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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年7月 9日 (土)

共通の足場

 「必要とされると言うことの意味」で書いたことに関係して、数日前にカレンさんと繭さんの間でこんなやりとりがありました。

 カレンさん
 「夫にとって私が必要なのかどうなのかを尋ねたとき、「必要とか必要でないとか、俺に尋ねる必要なんかないだろ(怒)!」と言われ、その当時はとても落ち込んだのですが、その数年後(?)わかったことによると、「〔夫が私を〕必要としていることなど、当たり前すぎて口にするまでもないし、当然〔私も〕わかっていることだと思っていた」らしいです。」

 繭さん
 「私も同じことを夫から尋ねられたことがあります。その時は、そんな質問をされたことと、させてしまう程に夫を空しく思わせてしまったことに、ショックを受けました。なんだかもう、怒りながら、泣きながら、怒鳴るようにして「なんでそんなことを、私の口から言わせるの?」と言ったことを覚えています。普段は「言わなければ、分からない」と思っているのに(^ ^; 」

 今日、パートナーにその話をしたら笑い出して、「やっぱりそうなんだね。お互いに口に出さなきゃいけないと感じているところが違うんだよね」と言っていました。


 定型から見たときに、最初の頃にまず感じやすい「アスペルガーの人の特徴」は、相手と共感ができない、相手の感情を理解できない(苦手)、理解するときは理屈で(頭で)理解する、自分の感情もうまく理解できない、といったイメージではないでしょうか。ここに「アスペルガーの人は感情理解の脳が働かない」とか「ミラーニューロンが働かない」とか、なんだかどこまでほんとに証明されているのか私にはわからない「科学的」な理屈がついたりすることもあって、「ああそうなのか」とかそれで納得させられたりすることもあるでしょう。

 実際、人が苦しんでいるときに、心配して側にいてくれるよりも、薬をのませるなど「必要」なことだけをして、あとは放っておかれるような体験をすると、定型の側の人間は「なんて冷たいんだろう。この人には感情があるのだろうか」というような気持ちにもなりやすい。私のパートナーは動物の類が好きですが、水族館に行くと「わあ、おいしそう」という感想が出てきて、とにかく驚きました。最初は人を笑わせるために冗談で言っているのかとも思ったのですが、本当に素直な感想みたいなんです。最近、別のアスペの方がやっぱり「わあ、可愛い、おいしそう」と思うという話を教えていただき、やっぱりアスペの人か!と思わず笑ってしまいました(それを笑えるようになったのはこのブログでいろいろ皆さんから教えていただいた「成果」ですが)。

 他人が怪我をしたときの状態の話を聞いて、「わあ、痛そう、可哀想」となるよりも「へえ、そんな風になったの、面白い」となったり、場合によって笑い出したり、定型的にはぎょっとして引いてしまうようなこともあります。

 で、定型同士の間では状況を見ればすぐに感情も共有されるようなことについて、ほんとに伝わりにくく、一生懸命言葉に出して説明し、またアスペの人本人も「理性的」に理解してやっと伝わる部分が出てくるというようなこともある。

 前に書いた「アスペルガーの人は結婚するととたんに冷淡になることが多い(釣った魚にはえさをやらない)」というイメージもあって、これなど定型から見れば「なんとずるがしこい、人情味のない人間なんだ」という印象につながるでしょう。

 そういう話を定型の理解の仕方でつなげていくと、「アスペルガーの人は感情が理解できないから、人の痛みも理解できない冷酷な人間なのではないか」というイメージも作られそうです。「理性的な人」という言葉も、「気持ちを無視して冷たい人」という意味を含んだりもしますよね。もっと簡単に言えば「この人には感情というものが無いのか」とか「まるでロボットのようだ」という思いになるかも知れません。そして「人のことを考えられない自己中心的な人間だ」という理解にもなりうる。


 このブログでのアスペルガーと定型のやりとりなどをずっとご覧になっている方は、もちろんそういう「定型的」なイメージが実はものすごく偏ったものだということを十分に実感してこられていますよね。お互いのコメントのやりとりなどは、もうそういう偏った見方ではないところで話をすることが一種の「常識」になっているように感じます。

 もちろん「偏っている」ということまでは分かっても、でもやっぱり定型の側からは「そう感じてしまう」ということが多いことは事実で、そう感じてしまうこと自体を否定しないこともまた大切なことだろうと思います。そう感じるにはそれなりの理由が有るはずだからです。自分が感じていることを頭から押さえつけられたり、否定されたりすれば、例の「カサンドラ症候群」になるとか、自分を見失って抑鬱状態にもなり、ほんとに辛い思いをするだけで、問題の解決にはつながらない。ただ、その感じ方は「<定型の目から見ると>そう感じてしまうことなんだ」という、条件付きで考えることは大切だとは思いますが。

 
 「では一方的な「偏り」を避けて、お互いを理解し合うためには何が必要なのか」、ということが悩ましい課題になってきます。お互いの理解のための、共通の足場みたいなものですね。定型とアスペが「違う」ということをちゃんと理解する姿勢を持った上で、一体何が違うのかを考えるための共通の足場。

 上に書いたような「定型的なアスペルガーのイメージ(のひとつ)」は、たしかに「違い」を理解しようとはしています。たとえば「アスペは冷酷な人々で、定型は情のある人々だ」みたいな形で。でもこういう「違い」の理解の仕方はやっぱり一方的で「偏った」ものになっている。そのことは割に簡単に確かめることができます。

 たとえばそういう理解の目でアスペルガーである人をもう一度ゆっくりと見つめ直したときに、ほんとにそういう理解で全部わかっちゃうだろうか、と考えてみる。確かに一部分はそういう理解でいけるのかもしれない。でもその理解とは全然矛盾したような部分がないでしょうか。しかも結構大事な部分で。実際私も自分のアスペルガーイメージが、私のパートナーを含めたアスペの人たちとのコミュニケーションを通して、次々に崩されていくのを経験し続けています。このブログの記事でも何度もそういう例を紹介してきました。

 もうひとつの確かめ方は、もっと直接的にアスペルガーの人に「私にはこう見えるんだけど、どう思う?」と尋ねてみることです。きっと「え?なんでそう見えるの?」とびっくりされることが何度もあるだろうと思います。


 もしそういうことがあるとすれば、そこで自分が感じている「違い」は、あくまでも定型の目から見た違いのレベルに留まっていることの証拠になります。アスペの人からは、全然違う形で理解が成立しているわけですから。そんなふうに「お互いに見方が全然違うんだね。自分の見方はあなたには通用しないんだね」ということに気づくことはすごく大きな意味を持ちますし、それが大事な新しい出発点になるでしょうけれど、そういう偏った見方のどちらかを、お互いに理解し合うための共通の足場にすることは当然無理でしょう。


 けれども、改めてこれまで私も含めていろんな方が書いてこられたことなどを思い返してみると、なんだか少しずつですが、「共通の足場」が見えてきているところがあるように思えます。

 そのひとつにどちらも「相手に気を遣う」という点では同じだ、ということがありました。違うのは何が気を遣うことだと理解されているのかということです。定型の場合はしんどい思いをしたときに「共感してもらう」とか「側にいてもらう」といったことが気を遣われることになる。でもアスペの人は逆に「一人にしてもらう」ことが大事になる。だから定型は「相手に気を遣って側にいる」し、アスペの人は「相手に気を遣って側を離れる」ことになります。

