2021年4月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月

2011年8月31日 (水)

ズレの大きさという問題

 joさんが「うちの例をさらします」と前置きをされて奥さんについてこんなことを書かれていました

「「あれやっといてね」、と頼んだことはスパッと抜けてたりするし、抜けてたことは後に督促状や追徴金が来て明るみに出る始末で、あげく「あなただって完璧じゃないから忘れることぐらいあるでしょう(怒)」みたいな防衛反応。」

 で、joさんとは家庭での体験が共有される部分がいつもとても大きいんですが、面白いことに(?)ここはちょっと違いました。私の恥をさらすことになるんですが、この奥さんのパターン、まるっきり私のパターンみたい (^ ^;)ゞ

 私はほんとにそういう事務的なことがだめなんです。無能の極地みたいなもの。ところが逆にパートナーの方はものすごく律儀にこなしますし、私がそういうの抜けてることを知っていますから、時々心配して注意してくれたりもします。ただし本人としては書類作りとか、そういう事務的なことについては苦手意識が強いらしく、非常にエネルギーを使って間違いをしないように仕事をしているようなんですけれども。

 印象としてはカレンの夫さんはなんかそんへんばりばりこなして行かれる感じもするし、多分、そういう「苦手さ」についてはアスペルガーの人にはいろんなレベルがあるのではないかという気もします。中にはほとんど問題なく社会生活をこなせる人(あるいはむしろ律儀にこなして重宝される人)もいれば、苦手意識はあるので、すごくエネルギーを使うけど、なんとかそれでこなしている人、そして苦手意識があって、実際に頑張ってもなかなかうまくできない人、さらにはもしかすれば苦手意識もなく、しかもうまくもできないという人もあるかも知れません。

 もちろん定型の人にもそういういろんなレベルがあると思うので、そういう同じ「できなさ」にもアスペルガー的な特徴とか、定型的な特徴がそれぞれあるのかもしれません。よくわかりませんけど。

 関連してKSさんとみなさんのやりとりで出てきた「記憶」の共有のむつかしさという問題も、いろんなレベルがあるような気がしました。ほんとに書かれたことからの漠然とした、素朴な印象に過ぎないんですが、KSさんやjoさんの(元・現)お相手の方の場合は、かなりキツイ感じがするんです。もし私のパートナーも同じくらいに私とのズレが大きかったとすれば、お互いの関係は今より相当難しかったろうなあという気がします。

 前にKSさんがアスペルガーの人の「障がい」のレベルを、定型的な発達のものさしで考えたときに、「もしかしたら、5歳未満の大人とは夫婦関係築くのムリだけど、6歳程度にまで行ってれば大丈夫とかいう臨界点があるのか?」という見方もあり得るのではないかと書かれていました。もちろん「夫婦関係」というのをどういう基準で考えるかとか、その物差しでは測れない部分での相性の問題とか、いろんな要素が絡むと思うので、一律にすべてのケースを同じ基準で考えることは無理だと思いますけれど、でも少なくとも「このカップルの場合にはどこまでは可能か(どっから先は大変か)」というようなことはある程度ありそうな気がします。

 そうすると、アスペと定型のコミュニケーションを考える、というときに、一般的にどういうところがどんな風にずれやすいか、それに対してはどんな対処の工夫が考えられるか、ということを考えるだけでなく、それぞれのカップルのズレの大きさに合わせた工夫を考えていく、ということも大事になるのではないかと、なんとなく思うようになりました。

 具体的にはまだよくわからないんですが、たとえば同じように「記憶の共有が困難」ということがあったとして、それがどのレベルまで難しいのか、ということについて、ある程度段階を分けることができるかもしれません。そうするとKSさんやjoさんが書かれていたように、記憶の共有というのはお互いの人生の思いでの共有の意味を持ったり、約束の共有という信頼関係に関わる意味を持ったり、人間関係にとってはすごく大事なものだから、その困難さの度合いが強まるほど、それに対する工夫も難しさを増してくることになりそうです。

 そう考えると、KSさんが思い出を共有できない(無かったことになってしまう)相手と、人生を共にすることにすごい辛さを感じられたのは自然なことだと思うし、それらの結果として別々の人生を歩むという結論を得たことも無理ないことに感じます。

 他方で色んな面で私の所と共通する面を持ちながら、けれども「アスペと定型のズレ」という理解は共有できず、感覚や記憶などの共有の面でも私の所より一段大きなズレを抱えられているように感じられるjoさんの場合、おそらく私のところ以上の苦しみを抱えて頑張ってこられただろうし、それに対するさまざまな工夫もより深いものを模索されているに違いないと思えます。だから「ああ虚しいなあ」というため息をつかれるのも無理はないと思える。

 うーんと、何が書きたかったのか、というと、だからたとえばjoさんのご家庭の問題を考えていくとき、一般的に定型とアスペについて考えるレベルだけでは手が届かないところがあって、joさんと奥さんの個性的な特徴みたいなこととか、ズレのレベルのこととか、そういうより具体的なところをじっくりと見つめて考えていく必要があるのではないかという気がするという、なんかそんなことだと思います。

2011年8月29日 (月)

定型と非定型のバランス

 最近、このブログ上のやりとりでまたすごい展開が起こっているなあと感じています。その一つがカレンさんやKSさんたちの間のやりとり(KSさんKSさんKSさんカレンさんKSさんカレンさんKSさんチロさん)です。

 アスペルガーの元夫の方と、長い葛藤を経て最近離婚を成立されたKSさんですが、ここしばらくは逆に「アスペルガーだからこそのよさはどういうところにあるのだろうか」という問いを投げかけられてきていました(KSさんKSさん とか)。

 そして今日のコメントでは最後にこんなことを書かれています。

 「私個人のレベルで見た場合も、もしかすると、定型と非定型の両方からもらってるサポートがいい具合にバランスを保っているのかも。片方だけだったら、私、ここまで来られなかったかも。」

 アスペルガーである元夫の方との激しい葛藤に苦しみ抜かれ、子育てを一段落させた後にこれも苦労の後にようやく離婚にたどり着かれ、それでも繰り返す嘔吐などのつらい「後遺症」を抱えながら傷ついた自分を癒す作業を続けられているKSさんが、改めて自分の身近に何人かいらっしゃるアスペルガーの人たちとの関係を見つめながら、こんな風に書かれている。なんかすごいですよね。

 もちろん、無理して「かっこつけて」そんなふうなことを書かれているのではないと感じます。第一そんな無理のきく状態でもないだろうと想像します。そして書かれていることはKSさんご自身にとってとても大事なこととして書かれているように感じられる。気楽な立場で「みんな、なかよくしましょうね!」とか軽く言うのとは全然違う。口先だけで「みなさんのおかげでここまで来られました!」とお愛想を言うのとも全く違う。ものすごい傷を抱え込んだ後に、それでもなお、というか、それだからこそ、こんな風に書かれていることのすごさを感じるんです。

 お互いにどうしようもなく理解しあえない部分を抱え込みながら、そしてそのために不本意な形でお互いに傷つけ合うこともありながら、それでも単に自分を否定したり相手を否定したりするのではなく、自分が自分であることを見失わずに、どうしたらそういう人間同士がコミュニケーションをとりあえるのか。

 異質な者同士の「傷つけ合う」関係をどうしたら逆に「違うからこそ刺激し合い、補い合って新しいものを生み出していく」ようなプラスの関係に変えていくことが出来るのか、ということを考え続けたいと私は思っているのですけれど、そういう自分にとってこのKSさんの言葉はほんとに勇気づけられるものです。ああ、人間って、こんなに傷ついた後でも、復讐の鬼と化すのでも、そのことを忘れ去ってごまかすのでもなく、そんな風に問題に正面から向き合いながら、しかも自分にとって本当に必要なこととして前向きに生きていこうとできるんだ、ということを見せていただいた気がして。

