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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月17日 (金)

親としての罪悪感

 昨日、パートナーと久しぶりに「議論」したんですが(と言っても、パートナーは素直な感情をそのまま言葉にすることを抑圧させられる環境に育ち、最近ようやくそこから抜け始めたところで、本当に感じていることを言葉にするのに時間がかかるので、とてもゆっくりしたペースになりますが)、いくつかのことを話す中で、前回の記事でも触れた繭さんの「私は私」という姿勢について、お互いにそこから出発できるのが理想と思う、という話を私の方からしたんですね。定型の視点でアスペを「障がい」としてとらえ、迷惑と考えるか、あるいは可哀想な「ケアの対象」と考えるか、そのどちらにしても「同じ人間として対等」というところが見失われることが多い。繭さんのスタンスはそこをすっと抜けているように感じられるので。

 しばらく考えて、彼女が言ったことは「私には対等と思うことは絶対に無理だと思う」ということでした。なぜかということを聞いていったのですが、最初は自分が思ったとおりに話せば定型の人を傷つけることになる、定型の人の方が余計傷つくわけだから対等ではない、という風な答えでした。けれども、それは場合に依るし、視点を変えれば定型の論理だけでアスペの人たちが差別されたり、排除されたり、傷つけられたりする場面が多いのは間違いないし、そこはある意味「お互い様」なのではないか、という話を私は繰り返しました。

 同じような感じのことはこれまでも何度か話してきたと思うのですが、どうしてもそこのところで彼女が自分を定型と「対等」と考えるには至らず、「自分の方に問題がある」という話になっていってしまいます。昨晩は「お互い様」の話には心から賛成という風にはならないにしても、そう見てくれるのなら嬉しいけれど、という感じではありました。でもやはり最後の所で、そういう姿勢になることは自分は無理だというわけです。

 さらに話す中で最後に出てきたのは「だって、自分はあれだけ子どもたちを苦しめて、傷つけてきたわけだから」ということでした。

 これには私も「そうかあ」と言うしかありませんでした。「そこをどう考えたらいいか、ほんとに大きな問題だなあ」というのが精一杯という感じです。実際その問題をどう考えたら、「対等」にという姿勢を改めて納得しあえるのか、今の私にはすぐには答えが出そうにないからです。

 定型とアスペのカップルの関係なら、まあお互い様、というところに到達するのはなんとか道が見える感じがする。でももともと圧倒的に力関係が違う親子の間でアスペと定型の問題が生じるとき、当然のことながら親に依存せざるを得ない子どもの方がそこで苦しんだり傷ついたりするのは間違いないと思えます。そうやって苦しむ子どもの姿を見て、僕等もとても苦しかったわけですけれど、でもそれを「子どもの責任」とはもちろん思えないし、親である私たちの責任と感じるのは私もそうだし、彼女もそうであるわけです。

 「アスペと定型のズレ」の問題を共有するまでは、ある意味で私と彼女は逆に対等だったのですね。私は彼女の子どもの接し方について定型的な感覚から「問題」を感じる部分がたくさんあったけれど、彼女の方にはそういう理解はない。だからその問題について話し合おうとしても結局「すべて私が悪いというわけ?」という反論(?)になってその先に進まなくなってしまう。最後は話し合うこと自体拒絶されるようになる。

 ところが「アスペと定型のズレ」の問題が共有されると、今度はアスペ的なコミュニケーションスタイルは定型には辛い、ということを頭では彼女も理解するようになっていくので、定型の子どもに対して「自分がアスペだから辛い思いをさせてきた」という理解が成り立つようになってしまいます。

 また、それまでは母親の子どもへの関わりを変えることでなんとかしようとしてきた私も、子どもの状態がいよいよ心配していたようなことになり、自分もそのことに罪悪感を感じて鬱になってようやく、もうこれ以上母親に関わることは無理だとあきらめて、子どもとの関わりに残った力をすべて使うようになりました。そして時間はかかりながらもその私の努力が子ども自身の必死の努力と少しずつ噛み合うようになってきて、その後は大体私の予想の方向に子ども自身が道を切り開いていくのを見守り、側面から支えられるようにもなりました。

 その過程でも私からは何度か「今子どもははこういう状態で、こんな風に変化してきているから、きっとこれからはこういうふうになっていくと思う」とパートナーに私なりの状況理解の説明を試みましたけれど、そのことは理解も信用もしてもらえませんでした(視点が全く違いますので)。しかし、少なくとも現実にはだいたい私が言っていた方向に子どもが進んでいったし、子どもと私の深いコミュニケーションも作られていきましたから、その理由は彼女にはまるでぴんとこないながら、その「結果」については彼女もある程度は認めざるを得なくなっていくわけです。

 そうこうするうちに彼女は「自分は無力であり、自分の関わりは子どもに力にならない」という意味のことを何度か言うようになりました。私はそんな一方的に決めつけてはいけないと感じながらも、子どもに対する以上のエネルギーはもう残っていませんでした。「彼女と理解し合うことはもう無理だ、自分にはそんな能力もエネルギーもない。子どものことがなんとかなったら、今度は自分を立ち直らせるために、積極的に離婚も考えざるを得ない」、というのが偽らざる当時の気持ちです。

 その後、子どもが本当にしんどい状況を、自分たちの力で頑張って乗り越えていってくれて、しかもその苦労をしっかりと自分の生き方の芯に大切な土台として据えながら前を向いて歩き始めてくれました。そして以前にも書いたように、そのあとパートナーと私の関係が思いがけない大きな変化を見せてきたのですが、私との間では彼女も前向きの感じが出てきているところで、結局子どもと彼女の関係の問題が改めて大きく浮き上がってきているのだと思います。

 つまり、私と彼女の関係では、「お互いの違いを前提に、対等に関係を見直していく」という方向を生み出す力になった「アスペと定型のズレ」という理解の共有が、今度は彼女と子どもとの間では「私がすべて悪かったのだ」という親としてのぬぐえぬ罪悪感に彼女がとらわれる原因になってしまっているようなのです。もちろん私もそういう状況をどうすることもできずに子どもに大変な苦労をかけたことについて、やはりぬぐえぬ罪悪感があるのですが、けれどもその後、子どもと私の関係が劇的に変化したことで、少なくとも罪悪感しかない、と言う状況ではなくなっています。

 繰り返しになりますが、権力的に一方だけが相手を押さえつけているような場合は別として、お互い対等な関係を結ぼうとしている大人同士であるならば、「アスペと定型のズレ」の問題で苦しみ続けたとしても、その責任をどちらかに一方的に求めることはできないと思います。自分のやり方が当然であって、相手がおかしいんだ、ということで自分中心の見方しかできなかった点では「お互い様」なのですから。でも親と子どもという圧倒的な違いの中では、そこで生み出された苦しみはやはりより力の大きい大人の方により大きな責任があると私も考えざるを得ません。そう思っているから、最初の方に書いたようにパートナーが定型とアスペの関係を対等と見ることは自分にはできない、ということを子どもの問題を理由として語ったときに、私は言うべき言葉を失ってしまったわけです。

 一体この問題、どう考えたらアスペの側だけが一方的に責められるような状況を脱することができるのでしょう。少なくとも主観的な思いとしては私のパートナーは子どものために必死であったわけで、それが不幸にして定型の子どもとの間のズレによって問題を生んでしまったとしても、そのことを一方的に責める気持ちには私はなれないのです。ある意味、仕事などの「外」の世界に逃げられるところのあった私なんかより、よほど多くの時間子どもと向き合い続け、悩み続けていたのですから。