 最初にカレンさんと繭さんのやりとりを紹介したように、「相手の人を好きになる」という点はお互いに同じです。でも「好きになったらどうするのか(どういうことが起こるのか)」というところですごい違いがある。繭さんやカレンの夫さんの場合は「好きな人と居ることで、自分の世界の見え方が変わる」というようなことを言われます。でもそれは定型から見ると「自分の世界で自己満足的に感動している」という風にしか見えなかったりする。逆に定型の側は、「世界を共有したい」みたいな感じになると言ったらいいでしょうか。ここは私はまだよく言葉にできませんが。

 それと、今回改めてちょっと感じていることなんですが、いろんなことについて「深い感情を抱く」ことはお互いに同じだと思うんです。悲しみにしても苦しみにしても、怒りにしても喜びにしても、さびしさにしても愛情にしても。だから上に書いたような、「アスペの人は感情がないのか、冷血漢なのか」みたいなイメージはやっぱり定型の偏ったイメージなのだと思う。違うのは「何に対してそういう感情を持つのか」ということであり、「その感情からどういう行動をとるのか」ということであり、また「何を相手に表現すべきと思うか」ということなんではないでしょうか。

 そう考えると、最初のお二人のやりとりの「おかしさ(面白さ)」が理解できる感じがするんです。

 お二人が書いていらっしゃるように、そして私のパートナーもそう感じたように、いつもは「アスペの人は感情理解が苦手」だから「定型の側からはっきり口に出して言わないといけない」というふうに思われていることが、ここでは全然逆転してしまっているわけですよね。定型の側が「あなたは私のことを好きなのか(必要としているのか)、はっきりと言ってもらわないとわからない」と感じ、アスペの側は「なんでこんな当たり前のことをわざわざ口に出して説明しないと分からないんだ」と思う。感情理解に長けている筈の定型はそう言われると形無しです (^ ^;)ゞ


 まあ、ここに書いたようなことも、もしかするとまたもや定型である私の偏った理解かも知れませんし、それはみなさんにいろいろ教えていただきながら考えていくしかないと思っていますが、これからも少しずつでもそういう「お互いの違いを理解し合えるための共通の足場」みたいなものが見えてくるといいなあと思います。 


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コメント

先日、久しぶりに夫と喧嘩になりました。原因は結局のところ、お互いの感覚的な違いから来る、言動のすれ違いでした。
「お話し合い」に出来ず、言葉の投げ付け合いになってしまい、夫が「気を狂わされそうな気がする」と言うのを久しぶりに聞くことになり、私もショックでした。

私はこのところ、自分の母の祝い事をあえて何もしないでいて、物心ついて以来初のことに、自分でしたことですが不安定気味でした(反抗期続行中)。
夫はその日は仕事で疲れており、お酒も少なからず入っていて、そこに私の不安感を「不満としか見えない形」でぶつけられ、どちらも「自分語モード」で喧嘩に突入しました。
私が自分の「不安感」をどのように表現するかは、今後の課題だと思いました。

翌休日は、お互いぐったりで、夫が昼寝をすると言うので、私は夫が涼しく眠れるようにと冷房を付けながら、「やっぱり私は、環境を通して相手に関わろうとする傾向があるなぁ」と、少し面白く感じました。

>水族館に行くと「わあ、おいしそう」という感想が出てきて、とにかく驚きました。

はい、驚かれます(笑)
私にしてみると、水族館や動物園では「可愛い」なのに、売られている魚や肉は「食品」になってしまうことの方が驚きだったりすることもあります。
その境目のどちら側に入るかで、それ程に思い入れを持ったり、持たなかったりするのか…と思って。

勿論ペットなど分かる部分も沢山ありますが、目の前の可愛らしい動物も、食卓のおかずも、どちらも同じだけ貴重な命だと知ってしまってから、そういう目で見る度合いが増したように思います。

>「アスペルガーの人は結婚するととたんに冷淡になることが多い(釣った魚にはえさをやらない)」というイメージもあって

これは「そうなんだ」と思いました。私は、良くも悪くも結婚のイメージが無かったせいか、魚を釣った気分になっておらず、私自身は結婚前後での変化は余りありません。
ただ、夫や周囲が安心したことの影響が、私の予想よりもずっと大きくて、結果的に私自身も安定・安心が多くなりました。
「結婚って、こんなに皆が安心することなんだ…」と、自分の結婚を通して学習した感じです。

>いろんなことについて「深い感情を抱く」ことはお互いに同じだと思うんです。悲しみにしても苦しみにしても、怒りにしても喜びにしても、さびしさにしても愛情にしても。

夫に私の親のことを聞いてもらっているときに、「愛情と憎しみが、どちらも同じだけ存在しているというのが、実感としては理解できないところだよ」と夫が言っていました。
夫は大抵の場合において、どちらか大きい方の感情になるらしいです。全体を捉えることの出来る定型的な感覚なのかもしれないと思いました。

私にとっては、どこまで行っても「これはこれ、それはそれ」的な感覚で、どちらも相殺することが出来ません。
このような感覚も、話し合ってみると結構違っていて、興味深いです。

繭さん

 どうされているのか、気にしていましたが、一波乱あったんですね……
 「気が狂わされそう」という言葉、joさんにも通じるのかもしれないし、辛いところですね。
 不安が不満に見える、というのも自分の経験から分かる気がします。
 どうしてそう見えてしまうのか……。これもまだ謎です。

 私の場合今は少なくとも頭では
 「このパートナーの不満の表情は、不安を表しているのかも知れない」
 と思うようになってきていて、
 そういうときは一呼吸置いて気持ちを切り換えて、
 何が不安を呼んでいるのかを想像するようにしています。

 それで、次の所なのですが、joさんが前に書かれていた
 「後天的に作られたもの」という話にもつながるかもしれないと思うんですが、

「夫に私の親のことを聞いてもらっているときに、「愛情と憎しみが、どちらも同じだけ存在しているというのが、実感としては理解できないところだよ」と夫が言っていました。」

 多分、日本の多くの定型の人はそうだと思うんですね。
 ところが、韓国の人は「本当の愛情の深まりは憎しみの深まりと共にある」
 と、とても自然に考えて居るんですって。
 これ、ほんとに私は驚いて頭を抱えてしまったことなんですけど、
 もし機会があったら直接聞いてみられるといいと思います。
 「恨(ハン)」という、有名な韓国の人たちの感情ともつながるところがあるみたい。

 日本では「かわいさ余って憎さ百倍」という言葉がありますが、
 この場合は結局「憎さ」のほうに切り替わってしまうわけですよね。
 そういうことではないらしいんです。
 同時に表裏一体みたいな感じで(かな?)深まっていくのが当然だということらしくて。

 まあ、繭さんの場合は「それはそれ、これはこれ」と分けて考える
 ということだから、韓国の人の「表裏一体になって切り離せない」という感じとは
 またちょっと違うところがあるのかも知れませんけれど、
 その点についてはもしかすると韓国の人は日本人よりは少し理解しやすいかも。

>もうひとつの確かめ方は、もっと直接的にアスペルガーの人に「私にはこう見えるんだけど、どう思う?」と尋ねてみることです。きっと「え?なんでそう見えるの?」とびっくりされることが何度もあるだろうと思います。