 
 今朝、パートナーが仕事に出る前に、「ブログで最近KSさんやカレンさんたちが、『アスペルガーの人だからこそ持っているいいところ』について議論しているよ」、という話をしたら、彼女は「それで何がいいんだって?」と、ちょっと嬉しそうな顔をして聞き返してきました。私は「すごいいろんなこと書かれているわ」とだけ答えておきました (^ ^;)。

2011年8月26日 (金)

気遣いの矛盾

 今回はアスペと定型のお互いの気遣いの難しさについて多少順序立てて考えてみたいと思います。ちょっと考えただけでほんとに沢山の問題が見えてきて「わあ大変!」とも感じますし、でも一方では「こういうことについてひとつひとつ工夫をしていけばいいんじゃないかな」という道筋のようなものが見えてくる感じもします。

 アスペと定型の間では、自分にとって気遣いであることが相手にとっては全く意味がなかったり、却って不誠実なことを意味してしまったりすることがある、ということはこれまで繰り返し考えてきました。つまり「相手のために」と思ってすることが、相手にとっては逆の意味を持ってしまったりすると言うことです。

 そのことがお互いに理解されるようになると、まずは自分のやり方でそのまま相手に対することにためらいが出てくるようになるように思います。そしてだんだん「相手にとって喜ばれるやり方」をするほうがいいのだろうという気持ちも出てくる。

 とはいえ、口で言うほどそれは簡単なことではなくて、まず「相手は何が嬉しいのか」ということが簡単にはわからないという壁にぶつかります。少なくともそれまでの自分の人生経験の中から学んできた「これをすれば相手は喜んでくれる」という「常識的」なパターンが通用しないことがしばしばあるのですから、なかなかそこまで想像力を働かせることは難しい。少なくとも私のような凡人にはなかなか手が届かないことが多いです。

 いくら私のぼんくら頭で考えてもわからないし、また定型同士で相談したところで、結局定型的な発想しか出てこないことがほとんどですから、それもなかなか難しい(もちろん立場を変えてアスペの人同士でも同じ事になるでしょう)。ということでしょうがないから直接相手に尋ねてみる、ということをすることになります。

 そうすると次に訪れるむつかしさは、「そんなこと聞かれても、うまく説明できないよ」という場合が少なくないと言うことです。というのは、だいたいそういうことって自分自身は普段意識もせずにしたりされたりしていることなので、改めて口で説明してみろと言われても結構難しいんですね。たとえ話をすれば、自転車を乗れるからといって、自転車が乗れない人に対して口で「こうすれば乗れるようになるんだ」ということをうまく説明するのはほとんど不可能に近いようなものです。

 そこをなんとか頑張って言葉で説明したとして、その次に問題になるのは、その言葉の理解がまたお互いにずれてしまう場合が多いと言うことです。だから「こういうときはこうして欲しい」というようなことをこちらが説明したつもりでも、実際には相手はびっくりするようなときにそうしてくれたり、あるいはびっくりするようなやりかたでやってくれたりする。

 私のパートナーの場合で言うと、「こういう言い方をすると定型の相手は傷つく」と説明されたとします。で、彼女自身はそれに気をつけて話をしているつもりなのに、また相手から同じように傷ついたと言われたりする。なんでそういうことが起こるのかというと、「こう言う言い方をすると……」という説明には、実は説明している本人も気がついていないような、いろんな前提がくっついているのが普通なんですね。つまり「こういう場合には、こういう言い方をすると……」というような。しかも「こういう場合」というのは一例を挙げているだけなわけですが、ではその例にはそのほかにどんな場合が含まれているのか、ということの理解がずれてしまう。

 そうするとパートナーにとっては定型にとってどういう場合にそういう言い方がよくて、どういう場合はだめなのか、訳が分かんなくなってしまいますから、相手を傷つけないためには一切そういう言い方自体をしないという選択肢しかなくなってしまったりするわけです。

 もう少し具体的な例を挙げると、定型の相手の言ったことに対して彼女が素朴に疑問をなげかけたつもりが、相手は単に揚げ足を取られたような気持ちになったり、馬鹿にされたような気持ちになったり、激しく批判されたような気持ちになったり、果ては喧嘩を売られたように感じたりすることがある。

 定型の私からすれば、そういうときは「こういう言い方をすれば大丈夫」と思えるようなことで、そう説明しても、「どういうとき」に「どういう言い方」なのか、そこがうまく通じ合わないことがある。そうすると彼女としては気をつけているつもりなのに、また相手にショックを与えたり、反発されたりしてしまうことが繰り返されたりするわけです。そうすると定型の相手との関係を悪化させないためには、「一切相手の言うことには疑問を投げかけないでおく」というような選択肢しかなくなったりする。

 もちろんそういう一方的な「我慢」は定型の側がそうしたとしても、アスペの側がそうしたとしても、誰にとってもしんどいことなわけですし、言いたいことが言えない関係は深まりもないままですし、いずれ「我慢」が「不満」になって爆発するかも知れない。結局本当の問題の解決にはなりません。

 それでも少しずつ経験を経て、「こう言うときはOK,こう言うときはだめ」という場合分けをひとつひとつ学んでいって、なんとかうまくいくことも出てくるようになったり、あるいは幸いにして「こう言うときは」という例の理解が比較的簡単に共有できた場合、それでそのままハッピーになることもあるでしょうが、ここで新たな問題が出てくることがあります。というのは、「そこでそうやるのは、定型的にはいいのかも知れないけど、アスペ的にはとても不誠実な対応に感じてしまう(あるいは定型とアスペを入れ替えても同じです)」という場合のことです。

 定型的にはこう言うときはこうして欲しいと思う。そのことをアスペの側が理解したとして、でもそれをすることはアスペとしては不誠実に感じられれば、それをすることにやっぱり何かブレーキがかかってしまうとか、あるいは気乗りしない形でそうしても、なんとなく罪悪感を抱えてしまう。

 昨日パートナーと話していて言われたんですが、たとえば相手が怪我なり病気なりをして、ケアをしなければならない状態になったとします。定型的にはまず「わあ、痛そう!」とか「辛そう!」とかいう気持ちが湧いてきてそれと同時にケアをする、という形になることが多いと思います(もちろん、相手との関係によっては「ざまー見ろ」となる場合があるのかもしれませんが (^ ^;)ゞ)。

 で、そこで思わず「痛い?」「辛いでしょう?」とか、気持ちを共有するような言葉かけをしたり、「傷は浅いぞ!しっかりしろ!」とか励ましてみたり、そういう相手の気持ちへの働きかけがわりに自然に生じるし、そうされる側の定型もそれは嬉しいだろうと思います。

 ところがパートナーの場合はそういう感情がまず発生するのではなく、「この事態にどう対処すべきなのか」ということを考えて行動することの方が大事になる。そうやって具体的なケアをすることの中に「相手への気遣い」が積み重なっていくわけで、それ抜きに気持ちへの働きかけ、みたいな「(定型的)共感」がいきなり成り立つわけではないと言うわけです。

 そうすると、怪我や病気になった人を見て、まず「痛い?」とか「辛いでしょう?」とか、「(定型的)共感」の言葉かけをすることは、彼女にとってはむしろ不誠実になると言うのですね。だってその言葉は「心から言うこと」ではなく、言ってみれば嘘をついているようなものになるからです。「一番大事なことは適切な対処をしっかりすること」であり、それにともなって「素直に心から出てくる言葉を語る」ことこそが誠実な対応だ、と考えたとすれば、「どういうときにどんな気持ちになるか」ということに、アスペと定型のズレがあるわけですから、彼女にとってはそれが不誠実な対応だ、という思いになることは理解できる気がします。

 KSさんが以前戸惑って書いていらしたことにもつながると思いますが、「自分にとっては不誠実なことだ」と思いながら、「でもそうすることが相手にはハッピーなことだ」という矛盾した場面で、それでも「まあ相手が喜んでくれることだからそうしてもいいんじゃないか」と思えるようになったり、あるいは「相手が喜んでくれることだからむしろそうすべきだ」と素直に思えるようになったり、そういう変化が起こることってあるんでしょうか?あるとすればどうすればそんな風に変化するんでしょうか?