 ……と、ここまで書いてみて、ひとつだけ思いつくことがありました。それはやはり「アスペと定型のズレ」という問題を、私との間だけではなく、子どもとの間に共有しつつ、関係を作り直していくことの必要性です。いや、単に「知っている」というだけなら、もうすでに「共有」されています。問題はそのことを前提に、お互いの関係を改めて作り直すと言うことです。言ってみれば彼女が改めて子どもと自分の関係を取り戻していくこと、そこがひとつの鍵になるのではないか、そんな気がしてきました。もちろん上に書いたことも含め、私の状況理解にもまだまだいろいろと考えるべき問題があるとは思いますけれど。

 

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コメント

パンダさんの深い深いところでの苦悩がどれほどのものか、ここまできて、よくわかったような気がします。

思うこと・考えること・感じることが、とてもたくさんあって、今、まとまった文章にするのは難しいので、順不同で下に箇条書きで列挙してみます。

・奥様はアスペルガーの側で私は定型の側、という違いはあるけれども、「子どもたちにひどいことをしてしまった」という思いは同じでなのではないか。〔仕事や病気のためにとは言え〕子どもたちにはとても寂しい思いをさせた・長期にわたってひどく傷つけることになり、見捨てられるのではないかという不安さえ持たせてしまった等々のために、ものすごく大きな罪悪感を持った点では、奥様も私も同じ。

・体調の悪い時期には、私は、少なくとも体力的には元気で&生活も私抜きで回っている夫と子どもたちの様子を見て、自分の存在意義を感じられなくなっていた。奥様は、家庭におけるご自身の存在を、今どのように考えていらっしゃるのだろう?

・奥様とお父様の関係が詳しくはわからないけれども、女性としては、パンダさんの中にお父様の姿を見ていらっしゃるであろう奥様のお気持ちがよくわかる。

・奥様には、ここで書かれているようなことを相談できる同性の友人がいらしゃるのだろうか。男性と話すのと、女性どうしで話すのでは、また違った側面がある。

・奥様が自分に自信を持っていらっしゃること・奥様がお好きなことは、どんなことだろう?ご自身を肯定できるのはどんなことにおいてだろう?

・奥様のお子さんに対する愛情は、その表し方はともかく、お子さんにはどう伝わっていたのだろう?

・お子さんの奥様に対するお気持ちや感情は、どのようなものなのだろう?

・お子さんの立ち直りにパンダさんが一生懸命に(全面的に?)関わられたことは想像にかたくなく、どれほどの思いでいらししたか、よくわかる。一方で、奥様がお子さんの立ち直りに際してどのようにかかわられたのかが、これまでのところでは私にはわからない。

・奥様は、子どもさんに必要とされている実感を持たれているのだろうか?

・子どもさんは、奥様に対して、何を求めていらっしゃるのだろう?

・お子さんが、立ち直りを必要とするような状態になられたのは、奥様のお子さんに対する接し方の問題のためだけなのか、それとも、お子さんへの接し方を巡ってのパンダさんと奥様の関係の問題のためなのか?

(うちの場合は、夫の接し方・私の接し方・夫婦のあり方の中に、良さも悪さもあった。私自身としては、私の体調不良と夫婦間の争いが一番よくなかった、と思っている。夫の方でどう思っているかは、今の時点でははっきりわからない。)


>……と、ここまで書いてみて、ひとつだけ思いつくことがありました。それはやはり「アスペと定型のズレ」という問題を、私との間だけではなく、子どもとの間に共有しつつ、関係を作り直していくことの必要性です~お互いの関係を改めて作り直すと言うことです。言ってみれば彼女が改めて子どもと自分の関係を取り戻していくこと、そこがひとつの鍵になるのではないか、そんな気がしてきました。

上に書いたこととも関連しますが、私たちの場合は、夫と子供たちとの関係は、私抜きでも回っている(と、当時は感じていました)ほどのもので、むしろ、新たに子どもたちとの関係づくりをしてきたのは、私の方だと思っています。

このあたりは、同じ女性(母親)だからなのか、私が仕事や病気で不在気味だったから思うことなのかわかりませんが。それこそ、私なりには子どもたちのことを思いながら一生懸命だったのですが、それでも、子どもたちには可哀そうなことをしてしまった、という思いがあるからでしょうか。

罪悪感から落ち込んでいるままの私では、それがまた、追い討ちをかけるように子どもたちを傷つけることになるのだと4年前に自分で悟ったのですが、このことは、昨年娘と話す中でも、娘本人の口から聞きました。

パンダさんのことはもちろん、奥様のことも、何もできませんが、応援したい気持ちでいっぱいです。他人事ではありませんから。エンドレスでいろんなことを思いますが、今日はこのへんで。

外出前に、昨日の続きです。

・奥様&パンダさんは、「アスペルガーの親だからこそ子どもに対してできたこと」というものに気が付いていらっしゃるだろうか? 

(少なくとも我が家のように、アスペルガーでなくとも、親が子どもに悪影響を及ぼす可能性は定型も十分すぎるほど持っているし、その反対に、アスペルガーも定型も、それぞれに良い影響を与えているところがたくさんある。)

・奥様が子どもさんに対して「こんなことをした」「これができた」「これはよかった」という面が、必ずあると思うのだが、どうなんだろう?

・子どもさん目線でしかわからない、「お母さんとの楽しかったひととき」「お母さんとの良い思い出」、「お母さんにしてもらって嬉しかったこと」というのを、聞いてみたい。逆に、「お母さん/お父さんのこんなところが嫌だった」というもの。

(これ、うちの場合、今になって聞いてみると、意外なところで出てきます。よくも悪くも、「そんなふうにお父さんのこと/お母さんのこと思ってたのね・・・)」みたいなことが。)

状況が詳しくわからなままなので、自分の体験を踏まえて思いつくままに書いています。何か、お気に障るようなところもあるかしれませんが、その時はご容赦ください。

そろそろ出かけます。奥様ご本人とも、いろいろお話ししてみたい気分です。

記事を読んでいたたまれない気持ちになりました。昨晩、考えがまとまらないままコメントを書いてたのですが、結局何が言いたいか自分でもわからなくなって消しました。そしたら、カレンさんのコメントがあって、多分私が言いたかっただろうことが含まれていました。

子供さんが辛い思いをしたこと、パンダさんが並々ならぬ苦労をしたことを考えると軽々しいことは言えないけど、パンダさんと奥さんの子供だからこそ得たものもあるだろうと思います。

私も子供を預けっぱなしで見捨てられ不安を与えているんじゃないかと心配です。離婚という道を選ぼうとしていますが、それが必ず正しい道とも言えないし、それで全てが解決するわけじゃないけど、そのときその人のできるギリギリでやれることをやるしかないと思います。奥さんは一所懸命やったんですよね。

一所懸命やったから文句ないでしょ?と開き直るのではなく、力が及ばなかったことを認めて、子供の淋しさを認めてあげれば、子供は救われるように思います。

また自分のことで恐縮ですが、私は結婚を続けられなかった自分の弱さ、それ以前に自分に合う人を選べなかった不覚を認めて、子供に迷惑かけたことも忘れないようにしたいと思ってます。どう上手く子供に伝えるかは課題ですが。

それと、私は父親がDVだったこと、結婚に失敗したことは苦労ではあったし、今もしんどいけど、それがなければここの皆さんに出会うこともなかったわけです。もし、自分が何の問題もなく生きていて、視野が狭く、弱ってる人に自己責任とか自業自得などの言葉を投げつける人になってたら…と考えるとゾッとします。(もちろん自分に問題ない人で人に優しい人は沢山います。)