ここでンダさんが言われていること、今でこそ私と夫の間ではできるようになっていますが、ここに至るまでがとっても大変でした。

アスペルガーのことを知ったとしても、それをどういう趣旨でどう捉えて、どう夫に伝えてるか、そして、それをどう共有して、どう役立てるのか・・・すべてが試行錯誤でしたから。

でも、これも今振り返って思うことは、

アスペルガーという名称であれ、他の名称であれ、とにかく「違い」を説明できるものが見つかり、徐々に納得してきたことで、「怒り」が徐々に消えてきたということが、何にもまして重要なポイントだった、ということです。

みおさんが、「怒りの消失」ということを書かれていましたが、本当に簡単に言ってしまうと、要するに「怒り」(漠然とした不満・不快も含めて)が消えさえすれば、実際なんとかなっていくのだと思います。

1年ほど前、「脳の働き方が違う人なら、脳の働き方が違う人として」接すればいいんだ、と思った時に、怒りの大部分が消えて行きました。(それに、最近、こちらで「身体感覚が違う人なら、違う人として」というのが加わったので、怒りはさらに減っています。)

聞こえない人に「後ろから声をかけたのに振り向かない」と怒っても仕方がないし、聞こえないとわかっていれば、駆けて行ってでも、後ろからトントンと肩をたたいて振り向いてもらい、それから話をする・・・そんな、聴覚障がいのある人たちとのつき合いが人生の半分以上を占めているから、思うこともしれませんが。

なんだか、そのあたりはアッサリと受け入れることができたんですよね。

「アスペルガーだとわかって、糸口が見えた」ということを友人たちに話したときには、それぞれの友人から「前向き」「すごい」「えらい」「信じられない」「大馬鹿」等々、いろんな言葉を頂戴しましたが、

友人たちがどのような言い方をしたにしても、私にしてみれば、それが一番私らしい反応でした(友人たちにしても、最後は異口同音に「カレンらしいよね」・・・でした)。

別の言い方をすれば「あきらめがいい」とも言えるのかもしれませんから、そういう意味では、「アスペルガーと知ってあきらめた」ということになるのかもしれません。(ずっと前のテーマと関連しますが、「あきらめ」の方向性が全く違っていたということでしょうか。)

それにしても、みおさんの「怒りの消失」は、なんだか拙い表現しかできませんが、すごいと思いました。保育園にお子さんを預けるような年代の方でそこまで思われるというのは、私のその時代を考えると全く想像もつかないくらいすごいことです。

みおさん、今、読んでいらっしゃるでしょうか。「怒りの消失」というお言葉は、また、何か私に、長いスパンでの目標とか力といったようなものを与えてくれたような気がしています。ありがとうございました。

あらら・・・先ほどのコメントを送信し終わったら、繭さんとパンダさんのコメントが先に入っていました。今からじっくり読ませていただきます。

一瞬山から降ります。

うまく行ってるカップルのみなさん、アストン博士のThe Asperger Couple's Workbookを一緒にやったりされてます? 

私は、夫との間で多少とも「建設的な」臭いのするものは、もう心も身体も受け付けなくなってたので、この本も『アスペルガー・イン・ラブ』も買ったけど、「積んどく」でした。が、母とのこともあって、また、ワークショップに行って色々学んだり考えたこともあって、母との摩擦を減らすため、離婚をスムーズに実現するために知識・技術を「利用(悪用? でも、「不必要な摩擦を回避する」「不必要な消耗を避ける」だから全容だよね)」するために読み始めてみたら、とても分かりやすい。

うまく行かれているカップルの方は、週1とかで時間を決めて「お勉強会」などするとよろしいかも。余白に書き込めるようになってますが、専用のノートなんか作るのもよろしいかもしれないですね。

日本語にも「愛憎半ばする」って言葉もあるよね。日本人は精神構造が単純で弱い(アスペ的?)から、「ここの部分では違うけど、ここの部分では同じ」みたいな人とのつきあい方がへたくそだよね。友だちとか同僚との間でも・・・。

イギリス人の知人に「離婚しようと思ってる」と言ったら「結婚は難しいよね。沢山の妥協をしないといけないからね」と言ってた。二度目の結婚でとってもうまく行ってると傍目には見えるけど、お互い我慢し合ってることもあるのかな? 

姜尚中さんの本だったか「結婚は51%の愛情と49%の憎しみ」って書いてあった気がする。あ、姜尚中さんは韓国文化も持ってる人か。

でわでわ、半人前の仙人はまた山に戻ります。

あ、字間違ってる。「全容」ではなく「善用」です。こんなんでは仙人最終試験に落ちるかも・・・。

カレンさん

「聞こえない人に「後ろから声をかけたのに振り向かない」と怒っても仕方がないし、聞こえないとわかっていれば、駆けて行ってでも、後ろからトントンと肩をたたいて振り向いてもらい、それから話をする」

 これ、なんかストンと気持ちに落ちる感じがしますね。

 実際にアスペルガーについてこの喩えが伝わりにくいとすれば、「聞こえない」という体験は耳を塞いでみれば、「目が見えない」という体験は目をつぶれば、「下半身が動かない」という体験は足を縛って車いすに乗ったりすれば多少なりとも追体験できるのに対して、そういう追体験をどうやったらできるかがわかりにくいということが有るかも知れません。

 にもかかわらず、カレンさんがこの見方をすっとできたのは、書かれているように確かにそういう障がい者との付き合いがベースにずっとあったからなのかもしれないですね。私がストンと落ちる感じがあるのも、その辺があるのかも知れません。

 もちろん、アスペの人に定型の体験を追体験してもらう、ということも同じように難しいことなのでしょうけれど……

 ああ、でもこのポイントから「理解の共有基盤」のことをもう一度考えてみると何か見えてくるかも知れないなあ。


KS師匠

 さすが仙人は山奥から瞬時にして下界にお出ましになれるのですね!

 「愛憎半ば」、たしかにそういう言葉ありました。韓国の人は、それを深めてこそ、まともな情の厚い人間関係の展開だと思うみたいで、その言葉は全然否定的にならないようです。なかなか私には理解しきれないところが多いんですが。姜尚中さんもやっぱりそうなんですね。面白いです。 
 
 ではまたときどき下界に遊びながら、仙界での修行でたくさんの仙術を身につけてお戻り下さい。

コメントの順を追って、ビックリしたことをちょっと。

まずは、

繭さん:
「夫に私の親のことを聞いてもらっているときに、「愛情と憎しみが、どちらも同じだけ存在しているというのが、実感としては理解できないところだよ」と夫が言っていました。」

パンダさん:
「多分、日本の多くの定型の人はそうだと思うんですね。」

のところですが、私はかなりビックリしました・・・と言うのも、私はこのことについて、繭さんのコメントを読んだ瞬間、私は繭さんと全く同じ感覚だと思ったからです。

やっぱり私は、日本の多くの定型の人の中にあっては、かなり違う考え方とか感覚を持っているのでしょうね。手話の世界とか英語圏の世界の影響も大きいのだと思いますが・・・そうですか、韓国ってそんな感じなんですね。

次のビックリは、

KS仙人さんの、急な下山。息せき切ってこられたような気がして、息の切れた仙人を想像してちょっと笑ってしまいました。

お尋ねの、アストン博士のワークブックのことですが、

結論を先に言うと、やっていません。少なくとも、今のところは、あえて、しないでおこうと思っています。

いろいろアスペルガーについて勉強することは必要だし、その関係の本は私だけでなく夫も読み、感想を話したり、それをもとに話をしたりすることも、会話の流れの中の一部分としては、日常の中でちょこちょこあります。あ、このブログのこともよく話しますね。

