテーマ、アスぺと定型とではどっちが辛いのか・・・一般的にはたしてどうなのか、ということは少なくともわかりません。

私にわかっていることは、私と結婚するまでの夫は「自分自身で満ち足りることができる人」、夫と結婚するまでの私(正確にはほんの数年前までの私)は、「自分自身では満ち足りることができない人」でした。

そういう意味では、夫はいつも幸せで、ちょっと何かがあるとそのたびに思い煩っていた私に対しては、いつも「難儀だねー」とか「休まらない人だねー」いうことを言っていました。

確かに、夫の言うとおり、私はいつも何かに追われている感覚から瞬間的にでさえ逃れられないほど、何かに常に追われており、「○○しなくては」「△△しなくては」の呪縛の中で、本当に心から休まる日など一度もない、というような人生を送っていました。

その一方で、夫の口癖は「ああ、気持ちいい!」「ああ、のんびり!」「ああ、美味い!」etc.etc.・・・。昔の私から見れば、夫はなんと気楽で、そしてなんと「今この瞬間を楽しめる人」だろうと思っていました。

ということで、まあ、うちの場合は、全体として、定型である私の方が辛い思いをしてきたのでしょうか。ただし、それは、夫と出会ったからということではなく、むしろ、夫と出会っていなければ今でもずっと続いていた辛さなんだろうなぁ、と思いますが。


で・・・このあたりからが、たいへんお待たせしたココチさん・KSさんへのお返事になっていくのかもしれませんね。

夫と私のすれ違いに関しては、以前にあちらの掲示板で2年間にわたって書き続けたことなので省略しますが、今回は、うまく周り始めてからのうまく行った部分に焦点を絞って書きたいと思います。

アスペルガー的発想と定型的な発想のいいところを組み合わせれば「最高」「最強」と書きましたが、この言葉に意味については、その後夫とも話したのですが、かなり誤解を招きやすい言葉だったと反省しています。

私自身、これらの言葉をもってしても、今の私の気持ちを的確に表現できるとは全く思っていない、というのが正直なところです。

「最高」「最強」と言ってしまうと、どうしても、他カップルと比べて、とか人と比べて、というニュアンスが入ってしまう感じになりますが、私の意図としては、この言葉にはそのような比較のニュアンスは微塵も含みません。

物心両面、仕事も家庭も、これまで築き上げてきたすべてのものを失った、と感じていた私の数年間の心象風景は、例えにするのも不謹慎かもしれませんが、あの東北の震災後となんら変わりがありません。そのような経験をしたところに、一輪の花が咲き、青空が見え、夕日を感じる場所で朝食の準備をしたり片づけをしたり、家族とお笑い番組をみたり、ドラマを観たり、休日前の夜には夫と一緒にビールだのワインだのを飲んで、

子どもも含めてワイワイとたわいのないことを話して笑いあえる、そんなささやかだけれども、静かにしみじみと幸せを感じる・・・そんなどこにでもありそうで、実はとても希少価値なのかもしれない(?)幸せを感じて、「静かに、でも、体の芯から楽しいなぁ、幸せだなぁ」と思うことを称しての「最強」「最高」でした。

一度は何もなくなった、家族それぞれの心の中に何もなくなった、そんな状態から、少しずつ少しずつ再建してきている今の生活がとても大事だと思うから、

今の私にとって、かつて、経験したことがないほど大事だと思えるような生活だから、私の心の中で「最強」「最高」だと思っている・・・そういうところだと思います。

そして、上記のこととも関連するのですが、争いがいつ起きるか、いつまた地雷を踏むか、いつ奇襲攻撃をかけられるか・・・と、思春期以降ずっと緊張した日々を送っていた私ですが、今やっと、この2年足らずですが、やっと本当に、常に臨戦態勢でいることをよぎなくされる日々から解放されました。

もちろん、生活するうえで、ちょっとした小競り合いのようなものは、夫婦・親子それぞれの間で起こりますが、今はどれも長くは引きずりません。食べて笑って話して、家事をしたり仕事をしたり、学校に行ったり・・・何も特別なことはありません。

でも、これまでの、不安・苛立ち・怒り・悲しみ・憎しみ等々に支配されがちだった生活から、信頼と笑顔が中心の生活に移行してきて、昔からは考えられないほど、心が静かなのです。少々の波立ちはあっても、以前のような制御しがたい疾風怒濤のようなことはない。

静かなさざ波、時々大波・・・時として、以前にはなかったようなちょっとした退屈も感じることができる・・・それが、今私の感じている「平凡な生活」です。(最近、ちょっと「退屈」を感じたときに、その感覚に「あれ?!」と驚き、「平凡」を実感しました。)

あと、「夫のいいところ」という肝心の話が残っていますが、今日はもう遅いので、また日を改めさせていただきます。

カレンさん ありがとうございました
カレンさんの今の生活が 自分がかつて経験したことがないほど大事に思えるので、かつての自分とくらべて?「最高」「最強」という意味でしょうか。
退屈に感じられる時もあることを「平凡」言われたと受け取りました。


そうすると、アスペルガーと定型の結婚にどういう関係があるのか。。。


定型同士(もしかしたら非定型同士)でも カレンさんご夫妻のような経過をたどる組み合わせはあると思のですが。。。

それにうちの場合だと(たぶん)カレンさんのところと夫婦が逆に近いかもしれません。結婚前から…
私がカレンさんの夫さんのようで、うちの夫がカレンさんのほうに似ていて…
大きな病気を何回もしたのも夫のほうですし…
うちの場合 結婚生活の前半 家族で団らん等たくさんやってきました。
主人は いいと思うとやりすぎるので 私は自分の時間がもっと欲しかった…
今は 距離を置くことで楽になりました。
「おいしいね」とか「葉っぱが色づいてきた」とか「あそこに昔一緒に行ったね」とか たあいのないことを話して笑ったりしますが…
共通認識については割り切ることにしました。(注 ) 主人がアスペであることは共有できてます