奥さんが子供さんに責任を感じ苦しんでいる、そのこと自体が、逆説的ですが、子供さんへの愛情を表しています。そのことには自信を持っていいと思います。

子育て経験の浅い者の意見ですが、奥さんに少しでも気持ちを軽くしてもらいたいです。

パンダさん

私は親の立場を経験しておらず、考えると、どうしても自分の母と重ねて考えてしまいます。
なので、今も親を想う者として、思ったことを書きます。
定型の子供さんに、どこまで重なるのか分かりませんが、アスペルガー(多分)の親を持ったひとりの子供の気持ちです。


子供さんを傷付けてしまったこと、これをパートナーさんが親として辛く思い、ご自分を責めるお気持ちになる…。一生懸命に子育てをして、それでも、だから…子供さんが苦しまれたことは、とても悲しく辛いことです。

でも、それは罪ではないですし、悪でもありません。
悲しむべき事実なのだと思います。

パートナーさんが精一杯に子供さんを愛されたように、子供さんもパートナーさんを精一杯に愛しています。「だから」傷付いて、苦しんだのです。
親が自分を責め続ける限り、子供の親への愛情が報われることはありません。

愛に応える方法が、自己否定であるはずがありません。後悔という過去の否定でも、開き直りでもありません。
事実を「事実」として受け止め、痛みを、罪でもなく、悪でもなく、「痛み」として認めること。
相手の気持ちも、自分の気持ちも、どちらも存在してよいものとすること。なによりも、愛すること…。

子供の不幸は、親の不幸でしょう。
同じく、親の不幸は、子供の不幸です。

一生懸命愛して、その結果、思いも寄らぬ形で傷付けてしまった。
そのことに、子供も親も、とても傷付いたし、今も傷付いている。
今となっては、ただ、それだけなのではないでしょうか。

大切なのは、今、どうしたら、子供さんがパートナーさんからの愛と安心を感じることが出来るのかを知り、(遠くから見守ることも含めて)行うことだと思います。
必要なことは、ひとり立ちされている年齢なら、子供さんが知っているはずです。
同じ親の立場で見守って来られたパンダさんもいます。

多分、「お母さんに、罪悪感を持って欲しい」なんてこと、(本心からは)望んでいないと思います。
子供は親が大好きで、親に笑って、認めて欲しいから、全身で親を受け止めようとして、頑張って、頑張って、時には酷く傷付くのです。
その頑張ったご自分の子を誇りに思い、労いと感謝と微笑みで、正面から受け止め返してください。

そして、子供さんの傷と、ご自分の傷を受け容れ、認めてあげてください。
その傷は、なかったことにするものでも、あることを嘆くものでもありません。
それだけの傷を受ける程に、親を、子供を、愛して来た証です。

そうしたら、親であるご自分を赦し、愛してください。きっと、子供さんもそれを望まれるのではないかと思います。
親の責任は、子供を幸せにして、その子供によって幸せになることだと、私は思います。
今からでも、十分間に合います。

思いっ切り私情が入りました。
親子両方が報われることを祈ります。

詳しい事がわからないので、私も感じたままに書いてみますが、
カレンさんが前日、2つ目に書いていた事を、私も感じました。

存在意義…

奥様だけの立場で考えてみれば…ですが、
否定され続けた形であり、その間に子供は成長するし、それゆえに、否定により、あやふやなまま、私、子の親、母という「立場」が、奪われた、又は失った…という形になってしまっているのかなぁ、と思いました。

パンダさんが、不快に感じたら、申し訳ありません。
でも、パンダさんの気持ちもわかります。パンダさんは、奥様と、繋がらないコミュニケーションを、何とか理解し合おうと努力しただろうし、子育てにも必死、そして、壊れかけた自分の身体を守る事も大事…
よくある話だと思いますが、アスペルガーなど、これらの問題に関して、何も解らなかった私たちは、家庭を良くしたいが為に、否定という形をとってきてしまった…。その歪みの深さは大きいと思います。

今、うちは、私が理解してみているだけで、私の主人や家族は、あまり何も変わっていませんが、私は、最低でも主人や家族を否定してきた年数分は、相手の考えはなかなか変わらないだろう…それでいいし、当然と思っています。
今、主人が変わってきた事は、聞けば私に考えなどを話して聞かせてくれるようになってきた、という事です。当たり前ですよね…前は、私が否定しまくりで、聞き入れなかったので。

本当に理解しあって、それからゆっくりスタート、始まるのではないでしょうか…
それに、対等に思って欲しい…というのは、こちらが言葉で強制するものではなく、そう思って良いんだと言える権利もなく、相手が自然に感じれるようになるのが理想的ですよね。
結局、「対等に思っていいんだよ…」という事自体、相手には、押し付け、差別、又は更なる負担なのかも知れません。(以前どなたかも同じような事を書いていましたよね)
時間はかかるかもしれませんが、奥様が、自然にそう思えるようになるように、パンダさんは色々行動していけばいいのかな…と思いました。
人の意向なんて、簡単にはかわりません。それは、否定をしない事から始まるんだと思います。(パンダ先生は、そこはもう越えてますけどね!)
否定をせず、相手を認める、自分の気持ちを伝える。
やる事はこれだけでいいんだと思います。(認めるという事は、無理やりあわせるではなく、否定せず受け入れる)、
そして、そんな理解し合う2人の親の背中を見て、子供もまた、学んだり、何か考えたり、気付いたり、変わったり、成長していくんだと思います。

「自分はそう(対等)あるべきだろうなぁ、と思ったよ」と伝え、ASに意識しない対等な態度や行動を普通にとるだけでで良いと私は思いました。それが一番の優しさだ、と、最近になって私も気付きました。

パンダさんの努力や気持ちもよくわかります。パンダさんが書いた事、私達には多い話だと思います。

全て自分の空想をもとに書いたので、最初から筋違いだったら…ごめんなさい!

理解する…まできたし、一緒に、ゆっくり、頑張っていきましょ!

カレンさん チロさん 繭さん みみさん

 いろいろありがとうございます。
 改めて自分がいろいろなことが分かっていないと言うことを分かることができました。
 記事を書きながら、意図的な「嘘」ではないけれど、結局自分の見方で、
 自分に都合のいい「物語」になっている感じがしていました。
 そう感じはしてもなかなかそこを抜け出して書くことってできないんですよね。
 というか、いつまでたってもそこは不可能なのだと思います。
 だから、そういう自分自身の限界も含めて、そのまま書くしかないかなと
 そんなことを思っていました。

 パートナーの名誉のためにも少し言葉を足しておきますと、
 子どもたちは彼女の必死の思いを身に染みて感じています。
 なぜなのかの説明は省きますが、我が家では掃除機がものすごく短命でした。
 直接の原因は使いすぎでモーターが持たなかったからです。
 そしてそれは苦しむ子どもに対する彼女の必死の思いの結果でした。
 でも結果として思いがズレる部分に苦しめられることがあったとしても、
 その必死の思いは子どもに伝わっていると思います。

 また当然私と子どもの葛藤もいろいろありましたし、
 そこで苦しんだ部分もどれほど大きいかわかりません。
 それは自立を巡る定型同士の親子の葛藤の部分もあるし、
 私とパートナーとの関係が影響する部分もたくさんあると思います。
 そしてその関係の原因にはアスペと定型のズレの問題がとても大きかった。
 さらに言えば私と私の親の間で作られたいろいろな問題が
 私の子育てに及ぼした大きな影響も絡んできています。