 
 

2011年8月24日 (水)

お互いの小さな工夫

 アスペと定型の間でしばしばトラブルことが多い場面に、定型の側が病気になったときのことがある、ということは多くの人が体験談として語られていることですし、なぜそういうことになるか、の理由もここでも考えてきています。それは「病気になったときにどういう気の使い方をして欲しいか」ということについての考え方が、定型とアスペでは全くずれていて、お互いにそれを理解していないために、「定型がしてほしいこと」と「アスペの人が気遣ってすること」が全然噛み合わないことがその理由と思えます。

 アスペルガーの人は基本的に病気になったら、必要に応じて医者にかかって、薬を飲んで、あとはひたすら安静にして自分で治すしかない、と思っているようなので、その他食事の世話や布団の世話など、必要なサポートをする他は、病気の定型を一人にしておく、ということが自然な対応であり、一番適切な対応だと思えるようです。ところが定型の方は「病は気から」という言葉にもあるように、なんか病気で心細くなっている自分の気持ちを支えて欲しい、という思いがある人が多いでしょう。弱っているときに「甘え」の気持ちが出るんでしょうか。

 だから、入院時の看護婦さんの対応のように、医療的に必要なときに来て対処してくれる、ということではなくて、「側にいて欲しい」とか、「しんどそうだね」「大丈夫?」「かわいそうに」とか、なんか(定型的な)共感の言葉かけをしてもらったり、体をさすってもらったりということが大事になる(人が多分多い)。考えようによってはまるで子どもみたいですけどね。

 そしてアスペの人にはここがぴんときにくいようです。側にいても別に治療できるわけでもないし、「しんどそうだね」としんどそうな人にあたりまえのことをわざわざ確認してどうするというのか。「かわいそうに」と言ってかわいそうで無くなるわけでもない。そんな無駄な話をして病人を煩わせるより、静かに寝かせてあげた方がよほどいいと考えられるのかなと思います。(ま、定型の私がアスペの方の言われることから想像していることなので、どこまで当たってるのかはわかりませんが)

 ということでそういうズレがあるために、定型の側は「辛いときに放っておかれた」という寂しさやショックを感じ、その気持ちはアスペの人とは共有されない。


 実はここ数日、体調を崩して寝込んだり病院に行ったりしていたのですが、パートナーとの間にもこれまではそういうズレが結構シビアでしたし、子どもも母親の感覚とのズレに随分苦しんでいました。で、アスペルガーと定型のズレについての上のような理解が共有された後は、そこも少しずつ変わりつつあります。

 私の方も、できるだけ具体的に「こうしてほしい」ということを、あまり遠慮することなく説明するようになりましたし、パートナーの方もそれは自分の流儀ではないのだけれど、可能な範囲で応じてくれようとします。

 
 それと、こちらが辛そうにしていれば、パートナーもとても心配になるのは同じなんですが、彼女の場合、その心配が「厳しい表情」とか「キツイ言い方」になって表現されるようなのです。だからこちらは何か怒られているような、責められているような気持ちになる。慰めて欲しいのに責められる、という感じになってまた辛い。

 で、昨日もまたそんな感じになったので、昨日は私の方から「怒らないで」と頼みました。もちろん彼女にはそのつもりはないから「怒ってない」と言うのですが、私の方はあえて「でも表情とか言い方が怖い感じだから」と説明を加えました。「これが自分の自然な反応なんだから、そんなこと言われてもどうしたらいいか分からない」とさらに不機嫌(に見える)状態になる、というのがこれまでのパートナーの答え方だったのですが、今回はだまって聞いていました。

 その後、いかにも迷惑そうな口調で(と私には聞こえる)「汗臭い」と言って、ぬれタオルを持って部屋に汗を拭きに来てくれたんですが、そのとき、ちょっとしたジョークを笑いながら言ってくれたんですね。一緒に笑いましたが、「ああ、病気の時にこういうこと初めてだな」とちょっと感激。多分彼女なりに工夫して、合わせてくれたんでしょう。もちろん彼女自身も笑える話ですから、そんなに無理をしてと言う形ではなくて。

 なんか、お互いのそういう小さな工夫の積み重ねを続けること自体が「一緒に暮らす」ということなのかなあと思わないでもありません。

 うーん、ここでエネルギーが尽きました。沢山コメントを頂きながら今日はお返事ができそうにありませんが、ご容赦下さい。

2011年8月21日 (日)

共感して欲しいことのズレ

 これまでもぼちぼち書いてきたことと思いますが、以前、私はパートナーの言動を見て、どうしてこんなにも自分の喜びや悲しみに共感してもらえないのだろう、ということを感じて辛かったし、やがてそういう期待をすること自体をあきらめるようになっていったし、そうすると、子育てと経済的なことを除けばなんのために一緒に暮らして居るんだろうということもわかんなくなりましたし(というか、経済的には私の方は十分暮らせたわけだから、それを差し引けば子どものことだけですね)、さらにそれを過ぎて「自分が拒絶されている」と思わざるを得なくなってからは本気で離婚を考えざるを得なかったわけです。
 
 そのあと、パートナーがアスペルガーだという共通理解ができて、「そうか、共感ということが彼女はできないし求めないんだ」という理解になってちょっとそれまでの私の感じ方が変わってきて、でもその次に「ほんとに共感がないんだろうか」ということが疑問になり、実は「アスペルガーの人は共感能力がないわけでも、共感的な関係への欲求がないわけでもないのでもなくて、ただどんなときに何をどんなふうに共感したいと思うか、どんな状態を共感的と感じるのか、それをどう表現するのか」ということが定型とずれているので、定型からそう見えてしまうのではないかと考えてみたわけです。

 医者や専門家だって基本的には定型の視点から問題を考えているわけで、(医者というのは基本的に「定型」を「健康=あるべき姿」と考えて、その状態に「患者」をどう近づけていくか、どう「患者」を矯正していくか、という発想を普通はするので、そういう「視点の偏り」を医者が逃れるのはものすごく難しいと思います)、そういう視点からアスペルガーの人の特徴を整理すれば「感情理解の障がい」とか、共感性の欠如、とかそういう言い方になりやすく、そうするとそう診断されたアスペルガーの人も「ああ、自分はそういう障がい(あるいは脳)の持ち主なんだ」というふうに「定型的な目で、定型の言葉でアスペルガーとしての自分を理解する」、ということをしやすいわけですよね。実際アスペルガーの人の場合は「定型的な共感」が圧倒的に苦手な人が多いのは事実な訳ですし、定型的な基準で判断すれば当然そうなる。

 でも、パートナーとのこれまでのことを考えてみれば、「アスペルガー」という共通理解が成立するずっと以前から、そして今に至るまで、私が彼女に「共感してもらう」ことが難しいだけではなくて、彼女の方が私に理解してもらえないことをずっと苦しんできた歴史があります。そして彼女自身がその気持ちを何度か言葉にして私に伝えてきていました。

 この「自分の気持ちを理解してほしい」という気持ちって、広い意味では「自分の世界を共有して欲しい」ということだし、「自分の苦しみを共有して欲しい」ということ、つまり「共感」への欲求だと今は思えるんです。ただ、以前は自分が彼女の何を理解していないのか、ということ自体が私には想像のおよばないような、全く理解できないような世界だったので、彼女が「理解されずに苦しむ」ということ自体が全然実感できないことだったわけです。それよりも自分自身の苦しみが自分には圧倒的にリアルだったので、それに比べて「何をそんなことで苦しんでいると言えるわけ?」という疑問しか浮かばない状態だったと思います。

