2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 必要とされるということの意味 | トップページ | ネットが変えるアスペと定型 »

2011年7月 5日 (火)

自分から出発すること

 joさんが奥さんについて具体的に書いて下さったことを読んで、なんかすごく考えさせられています。

 何度も書きましたけど、このブログはアスペと定型のコミュニケーションを考える、ということがテーマで、そのためには「型にはまった」アスペルガーの理解とか、定型の理解とかに縛られないことが大事だと思います。

 私は一応定型サイドと言うことになるわけですが、結局「アスペルガー」という概念自体が定型の視点から、定型を基準にして「ここが定型的でない」という感じで作られているわけですから、その視点だけから考えると、「いかにしてアスペルガーの人を定型的にするか」とか、「いかにしてアスペルガーの人に配慮するか」という、どちらにしても一方通行の話になりやすいと思います。

 そうではなく、「対等なコミュニケーション」を考える立場からすると、「アスペルガーの人にとって自然な感じ方、ものの見方、考え方、生き方」を定型が理解しようとし、逆に「定型にとって自然な感じ方……」をアスペの人が理解しようとする、お互いのコミュニケーションを考えていきたいと思っているわけです。

 そのためには、定型の側は上に書いたような「定型的な常識」の見方から離れてもう一度柔軟に考えてみる(自分の見方を相対化する)必要が出てくるわけですけれど、でもそれって、ある意味ではすごく危険なことでもあると思うわけです。というのは定型の人間はお互いにそういう常識を共有することでコミュニケーションをスムーズにしているわけですし、そういうコミュニケーションに支えられて生きているわけです。言ってみたら自分が生きている足場、とも言える。

 だからそれを「相対化する」ということは、自分が定型の人たちと共有しているものを崩してしまい、自分が生きている足場を崩してしまう、ということにもなる。もうちょっと言えば、その常識に支えられている自分自身を、少なくとも一時的にしろ崩すことにもなる。

 joさんはそのものすごくしんどい「相対化」の作業を、ずっとずっと続けてこられたんですよね。実際奥さんの時間感覚の話とか、すごく基本的な感じ方の所で定型とは大きなズレがあって、だから定型的な理屈では通用しない世界がそこにある、というところまでは分かるんだけれど、でも「じゃあどういう世界なんだろう」というところはそうそう簡単に理解できるようなことではないと思えます。

 そうすると、自分が足場にしている感じ方を相対化してみたところで、それに変わる新しい見方が奥さんと共有されるわけではなく、奥さんの世界は(定型的な視点からすれば)ものすごく混乱して混沌としたものとして感じられるわけですから、それに自分が合わせようとすれば自分も混乱の渦の中に巻き込まれてわけがわからなくなってしまう。

 joさんが書かれているように、そういう状況を想像すると、ほんとうに「気が狂いそうになる」と思えます。

 
 で、ここから先の話は、多分人によって見方がかなり割れるところかなとも思えるし、またとても矛盾した言い方になると思うんですが、私は自分の定型的な見方を「相対化」するためにも、自分自身が定型的に生きていると言うことについて「絶対化」する必要がある、と考えてみています。すごく抽象的な言い方で申し訳ないんですが、とりあえずの言い方として。

 つまり、「自分は自分であることから逃れられない」し、「自分は神様にはなれない」と思うんですが(あ、KSさんは仙人になっちゃったけど)、そういう「自分」は定型的な世界の中で人とコミュニケートして生きてきたし(と言っても母親の境界例的な世界の影響をものすごく受けてるけど (^ ^;)ゞ )、そこで自分を作ってきたし、そこで自分の常識や価値観を作ってきたし、自分自身を理解してきたし、そこから抜けきることは不可能だと思うんです。

 もちろん人間、成長することもありますし、年が経てばいろいろと変化もしていきます。同じ定型と言ったって、ひとりひとり様々です。個性的です。でもアスペと定型の間で特に問題になるズレは、定型の間ではまずそんなに発生はしない。自分は他の誰でもなくて個性的な自分なんだけど、やっぱりその個性の中に「定型」という性格がもうぬぐいがたく入り込んでしまっている。あるいは切り離せないものとして自分を作ってしまっている。

 そして多数派がそういう定型的な性格を共有することでこの社会の仕組みをリードしていて、その中で多くの人が飯を食っているわけですから、個人的な努力とか、個人的に考え方を変えるといったことだけで済むような問題ではない。

 もうどうしようもなく自分はそういう限界の中で、そこから出発してしか生きられないのだと思うわけです。そして、言い方を変えれば、自分というものがそもそもそういうふうにして成り立っているのだとすれば、その自分を離れて「相対化」してしまうということは、自分が失われることになってしまう。自分が失われたところで相手にひたすら合わせると言うことになれば、それは対等なコミュニケーションではなく、従属になってしまいます。(すみません、状況が全く対等な関係を許さないような場合はまた別に考える必要があると思います。ここは一応対等な関係を目指す可能性が感じられる場合の話としてお考え下さい)