週末には、のんびり食べたり飲んだりしながら、子供を交えて〔子どもの部活、進路、スポーツ、ドラマ、本、映画等々のことで〕、なんだかんだとずっと話して盛り上がったり、「この前のこういう件だけど、どうしたらいいかなぁ」とアスペルガーに関連することを話し合ったり。

アスペルガーのことは考えるし、生活の中での大きなことではあるけれども、それを話し合うのは、今や生活の中の他のいろいろなことを話すの中のひとつ、という感じなんですよね。

なので、我が家の自然の会話の中でひとつの話題にはなるし、問題があればその都度話し合うけれども、そこに何かワークブックを持ってきて・・・というのは、うちの場合、あまりしっくりこない感じなんですよね。

自然の流れの中で、必要に応じてアスペルガーのことにも触れる、でもアスペルガーのことを考えるために特別な設定はしない・・・という方が、うちの場合は自然な感じがするのです。(基本的に、夫はもちろん(?)私も本来は面倒くさがり屋です・・・(^^.)・・・)

ここは、こういう場なので、アスペルガーのことを中心に書いていますが、

実際の我が家の話題は、上にも書いたようなこと以外にも、夫の職場のこと、私の仕事のこと、共通の元同僚や友人たちのこと、親戚のこと、テレビのドラマの脚本のこと、大学生の娘のこと等々、とにかく、2人で、あるいは3人で、4人で・・・おしゃべりが尽きません。

私だけがそのワークブックを読んでおき、必要なときに必要な個所を開いて、話し合ったことをメモしておく、とかいう方法であれば自然に使うこともできるかもしれませんが・・・

ともかく、上記のような理由から、もうしばらく、あえて我が家流でどこまでどうできるかできないかわかりませんが、やってみようと思います。もうやれることは全部やった、というなったときに、そのワークブックを見てみるのも面白いかもしれませんね。

ということで、KSさん、ワークブックは、検索もしてみましたし、頭には入れておこうと思います。ありがとうございます。

山ごもり、どうか涼やかにお過ごしください。

パンダさんの疑似体験については、また日をあらためて考えてみたいと思います。
おやすみなさい。

カレンさんへ>

読んでます!読んでます!
呼びかけ(?)ありがとうございます。

>保育園にお子さんを預けるような年代の方で
私は晩婚なので想像されている年より多分、上ですcoldsweats01

「怒りの消失」って、カッコよく書きすぎたかもしれません。
夫の態度に対して何もかも受け入れられるようになった
ワケじゃないので、今でもケンカはします。
夫が「?」で、私一人で怒る事もあります。

だけど、前は常に怒ってる状態で
夫の態度で引火して、私の中にある「怒り」が
ボーボー燃えちゃう感じだったんです。
もしくは大爆発です。それでも「怒り」が消えない。
「怒り」は夫の事だけじゃなくて、同時進行の実母の介護とか、
自分の時間が持てないとか自分が認められていないとか、
いろいろ理由があります。それを一つずつ、考えました。
私の「怒り」の元になってるのは何なのかなーって。

いろいろあるんですけど、「認められていない」という感覚は
大きかったかもしれません。何より自分で自分を認められなく
なっていました。だから、今は「まずは自分大事」が大事だな
というところに行き着いたんです。

そうして自分と向き合った時にその中に溜まっていた
「怒り」をリセットできたんだと思います。
だから今は夫とケンカしてもその都度、
「今起こってる事について話しましょう」
という感じで引きずらないし、ラクになりました。

だから、夫を全容できて「怒りの消失」というワケでは
ないのです。

KSさん みなさん

突然出てきて どこかズレた内容になるかもしれませんが、 アストン博士の著書のことで
お尋ねというかお願いがあります。

私は わがまま姫さんの掲示板の方で知ったのですが、 英語力が限られているので 読みたくてもムリと思っていました。(スペクトラム出版社に翻訳のお願いの手紙を出しておいてはみましたが…)
…が、おととい、ポイントだけでも知りたいと アマゾンで注文したところです。(とりあえず2冊。今日あたり届くかな?)
「英語力が限られている人の場合 どんな読み方・活用のし方があるでしょうか。」

もし あったら 教えてください。 (大急ぎで書きました)

パンダさんblogとシンクロした昨夜のできごとです。

私が(おそらくストレス性の、とある)痛みで七転八倒していると、子はポロポロ涙を流しながら「お父さん、大丈夫、痛い?」って背中をさすってくれました。配偶者は、というと「○時過ぎてる!早く寝なさい、明日学校遅れたら…(怒、怒、怒)!」電灯をバチン、バチンと叩きつけるような感じで消してゆく。子は「お父さんがかわいそうだ!」と言って泣きながら怒ってるんです。

どうしてこんなことになるのか、さっぱりわからなかった頃だったらは私は自分も混乱して怒ったりしていたものですが、今となっては事の起こりのメカニズムがだいたいは理解できています。しかし、理解は何の救いにもならないのです。

私は声もなくうずくまり、もとの痛みと心の痛みが混ぜこぜになり寝床まで這っていって横になったら子が抱きついてきて背中をさすってくれていました。

配偶者の攻撃は、私ではなく子に向いていたことは、頭では理解できているのですが、私は激しく攻撃の波動を受けました。もし動けていたら反撃していただろうぐらいに。その波動により痛みは数百倍になり私は打ちのめされていました。

同時に、子が情緒的に「正常」(定型多数派と私が考えているであろう正常)に発達してくれていることを感じとり、痛みとも怒りともちがう別の感涙が心の中で流れていました。

最近、配偶者とのことでは、すでに「怒り」よりも「悲しみ」の方がもてあますことが多いのです。「怒り」は自分の免疫システムを破壊していき、自滅させられていくことを経験的に感じとっていますから。しかし、「怒り」を押さえつけて制御すると「悲しみ」となって噴出すのですね。そのようないいようのない不定愁訴が、ふとしたきっかけをみつけたら「死」への橋渡しをするのだろうということも実感としてわかります。

今回、私は誰に対しても一切何も反応せずに、ただうずくまって、唸り、這って行って、横たわっただけでしたが、その内面ではさまざまの複雑なことが起きていて、そういうことが精神のエネルギーをブラックホールのように吸い取り、生活の中のほかの活動から活力を奪い尽くすのだということが、今は、はっきりとわかります。

もし仮に、お母さんが七点八倒していてもあの子はそんなに優しくは振舞わないだろうと思います、たぶん。そういうところが、あの子の自閉症様の発達障害だった状態像について反応性愛着障害だったのではないかと疑う根拠なのです。同時にまた、お母さんがあのように非情に振舞わなければ、あの子は私に対してそのように優しく振舞う機会もなかっただろうとも思えるのです。

カレンさん>「聞こえない人に「後ろから声をかけたのに振り向かない」と怒っても仕方がないし、聞こえないとわかっていれば、駆けて行ってでも、後ろからトントンと肩をたたいて振り向いてもらい、それから話をする・・・」

