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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年7月23日 (土)

求めることとあきらめること

 以前「あきらめの話」という記事を書いたことがありました。そこで私は最後に

「と、ここまで書いてきて改めてまた思うことは、このように状況を理解したりするというのは、チロさん、joさん、カレンさん、そして私と定型(変型?)の側の人間が歩んできた道についての(私の理解の)ことで、それぞれのパートナーの方の、あるいはアスペの方の世界観というのか、感じ方というのか、そこから見ればまた違うような理解があるのかなあとも思います。こういう問題の設定の仕方自体もしかするととっても定型(変型?)的かも知れないので、そこはうまく対話になるかどうか、なんとも今は分かりませんけれど。」

 と書いたんですけれど、昨日、繭さんが違う記事に対するコメントでこんなことを書かれていました。

「とてもざっくりとしたイメージなのですが、定型側は「求めるものが得られない」ことが多くて、アスペルガー側は「出来ないことを求められる」ケースが多いように感じます。」

 上の「あきらめの話」に書いたあきらめのこととは少し違う話の面もあると思いますけれど、でも「定型の側は「求めるものがえられない」」ということは、ある意味それを「あきらめる」ことが必要にもなるわけですから、大きく言うと話がつながっていますよね。

 カレンさんはまた同じ記事へのコメントで、あきらめると言うことを、自分自身の家庭が自分の足場として落ち着いてきたことと結びつけて、そこを出発点とした新しい世界への旅立のための気持ちの切り換え、みたいな感じで積極的な意味を見るようになられたことを書いていらっしゃいます。これはまた「あきらめ」ということについて、またひとつ新しい前向きの見方を与えて下さるようですね。

 もう一度繭さんの説明に戻ると、定型の側は「求めて得られずに苦しむ」のに対して、アスペルガーの側は「求められて与えられずに苦しむ」ということであるのなら、とりあえずそこで求められることを定型が「あきらめる」ことでその「苦しみ」は無くなるようにも思えるけれど、定型の側からすればあきらめたからと言って、例えば共感的なやりとりを交わすことなど、必ずしもそれを求める気持ち自体がなくなるわけではないので、繭さんも気にされているみたいに、それはアンバランスな解決法ということになる可能性も残るわけです。

 定型同士の関係でも、当然お互いに「相手の求めるものをすべて与え合う」ということは不可能でしょう。ただ、その場合は「求め合うものを調整する」という形で乗り越えられる可能性が十分あるわけだけど、定型とアスペが難しいのは、そういう「求め合う関係」とか「そもそもの求め方」自体に大きなズレが生じてしまうことですね。

 このブログでも何度か考えてきましたけれど、そういう事態は定型からすれば「相手は自分を必要としていない(求めていない)」というふうに素朴に感じられてしまいやすいものです。実際には「必要とするそのしかたが違うんだ」ということである場合が多いことが今ではだいぶん分かってきたわけですが、アスペの人からのその「必要のされかた」が、定型の側からして「自分は必要とされている」と実感できるかというと、そこはなかなか難しい部分が残る。頭ではそうなのかと思っても、気持ちがついていかないことがあり、苦しむのは頭ではなくて気持ちなのですから(っていう言い方、もしかして定型的なのかな?)、やっぱり辛さが残っていくことがあるのでしょう。

 私自身については、今は本当に訳が分からなかったパートナーとの関係が、お互いに「アスペと定型のズレ」という見方を共有しながら改めて理解ができるようになってきた部分が多くて、そのことをベースにお互いに気を遣い合う関係が深まり、改めてお互いが相手を必要としていることがなんとなく感じられるようになってきたので(これもどうしてそうなれているのか、大きな問題だと思いますが)、ほんとに過去のあのぎりぎりの状態からは想像もできないくらいなのですが、これから先、「あきらめ」の問題がどんな風に消化されていくのか、カレンさんのような積極的な意味づけが可能になるのか、あるいは改めて大きな問題として浮かび上がってくるのか、まだ私には未知の世界という感じです。

 

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コメント

ちょっとお久しぶりです。最近の話題は私の体験や考えの遥か先で、ついていけなくなってました。それと、離婚の話し合い、仕事のことなど実務的に動かないといけないことがあって、あえて思考を止めていたということもあります。
そんな感じで、なるべく淡々と、自分の内より外側に目を向けてたら、なんか淋しくなってきました。多分、今のカレンさんにちよっと似た感じ。
今まで、夫、私、子供がバラバラに暮らしていて、私の給料は家賃と子供に会いに行く費用でなくなるし、仕事をやめて田舎に帰りたくても夫と夫の親が反対している、という八方塞がりをどう解決するか、が課題でした。それで、なぜこんなことになったのか、そもそも夫はどういう人か、どう言えば話し合いが成立するのか、を考えてました。
しかし、最近の話し合いで夫の了解なんて待ってても無駄だと思うようになり、田舎での転職のために動き始めました。夫となぜ結婚し、なぜ上手くいかなかったか、やり直す可能性はあったのか、などは全部横に置いて。
すると、今まで見てなかった外の世界が見えてきて、街を行くカップル、家族連れ、仲の良い友人夫婦、将来のある若い人を羨ましく感じるようになりました。(私にも当然、若い頃はあったんですけどね。若い頃の自分のとがり&ひねくれ具合は棚にあげてます。)
今までは、現状から逃れたい一心だったけど、急に欲が出てきました。

けど、淋しい思いを抱えながら何とか騙し騙しやっていけるという気はしています。友人や時には人の旦那さんの優しさをちょっとずつ借りながら。今までもそうしてきたし。もう、そこは割り切って、飼い猫になれなくてもノラネコでも飢え死にはしない、と。泥棒猫にならない程度に、いろんな家の庭先におじゃま
して。ただ、ノラの子供がどう感じるかは心配です。。。

前回記事の繭さんのコメントに触発されて、この週末は部屋の掃除に取り組んでいます。スッキリしますね!

