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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年7月 7日 (木)

ネットが変えるアスペと定型

 「アスペと定型のコミュニケーションを考える」ためのこのブログは、実はこのブログそれじたいが「アスペ当事者と定型当事者の間のコミュニケーションを生み出す」という場にもなっているように思います。このブログを始めたときは、もちろんそういうことがあればいいな、というくらいには思っていましたが、それがメインの目的ではありませんでした。でも、ありがたいことに、ここに参加して下さる皆さんがそういう場に育てて下さり、また今もそういう場としてさらに育てて下さっているわけですね。

 そのプロセスに私も「参加者の一人」みたいな感じで関わってきながら、ネットという道具はやっぱりアスペルガーの人が社会の中でコミュニケーションをし、そこで何かを生み出していくために、すごい力になる道具なんだなあと言う気がしてきています。もちろんそれはアスペルガーの人にとってだけではなくて、その道具を使うことで、定型との間のコミュニケーションもずいぶんとスムーズになるところがある。

 実際、カレンさんと繭さんという、女性同士だけど熱烈な熱愛カップルが誕生しましたし、KSさんとRosamondeさん、繭さんもすごい深いお友達になってきたみたいだし、私とRosamondeさんはお互いに兄さん、姐さんと呼び合う仲になった(うん、やばい?)し……

 さらにそういう関係は直接コメントに参加されている方たちに留まらずに、それぞれの方のパートナーの方との会話を生み出したりしていて、それがまたコメントに反映されて、そのうちに「○○さんによろしく」みたいな「家族ぐるみのコミュニケーション」ができはじめたりしてます。すごい面白いことだと思う。

 で、直接対面しながら行うコミュニケーションとは違う、この「ネット」というコミュニケーションの道具の特徴はなんだろうと考えてみるんですが、ちょっと手がかりになるかなと思える体験があります。

 この間も、パートナーから私の話し合いの時の姿勢について文句を言われたんですが、家でパートナーと話し合いをするとき、この半年か1年くらい、私はソファに寝っ転がって目をつぶりながら話すことが多くなったんです。前にもちょっとだけ書いたかも知れません。それは私なりの工夫でした。

 私は通常は相手の人の目を見ながら話すタイプなんですが、彼女と話すときは、見ているとすごくしんどそうな、苦しそうな、あるいは怒っているような表情をしているように見えることが多くて、なんかこちらの言うことで傷つけているような気持ちになって、自分が悪人に思えてきてしんどくなってきてたんですね。

 それにこちらが質問しても、それにすぐに答えが返って来ることは少なくて、沈黙の時間がかなり続くことが多かったということもあります。相手が「ああ、いま、きっとこういう事で考え込んでるんだろうな」とか、なんか分かるときには私は結構ながいことその沈黙につきあうことがあって、場合によっては30分とか1時間とかでもじっと考え込んでいる相手の人が話し出すのを待つこともそれほど苦に思いません。でもパートナーとの場合はそれが難しいんです。

 考えてみればなんでそうなのか面白いことなんだけど、ほんとに「彼女が今何を考えているのかわからない」という感じなんです。というか、「考えているんだろうか」「質問の意味がわかりにくかったんだろうか」「質問に何か腹の立つことがあったんだろうか」「今私が質問したと言うことは意識されているんだろうか」「答えなければならないと思っているんだろうか。それとも答えたくないと思っているんだろうか」「質問が聞こえなくて、全然別のことを考えているんだろうか」……というような、いろんな可能性が頭をよぎって、安心して待てなくなるんですね。

 そういう状態になると、5分待つのは相当しんどいことになります。待つことで何か進展があるのかどうか、待つことに意味があるのかどうか、全然分かんないでただ迷っている状態で、しかもしんどそうな表情を見ているのは結構つらい。そうすると、自分自身の感情状態がおちつかなくなって、答えが来る前にまたこちらが話し出してしまったり、そしてやっぱり話し方にもその感情状態が出てしまいますから、そうするとますます会話が難しくなる。


 ということで、あるとき、ふと寝転がって目をつぶって体の力を抜いて話をする、ということをやったら、結構調子が良かったんですね。ひとつには向き合って話すときのように彼女のしんどそうな顔を見てこっちがしんどくなることがなくなる。それからこっちが話した後は、向き合っていると「意識を集中して答えを待つ」みたいな形になるけど、寝っころがって目をつぶっていると、答えが返ってくるまでなんかボーッとしてたり、他のことを考えたりしていられる感じになる。私の方はそれですごくラクになったんです。

 ただ、上に書いたように、彼女の方はそれにちょっと違和感があるようで、逆に私の方がちゃんと聞いてくれているのかどうか、心配になるのか、あるいは「話し合い自体がそんなにつらい思いをさせてしまうと考えると、(彼女が)つらくなる」というようなことらしいので、まあベストのやりかたというわけでもないようなんですけれど。あちらを立てればこちらが立たず、で、まあ難しいところです。