 ああ、そういえば定型とアスペの関係が全く逆の立場ですけれど、カレン夫妻の場合もアスペルガーであるカレンの夫さんがカレンさんの苦しみを全く理解できず、そのことでカレンさんが「理解されないことを苦しんでこられた」わけですよね。ちょうどその裏返しの関係みたいなもので、私はアスペルガーであるパートナーの苦しみや、彼女の「共感されることへの熱望」を全くと言っていいほどに実感できなかった。どれだけ言葉でそう言われても、ほんとにぴんとこなかったというのが正直なところです。だから当然適切な対応もできなかったし、実質的にはそのパートナーの苦しみは私にとっては「無いこと」に等しくなってしまいました。そして自分の苦しみだけがリアルに実感され、積み重なっていって自分をむしばんでいったわけです。

 そういう経過を経て、今は「共感能力の有る無し」ではなくて、「共感して欲しいこと、共感の仕方にズレがあって、お互いに通じ合いにくく、共感し合いにくいんだ」という風に考えることの方が私には自然になってきています。

 けれども、そう考えるからと言って「共感して欲しいことのズレ」が無くなるわけではないし、それがどうズレているのかということもなかなかうまく理解できないというのは正直なところです。前に比べるとちょっとなにか手がかりのようなものがかすかに見え始めたかなあと言う位で。そこがもう少し言葉になるくらいに見えてくれば、またずいぶんと前進するんだと思いますし、場合によっては他の皆さんとも共有できることが増えるだろうと思うのですが、まだまだ大きな課題のひとつ、という段階ですね。まあ「課題が見えてきている」と言うこと自体はとても大きな前進だと言うことは言えると思いますけれども。

 

2011年8月15日 (月)

アスペと定型どっちがつらい?

 KSさんがこんなことを書かれていました。

「アストン博士の本も「定型の側がどうやって自分を納得させるか」という本というように読めないこともない。「定型×非定型の結婚は可能だが、定型の側により大きな負担がかかる」ともキッパリおっしゃってるし。」

 これを見ると、定型とアスペの結婚、定型の方が割りが悪いようです。アストンさんは沢山のカップルをご覧になっているから、少なくとも結婚、という関係になるとそうなのかなあという気もします。たとえば私のパートナーももちろんいろいろ苦しんだ訳ですが、私の方がより厳しかっただろうと言います。どうしてそう思うかと聞くと、私は鬱状態になり、通院が必要になりましたが、彼女は鬱にはならなかったからと言います。

 でもこれ、ほんとはどうなんかな、というのは今の私にはよく分かりません。まず、少なくとも結婚という枠を外して考えた場合、定型が多数派で定型に合わせて作られているこの世の中で、生きづらいのはやっぱりアスペの方ですよね。統計的なデータはよく知りませんけれど、就職の難しさや失業率だって、転職経験の多さだって、アスペの人の方が状況が悪いだろう、というのはまあ容易に想像できます。子ども時代にどっちがいじめを受けやすいかと言うことも同じでしょうね。

 そういう社会的な環境の中で、深刻な鬱状態になったり、いろいろと苦しむアスペの人の割合はやっぱり定型よりも多いでしょう。

 ということは、アストンさんのような見方が出てくるのは「結婚」という特別の関係の場合に限るのかも知れません。あるいはそこに「親子」を含めてもいいかもしれない。でも、もしそうだとして、それは何で、と言うことになるのでしょうか?

 「『結婚』の意味のズレ」でもちょっと考えてみましたけれど、多くのアスペの人にとって、特にこの世の中では家庭の中で立場が女性よりも強くなりやすい男性のアスペの人にとって、「結婚」はもうひとつの安定したゴールで、会社での人間関係のように無理をしてずっと気を遣い続けたりする必要のない場、と考えられやすいかも知れません。もしそうなら、いつも細かく気遣いをして関係を調整しようとする定型の女性の方は、なかなか酬われない苦労をずっと続けることになりやすい、ということも考えられます。

 女性の方がアスペであるカップルではどうでしょうか。たとえばjoさんのご家庭など、joさんから教えていただいた内容から想像すると、アスペである奥さんも自罰と他罰激しく行き来したり、生活の基本的な計画のような部分でもうまくできないことが多かったり、精神的な部分でも実生活上の部分でもずいぶんと苦労されて居るんだろうとは思いますが、少なくとも発達障がいを持ったお子さんをしっかり受け止めながら、家族が抱えている困難に一生懸命に取り組んでこられたのはjoさんの方という印象が私にはあります。 

 なんでそうなのかと考えてみると、joさんは定型向きに作られているこの世の中の決まり事、常識などを周囲の定型の人たちと共有されていて、奥さんや娘さんがそこからはずれることが多いことを強く意識されているし、それを何とかしなければならない、それができるのは自分しかいないと考えられている。それに対して、奥さんの方はそのズレの問題をjoさんと共有することを避けていらっしゃるようなので、自分がそのことで努力しなければならない、という気持ちが生まれにくいのではないか、と想像するのです。仮に何か努力が必要と思われたとしても、何が問題なのかをjoさんと一緒に考えようとされなければ、どうしていいかも分からないままでしょう。

 奥さんは会社でも苦労されているようですし、上にも書いたように実生活上も苦労をされているし、「苦労している」という点ではjoさんとどっちがより厳しいのかは私にはわかりません。けれども「家庭内の関係の調整への負担」ということで言えば、やっぱりjoさんの方が相当大きいような印象を持ってしまいます。

 繭さんの家庭では、お互いにずっと正面から向き合い続け、ぶつかり合い続け、話し合い続けてこられたということですし、その感じは繭さんの書かれたことからもよく伝わってくるように思います。その意味ではお互いの関係を調整しようという「負担」は同じだったとも言えそうに思いますし、そこがすごいなあとしみじみ感じさせられるところでもあります。ただ、繭さん自身はこんなことを書かれていました

 「とてもざっくりとしたイメージなのですが、定型側は「求めるものが得られない」ことが多くて、アスペルガー側は「出来ないことを求められる」ケースが多いように感じます。私は夫に「あきらめ」を考える程に強い満たされなさを感じることはとても少ないですが、反対に夫は、多かれ少なかれ満たされないことの「あきらめ」を持っているのではないかと思っています。」

 もしそうだとすると、定型の側の方が「強い満たされなさ」をより多く感じる点ではやはり「負担が多い」ということになるのでしょうか?

 こんな風に書いてみると、やっぱりアストンさんが言うように、「結婚に於いては定型の方が負担が大きい」のかなあという感じもある一方で、いや、でもなあ、ほんとにそうかなあ。という感じもやっぱりどこかに残るんです。なんかちょっと違う視点で見る必要もあるんじゃないかと。

 それがなんなのか、言葉になるにはもう少しかかりそうな気がします。

 

2011年8月13日 (土)

「結婚」の意味のズレ

 前々回の記事「ずれまくる夫婦の暮らし」の中で、パートナーが私と結婚した理由として「守って欲しかった」ということをそのひとつとして話してくれたことを書きました。この「守る」ということについては、いろんなズレがお互いの間にあったということをそこでは書きましたけれど、昨日もう少し話をしてみて、さらにその私の理解にまたずれがあって、そのずれた理解にパートナーがショックを受けていることが分かりました。

 どうずれていたのか、私も今手探りで理解をしようとしているところですし、これを今書いているのもそのためというところがありますけれども、とりあえず彼女の口から出てきたのは「男として弱い女性を守って欲しい」というような、そういう意味での「守って欲しい」とは違うと言うことでした。