結婚35年近くになるので 何度も大きい問題があって、その度話し合って 一旦は共通認識に立てたと喜んだものの、あとから一部を除いて幻だったという経験を何度もしてきているのが大きいと思います。
繰り返し繰り返し言い続ければ違うのかもしれませんが 時間とエネルギーがいるし、
いつまでもその様にしていて 自分の自尊心を犠牲にしているように見える人たちがまわりにいるのも大きいです。
簡単なことではないと思いますが、アストン博士や 日本の服巻(智子)先生の本などを支えにしながら、いい意味で距離を置いて行きたいというのが今の願いです。

うまく書けませんが、このブログを読んでいる方達に 距離を置いて 結婚生活を続けると
いうコースの一例にしていただけたらと思いました。
それでは 少し このブログを見るのもお休みにして、一旦距離をおきたいと思います。

ココチさん

もう読んでいらっしゃらないかもしれませんが、書かせてくださいね。

>カレンさんの今の生活が 自分がかつて経験したことがないほど大事に思えるので、かつての自分とくらべて?「最高」「最強」という意味でしょうか。

うまく言えませんが、それに近いかなぁ、という気はしています。自分の人生における幸・不幸の感覚はおそらくは自分にしかわからないし、他の人の人生においての幸・不幸の感覚を私がそのままわかることはできないと思うので(パンダさんのこのブログでの、「幸せ」を巡ってのテーマとも関連しますが)

人の深いところでの感覚と自分の深いところでの感覚を比べて云々ということは、私にはできません。ただ、自分が今「幸せだ」と感じていることだけは、まぎれもない真実です。

なぜ「真実」とまで言えるのかは自分でもよくわからないのですが、そう感じる、ものは感じる・・・そうとしか言いようがないのです。

>退屈気をに感じられる時もあることを「平凡」言われたと受け取りました。

「平凡」の意味は、私には本当にはよくわかりません。ただ、身体のことで言えば、胃が痛むときに胃があることを意識する、ケガをすればその痛むところに意識が行く・・・そんな感じが、今の夫と私の関係の中ではないんです。

一緒にいることに痛みを感じず、一緒にいるに特に何も頑張りは必要でなく、一緒にいることがむしろ自然で・・・そういう意味で「平凡」ということも言えるのかもしれません。

>そうすると、アスペルガーと定型の結婚にどういう関係があるのか。。。

そこのところは、たまたま好きになって結婚した人がアスペルガーだったということで、私にとっては、それだけだったというか・・・うーん、ここであまりにも軽く言ってしまうこともできませんが、

パンダさんがよく言われていたように、私はもともと、アスペルガー的な「裏表のない人が好き」だった・・・そういうことが大きく関係しているかもしれません。

それから、KSさんへのお返事の中でも書こうと思っていることのですが、私は夫といるいことで、自分ひとりでいるよりも「自己実現」をすごくしてきましたし、今もしていると思います。夫のよさには、私も含めて一緒にいる相手の自尊心を高めてくれることも含まれています。

この組み合わせは、いったいなん何なんだろうと、職業・生い立ち・思想・信条等々、いろんな角度から、あれこれあれこれ夫とも話しているここ2年ほどです。自分も、自分たちも、「何がいいんだろう?」と考えている最中というか・・・。

職業や公私におけるいろんな体験をもっと明かしてしまえれば、もっと具体的にお話もできるのですが・・・それがここではできず、なんだか曖昧な感じを残してしまっていてすみません。

ココチさんの人生のあり方はあり方で、ココチさんがおっしゃっているように、「いい意味で距離を置いて行きたい」というのもよくわかります。それぞれの「幸せ」は、それぞれに違う形を取っていいものだろうし、取るのだと思っています。

すみません、今ちょっと時間がなくて、またもや書きたいことをうまく表現することができていません。ココチさん、お気持ちを伝えてくださって、ありがとうございました。

カレンさんに一つ質問です。
「一緒にいる相手の自尊心を高めてくれる」というのがピンと来ません。
カレンさんの夫さんと私の夫は別人であり、アスペルガーで一括りにするのは無意味だとは分かっていますが、私は夫といて何が辛かったかというと自分の自尊心がすり減っていくような感覚なんです。なので、配偶者のタイプや具体的な悩みが千差万別でも、離婚を考えるような場合は、みんな自尊心がすり減るような感覚があるのだと思い込んでいました。自尊心という言葉の捉え方が違うのかもしれません。

夫との関係で、私の自尊心を高めてくれたと思える場面は。。。私が夫とのことで思い出すのは、結婚式場の下見をしていたころ、共通の知人(美人で頭がよく裕福)が超高級ホテルで式をしたことが話題に出て私が「あの人が式をしたようなホテルはおそれおおいね。」と言うと、夫は「そういう考え方はよくない。自分がやりたければやればいい。」と卑屈な私をいさめました。そのときは、なんだか夫が頼もしく思えたものです。「一緒にいる相手の自尊心を高めてくれる」というのは、こういう感じのことでしょうか?

ちなみに、この後日談として、夫の言葉に気をよくして別の超高級ホテルを式場予約したところ(もちろん夫も了承して。)、夫の両親から「庶民が見栄はって、みっともない」という断固反対の意見が出て、夫もあっさり両親の肩をもち、キャンセルすることとなり、せっかく高まった自尊心が下がってしまいました。私の場合は、このように、いつも親や友達を優先する夫と一緒にいることで、自分の存在が無いような感覚になっていったのでした。

最近カレンさんへの質問が多くて、お忙しいところ申し訳ないのですが、余裕のあるときで結構なので、自尊心という言葉の理解が上の例のようなもので合ってるかどうか教えてください。

チロさん、お久しぶりです。

KSさんからのご質問の「自己実現」とも関連があるかな、と思うのですが、

基本的に夫は、私が心の底から楽しいと思ってやっていること・心の底からやりたいと思っていることには全面的に応援してくれます。「何かをする前からあれこれ心配しすぎて結果何もしないよりは、自分のしたいと思うこと、自分がして楽しいと思うことを、遠慮することなくすればいいじゃん」という感じです。

うまくいかなくなっていた時期には、私も自己評価が落ちまくっていますから、何をやっても、「私なんかどうせダメだ」という方向にしか行かなかった、でも、自分の芯のようなものができ始め「これをぜひやってみたい」「これにもう1度挑戦してみたい」と心の底、というより、腹の底から思ったときには、私には迷いはなかった、