 その点、ネットの上でのやりとりは、そういう「時間」とか「向き合い方」に縛られることがないですよね。自分の都合の良いときに、自分に必要な時間をかけて、自分にあった距離感で、相手と向き合ってやりとりができる。お互いに自分のペースを守りながら、そのお互いのペースのズレは気にすることなくやりとりできるわけです。

 Rosamondeさんなんかも、よく「超超超亀レスですみません」とか書いてらっしゃるけど、そういうの対面状況では難しいけど、こういうやりとりだったら別になんともないですもんね。

 ネットを使ったコミュニケーションには、そういう特徴があるのだとすれば、ネットを使ってなりたつ社会もそういう性格を持つようになります。だから、やっぱりその点ではアスペルガーの人がその中で活躍していく可能性は、すでにIT関係で一部出ているような、そういうレベルを超えて、これからだんだん拡がっていくように思うし、そのことで定型の社会も大きく変化していき、アスペと定型の間のコミュニケーションのありかたもまた変わっていく部分が大きいような気がします。

 もしそうなるとすれば、現在のように定型的な対面的なコミュニケーションを基本に「障がい」として語られるアスペルガーが、相当違った見え方をしてくるかもしれない。例の「三つ組の障がい」とかいう話なんか、どこまで生き残れるか、相当あやしいものです。「昔の人はあんな見方しかできなかったのか」と言われるようになる可能性が高い。

 ただし、「結婚」ということになると、やっぱり「対面的な状況」が基本になり続けるでしょうから(まあ100年後はちょっとわかんないけど)、このブログで議論しているような問題がなくなることは無いでしょうね。でも無くなりはしなくても、実際このブログでのやりとりの中から生み出されているように、ネットを利用することで、これまでそれぞれの人が孤立して抱え込んでいたアスペと定型の問題が、いろんな形で共有され、ふくらみと柔らかさを持って変化していく、という可能性はどんどん増えていくだろうとも思います。そうなれば、「アスペと定型のズレ」の問題も、今よりはずいぶんと前向きに考えられるようになっていくのではないでしょうか。
 

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コメント

パンダさんのご家庭での様子を目に浮かべながら、ただ会話をするためだけにでも、とっても苦労・工夫をなさっているのだなぁ、と思いました。

「ソファに寝転んで」というスタイルの斬新さに驚くとともに、30分でも1時間でも待てるというパンダさんには脱帽です。

うちの場合は、今では家事をしながらでも話せるようになりましたが、うまく回るようになるまでは、とにかく様々な意味での雑音を避けるために、あえて2人で外に出て話したり、家の中でも時間と場所の設定をして話し合いをしていました。

いつなんどき、何のどんな拍子にどんな些細なことが喧嘩に発展するかわからない状況が20年も続いていたので、4年前の退院後には、その状況を頭の隅でいつもつぶさに観察するようにし、喧嘩になりやすいの条件を排除していったのが、上記のようなスタイルです。

生活の中で、いつ何が起こるかわからない、と双方感じている状況は、それだけで常に臨戦態勢に入っているわけですから、今思えば、本当に戦場でした。

「時間と場所を設定の上での会議」を提案をし、家事・雑事をしながら(特に作動中の食器洗い機の近くは絶対にダメ)の話を避けるようになっただけでも、話はずいぶんスムーズにできるようになりました。

今回読んで思ったのですが、「時間と場所を設定したうえでの日常生活の中の会話」と「ネットでの会話」は、似ているのかもしれませんね。

今は、平日はそんなに落ち着いて話をするだけの時間が取れないので、子供を交えての夕食や家事しながらの場=会話の場、となっていますが、夫か私の、もしくは両方の「自分モード」が、なんらかの理由で強く出るとき以外は、その会話もスムーズに行くようになっています。

(どちらか、あるいは、両方の「自分モード」が強く出る時は、その時は距離を置いて後日落ち着いてから話をする・・・が暗黙の了解=お互い学習したことでしょうか。)

ネット・・・そうですね、私はもともとネット音痴&ネット嫌いでしたが、こういう使い方でこういうつながりを持てるようになってからは、機械の扱いはともかく、ネットでのつながり自体については、とても認識が変わってきていますね。(マスターことパンダさん、ありがとうございます。)

家族ぐるみと言えば、

繭さんの「世界が変わって視える」の話を、夫にしてみて、「世界が変わって視えた?」と尋ねたところ、

ちょっと間が合って・・・

「繭さんがそういう言い方をするのであれば、その言い方はわかる。世界が変わって視えた、という表し方になるかもしれない」と言っていました。私は思わず、「ほんと?変わって視えた?」と言いながら、心の中で「やったー!」と思いました。

