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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年7月

2011年7月29日 (金)

「毒」への対処

 joさんがコメントの中で「毒を薄める」という表現を使っていらして、それが今とても心に響くところがあります。それで、今まで考えてきたことをこの「毒」という言葉を使ってもう一度整理してみようと思います。

 「毒」という言葉はもちろん穏やかな言葉ではないと思いますけれど、でも、アスペと定型の間にある「ズレ」に苦しんでこられた人にはかなり実感に近い部分を感じる方が多いのではないでしょうか。「中毒」という言葉でもjoさんが表現されているように、それは長年にわたってお互いをむしばんでいくものです。それは体の芯までむしばんでいく。

 しかも、その「毒」の正体というのがなかなか分からないんですよね。何か自分がむしばまれていくという感覚が切実に積み重なりながら、その原因がうまくつかめない。原因がよく分からないから、そのときそのときでなんか手探りでいろんなことをでたらめにやってみるしか無かったりしますが、結局対症療法みたいなもので、本当の解決にはいいたらない。毒の症状が一時軽減されても、毒自体が抜けてくれないわけです。

 で、ややこしいのは、その悲劇は誰かが悪意で毒を作り、相手に毒を飲ませている、というような話とは違うということですね。もしそうならその人を犯人として問題を処理すれば済むわけです。でもこのブログで考えてきたことから言うと、その「正体」はお互いの間にある「ズレ」なので、言ってみればしらないうちに「共同作業」で「毒」を作ってその「中毒」になるというややこしい話になります。

 今までに見えてきた解決法は、いくつかあって、ひとつは「共同作業」をやめてしまうことです。離婚とかそういうことですよね。一緒にいれば知らず知らずに「毒」を作り続けてしまうのだから、離れれば「毒」はつくられないし、それに「中毒」になることもない。もっと自分にとって意味のある「共同作業」を探し直した方がよい場合です。

 もう一つは「ズレ」という「毒」の正体をお互いに知ることで、その「毒」を作らないような関係を模索する、という新しい「共同作業」に入ることです。joさんが「当事者が相手にも正義があるかもしれないと考え始め、セラピストとともにその可能性を確かめて、「自らの正義」との折り合いをつけていく。」という言葉で紹介して下さったように、お互いにどうもすごく大事な部分で「ズレ」た考え方を持っているんだと気がついて、そこに「毒」が生まれる仕組みを知り、それに対処していくことです。そうすれば少しずつ毒が体から抜けていく。

 joさんの紹介された文章では「相手と」というより「セラピストと」その作業をする、という書かれ方です。とはいえ、問題は「折り合いを付けていく」というところになりますから、「セラピストによる橋渡し」が仮にあったとしても、やっぱり最終的には「相手と」ということになりますよね。joさんの家族ではjoさんのケアの下で、今は娘さんがもしかするとそういう橋渡しの役割の一部を果たしていらっしゃるのかも知れないと思いましたが、その先に見通されているのは、やっぱり奥さんとのお互いの「折り合い」のように思えます。

 一番目の方法を選ぶか、二番目を選ぶかは、これはもうお互いの相性の問題としか言えない感じがします。どっちがいいという話でもなくて。

 何かの事情でそのどちらにもいけない場合とか、二番目を選んでも「ズレ」が共有されて「折り合い」を模索していく過程では、多かれ少なかれ「毒」に苦しむわけですから、それになんとか対処しなければならない。ああそうか、以前みみさんがネットで相手の人を激しくののしるような文章について、「毒吐き」という言葉で表現されていたことがありました。みみさん自身はそのような行為を否定的に語っていらっしゃいましたが、自分の中にたまっていく毒をどうすることもできないようなとき、それをどこかにはき出すより無くなる、ということは、いい悪いは別として、そうなる気持ちは理解できないことはないです。

 考えてみれば「カウンセリングを受ける」ということも一種の穏やかな(?)「毒吐き」とも言えますよね。たまりにたまった自分の矛盾(毒)をカウンセラーに聞いてもらう(はき出す)ことで少し楽になる。

 ただ、この「毒吐き」という対処法は、一時的な効果はあると思うんですが、でもそうしても相変わらず毒は作られ続けるわけですから、どこかで新しい方向性を見つけない限りは、結局いつまでたっても「毒吐き」を続けるしか無くなってしまうでしょう。しかもカレンさんのおっしゃることを考えると、その「毒吐き(カレンさんの言い方では「相手に向けた負の感情の剣」)」は結局自分自身をさらにむしばんでいくのかも知れません。

 「毒」に対する抵抗力を付けるとか、免疫力をつけるとか、そういうのってあるんでしょうか?もしかしたらあるのかもしれないですが、色んな方のお話しや自分の体験からすれば、この「毒」の威力はとても大きいですから、それができる人はほとんど「超人」という感じがしますね。ただ、周りの人の支えはある程度力になるでしょうけれど。

 joさんが「憐れみもこのあたりと関係しそうですよ。憎しみも軽蔑も憐れみもアンバランス状態をディレンマの形のまま誤魔化しているように思えます。」と書かれているような、一種の「ごまかし」の方法について、この方法では「毒」はどうなっていくのでしょうか。

 憐れみ、憎しみ、軽蔑、といった感情はjoさんが説明されていたことからいうと、「被害者として相手に復讐する権利を持つ」という状態保ちながら、でもその権利は使わないことで相手より優位な立場に立とうとする、ということなのですね。「本当は自分は仕返しできるんだけど、そうせずに許してやって居るんだ」と思うことで気持ちの上で優位に立とうとする。優位に立つことで「毒」に対して抵抗力がすこしつくのかも知れません。というのは「自分はただやられっぱなしなんだ」という感じではなくて、「自分がこの状態をコントロールしてるんだ」という、少し前向きの気持ちを持てるでしょうから。

 とはいえ、「毒」が生み出される関係自体は続いてしまうとすれば、根本的な解決にはならないことも確かです。joさんが「誤魔化し」と表現されているのもなるほどと思います。そのことにつながると思いますが、Jesseさんはこんな風に書かれています

 「で、ボクの頭の中におけるクイックな結論めいたことを言わせていただければ、「あきらめ」、「軽蔑」、「哀れみ」いずれも、パンダさんおっしゃるように美しくはありませんが、有用な感情だと思います。「復讐」は、美しい醜いを通り越して、怖いです~。そいつを封印するために何かがなきゃいけない。神ならぬ身のこと、使えるものは何でも使って現実と折り合わなくてはなりません。」

 「相手と折り合う」という言葉ではなく「現実と折り合う」と書かれているところがちょっと考えさせられますが、実際、「根本的な解決」というのはそうそう簡単に実現できるものでもないでしょう。もしそうならこんなに沢山の人が長年にわたって苦しみ続けるなんて言うことはないですものね。そういう場合は、いつか何らかの形で根本的な解決(たとえば上の1番目とか2番目とか)を見つけることを願いながら、とりあえず「使えるものは何でも使って」しのいでいくしかないのかもしれません。

 なんかこの場合はちょっと今の放射能汚染の問題にも似てる感じがしますね。放射性物質なんて、取り込まない方がいいに決まってるんだけど、でもどうあがいても完全にそこから逃れることはできない。できることは小さな工夫を重ねて(使えるものは何でも使って)少しでも取り込む量を減らすようにすることだけ。

 まあ、それが人生というものよ、などと悟った気持ちになったらいいのでしょうか?

2011年7月27日 (水)

パンダは白と黒

 カレンさんがコメントで、憎しみや軽蔑、哀れみ(と言うか憐れみ)といった負の感情について、ご自分も今もそういう感情を持つことがある、ということを書かれた上で、

「でも、こういう感情を持ち続けること自体が苦しくて、長くはその感情を持っていられません。長いこと水の中に潜っていられず、「プハーっ」と水面上に顔を出すときの感じと似て、何か、自分にとっての空気を求めずにはいられなくなります。」

 とおっしゃっています。なんか考えさせられて。

 私の場合は、人に対して(自分勝手な)「正義の怒り」とか、「正義の侮蔑」みたいな感情を持つことはあっても、それ以外の形で負の感情を持つことはなんだか極力避けてきた人間のように思うんですね。たとえ自分が傷つけられることがあったとしても、一生懸命に相手の「善意」の部分を探そうとしたり。

 そのことが悪いことだとはもちろん今でも思いませんし、そいう見方をするからこそ新しく見えてくる可能性みたいなものも大きくあると思いますけれど、でもそうすることで自分の傷を見ることができなくなったり、負の感情をただ押し殺すだけになったとしたら、それはいけないことなんじゃないかという気がするんです。(もしかすると多くの方には何を今頃当たり前のことをとあきれられるかも知れませんね (^ ^;)ゞ )

 で、カレンさんの書かれているように、その感情を意識して居てさえ、苦しくて耐えられなくなるわけですから、それを自分の中で押さえつけ、押し殺してしまったら、ほんとに自分自身をむしばんでいくことになる。

