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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年7月25日 (月)

憎しみと軽蔑と哀れみと

 昨日、チロさんとやりとりをしながら改めて考えて居るんですが、定型とアスペのズレでコミュニケーションに苦しんでいる場合、何らかの形でお互いに「ああ、そういうことだったんだね」と「ズレの理解」を共有できる場合はいいんだけど、それが成立しないままにコミュニケーションがそれ以上続けられない状態になった場合(離婚とかも含みます)は、全然違うしんどさがあるんだなあとしみじみ思います。

 なんというのか、そこで傷ついた気持ちを、少なくとも相手との間では癒す可能性が無い訳じゃないですか。人間って自分が傷つけられたとき、それでも相手が「ああ、自分のせいでこんなにあなたは傷ついたんだね」と理解してくれれば、すごく救われる部分があると思うんだけど、これまでも書いてきたみたいに、アスペと定型のズレの場合、そのズレに気づかない限りは「自分が相手に傷つけられている」と、「お互いに」思っていることが多分ほとんどなんじゃないでしょうか。だから、相手に自分がどれほどしんどい思いをしているのか、どれほど傷つけられてきたかを理解してもらうことが無理ということになる。

 人にもよるのかも知れないけど、相手に傷つけられるにせよ、相手を傷つけるにせよ、お互いに傷つけ合うにせよ、そういう関係になったときに、その傷を癒したいという思いがすごく出てくると思うんだけれど、直接の相手との間でそういう「癒し」が望めない状態になったとき、別の形でその傷と向き合わないといけないですよね。

 自分が傷を負ったと感じているときは、たとえば激しく相手を憎むというのもそのひとつなんだろうと思います。人間が(定型が?アスペも?)持っている感情の中でこの「憎む」という感情の強烈さとか、その自分の感情に対処することの難しさが際だっている感情というのも他に無いくらいかも知れないですね。それは何らかの形での「復讐」への思いを生み出すだろうし、それができないとか、したくない場合には、下手をするとその「憎しみ」が今度は自分自身をむしばみ出したりする。

 その憎しみを、友だちに聞いてもらったり、ネット上ではき出したり、そういうのは効果がありますよね。そこで自分の傷をちゃんと傷として認めてもらえたり、「相手が自分を傷つけたんだ」ということを認めてもらえたりすれば、直接相手にそれを認められるよりは効果は弱いかも知れないけど、でもずいぶん救われることにはなるし、その場合は相手に対する「憎しみ」を、たとえば「軽蔑」に切り換える形でとりあえず乗り切れるかもしれない。少なくとも相手を憎しみ続けることで自分自身までむしばまれてしまう、という状況はこの「軽蔑」によってだいぶ避けられるかも知れません。

 「軽蔑」というのは、もちろん「美しい感情」ではないでしょうし、そういうのが無くてすまされるのならないほうがいいと私は思いますけれど、でも「憎しみ」で自分自身をもむしばんでしまうのなら、「軽蔑」の方が「優れている」のかもしれない。今までそんなこと考えてみたことはなかったですが、結構シビアに大事な問題の気がしてきました。

 さてそうすると、そういうふうに相手に傷つけられたと思っている状況で、「軽蔑」よりももっと「健康的(?)」で自分自身のためにも効果のある感情ってあるんでしょうか?

 軽蔑と微妙につながる感じがする感情で「哀れみ」というのもありますね。軽蔑よりももっとある意味自分にゆとりがあるときかも知れませんけれど。「なんて可哀想な奴なんだ」と思うこと。「自分のことをこれだけ傷つけておきながら、そのことにさえ気づけない。それどころか相手は自分の方が被害者だと思っていたりして、でも結局それでその相手は何も解決できずにこれからも苦しみ続ける、可哀想な奴だ」とか思うこと。なんかとりあえず自分の方が優位に立ってしまったような感じにもなるし、傷ついた自分を支える力にはなるかも。「復讐」ということからもちょっと遠ざかれるかも知れませんね。

 そうやって気持ちの上で距離を置くことができて、そのうちに忘れてしまえるのなら、それも悲しくはあるけれど、ひとつの現実的な手段なのかも知れません。

 やっぱり人間って「相性」はあるし、どうしても「負の感情」が勝ってしまう関係はある。そこを乗り越えてプラスの感情で結びつき直すことができればそれはそれでいいんだけど、やっぱり無理なものは無理、と考えることも大事なんだということを、自分自身が巻き込まれたトラブルのことも思い返しながら改めて考えさせられます。