そして、そんな時には、いつも夫が「きっとうまく行くよ」「うまく行くに決まっている」「大丈夫に決まっている」と、「根拠のない自信」(うちでずっと使っている言葉です)で、応援してくれるのですが、

夫の場合、本当に思ったことしか口にしませんから、これらの言葉には本当に信憑性がある・・・と勘違い(?)させられ、でも、その勘違いのおかげで、ことがうまく運ぶ・・・そんなことが、私についても子どもたちについても、これまでにたくさん起こってきています。

たぶん、自分で決めて自分でやりたいと心底やりたいと思ったことには、夫は、これ以上ないというほどのエールを送ってくれます。反対に、なんだかあまり自信や根拠がはっきりせず、うじうじやっているときには、「喝!」が入りますが。

要するに、夫は、私や子供たちが、自分自身のいいところを一番よく引き出してくれる環境を見つけその中で生き生きていることを、一番喜んでくれるのです。

「私が自尊心を高く持てる状況=私が自分を好きでいられる状況=夫が好きな私&状況」・・・ザザッとくくるとこんな感じでしょうか。

今では「夫が喜ぶ私=自己実現をしていて自尊心もある私=自分で自分を好きだと思える私」ということでもあると理解しています。

最近夫とよく話すことがですが、アスペルガー的視野と定型的視野をそれぞれに知ったことで、本当にお互いに視野が広がりましたた。

視野を広げあうことができ、これまでの人間観もお互い大きく変わり、自分も成長し相手も成長していると感じられること・・・そんなことが夫と私の関係の中で起こっていて、そのプロセスを経験できていること自体がすごいと感じています。

こんな経験は、たぶん、めったにできないできないでしょう。とても貴重な経験をさせてもらって、その貴重な体験をありがたいと思っている自分のことはとても好きです。

心の底から自分のやりたいことが見えてくる、そして、見栄とか世間体ではないところの、自分の本心から望むことを応援してくれる・・・

うまくいかないときは大変でしたが、夫は私や子どもたちのいいところを見つけ、それを伸ばしてくれる存在です。(ある意味、神様のような存在だと感じることも)

ま、時には、ちょっとした波風も立ちますが、それはそれで、いろいろ新たに考えるきっかけになっている感じです。

すみません、今回も舌足らずですが、とりあえず今日はこれでおやすみなさい。

>カレンさん
具体的なことは書くと差し障るのかもしれないのですが;

>最近夫とよく話すことがですが、アスペルガー的視野と定型的視野をそれぞれに知ったことで、本当にお互いに視野が広がりました。
→という点で、なにか例があったら教えていただけると嬉しいです。日常のささいな例で構いませんので。いや、むしろその方が分り易いです。

私が使った「自己実現」は、カレンさんのおっしゃるようなまさに自分が何かを成し遂げるという意味の「自己実現」ではなく、アスペルガーの夫が定型の世界でうまくやれない部分をフォローをすることが「自己実現」になる場合と、そうでない場合がある、という脈絡においてで、アスペルガーの男性との結婚で「自己実現」を励まされるかどうか、ということではなかったんですが、これとは別に、アスペルガーの男性は、カレンさんのおっしゃる「根拠のない自信」(カレンの夫さんの場合は根拠があると思いますけど)で「励ます」が上手な方が多いのだろうか、という新たなテーマが私の頭に浮かんできてしまいました。

私の元夫にもそういう面がありました。私自身のAC度が高く、自己評価が非常に低かった時期にはそれが機能しました。しかし、だんだん私自身が仕事で実績をあげ、評価されるようになってきた時、これが機能しなくなっていきました。

私は「夫が喜んでくれるから頑張って仕事する→成功→夫にもっと好きになってもらえる」という図式で動いて、ふと横を見たら、夫はいなかったっていう感じですね。夫がずっと遅れて後ろの方にいるのに、あるいは、途中で道が違っていたのに気づかず、私は「夫のために」とひた走っていたという感じです。

元夫が結婚の約束をした女性も、能力はあるけれどもろもろの状況でそれが発揮出来ずにいる人でした。だから、私は「あなたはそういう女性に自信を与えて開花させる能力があるから、私は身を引く。私はもう大丈夫だから」と言いました。(苦渋の思いで言いましたが、元夫はこの私の言葉を覚えてすらいないでしょう)

カレンの夫さんは、私の元夫とは違って、もっとご自分の芯を持ってらっしゃるので、全く状況は異なりますが、「表面上だけ」見ると、ちょっと似ている面もあるかもしれません。

私の元夫は、今思えば、最初からもっと歪んでいたように思います。自分のコンプレックスを、私の周りにいる(私を評価しない)人たちを批判して、それによって補っていたように思います。私の周りにいる人たちの悪口をすごく言って、私をその人たちから切り離しました。でも、その時の私は、周りにいる人たちと「対等に」やりあうだけの力がなかったので、そこから「切り離される」ことによって、自分のペースで力を蓄えることが出来たのかもしれません。(弟が幼稚園に行かなかった時期みたいなもんでしょうか)

しかし、元夫は、一見「私の成長を喜ぶ」ように見えて、実はそうではなかった。私は夫の「道具」でしかなかったのかもしれません。ある時点から、元夫は私の「足を引っ張る」方に回り始めましたので。(弁護士さんにも「ご主人歪んでますねぇ」とあきれたように言われました)

でも、元夫のおかげで仕事上の一定の成功を勝ち得たのは事実です。(まだまだ上を目指さねばなりませんが)

そう言えば、母もよく励ましてくれました。母の言葉にはいまひとつ「心がこもった」感じがありませんでしたけど。母の場合、本当に「私」を見て「根拠をもって」励ましているというより、「子どもは励ますべきものだから」励ましているという風に「私には」感じられました。ただ、それが機能しなかった訳ではありません。やはり、それは私の中でどこか支えになっていたと思います。部分的にはきちんと私を「見て」励ましてくれていると、「根拠」を感じることもありました。

定型であれ、非定型であれ、一般化するのは難しいですが、たとえば:
「やっぱ、イギリス人の夫だと家事やってくれるからいいよね」
とか、
「年下の彼だと、こっちもいつまでも若い気持ちでいられていいよね」
とか、
「うんと年上の男性だと、甘えられていいよね」
とか、

なんか、そんな風に、すべての場合にあてはまらないまでも、あくまでも「傾向的に」:
「非定型の彼だと、○○でいいよね」
っていう、そんなのってあります? 