 アスペと定型の間のズレは、自分の好意が相手には悪意として受け取られたり、逆に相手の好意が自分には悪意として受け取られたり、そんなことが頻発するわけだし、それも「アスペと定型のズレ」として理解されない限りは、たとえ一晩寝ずに話し合っても調整できるようなやわな問題ではなくて、むしろお互いの憎悪を深めるだけになるかも知れませんよね。というか、アスペの人の方には寝ずに話しあう、ということ自体が困難な方もいらっしゃるでしょうし、実際私とパートナーの関係で考えれば、こちらが一生懸命話し合おうとしてもさっと切られるだけだったりもしたわけですし(今はその頃に比べて信じられないくらい「長時間(2時間くらいとか)」話し合えるようになりましたけど)。


 このブログでは、通常そういう憎悪の関係になりやすいアスペと定型のコミュニケーションについて、別の可能性を考えようとしてきて、沢山の方の貴重なコメントや議論を積み重ねながら、いろんなことを発見してきたように思うし、さまざまな新しい可能性の芽が生まれつつあるように感じています。それは「負の面ではなく、プラスの面をさがす」みたいな私の姿勢にもあった展開だったかも知れません。

 そのことで個人的にはパートナーとの関係もほんとに変わってきているし、上にも書いたように、それが悪いことだとはもちろん全然思わないんだけど、ただ、だんだんとそういうことの限界みたいなことも感じ始めてきているような気がするんです。

 なんというか、今まさにその憎悪の中を苦しみながら、もがきながら生きている方に対して「私も昔はそうでした。でも今はそれを<乗り越え>ているんですよ。その先には明るい未来があるんです。あなたもこうやってごらんなさい」とか、そういう「指導」とか「励まし」って、なにかがおかしいような気がするんです。「今その人が苦しんでいる憎悪にちゃんと向き合っていない」ということかな。

 「暗いところばかり見ないで、明るいところを見ましょう」みたいな感じになってしまうとダメな気がするんですね。だって、パンダだって黒いところも白いところもあってパンダなんだし、どっちかだけ取り出したらパンダでなくなっちゃう (^ ^;)ゞ

 
 もちろん「憎悪と向き合う」というのは難しいことだと思います。あるいは人と憎悪を共有するとかも。なんとか押さえつけて今の自分を保っているのに、その蓋を下手に開けてしまったら、どんなに恐ろしいことが起こるかわからない。そんな危険にも満ちているように思います。とくにつもりつもった憎悪についてはそうですよね。憎悪の連鎖が戦争とかテロをも生むわけだし。

 ああ、思い出しました。韓国の友人に聞いたんですけど、韓国では「はんぶり」という儀式みたいのがあって、積もり積もった「恨」をみんなで昇華してしまうようなことをやったりするんですって。なんか、みんな苦労してるんですね、そこは難しいだけに。


 なんか、憎悪とかマイナスの感情も無視することなく、かといって「次」を模索するプラスの姿勢を失うこともなく、生きていけたらすごいですよね。「悟りの世界」とは遠いのかも知れないけど、なんか「本当に人間やってる!」という感じはある。

 うーん、むつかしくてうまく書けません。「恨み辛みは隠さずにみんなではき出しましょう」とか、そういうこともあるとは思うけど、それだけでもないでしょうし。

 

2011年7月26日 (火)

「憐れみ」より「哀れみ」

 昨日の記事へのコメントで、Jesseさんが

 「あ、ところで、「哀れみ」の方が「憐れみ」より良いですね!」

 と書いて下さって、「ああ!これだ!」と思ったんです。

 これは私個人の言葉の感じ方の問題かもしれませんが、「憐れみ」というのはなんか「かわいそうな奴だな」という感じで切り離して見下している感じが残ります。でも「哀れみ」は「哀しみ」の気持ちをたたえているように思うんです。

 なんていうのかな、この「哀しみ」は相手に向けられているものでもあるし、自分に向けられているものでもある。つまり、相手がこの私を傷つけるような形でしか接してこられなくて、しかもそのことの自覚すらない、ということについて「悲しいなあ」と思うと同時に、それについてどうすることもできない自分の無力さを「悲しむ」ことでもあって、さらにはそういうどちらの思うままにもならない「関係」を「悲しむ」ことでもある。裏返して考えれば、相手にとって自分がそういう存在かも知れなくて、そのこともまたどうしようもなく「悲しい」。

 なんか、そういうどうしようもなく自分には手が届かないような、自分の限界もいやというほど思い知らされるような、そういう状態に対して、誰を責めることもできず、もうただ「哀しい」と思うしかない感じ。

 お互いにお互いの思いで(相手にとっては全く通用しない形で)ぎりぎりまで頑張って、とにかくお互いに傷ついて傷ついて、仮に相手を深く傷つけていることにうすうす気づいてさえも、それ以外どうすることもできない。もしそう心から思った瞬間に、お互いが見つめ合ったとしたら、そこで出てくる感情は「憐れみ」ではなく、「哀れみ」なんじゃないかと思うんです。繰り返しになりますけれど、そこで「悲しまれている」のは「相手」でもあり「自分」でもあり、どうしようもないお互いの「関係」でもあり。

 もちろん「お互いに頑張った」上で力尽きる、ということがないと、この「哀れみ」に達するのは難しいかも知れないですね。

 昔学校の国語かなんかで「もののあはれ」とかいうのを習ったことがあるような気がするけど、そういうことにもちょっとつながりそう。多分あれって、人間の世界のことについて言えば、どっちが正しいとか、どっちが間違ってるとか、そういうことをとやかく言うことなく、「ああかなしいなあ、人の世は(私は。あなたは。)」という思いに浸ることのような気がします。相手を責めるでもなく、自分を責めるでもなく、ただただ「哀しい」。あるいはそう思いながらもやっぱり相手を責めたり自分を責めたりしてしまう、そのこともまた「哀しい」。で、その「哀しみ」が共有されれば、それで美しいと言うことになるのかな。

 この感じって、どのくらいの人と共有できるのかは全然分かりませんけれど、私自身についてはどこか救われる思いがあります。どこまでの深さの救いなのかは分からないですけれど。

 
 なんか、この私だって、好きでこういう人間に生まれ育ったわけでもないですものね!みんなそうですよね!
 ほんとに「哀しい」思いがします。
 あ、でも、自分が好きで好きでという方には
 全然説得力無い話ですね (^ ^;)~

2011年7月25日 (月)

憎しみと軽蔑と哀れみと

 昨日、チロさんとやりとりをしながら改めて考えて居るんですが、定型とアスペのズレでコミュニケーションに苦しんでいる場合、何らかの形でお互いに「ああ、そういうことだったんだね」と「ズレの理解」を共有できる場合はいいんだけど、それが成立しないままにコミュニケーションがそれ以上続けられない状態になった場合(離婚とかも含みます)は、全然違うしんどさがあるんだなあとしみじみ思います。

 なんというのか、そこで傷ついた気持ちを、少なくとも相手との間では癒す可能性が無い訳じゃないですか。人間って自分が傷つけられたとき、それでも相手が「ああ、自分のせいでこんなにあなたは傷ついたんだね」と理解してくれれば、すごく救われる部分があると思うんだけど、これまでも書いてきたみたいに、アスペと定型のズレの場合、そのズレに気づかない限りは「自分が相手に傷つけられている」と、「お互いに」思っていることが多分ほとんどなんじゃないでしょうか。だから、相手に自分がどれほどしんどい思いをしているのか、どれほど傷つけられてきたかを理解してもらうことが無理ということになる。

 人にもよるのかも知れないけど、相手に傷つけられるにせよ、相手を傷つけるにせよ、お互いに傷つけ合うにせよ、そういう関係になったときに、その傷を癒したいという思いがすごく出てくると思うんだけれど、直接の相手との間でそういう「癒し」が望めない状態になったとき、別の形でその傷と向き合わないといけないですよね。

 自分が傷を負ったと感じているときは、たとえば激しく相手を憎むというのもそのひとつなんだろうと思います。人間が(定型が?アスペも?)持っている感情の中でこの「憎む」という感情の強烈さとか、その自分の感情に対処することの難しさが際だっている感情というのも他に無いくらいかも知れないですね。それは何らかの形での「復讐」への思いを生み出すだろうし、それができないとか、したくない場合には、下手をするとその「憎しみ」が今度は自分自身をむしばみ出したりする。

 その憎しみを、友だちに聞いてもらったり、ネット上ではき出したり、そういうのは効果がありますよね。そこで自分の傷をちゃんと傷として認めてもらえたり、「相手が自分を傷つけたんだ」ということを認めてもらえたりすれば、直接相手にそれを認められるよりは効果は弱いかも知れないけど、でもずいぶん救われることにはなるし、その場合は相手に対する「憎しみ」を、たとえば「軽蔑」に切り換える形でとりあえず乗り切れるかもしれない。少なくとも相手を憎しみ続けることで自分自身までむしばまれてしまう、という状況はこの「軽蔑」によってだいぶ避けられるかも知れません。

 「軽蔑」というのは、もちろん「美しい感情」ではないでしょうし、そういうのが無くてすまされるのならないほうがいいと私は思いますけれど、でも「憎しみ」で自分自身をもむしばんでしまうのなら、「軽蔑」の方が「優れている」のかもしれない。今までそんなこと考えてみたことはなかったですが、結構シビアに大事な問題の気がしてきました。

 さてそうすると、そういうふうに相手に傷つけられたと思っている状況で、「軽蔑」よりももっと「健康的(?)」で自分自身のためにも効果のある感情ってあるんでしょうか?

