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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年7月 1日 (金)

「つながり」って何???

  KSさんのコメントの言葉

 「父も母も同じように「子どものために何かをする」ということをしてるのになんだって、私は父とはつながってる感じがするのに、母とはつながってる感じがしないのだろう。」

 なんか昨日パートナーと話をしていたことに直結するような気がしました。

 どういうのか、私が崩壊する間に、一番しんどかった思い(のひとつ?)は、「自分は彼女から必要とされていない(拒まれている)」ということだったと思うんです。

 ただそのことに耐えきれずに、ショックを受けた自分の気持ちを落ち着かせるために「ミニ家出」みたいなことを二度ほどしたことがありますが(全く、中学生じゃあるまいし、お恥ずかしい話です……(^ ^;)ゞ)、そのときは家に戻ると「帰ってきてくれてありがとう」とか、なみだを流しながら真剣に言われたんですね。だから混乱して。

 でもその後もやっぱり変化が起こる訳じゃなくて、相変わらずの状況がまた続く。

 だから、さらに状況が悪化する中で、どこかで割り切れない、よく分からない思いを残しながらも、「自分はもう必要とされていない」と自分自身に言い聞かせるほかなくなっていきました。

 昨日いろいろと話ながら、はじめてパートナー自身が言葉にしたことが、「自分はあなたを必要としているんだけれど、必要とするしかたが何か違うんだと思う」ということでした。

 そう言われると、具体的にどう必要とされているのか、実感としては全くまだわからないんだけど、一応説明はつくんですよね。以前抱いていた「割り切れなさ」の部分が。

 これ、少し冷静になって頭を切り換えてみると、彼女の方も自分が必要とされているという実感が持てない状況がかなり続いたみたいだし、今もその延長のように感じます。私も言葉で説明をしようとするんだけど、どうも伝わらないし、どう伝えていいか分からない。だいぶ前にみみさんが「抱きしめてあげればいい」というようなアドバイスを下さったことがあったけれど、まあ自閉系の人によくあることと思いますけれど、残念ながらそういうスキンシップ系は大体の場合(すべてではない)は苦手なタイプなのでそこでもほんとに伝わりにくいか、場合によっては逆効果。

 KSさんが書かれているように、「つながり」って何? なわけです。

 お互いに相手から求められているという実感が持てない。自分は求めていると思っていても、相手にそれは通じないし、その求めている部分で拒絶されたり無視されたりするように感じてしまうことがある。最近は前と違ってすごく無視とか拒絶されているという感覚は少なくはなってきているけれど、でもスルーされている感覚はやっぱりぬぐえません。

 昔の夫婦なら、たとえば農家なんか典型だと思うけど、夫婦で共に働くということが具体的にあるから、「心のつながり」みたいな、えらく抽象的な話が問題になる前に、生活そのものを共にすることで「つながり」が維持されていた部分があると思うんですね。あるいは「家」というものが仕事の場で、家族が仕事の仲間だから、夫婦間には多少の問題があってもその枠で維持されていたり。

 今はある意味むき出しの個人と個人が直接「心のつながり」を問題にするようになっちゃって、そうなるとアスペと定型の間では最も「苦手」な問題が前面に出てくるようになってしまうのかもしれません。

 求められているらしいと頭では理解する。でも実感としてよく分からない。そのよくわからない「つながり」だけれど、それをもし断てば、パートナーはとても辛い思いをするんだろうな、ということくらいはなんとか感じられるようになってきたでしょうか。そしてこちらもつながりを断とうという気持ちもなくなってきて、むしろもっと「つながりたい」と思いながら、でもじゃあどうしたらいいのか全然わかんない。

 ほんとに不思議と言えば不思議な世界です。

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コメント

必要とする、必要とされるということからは離れてしまうかもしれませんが、思ったことを書きます。

KSさんのお母さんがホットケーキを焼いてくれたことを嬉しく思いながらも楽しいと感じなかったこと、なんとなく分かります。つながりが感じられないのは、思いを共有できてないからなんだと思います。

いま近所のカフェで一息入れてるのですが(携帯からコメントしてます)、BGMに好きなバンドがかかってて嬉しくて、お店の人に「好きなんですか?私もです!いいですよね!」って話かけたい気分になりました。それから、話の合う男友達を思い出し、あの人と結婚してれば趣味の話もできて楽しかっただろうな、などとしょうもないことを考えたり。趣味の話でなくても、笑いのツボが似ていたり、今日は暑いねと言い合える人がいれば、どんなにかいいだろう、と。
同じ芸能人を好きだといわなくちゃいけない、トイレに一緒に行くような女子高生的な同調圧力は息苦しいけど、やはり定型の私は、楽しい、悲しい、驚き、怒りなど、気持ちの共有を求めてしまいます。

「マグノリア」というアメリカ映画を思い出しました。いろんな行き違いや分かりあえなさを抱えた親子、夫婦などが出てくる群像劇なのですが、何一つ解決に向かわず混沌としたまま進み、最後に突拍子もないことが起こって、全員がその体験を共有する、という。
(ネタバレします↓)

散々にっちもさっちも行かない状況を引っ張っておいて、突然、空から大量のカエルが降ってくるというラストに当時の私は本当にびっくりして、トンデモ映画だと思ったものです。だけど、エンディングにエイミー・マンという歌手の美しい歌声が流れると不思議と感動してしまいました。
恨みや卑屈さや後悔といった色んな思いを吹っ飛ばす勢いでカエルが降ってきて、とにかくみんなビックリして、そのビックリを共有することで、登場人物たちを絡めてた何かがほどけていった、そんな感じ。

