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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年7月27日 (水)

パンダは白と黒

 カレンさんがコメントで、憎しみや軽蔑、哀れみ(と言うか憐れみ)といった負の感情について、ご自分も今もそういう感情を持つことがある、ということを書かれた上で、

「でも、こういう感情を持ち続けること自体が苦しくて、長くはその感情を持っていられません。長いこと水の中に潜っていられず、「プハーっ」と水面上に顔を出すときの感じと似て、何か、自分にとっての空気を求めずにはいられなくなります。」

 とおっしゃっています。なんか考えさせられて。

 私の場合は、人に対して(自分勝手な)「正義の怒り」とか、「正義の侮蔑」みたいな感情を持つことはあっても、それ以外の形で負の感情を持つことはなんだか極力避けてきた人間のように思うんですね。たとえ自分が傷つけられることがあったとしても、一生懸命に相手の「善意」の部分を探そうとしたり。

 そのことが悪いことだとはもちろん今でも思いませんし、そいう見方をするからこそ新しく見えてくる可能性みたいなものも大きくあると思いますけれど、でもそうすることで自分の傷を見ることができなくなったり、負の感情をただ押し殺すだけになったとしたら、それはいけないことなんじゃないかという気がするんです。(もしかすると多くの方には何を今頃当たり前のことをとあきれられるかも知れませんね (^ ^;)ゞ )

 で、カレンさんの書かれているように、その感情を意識して居てさえ、苦しくて耐えられなくなるわけですから、それを自分の中で押さえつけ、押し殺してしまったら、ほんとに自分自身をむしばんでいくことになる。

 アスペと定型の間のズレは、自分の好意が相手には悪意として受け取られたり、逆に相手の好意が自分には悪意として受け取られたり、そんなことが頻発するわけだし、それも「アスペと定型のズレ」として理解されない限りは、たとえ一晩寝ずに話し合っても調整できるようなやわな問題ではなくて、むしろお互いの憎悪を深めるだけになるかも知れませんよね。というか、アスペの人の方には寝ずに話しあう、ということ自体が困難な方もいらっしゃるでしょうし、実際私とパートナーの関係で考えれば、こちらが一生懸命話し合おうとしてもさっと切られるだけだったりもしたわけですし(今はその頃に比べて信じられないくらい「長時間(2時間くらいとか)」話し合えるようになりましたけど)。


 このブログでは、通常そういう憎悪の関係になりやすいアスペと定型のコミュニケーションについて、別の可能性を考えようとしてきて、沢山の方の貴重なコメントや議論を積み重ねながら、いろんなことを発見してきたように思うし、さまざまな新しい可能性の芽が生まれつつあるように感じています。それは「負の面ではなく、プラスの面をさがす」みたいな私の姿勢にもあった展開だったかも知れません。

 そのことで個人的にはパートナーとの関係もほんとに変わってきているし、上にも書いたように、それが悪いことだとはもちろん全然思わないんだけど、ただ、だんだんとそういうことの限界みたいなことも感じ始めてきているような気がするんです。

 なんというか、今まさにその憎悪の中を苦しみながら、もがきながら生きている方に対して「私も昔はそうでした。でも今はそれを<乗り越え>ているんですよ。その先には明るい未来があるんです。あなたもこうやってごらんなさい」とか、そういう「指導」とか「励まし」って、なにかがおかしいような気がするんです。「今その人が苦しんでいる憎悪にちゃんと向き合っていない」ということかな。

 「暗いところばかり見ないで、明るいところを見ましょう」みたいな感じになってしまうとダメな気がするんですね。だって、パンダだって黒いところも白いところもあってパンダなんだし、どっちかだけ取り出したらパンダでなくなっちゃう (^ ^;)ゞ

 
 もちろん「憎悪と向き合う」というのは難しいことだと思います。あるいは人と憎悪を共有するとかも。なんとか押さえつけて今の自分を保っているのに、その蓋を下手に開けてしまったら、どんなに恐ろしいことが起こるかわからない。そんな危険にも満ちているように思います。とくにつもりつもった憎悪についてはそうですよね。憎悪の連鎖が戦争とかテロをも生むわけだし。

 ああ、思い出しました。韓国の友人に聞いたんですけど、韓国では「はんぶり」という儀式みたいのがあって、積もり積もった「恨」をみんなで昇華してしまうようなことをやったりするんですって。なんか、みんな苦労してるんですね、そこは難しいだけに。


