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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年7月26日 (火)

「憐れみ」より「哀れみ」

 昨日の記事へのコメントで、Jesseさんが

 「あ、ところで、「哀れみ」の方が「憐れみ」より良いですね!」

 と書いて下さって、「ああ!これだ!」と思ったんです。

 これは私個人の言葉の感じ方の問題かもしれませんが、「憐れみ」というのはなんか「かわいそうな奴だな」という感じで切り離して見下している感じが残ります。でも「哀れみ」は「哀しみ」の気持ちをたたえているように思うんです。

 なんていうのかな、この「哀しみ」は相手に向けられているものでもあるし、自分に向けられているものでもある。つまり、相手がこの私を傷つけるような形でしか接してこられなくて、しかもそのことの自覚すらない、ということについて「悲しいなあ」と思うと同時に、それについてどうすることもできない自分の無力さを「悲しむ」ことでもあって、さらにはそういうどちらの思うままにもならない「関係」を「悲しむ」ことでもある。裏返して考えれば、相手にとって自分がそういう存在かも知れなくて、そのこともまたどうしようもなく「悲しい」。

 なんか、そういうどうしようもなく自分には手が届かないような、自分の限界もいやというほど思い知らされるような、そういう状態に対して、誰を責めることもできず、もうただ「哀しい」と思うしかない感じ。

 お互いにお互いの思いで(相手にとっては全く通用しない形で)ぎりぎりまで頑張って、とにかくお互いに傷ついて傷ついて、仮に相手を深く傷つけていることにうすうす気づいてさえも、それ以外どうすることもできない。もしそう心から思った瞬間に、お互いが見つめ合ったとしたら、そこで出てくる感情は「憐れみ」ではなく、「哀れみ」なんじゃないかと思うんです。繰り返しになりますけれど、そこで「悲しまれている」のは「相手」でもあり「自分」でもあり、どうしようもないお互いの「関係」でもあり。

 もちろん「お互いに頑張った」上で力尽きる、ということがないと、この「哀れみ」に達するのは難しいかも知れないですね。

 昔学校の国語かなんかで「もののあはれ」とかいうのを習ったことがあるような気がするけど、そういうことにもちょっとつながりそう。多分あれって、人間の世界のことについて言えば、どっちが正しいとか、どっちが間違ってるとか、そういうことをとやかく言うことなく、「ああかなしいなあ、人の世は(私は。あなたは。)」という思いに浸ることのような気がします。相手を責めるでもなく、自分を責めるでもなく、ただただ「哀しい」。あるいはそう思いながらもやっぱり相手を責めたり自分を責めたりしてしまう、そのこともまた「哀しい」。で、その「哀しみ」が共有されれば、それで美しいと言うことになるのかな。

 この感じって、どのくらいの人と共有できるのかは全然分かりませんけれど、私自身についてはどこか救われる思いがあります。どこまでの深さの救いなのかは分からないですけれど。

 
 なんか、この私だって、好きでこういう人間に生まれ育ったわけでもないですものね!みんなそうですよね!
 ほんとに「哀しい」思いがします。
 あ、でも、自分が好きで好きでという方には
 全然説得力無い話ですね (^ ^;)~

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コメント

「もののあはれ」につき、これ↓なんて面白くないですか?
http://gogen-allguide.com/a/appare.html

Jesseさん

 「あはれ」と「あっぱれ」がつながる言葉なんですね。
 そうか。ということは「あはれ」を感じられるようになれば「あっぱれ」か (^_^)

 ま、それだけむつかしいということもあるのかもしれないですね。

家族の心理学をちょっとお勉強していて、かなり興味深い概念をみつけたので…

それは、『破壊的権利付与』というのですけど、

「本人にとって、相手を苦しめ傷つけているつもりはないという言い訳が成立していること。弱者として家族から傷つけられた自分には、家族の誰かに仕返しをする権利が与えられているという思い込みが潜在している。」

のですって。それで、

「自分がこの権利を持つという理由を明言するか、またはセラピストが代弁する形で言語化すると毒が薄まる。無意識の中に秘蔵されてきた『破壊的権利付与』がセラピストの口から発せられることで、あたかも受容されたような感覚を得ることができる。同時に、その根拠の絶対性が失われる。」