現実にはカエルが降ることはないけど、小さなわだかまりの数々をいちいち解決できなくても、ときどき小さな思いを共有することで帳消しにしながら、やっていくんだと思います。
だから、思いを共有することが難しい人とつながりを感じることは容易ではない。

うまく伝わったか自信ないけど、私は「つながり」って、そういうことだと感じました。

定型でも、私とは違う「つながり」の感覚もあるのかもしれません。
アスペの人の「つながる」感覚がどんなものなのか知りたいです。

最後はやっぱりこの問題ですか・・・。

少なくとも男女を意識して一緒になったカップルならば、究極、この問題に行き当たりますよね。自分と相手のことにしても、子どもたちとの関係を考えても。

我が家の場合、アスぺルガーのことを共有し、それぞれが、それまで自分の概念として思っていた「人間」とは全く別の人間だということがわかり、

それによって、まずは私の怒りが徐々に消えていき、それによって、夫の怒りも消えて行き、それによって、”そこそこ”or”以前よりはずっと”「うまく行くようになりました」という状態にもなり・・・

でも、「でも」です・・・やっぱり、ここで問題にされているようなことは、私たちも今でも解決できていません。

ことスキンシップとか、自然なやり取りに関しては、

どちらがどちらに合わせることもできず、どちらかに合わせればもう一方がとても辛い思いをすることになり、かと言って、妥協案というのも、結局のところ、定型の望むごく自然なスキンシップとか心の共有にはほど遠く・・・。

話さなければわからない、だからと言って話せば話すほど、気持ちはきしむし、お互いとても不自然になり・・・。

何度話し合っても、結局どうにもならず、どうしてよいのかわからないまま今に至っています。

夫の側で快適なことを実現しようとすれば、私は修道女か尼さんの境地に達しなければならないでしょう。俗世を断つしかない、とでもいうような覚悟で。

でも、私は生身の人間だし、修道院に入る気も出家する気もないし、妥協案というのもとてもヘンな感じで・・・結局どうしようもありません。

今日、このブログのテーマを受けて、ちょっと夫と話しました。

私:
「どんなに話しても、これだけは、ずっと保留のままでどうもならないし、とても極端な発想を、極端だとわかったうえでちょっと言うけど、家庭内では夫を持っているということで、家庭外で定型の異性の友人とのつきあいというのがあれば一番いいのかも」

(夫からの反論もちょっと期待して、試しに極論をあえて言ってみました。)


夫:
「肉体関係とかでなければ、べつにいいんじゃない?」

私:
「えっ?2人だけで会って、お茶したり食事したりお酒飲んりしても?!」

夫:
「べつにいいんじゃない。異性が2人だけで会ったらいけないの?」

私:
「それって、まぁ、肉体関係は絶対まずいのでわきにおいておくとしても、既婚者と未婚者でも、既婚者どうし、異性と2人だけで食事とかお酒とかいうのは一般的にはまずいんじゃないの? 仮にその本人はよくても、その奥さんとかにはまずいでしょう。」

夫:
「自分は別にいいと思うけど、そういうふうに思う感覚の人って少ないのかな?」

・・・


今日の、この会話についての私の気持ち・思いは、ここではあえて語りません。

今週は、家庭内のことでいろいろ+家庭外の友人・知人のことでいろいろあって、ちょっと意気消沈気味です。

夫との「つながり」は、

旅人同士が、お互いに異国で見てきたこと・聞いたこと・感じたこと・思ったことを交換しあい、それぞれの体験を聞くことで、

その相手の体験や体験を通しての思いや感じ方を、自分の世界の中に取り入れて行く感覚に似ているのだと思います。

その時現在の気持ちを、そのままその場で共有するいうことは、なかなか難しく、正直なところ、私も寂しいですが、タイムラグがあってではあるけれども、お互いに、ある時のある体験についてのことを共有できるとかいう感じはある・・・かな。

夫にとっての「つながり」は、私もいまだにはっきりとはわかりません。


お正月に書いた「うまく行くようになりました」は、

"以前とは比べものにならないくらい"というニュアンスや、"うちの両親とは比べものにならないくらい" とか、何か相対的なものであって、

絶対的に「うまく行くようになった」わけではない、と今、ちょっと寂しいような苦いような思いで考えています。

そして、なかなかこれがまた人には伝わりにくいところなのですが、第6感とか無意識レベルとか、魂・命とかいうレベルでは夫とつながっているのだろうな、とは思います。でも、この話が通じた人は、ネットのこちらの現実世界では今までにひとりしかおらず、

結局、また、ずっとカサンドラです。(この感覚については、カサンドラのままでもいいとは思っています。それでも、やっぱり、わかってくれる人がいれば嬉しいです。)

上にも書きましたが、夫はどんなふうに感じているでしょう?
私の思いとは全く違うことを感じたり思ったりしているのかもしれませんね・・・。

(生活の中では、家事もし、雑事もし、それらをしながら子どもの話も聞き・・・なので、一緒にいて顔を見ていても、これらのことを直接聞けるタイミングを見つけるのは難しいです。)

記事を読んだ後に、主人に
「あなたにとって、私との繋がりって、何?」といきなりですが聞きました。

返ってきた言葉は…
「んー…難しい質問だね〜…あれだよ…あれ…運命共同体だよ」でした。

意味はなんとなくはわかりますが、どういう感じで言ってるんだろう?と思い、
「運命共同体ってなに?」と聞いたら、
「だから、…とにかく運命共同体だよ」でした。
(もちろん、この時の会話はこれのみで終わり、お互いのプライベートタイムに戻りました)
何とも完結な(主人らしい)答え方だなと思いました。