 なんか、憎悪とかマイナスの感情も無視することなく、かといって「次」を模索するプラスの姿勢を失うこともなく、生きていけたらすごいですよね。「悟りの世界」とは遠いのかも知れないけど、なんか「本当に人間やってる!」という感じはある。

 うーん、むつかしくてうまく書けません。「恨み辛みは隠さずにみんなではき出しましょう」とか、そういうこともあるとは思うけど、それだけでもないでしょうし。

 

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コメント

いつかもどこかで書きましたが、そして、今朝も実はいったんは書いたのですが、また繰り返しになるかと思って削除したのですが、

相手に向けた負の感情の剣は、間違いなく、全部自分に戻ってきます。相手を突き刺した、相手に向かって投げた・・・その分だけ、確実に自分に戻ってきて、とても心が痛みました。

最近では、ちょっと負の感情を持った瞬間後、その感情が自分の心の痛みとして戻ってくるようになりました。

「あなたは私」「私はあなた」・・・そんな言葉が、昨年末、どこからともなく急に自然に私の心から立ち上ってきて、その時には、それが何なのかよくわからなかったのですが、

今、あえて、ここで理屈付けをするとすれば、

相手に対してある感情を持つということは、その感情を持っている瞬間は少なくとも自分自身がそういう感情に満ちた人になっているからなのでしょう。

相手に憎しみを持っている時=自分が憎しみに満ちた人間、相手に軽蔑の念を持っている時=自分が軽蔑の心に満ちた人間・・・というように。

言ってみれば、「相手に向ける感情=そのときの自分自身を作っている感情」ということなのでしょうか。

「相手に対する感情」と考えると、あまり気づかないような気がしますが、「相手に対するそのような感情で満ちている今現在の自分」ということを考えると、

それが負の感情の場合どれほど自分が苦しいことなのか、わかるのではないかという気がします。

「相手に対する見方によって、自分自身が変わる」「自分がその相手によって、どういう感情に満たされる人間となるのか」「自分自身がどんな感情に満たされているかによって、人に対する感情は変わってくる」・・・

そんなことを、いろいろと考えている数年間です。

人間ですから、いろんな感情を持つのは当然だと思います。でも、瞬間瞬間立ち上ってくる感情をどう処理するか、どうコントロールするかは、その人しだいだと思います。

どんな時にどんな感情になりやすいか、それを自分で観察して、気づいて、辛い現状を換えたいと思うならば、それまで自分の感情癖や感情の処理の仕方を、意識して変えていくことが大切だと思います。

もし、悪循環に陥っていると気づくならば、その悪循環を起こしている感情の反応を、自分で意識して変えて行くことが必要だと思っています。

厳しい言い方ですが、「悪循環であっても、今のままでよい」、と思うならば、今のパターンの感情処理の仕方を続ければよいのでしょう。

悪循環を断ち切りたいのか、悪循環のままを選ぶのか・・・それは、自分しだいだと思って、これまでやってきました。(悪循環の断ち切り方は、離婚・別居も含めて、それぞれの関係性の中でいろいろでしょう。)

話がまとまりませんが、

私自身は、夫のよいところ悪いところ含めて、「夫はそこういう人」だと今は納得しています。夫からしても、よいところ悪いところ含めて「妻はこういう人だ」と、ちょっと尋ねたことろ、納得してるようです。

なんだかいろいろ書きましたが、「人を悪く見ている状態は、自分自身が、人を悪く見る感情に囚われている人になっている」ということで、

たぶん、私は、その「囚われ」に、今、耐性がなくなっているのだと思います。囚われるているより、自由な方が楽しいですから。

その囚われからどう解放されたいのかは、人それぞれ、関係性それぞれだと思うので、ここでもまた、自分の体験から考えたことをお話するしかありませんが・・・。

おはようございます。

昨夜は、パンダさんの今の悩みに沿うというより、自分の経験から感じたり考えたりしたことばかりを書いてしまってすみません。おまけに、誤字やら削除ミスもそのままの文章で、申し訳ありませんでした。

昨夜の追記になりますが、

少なくとも5年前の私は、自分の中の「黒=闇」の部分には気がついていませんでした。なんだか、目の前にある何かだけに腹を立てたり、恨んだりすることだけで終わってしまっている感じで、自分の中の「黒」に、無意識のうちに重い重いがっしりした蓋をしてしまっていたのだと思います。