ごめんなさい。しつこくて。なんか、どうも良く分らなくて。でも、これ、すごく大事なことだと思うので。

ひとつ言えるのは:
「非定型の考え方が分るから、仕事の上での人間関係をこなす上での参考になっていいよね」というのはあるかもしれない。

でも、これ、あくまでも、「実益」でしかないかもしれない。

まぁ、「お金持ちの男性だと、自由にお金使えていいよね」も、男性の魅力のうちかもしれないですけど。

でも、上記2つは、「彼って物知りなのぉ。色々聞くと何でも答えてくれて、便利なんだぁ」っていうのとは、ちょっと違ってるような気がする。

あ、別に、「定型×非定型」の結婚の良さを否定するために言ってる訳じゃないですよ。アストン博士の想定されている「定型×非定型」の結婚は「あくまでも定型が非定型が起こす摩擦を定型側が引き受けてフォローする」ということを想定しているのだけれど、パンダさんが挑戦されている「対等」は、こうしたアストン型の「非定型=問題起こす&定型=フォロー」というのではない関係を築くことだと思うので、しつこく聞いているのです。

KSさん

妻(=カレン)へのご質問ですが、お先にひと言。妻の了承済みです。

「アスペルガー的視野と定型的視野をそれぞれに知ったことで、本当にお互いに視野が広がりました。」について、具体的なエピソードをご紹介します。

家事や育児(仕事もかな)で、「かつての」私が追い求めていた(価値があると思っていた)のは、能率です。できるだけ短時間で「それなりの」ことをするのが「最上」であり、同程度の出来栄えで時間がかかるのと、同程度の所用時間で出来栄えが悪いのは私の中では後者の方が「まし」でした。
なぜなら、時間がかかるということは「待たせられる」「自分の時間を浪費させられる」という風に感じていたからです。

定型の人が、時間をかけて何か事をなすのは、「相手のためを思っての」誠意による場合もあるのだと理解してからは、上記のような「待たせられる」「自分の時間を浪費させられる」感じは、自分特有のものかもしれず、不愉快さを感じる「自分の感覚」だけが正しいのではないと、自分に言い聞かせるようになったことが大きな変化です。
その結果、それまでしばしば感じていた怒りが消えて、ゆっくり待つことができるようになりましたし、自分の行動についても時間内で終わったらそれで「完了」ではなくて、もう一度見直すとか、「もっと良い」ものができないか手を入れるという発想が芽生えています。

ご参考になれば幸いです。


カレンさん、さっそくのご回答ありがとうございます!!
少しイメージができました。そして、私の中で、カレンさんご夫婦のイメージが「一緒にいてもひとり」(カトリン・ベントリー著)と重なってます。(名前が似てるからではありません。)

私の身近にもイメージが重なるカップルがいて、夫は自己肯定感があっていつも幸せそうな人、妻は気配りができて優しく聡明な女性で、夫の方は「僕は素晴らしい女性と結婚したんです♪」と公言してはばかりませんでした。(←日本人です。)だけど、夫が妻の弱い部分を許さないところがあったみたいで、詳しいことは知りませんが、妻の方がだんだん疲れていくのが傍目にもわかりました。すみません。上手くいってない例で。けど、カレンさんご夫婦とカトリンさんご夫婦は、それを乗り越えてるんですよね。

カレンさんが喜べばカレンさんの夫も嬉しいということが重要なポイントだと思いました。それは、アスぺとか夫婦とか関係なく、よい関係とはそういうものなのでしょう。(たまに嫉妬はあっても、基本はそうですよね。)それでも、たくさんの葛藤や悩みがあったわけで、そこがまさに定型・非定型の問題だったんでしょうね。

私と夫は一緒にいた期間が短く、一緒にいた間も「仕事で疲れた夫VS育児で疲れた妻」というありがちな対立関係になっていて、相手の成功を喜んだり、相手の嬉しそうな顔を喜ぶ間柄になれませんでした。もともとの性格のせいかもしれませんが。(夫の呑気な寝顔や趣味で遊びに行くときのウキウキした様子を見るとムカムカしていたチロです。)

カレンさん チロさん

「基本的に夫は、私が心の底から楽しいと思ってやっていること・心の底からやりたいと思っていることには全面的に応援してくれます。「何かをする前からあれこれ心配しすぎて結果何もしないよりは、自分のしたいと思うこと、自分がして楽しいと思うことを、遠慮することなくすればいいじゃん」という感じです。」

 とカレンさんが書かれているのを見て、「うらやましい!」と思いました (^ ^;)ゞ
 それってすごい「共感的支持」の関係のように思えるんですけれど、
 うちの場合はそこがなかなかお互いにすれ違ってしまって、
 それでずっと苦しんできた部分があります。
 今はそこにズレがあることはわかってきているので、
 その点で苦しむことはなくなってきていますが、
 ただ、少なくとも今の段階では「プラスの方向に共感してもらう」
 ということについてはお互いに課題を抱えたまんまのように思います。

 このあたり、性格の問題とか、育ちの問題も深くかかわるような気もします。
 私のパートナーの場合、本当に「非支持的」に、否定の言葉を投げかけられ続けて
 育ってきていますし。
 ほんとに結婚してからも続くその状態を見ていて可哀想で仕方なかったです。

KSさん

なかなかKSさんが求めていらっしゃる中身をうまく理解できなくて、すみません。今さらですが、PCを通してのみの文章のやり取りだけでのコミュニケーションって、難しいですね~。

お互いに顔を見て、とか、お互いの職業を知っていて、とか、もっと文章の背景にある生活としての脈絡のようなものを知っていて、とかになると、話も通じやすいのでしょうけど。
本当は、歯にものがはさっまったようなどこかモゴモゴした内容でなく、スッキリ言ってしまいたいところなのですが、「ま、ネット上だから仕方がないか・・・(モヤモヤ)・・・」という感じです。