今は、少し目をつぶっている部分です。

私も夫が私を必要としてくれてるのは
何となく分かっています、頭では。
でも、私じゃなくちゃダメという気持ちにはなれません。
もっと、別の人でもいいんじゃないか、
お母さんみたいな人だったら価値観のズレもなかったんじゃないかと
思ってしまうんです。

結婚に対してのイメージが図としてありました。
円が二つ、一箇所が少し重なってる図です。
二つの円がつながってるから世界が広がって、
重なってる部分で自分と相手の共通点や核を感じる・・・というイメージです。

だけど、夫とは重なってる部分があるのかな?
重なっていなかったら
私によって夫の世界が広がる事はないよな、
その逆もないよな・・・と考えると少し悲しくなります。

実際は少しずつお互い影響を受けているのですが、
重なってる感覚はほとんどないという感じでしょうか。

カレンさんとご主人の会話は私と夫の会話のようです。
「肉体関係がなければいい」の
その肉体関係はダメという基準が
夫の中でどうしてできたのかわかりません。
私が好きだから嫌というよりも、
見聞きした常識というもので区切っているのかなと
思っていました。

それでも、
私も前に比べたらだいぶうまくいくようになりました。
私の中にあった「怒り」が消化できたからです。

私も夫ともっとつながりたいです。
そして、安心したいです。
夫にも安心してもらいたいです。

でも、そこを考えちゃうとどうしたらいいか
分からなくなります。

昨夜書いた会話には、こんな続きがあります。

私:
「それは、夫さん的、せいぜい我が家的な発想であって、一般的にはまずいんじゃないかなぁ。世間的に誤解されることもあるし。」

夫:
「そうか・・・。じゃあ、そういうこと(肉体的なこと)を卒業した、"おじいさん"とだったら問題なくていいんじゃない?」

私:
「え~っ、"おじいさん"(・.・;)?!」

夫:
「あ・・・、"おじいさん"じゃ、意味が違うか・・・(・_・;)」

私:
「うん、おじいさん"が悪いわけではないけど、意味合いが違う・・・(と言いながら、思わず爆笑)!」


ということで、少なくとも私にとっては深刻な話ではあるのですが、最後はまたまたショートコントとなりました。

昨夜は、この会話のあと、ちょっといろいろあって(夫以外のことで)、このショートコントの部分を忘れていたのですが、今朝になってこの部分を思い出しました。

いまだに解決はしていないけれども、会話のネタとかショートコントのネタ(?)にはなっている・・・これも、我が家の「つながり」方のひとつかもしれません(苦笑)。

これは、もう、どうしようもないんじゃないか?
一緒にいない方がお互いにとって幸せなのじゃないか?
そういう感じがすること、確かに多いです。
KSさんの言う経済効果で考えると続ける意味がわかんないです。

もしうまくコミュニケーションができたら解決できる部分もあるかもしれないけれど、うまくコミュニケーションがとれる確約はないです。自分でも我慢してると気づかないで我慢している場合などがそれにあたります。そもそも配偶者は自分の不快感のキャッチ感度が低いので、ずっと不快でもそうと気付いてなかったりします。

カレンさん>ことスキンシップとか、自然なやり取りに関しては、どちらがどちらに合わせることもできず、どちらかに合わせればもう一方がとても辛い思いをすることになり、かと言って、妥協案というのも、結局のところ、定型の望むごく自然なスキンシップとか心の共有にはほど遠く・・・。

同じひとつの状態が、一方に快で他方に不快であったりすることは、とても多いのです。もったいない vs 気持ちよく生活したい、みたいな言語化できそうな価値観ならコミュニケーションでなんとかなる部分も大きいですが、もっと感覚的な部分、暑い寒いであったり、明るい暗いであったり、美味しい不味いであったり、すると妥協点の模索もできない場合が多いです。

そして、言語化できるような価値観でも、必死でコミュニケーションして掘り下げていくと、その信念の構成のされ方が、知識のスッポリ抜けていた部分であったり、上にあげたような根元的感覚のズレに依拠するものだったり、身体機能の限界の差に帰するものだったりすることが判明したら、結局その時点で大きなショックを受けます。小学校の理科にもどって積み上げて解説しなければならなかったりとか、それだとまだ可能ですが、そこは、どうにもならないなあ、と感じることがよくあります。

どこかのブログで、妻がアスペの男性が「光を入れて本を読もうとカーテンを明けると、その鼻先でカーテンをシャーっと閉められた」という話を読みました。うちでは、花粉症の季節に窓全開換気をやられる話は書いたと思いますが、私ほどひどくはないけど配偶者本人もくしゃみとかして辛い影響をうけている(と私から見てわかる)のに、やっぱり彼女はやってしまう。そのとき説明して分かってもらい閉めてくれても翌日またやってしまうというのは前にも書きましたよね。そういうのって、それが彼女の弱点だと知った後も、どうにもならない辛さがあります。(知る前はエンドレスバトルでした)。

子供も(親切心から)毛布で縛られて、転がってきて「お父さん、助けて」ほどいてやると怒りをこちらに向け、また縛り上げる、助けて、ほどく、そんなことを一晩中繰り返して一家そろって殆ど眠れず、そんな頃が一番苦しかった。しかも外では一方の視点から、「助けて」の部分が抜け落ちて整合したストーリィで愚痴が語られ、私は『平気で風邪をひかせる非情な父親』になってたりしてました。こういうのは子の成長により抵抗する腕力が強くなったり、「嫌」が表出できるようになったりして収まりましたが、すると今度は自罰に転じてしまい、やはり手に負えない状態でした。