うちだと、この喩えで示されているような関わりを行おうとすれば、おそらく喩えて言うならですが、肩をたたいたときに「わっ!」驚かれてしまうか、「うるさいわねぇ、ちゃんと聞こえてたわよ」と怒られることになるような気がします。いえ、もちろん実際は「耳に届いてた」という意味でこういう表現をとり、「脳に届いてなかった」ということを否認して防衛的な反応をするだろう、ということです。「聞こえていたことにする方が---(実際、耳までは届いたような感覚があったりするわけですから)---世間ではフツウに見えるはず」といった感じの妙な小手先で辻褄を合わせる処世術を身につけているようなのです。実際そのような適応は、重責を担わない場合など、社交的には「まあそういうこともあるだろう」と大目に見てもらえるので、かなり多くの場合有効だったりするのですが、仕事のようなシビアな場面や、家族のような親しい人とのやりとりでは、全体の割合からいうと小さいのですが、許されない、または、激しく人を傷つける結果になる。でその処世術がまた周囲を混乱させるもとになるのですが、場合に応じて匙加減ができないことが障害なので、ケース数の割合から経験値に頼って判断するるしかない人らからすれば、お手上げの状態になる。そこまで理解しても私は尚、苦しいことに変わりない。もうこうなると「聞こえる」という言葉の意味のズレにかかわってきます。言葉というのは、必然的に定型多数派の合意の上になりたっている記号なのだから。ヴィゴツキーやウィトゲンシュタインならなんと言うのでしょうか?

「愛憎は表裏一体、異形の同一物だ」という感覚は、私にとってもまったく違和感ありません。そういうのは学生時代に読んだ小説など(日本人作家です)から学びとったように思うし、大人になってからも自分のいろんな経験から確認しました。「愛と憎」は対極ではなく「愛憎と無関心」が対極にあるのだ、ということは私の中ではかなりしっかりした概念になっています。その点で日本人の少数派だとも思えませんが。

金・土・日お出かけしていたのと食事バランスの悪さで、体調がよくありませんでした。金曜日は知人の結婚式に参列するために服を買いに(まあ、H&MかZARAに行っていました)、土曜日は、アズイット主催のシンポジウムに参加し、日曜日は朝から年1回恒例の町内一斉清掃に行っていました。

その上、食事バランスも悪くて、土曜日昼はマクド、間食にサンドウィッチ、クッキー、たこ焼き、晩ご飯はたこ焼き、日曜日の朝はカフェのモーニングランチ、昼はカフェでベニエ(お菓子)セットと言う食事だったので月曜日に熱が出たり、お腹が痛くなってしまいました。→私は自閉さん度は最強線(最重度に近い重度)なので、体にこたえてしまいました。最低3日間で食事を整えて行きます。

長い前置きはさておいて:

>ココチさん

初めまして。

自閉さん本人(2013年まではたぶんASが使える)で、ダンナさんであるだにぃさんも自閉さん(広汎性発達障害と診断済)と言う夫婦揃って自閉さんです。

私の場合ですが、英語が錆びついても原書を読んだり、アマゾンでお取り寄せしています。

英辞郎(アルク)を使いながら読む工夫をしています。最近は、当事者研究ばかりなので原書を読む時間はほとんどとっていません。

※英辞郎はアルク、英語とグーグルやヤフーで検索したら出てきます。アルクのサイトのトップページに載っています。

色々な講演会や学習会に行ったり、通信制大学で勉強したりしています。自分自身やだにぃさんを研究し、研究レポートなどを(自分のウェブ、Twtitter、Facebookなどで)発信したりしています。疑問に思ったことは主治医や専門家に聞いたりしています。大学のスクーリングでも質問しまくりで、最後にはこの話引用してよろしいでしょうか?と言って帰ります。

先週の土曜日、アズイットさん主催のシンポジウムに行って来ました。メインは就労ですが、講演されていた先生からは『家族も限界のある人間で、家族も支援を必要とする人たちである』とお話していました。あと、障害者就業・生活支援センターのトップからは、昔は「働く」と「暮らし」は別々だったが、今は、「働く」と「暮らし」は一緒でつながっているとお話ししていました。今回のシンポジウムは本人や親向けだけど、パートナーにも使えそうな部分が出ていました。

本当は質問や意見を言いたかったのだが、『就労』がメインテーマだったので、今回は遠慮し猿えませんでした。だにぃさんもいたので気を遣って。

家族と言ってもパートナーも大事じゃないですか~? パートナーも立派な家族ですよと言いたかったでした。

余談だが、私が就労関連のお話ししてから、4,5年後に就労関連の講演会やシンポジウムが頻繁に行われているなと言う感じです。自閉さんのパートナー向けとなるとヘタをしたら5年後になるかもしれませんね。

続く

みおさん

読んでくださっていて&お返事いただけて嬉しいです(^^)

次のテーマにパンダさんが取り上げてくださっているので、またそちらで話の続きをすることになるのかもしれませんが、みおさんが言われていること、すごくわかります。

ほんの数年前までは、私も常に怒っていました。仕事や家族と共有できる時間の中で、もちろん楽しいこともたくさんあったのですが、家の中でひとりになった時の私の感情のベースは、怒り・不満・憎しみ・悲しみ・不安でした。

娘にはいまだに言われます、「お母さんが台所に立って後ろを向いて料理をしていると、怒っているような気がするのよね。今は違うってわかってるんだけど、つい昔の記憶がよみがえる」なんて・・・。

「怒りの消失」は、ちょっと私の勘違いというか、かいかぶりでしたか(笑)?でも、少なくとも同じような考えを持ってやってきている方が他にいらしゃると知ることは、私にとって、とても大きな励みです。ありがとうございます!


ココチさん

ここはぜひまたKSさんに山から下りてきていただきたいところなのですが、今まだ山奥にいらっしゃるかもしれないので、私のしたことをちょっとお話しさせてください。

ココチさんが出版社にお手紙を書かれたということを伺って、お話ししようという気になったのですが、実は、私は、昨年アストン博士にメールをしてみたんです

私自身、とても大きな影響を受けたので、ぜひこれを日本の他の方々にも読んでいただきたいと思い、「邦訳版を出す予定があるかどうか」「もし予定がないのであれば、ぜひご一考願えないか」「そして、もし邦訳を考える余地があるのであれば、いたく感動した読者のひとりである私でよければ、自信はないけれども翻訳をさせてもいただきたいと思ったりしなくもないのですが・・・」(←「翻訳させてください」とも言えず、なんともグニョブニョした曖昧な表現をしました・・・(^^.)・・・)

というような内容で。

でも、住所・氏名・年齢・職業・経歴すべて記して送っていたのですが、残念ながらお返事をいただけず、ご多忙なのだろうとあきらめて、家庭内のみでの翻訳版を最初の何章かだけは自主制作し、夫や母にも読んでもらっていました。

その後、仕事等が忙しくなったこともあり、それも途中で断念し、その時々の必要に応じて読み直したりするぐらいになりましたが。

ほんと、翻訳版が出るといいですよね。今でも時々思います。KSさん経由で、翻訳版の出版が実現したりするといいなぁ、なんていうことも時々思っていました。

私もどうしたらよいのかわかりませんが、とっても地道な方法としては、PCで打ち込んでそれを翻訳機能にかけて日本語にするとか・・・?でも、これって、著作権問題にひっかるのでしょうか。どなたか、このへんに詳しい方、いらっしゃるといいのですが。

どなたか他にも、お知恵をくださるとよいですね。


joさん

もう、読みながらせつなくてせつなくて、なんともやりきれなくて、本当に涙が出そうでした。いつも言っていることですが、うちも、ちょっと前まで同じようなものだったのですから。