>>最近夫とよく話すことがですが、アスペルガー的視野と定型的視野をそれぞれに知ったことで、本当にお互いに視野が広がりました。
→という点で、なにか例があったら教えていただけると嬉しいです。日常のささいな例で構いませんので。いや、むしろその方が分り易いです。

夫が朝、それこそ私に了承を得て(笑)先にひとつ書いていましたが、夫が書いていたことも確かに視野が広がったことで起こったことの例のひとつですね。

夫も本当に変わりました。もちろん、アスペルガーであることに変わりはないのですが、「自分が絶対的に正しい」という考え方を修正し、「カレンさんの(定型的な)発想というものがある」ことを知って認めてくれたことが、とにかく一番です。

そのことによって、とにかく夫は、夫が自分でも書いているように「怒る」ことがほとんどなくなりました。

以前であれば、例えば次のような場合でも夫は怒っていました。以下、私のしたことと、それに対する夫の言葉です。あくまでも、これはアスペルガーということを共有する前&共有して数か月までのことで、現在のことではありません。

・洗濯物をたたむ。(「どうせ着るときには広げるのだから、たたむことに意味はない!」)

・観葉植物を置く。(「部屋の中に草を置く意味がわからない!」)

・料理の彩りや盛り付けに時間をかける。(「どうせ食べるのに、そんなに時間をかける意味がわからない!」)

・職場の仕事にしても、周りの人が動きやすいように考えて、仕事を仕上げる。(「最低限のことをしておけばいい。そんなに入念にする意味がわからない!」

・子どもが困っている時には、様子を見てからではあるけれども、必要と判断すれば子どもが口にして頼まなくても手助けをする。(「子どもが口にしてもいないことを、親の勝手な判断でしてやる必要はない!」)

・人が話した事実から、その人の気持ちを推測し「それは、すごく辛かったね」などの声かけをする。(「その相手はただ事実を言っただけで、その人が実際に辛かったかどうかは、本人にしかわからない。それを勝手に解釈するのはあなたの勝手でよけいなこと!」)

・「暑いね」「寒いね」のように、語尾に「ね」をつける(「なんで、いちいち俺に共感を求めなきゃいけないわけ!」)

・子どもの具合が悪いときには、普段させている手伝いを免除する(「どんな状況であろうと、決めた手伝いはさせるべき!」)

・子どもや人の言語外言語を読み取って夫に伝える。(「本人が何も言っていないのに、あなたがその人の気持ちがわかるはずがない。それを俺に伝える行為は、あなたがあなたの主観によって解釈し、俺に悪意を持って伝える行為だ!」)

・危なくないように、バランスや安定を考えて物を置く。特に刃物や割れ物など。(「実際に落ちていないのに、そういうことを考える必要はない!」)

・日常品は、予備を1つくらいは準備しておくか、あるいは、なくなりそうになったら買っておく。(「実際まだあるのだから、なくなってから買えばいい!」)

まだほかにもいろいろありますが、挙げるときりがありません。要するに、生活のいわゆる些細なことで、ことごとく夫は苛立ったり怒ったりして、私のすることなすことを全部否定していたのです。

そんなふうでしたから、仕事を辞めて自分の存在価値もわからなかった頃は、チロさんがおっしゃるように、自尊心の「じ」も私にはなかったように思います。

でも、まぁ、今こうして列挙してみてあらためて思いますが、こんな生活の些細なことがすべて争いの原因になり、しばしば大きな喧嘩に発展していたのですから、本当に2人ともエネルギーを消耗していましたね・・・よくまぁ、ここまで生き延びて、子どもたちも大きくなって・・・と、なんだかしみじみ思います。

話を戻しますが、

上記のような例を含めて、とにかく夫は、私のような(定型的な)やり方もあるのだと認めてくれ、それに対して批判や非難をしなくなりました。それどころか、夫とは違うやり方で、私もまた「よかれと思うことをしている」「相手に対する誠意を表している」と理解してくれたことで、「ありがとう」を1日の中で何度も、ごく自然に言ってくれるようになっています。

「定型的な感覚では傷ついたのだろう」と思ったときには、「ごめん」とか「悪かったね」という言葉もすんなり言ってくれるようになりました。

ごくごくシンプルに言ってしまうと、お互いに、やっと「敵」ではなく「味方・仲間」という認識ができたことで、相手の言動を、まずはニュートラルに受け取り、その真意を確認することができるようになった、

その結果(?)、そのプロセスの中で(?)、日常的に「ありがとう」「ごめん」を言える関係になった、ということかなぁ・・・。

夫の方の視野が広がったというのは、家庭外の人たちに対しても言えることで、これもまた、以前とは比較にならないくらい人に対して寛容になったと、私は見ています。

仕事については、KSさんの"夫のために」とひた走っていた"というのとは、むしろ逆でした。自分の満足する仕事を追い求めていた、その私のやり方が、夫の目には「やり過ぎ」「サービスしすぎ」と映っていたようで、そのへんのスタンスの違いも時として争いの種にもなっていましたから。

私の仕事の仕方について、夫も私もそれぞれに満足しているのは、今のこの非常勤の形になってからですね。

>「非定型の彼だから○○でいいよね」

これについても書こうと思ってPC開けましたが、ここまで書くのに時間をかけすぎて、残念ながら今日も時間切れです。また、後日、書こうと思います。気長に待っていてくださいね。


チロさん

「一緒にいてもひとり」、今、それと思しきご夫婦の関係の方から相談を受けて、本をお貸ししています。もう2年ぐらいあの本は読んでいませんが、私たち、そんな感じになっているのかなぁ・・・(笑)???