繭さんのおかげで、実に淡々とした言い方ではあったけれども、夫に言わせちゃった・・・って感じです!(^^)! 繭さん、ありがとうございます。繭さんは名通訳でもあるみたいです。

あ、前のテーマのところでの話ですが、私は「ミューズ」のような美しいイメージとは程遠いような気がしますが

その場のオーラとか、テレビなどから感じるオーラのようなものには、たぶん敏感だと思います。他の人の感覚がわからないので比べようがありませんが、子どもの頃、「感受性が強い」ということは、周りの大人によく言われていました。このあたり、「アスパーガール」の中で書かれていた、アスペルガーの人の直観とか第6感みたいなことと共通するのかなぁ・・・自分でも謎です。

カレンさん

 「「ソファに寝転んで」というスタイルの斬新さ」

 (^ ^;)ゞ やっぱり「斬新」ですね……
 パートナーが違和感を持つのも無理はないか (^o^) 

 「30分でも1時間でも待てるというパンダさんには脱帽です。」

 学生時代に他学部のカウンセリング実習の授業に潜り込んだときに
 講師が言ってたことのひとつで、
 沈黙はそれじたいが会話の一部だ、みたいな話がありました。
 「あ、なるほど~!」とか思ったんですね。

 わりに深刻な話などの場合は話し込んでいるうちに、
 相手の人がぐっと自分の内面に入り込んで、考え込んでしまうことがある。
 「あ、今そういう状態なんだな」というのは大体会話の流れでわかるし、
 そういうときはじっと考えさせてあげるのがいいと感じられる。
 そこに大事な意味があると感じるから、待っていても苦にならないんです。

 もともと私は物心つく頃には母親の「悩み話」を一方的にずっと聞かされ続け、
 長男の甚六でそれを理解しきれないまでも一生懸命聞いてきましたから、
 なんか「人の話を聞く」ということについて
 特殊な早期訓練を受けたようなものらしいんです。
 実際カウンセリング実習の授業でも「専門家になれる」とか言われました。
 ま、その道には進みませんでしたし、
 その道の胡散臭い裏も沢山見聞きしたし、あのやり方の限界も強烈に感じるので、
 仮に可能性があったとしてもなりたいとも思いませんけど。

 あ、もちろんカウンセラー個人個人ではいい人が沢山います。
 友だちのカウンセラーもこのブログを面白がって時々読んでくれてたりしますし。

 なんにしろ、定型同士とか、あるいは境界性の人とかとの間であれば、
 その「沈黙」の意味は結構感じ取れるんだけど、
 そこがパートナーとの間ではほんとにものすごく難しいんですね。
 一体この「沈黙」が何を生み出すのか、全然わからない。
 そういうところにも定型とアスペの「会話」のズレが現れてるんだと思います。

 そう考えると、定型とアスペのコミュニケーションを考える上で、
 ここは結構ポイントになることのひとつかなという気がします。

フツウのやりとりと違って、制限されたチャンネルで、テキストに限定された関係、時間軸も実時間で反応する必要なく、特殊な環境での特殊なやりとりです。そこから自分の中で勝手にイメージする「ネット人格」とでもいうべきものとなって現れているはずです。典型的なバーチャル世界です。だから対面するとまったくちがう感じの人々だと思います。

オフ会でもやって会ってみたらパンダさんや私が超アスペルガーチックだとか、KSさんやカレンさんが超アスペルガーチックだとか、繭さんやRosaさんがぜんぜんフツウじゃんという人がいっぱいいるでしょう。まあRosaさんはマスコミに露出もしたから、視覚や音声、その他のイメージ持ってる方もいるかもしれませんけど。

だからアスペルガーの共通イメージはあり得ないのですよ。ちゅうか、たぶんアスペルガー症候群の人というのは、ぜんぜんフツウの個性ある定型人なんすよ。その高機能具合にもよりけりですけど、すごく無理をしながら多数派社会に溶け込んでみつからなくなるぐらいに。家族たちの苦労で一様に言われるように外面はものすごく良いのに家族にひどいこと言う、だからこそ家族がカサンドラになるのですから。

人のイメージというものが本質的に虚構であるのは、自分が勝手に作り上げたものだからです。だからパンダさんブログで得られる「共感」も、ものすごく虚構である可能性はあるなあ。私って懐疑的でしょ。もちろん「その共感」に救われていないということではありませんよ。でも、明日、突然パンダさんがブログを閉店されても、パニックに陥らないココロの準備はしとかないとね。