なんだか今は、私がjoさんの前ではカサンドラになっているような気もして、その点ちょっと寂しいのですが、でも、本当に状況はすごくわかるのです。自分のものとして、自分たちのものとして、子どもも含めた自分たち家族のものとして。

>うちだと、この喩えで示されているような関わりを行おうとすれば、おそらく喩えて言うならですが、肩をたたいたときに「わっ!」驚かれてしまうか、「うるさいわねぇ、ちゃんと聞こえてたわよ」と怒られることになるような気がします。

ここにしても、全く同じ状況でした。ほんのちょっと前まで。

私が夫に話しかけても背中をか向けたまま、うんともすんとも反応がないので、しばらく待っているうちに私のイライラ最高潮になり、その背中に向かって発する次の声は必然的に「ねえ、聞いてる(怒)?」

そして、それに対して夫は「ちゃんと"聞こえてる"んだけど(怒)!」

そこまで行くと、今度は私が「"聞こえてる"じゃなくて、ちゃんと"聞いてる"かどうか聞いてるんだけど(怒×怒)!」

ということになり、あとは、joさんもよくご存じの展開でした。

喩えについては、実際に聴覚障がいの人たちとの間でしてきていることを書いたので、夫に対して「肩をトントン」はありませんが、

音に対して"自然に"振り向くという反応が起こらない感覚なのだと知れば、「あ、背中向けてるけど、聞こえてるんだ」と思い、怒りもせずに話を続ける、すると、そのままでも話ができてしまう・・・そんな感じなんです、今は。

だから、こういう意味で、joさんがお子さんの身体感覚について書かれていたことが、私にとってはとても救いになったのです。

夫の場合は、「職場でON」「大きくなった子どもたちに対してはON」「私に対してはONとOFFの中間か疲れているときはOFF」という感じ。

>そこまで理解しても私は尚、苦しいことに変わりない。もうこうなると「聞こえる」という言葉の意味のズレにかかわってきます。言葉というのは、必然的に定型多数派の合意の上になりたっている記号なのだから。ヴィゴツキーやウィトゲンシュタインならなんと言うのでしょうか?

うーん・・・前回のときもそうだったのですが、「どうしたらいいだろう?」と本当にとても考え込んでしまいます。私も一緒に壁に頭を押し付けまま身動き取れない感じになります。この前のコメントも、断続的に考えて何時間もかかって、でも、何もこれという提案もできず・・・。ほんと、どうしたらいいのかなぁ・・・。

本当にオフ会でも実現すれば、とにかくお話を伺いたい、という気持ちです。

あ、最後に間抜けなことを書いて申し訳ありませんが、「ヴィゴツキー」と「ウィトゲンシュタイン」のこと知らなくて・・・すみません。

続き:

今年、課題研究レポートと言う大学の科目をとりました。私が課題設定し、研究しようとしているのが、自閉さんのパートナーのことです。2年前に『家族と共依存』と言う科目をとったのだが、自閉さんのパートナーのことをレポートとして書きたかったのだが、幅広くして障害者の妻のことをレポートに書きました。今年の課題研究レポートと言う科目が認められて、1年間かけて研究しレポートを書き上げ単位として認められるようにしています。

今年の9月、名古屋で日本自閉症スペクトラム学会第10回研究大会で自主シンポジウムを企画し発表することになっています。テーマがズバリ『自閉さんのパートナー』です。キーワードの1つとして、カサンドラ愛情剥奪障害(CAD)を原稿レジュメに入れました。事務局の(大学などの)先生たちからはカサンドラをキーワードから削除してくれ~と言われなかったので、大会の抄録は堂々と『カサンドラ』と言う言葉が載ります。

今年12月のATACでも発表しようかと思っています。

夫婦共通の知人(大学の先生)に、今年の9月のこと(第10回研究大会)の自主シンポジウムに企画が通ったことや前例のないことをしていると話をしたら、「日本で、自閉さんのパートナーを研究している研究者はいないな。貴女は未知の世界に入っている」と言われました。

日本語で読める文献を挙げておきます。※1冊丸々パートナーのことが書かれていない本やメディカル&コメディカル向けの本もあります。

・アスペルガー的人生(リアン・ホリデー・ウィリー著 ニキ・リンコ訳 東京書籍刊) P.231~235が特にオススメだが、P179以降のハウツー編も参考になるでしょう。リアンがAS本人です。

・私と娘、家族の中のアスペルガー ほがらかにくらすための私たちのやりかた(リアン・ホリデー・ウィリー著 ニキ・リンコ訳 明石書店) 第6章の健やかなるときも、病めるときもと言うまるまる1章分、自閉さんとの結婚生活のことやコツが書かれています。

・一緒にいてもひとり(カトリン・ベントリー著 室崎育美訳 東京書籍刊)
・アスペルガーのパートナーのいる女性が知っておくべき22の心得(ルディ・シモン著。牧野恵訳 スペクトラム出版社刊)

最近では:

・旦那さん(アキラさん)はアスペルガー (野波ツナ著 コスミック出版刊)

・自閉症スペクトラム青年期・成人期のサクセスガイドシリーズ(3冊。クリエイツかもがわ刊)も自閉さんのパートナー関連が載っています。

AS本人であるアズ直子さんも本(アスペルガーですが、妻で母で社長です。)の中に30のルールが書いてあります。23個目のルールが『家族も逃げ場所もつくろう』です。

備瀬先生の本(大人のアスペルガー症候群が楽になる本)のケーススタディ4、9、10や最後の周囲の人が取り組むべきポイント

メディカル&コメディカル向けになるのだが、『成人の高機能広汎性発達障害とアスペルガー症候群』の中にも自閉さんのパートナーの苦悩が書かれています。

だにぃさんを巻き込んで自閉さん同士夫婦共著本を書き始めています。

皆さんで色々と知恵を出し合っていきましょう。

joさん

 私は二度ほど軽めの胃潰瘍を患ったことがありますが、あの痛みはいわく言い難いですね。それに似たような痛みをもっと激しく経験された感じがして、ほんとに痛々しいとしか言いようがない感じです。

 「しかし、理解は何の救いにもならないのです。」

 理解というのを言語ゲーム(やりとりしながら言葉の意味の理解を共有していくコミュニケーションの過程)として考えるとすれば、成立していない言語ゲームは救いをもたらさない、ということになるのかもしれないですね。誰とどういうゲームを成り立たせることができるのか…… 
 しかも単に言語ゲームが成立していない、ということではなくて、お二人の場合、お互いに異なる言語ゲームに生きている、ということではないでしょうか。だからそれぞれのゲームは成立しながら、両者の間にゲームが成立しない。お互いに自分のゲームはそれなりに生きられているから、それはものすごく安定してなかなか揺るがない。
 joさんは通常の定型的ゲームを拡張して奥さんのゲームを取り込もうと努力され続けてきているけれど、それがなかなか二人の間のゲーム(意味が共有されたコミュニケーション)を生み出していかない。しかも言語ゲームを成り立たせる基盤になるはずの、言語以前の感覚の部分からしてズレが「身体」レベルで見いだされてしまう。だとすれば、通常の言語ゲームの話だけでは問題は片付かない可能性もある。