 そういう大変な状況をなんとか生き延びて、
 その経験から目をそらさず、むしろそこに足場をしっかり置いて
 そこから自分の道を自分の足で歩み始めている子どもたちには
 私は今は感謝と人としての尊敬と、そしてそういう子どもが
 自分の子どもであってくれたことに誇りにも感じています。
 そのことで自分たちが子どもたちを苦しめたという事実が消えることはないし、
 むしろそのことの故に、ということなので、
 もちろん自分を誇ることはできないわけですけれど。

 パートナーとは、いつかそういう気持ちが共有できたら
 どんなにいいだろうと、今はそういうことを願っています。
 もちろん、その願い自体が定型でもある私の一方的な
 勝手な思いにすぎないという事かも知れないわけですけれども。 

 皆さんのコメントへの適切な応答になっていないと思いますが、
 とりあえずの思いとして、頭に浮かんだことをつらつらと書いてみました。

私は、救急車が来たこともあるくらいのDV家庭に育ちましたが、父も母も「自分が子どもを苦しめた」という言葉は言ってくれていません。その一言があれば、私はどれだけ救われたかと思います。その一言の重みは子どもにとっては大きいです。

お休み宣言しておきながら、、、この下り3段落ほど、まさに「我家」を見るようでたまらずコメ。

> また、それまでは母親の子どもへの関わりを変えることでなんとかしようとしてきた私も、子どもの状態がいよいよ心配していたようなことになり、自分もそのことに罪悪感を感じて鬱になってようやく、もうこれ以上母親に関わることは無理だとあきらめて、子どもとの関わりに残った力をすべて使うようになりました。そして時間はかかりながらもその私の努力が子ども自身の必死の努力と少しずつ噛み合うようになってきて、、、

jo: うちはこのへんかな。通院も通所療育もほぼ私一人でしました。私の心理的、体力的、経済的資源の続く限り、という感じで全力でした。子供のオカシサに気付いてから、数年前頃かな。

>その後は大体私の予想の方向に子ども自身が道を切り開いていくのを見守り、側面から支えられるようにもなりました。

jo: こうなれるのでしょうかねえ?

> その過程でも私からは何度か「今子どもははこういう状態で、こんな風に変化してきているから、きっとこれからはこういうふうになっていくと思う」とパートナーに私なりの状況理解の説明を試みましたけれど、そのことは理解も信用もしてもらえませんでした(視点が全く違いますので)。しかし、少なくとも現実にはだいたい私が言っていた方向に子どもが進んでいったし、子どもと私の深いコミュニケーションも作られていきましたから、その理由は彼女にはまるでぴんとこないながら、その「結果」については彼女もある程度は認めざるを得なくなっていくわけです。

jo:そうですが、自分の言動との関連性は全く繫がらないようです。単発の経験に依拠して、、、さっき食べさせたら喜んだ→いつでもそうする→満腹おかまいなし→なんで喜ばないんだ!→しつこく無理強いする。

何事につけこんな感じのことの繰り返しで、それが脅迫行為の連鎖になってる。当時私は、拷問を見せつけられる拷問にあってるように感じていましたね。

しかも世間の母性神話でしょ。♂は無力。一時、子が肥満した事実があり、因果は不明ですが、自立も歩行もかなり遅かった。言葉の遅れが目立ちはじめてようやく保健所のスクリーニングにかかりはじめ、やっと私が積極的に介入できました。

> そうこうするうちに彼女は「自分は無力であり、自分の関わりは子どもに力にならない」という意味のことを何度か言うようになりました。私はそんな一方的に決めつけてはいけないと感じながらも、子どもに対する以上のエネルギーはもう残っていませんでした。

jo: うちでは自罰と他罰のめまぐるしい交替がおきて、私も子も激しく混乱し、まさしくダブルバインドの典型例です。他罰状態の時は攻撃モード、それこそ戦争です。自罰状態のときは、「私がいなくなるか死ねばいい」みたいなことで、それ自体が子に悪影響だと思った。一瞬黙るとか、距離を置くとか、別居とか、離婚とか、フェードアウトとかその間にいろんな選択肢があるのに一足とびにそこへ行くから、しまいに(もう、そうすれば、、、)とまで思ってもそれは表現できないし、ぐっちゃぐちゃになりました。子育てって一人でやるのは無理があるんです、結局。だからどんな病的な形であれ一緒にいたら共依存的になりがち。

>「彼女と理解し合うことはもう無理だ、自分にはそんな能力もエネルギーもない。子どものことがなんとかなったら、今度は自分を立ち直らせるために、積極的に離婚も考えざるを得ない」、というのが偽らざる当時の気持ちです。

jo: はい、その通り。たぶんこの1,2年、そのあたりにいるのだと思います。それでも、彼女にまったく悪意は感じられないし、むしろなんとかしたい必死さを受信してしまう。同時にそのピントはずれに苛立つ。そのことがまた私にはダブルバインドになるのですけれども。あとはその時期ですが、子が思春期を通過するまでとか、自立するまでとか、alona さんのように精神を二重構造にして耐える術を見つけるしかない。だって仮にこの先理解しあえたとしても、ここまでで犠牲にしてきた諸々の資源の大きさによっては、お互い介護の境地へは無理かも、ですからね。それは定型に近い方がよりそうなりそう。ものごと間の関連性のつけ方がぜんぜんちがいますから。非定型の方が「あれはあれ、これはこれ」みたいにできるのかも。と思ったら10年前の些事を怨んでいたりするんで、そのへんの食い違いが予測不能なところが困難なところなんですけどね。

で、最悪のときに限ってろくでもないことが起きるのですね。

KSさん、カレンさん、私も、無表情、無反応になった乳幼児を抱いて必死に解凍した人間です。♂ですけど。年に数回、各一週間ほどはどうしても私が一緒にいてやれない状況がありました。そのたびに一緒にいてやれなかったこと深く悔いていました。

「プライマリーケアラー」(母に限らず)というものが身近に存在することが不可欠なんだと直感しました。「…がいてくれたから、救われた」ということになると思うのは高慢でしょうか。

落ち着いてから書こうと思うことがあるのですけど、そのことはまたいづれ。

追伸、家電一般短命ですが、特に掃除機は、うちもです。脅迫性が掃除に向かうのはよくある現象のようです。それほどまでに脅迫的に掃除機をかけるのに、四角い部屋を丸くかけるから、ちっともキレイにはならず、それを見つけては脅迫的に掃除機を回す。子は耳塞ぎです。食事中に掃除機を回されるのは、私的には耐え難い、、、かったですが、フツウどうなんでしょう?そのへんのフツウ感覚がもう完全に犯されてわからなくなってます。

(私や)子が耐え難いと訴えてる「汚さ」は掃除機で解決するべき「汚さ」とは別のものなんですが、そのへんがどうしても伝わらないですね。

それに掃除機のゴミ捨てはいつもしないといけないことじゃないから、習慣化できません。集塵パック交換時期を喚起するため、ありとあらゆる方策を試みましたが、定着しませんでした。ゴミ満タン状態で掃除機を酷使するからでしょう。うちの場合はそうでしたが、ちがいますか?