 彼女は(今考えれば)アスペルガーと定型のズレによって、子どもの頃からずっと他の子どもたちからいじめられ、排除され、否定され、親からも大人からも理解されることが少なく、孤立して人となかなかつながれなかったのですし、就職後も職場での人間関係がうまく取れず、何度も職を変えています。当時私は仕事の内容が性に合わないのかと思って「適職」が見つかるといいなあと思いながら「見守る」だけでしたし、職場の人間関係がおかしいと訴えられたときには、不当と思えることについては問題を共有できる人と一緒に改善するために闘うべきだ、というようなことを言っていたのですが、今考えればこれほどとんちんかんな「助言」もなかったわけですね。そんな風に他の人と一緒に問題を解決していく、ということが難しいからこそ沢山の問題を抱えていたし、色んな意味で「闘う」ということのできない人なのですから。

 まあ、そのときの私のとんちんかんさについてはとりあえず置いておくとして、とにかくそうやって孤立し続けたパートナーにとって、結婚というのはその自分が「人とつながれる」ということの証明でもあったようなのです。そしてそのこと自体が、彼女にとっては自分が「守られる」ということの大事な意味だったようです。

 ここは私もまだまだよく理解できていないところなのですが、人との関係がうまくいかず、そのことで周りから責められ続け、否定され続け、しかしパートナー自身としてはそこにアスペと定型のズレの問題があることは全く気がついていない時期のことですから、なぜ周囲に自分が責められ、まともな人間として扱われないのかが理解できず、むしろ被害者の意識しか持てない。そんな自分とつながれる人、関係を持てる人、受け入れられる人を彼女は求めていたのでしょう。

 その気持ちは単に定型の人間同士で彼女(彼氏)ができるかどうか、というようなレベルの話ではなかったのだろうと思います。なぜなら定型同士では基本的に(定型的に)普通のつながりはみんなできるわけで、もちろん上手下手の差はあるでしょうけれど、そこで排除され続けるというようなことはない。そういう基本的なベースの上に、さらに「親密な」人間関係として恋人を獲得することになります。ところがパートナーにとって切実に問題になっていたのは、まずはその「基本的なベース」の部分を獲得することだったのかもしれないわけです。

 それはもしかすると、「自分がちゃんとしたひとりの人間として周囲からも認められるかどうか」という事にも関わるような切実な問題だったのかも知れません。だから「結婚する」ということは、生まれて初めてと言っていいほどに、社会的にも自分がつながりを持てる一人の人間として認められること、という意味を持ったのかも知れない。そしてそういう私との関係を獲得することで、これまで自分が不当な形で受けてきた周囲からの非難からようやく「守られる」状態になったのかもしれない。

 改めてパートナーの語った言葉をつなぎ合わせながら私なりに考えてみると、そんなイメージが湧いてきます。

 この私の理解もパートナーから見てまたずれまくっていて、ショック!というようなことになる可能性もあるわけですが、前よりはちょっとはマシになっているのではないかと思いたいところです。そして、もしこの理解が全然的外れではないとすれば、定型とアスペのカップルが抱えやすい問題のひとつが理解しやすくなるような気がします。

 つまり、定型の側は定型同士の通常のつながりを越えた、「親密」な関係を相手に対して求める。ところがアスペの人にとっては定型にとっての「通常のつながり」を確保すること自体が大変なことで、それができる関係が成り立つことが素晴らしいことで、そこである意味目標は十分達成されていて、そこで十分満足できるし、それ以上の「親密さ」を望むこともないし、またそういう「親密さ」はイメージしにくくもある。

 ところが「それ以上」の「親密さ」を求める定型の側は、そういうアスペの側の姿勢によって、常に満たされない思いにさいなまれ、「自分は必要とされていないのではないか」「結婚していることになんの意味があるのだろうか」という思いにとらわれやすくなる。そして不安になって「あなたにとって自分はどんな意味があるのか」と尋ねたくなり、場合によっては「あなたには私は必要ないのでしょう」と言いたくなる。そしてそういう見方は今度はアスペの人からは意味が分からないものになる。なぜならアスペの人にとってはその状態が十分相手を「必要としている」ことなのですから。

 うーん、なんか自分としては結構すっきりする部分がありますが、さてパートナーはどう受け止めるのでしょうか。また他のみなさんはどう感じるでしょうか。

2011年8月12日 (金)

鍼灸というコミュニケーション

 アスペと定型のコミュニケーションを考えるとき、いろんなつながり方、やりとりの仕方を考えることができます。単純に手紙でのやりとり、メールのやりとり、電話での会話、掲示板でのやりとり、コメントのやりとりなど、「どういう道具を使ってやりとりするか」ということもいろいろありますし、そういえば私も昔電話でのやりとりってなんか苦手感があったなあとか、思い出しましたけど、人によって、あるいは時期によって、またはアスペか定型かによってもどういう道具がやりやすいのかに違いがあるかも知れません。

 上に例に挙げた道具はどれも「言葉」によるコミュニケーションのためのものですけれど、同じく「道具」を使うコミュニケーションでも言葉の要らないものもありますよね。たとえば音楽とか、あるいは繭さんが得意な写真とか、絵とかまんがとか、いわゆる「芸術系」みたいなものです。言葉に仕切れない「感覚」がそこではやりとりされることになります。

 言葉が要らないコミュニケーションと言えば、スポーツもそのひとつでしょう。と、書いたところでふと思ったんですが、「アスペの人がわりと得意なスポーツ」とか、逆に「不得意なスポーツ」とかってあったりするんでしょうか?「定型的な意図の読み合いが苦手」ということから考えると、たとえばサッカーとかはチームメートと先の展開を読み合ってパス交換や移動をするし、相手の意図を読んで先回りして防いだり攻撃したりする、ということをずっとやり続けなければいけないので、もしかすると苦手なんでしょうか?でも同じ球技でも野球なんかだと超有名選手で「あの人まずそうだろうな」という人もいますしね。野球ってサッカーに比べてすることがわりに型にはまってて、ややこしく意図を読み合うみたいなことが必要ないんでしょうか。

 前にも少し書いたかも知れませんが、言葉の要らないコミュニケーションにはスキンシップもありますね。娘が母子関係に苦しんでいた時期、一ヶ月ほど海外でホームステイをさせてもらったことがありましたが、そのときホストファミリーのお母さんが、夜寝る前にはかならず両手を伸ばして娘を抱きしめる、というあいさつをしてくれたそうです。それをされた娘が、「自分が求めていたのはこれなんだ」と、なんか心の底から感じたらしいです。ここはほんとに定型とアスペの間でズレが起こりやすい部分なんだと思います。

 あと「プレゼントの交換」とか、物によるコミュニケーションなど、他にもいろいろ考えられるでしょうけれど、そんないろんなコミュニケーションがある中で、これまで私はどちらかというと「お互いに同じような道具を使ってコミュニケーションをする」こととか「同じようなやりかたでコミュニケーションをする」というパターンについて考えることが多かったように思いました。それは発達障がいを持ちながら鍼灸師をされているたもっちさんのコメント(これとかこれ)を読んで気がついたことです。

 つまり、会話とかなら言葉をなげかけて言葉で返す、とか、プレゼント交換なら物をもらって物を返すとか、そういうふうに「お互い同じ様なことをやりあう」というパターンがそこにあります。ところが定型とアスペの間では、そんなふうに「同じ事をやりあっている」はずなのに、それがずれてうまく行かないことが起こりやすい。同じ言葉でもお互いにすごく違う意味で理解したり、同じ表情でも相手に与える影響が全然予期しないものだったりして、「同じ事をやりあっているはずなのに」訳の分からない混乱に陥ってしまう場合がある。それは一体何がずれてしまっているんだろう、というのが私がここでこれまで考えてきた「アスペと定型のズレ」の問題の大部分だったかも知れません。

 ところが、鍼灸師の方がお客さんと作っているコミュニケーションは、ちょっとそれと違う性格を持っているんじゃないだろうかと思ったわけです。もちろん鍼灸なんて、自分自身していただいたことさえない「未経験者」「ど素人」ですので、まるで想像の世界での話ですけれど。