そう言えば、昔、ある友人に「カレンさんは、自分の心の闇を見る勇気はある?」と尋ねられ、「そんな勇気はない。見たくない」というような答えをしたことを、今思い出しました。

夫とのことを通して、それこそ、それまでの一生分の「黒」と向き合わざるをえなくなって、その時に(何年かかけて)それまで溜まりに溜まったものが、一度ドーッと噴出したのだと思います。

一度出してしまうと「軽い」状態を知ってしまうので、ちょっと重くなると、その「重さ」に気づきやすくなるのかもしれません。

別に、「黒」が悪いわけではなく、自分にとって心地よい「黒」と「白」のほどよいバランスが見つかれば、それでいいのかも、という気がします。

私の場合は、完全に「黒」がなくなるわけではありませんが、「黒」が多くなってきたなと気づいたところで、その「黒」をちょっと捨てて「白」にする・・・という感じでしょうか。

あー・・・なんだか、ちょっと考え込みモードに入りました。あまり考え込むと、筆が(キーが?)進まなくなるので、このへんで失礼します。

カレンさん

 いろいろありがとうございます。

 私の場合、「相手を憎む」といった負の感情については、できるだけ抱かないようにする、という姿勢が強かった(完全にそうだというわけでは勿論無いでしょうけれど)ように思うので、多分、二つ目に書いて下さった方が私にはより大事なの問題なのかなと言う気がします。

 ポジティヴに自分や他人を見ようとすることは、決して悪いことだとは思いませんし、それはこれからもずっと大事にしていきたいと思いますけれど、でもそうしたからといって、それだけでネガティヴな部分が解決するわけではないんですよね。

 昨日パートナーと話せたんですが、彼女の場合、やっぱりひどいいじめを受け続けてきた経験や、その事態への大人の反応の仕方などを見て、人をネガティヴに見る、という姿勢は徹底して身につけざるを得なかったようです。子育ての際の二人の姿勢もそのところでどうしても折り合わなかったりしたんですが、ネガティヴに見ることには限界があると思うと同時に、ポジティヴに見ることにも限界があって、ネガティヴに見ることにも必要な部分がある、ということを改めて考え込んでいる感じかも知れません。もちろん「基本ポジティヴ」な自分は捨てようもないんですが。

 そこを見つめ直すことはパートナーとの関係をもう一度見つめ直すことにもつながるような気もしてきましたし、どうしようもなくネガティヴに見える世界で苦しんで生きていらっしゃる方の思いを多少なりとも感じ取る上でも、大事なことなのかなと言う気がします。

 なんか自分がいい年して未熟だなあという気もします。

「ポジティヴ」と「ネガィヴ」という言葉を見て思い出しましたが、

イタリア人の楽観主義は、古代からの歴史の中で多くの悲劇を体験した国民だからこそ持ちうるもの、つまり、「最大の楽観主義は最大の悲観主義から生まれる」というような文章を読んだことがあります。

家庭という、地球規模で見れば本当に小さな世界ですが、うちの場合もこれかな、という思いでその文章を読んだので、とても印象に残っているんですよね。

それから、

奥様のお話をお伺いすると、やっぱりどこか夫の生い立ちと似たところがあると思います。

夫の「自己肯定感が強い・自信を持っているように見える」の裏には、夫の生い立ちの中での、肩ひじを張らざるをえなかった、あるいは、何事も意に介していないように見せねばならなかった事情があったのだと、そして、実は、夫はとても繊細でナイーブな人でもあるのだという見方も、この頃ではするようになっています。

まとまりませんが、最後に、もうひとつ。

「ポジティヴ」と「ネガティヴ」の考え方ですが、一般的に考えられているような区分が必ずしも正しいとは限らない、ということを、この頃時々考えます。

「明るく元気に」が実はとってもネガティヴなことであるかもしれないし、「暗く元気なく?」がポジティヴなことであるかもしれない、そんな状況もありうるということを考えるのです。

一般的な概念からちょっと離れて、その時々の自分にとってどんな感情が自然なのか、その時々の自分にとってどんな感情がポジティヴなのかネガティヴなのか、自分の基準で考え直してみると、また少し楽になれるところがあるように感じています(^^)