 ま、自分にできることなんて、誰でも限りがあるわけで、その限界をちゃんと見ながら、自分の得意なところで人との関係を作っていくことが基本なんですよね。で、少しずつその「可能な範囲」を、KS仙人みたいに修行して広げていければ大したもの。普通あたりまえにみんなそう思ってるのかも知れませんけれど、私の場合、どうもそのあたりが苦手な気がします。

 

 

 

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コメント

 初コメ失礼します。他サイトで、Joさんに御サイトを紹介いただきまして、やって来ました。しかし高レベルですね、お話が! いや、良いことです。それだけ悩んでいらっしゃる方が多いということでしょう。心強いです、というか、心癒されますよ、同じ悩みを持った方々がこんなにいらっしゃるというだけで既に。
 あ、自己紹介を。妻がディスレクシアっぽいです。ボク48歳、妻49歳です。妻は日常会話でも、映画やドラマでも、本でも、話の流れというものを追えません。ですから1ページを超える文章を読めません。生涯、本は一冊も読み通していないと思います。
 ちなみに娘17歳は知的障害。先日、障害者手帳、取れました。息子14歳は健常ですが、医師によれば自閉症「寄り」で、まあアスペルガー「的」ですね。遺伝です。
 さて御テーマである「あきらめ」、「軽蔑」、「哀れみ」ですが、ぐっと胸に訴えるものがあります。自分の心の合理化の手段として、ボクもどれだけこれらのキーワード間を彷徨ったか知れません。
 一昔前まではこれをお酒で処理していました。まあ酔っぱらって自分をワケがわからなくしてしまうという…、逃げですね。これが年をとってきて体力的にキツくなり、逃げ場を失い、積年のツケに直面せざるを得なくなっているところです。
 で、ボクの頭の中におけるクイックな結論めいたことを言わせていただければ、「あきらめ」、「軽蔑」、「哀れみ」いずれも、パンダさんおっしゃるように美しくはありませんが、有用な感情だと思います。「復讐」は、美しい醜いを通り越して、怖いです~。そいつを封印するために何かがなきゃいけない。神ならぬ身のこと、使えるものは何でも使って現実と折り合わなくてはなりません。
 3つのうちではやっぱり「哀れみ」を主に使うべきではないでしょうか? 大乗仏教の響きがあって、自分の精神衛生上も良いかと思います。
 とりあえずこのぐらいにします。最後までお付き合い下さり、ありがとうとざいました。また参ります。

チロさんのコメントやブログの方も読んで、チロさんのお気持ちをお察しすると、なんだか安易なコメントを入れるわけにもいかず・・・と思い、ちょっと沈黙モードに入っていました。

今回のここのタイトル、以前のことを思い出してけっこうグサッとくるんですよね。

それこそ、夫とズレを共有できるまでは、タイトルにあるような感情の疾風怒濤の中でどうにもこうにもならない状態だっただけに、自分のこととしてとてもよくわかるので。

でも、ズレを共有できてからは、夫からもパンダさんが文章中で書かれているような謝罪の言葉があったし、私は私で、「そんなに感覚が違うとは思わなかったから、ひどいことを言ってごめん」というような謝罪をしたし・・・

というようなことを、もう数えきれないほどやってきて、今に至ります。

以前にも書いたように、満たされない思いはどうしても残りますが、それは、すでに、「夫からは得られないもの」というように割り切りつつあるような自分を感じています。

なんだか、とっても平凡な言い方ですが、「私たち夫婦は、まぁ、こんなものでしょ」というぐらいのところまで来たような気がするんですよね。

そして、その「ごく平凡まできた」ということが、私にとっては、ひとつ大きな目標を達成したようなもので、それでちょっと、次の目標を定めるまで、なんとなく空虚というか浮遊しているというか、気持ちがヒマになったというか。何かエネルギーを注ぎ込めることをもう少ししたくなっているのかもしれません。仕事とか勉強とか。

病気して仕事も失って、家の中もぐちゃぐちゃで、離婚前提に別居したり、その間にアスペルガーのことを共有できて、そこからまた日々必死でいろんなことをやってきて・・・

今、やっと「平凡」に辿り着いたような気分です。「平凡」ということを、生まれて初めて体験するような気がしています。

「憎しみ・軽蔑・哀れみ」・・・これは、夫に対してということではなく、瞬間瞬間、自分も含めていろんな人に対して感じることは正直ありますが、

でも、こういう感情を持ち続けること自体が苦しくて、長くはその感情を持っていられません。長いこと水の中に潜っていられず、「プハーっ」と水面上に顔を出すときの感じと似て、
何か、自分にとっての空気を求めずにはいられなくなります。