どうしたって「明るく楽しい我が家」に向かって行かれない。(たぶん、私の憶測ですけど)「暗い我が家」に育った人は、それがどんなに辛くても、その方が安心できるから、そっちの方へ引きずって行かれるって感じです。

うちの場合、そういうのが多すぎるような気がしてます。配偶者の実家も「定型♂:♀AS?型」で周りは犠牲者だらけです。

joさん

「もったいない vs 気持ちよく生活したい、みたいな言語化できそうな価値観ならコミュニケーションでなんとかなる部分も大きいですが、もっと感覚的な部分、暑い寒いであったり、明るい暗いであったり、美味しい不味いであったり、すると妥協点の模索もできない場合が多いです。」

 これ、すごく大きなポイントで、改めてしっかり考えてみたいと思うんですが、とりあえずひとつだけ思うことは、「感覚に違いがある」ということをお互いにしっかり認識できれば、ちょっと違いが出てくるように思うんですが、そこはどうなんでしょう?それがお互いに認められれば、「蓼食う虫も好き好き」みたいな感じでお互いに納得して「棲み分ける」というような工夫もあり得る(すべては無理かも知れないけど)という気もするんですが。

 それともその場合も

「言語化できるような価値観でも、必死でコミュニケーションして掘り下げていくと、その信念の構成のされ方が、知識のスッポリ抜けていた部分であったり、上にあげたような根元的感覚のズレに依拠するものだったり、身体機能の限界の差に帰するものだったり」

 というようなことでむつかしいということなんでしょうか。

カレンさん
すみません。私それ、やっちゃってます。昔から仲のよい男友達とご飯食べたりします。
夫もやはり気にしてなくて、別居する前、「A君(私の男友達)に遊びに来てもらえば?」なんて言ってました。私の機嫌がよくなればいい、という感じ。まぁ、かなり年下男子なので、女は若い方がいいにきまっていると思ってるらしい夫からしたら、私がA君の恋愛対象にはなり得ないと判断したのだと思います。
実際、弟みたいな感じで女友達と変わらない付き合いなんですけど、荷物持ってくれたり、歩幅を合わせくれたり、男性ならではの優しさに出会うとちょっとウキッ♪とします。
ただ、これは第三者を巻き込むことになるので難しいですよね。男友達がカレンさんのこと好きになるかもしれないし。私は、そういう可能性が限りなくゼロに近い男友達がいたけど。
そう言えば、結婚前ですが、夫は職場のマドンナ的な女性(Bさん)と仲がよく、頻繁にメールのやり取りとかしてたけど、全く隠す様子なかったです。そればかりか、私に、Bさんいいよなぁ〜とか、Bさんみたいになれ!とか言ってました。
ヘンですね、夫も私も。

結局、双方が非常な我慢をして、なおかつ辛い思いをしてる。双方が「私ばかりが我慢してる」という感覚で暮らしているのです。だから一緒にいる意味が希薄なのです。経済効果からすると、「子供のため」だけがその理由になり、他の全てが天秤の反対側でつりあう状態にするから、だから「子供」との絆が大きく重くなった感じもします。

発達障害を疑いはじめて勉強し、こだわり行動はやめさせようとすると激化することを知りました。そのことに気付いたら定型に近い側がより我慢を重ねることになる。本人に自覚してもらうことができたら少し修正がきくのでしょうね。

ギブアンドテイクのテーマに戻るんではないでしょうか。私は「自分だけが我慢してる」かどうか、客観的な視点を取り戻す努力をします。すると自分の主観も若干歪んでいることがわかります。

例えば、ある家事について「私ばかりがこれをしてる」「これをするのは僕ばかり」という感覚を持つと、双方が「29:1で自分がやってるぞ」みたいな表現をしてぶつかるのです。1ヶ月回数を数えてみたら、25:5で私がやっていました。1ヶ月後にその摩擦感情が薄れていたらもちろん蒸しかえしませんが、そうやって自分の主観のズレを補正しながら、「やっぱり自分の感じ方の方がマシじゃないか」と足場を確認して「発狂」を防止しながら生きています。そうしないと生きられない感じがするのですが、それって結局「自分が正しくて相手が間違っていることを自分の中で納得している」だけに過ぎず、辛さは強化されるだけのような気がします。何かいい知恵はないものでしょうか。

我慢ゼロで暮らすなら一人暮らししかないでしょうが、「常識的な妥協点」というのを求めると定型中心にならざるを得ない。コダワリとはそこからの隔たりなのだから。

>joさん
私、もうアスペルガーの本を読むのも辛い状況なので、最近、本を読むのやめてるんですけれど、「ハハはアスペルガー?」問題が浮上したため、「ハハとの摩擦を減らす」という新しい課題(可能性?)が出て来たので、「新しい目」でアスペ本を読んでみようかな、と思ってます。

アストン博士の著書の中にアスペルガーの人とのコミュニケーションの「技」を指南するワークブックがあるんですが、それを読んで「実験」してみようかと思ってます。母との関係はすでにかなりひどいので(私の側にとって)、多少の「実験」をしてみたところで、これ以上悪くはならないだろうし。