 もちろん鍼灸師の方も、たとえば「いらっしゃい」とか「こんにちは」とか、「ここに横になって下さい」とか、そういう言葉を使ったコミュニケーションはされるわけですが、それはまあおまけのようなもので、やっぱり本体は体に針を刺す(うー、痛そう (^ ^;))とか、お灸を据える(熱そう (^ ^;))とか、そういう「はたらきかけ」ですよね。じゃあそういう鍼灸師の方のはたらきかけに対する応答の方はなにかというと、「あ、そこ気持ちいいです」とか「あつ~い!」とかいうのもあるでしょうけれど、もっと基本的なことは針や灸、あるいは鍼灸師さんの指の動きに対して、お客さん(って言うのかしら?それとも患者さん?)の皮膚とか体がどう反応するかということなんじゃないかなと思います。

 ツボを探すというのも、よく分かりませんが、多分指で触れたり押したりして、それに対する皮膚の反発とか、筋肉の動きとか、場合によって体温の微妙な違いとか、そういうものが手がかりになるのかなと思うし、そこで鍼灸師の人は無言のコミュニケーションをお客さんの体としているわけですよね。しかもそのコミュニケーションというのは会話のように初めはAさんがしゃべって、次にBさんがしゃべって、また次にAさんが……というように、「話す」という同じような行為をお互いに順番に繰り返すようなものとは違って、言ってみれば主導権はずっと鍼灸師の方にあるわけです。お客さんはそれに受け身で答えるだけでしょう。

 そういう意味で、これまでこのブログで主に考えてきたコミュニケーションとはちょっと違う性格なんだけど、でもそれも一種のコミュニケーションなのかなあと思えたわけです。

 で、たもっちさんは一般の事務職とか、そういうところで定型的なコミュニケーションとのズレに苦しまれた後、鍼灸という「新たなコミュニケーションの世界」に入っていかれ、そこで試行錯誤はあったでっしょうが、お客さんとのコミュニケーションに自信を築かれて次のステップに踏み出して行かれたわけです。

 この話、どういうふうにひろがり、アスペと定型のズレの問題につながっていくのか、まだちょっと分かんないんですけど、なんとなくの予感としては結構大事な問題に関係してくるような気がしています。なんというのか、夫婦間の問題ではないんだけど、なにかもう少し大きなところでその問題にもどっかからんでくるような気がするし、もちろんアスペの人と定型の人がお互いの「得意」な面を発揮し合ってこの世の中で一緒に生きていく、みたいな問題にもからんでくるでしょうし。そういう大きめな問題の中で「夫婦」の問題を改めて考えてみる糸口みたいなものが、もしかしたらそこからちょっと見えてくるかも、という気がなんとなくしました。

 

2011年8月11日 (木)

ずれまくる夫婦の暮らし

 私のパートナーは、話題にもよるんですが、とくに人間関係にからむ感情の問題などについてはなかなかすっと言葉が出てこないタイプです。それでその手の会話はすごく時間がかかったりするし、しかもうまく噛み合わなかったりするので、先日ふと思って、「○○について、どう思う?」と聞くときに、「答えは2,3日してからでいいんだけどさ」というやり方をしてみました。

 パートナーもその工夫に応じてくれたんですが、なんと2,3日後、肝心の私が何を聞いたのか忘れてしまい、「そんないい加減なことだったわけ?」と怒られてしまいました (^ ^;)ゞ 彼女は一生懸命考えてくれたようなのでちょっとマジやばの感じもあってあせりました。

 で、平謝りしながら思い出していったんですが、パートナーは「なんで自分(パンダ)と結婚したのか」を聞かれたと言います。でもちょっと違うような気がして、私としては「自分の何に惹かれたのか?何を求めたのか?」を聞きたかったんだ、と言ったんですが、そこは「そうだったっけ?」ということで、まあ結論は出ず、何にしても彼女が考えていてくれた「なんで結婚したのか」を聞かせてもらいました。

 はっきりとはわからないけれど、という感じなんですが、ただ「守って欲しかった」とは言われました。何から、ということについてはほんとにいろいろなことからと言うことらしいです。

 娘は今住んでるアパートにゴキブリが出るとパニックになって「(パンダの)家に帰る!」とか言い出したりするんですが(実際は帰ってきませんけど)、その話をしながら、自分(パートナー)は学生時代なども家に帰りたいなんて思ったことは全く無かった、としみじみ言っていました。卒業後もとにかく家から離れることだけを考えていたそうです。そんな重要なこと、今まであんたは分かんなかったのかと言われそうですが、これには「そこまでの感じだったのか」と驚きました。

 子どもの頃から、自分が「守ってもらえた」という実感がほんとに乏しいようなのです。

 そういわれて、自分は彼女に対してどうであったかを改めて考えさせられました。私の父親は「こいつは男として育てる」とか言ってたらしく、実際かなり殴られて育ちましたし、厳しかったですが、そういう目で見ると、なんだか面白いエピソードも思い出します。

 たとえば小学校低学年か中学年の頃、母親と妹と一緒に外出から帰ったときのことですが、となりの部屋から「ごそごそ」と引き出しをさぐる音がして、母親がとっさに「どろぼうだ」と言ったんです。そのとき私はほとんど反射的に母親と妹を背に前に立ち、音のする方向に向かって両手を広げて立ちはだかり、ぶるぶる震える声で「だ、だれだ!」と怒鳴ったことを思い出したりします。そんなもの、暴漢がいればなんの役にも立たないわけですが、「自分が二人を守らなきゃいけない」ととっさに思ったんでしょうね。実際はその音の主は父親で、母親がふざけただけだったんですが……

 なんかそういう「女性を守る男の役割」みたいな、「古いジェンダーそのまんまじゃん」と言われそうなものはどこか意識させられながら育ったのですが、母親が激しい自己主張の人でそれを当時は尊敬したりもしてたし、世の中の風潮もありましたし、頭は「男女平等」「男も家事を」「女も仕事を」みたいな考え方になってました。で、結婚というのも「そういう男女平等の社会に向けて共に闘う仲間」みたいな、そんなイメージをどこかに持っていたんですね。あくまでも「頭で考える」レベルの話ですけれど。

 だから、意識の上ではパートナーを「守る」みたいなことはなかったように思います。ああ、ただやっぱり道でヤーさんぽいオッサンに彼女が絡まれたときは、突然相手を怒鳴りつけて、相手が予想しない反撃におたおたになったすきにさっさと彼女を連れて立ち去ったことはありましたっけ。白昼で周りに人がいっぱいいたからできたんですが、まあその程度には「守っていた」のかもしれません。そういう振る舞いはなんか「反射的」に出ます。

 あとは私の母親からの激しいパートナー批判について、とにかく防壁になったこと。これは前にも書きましたが、ほんとに意識的にやりましたし、今も続いています。

 というふうにいくつか書いてみると、「結構まもってるんじゃん」と思われそうですが、自分の意識としてはそういう感覚があんまりないんですね。まあ、今彼女が自分を守りきれないところは援助するけど、基本は自分で自分を守ることをベースに「共闘」する関係であるべきでしょう、みたいな感覚がある。だから「守ってあげる」みたいな状況はあくまで過渡的なもので、全然目標でも理想でもない。そんな感じでしょうか。

 そういう感覚が自覚的にも変化してきたのはほんとにここ三、四年のことのような気がします。しかもその相手はまず改めて「子ども」でした(昔は当然そうだったけど、その後関係が疎遠になっていたので)。そしてそれがパートナーに対しても思うようになったのはここ一,二年のことかもしれません。