 軽蔑と微妙につながる感じがする感情で「哀れみ」というのもありますね。軽蔑よりももっとある意味自分にゆとりがあるときかも知れませんけれど。「なんて可哀想な奴なんだ」と思うこと。「自分のことをこれだけ傷つけておきながら、そのことにさえ気づけない。それどころか相手は自分の方が被害者だと思っていたりして、でも結局それでその相手は何も解決できずにこれからも苦しみ続ける、可哀想な奴だ」とか思うこと。なんかとりあえず自分の方が優位に立ってしまったような感じにもなるし、傷ついた自分を支える力にはなるかも。「復讐」ということからもちょっと遠ざかれるかも知れませんね。

 そうやって気持ちの上で距離を置くことができて、そのうちに忘れてしまえるのなら、それも悲しくはあるけれど、ひとつの現実的な手段なのかも知れません。

 やっぱり人間って「相性」はあるし、どうしても「負の感情」が勝ってしまう関係はある。そこを乗り越えてプラスの感情で結びつき直すことができればそれはそれでいいんだけど、やっぱり無理なものは無理、と考えることも大事なんだということを、自分自身が巻き込まれたトラブルのことも思い返しながら改めて考えさせられます。

 ま、自分にできることなんて、誰でも限りがあるわけで、その限界をちゃんと見ながら、自分の得意なところで人との関係を作っていくことが基本なんですよね。で、少しずつその「可能な範囲」を、KS仙人みたいに修行して広げていければ大したもの。普通あたりまえにみんなそう思ってるのかも知れませんけれど、私の場合、どうもそのあたりが苦手な気がします。

 

 

 

2011年7月23日 (土)

求めることとあきらめること

 以前「あきらめの話」という記事を書いたことがありました。そこで私は最後に

「と、ここまで書いてきて改めてまた思うことは、このように状況を理解したりするというのは、チロさん、joさん、カレンさん、そして私と定型(変型?)の側の人間が歩んできた道についての(私の理解の)ことで、それぞれのパートナーの方の、あるいはアスペの方の世界観というのか、感じ方というのか、そこから見ればまた違うような理解があるのかなあとも思います。こういう問題の設定の仕方自体もしかするととっても定型(変型?)的かも知れないので、そこはうまく対話になるかどうか、なんとも今は分かりませんけれど。」

 と書いたんですけれど、昨日、繭さんが違う記事に対するコメントでこんなことを書かれていました。

「とてもざっくりとしたイメージなのですが、定型側は「求めるものが得られない」ことが多くて、アスペルガー側は「出来ないことを求められる」ケースが多いように感じます。」

 上の「あきらめの話」に書いたあきらめのこととは少し違う話の面もあると思いますけれど、でも「定型の側は「求めるものがえられない」」ということは、ある意味それを「あきらめる」ことが必要にもなるわけですから、大きく言うと話がつながっていますよね。

 カレンさんはまた同じ記事へのコメントで、あきらめると言うことを、自分自身の家庭が自分の足場として落ち着いてきたことと結びつけて、そこを出発点とした新しい世界への旅立のための気持ちの切り換え、みたいな感じで積極的な意味を見るようになられたことを書いていらっしゃいます。これはまた「あきらめ」ということについて、またひとつ新しい前向きの見方を与えて下さるようですね。

 もう一度繭さんの説明に戻ると、定型の側は「求めて得られずに苦しむ」のに対して、アスペルガーの側は「求められて与えられずに苦しむ」ということであるのなら、とりあえずそこで求められることを定型が「あきらめる」ことでその「苦しみ」は無くなるようにも思えるけれど、定型の側からすればあきらめたからと言って、例えば共感的なやりとりを交わすことなど、必ずしもそれを求める気持ち自体がなくなるわけではないので、繭さんも気にされているみたいに、それはアンバランスな解決法ということになる可能性も残るわけです。

 定型同士の関係でも、当然お互いに「相手の求めるものをすべて与え合う」ということは不可能でしょう。ただ、その場合は「求め合うものを調整する」という形で乗り越えられる可能性が十分あるわけだけど、定型とアスペが難しいのは、そういう「求め合う関係」とか「そもそもの求め方」自体に大きなズレが生じてしまうことですね。

 このブログでも何度か考えてきましたけれど、そういう事態は定型からすれば「相手は自分を必要としていない(求めていない)」というふうに素朴に感じられてしまいやすいものです。実際には「必要とするそのしかたが違うんだ」ということである場合が多いことが今ではだいぶん分かってきたわけですが、アスペの人からのその「必要のされかた」が、定型の側からして「自分は必要とされている」と実感できるかというと、そこはなかなか難しい部分が残る。頭ではそうなのかと思っても、気持ちがついていかないことがあり、苦しむのは頭ではなくて気持ちなのですから(っていう言い方、もしかして定型的なのかな?)、やっぱり辛さが残っていくことがあるのでしょう。

 私自身については、今は本当に訳が分からなかったパートナーとの関係が、お互いに「アスペと定型のズレ」という見方を共有しながら改めて理解ができるようになってきた部分が多くて、そのことをベースにお互いに気を遣い合う関係が深まり、改めてお互いが相手を必要としていることがなんとなく感じられるようになってきたので(これもどうしてそうなれているのか、大きな問題だと思いますが)、ほんとに過去のあのぎりぎりの状態からは想像もできないくらいなのですが、これから先、「あきらめ」の問題がどんな風に消化されていくのか、カレンさんのような積極的な意味づけが可能になるのか、あるいは改めて大きな問題として浮かび上がってくるのか、まだ私には未知の世界という感じです。

 

2011年7月21日 (木)

理解し合えないことを理解し合う

 はじめてコメントを下さったまもさん

「アスペの人の家族がまず認識すべきは「理解しあえることを諦めること」と何かの本にありましたが、そのとおりなのかもしれません。保護者的な立場を貫く決意がなければ、距離を置いておくほうがいいのかもしれないなと思うこのごろです。寂しいですが。」

 と書いて下さいました。

 なんか身につまされる感じがしますけれど、私も初めの頃はかかりつけの医者に「あきらめること」を言われました。けれども「あきらめの悪い」私はどうもそこはしっくりこなくて、ずっとこだわり続けてきたのがこのブログです。そして今は医者も「あきらめろ」とは言わなくなりましたね。

 それで、少なくとも自分の体験から、そしてここでコメントを下さる方達の体験を読ませていただいて、その言葉をこういう風に換えたいと思うんです。

 「アスペと定型には理解し合えないズレがある、ということを理解し合うこと」はできるんだ。というふうに。
 
 そこが共有できれば、ある意味で対等に問題を考え合う可能性が出てきます。もちろんどういう条件があるとその共有が比較的うまく行くのか、そのことはまだまだほんとに大きな謎だらけなんですけれど。カレンさんの場合はなんか一種の宗教体験的な感じもする「自然とのつながり」みたいなことがそこに関係していそうな気がするし、私の場合はそんな高級な事じゃなくて (^ ^;)ゞ 、単に自己崩壊を起こしてもうそれまでの自分も、その自分が作ろうとしていた関係も維持できなくなって、振り出しに戻ったみたいな感じからのことですけど……。まあ、ある意味では「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」かもしれません (^_^)

 逆に言うと、昨日の記事でちょっと書いたみたいに、そこがうまく共有できる足場が作れない場合には、やっぱりほんとに大変なんですよね。「一緒に頑張ろう」というふうになれないから。

 なんにせよその共有ができてくれば、ズレを知らない事による、あるいはズレの理解が共有されない事による怒りは、時間が経てばかなりの部分おさまっていくようです。最近私もパートナーとの間ではそういう怒りや悲しみみたいなのはほんとに無くなってきてますね。

 その分、冷静に問題を考えあう可能性が増えるし、関係を調整したり修復するにせよ、また「これはもう無理だね」とお互いに納得して別れるにせよ、お互い深く傷ついたままで破綻するのではなくて、多少なりとも前向きに対応できるようになると感じます。

 もちろん、そこで関係が修復されたとしても、今山ごもりの修行をされているKS仙人が、お友達のアストンさんから教えてもらっているように、あるいはカレンさんが最近時々ちょっと深刻な感じで語られていると思えるように、そのまますーっとすべてが楽になっていくとか、そういうことはないのかもしれないし、やっぱりそれはそれである意味「あきらめ」の部分を含み込みながらなのかも知れません。だから、定型の側からすると、改めて関係を再出発させることができたとしても、その「あきらめ」の部分で満たされない思いをどうしたらいいのか、という問題が残るかもしれない。

 そのあたり、定型の私から見てそういう問題が次のステップとして浮かび上がってくるかなあと思うけど、アスペルガーの人から見たらどうなのかは、まだ全然わかりません。

 ほんと、次から次から考えること、尽きないですね~

2011年7月20日 (水)

世の中むつかしい!