 そうすると、場合によっては「気が狂う」という状態に陥ることにもなると思えます。

 だから、joさんがそうならないように必死になられるのは当然だし、「正しいことだ」と思えるのです。別にその「正しさ」が奥さんにも通用すると考える必要はない。ただ、自分が自分であるために、そしてその自分が新しい関係を模索するために、「正しいこと」なのだと思うのです。

 うーん、もっと具体的に書けないのは今の私の限界ですが、とにかく定型同士で自分たちの感じ方を「これって当然こう感じるよね」と確かめ合うことも、あるいはスペルガー同士で確かめ合うことも、どちらもすごく大事な出発点だと思います。自分の感じ方をそうやって確認しあい、支え合いながら、でもそれとは違う別の「あたりまえ」に接していく。その別の「あたりまえ」に従属するのでもなく、振り回される一方になるのでもなく、自分自身を見失わずに自分を相対化し、相手を理解する工夫をお互いにすること。

 ああ、なんかすごい抽象的ですね。よくないなあ。まだまだ修行が必要です。KS仙人に弟子入りしないとダメかも。

 

 

 

 

« 必要とされるということの意味 | トップページ | ネットが変えるアスペと定型 »

コメント

KS仙人はまだ修行中なので、仙人(仮免)という感じです。

仙人修行中の身なのに、俗なことをいっぱい吐き出してしまって、気持ちが少し疲れたので、しばらく山にこもろうと思ってます。

まだ消化しきれてないので、ご報告するのはだいぶ先になると思うけど、私、アストン博士のカウンセリングのセッション受けて来ちゃった。ワークショップも出ちゃったんだ、ほんとは。

博士から「あなた考え方がアスペになってる。長い間アスペの人といるとそうなっちゃう傾向があるの。ちゃんと自分の気持ちを感じるようにしてね」と言われちまいました。はぁ・・・。

「定型って謎」とか思うようになってたのは、そういうことだったのか・・・。

私のカサンドラはとても重いみたいです。ACもあるし。なかなかに傷は深い。まずは自分癒しが最優先。

それにしても、日本の私たちは、専門家の支援もなく、よくここまで頑張ってるなぁと思います。(>Rosamondeさん 私、学会の時期、長期出張なので無理だけど、私で良ければやっても良かったと思ってます。イギリスの支援の一環も体験したしね。日本での支援体制作り、よろしくね! 私は配偶者というよりは、「アスペ×定型」の機能不全家庭で育った子どもの支援という形でいずれ何かをしたいと思ってます。自分のような子ども時代を送ってる子たちに、大人として何かをしないと・・・と思う)

本来なら、パンダさん夫妻やカレンさん夫妻のようにうまく行き始めているカップルも引き続き「支援」を受けながら、関係の(微)調整をしていく必要があるらしい。

・・・という訳で、仮免仙人は、少しの間、滝に打たれたりして修行しなおして来ますね! 

>joさん
joさんの気持ち引っ掻き回しといてちょっとお休みいただきますが、ごめんね。
私、joさんの子どもさんのために何か出来ることあったらやるよ。一緒に遊ぶとかさ。私は、妻・恋人としての能力は低いけど、子どもと同レベル(オバカ)になって遊ぶことは比較的得意だと思います。

KS師匠

 師匠が山に籠もられるとのこと。弟子は麓でお帰りをお待ち申し上げております。
 最近の仙人はイギリスに行ったり滝に打たれたりもなさるんですね……

 ああ、でも最近暑すぎるから、滝に打たれると涼しそう!
 実は修行に名を借りた避暑だったりして (^_^)

 どうぞ夏ばてもついでに癒してお戻り下さい m(_ _)m

joさんのご家庭のことは、いろんな意味で他人事ではなく(身内によく似たようなことが起こっているし)、本当にどうしたものかと考え込んでしまいます。

何もできませんが、joさんは少なくとも、ここではカサンドラではありませんよ。

KSさん

>まだ消化しきれてないので、ご報告するのはだいぶ先になると思うけど、私、アストン博士のカウンセリングのセッション受けて来ちゃった。ワークショップも出ちゃったんだ、ほんとは。

えっ、そうなんですか・・・! そうなんですね。ビックリです。まだ先のことと思っていたせいかもしれませんが、「さもありなん」ではなくビックリです(苦笑)。

私も、(微)調整は必要だと感じています。でも、今のところ、「つながり」のところでも書いたように、どうしても2人ではどうにもならないところがあります。

でも、これまでに、さんざん「病院の治療」や「カウンセリング」で、かえって体調を悪くするような経験をしたので、

今の日本のこの状況の中で、ちゃんとした知識のないカウンセラーに、時間・体力・気力・労力を使ってゼロから説明したあげくに、また的外れの「アドバイス」を受けるよりは、