私もこの1,2年、配偶者の目をみないで話すようになりました。でも、これは対人恐怖の症状ですよね。そしたら他の人との視線の合い方もなんか意識しちゃって不自然になってるような気がします。それまでの人生では、人と話すときの自分の視線を意識したことすらなかったです。たぶん自然にできていたハズです。それに自閉っ子は視線があわないよね。うちの子もまだよその人とは目を見ないで話すことが多い。

私の家の状況について、繭さんが「私の生育家庭と似ている」とコメントしてくれたこととも関係しますが、やはり今世間で「自閉スペクトラム、生まれつきの障害です」と声高に叫ばれていますが、そのかなりの部分は後天的な環境適応の結果による生きづらさを抱えた人らだと思います。今の世界を見ていると、テクノロジーその他の要因で生み出される自閉傾向のパーソナリティが増加しているように思います。そういうパーソナリティに対する耐性を身につけることも未来への適応かもしれない、と思うときもあります。

少なくとも私が生きた時代には、私の配偶者=うちの子のお母さんのようなパーソナリティは、少なかったのか、隠れていたのか、目立たなかったのか、わかりませんが、あまり適応する必要を社会が感じさせなかったものです。でも子の世代では、たぶんそういうパーソナリティと共存するスキルや耐性が、今まで以上に要求される世の中が来るようにも思います。だから、うちの子がお母さんとトゲのあるやり取りですったもんだやりながら、ゆるやかながらもどうにか発達して、折れ線状に屈服しなかったことは、なんかすごく、、、(私は、ここで価値判断の言葉を使えないですが)、、、すごいことかもしれないな、と今は感じています。

joさん

 joさんにとって「懐疑主義」というのがどうして大事なのか、ということを考えてみたりしています。多分、これまでの努力の中でとても重要な姿勢として、なにか身に染みるような感じで大事にしてこられたんだろうなと言う気がします。
 
 だからきっと今のjoさんにとっては無くてはならないものなのだろうと思うし、と同時に「懐疑主義」をずっと抱え込むことのしんどさみたいな事も同時に感じたりします。

 幻想についても、言ってみればそれって人間が人間であることの証拠みたいなもので、それなしに人間生きられないようなものと思います。想像力という言葉で言ってもいいかもしれません。あのかしこいチンパンジーだって、幻想を持つことは不可能なわけだし、幻想を他の人と共有できるようになったからこそ、人間はこんな複雑な世の中を作って、それによって飯を作り、食っているのでしょう。「お金」なんて、そういう幻想の最たるものですしね。その幻想で世界が動いちゃうんだから、幻想と言ってもなかなか侮れないものだと思います。逆に言えば、幻想を共有すること無しには人は生きられないわけだから。

 そういう点から言うと、アスペと定型のズレは、幻想の持ち方のズレと言えるところがあるのかなというふうに思うんですね。その意味では、このブログでやろうとしていることは、お互いの幻想のズレを理解して、どうやってもう少し上手に幻想を共有できるようになるかを探ろうとすることだ、と言えるのかも知れません。幻想という言葉が違和感が有れば、想像力とか理解の仕方という言葉でもいいですけれど。

カレンさん

遅れ馳せながら、「やったぁ!」と思いました(^ ^)/
夫にこの話をしたら「結局、一人で楽しんでいるのは変わらないけどね」とニヤニヤしていました。
でも、「世界が変わって視える」時って、相手を強く感じていて、とても幸せなのです。

写真の方にコメントをありがとうございました。
ご心配をお掛けしてしまいました。
別記のように、夫と久々に遣り合ってしまい、落ち込んでいた次第です。
仲直りはその日のうちにしていて、私もまた緑に触れたりして、元気になりました。

丁度、緑の中を歩いている時に、カレンさんからのメッセージの到着お知らせメールが届いて、嬉しかったです。ありがとうございました(^ ^)

繭さん、なんとなく・・・なんとなくなのですが、何かがあって繭さんが落ち込んでいらっしゃるのではという気がして、あちらにコメントを入れたのですが、喜んでいただけてよかったです(^^)

ご主人言われるように、夫がひとりで楽しんでいるには違いないかもしれませんが(苦笑)、この頃では、私といることで誰かが楽しんでくれるなら、それはそれで嬉しいことだと思っています。理屈抜きで、私と一緒にいる人が笑顔でいてくれることは、私自身にとっても楽しいことですし。

ご主人のニヤニヤもわかりますけど(笑)。

カレンさん

第六感でしょうか、すごいです。
私は何かがあると、気持ちが閉じる方に向かうのですが、閉じた状態で、ほけらっと歩いている時に、カレンさんにいただいたコメントがすっとつながった感じは、うまく言い表せない感覚でした。
強いて言うと、「カレンさんだ~(^ ^)」という、嬉しい感じです。

写真のコメント、ありがとうございます。
くねくね道を行く時に、移り変わる景色と、見えない向こう側を楽しみにする喜びってありますね(^ ^)

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