 Solitudeさんがご自分のブログ「そうか、私は自閉症だったのか・・・」で、こんなことを書いて下さっていました。

「これは、悲しいね。 アスペなんか消えろ!寄ってくるな!っていう人達より、真剣に考えてくれる人や、 寄り添ってくれる人のほうを病ませてしまうなんて。
 そのことに対するジレンマに苦しんでいたけど、良いブログを見つけた。 「アスペと定型~アスペルガーと定型のコミュニケーションを考える」」

 もしこのブログが少しでもお役に立つことがあるのなら、ほんとに嬉しいことです。

 と同時に、この前半に書かれたことについて、改めてその重たさをひしひしと感じているところでもあります。

 以前、「アスペルガーという自己理解と他者理解の不思議な例」という短い記事で書いたことにも関連しますけれど、私のパートナーもやっぱり、自分自身をアスペルガーだと確信する前の時期には、私の方のことをおかしな人間(障がい者?)だと思い続けていたそうです。

 あ、もちろん私がおかしなへんてこパンダ型非常識人間であることは間違いないんだけど…… (^ ^;)ゞ ま、ここはそういう意味では無くって(うーん、言い方難しい (^ ^;)ゞ )

 Solitudeさんが書かれてるように「アスペなんか消えろ!寄ってくるな!」という人たちは、その差別的な対応で、アスペの人を傷つけたり苦しめたりするわけですよね。で、周りがそれで固まっていてキツイ場合には、アスペの人は「自分がおかしい」と理解することを強制されることになっていくでしょう。私のパートナーも自分がアスペルガーだという確信を持って以降、かなりの間、「全部自分が悪かったんだ」という思いに捉えられてしまった感じでした。私は何度も「そうじゃなくて、ズレに気づけなかったことが問題だったんだから」と言いましたけれど、「自分は障がい者である」という強烈な社会的な枠組みはそう簡単に「自己否定」の気持ちを和らげてくれないのですね。

 私はと言うと、相手が強者で弱者を不当に傷つけているように思える場合などは別として、基本的にはそういう「障がい」という社会的な枠組みが持つ差別の力みたいなものは崩していきたいと思うし、違う特性を持ち、異質な個性を持った人間同士が、なんとか一緒に生きていく道を探っていきたいと思うタイプの人間です。

 だからアスペルガーかなと思う人にもまあそういう接し方をしていくんです。もちろん「あなたはアスペルガーに違いない」とか、そんなことは言う訳じゃないし、ただ、ほんとに困難なコミュニケーションの仕方について、なんとかお互いに工夫してやりとりしようと努力する。

 ところが、このとき、場合によってほんとに悲惨なことが起こりうるのだと知りました。そういうコミュニケーションはこちらにとってもすごくしんどいことが連続するわけです。当然その相手の人にとってもそうなるでしょう。お互いによくわかんなくて混乱するわけですし。

 で、私の方はそれは「アスペルガー問題がからんでいるから、その状態を足場になんとか改善を」と思って工夫することが、自分はアスペルガーだという観点を持たない相手の人にとっては、たんに苦しいだけのコミュニケーションをこの人は無理強いしようとしている、と理解してしまうことがあるようなのです。そして上にパートナーのことで書いたように、「おかしいのは相手だ」という理解がそこでできてしまう。

 そうするとSolitudeさんが書かれているような悲劇が起こります。アスペの人を差別したり排除したりしようとする人ではなく、(おそらく)アスペが絡む困難を乗り越えようとしてコミュニケーションを取ろうとする方の人に対して、「この人はおかしな人だ」という判断が成立してしまい、場合によって攻撃されてしまうことがある。

 なんか、二重三重の悲劇という感じがします。

 やっぱり改めて思うんですが、「差別的な枠組み」としてのアスペルガーとかいうこととは違って、異質な個性としての「アスペと定型の間のズレ」の問題がそこに「共有されているんだ」ということが、お互いに理解されていない場合には、ほんとに関係の改善って難しいんですね。一方的な「配慮」は結局なんの「配慮」の意味も持てずに、「小さな(というか大きなと言うか)親切、大きなお世話」になってしまう。

 もちろん「あんたアスペだから、関係調整しましょう」とか、そんなこと相手にいきなり言えるわけ無いですしね。それこそひどい差別的な対応になってしまう。かといって見ていて「ああ、このひとはそれで苦しい思いしてるな」と感じてしまう人を放っておくのも、なんか可哀想でつらいですしね。

 世の中難しい! ……(-。-;)


 

2011年7月17日 (日)

みおさんのコメント

みおさんから「怒りについて」にコメントをいただきました。

============================
私は夫に私をわかってほしかった。
単純だけど、抽象的で難しい。
だけど、これだけです。

怒りは「何でわかってくれないの?」「何で伝わらないの?」
という気持ちから沸いていました。
それは私が夫に「人はわかってもらえるもの」
「伝わるもの」という気持ちを押し付けていたのかもしれません。
私の思い込みかもしれません。
だけど、いまだに諦めきれないのです。

怒りの後はもう何もないのに涙が出てきちゃうし、
吐き気が常にある状態で過ごしていました。
育児や介護、今後を考えて行動するなど、やらなきゃいけない事もあるし
ガッチガチで、すべてがむなしくなりました。
私の人生終わったな・・・と思いました。

だけどブログで吐き出して、いろんな方と話をして
夫の主治医の前で子供みたいに泣きじゃくって、少しずつ復活→怒りも復活。
でも、この時の怒りは前とは違ったかもしれません。
夫に対しての怒りもありましたが、
「何で私が死ななきゃいけないんだっ!」というところでしょうか。
そして、何度も書いていますが今は怒りの塊が落ちて、
やっとやっとスタートです。

夫に「わかってほしい」と思ってた私も
夫の事をわかっていなかったんです。
=============================

 なんかもう、私は一言も付け加えるべき言葉を思いつきません。
 ただただ、かみしめるだけです。

2011年7月12日 (火)

怒りについて

 相手に対する「怒り」について、カレンさんとみおさんがなんかすごいやりとりをされています。(うーん、最近特に、記事が完全に皆さんのコメントに頼り切り (^ ^;)ゞ  )


みおさん
「私も前に比べたらだいぶうまくいくようになりました。私の中にあった「怒り」が消化できたからです。」

カレンさん
「みおさんが、「怒りの消失」ということを書かれていましたが、本当に簡単に言ってしまうと、要するに「怒り」(漠然とした不満・不快も含めて)が消えさえすれば、実際なんとかなっていくのだと思います。」

みおさん
「前は常に怒ってる状態で夫の態度で引火して、私の中にある「怒り」がボーボー燃えちゃう感じだったんです。もしくは大爆発です。それでも「怒り」が消えない。「怒り」は夫の事だけじゃなくて、同時進行の実母の介護とか、自分の時間が持てないとか自分が認められていないとか、いろいろ理由があります。それを一つずつ、考えました。私の「怒り」の元になってるのは何なのかなーって。
いろいろあるんですけど、「認められていない」という感覚は大きかったかもしれません。何より自分で自分を認められなくなっていました。だから、今は「まずは自分大事」が大事だなというところに行き着いたんです。
そうして自分と向き合った時にその中に溜まっていた「怒り」をリセットできたんだと思います。だから今は夫とケンカしてもその都度、「今起こってる事について話しましょう」という感じで引きずらないし、ラクになりました。」


 怒りって何だろう?と考えてみるんですが、ものすごくシンプルに考えれば、自分の思い通りにならないことがあったときに生まれる感情でしょうか。知恵の輪をやってうまく行かないときに、だんだんイライラしてきて最後は怒りだし、知恵の輪を投げ捨てたり (^ ^;

 怒りの相手は知恵の輪であることもあるし、コミュニケーションしている相手のこともあるし、自分自身が怒りの対象になることもあるし、いろいろですよね。あ、でもとりあえずここで考えているのは定型の一人の私なので、それがアスペルガーの人にもどれだけ同じような感じかどうかはちょっとわかりません。同じだとすればまたひとつ共有できる足場が増えることになるし、違いがあるとすればまた調整すべきポイントがひとつ見えることになりますね。ということでとりあえずまずは定型の一人の見方です。

 で、「思い通りになる」ってどういうことなんだろう?って考えてみると、なんか自分に「こうなるはずだ」とか「こうできるはずだ」とかいうイメージがあって、それが実際にそうなることですよね。他の言葉で言えば「期待通りになる」とか「予想通りになる」とかでしょうか。

 「期待通りに」ならない、ということは「期待はずれ」ということで、期待の内容が自分にとって重要であるほど、また期待の大きさが大きいほど、それがはずれたときのショックも大きいと言うことになります。

 知恵の輪が相手なら、そのショックを解消するには知恵の輪をぶん投げてみたり、ペンチでぶちこわしてみたり、という「破壊的な攻撃」が生まれることもあるだろうし、「ああ、私ってこんなのもできない、情けない」と自分を責めることもあるだろうし、場合によっては「そもそもこんなものを作った奴が悪いんだ!」と制作者をののしってみたりする人ももしかするとあるかもしれません(それでホントに玩具会社に怒鳴り込んだりするとやばいけど)。

 少しカシコイ対応なら、「これ、ちょっと難しすぎたんだから、もうちょっと優しいのから初めて、だんだんコツを掴んでいけばいいんだ」とか考えて、知恵の輪修行に入るかも知れないし、「どうせたかが知恵の輪にすぎないんだから、別にこんなものできなくたって、私の人生がどうこうなるわけでもないし、気にしない、気にしない」と自分に言い聞かせて「無視」してやがて忘れ去る、というのもあるでしょう。

 では相手が人間の場合だったらどうなるんだろう?
 