自分で心の管理をした方がよっぽどマシ、と思っています。(ここは、かなり「つぱっり風のカレン」です・・・苦笑)。

先日も、以前お世話になったあるお医者さんと道でバッタリお会いしたのですが、ちょっとした立ち話の中で、昔よその病院で受けた治療に関して完全にカサンドラ扱いをされ、一時的にとはいえ、とっても気持ちが落ちてしまいました。(数時間で回復して、その後は今まで忘れていましたが。←この立ち直りの速さは、「癒し」の効用だと思います。)

他のどんな分野でも同じですが、少しだけ先を経験をしている者として人にお話しできることは私にもあります。でも、微調整にかかわるようなことを、客観的・具体的に&親身にそして実のある方向でのアドバイスを受けられるものなら・・・という気持ちも強く、それについては、夫に対しても時々こぼしています。

あー、なんだか、急に昔勉強した古典の「あらまほしきもの」を思い出しました。

(今のところは、内面の深いところで自分を導いてくれているものを信じて、それによって自分の進み方を決めているような感じです。←この部分は、「カサンドラ」であってもいいと思っています。)

KSさん、イギリスごもりの後、またいろいろとお話聞かせてくださいね。

パンダさん、前記事にコメントごめんなさい。

私は夫との離婚を具体的に考えた事で
自分を取り戻せたように思います。

離婚する為にはまずは働かなきゃ
→子供を預ける場所(保育園)を確保
→仕事探し
と、今月から仕事をしています。

子供を保育園に入れてから私が仕事を開始するまでの間、
昼間の生活が、夫と私と子供から、
私と夫の生活になりました。
私は自分の時間を持てるようになりました。

毎日5キロぐらいを好きな音楽を聴きながら歩きました。

そして、少しずつ自分が何を好きだったかを
思い出す作業を始めたんです。
毎日「自分」を考えました。
夫との生活で、私は「自分」が分からなくなっていたようです。
私は何をしている時が嬉しいのかという単純な事まで。

私の意識は夫に向かっていました。
「夫が〇〇した」「夫はこう言ってる」「夫から見たら・・・」って。
視点をいろいろ変えてる内に、
自分の立ち位置が分からなくなっていました。

そして、一つずつは小さなズレなのですが、
それがたまりにたまって怒りにもなっていました。
そして、その後の悲しみや脱力感。

自分の成育歴、今の親との関係も考えて
泣きながら歩いた日もあります。

とにかくたくさん「自分」に向き合えたと思います。

いつの間にか・・・私はラクになっていたんです。

選択肢として「離婚はあり」だと今でも思っていますが、
とりあえず今は、夫と子供と3人でやっていくつもりです。

長文失礼しました。


KSさんへ>

読まれていないかもしれませんが。

>博士から「あなた考え方がアスペになってる。
>長い間アスペの人といるとそうなっちゃう傾向があるの。
>ちゃんと自分の気持ちを感じるようにしてね」

「納得!」です。すーっと霧が晴れたような気がしました。
教えてくださってありがとうございます。

みおさん

 「とにかくたくさん「自分」に向き合えたと思います。
いつの間にか・・・私はラクになっていたんです。」

 読んでいて、なんだか私も嬉しくなってきました。
 「離婚という選択肢」はほんとうに大事ですよね。
 自分が自分であることを捨てないための大切な手段のひとつなのですから。

 そしてアスペと定型のズレの問題に気づかずに結婚した場合、
 「離婚を真剣に検討する」ところまできたときに、
 ようやく「出発点に立てる」場合が多いんだなということを
 みおさんの例でも知ることができました。
 すべての人がそうかどうかはもちろんわからないにしても、
 ほんとに大事なポイントと感じます。

 それと、私自身の場合、「仕事」がその「自分」を見失わないための
 大きな役割を果たしていたんだなと言うことに改めて気がつきました。
 幸い自分に合った仕事なので、そこでは「自分で居られる」からです。
 「主婦」という立場はそこが難しくなるんですね、きっと。
 

早速のお返事ありがとうございます。
嬉しいですhappy01

妊娠するちょっと前まで働いていたので、
今となっては想像の世界ですが、
「主婦」だけならば何とかなったかもしれません。

でも、スタート地点に立っている今だからそう思うのかもしれませんcoldsweats01

私は「母親」になった時から夫とのズレを強く感じました。
「今、生きてて良かったー」という感じです。

パンダさんのブログ、私のブログで紹介させて頂きました。
問題があれば削除しますので、おっしゃってください。

みおさん

 ご紹介ありがとうございました。
 「徳」がないのは自分が一番よく知っているので
 お恥ずかしいです (^ ^;)ゞ

 それはさておきやっぱりお子さんができたときに
 問題がはっきりしてこられたんですね。
 このあたりも共通するところが多いんだなあと思いました。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/40691586

この記事へのトラックバック一覧です: 自分から出発すること:

« 必要とされるということの意味 | トップページ | ネットが変えるアスペと定型 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