舌足らずの文章から、何か少しでもイメージしていただけたとのこと、ありがとうございました。

>カレンの夫さん
ありがとうございました。混乱していた頭がスッキリした感じです。それと、失礼ながら、これまでは、なんだか、若干の無理のある「理想論」のように見えたことが、「いや、こういうことか」と「感覚的に」(ココチさんの表現を使わせてもらいましたけど)、理解出来た気がします。

自分の中に固定してしまっていた「非定型的」物の見方×自分の中に固定してしまっていた「定型的」物の見方というのの修正が出来る・・・と考えたらいいのかな?(これ、前は「理屈」で捉えてたし「字面」でしか捉えてなかったけど、そこに「魂」が入った気がします)

定型同士でも非定型同士でも、生育歴や性格による「偏り」や「思い込み」というのはあり、それを補い合えるというのは一緒にいる「意味」の大事な部分だけれど、「定型」と「非定型」では、そのギャップがはるかに大きいですもんね。なんかカレンさん夫妻は、カレンさんの方がASで、カレンの夫さんの方が定型みたいに思えちゃう部分もあるけど、「違い」の距離が大きいからこそ、学べることも多い、という、その意味で、「最強」「最良」っていうのはあるかも。

弟夫婦の場合は、弟はカレンの夫さんとは正反対でシャキシャキしてはいなくて、そのなんともハズれたマイペースな感じが、弟夫婦に独特の「間」(マ)をもたらしくれていて、彼らのほのぼのとした雰囲気をかもしだしているように私は感じます。義妹はシャキシャキタイプなので、弟のマイペースを許容しつつ(以下に書くように弟のマイペースにはいい面もいっぱいあるから)、生活を回していってくれてます。なんか「いい味」の夫婦って感じなんです。

そして、弟の妥協しないマイペースやこだわりは、仕事の場面では、彼の作品を上質なものにしていると私は思っています。ただ、弟は、遅すぎるし、あれこれマルチに配慮しながら進めないため、彼の才能だったら、もっと世に出ていいのになぁ。惜しいなぁ、とも思います。でも、そこを崩しちゃったら弟が弟でなくなるしなぁ。

弟の場合、アスペ的「可愛げ」によって、周囲の人たちが、仕事もって来てくれたり、就職の世話してくれて、なんとなく、それに乗って、今日に至る・・・という感じ。アスペの人にとって「可愛がられて育つ」はとても大事なのかも。(まぁ、我が家にはDVもあったので「問題アリ」環境でしたけど、「子どものペースを尊重してくれる」家庭ではありました)

つい昨日、私はACだから元夫を選んだと言った「舌の根も乾かないうち」だけど、私、弟的なアスペの「良さ」というものに、慣れ親しんでおり、それが心地よいのかもしれないですね。弟と過ごす時間は私にはとても「ラク」なんです。元夫にそれを求めたけど、元夫は弟的な非定型じゃなかったということなのかな? 私ってACじゃなくてブラコンだったのかな、もしかして?

でも、アスペ的特徴全部が好きな訳じゃない。母的アスペは嫌いだけど、弟的アスペは好き。母の特徴も、弟の特徴も、しかし、定型にはないもので、定型といれば味わわなくてすむ「苦労」もあれば(母、元夫)、定型とでは味わえない「面白さ」もある(弟やJちゃん)。

だから、仮に私が弟的特徴を持った男性を求めてたとすると、それって、「非定型×定型」の「良さ」を求めることになり、「定型×定型」では満たされない何かがあったのかも。

まぁ、私、「次があるとしたら絶対定型」と思いますし、出向先のカウンセラーさんも「次は定型にしとけ」とおっしゃいますが。私、ACにつき、「普通の恋愛」「親密な関係」築く技がないもんで。そういうことは「定型で非ACの普通の人」とつきあえば、その人が教えてくれるって言われました。

今朝、出向先から弟一家が帰宅しました。

朝食は毎朝弟が作ってくれました。アスペ的こだわりで、食器洗いも私がやるよりずーっとキレイ。食器を乾かす棚だとか、そういうのもみ〜んなキレイに洗って行ってくれました。ドアのきいきいいう所もちゃーんと油差してってくれました。

やることは「ゆっくり」だけど、丁寧で確実。食事もこだわりあるから、美味しいです。
(>感謝!)

あらら、カレンさんと入れ違い。これから出張に出るので、1週間ぐらいは書けないかも。

今日ひさしぶりに3人でプールに行きました。子供と遊ぶ係はたいてい私なのですが、子供にとって恐怖だった水泳が私がひと夏一所懸命まじめにいっぱい一緒に遊んでやることでだんだん得意になってきた、その成長を見て欲しいなと思い誘いました。「かあさん見て、見て」とずいぶん得意になって見せびらかして、母さんも子供もニコニコしてて、その場を共有できて良かったなあ、と『平凡』な『しあわせ』をかみしめました。で、帰りに母ちゃんに「ね、一緒に来てよかったでしょう?」というと

「何が?」

「何がって、あの子が水の中であんなに楽しそうに遊ぶのを見れて、だよ」

「ああ、そうね」(無表情ないし不機嫌そうに見える表情)

って、とっくに、こういうのでいちいちめげなくなっていますけどなんか不思議なんですよね。もしかしたら、(休日じぶんのために使いたかった時間をつきあって…)というような心境だったのかもしれないけど、もう深読みも落胆もしません。

『子供が喜ぶのを見てうれしい』というような自我の境界がずれた感覚を持っているのは私の方なんですよね。でもね、強迫的に子供を欲しがったのは母ちゃんだったんですよ。当時私は職業的にハッピーだったので子供には消極的だったですが、その欲しがりようは文字通りの『脅迫』だったんです。私の仕事に支障がでたほどの。だから、生まれた新生児の扱いがうまくできずパニックてる姿に納得がいかなかった。生命の危険が感じられる状況では、当時、私の選択肢が本当になかったなあと今でも思われます。

 joさんのプール遊びエピソードを読んで、娘さん水を楽しめるようになってほんとによかったなあと素朴に思いました。奥さんの反応パターンも自分の経験からリアルに分かります。joさんはいちいちめげなくなっていると言うことですが、私の場合は一旦あきらめの状態になって、そのあとアスペルガー理解が共有されて関係を再調整するようになって、改めてまためげるようになり、それからだんだんとお互いの理解が進んでそういうやりとりをあまりしなくなったり、逆にそういうやりとりをわざわざやって遊んだりして、気がつくと最近はそこでめげることが無くなってきているように思います。

 「自我の境界がずれた感覚を持っているのは私の方なんですよね。」

 っていうのは、奥さんから見た場合、ということですよね?joさんや私から見ればずれているのは奥さんな訳で、だから結局「お互いにずれている」ということなわけだと思うけど。社会の中での多数派・少数派問題を横に置いて、二人だけの関係の中で見れば「お互い様」の世界なんだと思います。