 やっぱり、怒りの背後にある気持ちって「あなたは当然こうすべき所でしょう。なぜそうしないの?」という感じじゃないでしょうか。その「当然」が裏切られたと思うとき、怒りが生まれることがある。そこは物言わぬ知恵の輪とはちょっと違いますよね。知恵の輪に対して「あなたは当然はずれるべきでしょう」と裏切られた思いを抱くことはあんまりなさそうだし。

 で、怒ることで相手に「あんた、私の期待を外してるよ。当然すべきことをしてないよ」という警告を発しているのだというふうに見ることもできます。もちろん本人は「怒り心頭」ですから、そんなことを冷静に考えているわけではないんだけど、でも怒りは相手に対してそういう働きをすることができますよね。「え?なんであの人怒ってるんだろう」と怒られた側は考えたりしますし。

 もしそこで怒られた相手の方がその怒りにとりあわなかったりすれば、怒りはさらに激しくなります。だって、最初に「当然こうすべきでしょう」という思いが裏切られただけでなく、その思いを伝えて理解してもらおうとしているのに、「怒られたらなぜ怒られたか考えて関係を改善するのが当然でしょう」という、もうひとつの「当然」も裏切られてしまうわけですから。裏切りの二乗でこれでは怒りが増幅するのも当然。

 「逆ギレ」されたときもおさまらないですよね。「あなたが<当然こうすべき>ことをしないから怒ってるのに、逆に私の方が悪いことにされようとしている」というわけですから、つまり<当然こうすべき>という<当然>を堂々と否定されたようなもんです。相手を非常識と思って注意していたのに、自分が非常識にされそうになる状態です。

 そういうことが繰り返されると、怒る方は当然ものすごく消耗するわけです。
 
 で、この消耗は心身にダメージを与えますから、なんとかしないといけない。方法は多分三つくらい考えられて、ひとつは怒りで相手を破壊してしまうこと(その破壊が内向きになると自分を破壊することになります)。ふたつめはもう一切相手に「期待しない」関係になること。がまんする、とか、もうあきらめる、ということですね。みっつめは「期待のしかたを変えて、噛み合う形にすること」です。

 ひとつ目は最悪相手や自分を死に至らしめるわけですから、これは避けたい。一見すると三つめが一番前向きで良さそうにも見えますが、これは「期待」の中味にも依りますね。自分にとってどうしても自分が自分であるためには欠かせない「期待」であるとすれば、それは「その人に期待することは止める(別の人に期待する)」ということも必要なことになるでしょう。この場合はそうすることのほうがむしろ前向き。で、それが自分にとっては譲れるような期待だったり、考え方を変えれば別の期待で満たされるような範囲のものであれば、みっつめが前向きと言うことになる。それは場合に依りますよね。

 カレンさんが別のコメントで「聞こえない人に「後ろから声をかけたのに振り向かない」と怒っても仕方がない」という喩えで説明されたのは、結局この健聴者の「期待」の中味を聴覚障がい者の現実にあわせて切り換えて、別の方法で期待を実現するということをされていることになるんだと思います。そうすると怒りが消える。怒る必要が無くなるわけですし。

 私と母親との関係を考えると、「自分の期待はそのままでは通用しない」というところまではもう分かっています。だから、それが分からなかった頃に比べれば、怒りは緩和されて、多少なりとも冷静に避ける工夫はできるようになる。でもそれはあくまで避けることに留まり、逆に言えば「どうすれば別の期待の仕方に置き換えられるか」は見えてきていない。だから時折怒りが避けきれなくなるし、基本的には「距離を置く」ということをベースにせざるを得なくなります。

 そう考えると「怒り」の元になる「期待のズレ」みたいなことについて、「期待のズレ」に気づくことが最初の大事なステップで、その次にそのズレをどう調整するか、「あきらめる」のか「がまんする」のか「別の期待のしかたに切り換える」のか、ということが問題になって、それぞれの人の抱えている事情(相手や自分の性格なども含む)によって「距離を取る」ことで「怒らなくてもよい状態を作る」のか、「怒る必要がない関係」を作っていくのか、という解決法があるのかな。で、「完全に距離を取る(別れるなど)」こともできず、かといって「怒る必要がない関係」にもなれない場合には、「がまんする」ということがどうしても入ってきて、中途半端でしんどさが残るのかもしれません。

2011年7月 9日 (土)

共通の足場

 「必要とされると言うことの意味」で書いたことに関係して、数日前にカレンさんと繭さんの間でこんなやりとりがありました。

 カレンさん
 「夫にとって私が必要なのかどうなのかを尋ねたとき、「必要とか必要でないとか、俺に尋ねる必要なんかないだろ(怒)!」と言われ、その当時はとても落ち込んだのですが、その数年後(?)わかったことによると、「〔夫が私を〕必要としていることなど、当たり前すぎて口にするまでもないし、当然〔私も〕わかっていることだと思っていた」らしいです。」

 繭さん
 「私も同じことを夫から尋ねられたことがあります。その時は、そんな質問をされたことと、させてしまう程に夫を空しく思わせてしまったことに、ショックを受けました。なんだかもう、怒りながら、泣きながら、怒鳴るようにして「なんでそんなことを、私の口から言わせるの?」と言ったことを覚えています。普段は「言わなければ、分からない」と思っているのに(^ ^; 」

 今日、パートナーにその話をしたら笑い出して、「やっぱりそうなんだね。お互いに口に出さなきゃいけないと感じているところが違うんだよね」と言っていました。


 定型から見たときに、最初の頃にまず感じやすい「アスペルガーの人の特徴」は、相手と共感ができない、相手の感情を理解できない(苦手)、理解するときは理屈で(頭で)理解する、自分の感情もうまく理解できない、といったイメージではないでしょうか。ここに「アスペルガーの人は感情理解の脳が働かない」とか「ミラーニューロンが働かない」とか、なんだかどこまでほんとに証明されているのか私にはわからない「科学的」な理屈がついたりすることもあって、「ああそうなのか」とかそれで納得させられたりすることもあるでしょう。

 実際、人が苦しんでいるときに、心配して側にいてくれるよりも、薬をのませるなど「必要」なことだけをして、あとは放っておかれるような体験をすると、定型の側の人間は「なんて冷たいんだろう。この人には感情があるのだろうか」というような気持ちにもなりやすい。私のパートナーは動物の類が好きですが、水族館に行くと「わあ、おいしそう」という感想が出てきて、とにかく驚きました。最初は人を笑わせるために冗談で言っているのかとも思ったのですが、本当に素直な感想みたいなんです。最近、別のアスペの方がやっぱり「わあ、可愛い、おいしそう」と思うという話を教えていただき、やっぱりアスペの人か!と思わず笑ってしまいました(それを笑えるようになったのはこのブログでいろいろ皆さんから教えていただいた「成果」ですが)。

 他人が怪我をしたときの状態の話を聞いて、「わあ、痛そう、可哀想」となるよりも「へえ、そんな風になったの、面白い」となったり、場合によって笑い出したり、定型的にはぎょっとして引いてしまうようなこともあります。

 で、定型同士の間では状況を見ればすぐに感情も共有されるようなことについて、ほんとに伝わりにくく、一生懸命言葉に出して説明し、またアスペの人本人も「理性的」に理解してやっと伝わる部分が出てくるというようなこともある。

 前に書いた「アスペルガーの人は結婚するととたんに冷淡になることが多い(釣った魚にはえさをやらない)」というイメージもあって、これなど定型から見れば「なんとずるがしこい、人情味のない人間なんだ」という印象につながるでしょう。

 そういう話を定型の理解の仕方でつなげていくと、「アスペルガーの人は感情が理解できないから、人の痛みも理解できない冷酷な人間なのではないか」というイメージも作られそうです。「理性的な人」という言葉も、「気持ちを無視して冷たい人」という意味を含んだりもしますよね。もっと簡単に言えば「この人には感情というものが無いのか」とか「まるでロボットのようだ」という思いになるかも知れません。そして「人のことを考えられない自己中心的な人間だ」という理解にもなりうる。


 このブログでのアスペルガーと定型のやりとりなどをずっとご覧になっている方は、もちろんそういう「定型的」なイメージが実はものすごく偏ったものだということを十分に実感してこられていますよね。お互いのコメントのやりとりなどは、もうそういう偏った見方ではないところで話をすることが一種の「常識」になっているように感じます。

 もちろん「偏っている」ということまでは分かっても、でもやっぱり定型の側からは「そう感じてしまう」ということが多いことは事実で、そう感じてしまうこと自体を否定しないこともまた大切なことだろうと思います。そう感じるにはそれなりの理由が有るはずだからです。自分が感じていることを頭から押さえつけられたり、否定されたりすれば、例の「カサンドラ症候群」になるとか、自分を見失って抑鬱状態にもなり、ほんとに辛い思いをするだけで、問題の解決にはつながらない。ただ、その感じ方は「<定型の目から見ると>そう感じてしまうことなんだ」という、条件付きで考えることは大切だとは思いますが。

 
 「では一方的な「偏り」を避けて、お互いを理解し合うためには何が必要なのか」、ということが悩ましい課題になってきます。お互いの理解のための、共通の足場みたいなものですね。定型とアスペが「違う」ということをちゃんと理解する姿勢を持った上で、一体何が違うのかを考えるための共通の足場。

 上に書いたような「定型的なアスペルガーのイメージ(のひとつ)」は、たしかに「違い」を理解しようとはしています。たとえば「アスペは冷酷な人々で、定型は情のある人々だ」みたいな形で。でもこういう「違い」の理解の仕方はやっぱり一方的で「偏った」ものになっている。そのことは割に簡単に確かめることができます。