「哀れみ」は「慈悲」まで行くと、なんかあったか~い感じになるのでしょうか・・・よくわかりませんが。

 追っ付けです。仏教だけじゃなく、聖書にもあるじゃないですか。「父よ 、彼らを許したまえ。彼らは、その為すことを知らざればなり」っていうのが。これは「寛容」の表白かも知れませんが、ボクは、より「哀れみ」に近いニュアンスを感じます。
 ボクはキリスト教徒ではありませんが、やっぱ使える物は使うべきです。2000年以上も読み継がれている言葉です。膨大な数の人々が、いろんな意味で、そこから慰めを得てきたはずなんですから。
 あ、ところで、「哀れみ」の方が「憐れみ」より良いですね!

「哀れみ」とか「慈悲」の宗教的定義はよく知らないまま書いています。その点、ご了承ください。(コメントを入れた後、Jesseさんのコメントの「大乗仏教」を見て、ちょっと「お~っ」と思ったので。←すみません、なんか意味不明ですが・・・(^^.)・・・。)

カレンさん

 「その「ごく平凡まできた」ということが、私にとっては、ひとつ大きな目標を達成したようなもの」

 これ、すごい共感するんです。自分自身思い返すと生まれてこの方、ある意味で常に戦場で生きてきたような人生で、そのときには必死ですから、「平凡」をむしろ軽蔑するような思いもありました。ところがだんだんと「平凡」ってどれほどすごいことなんだろう、という思いがふくらんできたんですね。そうですね、この10年余りのことでしょうか。

 共感する、といっても自分がそのような目標を達成できたというわけではありません。ぜんぜんだめですね。でも平凡のすごさが身に染みるようにはなっている感じかな。

 「「哀れみ」とか「慈悲」の宗教的定義」

 おお、私もぜ~んぜん知りません (^ ^;)ゞ 
 詳しい皆様、こんな私にどうぞ哀れみとお慈悲を m(_ _)m


Jesseさん

 よくいらっしゃいました。しかも早速刺激的なお話しを頂いて、早速記事を書いちゃいました。どうもごちそうさまです (^ ^;)ゞ

 レベルの話を書かれていましたけど、それだけみなさんほんとに真剣に悩み、考えていらっしゃると言うことですよね。その思いが行き交うことで、一人ひとりの苦しみが、お互いにとっての宝物になることがあれば、すごく救われるように思います。

 ま、私としては、みなさんのコメントをちゃっかりと参考にさせていただいて、自分のしんどさをなんとかしようとしているだけなわけですが (^ ^;)ゞ 

 いえいえ、宗教的意義とか考えなくていいんです。イチゴを味わうのにその化学的組成について知る必要がないのと同じですよ。
 でも例えばキリスト教といったら宗教界のブランドです。それが「哀れみ」っぽいことを言っているのだったら、自分だって何恥じることなくそれを使ったっていいじゃないの、と開き直る上でのツールとして、使えるじゃないですか、そういうの、という話です。グッチやアルマーニ持ってると安心するのと一緒です。

僕は同様な問題に今直面してます。

でも やっぱりそうは思いません。
軽蔑とか憎しみとか嫌です。

もう半年以上たつけど
距離はおき始めているけど

そういう嫌な気持ちで心を満たして次にいくって 嫌です。

解消できるって信じたいです。

自分の好きな芸術家の展覧会にいって、楽しみながら作品をひとつひとつ鑑賞しているとき、あまり好みではない、どちらかといえば苦手な部類の作品があったとき、私はさっさとほかの好きな作品を見に行きます。


それは軽蔑や憐れみでもない感じです。


無理して嫌なものを見なくてもいいかなあ、好きなものみよっと、という感じです。

尚さん

 はじめまして。どうぞよろしくお願いします。

 置かれた状況やそれぞれの方の個性によって、いろいろな場合があり、いろいろな「正解」があると思います。尚さんと相手の方の置かれた状況やこれまでのいきさつなどの中で、お二人が、あるいは尚さんが一番納得できる「正解」が見つかるといいですね。

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