 だから彼女が結婚について「守ってほしい」ということがものすごく大事なことだったのだとすれば、お互いに考えていたことはものすごくずれてたんですね。ああ、そう考えると、前にうちの場合はズレを巡って「闘い会う夫婦」にはならなかったということを書きましたけど、それは当然と言えば当然だったわけでしょう。パートナーは「守って欲しい」わけで「闘いたい」訳じゃないんですから。


 その彼女はいくつかの時期を除いてまあ守ってもらっていたという感じを持っているようなんですが、私は全然そういう「理想」を持っていませんでした。逆に母親との関係で「ここは必死で守った」と思っていることについてはパートナーは全然そう理解してくれていなかったり、ほんとにぜんぜんずれまくりです。まあ、こちらがそういう守る意識がなくても、相手がそう感じてくれてそれなりに満足していたのなら、別にそこに「葛藤」は生じないからいいと言えばいいのかも知れませんけれど (^ ^;)ゞ

 というようなことを改めて振り返って思うことは、ほんとに人間同士って、たとえ夫婦のような密な関係であってすら、ずれまくって生きているんだなあということです。それはアスペと定型の間のずれということもあるでしょうけれど、上に書いたようなことなんかはもしかすると定型同士のカップルでもいくらでも起こりそうなズレにも思えるんですね。じっくり話してみるとびっくりするくらいずれてるんだけど、かといって日常の生活ではそれがそんなに問題になることもなく、適当に満足したりちょっと不満を持ったりしながら、なんとなくすごせている。

 うーん、「幸せってなんだっけ、なんだっけ?」というさんまさんのCMがありましたけど、一体なんなんでしょうね。やっぱりポン酢醤油なんでしょうか?

 

 

2011年8月 9日 (火)

面倒くさそうにお手伝い

 アスペと定型のコミュニケーションのずれの中にたぶんしばしば見られると思うのですが、定型の側が何かをアスペの人に頼んだ場合、すごくいやな顔をされる(ように見える)、ということがあるように思います。うちなんかしばしばそれがあって、先日もそうで、それでふと思ったことです。

 いやな顔をされるわけですけど、やってくれないわけではないんです。ちゃんとやってくれる。でもものすごく迷惑そうに見えて、こちらとしてはすごく悪いことをしてしまった気分になるんですね。

 逆に言うと、定型の場合はたぶんそういうことは少なくて、まあ「あ、いいよ」と笑顔で応じるか、少なくとも普通の顔でさっさとこなすか、そういうことが多いと思うのですが、それがないんですね。私のパートナーの場合は特にそれが目立つことが多いほうなのかもしれませんし、そこはよくわかりませんけれど。

 何が違うのかなあと考えたら、パートナーについていえば、とても素朴に「素直に気持ちをそのまま表しただけ」なのかなと思います。別にそれで私を責めるわけでも、拒絶するわけでもないのだけれど、何かを頼まれるということは自分の予定が小さくではあっても崩れてそれを立て直さなければならないわけだし、そうやって自分の「見通し」をもう一度作り直すのにそれなりの「覚悟」が必要になる。

 定型的には何を大げさな、ということになるかもしれませんが、パートナーとすればどうもそこは実際にそれなりの大変さを伴うようにも思えます。

 今思い出したんですが、昔よく腹の立っていたことで、たとえば外出した時など、ちょっとおやつを買って食べることを思いついたとします。で、それを提案すると、必ずなんかかんか文句が出てくるんですね。ケチがつくというか。で、こちらはせっかくおいしいものを食べて楽しもうと思っていた気持がしょぼーんとしてしまい、実にさびしい気分になってそれを買います。ところが、買って配って食べ始めると「おいしい」とか、そんなことをいうわけで、かちーんとくるわけです。あれだけなんだかんだケチをつけておいて、一言の謝りもなしに「おいしい」とうれしそうに食べるとはなんだ!という感じです。

 で、これも今思うと「予定になかったこと」を提案されて、まずはそれについてマイナス面の検討を始めてたんですね。これはパートナーの作られた性格の部分もありそうですが、とにかく「将来のマイナスの事態に常に備える」という構えがものすごく強く作られてきましたから、本当は好きな食べ物についても、なんか最初にそうやって「たとえそれがマイナスな結果をもたらしたとしてもいいように心の備えを作る」ということだったように理解もできるわけです。で、さんざんケチをつけておいて、実際に食べればおいしいので、すなおに「おいしい」と言いながら食べる。

 パートナーはそんな小さなことについてまで、「自分のプランになかったこと」を他人から持ち込まれたときに、一種の混乱と、それに対する心構えの作り直しが必要になるような気がします。当然、仕事から帰ってきた時なんかはかなり疲れた状態で帰ってくるわけです。

 そんなわけですから、私から何かを頼まれると、まずはマイナス面の検討が始まるのでしょう。そして表情は険しくなり、それを見ているこちらはなんだか罪悪感を持たされる。で、おやつを買うのと違って、まあ一種の面倒をかけることではあるわけですから、マイナス面の検討が終わった後も、別に喜ぶようなこともなく、そのままそれを実行する。そう考えると一応筋は通っています。

 定型の私の場合、相手から何かを頼まれたときにそれを受け入れる場合、「めんどくせー」と思ったとしても、まあにこにこして引き受けるわけです。だいたいは、ですが。なんでそんなこと(ある意味表情で嘘をついていると言えなくはないんだけど)するのかと考えてみると、つまりこういうことだと思います。「こういうめんどうくさいことでも、私はあなたのために喜んでやってあげますよ。私とあなたはそういう助け合いの関係にありますね」ということをその表情で訴えているということです。

 もちろんそんなこといちいち頭で意識してやってるわけじゃないんだけど(意識することもあるかもしれないけど)、ごく自然にそういうサインを出しているんだと思う。で、お互いにそれを確認することで安心する。お互いのつながりを感じ取る。だから、立場が逆になってこちらが頼むときに、相手がそういう表情をしてくれないとすれば「私はこんなめんどうなことを頼むあなたとは関係を持ちたくもないね」ということを言われているような気になる。

 ああ、そう考えるとまたちょっと思いつくことがあるんだけど、要するに定型っていっつもそうやって相手に「あなたとはお友達ですよ。いい関係ですよ。いつも助け合いましょうね。」みたいなサインを送りあっていて、そのサインが変化したりすると敏感に反応して「あの人、どうしたんだろう?私なんかわるいことしただろうか?」とか心配になり、もう一度関係調整を考えるようになる。これは夫婦関係とかになっても基本は同じだと思います。

 前にも書きましたがアスペルガーの人の行動の特徴の一つとしてしばしば言われることに「釣った魚にえさはやらない」というのがあって、結婚前はすごくいろいろ気を使ってくれたのに、結婚したら全然気を使ってくれなくなる、とかいう話も、このこととつなげて考えるとわかる感じがします。アスペルガーの人は「結婚」というひとつの安定した状態に達したと考えると、細かく相手を見て調整しなければならない、という感覚が生じにくくなるんじゃないでしょうか。「もう夫婦なんだし」という「枠」がものすごく安定してしまって。

 たとえばアスペルガーの人にとって自分が育ってきた家庭が離婚とかを経験していない家庭だとすれば、「夫婦というのは何をしなくても夫婦として続く」という「事実」がものすごく固いものとしてゆるぎなくイメージされていて、定型間ではそこに実は細かい関係の調整がいつも行われ続けている、というところにはあまり目がいかない。とすれば、自分が結婚したあとは、それはもう盤石な関係で、何をしなくても続くのが当たり前で、それが夫婦というものだ、というイメージが強いのかもしれない。(この辺、定型からの勝手な見方ですので、アスペの方からの「そこは違うよ」というご意見があればぜひ教えていただきたいです)

 どんなもんでしょうね。

 

2011年8月 7日 (日)

落語とアスペと定型と

 ちょっとお疲れ気味なので、今日は少し「お気楽モード(?)」で書いてみようかなと思ったりしています(゚ー゚)