 たとえばそういう理解の目でアスペルガーである人をもう一度ゆっくりと見つめ直したときに、ほんとにそういう理解で全部わかっちゃうだろうか、と考えてみる。確かに一部分はそういう理解でいけるのかもしれない。でもその理解とは全然矛盾したような部分がないでしょうか。しかも結構大事な部分で。実際私も自分のアスペルガーイメージが、私のパートナーを含めたアスペの人たちとのコミュニケーションを通して、次々に崩されていくのを経験し続けています。このブログの記事でも何度もそういう例を紹介してきました。

 もうひとつの確かめ方は、もっと直接的にアスペルガーの人に「私にはこう見えるんだけど、どう思う?」と尋ねてみることです。きっと「え?なんでそう見えるの?」とびっくりされることが何度もあるだろうと思います。


 もしそういうことがあるとすれば、そこで自分が感じている「違い」は、あくまでも定型の目から見た違いのレベルに留まっていることの証拠になります。アスペの人からは、全然違う形で理解が成立しているわけですから。そんなふうに「お互いに見方が全然違うんだね。自分の見方はあなたには通用しないんだね」ということに気づくことはすごく大きな意味を持ちますし、それが大事な新しい出発点になるでしょうけれど、そういう偏った見方のどちらかを、お互いに理解し合うための共通の足場にすることは当然無理でしょう。


 けれども、改めてこれまで私も含めていろんな方が書いてこられたことなどを思い返してみると、なんだか少しずつですが、「共通の足場」が見えてきているところがあるように思えます。

 そのひとつにどちらも「相手に気を遣う」という点では同じだ、ということがありました。違うのは何が気を遣うことだと理解されているのかということです。定型の場合はしんどい思いをしたときに「共感してもらう」とか「側にいてもらう」といったことが気を遣われることになる。でもアスペの人は逆に「一人にしてもらう」ことが大事になる。だから定型は「相手に気を遣って側にいる」し、アスペの人は「相手に気を遣って側を離れる」ことになります。

 最初にカレンさんと繭さんのやりとりを紹介したように、「相手の人を好きになる」という点はお互いに同じです。でも「好きになったらどうするのか(どういうことが起こるのか)」というところですごい違いがある。繭さんやカレンの夫さんの場合は「好きな人と居ることで、自分の世界の見え方が変わる」というようなことを言われます。でもそれは定型から見ると「自分の世界で自己満足的に感動している」という風にしか見えなかったりする。逆に定型の側は、「世界を共有したい」みたいな感じになると言ったらいいでしょうか。ここは私はまだよく言葉にできませんが。

 それと、今回改めてちょっと感じていることなんですが、いろんなことについて「深い感情を抱く」ことはお互いに同じだと思うんです。悲しみにしても苦しみにしても、怒りにしても喜びにしても、さびしさにしても愛情にしても。だから上に書いたような、「アスペの人は感情がないのか、冷血漢なのか」みたいなイメージはやっぱり定型の偏ったイメージなのだと思う。違うのは「何に対してそういう感情を持つのか」ということであり、「その感情からどういう行動をとるのか」ということであり、また「何を相手に表現すべきと思うか」ということなんではないでしょうか。

 そう考えると、最初のお二人のやりとりの「おかしさ(面白さ)」が理解できる感じがするんです。

 お二人が書いていらっしゃるように、そして私のパートナーもそう感じたように、いつもは「アスペの人は感情理解が苦手」だから「定型の側からはっきり口に出して言わないといけない」というふうに思われていることが、ここでは全然逆転してしまっているわけですよね。定型の側が「あなたは私のことを好きなのか(必要としているのか)、はっきりと言ってもらわないとわからない」と感じ、アスペの側は「なんでこんな当たり前のことをわざわざ口に出して説明しないと分からないんだ」と思う。感情理解に長けている筈の定型はそう言われると形無しです (^ ^;)ゞ


 まあ、ここに書いたようなことも、もしかするとまたもや定型である私の偏った理解かも知れませんし、それはみなさんにいろいろ教えていただきながら考えていくしかないと思っていますが、これからも少しずつでもそういう「お互いの違いを理解し合えるための共通の足場」みたいなものが見えてくるといいなあと思います。 


2011年7月 7日 (木)

ネットが変えるアスペと定型

 「アスペと定型のコミュニケーションを考える」ためのこのブログは、実はこのブログそれじたいが「アスペ当事者と定型当事者の間のコミュニケーションを生み出す」という場にもなっているように思います。このブログを始めたときは、もちろんそういうことがあればいいな、というくらいには思っていましたが、それがメインの目的ではありませんでした。でも、ありがたいことに、ここに参加して下さる皆さんがそういう場に育てて下さり、また今もそういう場としてさらに育てて下さっているわけですね。

 そのプロセスに私も「参加者の一人」みたいな感じで関わってきながら、ネットという道具はやっぱりアスペルガーの人が社会の中でコミュニケーションをし、そこで何かを生み出していくために、すごい力になる道具なんだなあと言う気がしてきています。もちろんそれはアスペルガーの人にとってだけではなくて、その道具を使うことで、定型との間のコミュニケーションもずいぶんとスムーズになるところがある。

 実際、カレンさんと繭さんという、女性同士だけど熱烈な熱愛カップルが誕生しましたし、KSさんとRosamondeさん、繭さんもすごい深いお友達になってきたみたいだし、私とRosamondeさんはお互いに兄さん、姐さんと呼び合う仲になった(うん、やばい?)し……

 さらにそういう関係は直接コメントに参加されている方たちに留まらずに、それぞれの方のパートナーの方との会話を生み出したりしていて、それがまたコメントに反映されて、そのうちに「○○さんによろしく」みたいな「家族ぐるみのコミュニケーション」ができはじめたりしてます。すごい面白いことだと思う。

 で、直接対面しながら行うコミュニケーションとは違う、この「ネット」というコミュニケーションの道具の特徴はなんだろうと考えてみるんですが、ちょっと手がかりになるかなと思える体験があります。

 この間も、パートナーから私の話し合いの時の姿勢について文句を言われたんですが、家でパートナーと話し合いをするとき、この半年か1年くらい、私はソファに寝っ転がって目をつぶりながら話すことが多くなったんです。前にもちょっとだけ書いたかも知れません。それは私なりの工夫でした。

 私は通常は相手の人の目を見ながら話すタイプなんですが、彼女と話すときは、見ているとすごくしんどそうな、苦しそうな、あるいは怒っているような表情をしているように見えることが多くて、なんかこちらの言うことで傷つけているような気持ちになって、自分が悪人に思えてきてしんどくなってきてたんですね。

 それにこちらが質問しても、それにすぐに答えが返って来ることは少なくて、沈黙の時間がかなり続くことが多かったということもあります。相手が「ああ、いま、きっとこういう事で考え込んでるんだろうな」とか、なんか分かるときには私は結構ながいことその沈黙につきあうことがあって、場合によっては30分とか1時間とかでもじっと考え込んでいる相手の人が話し出すのを待つこともそれほど苦に思いません。でもパートナーとの場合はそれが難しいんです。

 考えてみればなんでそうなのか面白いことなんだけど、ほんとに「彼女が今何を考えているのかわからない」という感じなんです。というか、「考えているんだろうか」「質問の意味がわかりにくかったんだろうか」「質問に何か腹の立つことがあったんだろうか」「今私が質問したと言うことは意識されているんだろうか」「答えなければならないと思っているんだろうか。それとも答えたくないと思っているんだろうか」「質問が聞こえなくて、全然別のことを考えているんだろうか」……というような、いろんな可能性が頭をよぎって、安心して待てなくなるんですね。

 そういう状態になると、5分待つのは相当しんどいことになります。待つことで何か進展があるのかどうか、待つことに意味があるのかどうか、全然分かんないでただ迷っている状態で、しかもしんどそうな表情を見ているのは結構つらい。そうすると、自分自身の感情状態がおちつかなくなって、答えが来る前にまたこちらが話し出してしまったり、そしてやっぱり話し方にもその感情状態が出てしまいますから、そうするとますます会話が難しくなる。


 ということで、あるとき、ふと寝転がって目をつぶって体の力を抜いて話をする、ということをやったら、結構調子が良かったんですね。ひとつには向き合って話すときのように彼女のしんどそうな顔を見てこっちがしんどくなることがなくなる。それからこっちが話した後は、向き合っていると「意識を集中して答えを待つ」みたいな形になるけど、寝っころがって目をつぶっていると、答えが返ってくるまでなんかボーッとしてたり、他のことを考えたりしていられる感じになる。私の方はそれですごくラクになったんです。

 ただ、上に書いたように、彼女の方はそれにちょっと違和感があるようで、逆に私の方がちゃんと聞いてくれているのかどうか、心配になるのか、あるいは「話し合い自体がそんなにつらい思いをさせてしまうと考えると、(彼女が)つらくなる」というようなことらしいので、まあベストのやりかたというわけでもないようなんですけれど。あちらを立てればこちらが立たず、で、まあ難しいところです。