 痛みの問題って、なんか言語ゲーム(言語を使った意味の共有)の話だけでは片付かない感じがするんです。いや、「痛みという言葉の意味を共有する」という話なら一種の言語ゲームで理解できるんだけど、それって「痛みを共有する」こととは違いますもんね。でも僕等が生きていく上で大事なのは「痛みの共有」とか「痛みへの対処」で、「言葉としての痛みの意味の共有」はそのための手段のひとつでしかないですものね。
 そしてもうひとつ、痛みを感じているのは「私」ということになるんだけど、その「私」も社会の中で文化的に作られたものだから、という理屈だけでは痛みが他者と共有されるわけではない。クルターさんという人の「心の社会的構成」という本を読んだことがありますけれど、なんかその辺の話がすっぽり落ちちゃってる気がします。
 娘さんと痛みについての言語ゲームが成り立って、奥さんと成り立たない、というのは、実は言語ゲームの問題以前の違いの部分が大きいのではないでしょうか。そしてその言語ゲーム以前の問題を見失わないためには、「私は痛いと思っている」ということも「それなのに彼女は娘を怒っている」ということも、joさんにとってすべての出発点として、決して手放してはいけないような気がします。(いつも同じ事言ってるみたいですみません)それは多分、言語ゲーム以前の問題なんだと思う。だから、少なくとも言語ゲーム的には決して相対化されないものだと思う。
 なんていうのかな、たしかに自分というのは不完全なものだし、今これが正しいと思っていたって、次には別のことを考えてるかも知れないし、そういう意味では絶対化できないことは間違いないと思います。でも「自分は今痛みを感じている」ということは、自分自身にとっては絶対間違いのない絶対的な事実なわけですよね。仮にそれが夢の中の痛みで人から見れば幻想だったとしても、でもその幻想の中で自分が痛みに苦しんでいるという自分にとっての事実は動かない。
 そして自分がなにより解決したいのは、その自分にとっての自分の痛みなわけです。人から見ればどうかなんて、それこそどうでもいい。自分が痛いから、自分がそれに耐えられない思いがあるから、だから何とかしようとするんだと思います。人から見た理解で自分の痛みが解決するならそれを利用すればいい。でも解決もしないような理解(言語ゲーム)で自分の痛みを相対化してしまったら、それは解決すべき問題を見失うことになると思うんです。「言葉のレベルの相対化」ではなく、本当に痛み共有の問題を解決するのは、それ以前のレベルで成り立つ「相対化」だし、矛盾するようだけど、そのためには自分にとっての自分の痛みを相対化してはいけない。言葉はそれをするために利用する、とても重要ではあるけれども、やはりひとつの道具に過ぎないと思います。
 ああ、なんか話がぐるぐる同じ所を回っているような気がしてきました (^ ^;)ゞ

 とにかくjoさんのおなかが痛そうで、娘さんが泣く姿が可哀想で、奥さんが不安に駆られて娘さんを叱る姿がいたたまれない感じで、なんかぐちゃぐちゃ書いてしまいました。
 
 

ココチさん

 カレンさんもちょっと書かれてるけど、ここは一発、山ごもりで修行してるKS仙人の仙術で、日本語に直してもらう、というのが早いかも知れないですね。アストンさんとすごい仲良しみたいだし。仙人ご自身が日本語にしない場合でも、きっと仙人に聞いていただければ、翻訳の予定とかをアストンさんから教えてもらえると思いますよ。このブログのコメントにしつこく書いていれば、いつか願いは仙人に届くと思います。

 以上、KS仙人の○番目の弟子のパンダでした。

Rosamondeさん

カレンさん

パンダさん

さっそくに コメントを たくさん いただいてうれしくなりました。

そうなんだ~ と思って読んだのですが、
具体的にお返事を書こうとすると、著作権のことが よくわかっていない事がじゃまをして
書けないでいます。


joさん

書きたい気持ちはいっぱいですが 書けないでいます。

及ばずながら 応援していますので(せめて)
joさんのこれまでの実績に スタンディングオベーションをおくらせてください。


あいにく用事が立て込んでいるので 書ける時にまた!

パンダさん

>どうされているのか、気にしていましたが、一波乱あったんですね……
「気が狂わされそう」という言葉、joさんにも通じるのかもしれないし、辛いところですね。

ご心配ありがとうございます。今回の喧嘩は、以前に比べるとずっと軽めなのですが、
この台詞を聞くのはやっぱりきついです。言う方はもっと辛いのだと思いますが。
今回の件は、私が一方的に不安(不満様)をぶつけたのが原因でした。
ちょっとパニックだったのですね、反省してます。

この後、お互い微妙に変な感じだったのですが、昨日、夫が出先から電話をくれて、「余裕の無い時に不意打ちで、目の前で自分とは違う感じ方による話が展開すると、訳が分からなくなってしまうことは、これからもあると思う。だけど、後で理解し合える部分は沢山あるし、繭さんのここを信頼しようという部分はあるなぁと思うから」と話してくれました。私も改めて、がんばろうと思いました。

書いて下さったこと、興味深いです。ゆっくり調べたり、考えたりしてみます。
「恨(ハン)」というのですね、国が変わると感情も随分違ったりするのが面白いです。

なんだか考えるエネルギーが少なめなので、もう少しぼーっとして、補充して戻って来ます(^ ^)

写真のコメント、ありがとうございます(^ ^)
モンゴルなどの、歓迎の山羊料理も似たような感じなのかも…と思いました。
自分に慣れて信頼されている動物を…というのは、私もちょっと抵抗があります(^ ^;
あ、でも、自然死だったら、おいしく食べて供養というのもありかも…とは思ったりします。実際には病気など色々問題がありそうですが、自然の摂理かなと。


KSさん

本のご紹介、ありがとうございます。
私はまだ、パートナー向けの本は読んだことがありませんでした。

理由は二つあって、一つは、夫がアスペルガーの説明を、私の口から聞きたがることがありました。
夫曰く、「文章で読むと、実感が湧かないから」と。目の前で本を開いていても、私からの説明になるのが恒例でした。不思議な程、ここには夫がこだわっています。
もう一つは、もし読んだら、私が夫にその内容を押し付けてしまいそうだったからでした。

夫に本のことを話してみます。
うちでやったら、英語の勉強会も兼ねて一石二鳥になりそうです(笑)

山ごもり、霞よりも美味しいものなど食べて、ゆっくりと楽しんで下さい(^ ^)


joさん

お体大丈夫でしょうか、お大事になさって下さい。
似たような(もう少し抑え目の)状況を、私も子供の立場で経験しています。
当時の私は、母に怒られて、大人しく言うことを聞いていました。
joさんの背中をさする子供さんは、もう既に、自分に人と関われる力があると知っているのですね。

反応性愛着障害、気になって少しネットで読んでみました。
私もそんなところがあったのではないかと思いました。
乳幼児の頃に人見知りをせず、母親を恋しがることが少なくて、肝心の時には母親に気持ちを表せない。今までホームシックになったことがありません。
「2歳までは記憶に残らないから、手を挙げて躾すべし」という母の教育方針を、後になって知ったのですが、記憶の限りでは、体罰はほとんどなかった筈なのに、何故母に逆らおうとすると、脚が震えるほどに恐怖なのか…の理由をそこに見た気がしました。

私は幼少時から、自分の感情は色々と持っていた覚えがあります。でも、それを周囲にある程度細かく表現することを知ったのは、十代後半に入ってから。周囲も知りたがっていると理解したのは、それよりも更に後のことでした。

私自身にとっては、自分の感情が周囲に受け入れられることを知ったのは、幸せな発見でした。
多分、joさんの子供さんにとっても、と思います。

主観的痛みは「自分にとって事実」のような気がするけど、そんなはずはないという仮定に立って考えてみると、それもまた辻褄があってしまうところがあります。「ああたが神経質なだけだよ、気にしなければいいじゃないか、そんなこと」という、私をカサンドラにしたてる周囲からの「善意」の忠告に対して、その人たちの解釈に私が影響を与えることなどできるのだろうかと思ってしまう。まったく同じ理由で、「ああ、痛いんだね、わかるよ、痛いの痛いの飛んで行けー」と言ってもらったところでその人が私と同じ痛みを感じているとは到底思えないし。

つまるところ痛みが真実であることを他人にわかってもらうことはできないと思っている。私にはせいぜい「痛がって見せる」ことしかできないし、医者は幻肢痛を取り除くことはできない。私が痛みを訴えているその腕や足(心の一部)は、もうちぎられてちまって存在しないかもしれないのだから。。。

唯我論に耽溺しそうになっている私はまさに自閉の罠に囚われているのでしょうか???