 それにしても、奥さんの子どもを持つ事への欲望は、ほんとに切実だったんですね。子供を持つことで、何かが打開されるだろうと思われていたんでしょうか。それが何かは私には想像の範囲外ですし、結果としてその奥さんの「望み」がかなえられたのかというと、果たしてどうなのかなあとは思いますけれど。

いえいえ、客観的に見て…「客観世界」があるとしてなんですが、うれしいという情動は自分のものではないにもかかわらずうれしいというズレのことです。つまりは、「定型が標準的に持ってしまう幻想に惑わされない非定型」という意味でずれたと言ったのです。お互い様の主観から、という視点では、「それしか有り得ない」というパンダさんの指摘ももっともですが、お互いの主観からの出発点では、あやうい、というか限界が見えているというか…

このへん自分の中で整理しきれず揺れ動くところなのですけどね。

カレンさんからKSさんへの返答を読んで驚いた事がありました。
私も主人と理解し合えてきたなと感じていますが、
カレンさん夫婦が長い時間を経て理解しあえるようになったのは、どのような経過を辿ってなのか、出来るなら事細かに聞いてみたいな…私と同じ感じなのか違う形なのか?とかずっと思っていました。

カレンさんの努力ももちろんあっただろうと思いますが、コメントを読むと、ご主人自身の考えが本当に変わられて色んな事が共有されるようになったように受けました。

私の場合は、どちらかと言えば私の方が主人の考えに賛同してうまくいくようになってきたように思います。
カレンさんの家と合わせ方が逆になりますので、ちょっと驚きました。
アストンさんのお話でアスペといるとアスペに似てくるという話題もでていましたが、私もそんな感じかも知れませんが、それで私的にはちょうどいい具合になってきたように思います。

大まかに言えば、今まで私は共有などを求め過ぎていたかな?と反省した部分があったので減らした所、0に近かった主人からの共有や共感が逆に1つ、2つと増えてきた、という感じです。

家の場合は共有や共感を必要最低限に減らしてみてうまくいくようになってきたと思うのですが、カレンさん夫婦は増えたため、となるのでしょうか?一概にそういう訳でもないのでしょうか?ちょっと聞いてみたいな…と思いました。

これは、私的には以前UCさん(はじめまして)が井戸端で書いていた「思いやりと余計なお世話」の問題とも少し重なりますし、ココチさんが書いていた「私はもう少し自分の時間を大切にしたかった」のコメントや、
パンダさんのどっちが辛いか?の記事とも重なる問題だと思います。
UCさんのこのタイトル、わかりやすい、重要な、いいタイトルだな〜と惹きつけられました。

ココチさんが距離を置く事を進められていましたが、
私も繭さんとのやりとりから距離感について初めて考える事ができた事は、夫婦にとって大きな進展になりました。

みみさん

お久しぶりです!

ごく簡単に言うと、うちも、みみさんのところと、プロセスは大差ないような気がします。

私の方では、夫の言動の実態を観察&把握したり、本を読んだり掲示板やここで勉強させていただいたりすることで、「目の前に現実にいる夫」のことが徐々にわかるようになり、それにつれて、以前にはそういう理想を持っていることにさえ気づかなかった「定型女性的な男性に対する理想像」への執着がなくなってきたように思っています。

夫のことがわかってくるにつれて、以前ならば腹が立っていたことも腹が立たなくなり、夫にこうして欲しいああして欲しいという欲求や夫に対する「縛り」の気持ちも薄らいで、「ま、夫はこんなものでしょう」となってきた、

そうすると、自分の気持ちも軽くなるし、夫の言動に対しても寛容になるし、そうなると夫の方もなんだか寛容になってきて、自然と共有できる時間や楽しみが増えてきたという感じです。

月並みな表現になるかもしれませんが、意識して相手に対する「執着」や「縛り」を減らすにつれて、共有できる時間や楽しみが増えたということでしょうか。お互い「こうあるべき」「こなるはず」という枠の中に、相手を当てはめようとする・自分が当てはめられそうになる危険性を感じているうちは、2人ともに戦々恐々としていましたが。

では、今日はこれにて、おやすみなさい。

みみさん、カレンさん、

だから「反応性…障害」というキーワードが私にはひっかかってたのです。
うちの子と母親の様子を見ていると、まさにお互いがお互いの環境として最悪の反応をしていて、そうするから相手もそうする、というような負の連鎖がエスカレートしていくという反応の悪循環でした。私には、表情やちょっとしたしぐさをキャッチして子に共感し「それは気持ち悪いに決まってるでしょう」という定型的感覚で調整していたけど、母親には難しかったようです。それは悪気じゃないけど、私には看過できないことが多かった。放っておいたら一気に虐待まで行ってたでしょう。子が3歳未満の時に、食べこぼしか何かをつかまえて「日本国憲法にこう書いてある!」(健康で文化的という文言だったかな)といって怒り狂ってるのを見たときは、背筋が寒くなったものです。「自動的に相手に合わせて…通じる表現をする」というのが(ある種の人には)無理な注文だったということなのかな?そうかと思うと、遊びに来たよその子には最大限の幼児表現を使って愛嬌をふりまいてました。この切り替えが精一杯だったのでしょうが、うちの子は激しく混乱していました。差別待遇とか、無視とか、ため息とか不快な表情により虐待の定義を十二分に満たしていました。
(敬語とか待遇表現にも弱点があるのも発達障害の特徴です。底流に流れる原理原則に照らして表現があるわけですが、表現を表現だけから学習していることが多いので微妙なズレがあります。その微妙さゆえに、たいていの場合はうまく行くのに、時として周囲の怒りの引き金になります。)

私と母ちゃんの葛藤も、おそらくそういう、うちの子と母の反応に似た反応性の混乱だったのでしょうが、こちらは割って入る人がいなかった。それらのことはかなり原初的な感覚のズレに由来するものもあったのだろうと今になって思います。

KSさんちは子が2歳の時に父親に突進したということでしたが、うちでは、子供がもっと成長して、保育所やら学校での経験から「母さん、へん!」とか「イヤ」とかが表現できるようになってきて、はじめて少しづつ家の中が落ち着いてきたんです。今でも「イヤ」という表現が下手で学校ではかなり苦労してますし、家でたびたび癇癪おこしますが、家族全体の混乱レベルは沈静傾向で、私は抗鬱薬から離脱しました。