 その点、ネットの上でのやりとりは、そういう「時間」とか「向き合い方」に縛られることがないですよね。自分の都合の良いときに、自分に必要な時間をかけて、自分にあった距離感で、相手と向き合ってやりとりができる。お互いに自分のペースを守りながら、そのお互いのペースのズレは気にすることなくやりとりできるわけです。

 Rosamondeさんなんかも、よく「超超超亀レスですみません」とか書いてらっしゃるけど、そういうの対面状況では難しいけど、こういうやりとりだったら別になんともないですもんね。

 ネットを使ったコミュニケーションには、そういう特徴があるのだとすれば、ネットを使ってなりたつ社会もそういう性格を持つようになります。だから、やっぱりその点ではアスペルガーの人がその中で活躍していく可能性は、すでにIT関係で一部出ているような、そういうレベルを超えて、これからだんだん拡がっていくように思うし、そのことで定型の社会も大きく変化していき、アスペと定型の間のコミュニケーションのありかたもまた変わっていく部分が大きいような気がします。

 もしそうなるとすれば、現在のように定型的な対面的なコミュニケーションを基本に「障がい」として語られるアスペルガーが、相当違った見え方をしてくるかもしれない。例の「三つ組の障がい」とかいう話なんか、どこまで生き残れるか、相当あやしいものです。「昔の人はあんな見方しかできなかったのか」と言われるようになる可能性が高い。

 ただし、「結婚」ということになると、やっぱり「対面的な状況」が基本になり続けるでしょうから(まあ100年後はちょっとわかんないけど)、このブログで議論しているような問題がなくなることは無いでしょうね。でも無くなりはしなくても、実際このブログでのやりとりの中から生み出されているように、ネットを利用することで、これまでそれぞれの人が孤立して抱え込んでいたアスペと定型の問題が、いろんな形で共有され、ふくらみと柔らかさを持って変化していく、という可能性はどんどん増えていくだろうとも思います。そうなれば、「アスペと定型のズレ」の問題も、今よりはずいぶんと前向きに考えられるようになっていくのではないでしょうか。
 

2011年7月 5日 (火)

自分から出発すること

 joさんが奥さんについて具体的に書いて下さったことを読んで、なんかすごく考えさせられています。

 何度も書きましたけど、このブログはアスペと定型のコミュニケーションを考える、ということがテーマで、そのためには「型にはまった」アスペルガーの理解とか、定型の理解とかに縛られないことが大事だと思います。

 私は一応定型サイドと言うことになるわけですが、結局「アスペルガー」という概念自体が定型の視点から、定型を基準にして「ここが定型的でない」という感じで作られているわけですから、その視点だけから考えると、「いかにしてアスペルガーの人を定型的にするか」とか、「いかにしてアスペルガーの人に配慮するか」という、どちらにしても一方通行の話になりやすいと思います。

 そうではなく、「対等なコミュニケーション」を考える立場からすると、「アスペルガーの人にとって自然な感じ方、ものの見方、考え方、生き方」を定型が理解しようとし、逆に「定型にとって自然な感じ方……」をアスペの人が理解しようとする、お互いのコミュニケーションを考えていきたいと思っているわけです。

 そのためには、定型の側は上に書いたような「定型的な常識」の見方から離れてもう一度柔軟に考えてみる(自分の見方を相対化する)必要が出てくるわけですけれど、でもそれって、ある意味ではすごく危険なことでもあると思うわけです。というのは定型の人間はお互いにそういう常識を共有することでコミュニケーションをスムーズにしているわけですし、そういうコミュニケーションに支えられて生きているわけです。言ってみたら自分が生きている足場、とも言える。

 だからそれを「相対化する」ということは、自分が定型の人たちと共有しているものを崩してしまい、自分が生きている足場を崩してしまう、ということにもなる。もうちょっと言えば、その常識に支えられている自分自身を、少なくとも一時的にしろ崩すことにもなる。

 joさんはそのものすごくしんどい「相対化」の作業を、ずっとずっと続けてこられたんですよね。実際奥さんの時間感覚の話とか、すごく基本的な感じ方の所で定型とは大きなズレがあって、だから定型的な理屈では通用しない世界がそこにある、というところまでは分かるんだけれど、でも「じゃあどういう世界なんだろう」というところはそうそう簡単に理解できるようなことではないと思えます。

 そうすると、自分が足場にしている感じ方を相対化してみたところで、それに変わる新しい見方が奥さんと共有されるわけではなく、奥さんの世界は(定型的な視点からすれば)ものすごく混乱して混沌としたものとして感じられるわけですから、それに自分が合わせようとすれば自分も混乱の渦の中に巻き込まれてわけがわからなくなってしまう。

 joさんが書かれているように、そういう状況を想像すると、ほんとうに「気が狂いそうになる」と思えます。

 
 で、ここから先の話は、多分人によって見方がかなり割れるところかなとも思えるし、またとても矛盾した言い方になると思うんですが、私は自分の定型的な見方を「相対化」するためにも、自分自身が定型的に生きていると言うことについて「絶対化」する必要がある、と考えてみています。すごく抽象的な言い方で申し訳ないんですが、とりあえずの言い方として。

 つまり、「自分は自分であることから逃れられない」し、「自分は神様にはなれない」と思うんですが(あ、KSさんは仙人になっちゃったけど)、そういう「自分」は定型的な世界の中で人とコミュニケートして生きてきたし(と言っても母親の境界例的な世界の影響をものすごく受けてるけど (^ ^;)ゞ )、そこで自分を作ってきたし、そこで自分の常識や価値観を作ってきたし、自分自身を理解してきたし、そこから抜けきることは不可能だと思うんです。

 もちろん人間、成長することもありますし、年が経てばいろいろと変化もしていきます。同じ定型と言ったって、ひとりひとり様々です。個性的です。でもアスペと定型の間で特に問題になるズレは、定型の間ではまずそんなに発生はしない。自分は他の誰でもなくて個性的な自分なんだけど、やっぱりその個性の中に「定型」という性格がもうぬぐいがたく入り込んでしまっている。あるいは切り離せないものとして自分を作ってしまっている。

 そして多数派がそういう定型的な性格を共有することでこの社会の仕組みをリードしていて、その中で多くの人が飯を食っているわけですから、個人的な努力とか、個人的に考え方を変えるといったことだけで済むような問題ではない。

 もうどうしようもなく自分はそういう限界の中で、そこから出発してしか生きられないのだと思うわけです。そして、言い方を変えれば、自分というものがそもそもそういうふうにして成り立っているのだとすれば、その自分を離れて「相対化」してしまうということは、自分が失われることになってしまう。自分が失われたところで相手にひたすら合わせると言うことになれば、それは対等なコミュニケーションではなく、従属になってしまいます。(すみません、状況が全く対等な関係を許さないような場合はまた別に考える必要があると思います。ここは一応対等な関係を目指す可能性が感じられる場合の話としてお考え下さい)

 そうすると、場合によっては「気が狂う」という状態に陥ることにもなると思えます。

 だから、joさんがそうならないように必死になられるのは当然だし、「正しいことだ」と思えるのです。別にその「正しさ」が奥さんにも通用すると考える必要はない。ただ、自分が自分であるために、そしてその自分が新しい関係を模索するために、「正しいこと」なのだと思うのです。

 うーん、もっと具体的に書けないのは今の私の限界ですが、とにかく定型同士で自分たちの感じ方を「これって当然こう感じるよね」と確かめ合うことも、あるいはスペルガー同士で確かめ合うことも、どちらもすごく大事な出発点だと思います。自分の感じ方をそうやって確認しあい、支え合いながら、でもそれとは違う別の「あたりまえ」に接していく。その別の「あたりまえ」に従属するのでもなく、振り回される一方になるのでもなく、自分自身を見失わずに自分を相対化し、相手を理解する工夫をお互いにすること。

 ああ、なんかすごい抽象的ですね。よくないなあ。まだまだ修行が必要です。KS仙人に弟子入りしないとダメかも。

 

 

 

 

2011年7月 3日 (日)

必要とされるということの意味

 チロさんがこう書かれていました。

 「KSさんのお母さんがホットケーキを焼いてくれたことを嬉しく思いながらも楽しいと感じなかったこと、なんとなく分かります。つながりが感じられないのは、思いを共有できてないからなんだと思います。」

 「思いを共有できない」ということ、定型の側の何人もの方からそういう言葉を聞いたように思います。

 みおさんがこう書かれています。

 「私も夫が私を必要としてくれてるのは何となく分かっています、頭では。でも、私じゃなくちゃダメという気持ちにはなれません。」

 そしてカレンさんも

 「我が家の場合、アスぺルガーのことを共有し、それぞれが、それまで自分の概念として思っていた「人間」とは全く別の人間だということがわかり、それによって、まずは私の怒りが徐々に消えていき、それによって、夫の怒りも消えて行き、それによって、”そこそこ”or”以前よりはずっと”「うまく行くようになりました」という状態にもなり・・・ でも、「でも」です・・・やっぱり、ここで問題にされているようなことは、私たちも今でも解決できていません。」

 定型の側から見たときに、パートナーが自分を必要としてくれているという感じが持てないこと、そのことによる苦しみや絶望感などを語られる方もまた少なくなかったように思います。アストンさんは著書の中で、アスペルガーの男性の特徴として、「つった魚にえさはやらない」という感じの事を書かれていたように思います。結婚まではすごく一生懸命に自分を喜ばせようとしてくれていたのに、結婚したとたんに全くそういうことが無くなってしまう。