懐かしい記事にコメントです(^ ^)
この一年程の間に、自分でも驚くほどにものの感じ方が変わっていたことに気付いたこの頃です。

以前、パンダさんが韓国の人の持つ「恨(ハン)」という感情について話して下さったのを思い出して、少しネットで拾い読みをしてみました。感情という言葉では表せない「在りよう」のようなものなのだなぁというのが感想です。私の受けた印象は、執着、自責、プライド、愛情、しがらみ、憎悪、依存…などなどでした。

私の恨と考えて真っ先に浮かぶのは両親、特に母への負の感情、恨みや憎悪、愛情、執着などは、今はかなり薄いものになって来ています。
母は母であればいい、娘を愛しながらも向き合うことが出来ないのも、伴侶を憎み蔑みながら婚姻生活を続けたのも、親や子供の為(=所為)と自分を縛り付けたのも、全て母自身に含まれることなのだから、それを私が変える必要を感じなくなりました。適切な心の距離が生まれるだけです。
結局のところ、人は自分の選択によって生きるのが最良で最善、そして一番幸せなのだと思うようになりました。例え本人が苦しみ、のたうちまわっていようとも。

私は、自分の苦しみが長い間分かりませんでした。だから、私には苦しむ必要があったのだと、今は思います。「どこまで辛くなれば、私は自分の苦しみに気付く? どこまで痛んだら、私は自分を守る?」ずっと自分にそう問いかけられ続けていたことに気付かずに、自分を許さず、労わらず、愛さなかったのは私自身なのだなぁと、今の私はそう感じています。

最近、自分の負の感情が他者に向けられている時「おっと、自分をおろそかにしているサインが出てる」と思うようになりました。本当はそう感じているだけなのに、「理由」を相手に探している自分に気付くのです。感情に理由や言い訳は必要ないなぁと分かったら、とてもシンプルになりました。怒って、泣いて、笑って、踊って(笑)全部が私ですから。そうしたら、他者や自分や事柄に執着しないでも大丈夫みたいです。

私が自分に向き合うことを生活のメインに出来たのは、3年前に緑ゆたかな地に転居できたこと、それを期に親から物理的な距離を保てたこと、専業主婦という仮名のひきこもり生活を「必要な時間」と言って与えてくれた夫と、私をよく知る友人たちがいてくれたこと、素晴らしい人たちと出会えたこと、沢山の要因が重なって得られた貴重な機会でした(進行形)。

自分が掘り、そして埋め続けた穴を掘り返し、中身を見詰める作業は、自分という醜い存在を直視することそのものでした。醜い、腐臭を放つヘドロのようなものが沢山出て来ました。そんなものででも、私はその穴を埋めたかったし、それが愛情なのだとすら考えていました。それらは「私自身」という認識を持つことによって、「愛おしく、切ない記憶」へと変わりつつあります。
昨年末に久し振りに大切な友人と話をした時、少しだけ心境の変化を話したら「穴に降りてきた?」と尋ねられ、「うん、いっぱいドロドロが出てきたよ」と答えました。その同じ彼女から以前に「好きなだけ苦しみなさい。見守ってるから」と言われていたのでした。本当に、私には「好きなだけ苦しむこと」が必要だったなぁとしみじみ思います。

両親への思いがなくなることはありませんが、少しづつ「ありがとう。さようなら(byエヴァ)」が近付いているような感触のする心持ちです。これからも私は過去の記憶に、泣いて叫んで怒鳴ると思いますが、なんだかそれはもう余り親に向かわないような気がしています。ただ感情はそこにあって、自分で味わって、もし伝えたかったら伝えてみる。相手がどう反応するのかは自分のものではない…それでいいのだなぁと思っています。
悟りの境地ではなくて、感情的な生き物としてありたいなぁと思います(^ ^)

人が生きようと選択し続けるものに、ポジティブもネガティブもないのかもしれません。強いて言えば「生きる」ことそのものがポジティブなことのように思われてなりません。
日々浮き沈みしつつ、これからも生きて行きたいです。
今、久し振りに穏やかな冬眠をしています(私の冬眠は、穏やか~激しい落ち込みの間のいくつかのパターンがあります)。気持ちの整理はだいたい終わりつつありますが、もうしばらくぼーっとしていそうです。
関わって下さった方々への報告と、沢山の感謝を込めて、余りアスペルガーとは関係のない内容ですが、書かせて戴きました。

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