これまでにjoさんが使った「技」でうまく行ったものはありますか? 教えていただけたら嬉しいです。母にも試してみます。

考えてみると、私も「子どもが大学に合格するまで」と期限を区切って関係修復の方向を探っていましたが、あちらの掲示板に登場したばかりの頃は「どうやって正気を保ったらいいの?」とそればかりみなさんに聞いてました。joさんからも色々助言をいただきましたよね。感謝してます。

joさん、最近はご自分のためにはどんなことされてます? 以前は図書館に行ったり、たわいないおしゃべりするっておっしゃってましたよね。私、最近、ベランダでガーデニング始めたの。食べられるものばっかりだけど。けっこう楽しい。

アストン博士は「エモーショナル・フィーディングをしなさい」というようなこともおっしゃってます。ご自分を甘やかす時間もどうぞ大切になさってくださいね。

女友だちとは、自分たちが遊ぶ「口実」に「母の幸せは家族の幸せ」というのを合い言葉にしてますが、joさんの家の場合は「父の幸せは家族の幸せ」だと思うから。

「効用」のことに話を戻すと、joさんは心が優しくて誠実で責任感が強いから、「離婚」には「自分を責める」とか「うしろめたく感じる」という「負の効用」があるんだと思います。アスペルガーのこと知らない人には離婚理由の説明のしようもないしね。

私んとこは「女性問題」があるから、世間への説明は全然楽勝。本当の理由の説明はとても難しいけどね。だって離婚を向こうから言い出したこともいつの間にか忘れちゃってるみたいなんだもん。ほんと、正気保つの難しいです。

どうぞご自愛くださいね。

joさん

 「「常識的な妥協点」というのを求めると定型中心にならざるを得ない。コダワリとはそこからの隔たりなのだから。」

 この常識的な妥協点、というところの「常識的」という言葉を取って、定型的な妥協とは違う妥協を探ることは無理なのでしょうか。あるいは「こだわりとはそこからの隔たりなのだから」と書かれているのは、そもそも「妥協」という方法について、それ自体が否定われると言う意味でしょうか。

 「アスペと定型のズレ」という理解は共有してもらえない状態にあったという事だったと思うのですが、「個性の違い」として改めてズレを認めてもらうこともむつかしいのかな?「私の理屈はあなたには通用しないことが分かった。と同時に、あなたの理屈も私にはどうしても通用しないこともわかった。」という話を共有してもらえないのかどうか。別にどちらが正しい理屈だとか、そういうことは抜きにして、とにかく違うのは事実だということを認めてもらえると、「違うという認識の共有」を手がかりに、ちょっと先が見え始めるようにも思えるんですけれど。

 そのあたりは具体的に相手の方のことが分からないので、私にはなんとも分からない部分なのですが……

joさん

joさんと掲示板で出会った時には、すでにこちらはアスペルガーのことを夫と共有するところまでは行っていたので(と、言っても、結婚して20年も経ってからのことですが)、

joさんの今の状況とはうちの今の状況では、ずいぶん違うものがあるのだと思いますが、

アスペルガーのことを夫と共有するまでのうちのことを思うと、joさんが言われていること、そのままわかります。「暑い寒い、明るい暗い、美味しい不味い」その他、諸々・・・ほとんどすべてのことがバトルの原因になっていた、もしくは、初めの頃は私が全部我慢していましたから。

子育ての際のことも、joさんのところのことを考えながら、いろいろと思い出します。

でも、joさんの今の状況と、うちの昔の状況がどれほど重なっているかを考えれば考えるほど、今のうちの状況が、全く信じられないほどのものとして感じられます。

・・・と、ここに来るまでに、一度は書き終わった長い長いコメントを全部消し、今、もう一度書き直しているところなのですが、

何をどう書いても長くなり、どうしても簡潔にまとまりません。

考えるのは、「なんとかjoさんと奥様がアスペルガーのことを共有できる術はないものか」ということばかりです。

なんとか、共有できるところまで行けたら・・・。

あれほどまでに、激しくやりあっていた夫と私でさえ、上記のような感覚に関することでさえ、お互い「ここは譲れる」「ここは自分に譲って」「これは合わせられない」みたいなことを、

本当にぼちぼちペースではあるけれども、少なくとも話ができるようになってきているし・・・などということを考えているのです。

以前、奥様はアスペルガーの診断を受けるのを拒絶されている、というようなことを書かれていましたよね。このことも含めてあれこれ考えてみたのですが、

よく考えたら、うちの夫も、結局は「診断」というものは受けていないんですよね。

何か奥様にとって、何かとっつきやすい方法で、別に診断でなくていいので、アスペルガーのことを共有していただく術はないのだろうか・・・と、なんだかずっと考えています。

パンダさんも書かれているように、実際の奥様を存じ上げないので、なんとも漠然と考えることしかできないのですが・・・。

ちなみに、私の場合は、joさんがずっと書かれていた「身体機能の限界の差」のことや、繭さんやRosamondeさんから聞かせていただいた身体感覚のことで、以前よりずっと気持ちがすっきりしています。

(「ショック」というjoさんの言葉を伺って、「そうか、joさんにとってはショックなとなんだ」と思ったしだいです・・・このへんも、たぶんずっと理解できていなかったのかもしれません。反応遅くてすみません。)

特に、joさんのお子さんの聴覚についてのお話を伺ってからは、夫が私の呼びかけに振り向かないまま話をしていても、話の途中でスッと背を向けて隣の部屋に行ってしまっても、なんだか腹が立たなくなって。

このような様子を見た息子は、「お母さん、また無視されたね(苦笑)」などと言うので、「一般的には、やっぱりそうよね・・・。お母さんも、前はこれを全部、無視とか拒絶とかいうように受け取っていたから、落ち込みもしたのよ。あなたたちには、とっても迷惑かけてしまってすみません(苦笑)」などと返しながら、