チロさん

 今の私に何が言えるわけでもないのですけれど、私なりにその感じに勝手に共感してしまう部分はあるんですよね。特に「もう離婚しかないのではないか」と思っていたときにはやっぱり自分にとっても切実な問題だったと思うし。

 チロさんの場合、離婚という方向で問題の解決に向けて確実に前進されていて、その意味では「次の一歩」につながる悩みなのかなと言う気はするんですけれど、でも「次の一歩」への足場になるだろう離婚問題について、まだ最終決着には至っていない段階ではとくに、中途半端な状態で「次」が見えてくることのつらさがあるような気がするんです。

 なんか、でも「ノラネコ」なんて言わないで、今まで悩み苦しまれた分、チロさんらしいちゃんとした幸せを改めて手にすることができたらいいなあ、と思っちゃいます。悩むべきことをちゃんと悩んでこられた方って、なんか人としての大事な魅力を持ってらっしゃると感じるし。

 すみません、いろいろわかんないのに、勝手なことを書いてますね。

パンダさん
ありがとうございます。ちょっと涙出てしまいました。
私の友人は優しい人が多くて、よく話も聞いてくれるし、その彼氏や旦那さんもいい人で、大切な彼女や奥さんの友人として私にも親切にしてくれるから(重い物持ってくれたり、一緒に団欒してくれたり)、自分のことをおこぼれに預かるノラっぽいと感じてました。
でも、ノラネコはちょっと卑屈だったかもしれませんね。パンダさんのいうとおり、次が見えてきて、でも不確実で、気持ちが不安定になってるんですね、きっと。

一瞬だけ山から降ります。

繭さんの:
「とてもざっくりとしたイメージなのですが、定型側は「求めるものが得られない」ことが多くて、アスペルガー側は「出来ないことを求められる」ケースが多いように感じます。」

という言葉は「なるほど」と思いました。

私自身が今悩んでいるのは、アスペルガー側の「出来ない」という、その「出来ない」のレベルが、私の想像をはるかに越えて「出来ない」のに、そのことが頭で理解出来ていないのと同時に、心で受け入れられないということです。

私の夫の例で言うなら、2つの情報が入ってたら100文字の情報すら理解できないとか、相手の両親まで巻き込んでいるのに女性問題があったことすら忘れている様子であることとか、自分から離婚を言い出したのに「それは君の記憶違いだと思う」と言ったりすることとか・・・。

発達「障がい」と言うからには、単なる「個性」じゃすまされないような、重大な「出来ないこと」がある訳なのでしょうが、それが理解しきれていない。

でも、それは、私の中に「差別」の心があるからだと思う。上記の夫のような言動は、夫の「そこの部分」の能力が救いがたく低いから起こっているのかもしれないのだけれど、「そこまで低いのか?」というのを受け入れられていないのだと思う。(ちなみに夫は知能指数150もあります)

視覚障害者に手を振っても無視されて怒ったり悲しい気持ちになっても、それは「無意味」だし「無駄」ですよね。そして、「私は目が見えないんです」と言われた時に、「そんなはずはない!」と、それを信じたくない人がいたとしたら、それは「目が見えない」ことは「悪いこと」だとか「劣っている」と思ってるからだよね。

また、相手が「目が見えない」というのを知った後の対応は分かり易いけど、「自分が離婚を言い出したことも忘れてしまう」というのを知った後、一体どうやって対応すりゃいいんだ?というのは、まったく謎です。どなたかが(Rosamondeさんだったかも)忘れてしまうのは、それが重大だと思ってないからだ、と教えてくださいましたが、互いが「大事」と思うことがここまで違ってる場合、どうやって対話すりゃいいんだ・・・というのは全く分かりません。

パンダさん、カレンさん、みおさんの場合は、うまく行くようになる前に「怒り」の感情というのがあって、むしろそれが原動力になって「今」があるのだと思うけど、私の場合は「静かな絶望」でした。

「怒り」を感じられるのは、自分の側の人間のタイプと、相手の側の魅力の組み合わせなんでしょうね。自分の側にも前向きなエネルギーがあり、「困難にもかかわらずこの人とやっていこう」と思えるだけのものが相手の側にある。

チロさんとこに書いたことと同じになっちゃうけど、定型同士なら100の速度、100の量のコミュニケーションが出来るところが、アスペルガーのパートナーとは10であったとしても、その10がどの定型の人よりも自分にとっては濃かったり、自分にとって面白かったりするから、前に進めるんでしょうね。

私はもはや夫には何の魅力も感じないので、配偶者としてはもう関係を切るしかないのですが、「ここまで出来ないのか!」という「ここまで出来ない」を「目が見えない」と同レベルで、少なくとも頭で理解出来るようにはなりたいと思っています。が、それはまだまだ先のことになりそう。

>パンダさん
アストン博士と私は、友だちじゃなくて、「著者と一読者」「ワークショップ主催者と参加者」「カウンセラーとクライアント」(単発ですが)です。

>みなさま
それでは、また山に帰ります。

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