ネットにでも吐き出しましょう。

「もし破壊的権利が行使されれば、その被害者に権利が移ることになり、当事者は権利を手放さざるを得なくなる。権利の行使により報復を達成するのか、それとも行使せずに権利を持ち続けるのか決断を迫られる。正義をめぐる利益相反の状態。」

典型的ディレンマですよね。自己のディレンマを落ち着いて客観視することで我慢することによって自分は無意識に何をしようとしているのか気付くことができるかもしれないですね。哀れみ、じゃなくて、憐れみもこのあたりと関係しそうですよ。憎しみも軽蔑も憐れみもアンバランス状態をディレンマの形のまま誤魔化しているように思えます。

「当事者が相手にも正義があるかもしれないと考え始め、セラピストとともにその可能性を確かめて、「自らの正義」との折り合いをつけていく。」

ということで毒を薄めていくようです。AS/定型にかかわらず我慢に我慢を重ねて来た人
は、しっかり中毒になってるということなんですね。Rosaさんは、悪妻宣言して一つのステージを越えられたようですが、定型の側でも、いい子ぶってるわけじゃないんでしょうが、「自分の正義」とあわない事実に遭遇した時に我慢しちゃって被害者意識を溜めこんでたとすると、かなり中毒状態だと思われます。相手の論理をつきつけられたら、自分の論理をつきつけた方がよいのではないでしょうか。それが「おたがいさま」の気づきにつながるコミュニケーションだったりするわけですよね?

さて、定型同士とか、先天的な違いはそれでよしとして、成育家庭で傷を受けていたり、認知の歪みにより成長過程で被ってきた傷により獲得された破壊的権利は、どうなるのでしょう。意味不明の高慢さや卑屈さ、自罰と他罰を行き来する姿に、ある種の説明を得たような気になりました。現家族で解毒するためには、その破壊的権利を共感というかその人の論理を使って一つ一つ言語化して行く作業が必要なのでしょうね。

問題となっている関係が乳幼児と大人の頃は、それが極めて困難だった、というか不可能だったけど、今ならうちでも少しずつやっている、成長した子供がやってくれている気がします。それが、我が家が少しずつ沈静化に向かっている鍵なんだろうな、という理解をしております。同時に子供だけにその役を負わせることは、問題を先に送ることになるだろうから、そこは慎重に舵取りして私がかかわっていかないといけないなと考えています。

怒りを封印すると悲しみになると以前どっかに書きましたが、「哀しみ」にまで昇華すれば解毒されるのかな…

joさん

 「「当事者が相手にも正義があるかもしれないと考え始め、セラピストとともにその可能性を確かめて、「自らの正義」との折り合いをつけていく。」ということで毒を薄めていくようです。」

 ここのところ、私なりにとてもよく分かる感じがしますし、すごく大事なことだろうという気がします。このブログも「アスペと定型のズレ」た善意や悪意の理解とか、そんなことを問題にし続けてきたことにつながるように思うんですね。「相手は想像もしなかったような考え方、感じ方で理解していたかもしれない」ということを探っていくこと。

 実際ここでのやりとりでも何度かそういうことがあったと思いますが、そこがわかると、なんか変化が起こる感じがします。 で、それが「毒を薄めていく」のだとすれば、何かそこに希望がある感じがしますよね。

 毒を薄める…… ちょっと心に響くところがあります。

 「意味不明の高慢さや卑屈さ、自罰と他罰を行き来する姿に、ある種の説明を得たような気になりました。」

 と書かれたところなんですが、どんな説明の仕方になるのか、まだちょっとよくわからなくて、もし良かったらもう少し教えていただけますか?