ついでにアスペルガーの人の感覚について、チョチョッと息子にも話したりしています。

(本当は、このスペースにもいろいろ書きましたが、あまりにも冗長なので削除しました)

うーん・・・なんだか、全然まとまりません。

まとまりませんが、joさんのところが、なんとかならないものか、と・・・なんだかずっと考えています。離婚という選択肢も含めてになりますが・・・。

なんのお役にも立ちませんが、なんだかとても考えている、ということだけは伝わると嬉しいです。自分でも、なんでこん熱心に考えているんだろうと、と思いますが・・・この頃、joさんのお子さんの姿がだんだんリアルに目に浮かぶようになったからかなぁ(ちなみに、私にはjoさんのお子さんと同じ年の甥っ子がいます)。

チロさん

「あれ?チロさんから、あやまられるようなこと、何もないけど・・・?」と、ちょっとびっくりしましたが、読んでみて納得。そういうことだったのですね(^^)

私も、定型の異性の友だちはいるし、夫にも話した上で2人で会うこともたまにはあります。でも、他の人たちとみていると、いろんなケースがあるし(!)、女性どうしで2人で会うほどには気軽には会えないかな・・・という感じです(笑)

超亀コメントですみません。

『つながり』ですねぇ~。“私たち夫婦”は難しい部分があります。お互い、確定診断済なので、自閉さんと言うラベルなどは認めています。が、過剰にラベリングしたら、『自閉さん』と言う枠だけにこだわって変になってしまうこともありますから。

自閉さん度がとても重たい私としては、『つながり』と言うモノが目に見えないし、聞こえないし、その上、変化していくと言う混乱さもあります。

『つながり』も変化することにビックリすることもあります。こういうつながり=●●であると言う図式が見えない分だけ、データに登録している部分(言葉も含む)で照らし合わせていかないといけません。

『変化するつながり』の方が自分勝手(場合によっては相手勝手に見える)だ!と感覚的に恐怖を覚えてしまうかもしれません。

話は変わるが、『つながり』で嬉しいなと思ったのが、今年の9月、自閉症スペクトラム学会第10回研究大会の自主シンポジウムを企画したことです。私の知人(の大学の先生)が言うには、「自閉さんのパートナーのことを研究している人は、日本ではほとんどいない。未開の地に入っている」と。話題提供者&指定討論者として協力していいよと言ってくださった方たちのお陰で企画ができて、9月発表となりました。

未開の地(歴史がない)に入ることは、私1人ではできないのです。1人では限界なのです。

『つながり』で嬉しい反面、困ったことが今日出てしまいました。

名古屋の事務局から電話がかかってきて、「話題提供者と指定討論者の重複はできません」と言う内容の電話でした。

『つながれるだけ』の最大限の人数で行ったところ、人の重複はできないと言うことで、場合によっては1人~2人新しくできる人を探さなければいけない事態になっています。

明日の午前中、事務局長に自閉さんのパートナーの現状と事情を話して、話題提供者2名、指定討論者2名に変更してOKをとりたいかと思います。当然、書く原稿も変わってきます。

話題提供者3名だと困ったことになります。だにぃさんを指定討論者に移行し、話題提供者3名から2名に減らして、だにぃさんともう1人の方で指定討論者にするのがわたくし的には一番ベストです。→一番融通が効きやすいのはだにぃさんなので。

一番、頭が痛いのは、話題提供者が絶対3名でないとダメだと言うお答えが来た時です。今から1~2名、9月自閉症スペクトラム学会第10回研究大会お願いしますと言うのは、パートナーたちの事情から考えたら無茶なことなのです。自分自身が大変で、自分の家が大変で、自腹を切って1日名古屋へ行くことはとても大変です。今のパートナーたちが置かれている現実を思うと、自腹を切って自分の体と心をえぐってまで公の場でお話するのはものすごい過酷です。たとえ仮名などのプライバシーを配慮しても過酷です。

だにぃさんをはじめとするパートナーの方たちや支援者サイドで協力してくださる方の『つながり』に感謝します。あと、ここに来ている人たちの思いがなければ、『前例がない領域』に入り込んで発信しないと大変だ!にはなれなかったと思います。

ここに来ている人たちの思いと言う『つながり』があるから、『前例がない。面白い(おもろい)がやぁ~。前例がないのなら、私が前例だ』とか『新しいことをやった分だけ新しい歴史が始まります』ができるのではないかと思います。

最初の『つながり』は小さいかもしれないが、大きな『つながり』になって行くかと私は信じています。

未開の地の開拓者:Rosamonde姐さん

 開拓者って、かっこいいですね!

 「自閉さん度がとても重たい私としては、『つながり』と言うモノが目に見えないし、聞こえないし、その上、変化していくと言う混乱さもあります。」

 目に見えないし、聞こえないし、変化していく、という表現、「なるほどなあ」と思いました。「自閉さん度の重たさ」によって、そこのところで「全部見えたり聞こえたり固定していないとダメ」という人から「ある程度見えてないところや聞こえないところや変化するところがあっても大丈夫」という人までいろいろあるのかもしれないんですね。

 なんか、Rosamondeさんのこの表現を基本に頭に入れておくと、私にも少しは「自閉さん」的世界が理解しやすくなりそうな気がしました。

 自主シンポジウム、うまくいくといいですね!
 うまくいったらまた内容なども紹介して下さい。

joさん

 「結局、双方が非常な我慢をして、なおかつ辛い思いをしてる。双方が「私ばかりが我慢してる」という感覚で暮らしているのです。」

 この大事なポイントをお尋ねするのを忘れてました。そういうふうに「私ばかりが我慢している」という感覚を二人とも持っている、ということは彼女と理解が共有できるのでしょうか?