この件で共感できる人がいるなんて思ってもみませんでしたがね。

〉joさん

お休みの所、またまたしつこく、すみません。お返事はいらないので、時間のある時に目を通して頂ければ…と思います。

わたしも、joさんの気持ちが痛いくらいわかります。いつも、いつも、わかる…ですみませんが、
わたしの母とjoさんの奥様は重なります。
私も最近まで、母に対して、joさんと同じ悩みを抱えていました。とても、言葉では説明できない程、辛いものでした。
どんなのがASというのか、まだ私もよくわかりませんが、私の主人と、私の母は、全く違うタイプです。(辿れば同じ所もあります、例えば、客観視、記憶力などの問題ですが)
今は、何が(誰、どれ)AS?という事を言いたいのではないのですが、
私にとって、私の母は、逃げれない制圧がある分、主人より、かなり手強いです。

私と母の関係、口論内容などを、何度か主人は第三者的に横で見ていて、私に「お前(私)が悪い」ような事を毎回言ってきました。それが、また、私のイライラや怒りを買います。私は、自分は何も悪い事をしていない、逆に被害者、どうして誰も私の辛さや気持ちをわかってくれないのか、パートナーで有るはずの主人からも、私は
・お前がいけない、・同情してほしいだけでしょ?・何かにこじつけて自分を正当化している・何が言いたいの?・どうしたいの?・相手にどうさせたいの?・どうなれば気が済むの?・わがままなんだよ・そういうとこACなんじゃない?だったらお前が病院行くべきだ、・とにかくお前がいけない
という事しか毎回言われませんでした。
そこで、更に更に、カチンとくるし、訳がわからず、じゃあ、どうすれば私は良しとして普通に認められるのか、全くわからず、とうとう動けなくなってしまう訳ですが…
何故私が悪いのか…どういう理由で私が悪いに行き着くのか、私は全く理解できませんでした。

いつもなら、そんな冷たい言葉を投げかけられて、主人にもカチンときて、自暴自棄になり、信用を無くしている所ですが、それを、最近、主人に突っかからず、冷静に聞いてみた訳です。
「私も本当は仲良くやりたいから、どうして、私が悪いのか、あなたの考えをそのまま聞かせて欲しい」と頼みました。

主人の答えは…
・まず、相手はなかなか変わらないよ。(変わる事を求めるな)なかなか変わらない事実は、お前が一番よく知ってるでしょ。
・次に、お前はどうしたいの?
・仲良くやりたいなら、相手は変わらないという事実まで受け入れなきゃ…それは、現実でしょ…お前の言っている事は、相手は○だ、私は○だ、これが普通だ、だから○だ…と、理想を語って騒いでいるだけだ。それは、子供のやる事だ。
・相手は、いい所も悪いも、全部含めてそのような人なの。その事実をまず受け入れなさい。受け入れた後に、対処するべきでしょ。
などなどでした。納得できるような、できないような…私はキツネに騙されているような感覚でした。でも、間違ってはいない…とは思いましたが。(頭に気持ちが追い着いていかないんです)
で、対処法は?あなたが私なら?と聞いたら、
・まず、現実を受け入れて、自分はどうしても、嫌だと思うなら、事情をそのまま話して離れる事だ。と言いました。
・一緒にいたいなら、気に入らない事も含めて、受け入れなくちゃ、ひたすらガマンだね。ですって…。
でも、私はある程度流せても、固執した制圧が飛んできて、居場所すらなくなる、という事を伝えました。
・そしたら、聞かなきゃいいじゃん、いちいち聞いてるからダメなんだよ…ですって!
・自分の部屋に逃げる、とか、外に散歩に行くとか、最悪、近くにいても、無視…
全然無視はダメだよ、「自分の考えをちゃんと伝えて、それでもなら、あとは無視していいんじゃない?」
・とにかく、くだらない事にいちいち固執しない
・自分のやりたい事や、やるべき事をやるなどなどでした。
それでも、まだしっくり来ず、
「じゃあ、あなたの目から見て、私のいけない事は、相手にこじつけて、振り回されて自分を見失ってるって所?」と聞いたら、「そうだよ」と力を込めて返ってきました。調子に乗り、
「じゃあ、私が毅然とした態度で、相手を責めず、否定してこじつけず、自分を見失わず、やるべき事をやっていれば、私はあなたから見て同情してもらえる訳?」と聞きました。
「もちろんでしょ、そしたら、そこで始めて、相手の一方的な制圧が悪い、と言えるし、そうなるんだから…」
結局、私のやってる事は、相手とさほど変わらない、だから言う権利もない、と言うような話でした。
・どちらが悪いではなく、どちらかが大人にならないと、何も変わっていかないんだよ。
「そっか…そうだね、私も子供だったんだね。やっと、わかってきたよ…」と言ったら、
一番最後に、「そりゃね、見ていてお前の気持ちはよくわかるよ、わかるけどね、大人なんだから、そういう事なんだよ」と、初めて?!共感の言葉ももらい私は完全に納得しました。
私は、主人はASなんだろうか?ASってなんなんだろう?と不思議な感覚になったのでした。

joさんの問題は、小さなお子さんもいるし、とても重い事実だと思います。
主人と私の会話が、今後のjoさんのご家庭にとって、何かしらヒントになればな…と思い、書かせて頂きました。
ですから、私は離婚に対しても、反対派ではありますが、決して否定的ではありません。
ちなみに、私は母方の祖母を少し知っていますが、私の母は、大変なACだと思っています。毎回毎回、祖母は、長男夫婦や祖父の事で「辛い、近くにいてくれ、死にたい、生きていたくない、毎日一人泣いている」と結婚で遠くに行った母に手紙を送り続け、母は何とか助けてあげようと、必死でした。そのような大量の手紙の束も、実家の引き出しに大切にしまってあります。
ですから、私は母を恨んでもいません。
長くなりましたが、最後に、主人も私に言っていたように、joさんの辛いお気持ちは、よくわかるつもりの上、書かせて頂きました。
負の連鎖や渦から抜け、安心して落ち着いた暮らしが出来るように、願っています〜

joさん、joさんのお話、最後まで読めなかったので、残念でした。
全部読んでないのに、書くのは失礼かと思いましたが、

「完璧主義」はご存知ですか?
ウィキか何かで検索してみてください!
完璧主義は、実はぜんぜん完璧じゃないんです。
細部にこだわり、要点がぬけている事を、世の中では、完璧主義という言葉で言っています。
日本語って、へんですね!

私にも、当てはまる言葉です!

完璧主義ではなく、潔癖症だったかもしれません。
どっちにしろ、同じ事ですが

KSさん

 どうもありがとうございます。「親から受けた傷を親がどう子どもに語るか」ということは、私の両親と私たち子どもたちの間でも長くシビアな問題でしたし、今も引きずっています。このことに限らず「加害者と被害者」の関係修復の問題って、ほんとうに難しいとずっと想い続けてきました。今は「加害者」の立場で問題を考えざるを得ないわけですが。KSさんが書いて下さったように、子どもたちに何か伝わることがあればうれしいです。

みみさん

 対等という「理想」を語ること自体、その語り方によっては押しつけになると言う問題については、私もずっと気にしていることのひとつです。昨日もそこが気になってパートナーに聞いてみました。少なくとも今までの所はそれは私の考え方、私の願いとして理解してくれているようです。この記事も読んでくれましたけれど、特に心外とか、傷つくとか、そういうことはなかったということで、ちょっとほっとしました。