 先日ある親しい方と久しぶりにお話してたんですが、話題の中で落語の話になって、ふっと思い出したことがありました。落語の中には「人情話」と言われるような噺があって、くまさんはっつぁんや近所の御隠居さんたちがずっこけたことをやって笑わせる普通の噺と違い、じっくりと物語を聞かせて最後はほろっとさせる、というタイプの噺です。

 「怪談話」もそうですけれど、いわゆる名人芸の世界になりますね。あんまり若手だとなかなかそこまで「ほろっ」とさせられるところまではいかないでしょう。(お好きな方はたとえば志ん朝の「文七元結」とかもどうぞ)

 で、改めてその人情話を聞いていると、まあだいたいが長屋の神さんが大変な亭主に苦労させられて、仲人などに泣きついたりしながら、それでもひどい目にあい続けて、亭主は亭主でそんなかみさんの苦労を知ってか知らずか、勝手気ままだったり、知っていても自分でもどうする事も出来ずに神さんや場合によって娘にまで迷惑をかけ続ける。

 ところが家族の想像を超えるくらいの献身や周囲の人の努力によって、ついに亭主が改心して、必死でそれまでさんざん家族にかけた苦労に報いようとするようになる。そんな噺がいくつかあります。

 今の目から見ると、ひたすらに女性に自己犠牲を求めるような、いかにも亭主に都合のよい噺になっていますし、そんなに都合よく亭主が心をすっかり入れ替えることなんかあるだろうかとも思いますけれど、まあとにかくそういう自己犠牲とそれが報われる展開に「ほろ」っとさせられるようなつくりをしています。

 で、そういう噺を聞きながら、「ああ、これって今でいえば亭主が境界性の人ということだろうな。」とかあるいは「DVの典型みたいな話だな」とか思えるものがいくつもあります。江戸や明治の人たちもそういう問題にずっと苦しみ続けたんだろうということが実感できるし、考えてみれば噺家を含めてちょっと桁違いの生きざまを持った芸人って、そもそも本人がそういう人だったりするわけでしょう。お客はそのけた外れの奔放さに拍手喝さいだったりするけど、当の芸人の家族はそれはもう本当に大変だったりする。

 そういう大変な状況を抱え込んだ家族が「せめてこういう形で幸せに行き着ければどんなにいいだろう」という願望の一つの形が「人情話」にはたくさんこめられているのかもしれません。

 そんな人情話のひとつに「厩火事」というのがあるんですが、最近ふと気がつくと、これってもしかしてアスペルガーと定型のずれがベースになっているのかも、と思ったりしました。たとえばこんな台詞。亭主の愚痴を言いに来た神さんに、夫婦の後見的な役の旦那が言う文句です。

 「お前さんの亭主についちゃぁ、あたしゃ気に入らないところがあるんだ。つい、三、四日前だった。近所に用事があったんで、お前さんのうちへ寄ってみた。そのとき、そこへ出ていたお膳の上を見て、あたしゃムカッときたね。刺し身が一人前のっていた。まぁ、こりゃいいとして、その横に酒が一本乗ってるじゃないか。これがあたしの気に入らない。そうだろう? 女房のお前さんは外で油だらけンなって稼ぎまわってる最中だ。その留守に、いくら亭主だからって、真っ昼間から酒を飲んでるって法はあるまい?

 えぇ?そりゃぁ呑むなじゃないよ。でもさぁ、どうせ呑むンなら、お前さんが帰って来るのを待って、いっしょに呑んだらどうなんだい? 自分は遊んでて、女房が働いてるんだから、そのくらいの心遣いをするのが夫婦ってぇものじゃないのかい? ったく、それができないような亭主なら、もう縁が無いんだよ。別れたほうがいい。もう、遠慮なんかするこたぁないよ。別れちまいな!」

 ここでは髪結いの神さんに働かせて自分は遊び暮らしていて、神さんのことなんか全然考えてもいない、という薄情なぐーたら亭主ということで批判されているわけですが、なんか見方によっては「一緒に楽しむ」ということについてのアスペと定型のずれの話にも見える気がします。さらに噺の落ちもまた(ここでは書きませんが)、なんかアスペの「合理性」と定型の「人情」のずれのおかしみと見えなくもない。

 その昔からどれだけたくさんの人がそのずれに泣き、わめき、傷つき、周りに愚痴りあい、ときには笑い、ため息をつき、気を取り直し、またくじけそうになり、別れたりくっついたりして生きてきたんだろうと、ちょっとそんなことを考えちゃいます。

 あ、この話、なんの落ちもありません~。おあとがよろしいようで。

2011年8月 1日 (月)

ズレを遊ぶ

 先日友人が欲しかったDVDをプレゼントしてくれました。私は嬉しくて、「ほらこんなのもらったよ」とパートナーに見せました。パートナーは「だから?」と一言言いました。

 これ、定型的なやりとりだと、こちらがうれしそうに「ほらこんなものらったよ」と言えば、「ああ、そう、良かったね。なにそれ?」とか、そこから話が進むことが多いでしょう。実際ある人にこの話をしたら「え?<あ、そう、よかったね>じゃないわけ?」とびっくりしてました。

 以前の私ならやっぱりがっかりして、あるいは傷ついていたんですが、今は違います。そういう反応が返ってくることは予め予想できるので、逆に「わあ、また<だから?>って言われてた! うー、立ち直れない!」とか大げさに反応して「遊ぶ」のです。

 そうすると「じゃあ、何て言って欲しいわけ?」とか聞かれて、「まあ、定型的に言うと、ああよかったね、とかいうことが多いんじゃない」とか答え、「ふーん、そんなもんなのかね」と言われる、というような展開になったりします。どっちも半分笑ってます。

 この「だから?」とか「何て言って欲しいわけ?」というような反応は、定型の私としては傷つき続けた反応だったのですが、なぜパートナーがそういう言い方をするのか、についてはいくつかの理由があるようです。ひとつは素朴に、私がプレゼントをもらって嬉しかったとしても、それは私のことであって、別にパートナーにとってプレゼントされて嬉しいことはない。見せられたDVDは自分の知らないDVDだから、それを見ても「あ、それ自分も見たかったやつだ」というふうによろこぶ理由もない。もちろん私が喜んでいる姿を見て、「困ったことだ」とは思わないでしょうけれど、でも特にそれ以上のことではない。

 そういう状態でプレゼントを見せられて、何か感想を求められているように思えても、何を言っていいかも分からない。で「それで?」となる。というのがひとつです。今日もその話をしたら、DVDの箱をみながら、「こんなの見て、何を言えっていうの?」と半ば不思議そうに言ってました。

 もうひとつ、パートナーは自分が思ったことを素直に言うと、そのことで相手を傷つけたり怒らせてしまう、という経験を繰り返し、どう反応したらいいのかについて、とても慎重になっていると言うこともあるそうです。特にアスペと定型のズレについて理解が共有されるようになって以降は、その慎重さがとてもはっきりしたように感じます。

 素朴に感じたことをそのまま言えないというのは、関係としては寂しい気持ちはありますが、でもそれが気遣いであると言うことはうれしいことでもあります。

 そんなふうに、「こう言えばきっとパートナーはアスペルガー的にこんな風に返してくるな」とか、結構予想ができるパターンが増えてきているのですが、そうすると面白いことに、今度はそのパターンの定型とのズレを、逆に遊んでしまう、という発想が出てくるんですね。相手をからかったりして。なんか自然にそうなりつつあります。「これだからアスペは困ったもんだ」とか、「ほんとに定型はめんどくさいね」とか、お互いにけなし合ったりして「遊べる」わけです。

 
 これまで、「ズレを共有すること」の意味を考えてきましたが、ズレが共有されてくると、今度は「ズレを遊ぶ」ということが始まったりするんですね。ちょっと面白いことだなと思います。

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