パンダ兄さん、何とか行きました。話題提供者2名、指定討論者2名にしてだにぃさんを指定討論者にスライドして、もう1人の方を指定討論者を外しました。9月、尾張名古屋へ出陣できます。

心配ありがとうございました。

>ALL

地震、大丈夫でしょうか?

私たちのところは震度2の揺れです。無事です。

和歌山と言ったら、GW(ゴールデンウィーク)はたま駅長に会いに和歌山電鉄乗り回して、先月はだにぃさんママの還暦祝いを白浜でしました。

あと、だにぃさんは2回、私は1回、和歌山でお話ししてきましたし、だにぃさんの友人や夫婦共通の友人も和歌山に住んでいます。

Twitterのフォローしている人の中には和歌山に住んでいる人もいて、無事かどうかつぶやきを書いています。

皆様のところは大丈夫でしょうか? 気になってコメントを書きました。

>「私ばかりが我慢している」という感覚を二人とも持っている、ということは彼女と理解が共有できるのでしょうか?

はっきりと双方向の言葉のコミュニケーションで確認したわけではないですが、ぶつぶつ言ってる文句の中に、「私は家政婦か?」「私は召使いか?」というのがよくあるのでそういう感覚でいるんだと私がかってに思っています。そういうことを言われると、大人2人の我が家では、「あんたがやってよ」という意味だとフツウ思いますよね。それで私がその用をやりはじめ、私は押し付けられてる感じをつのらせる。たぶん私はそれが紳士的だと思ってるんでしょうね。たまに思い切って「それは私にやれって意味か?」と返してみたりすると、「そんなつもりで言ったんじゃない。」「じゃ、どんなつもり?」とか、いうようなやりとりになってきたら、定型的にはこれはもうけんか腰じゃないですか。なのに、ほんとに喧嘩するつもりがなかったような感じだったりする。なんかよくわからなくなるんです。そういうプロトコルの食い違いでエネルギーがブラックホールに無限に消費される、そんな感じですね。

joさん

 「はっきりと双方向の言葉のコミュニケーションで確認したわけではないですが、ぶつぶつ言ってる文句の中に、「私は家政婦か?」「私は召使いか?」というのがよくあるのでそういう感覚でいるんだと私がかってに思っています。」

 ああ、それで何回ご自分がやっているのかを実際に数えた、というエピソードも出てくるわけですね。
 
 「そういうことを言われると、大人2人の我が家では、「あんたがやってよ」という意味だとフツウ思いますよね。それで私がその用をやりはじめ、私は押し付けられてる感じをつのらせる。たぶん私はそれが紳士的だと思ってるんでしょうね。たまに思い切って「それは私にやれって意味か?」と返してみたりすると、「そんなつもりで言ったんじゃない。」「じゃ、どんなつもり?」とか、いうようなやりとりになってきたら、定型的にはこれはもうけんか腰じゃないですか。なのに、ほんとに喧嘩するつもりがなかったような感じだったりする。なんかよくわからなくなるんです。」

 内容は違いますけれど、この感じ、ほんとに私が感じたことそのまんまという気がします。

 私の場合はそのあと、「アスペと定型のズレ」という理解が共有されることで、ようやく問題を話し合うための小さな糸口が作られ始めたという感じだったんですが、joさんと奥さんの間でそういう糸口を作れる可能性がどのへんにあるのか、あるいはそこは無理なのか、ということがいつも気になるんです。

 別のコメントにも書きましたけれど、もしかすると私のパートナーとjoさんの奥さんは「自分の世界」というものがどのくらい安定しているか、というところに違いがある感じもして、そういうことがあるから、「お互いに違うね」という確認をしようとしてもそもそも無理だ、という感じになるのかどうか、でしょうか。

 よくわかんないんですけど、もしかすると「安定した自分の世界」を作れなくて混乱されている場合には、「自分とはこういう人間だ」というイメージも作りにくいかも知れなくて、もしそうなら「自分と相手は違う」ということに気づくことも一層難しいのかもしれないですよね……・。

 うまく適応できずに転職も繰り返されている、ということでしたけれど、当然子どもの頃からずっと学校でも違和感を感じ続けてこられたのではないかと想像するんですが、そういうことについての自覚とかはお持ちでないのでしょうか。もしお持ちなら、そこを手がかりに、「なんでそうなるのかね」みたいな話につなげていけたりはしないのかなと思ったりもします。

 ただ、そういう話をするにもエネルギーが要りますから、今現在エネルギーをブラックホールに吸収され続けている状態だと、今はそういうことをぐちゃぐちゃ考えるより、やはりKSさんたちが書かれているように、お子さんのことを除いては、まずはご自分のケアが一番の優先事項なのかなとも思います。

 

配偶者の気付きをを促す努力というのは、私が医療機関に相談しはじめた頃に最初の目標にしたことでした。

医療機関に相談に行くまでにすでに相当悩んでいたし、たまたま「かたづけられない女たち」を読んだのが私の気付きのきっかけだったし、役所、発達障害支援センターの相談、紹介を経て病院へ行ったので私の中ではすでに配偶者の疑いは濃厚になっていました。