joさん

 改めてjoさんの家庭で抱えている問題と、私の家庭で抱えている問題がとてもよく似た形になっていることに驚きます。子どもを抱えたアスペの女性と定型の男性の間のズレから生み出される問題には、なにか「法則」とでも言えるようなものがあるのかもしれませんね。その点で私の家庭の経験がjoさんに何かの手がかりを提供できるのだとすれば、このように記事を書くことの意義も感じられます。
 それと、そのズレの問題に具体的に対処するために大事になるような気がするもうひとつのことは、「形」というか「質」というか、それはとても共通している部分がある一方で、joさんが書かれている個々の具体的な経験を見ていると、そのズレの「大きさ」というか「量」というか、その部分では違いがあり、私の経験がそのまますぐにjoさんの抱えている問題に応用できないところもあるような気がしました。
 たとえば掃除機の問題、ある種「強迫的に」というところはすごく似ているのですけれど、私のパートナーの場合、四角い部屋を丸く、とか、集塵パックの交換が難しいとか、そういう問題は経験しませんでした。(それはむしろ私の方がずぼらで失敗が多い (^ ^;)ゞ ) そのあたり、家事が機能しなくなる、ということはなくて、むしろものすごく律儀に完璧にやりすぎてお互いにしんどさが発生する、という感じでした。
 多分そういうことも背景に関係してくるのだと思いますが、子どもの問題がいよいよ深刻なものとして現れてしまう時期も、joさんの家庭ではうちより随分早く、幼児期ですよね。うちの場合はそれは思春期に入るときでした。もちろん幼児期からいじめの問題など、気になることはいくつかあり、私もずっと心配しながら来てはいたのですが、joさんの場合はもう一段大変な苦労をされているように感じるんです。
 限られた情報からの印象に過ぎないのですが、そのあたりの違いの部分が、もしかすると「アスペと定型のズレ」という問題を共有しやすいかどうか、というところにも影響しているのかも知れないと感じました。
 もしその印象があっている部分があるとすれば、「ズレ」の理解の共有をどう実現するかとか、あるいはそこ抜きでどういう姿勢で臨んだらいいのかと言うことについて、私が経験してきた範囲を超えた、もう一段先に進んだ工夫が必要になっているのかもしれないという気がします。それが何であるのかはまだよく分からないですけれど。

みなさん

 私のパートナーもこのブログをときどき読んでくれているのですが、この記事に皆さんが寄せて下さった彼女への数多くの励ましの言葉などについて、驚きと感謝の気持ちを語っていました。改めてありがとうございました。
 

joさん

>「プライマリーケアラー」(母に限らず)というものが身近に存在することが不可欠なんだと直感しました。「…がいてくれたから、救われた」ということになると思うのは高慢でしょうか。

高慢ではないと思いますよ(^^)

我が家も、子どもだちの健康や命に関わるようなことが日々いろいろあって、でも、そのことに対する夫と私の認識が全く違っていて、そのたびに例の不毛の大喧嘩になり、

そうこうするうちに、自分の体調不良やそれに伴う失職という事態にもなり、

でも、数か月単位の長期入院中の一時退院等で家に戻るたびに、私不在による子どもたちの凍結・落ち込み・キレやすさ・学業不振等々を目の当たりにし、

「寝込んでいる場合ではない。元気になろう!」と決意して、退院→"ジャジャーン♪"というBGMが私の心の中で流れているかのような感じで家に戻り、

その後は、夫が何をどう言おうと、「ここは譲れない」と、とにかく子どもたちのケアをしました。かまってかまって、かまいまくって、

息子に対しても「ここだけは、首根っこをひっつかまえてでも、お母さんはかまうから。とにかく、ここはお母さんを信じて」と、失われた数年間を埋める気持ちで、必死で本気でかまいまくりました。

そのかまい方が、また、夫ともめる原因にもなったりもしましたが、とにかくそこだけは絶対に譲らず、

パンダさんも書かれていたことと同じようなことなのだろうと思いますが、「結果的に」息子はとてもいい方向に進んでくれていて、夫もその今も現在進行形である「結果」にはとても喜んでいます。(夫曰く「こういう関わり方もありだと学んだ」)

そして、当の本人である息子も、「あの時期から、あれだけお母さんが関わってくれなかったら、今の自分はなかった」と、高校生になって以降、たびたび、とても素直に言ってくれています。

夫と私の、子どもたちに与えた影響はそれぞれに様々で、「あの時のああいう私がいたから、子どもたちを苦しめた」ということも事実ではありますが、「私がいたから、子どもたちの今がある」というのも事実です。(少なくとも、うちの場合は、夫についても、同じことが言えるのですが。)

「joさんがいらっしゃるから、子どもさんは救われている」・・・まぎれもない事実だと思いますよ。

娘のことがわかるまで、joさんのお気持ちは、どこか私にはあまりピンときていなかったところがあったのでしょう。今でもすべてわかるわけではありませんが、少なくとも、以前よりはるかに、joさんの置かれている状況とお気持ちはわかるようになっているのではないかと思います。

何か今また大変な状況の中にいらっしゃるのかもしれませんが、子どもさんと一緒にアイスクリームを食べたり、雨に打たれる紫陽花を眺めたり(雨続きで、夕焼けは見られないでしょうけど)、というひとときを過ごされているといいなぁ、などと、ネットのこちらで思っています。

私、「ハハはアスペルガー?」で、心が満身創痍な子ども時代を送りました。今でも会うたびに新しい傷を負います。

父が暴力に絡めとられていったことを私は赦していないけれど、でも、それでも、父のフォローに救われたことは何度もあります。

たとえば、小学生の頃、家庭科で習った料理を家で作ってみた時、母は「塩辛すぎだね」と一言。私はなんだか悲しくなって、涙がぽろぽろこぼれました。母は何も言わず、意味不明でやっかいなものを見るような目つきで私を見ているだけ。

父が「これくらい塩辛い方がご飯が進むよ。お父さんは美味しいよ」と言ってもりもり食べてくれました。

たしかに、もしかしたら私は塩加減を間違ってしまったのかもしれない。母にしてみれば、「事実を言って何が悪いんだか」と思ったのかもしれない。「KSが料理の腕をあげるためには本当のことを言わなければいけない」と思ったのかもしれない。

でも、子どもの私は、「母の言い方」「涙を流しているわが子へのフォローがなかったこと」「母のやっかいものを見るような目つき」にひどく傷つきました。

パンダさんやjoさんが身体を張って子どもさんを守ってきたこと、守っていること、そのことは子どもさんたちにとって、すごく大きな救いになっていると思います。

私の場合は、中学生くらいの頃から、私が父を守る方にまわっちゃったんです。よく父の話につきあいました。徹夜で話を聞いたこともあります。本当は私が守ってもらってよい年齢だったのにね。

だから、私はちゃんとした手順を踏んで、ちゃんとした大人になることが出来なかった。

私の父がパンダさんやjoさんみたいな人だったら良かったのにな、と思います。そしたら、私は、もっとAC度の低い、健全な大人に育っていただろうな、と思います。

>繭さん、Anさん、Rosamondeさん
こんな母と少しでもお互いに(>とりあえずは私自身が)傷つけ合わずにコミュニケートする「技」ってあります? 母の側の「ロジック」ってどういうことなんだろ?