5歳ぐらいの頃から「人とつながれる」という幻想を抱くようになり、老境に入りそれが幻想だったと気付くようになるまで、「私は定型」という人は、みんながその共通の幻想を見ているという妄想に支えられて生きられるけれど、はじめから幻想を抱かない人もいるのだろうし、幻想は抱きつつもだれもがそうだという妄想を抱かない人もいるのだろうし、何かの拍子に妄想から覚める、覚まさせられる人もいるのかもしれません。

それでもなお夢の中の「痛み」を減らせるために何をしたらいいのか、寝惚けた頭で考えないではいられないのは、「痛い」から…でしょうかね。

ここまで書いて、「傷は深いなあ」って自分でも思います。

それでも「そう、痛いのね」と言ってもらうと、痛みが減るわけではないけど、痛みに立ち向かう元気が少しは出る気がします。

繭さんの共感は、わが子の声がはるか未来から聞こえてくるような、そんな気がします。キーワードは「人と関わる力」なのですね。うん、なんか少しいい感じがするぞ。

繭さん

「この後、お互い微妙に変な感じだったのですが、昨日、夫が出先から電話をくれて、「余裕の無い時に不意打ちで、目の前で自分とは違う感じ方による話が展開すると、訳が分からなくなってしまうことは、これからもあると思う。だけど、後で理解し合える部分は沢山あるし、繭さんのここを信頼しようという部分はあるなぁと思うから」と話してくれました。私も改めて、がんばろうと思いました。」

 喧嘩されたあとで外野からの無責任な言い分かもしれないけど (^ ^;)ゞ
 そういう関係、いいですね。
 「雨降って痔がたまる」……じゃなくて、
 「雨降って地固まる」

 面と向かって本気で喧嘩できる関係っていいよなあ……
 と思う今日この頃でした (-。-;)

joさん

 「主観的痛みは「自分にとって事実」のような気がするけど、そんなはずはないという仮定に立って考えてみると、それもまた辻褄があってしまうところがあります。」

 こういうのどうです?
 「主観的痛みは「自分にとって絶対に主観的な事実である」」

 で、そうすると幻肢だろうがなんだろうが、それはへっちゃらですよね。痛いものは痛い。誰にも文句は言わせません。ただ、その傷みの原因が足の怪我にあるのか、幻の脚のイメージが絡んで生み出されているのか、という「客観的」な違いはあるわけだから、その「痛みを客観的な手段で取り除く方法」も違いが出てくるでしょうけど、でも痛いものは痛いんですよね。

 あと、ある人が面白い比喩を語ってるんだけど、他者の傷みを感じると言うことについて、ピアノの共鳴に喩えるんです。

 二台のピアノがありました。で、一方のピアノの鍵盤をポンと叩くと、弦が震えて空気を震えさせ(つまり音が出て)、その空気の震えが伝わっていってもう一台のピアノの弦を振るわせます。そうするとその弦が音を出して、またもや空中を伝わって元のピアノの弦の震えと共振してしまいます。

 さて、こういう状態になっているとき、音がしているのは最初のピアノでしょうか、それとも二台目のピアノでしょうか。

 人間が共感的に他者の傷みを感じるのは、そんなような共振現象のひとつと考えちゃうわけです。そこにはピアノよりももうちょっと高級な「脳の働き」とかが間に入るにしてもです。

 もちろん一方の痛みの原因は「客観的な怪我」で、他方の痛みの原因は、言ってみれば幻肢痛みたいなもんですけどね。でもそんなこと知ったこっちゃなくて、共感している人も主観的に痛みを感じていることは他人が否定できる事じゃない。いや、その共感が実はとんでもない勘違いだったりもするわけだけど、それも別にどうっちゅうことはない。

 こういうおおざっぱな考え方はどんなもんでしょう?

おみごと!音とピアノの因果関係は消えてなくなりました。しかも2つのピアノは同じ音に共鳴している。どちらをの弦を触って止めても音は消えない。しかも周波数が割り切れたら別の音が鳴り始めるかもしれない。両方止めないと。これって「怒りについて」コメントしてる?(冗談)

joさん

 「おみごと!」

 あ、いや、おみごとなのは、その喩えを使った人で (^ ^;)ゞ

 「音とピアノの因果関係は消えてなくなりました。しかも2つのピアノは同じ音に共鳴している。どちらをの弦を触って止めても音は消えない。しかも周波数が割り切れたら別の音が鳴り始めるかもしれない。両方止めないと。」

 まさに打てば響く、って感じですね (^_^)v

 「これって「怒りについて」コメントしてる?(冗談)」

 あ、それもそうかも。

家族内の循環的因果律という考え方は、米国で帰還傷病兵の精神障害の研究から、でてきたようです。ダブルバインドという概念もそのあたりから発生してるみたいですね。

まだきちんと読んでませんが、、、

http://tatsuki-lab.doshisha.ac.jp/~statsuki/papers/FamilySociology/FamilySystemPaper.PDF

唯我論の突破口があるかな?

joさん

 「唯我論の突破口があるかな?」

 学生時代に友だちがなんかしんどそうな時期に、「今見てるこの世界だって、パンダさんだって僕の主観的な夢に過ぎないかも知れないじゃないですか」と話しかけてきたことがあるんだけど、そのとき私は「その夢の中に僕がちゃんと居てくれればとりあえずそれで僕の方はいいけど」という話をしたことを思い出しました。

 それが主観でもなんでもいいんだけど、目をあけたらどうしても相手が見えちゃう、ということからは逃れられなくて、それは「いや、見えない、見えない」と思ったところで消えてくれない。相手の人と見つめ合ったら、ふと「自分が見つめられている」ということに気づいてしまうと「わあ、僕のこと見ないで!」とかいくら願っても、相手が目をそらしてくれない限りは「見られる」状態から逃れられない。

 それを主観の世界と名付けたいのならそれでもいいんだけど、でもその主観の世界って、別に自分の思いでどうにでもなるものじゃ無くって、むしろどうにも思い通りになってくれなくて、自分が自分の中に逃げ込みたくなってしまうこともあるような、そういう「主観の世界」だったりしません?自分が受け身でしか居られない部分に満ちた世界、みたいな。で、そういう意味での「主観的な世界」の中では、もはや「この世に我一人」では居られないですよね。

 とかうの、だめかしら?

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