 一昨日、パートナーにこのあたりのことを聞いてみました。まずは自分自身の問題として、自己崩壊の前は「自分は彼女にとっては意味のない存在だ。拒絶されている人間だ」と思わざるを得なかったこと、その後も頭では「必要とされている」ということを理解し始めながら、実感としてなかなかわからないことを話し、一体そこで「必要とされる」って、どういうことなんだろうかと時間をかけて尋ねてみたわけです。

 やはり言葉にして答えるのは難しいようで、逆にこう問い返されました。「なんでそういう問いがそれほど重要なのか。一緒にいるために何か理由が必要なのか。定型の人は、なにかはっきりと言えるような具体的な利益があるから相手と一緒にいるのか」と。

 私もそれにどう答えたらいいのか困りましたが、ひとつには「自分が必要とされていると感じることで、自分の価値を感じることができる」という話をしました。これは今までも他の問題にからめて何度か繰り返して説明してきたことですが、改めて。そしてどういうときに自分が必要とされていると感じるか、具体的な場面を考えて、説明していきました。

 たとえば出張から帰ったとき、笑顔で「おかえり!」とうれしそうに言ってもらう。「お風呂湧いてるよ。ご飯先にする?まずお風呂に入る?」とか聞いてもらったり、荷物を片付ける前にまずおみやげを取り出して渡してあげたら「わー、何買ってきてくれたの?」とかいろいろ聞いてくれる。「自分を待っていてくれる、自分の行為に期待してくれる」という、そんなささいな例です。

 前にも少し書きましたが、うちではまず「おかえり」の言葉も聞こえないことが多かったのです。本人は「言った」と主張するのですが、聞き取れないのです(これはどうも「言ったつもりになる」というか「頭の中で言った」ということが実際に「言った」記憶になってしまっているらしいことが後にわかってきました)。表情はひどく不機嫌で(これも本人は全くそういう感覚を持っていません)、必ずと言っていいほど、まず何かの文句、小言が出てきます。おみやげを出してもよろこばれたことはまずなく(実際には好きな食べ物だったりするのですが)、ほとんど見てもくれず、もちろんそれについて会話が進むこともない。シャワーの多い旅の後で家ではゆっくり湯船につかりたいと思って帰ってきて「お風呂は入れる?」と聞くと、「え?お風呂いるの?」とやはり不機嫌そうに言われる。そんなときに逆に「ああ、私は求められていないんだ。うとましく思われているんだ。」と感じるんだという風にも説明しました。

 このあたりについては、以前繭さんが説明して下さったことでも想像できますが、実はパートナーは一種のパニックになっているようです。しばらく私がいない、という状態が続き、それに慣れていたところで、急に(もちろん予定は分かってはいるのですが)一人人間が増える。そのことに慣れ直さなければならない。ある種、不安な状態で、防衛的になっていて、それが攻撃的にも見える、という感じであるようです。彼女が笑いながら説明してくれたのは、私が帰ってきたとき、荷物のことで頭がいっぱいになるんだ、ということでした。荷物を片付けなければならない(といっても実際は多くの部分は私が片付けるのですが)、洗濯物をとりだして洗わなければならない、などなど、もうそのことで頭がいっぱいで、ほかのことは考えられなくなる、と。

 これは定型の私の勝手な解釈ですが、それも本当に荷物のことが問題なのではなくて、一種のパニック状態の中で、不安を収めるために、それに対処するための行動をなにかまず探すのではないかと思います。そして「旅行」という日常とは違う、異常な状態を一刻も早く解消するために、「荷物を片付ける」ということが思いつかれ、そうすると不安を全部そこにふりむけるかのように、頭がそれでいっぱいになる。そうやって不安に対処しようとしているのだと。

 他にも逆にパートナーの行動で「自分が求められているように感じた」数少ない例を説明しました。前回書いた「プチ家出」のときの話などがそうです。

 そのあとだったと思うのですが、「<必要>と感じていることについて、定型の人はなんでわざわざその説明が必要なのか」という彼女の疑問について、「だって、それをそう感じられないことで苦しんでいる定型の人たちが実際に少なくないと思うから」という話をしたんですが、彼女はめずらしく、あまり時間をおかずに、しかもよどみなく、なぜ定型からアスペがそういうふうに思われるようなことになるのかについて、あくまで自分の見方だけど、とこんな説明をしてくれました。

 アスペにとっては、一人の安定した世界を守ることがとても大切なことで、そこに他人が入ることはその安定を破壊されることで通常大変なことなんだ。だから、その自分の世界に、わざわざ自分の安定を一度崩してまでその人に入って欲しいと思うことは、それだけでもう他の人とは全く違う「必要」な人として認めていることなんだ。女性の場合は「家庭に入る」ということで、経済的な面などで安定するという部分もあるけれど、男性の場合は就職をしている人ならもともとそこも安定しているわけで、その上で一人暮らしの安定を崩してまでも相手を必要としているということになる。

 それを聞いて、ちょっと唸ってしまいました。

 昔、「ほやほや」だったころ、こんなことを言われたことがありました。本好きの彼女が本を読んでいるとき、そばにいてその本をのぞき込んだりしていたら、「今まで自分が本を読んでいるときは、他の人にはそばにいてのぞき込んだりして欲しくなかった。あなたが横にいるのが平気なんだけど、そういうことは初めてだ」と。

 それは「思いを共有する」とか「楽しみを共有する」とかいう世界とはちょっと違います。彼女の世界の中に私が「いる」ことを許されていること、そのことを求められたこと、そのこと自体が彼女にとっての「必要」ということの意味ということでしょうか。それを許されているのは世界で私一人なのですから。

2011年7月 1日 (金)

「つながり」って何???

  KSさんのコメントの言葉

 「父も母も同じように「子どものために何かをする」ということをしてるのになんだって、私は父とはつながってる感じがするのに、母とはつながってる感じがしないのだろう。」

 なんか昨日パートナーと話をしていたことに直結するような気がしました。

 どういうのか、私が崩壊する間に、一番しんどかった思い(のひとつ?)は、「自分は彼女から必要とされていない(拒まれている)」ということだったと思うんです。

 ただそのことに耐えきれずに、ショックを受けた自分の気持ちを落ち着かせるために「ミニ家出」みたいなことを二度ほどしたことがありますが(全く、中学生じゃあるまいし、お恥ずかしい話です……(^ ^;)ゞ)、そのときは家に戻ると「帰ってきてくれてありがとう」とか、なみだを流しながら真剣に言われたんですね。だから混乱して。

 でもその後もやっぱり変化が起こる訳じゃなくて、相変わらずの状況がまた続く。

 だから、さらに状況が悪化する中で、どこかで割り切れない、よく分からない思いを残しながらも、「自分はもう必要とされていない」と自分自身に言い聞かせるほかなくなっていきました。

 昨日いろいろと話ながら、はじめてパートナー自身が言葉にしたことが、「自分はあなたを必要としているんだけれど、必要とするしかたが何か違うんだと思う」ということでした。

 そう言われると、具体的にどう必要とされているのか、実感としては全くまだわからないんだけど、一応説明はつくんですよね。以前抱いていた「割り切れなさ」の部分が。

 これ、少し冷静になって頭を切り換えてみると、彼女の方も自分が必要とされているという実感が持てない状況がかなり続いたみたいだし、今もその延長のように感じます。私も言葉で説明をしようとするんだけど、どうも伝わらないし、どう伝えていいか分からない。だいぶ前にみみさんが「抱きしめてあげればいい」というようなアドバイスを下さったことがあったけれど、まあ自閉系の人によくあることと思いますけれど、残念ながらそういうスキンシップ系は大体の場合(すべてではない)は苦手なタイプなのでそこでもほんとに伝わりにくいか、場合によっては逆効果。

 KSさんが書かれているように、「つながり」って何? なわけです。

 お互いに相手から求められているという実感が持てない。自分は求めていると思っていても、相手にそれは通じないし、その求めている部分で拒絶されたり無視されたりするように感じてしまうことがある。最近は前と違ってすごく無視とか拒絶されているという感覚は少なくはなってきているけれど、でもスルーされている感覚はやっぱりぬぐえません。

 昔の夫婦なら、たとえば農家なんか典型だと思うけど、夫婦で共に働くということが具体的にあるから、「心のつながり」みたいな、えらく抽象的な話が問題になる前に、生活そのものを共にすることで「つながり」が維持されていた部分があると思うんですね。あるいは「家」というものが仕事の場で、家族が仕事の仲間だから、夫婦間には多少の問題があってもその枠で維持されていたり。

 今はある意味むき出しの個人と個人が直接「心のつながり」を問題にするようになっちゃって、そうなるとアスペと定型の間では最も「苦手」な問題が前面に出てくるようになってしまうのかもしれません。

 求められているらしいと頭では理解する。でも実感としてよく分からない。そのよくわからない「つながり」だけれど、それをもし断てば、パートナーはとても辛い思いをするんだろうな、ということくらいはなんとか感じられるようになってきたでしょうか。そしてこちらもつながりを断とうという気持ちもなくなってきて、むしろもっと「つながりたい」と思いながら、でもじゃあどうしたらいいのか全然わかんない。

 ほんとに不思議と言えば不思議な世界です。

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