母はお3人とはかなり違うタイプだと思うけど、もし、何か助言があったら、よろしくお願いいたします。

KSさん

「私の場合は、中学生くらいの頃から、私が父を守る方にまわっちゃったんです。よく父の話につきあいました。徹夜で話を聞いたこともあります。本当は私が守ってもらってよい年齢だったのにね。」

 これ、ほんとに辛かったでしょうね。お父さんにとってはどれほど救われることだったかとも思いますが、でも気持ちを受け止めて欲しい側が受け止めてあげる側に回らざるを得なかったというのは、ほんとに辛いことだと思います。いつかお父さんと「お互いに語り合う」という形になれるのでしょうか。もしそうなれればすごく救われるところもあるように思えます。私と娘の間にはそういう関係ができたことで、ほんとに救われました。娘もそういいます。

KSさん

ぽろぽろと涙を流す女の子が目に浮かんで、切なくなりました。

料理のお話で、感想が味の評価だけになってしまうところ、私も両親から似たような反応をされていますし、私自身もそうしてしまうことがあります。
言ってしまった後で、「あっ!」と思って、慌ててフォローを試みて、さらに墓穴を掘ることも…。
私は家庭内で大人からのフォローがないまま育ったので、それを普通のこととしたまま大人になり、沢山の人を傷付けてしまったと思います。

ただ反対に、自分の料理などが「塩気が足りない」などと言われたり、夫が自分の分に調味料を足したりしても、その行為自体は気になりません。自分も同じく思った時は次に気をつけますし、自分はそうは思わない場合は次から「あなたには塩が足りないかもだから、お好みで足してね」と塩を渡して、自分はうまうまと食べます(逆の場合は夫の味にして、自分が塩を足します)。
丁度先日、夫とその話になって、夫から「定型の人、特に女性は、相手の料理への反応に、もっと色々なものを見るんじゃないかな」と聞いて、なるほど…と思っていました。

私は自分と両親以外に、アスペルガーらしき人を良く知らないので、これがアスペルガー全般に通じるものか分かりませんが、参考程度に読んでいただければと思います。

可能性として、KSさんのお母様は「(ご自分も含めて)人は事実には傷付かない」と考えていらっしゃるかもしれません。これ、そもそも物事全てにも、自分自身にも全適応できるような考えではないのですが、私もそのように考える傾向があります。
よく本などの例え話に、アスペルガーの人が他人の容姿など、気にしていることを分からずに口にしてしまう例が出てきますが、それと同じようなものです。

空を見て「青いね」と言っても、そこには「空が青く見えた」という事実だけがあって、気持ちは込められていません。そこでそれを聞いた相手の人が泣き出してしまったら、困惑して、どうしたらよいのか分からなくなります。
常に状況や気持ちを感じ取れる定型の方には、こじつけに聞こえるかもしれませんが、この心境と同じような可能性があると思います。

ただ、そこから先どのような対応をするのかは、本当に人それぞれだと思いますし、個人的に、「事実なんだから、相手が傷付くのは相手の問題」という考え方を、当時の自分へも含めて、今の私は好きにはなれません。

コミュニケートする「技」…私自身も事実(両親互いの中傷や告げ口、子供の駄目なところなど)を平気な・むしろ得意気な様子で言い続ける両親に傷を受けて、今は連絡を絶っています。
私が以前、両親の離婚にまつわる事ごとで「本当は辛かったの」と告白したとき、私の母は「あんたが辛く思う必要はない」と断言しました。そこで生まれて初めて母に気持ちをぶつけて、それきりです。
ACのセルフケアで、やっと言えるようになった言葉でしたが、母には伝わりませんでした。

もしKSさんが「あなたのその言葉で、私は傷付きました」と言って、お母様がそれを悲しんだり、フォローの気持ちを示されるのであれば、傷を軽くできる可能性があると思います。
その場合は、指向性の高い会話を心掛けることで、傷付く回数は減るのではないかと思います。

例えばお料理をされた時、「お母さんのために頑張って作りました。喜んで貰えたら嬉しいです」と言った、動機や目的を明確に提示する会話です。そして、傷付くことを言われたときは「それを言われると、私は傷付くのです」と伝えます。出来れば理由も添えて。
機微のかけらもない会話ですが、私は相手がどこまで理解してくれるのかが分からないので、普段このような話し方をしています。誰が聞いても分かり易い、ユニバーサルデザインな会話です。
正直、日常会話でこれをするのは、人によっては苦痛や虚しさもあるのではないかと思いますし、この方法ですべてが解決するとは思いませんが、会話のすれ違いは減らせると思います。

けれど、もしお母様がKSさんの気持ちに反応しないのであれば、お母様から心の距離を保つのが、最も有効で確実な方法だと思います。

以前みみさんが書かれていたことです。相手に自分の正しさを求めず、嫌なことは嫌と伝え、それでも相手が変わらなかったら、それを事実として受け入れ、対処する。振り回されそうになったら、一旦離れたり、その部分は無視して流したり。
私には全然出来ていません。母に会えば理解されることを期待しますし、連絡もないと悲しくなります。だから、母が変わらないことを心から納得できるようになるまで、自分を守るために会いません。

私の想像の範囲内で書きましたので、外れているかもしれません。
KSさんの状況と違う点、分かり難い箇所などありましたら、お知らせ下さい。

>パンダさん
残念ながら父は他界してしまったんです。亡くなる前10年くらいは、関係を断ってました。

どこかで書いたけど、息子には一度も会わせなかった。親戚からはけっこう批難されたけど、でも、息子に判断力がつくまで、息子の自己が確立するまでは、「おじいちゃんが、おばあちゃんを怒鳴っている」とか、「おじいちゃんが物を壊している」というような場面は見せたくなかったんです。

息子がある程度の年齢になったら、事情を話して「おじいちゃんに会いたいかどうかは、自分で決めてね」と言うつもりでした。その前に亡くなってしまいましたが。

父が、暴力に絡めとられなければ、どんなに面白いおじいちゃんになったかと思うと、本当に残念です。子どもの頃、父といると、いつもいっぱい面白い体験が出来たので。

父が母に、自分の苦しい心情を吐露して「どうしてこうなってしまうんだ」というようなことを言って、母に「自分の気持ちを言って欲しい」と言ったら、母は、無表情で「酔っ払いは嫌いだ」と言いました。お酒入ると暴れること多かったので。

私は思わず父を抱きしめた。私の腕の中で父は震えながら泣いていました。その父の小さな震えは今も私の腕に残っています。

その後しばらくして、怒りがわいてきたらしく大暴れして、救急車が来たのはその日のことです。

当時、発達障がいの情報がもっと流布していれば、母は発達障がいなのかもしれない、と分かっていれば、違った展開もあったのかもしれません。

>繭さん
ありがとう! そうか。「空が青いね」→相手が泣く→「な、なんで???」という感じなのね。

定型って「言い方」にこだわりますよね。その意味では定型的「こだわり」っていうのがあるように思います。定型は「言い方」がダメだと「事実」でも受け入れられないのだなぁ、と改めて思いました。

父はね、私がお弁当作ってあげたりして、でも、ちょっと不満なところがあると:
「とても美味しかったよ。でも、お父さん、オニギリはもうちょっと具が多い方が好きだから、次はもうちょっと具を入れてくれる?」
というような言い方をしたの。

母だったら:
「具が少なすぎだね」
と冷たく一言言って終わるところを。

父みたいに言われれば、「具の量が少ない」ということを受け入れられるのに、母のように言われると、「事実」なのに、それを受け入れることが出来ない。そういう「こだわり」が定型にはあるのかな~と思いました。

母に対しては、定型的な「ほのめかし」や「遠まわしな言い方」で、何度も「やめてください」「それは傷つきます」というメッセージは出しているんですが、そもそも、その伝え方じゃ、伝わらなかったんだろうなぁ・・・と今になって思います。

今度、傷つけられたら(って会うたびにほぼ毎回傷つけられますけど)、もう少し、非定型的な「はっきりした物言い」で伝えてみますね。で、それでどうなるかを見て、母との距離を決めて行きます。Rosamondeさんのご著書でも、この「距離」って大事なポイントでしたものね。

辛い体験含め、いろいろ教えてくださって、考えてくださって、ありがとう。繭さんも私も、本当なら大人に守られているべき時期に大人に守られずに育ったのね。

でも、繭さんは、すてきなご主人とめぐり合えて良かったですね。ご多幸を心からお祈りしています。ご主人とのご縁を大切になさってね。

KSさん、私はKSさんのお父さまと同じような感じで、でも、矛先が向かった先は自分で、救急車で病院に運ばれました。

救急士の方に、「どこが痛いですか」と尋ねられ、「心が痛い!」と言いながらずっと号泣しどおしでした。今思えば、夫にも本当に大変な目に遭わせてしまったと思います。
(この当時のことは、夫にとっても私にとっても、わけのわからない混沌の時代でした。)

知ることで辛いこともありますが、知らないことで起こる悲劇よりは、よっぽど救いようがあると思います。

いろんな過去の事実は事実として受け入れながら、「今」と「今から」を、お互いよりよいものにしていきましょうね! 