他罰は、生育家庭やその他のどこかで獲得した破壊的権利を無意識に行使してしまっているのでしょう。当然、現家庭のメンバーには意味不明です。

爆発しちゃって、そこで一旦ジレンマが解消して毒が薄まったら、自分が行使した破壊的権利に気付くことができるようになる。そうしたらフツウの感覚だから反省みたいな状態になって自罰へ振れる。(みんな私が悪いのね、私なんか死んでしまえばいい)の状態。

でも生育過程の経験は、繰り返し繰り返し繰り返し受けて獲得されている破壊的権利だから、揺り返してきてそう簡単に中立で静止しない。もともとのバイアスみたいなものとして働いてしまって他罰方向に引っぱるでしょうから。しかも加えて現家庭における感覚や思考のズレで生じる破壊的権利が加わって、振れた振り子は揺り返すみたいに再び他罰へ振れる。(なんで私ばかりが悪者!?)の状態。

そんなところじゃないでしょうか。メカニズムを理解することで、しかも相手の認知方略をかなり正確に捉えて関わり方を調整することで、これはそう簡単じゃありませんよ。なにしろズレがあるんだから。そんなことをしても、せいぜいが振り子が加速するのを防げる程度じゃないかという気もします。

ズレを遊べるのは、破壊的権利行使が実害を生じていない範囲じゃないでしょうか。心の不快ていどで。子供の心や身体の傷が私自身に見えてしまったり、対外的債務不履行に陥ったりする場合は遊べる範囲とは考えられないですね。その範囲だって私の主観が決めてしまうことではありますが。。。

子供が手帳をもらえる発達障害だっていうのは、ある意味お墨付きですけど。私の失職は、お墨付きをいただけないですが、そいつが私の側の破壊的権利になっている可能性は大きいな。

「境界性…」の解釈がパンダさんと私でずれているみたいですが、私の持ってる「境界性…」のイメージは「境界に生きた心子」という本から得てるところが多いと思います。するとうちの場合にあてはまるところがあるのですよ。

http://www.amazon.co.jp/%E5%A2%83%E7%95%8C%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F%E5%BF%83%E5%AD%90-%E7%A8%B2%E6%9C%AC-%E9%9B%85%E4%B9%8B/dp/4797439130

joさん

 どうもありがとうございました。

 つまり、奥さんの「破壊的権利」というものが生み出されたのは奥さんが育った家庭の中でのことで、その「権利」を使うのが今の家庭という風に、原因と結果がずれてしまうから、わけの分かんないことになるんじゃないか、という感じなんですね?で、そのことが奥さん自身も理解できないから、権利を行使したら自罰になっちゃったり、でもやっぱり子ども時代に積み重なってきた「破壊的権利」は無くなってないので、また他罰に戻っちゃったり。

 言ってみればjoさんは完全にとばっちりを受けている感じなんだけど、そのことが全然奥さんには理解してもらえなくて、混乱が続く、みたいな感じなのかな。

 なるほど。そういうことだと今までjoさんが何度か書いてこられたこともつながって理解できるような気がします。

 このブログでひとつ私が考えてきたことは「ずれの理解が共有されれば変化が起こることがある」という可能性のことだったわけですけれど、joさんの家庭の場合には「今現在のずれ」に「過去」が強烈に生きていて、しかも奥さんとの間にそういう理解が共有されない状況にある、ということになるのかなあ。

 この「ずれの理解の共有」がどういうときには難しくて、どういうときにはしやすいのか、ということは今の私の最大の謎のひとつなんですし、チロさんが書いてくださっているようなこともすごく大きなポイントになるだろうと思うんですが、joさんの奥さんとの場合はまたちょっと違った理由を考える必要がある気がなんとなくします。チロさんの場合は「環境」がすごく大きいように思うんですが、joさんの場合はもう少し奥さん自身の「見方のずれ」が大きく効いているのかもしれないと感じたり。

 それと「ずれを遊ぶ」についてはおっしゃるとおりかなと思います。うちの場合は幸い「ずれの認識」が共有されて、そこが大前提で関係を改めて作り直してきていますから、その延長上に「遊ぶ」みたいなことが起こり始めているんだと思います。子育ても基本的なところはまあ終わった段階ですし。joさんの今の状況でそれを「遊ぶ」というのは絶対できないかどうかはわかんないけど、すごい大変そう。

 境界性のお話はまだちょっとどのポイントについてかわかんないけど、アスペルガーの人の行動パターンが一見境界性的にみえることがあるということについては、私も経験があります。ただし、これも私の経験の範囲の中でのことですが、その「しくみ」みたいなことについてはすごく大きく違うなあと感じました。限られた範囲の経験なので、どこまで一般化できるかは全然わかりませんけれど。

 

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