「みんなで病院に行って家族で相談しようよ」というスタンスで全員に主治医を割り当ててもらい、子が「アスor発達障害」として介入支援をうけ、私は「適応障害and抑うつ状態」の診断で治療、相談を開始しました。配偶者は初診だけであとはすっぽかし続けました。私がケースワーカとの相談の中でいろいろ作戦を立てて医療機関に向かうように努力しましたが、だめでした。相談しながら1年間ぐらい、あの手この手でやってみましたが、配偶者の診断という面は状況は全く動かなかったので、もうその部分は一旦あきらめるというか保留しましょう、ということになりました。

徐々に状況が変わってきたのは、私が湯水のごとく愛着を注いで、療育所に通ったり、当時はじまったばかりの保育所の特別支援を受けたり、その時点で私が可能と判断した支援を片っ端から重ねていき、遅まきながらの子の成長によって、配偶者と私の間でほんとうに拮抗していたものが傾き始めたような次第です。つまり、子供は明かに私によくなついているし、私といるときがより安定しますし、問題行動も少なくなることがはっきりしてきたからです。私の発達状況把握と目標の理解が正当性を帯びることになってきたのでしょう。
パンダさんもよく似たこと言ってたような気がします。


>「安定した自分の世界」を作れなくて混乱されている場合には、「自分とはこういう人間だ」というイメージも作りにくいかも知れなくて、もしそうなら「自分と相手は違う」ということに気づくことも一層難しいのかもしれないです

この感じはあります。人が変わったようにうまくいく時期がたまにあったりするので、だから「見切り」がつけられない、だけどまた元の木阿弥だったり。境界性からゆるやかだが多重人格みたいなことになってるかもしれないとも思います。

>当然子どもの頃からずっと学校でも違和感を感じ続けてこられたのではないかと想像するんですが、そういうことについての自覚とかはお持ちでないのでしょうか。もしお持ちなら、そこを手がかりに、「なんでそうなるのかね」みたいな話につなげていけたり

話を聞いてる限り、子供時代はハッピーだったようです。「天然ぼけ」みたいな感じで周囲に愛されていたんではないかと想像します。重責がかからない限り機能します。発達障害によくあるパターンですが、社会的責任がついてくる就職を機に苦しくなり始めたようです。それで結婚に逃げたようなフシがあります。出産後、もろもろあって私が失職。再就職しなくてはならなくなり「なんで私が…」みたいな感じでしょうかね。

「いっつも私ばかりが悪者、なんでも私のせいにされる」という感覚は、家でも職場でも、どこへ行ってもあるようですが、そこから「え、私ってへん?」「何か間違ってる?」というところへの橋がかからない感じです。状況証拠から判断しない、物的証拠があがるまでは、というものすごく『誠実』な態度ですね。だから、物的証拠があがったときは、誰も許してくれないぐらいコテンパンにやられてきます。可哀相っちゃ可哀相なんだが、、、、はぁー、て感じです。

joさん

「出産後、もろもろあって私が失職。再就職しなくてはならなくなり「なんで私が…」みたいな感じでしょうかね。」

 この「私」はjoさんのことですよね?

 なんか、(もちろん)書いていただいた内容から思ったことに過ぎないんですけど、ある意味今は奥さんにとって「安定している」状態なのかなという気がしました。

 もちろん奥さんご自身でもお子さんとの間でも揺れまくっている感じだし、joさんとの関係もしんどい状態が続いているわけだけど、そういう揺れも含めて安定しちゃっているような。

 それで、そういう激しい揺れがありながら、崩壊しちゃわないでぎりぎり安定しているのは、もちろんjoさんの超人的な努力の結果だと感じます。それがなければ容易に崩壊していく気がする。

 で、会社の出来事とかもある程度はjoさんに話されたりしている様子から想像して、会話が成り立たないわけではないし、「お互いに感じ方とかも違うね」というような話し合いが全然できない方だとまでは感じられなかったんだけど、ただ、それを避けることで今の「安定」を保とうとされているんじゃないかなあという気がしました。

 「結婚に逃げた」と書かれていることも、そういう流れで見ると分かる気がします。joさんが激しく揺れる彼女を支えてくれる人だと直観したのかも知れないなという気がして。

 うーん、なんか色んな意味でつらいですね……

 ここでも私の経験と共通点があるなと思ったのは、「危機感」がうまく共有されない時期がずっと続いたということです。「大変だ」とか「しんどい」とか、そういう気持ちはもちろんあるんだけれど、そのことが夫婦関係の危機とか、そういうところにはなかなかつながって理解されなかったらしくて。で、そういう状態では「自分も変わらなければならない」という風にはなりにくいように思えます。

 それが危機として少し感じられたのは、「プチ家出」のころかららしくて、その頃、子どもに「もうあきらめられたかもしれない」というようなことを言っていたらしいんです。そういう言い方からすると、潜在的にはちょっと感じ続けていたのかも知れないですが。そして最終的には私の方が崩壊して休職に至る、という時期に転機が訪れた。私もそのときに初めて離婚の可能性を実際に言葉にして出しましたしね(言葉にしないと伝わらない、ということで言えば当然なのかも知れないですが)。

 ということで、なんかとりあえず「しんどい状態でとっても安定している」という印象を受けました。だからjoさんにとってブラックホール状態になるのは当然のようにも感じるし、(お子さんのことは別として)「収支バランス(?)」が全然とれないように感じるのも当然のように思えるし。うーん、つらいところです。

 「はぁー、て感じです。」

 なんか、その言葉がとてもリアルに響きます……
 そこが、とにかく今の出発点と言うことですよね。 

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