私はKSさんのお父さんだと思う。

一人、何度も拳を壁に叩きつけ血がにじんだ。今から思えば、子が頭を壁にぶつけていた自閉症の症状も、原初的だけれど同じようなメカニズムでおきていたような気がしてなりません。

フツウの(と私が思う、私の生育家庭で身につけた)コミュニケーションでうまくいかないことを悟ると、理詰めで説明を試みました。フツウの(学校や社会で習って身につけたある意「味客観的」な)論理を使って。そういうものも彼女の主観で曲解されることで、拠って立つ地面が崩れ去りました。

2人の時に「そう」なりそうになったら、私はその場を立ち去ります。
子が見ているときは懸命にお芝居をします。

それでも避けきれず「それ」が起きそうになったとき、私の気持ちを察知できるようになった子は割って入って私を助けてくれます。そんな体験こそがACに育てること、わかっているからなんとかしたい。でも、お父さんがいなくなることも、お母さんを取り上げることも、私にはできない。

切なくてこれ以上書けません。

私が発達障害の概念をかぶせて見ることで定型側での現象の理解は成り立ったものの、双方の共通理解が成り立たない限り、たいして何も変わらないです。

KSさん

定型の人は、常に相手の中に自分を見ているような印象があります。
私も自分がどう思われているのかを結構気にしますが、緊張が増すだけで、結局分かっていないことも多いです。
定型の人はもっと細やかに発信したり、反応しているように見えます。そういう感度を持っていると、「相手からの反応がない」ことの意味が、「あえて反応を返さないようにしている」と見えて、傷付くことも多いのかなぁと思います(勿論それだけではありませんが)。

KSさんのお父様の不満の伝え方、とても優しくて温かい言い方ですね。
こんな風に言われたら、次は張り切って具を多めにしちゃいます(^ ^)

私の慣れ親しんだ環境では、一言「具が少なかったよ」と言われることが多かったので、その時は「あ、そうだった? じゃあ今度は多めにするよ」と言ったりしていました。こういう会話では、お互いに感情はあまり動きません。
でも、不満を込めて言われるのは、私もむっとします。

余談ですが、私の母の不味い時の表現は「食べ慣れない味がする」でした。
後にアスペルガーを知ってから、なんてアスペルガー的表現!と思いました(笑)

私の夫が言うには、私との会話はビジネストークに近い感覚なのだそうです。
会話がかみ合っていない時、たまに「プレゼンの仕方が良くなかった(苦笑)」と言われたりしています。

KSさんのお母様との程よい距離が見付かるといいですね。
掲示板の方も読ませていただいており、心の中で応援しています。

KSさん

 亡くなられていたと伺って、致し方ないこととはいえ、とても残念でならない気持ちがしました。救急車の日の展開も、何となく切実に分かる感じがして痛々しいです。相手に対する暴力、と言う形にはなりませんでしたが、私の心の動き方はほんとうにお父さんと通じるものがありましたから。joさんがご自分を「KSさんのお父さんだ」と書かれるもの、私なりにすごくよく分かる気がします。

 アスペルガーということが分かっていれば多少は違っていたかもと言うことも、きっとそうだったろうと思います。いろんな意味で「あきらめる」という選択肢が見えてくるからです。その選択肢が見えないままに苦しみ続け、傷つき続け、はては暴力によってその痛みを表現するまでになられたお父さんのことが、やはり他人事とは思えません。

 KSさんは今、お父さんがどうしても持つことができなかったその「選択肢」を手にし、それを発揮することができたのですね。そう思うと、そのことがどれほど大きな「前進」であるかということをなにかリアルに感じられるように思えます。ご両親の悲劇を決して無駄にはされていない、という思いがしてきます。私の勝手な思いこみかも知れません。

joさん

 「それでも避けきれず「それ」が起きそうになったとき、私の気持ちを察知できるようになった子は割って入って私を助けてくれます。そんな体験こそがACに育てること、わかっているからなんとかしたい。でも、お父さんがいなくなることも、お母さんを取り上げることも、私にはできない。」

 パートナーが自分が子どもたちを傷つけた、ということで自分の存在自体を責めるような感じになるとき、「でも僕等でなければこの子たちは生まれなかったんだから」ということを何度か言ったように思います。

 親は子どもを選べないし、子どもは親を選べない。自分も自分を選ぶことは不可能。どうしようもなくこの自分でしかあり得ない自分が親となり、その親からしか生まれ得ない子どもを育てていく。そのことについてはどこにも選択の余地が無くて、ただ与えられた条件として受け入れるほかなにもできない。できることはその条件を出発点として、少しでも幸せな道を探っていくこと……

 joさんにはすでに当たり前で、あえて言うまでもないことだと思いながら、でも私にはそれ以上のことを言えないし、そして言わないこともできないような気持ちになりました。

 本当に辛い状況。でもなぜでしょうか、いつかjoさんに、そしてjoさんの家族に、何かひとつの転機が来るような気がふとしました。別に気休めでそういうのではありません。かといって、なぜそうなのかを説明もできないのですけれど。今、その変わり目にさしかかりはじめているのではないでしょうか。これもまた私の思い過ごしかも知れませんけれど。

この記事が書かれてから、随分経っていますが、
奥様は今、どんなお気持ちでしょうか?

パンダさんのお子様は、定型でしょうか?
既に社会に出られているのでしょうか?

実は、私も、親になったことに凄く大きな罪悪感を持っているのです。
私の子供は、私の遺伝子を持って生まれてきて、学校で不適応を起こしています。
私は、自分の子供を十分に守ってあげることができません。
定型の方が当たり前に行っている家事も、満足にできません。
その上、私の特性で、子供に迷惑をかけ続けていると思います。(多分、私が自分の母に対してACで、未だに脱却していないからそう思うのでしょう。)
ずっと、この思いから解放されないのです。
カウンセラーに、「そんなことは無い。」と言ってもらっても、私の気持ちは変わらないのです。
私の自己否定の強さは、簡単には解けないようです。

こんなコメントをして、迷惑でしたら、すみません。
「親の気持ちは子供に影響する」的なレスは、
逆に猛ダメージを受けて立ち直れなくなるので、避けて下さるよう、お願いします。m(_ _)m

みみりんさん

 パートナーは子どもに対して罪悪感をずっと引きずっているように思います。
 かといってどう対応することがいいのかも自分ではわからないので,
 自分の方が引き下がるような形になっているような気がします。
 やはり私が下手に慰めたりしても,意味がないようです。

>私の自己否定の強さは、簡単には解けないようです。

 定型の場合,相手に共感してもらったり,受容してもらったりすることで
 自分を肯定的に見ることができるようになりやすいと思います。
 でも,この定型のような「共感」とか「受容」とかについて,
 アスぺの方は違う感覚をお持ちのようなので,
 少なくともそういう形では自己否定の感じはなくならないのでしょうね。
 アスぺの方はどういうときになら自分を肯定できるのか。
 あるいは自分を肯定的にとらえられているアスぺの方の秘密は何なのか。
 そのあたり,大切な問題なのだろうなと思いました。

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