で、「反応性…」というのは、どちらか一方の反応が弱まるとほぼ自動的に他方の反応も弱まるんですよね。うちでは母さんの理不尽さも同時に影をひそめはじめるわけです。プールに一緒に行くことができた、ニコニコ遊べたことはその例です。母さんの理不尽さを招いていたのは子の超高頻度の癇癪だったり、母さんの期待に沿わない反応だったわけですから。

そういう意味でも、周囲に適応して自分を変化させる脳というシステムは、環境と一体のものだと思うわけです。そうすると自他境界が曖昧というのは、病態ではなく本質的な脳の性質に思えるんです。

ちなみに自閉系は予定が急変するとパニクりますよね。そういう特徴は鬱病でも出る病態ですよね。鬱と自閉の類似点についても、そこから反応系が始まってしまうことも一度ゆっくり考えてみたいです。

joさん

一昨日から夫とともに書いた一連のコメントの内容について、昨夜も夕食の際に夫と話したのですが、その中には以下のような会話もありました。

夫:「本当にカレンさんが書いていた通り、一事が万事、あの調子で揉めてたよね・・・まさに、いつ地雷を踏むか状態で。なんであんなふうだったんだろう?何かしらイライラしてたんだろうね。」

私:「ほんと、ほんと。お互いに、わけがわからなくて、とにかくイライラしてたよね。で、イライラにかまけて、お互いに、相手に反対するために反対の言葉をぶつけたりして。」

夫:「『反対のための反対』・・・そうだね、してただろうね。」

そして、こういう会話のあと、なんとはなしに考えていたのが、joさんとパンダさんのやり取りの中に出てきた「ピアノの共鳴」のことと、「反応性・・・障がい」のことでした。他には、昔やったりかの授業での「音叉の実験」とか。

joさんの言われることは、とても専門的というか、レベルが高くて、読んですぐに理解ができないことが多いのですが(もともと、私の反応が蛍光灯的だということも大きいと思います・・・m(__)m・・・)、「反応性」のこと、「解凍」のことやらなんやら、実感としてわかり始めてから、joさんの言われる理論が理解できるようになってきたような気がします。

>>KSさんちは子が2歳の時に父親に突進したということでしたが、うちでは、子供がもっと成長して、保育所やら学校での経験から「母さん、へん!」とか「イヤ」とかが表現できるようになってきて、はじめて少しづつ家の中が落ち着いてきたんです。今でも「イヤ」という表現が下手で学校ではかなり苦労してますし、家でたびたび癇癪おこしますが、家族全体の混乱レベルは沈静傾向で、私は抗鬱薬から離脱しました。

で、「反応性…」というのは、どちらか一方の反応が弱まるとほぼ自動的に他方の反応も弱まるんですよね。うちでは母さんの理不尽さも同時に影をひそめはじめるわけです。プールに一緒に行くことができた、ニコニコ遊べたことはその例です。母さんの理不尽さを招いていたのは子の超高頻度の癇癪だったり、母さんの期待に沿わない反応だったわけですから>>

よかった・・・!思わず涙が出ました。

薬のことだけとっても、そこに至るまでがどれだけ大変なことか、joさんがどれほど努力されてきたか、ものすごくわかるので、そういう状況にまでご家庭が落ち着いてこられたこと、本当に、すごく嬉しいです。

うちの場合は、以前にもお話したように、アスペルガーのことがわかったのは、娘が高2、息子が中2のときでしたから、子どもたちを長いことひどい環境の中に置いてしまったことを、とても後悔しました。

実際に、娘は争いが激化する家庭の状況に耐えられず、高校生のときに、ある大義名分のもとに1年間家を出ていましたし(その最中に夫のアスペルガーのことがわかったわけですが)、息子の方も、一時期は本当に心配せざるをえない状態に陥っていて、その際にはもう必死に手をかけました。

今でも、娘や息子に対しては、それぞれの失われた幼少時代・小学生時代・中学生時代をやり直すべく、情緒面でのスキンシップをずいぶんとしてきていますが、ともかく、大学生と高校生になって、やっと、私たち親に対しての自分の気持ちを吐き出せるようになり、

おそらくはjoさんの言われる「反応性・・・」から、抜け出すことができるようになり、そういう意味で、家族そろってやっと落ち着いてきた、と感じています。

うまく言い表せませんが、とにかく、joさんの今日のコメント読んで、本当に嬉しいです。嬉しくてたまりません(喜びすぎていたら?ごめんなさい)、またひとつ、「楽しい」「嬉しい」「落ち着いている」が増えていくとよいですね(^^)

カレンさん、
うちはたぶん、子の思春期に荒れる可能性があることを、私は強く予感しています。
思春期に暴れない子は、大人になってたいへん、と言いますからむしろ期待してます。
自分がもつかどうか???

joさん

「思春期に暴れなくて大人になってからたいへん」だったのが私、「思春期に大暴れして、大人になってから大丈夫」なのが弟です。

「(中学時代から大学時代まで、親の言うことは聞いてなくて)やりたいことを全部やったから、何にも後悔のない人生だよ(にっこり)」と、あっけらかんとのたまうのを聞いて、思わず「もう、こっちは大変だったんだからね~」と苦笑したのが数か月前のことでした(^^;)

joさんの子どもさん、思春期に暴れてくれることを期待(?)しましょう!うちは、せめて学生のうちに、これまでに暴れ足りなかった分まで暴れたり甘えたりしてくれることに期待(?)します。

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つづきです(=゚ω゚)ノ トゥレットなどについて調べてたら 「注意してやめさせようとするとストレスでますますひどくなる」とか書いてある('A`)えっ ↓ 気になるけど指摘できない('A`;) ↓ (´・ω・`)・・・・・・ ちなみにこの頃(2011年12月)、かなり彼と別れるべきか悩んでいました。 付き合って3ヶ月になり、ジャックの気持ちが判らなくなったのが原因。 かつてがんばってたダイエットのガッツも消えてジャックの体重は戻っていたりw 彼が風邪を引いて体調がよくなかったせいもあ... [続きを読む]

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