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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月13日 (月)

離婚もまたコミュニケーション

 このブログは「アスペルガーと定型のコミュニケーションを考える」ことがメインテーマで、これまでもずっとそういうことをやってきたわけですが、どうしても自分の中ですっきりしないことの一つが、「コミュニケーションを考える」ということが「離婚をすべきでない」とか、「離婚に至るのはコミュニケーションへの姿勢が不足しているからだ」とか、そういう見方につながってしまう心配があることでした。

 そんなこともあって折々に私自身、記事の中で「離婚という選択肢」を必要なものとして書いては来ましたけど、なんか言い訳的に付け足し的に書いている感じが残ってしまう。全体のトーンは「どう理解し合えるか」ということでしたし、その中でここに参加してくださるアスペルガーの方とはほんとに次々と新しい理解が生み出されていくし、そういう流れの中ではどうしても「離婚は敗北だ」みたいな、あるいは「人として未熟だ」みたいな、そんな受け止められ方がされてしまうのではないかと恐れ、そこがすごくいやだったんですね。かといって折角芽吹いてきている相互理解の可能性を止めることもまたおかしな事になりますし。

 もちろん(?)、「相手がアスペルガーという障がい者だから」離婚する、という考え方は私は今でもすごく嫌いです。それって、やっぱり相手の人を一人の人間として見ることを最初から放棄してしまっているし、ものすごく差別的だと感じるからです。

 みみさんが憤慨される「毒吐き」のような、一方的なアスペの配偶者非難については、joさんが書かれているように、たしかにその問題を自分の中に一人で抱え込み続けて、カサンドラ症候群みたいになって、もう生死を彷徨うような状態で、そこを越える為には「毒吐き」が大事な「必要悪」である場合は確実にあると思います。実際、私自身もほんとにぎりぎりの時には、親しい友人何人かに自分の視点だけでパートナーを結果として悪者のように語って「こういう悲惨な状態なんだ」とそれまで人に言えなかった思いを一挙にはき出し、そこで共感してもらうことでものすごく救われました。それがあったからこそその次のステップに進むことができたと思っています。

 でもいつまでもその「毒吐き」の段階でぐるぐる回っているだけだったり、ましてやその「毒吐き」によってあたかも自分たちが「唯一の正義の集団」になって「悪の集団アスペルガーをぶっつぶせ!」みたいな感じに展開してしまうとすれば、それは私にとって話は別です。みみさんが書かれているように、むしろその人たちの姿勢をこそ「悪」として問い直さないといけないと思う。(但し書きが多くてすみませんが、ただし、その人がその人の置かれた「権力関係」の中で、常に虐げられる立場に強制的に置かれているような場合は、その虐げられた関係を打ち壊すための、「弱者が自分の人間性を取り戻すための闘い」という性格が出てくることがあるので、そこは単純に「悪」とは思いませんけれど。これは立場を逆にしても同じ事が言えますね。むしろアスペルガーの人の方が社会全体としてはそういう虐げられる立場に立ちやすいわけすし)

 それでKSさんのまとめや、チロさんの書かれたことを読んで、その自分の中のもやもやがすごくすっきりしてきた感じがしています。やっぱり大事なことは、相手がアスペルガーである(または定型である)ということもその一部に含めて、その人の人間にひかれるところがあるかどうか、その人を必要と感じられるかどうか、そこなんだろうと思います。この「基準」は別に相手がアスペであろうが定型であろうが、他の「障がい」であろうが、「障がい」とは関係なく、定型同士の関係であろうが、どんなカップルにも言えることではないでしょうか。

 というところで今度は繭さんからのコメントが入りました。ちょうど今私が書こうかなと思っていた問題に関係していることでした。

 「試せることがあるうちはそれを端から行い、やり尽くしたら、考えて、それも出尽くしたら、後は無意識に任せて、問題から気持ちを離します。と言うより、自然に離れます。その頃には「出来ることはやった」という気持ちになっています。」

 なんか、私がぐちゃぐちゃ下手な言葉で書くより、よっぽどすっきり結論を書いてくださいました。

 上に「どんなカップルにも言えること」と書きましたけれど、もちろんアスペと定型の場合には、それに応じた特徴や、その関係の中で出やすい特有の問題も当然あるわけです。そこはみそくそ一緒で一色単に「同じ」とは言えません。で、それが何かというと、定型同士では無意識のうちに通じ合っているコミュニケーションの前提が、定型とアスペ同士では必ずしも共有されていないことが多いと言うことです。アスペ同士の場合そこがどこまで無意識のうちに通じ合うのかはまだ私にはよく分かりませんが、「自閉さんご夫妻」Rosamondeさんの書かれていることからいうと、アスペ同士でも無意識の前提がずれることが多いみたいですね。

 だから、もしカップルの中の葛藤に、アスペと定型のズレの問題が絡まっている可能性が感じられたら、定型同士のカップルとはちょっと違った面から「試せること」をいろいろやってみる必要はあると思えるのです。それが私がこのブログで掲げている「アスペルガーと定型のコミュニケーションを考える」ということなのでした。

 このブログのやりとりの中でもいろいろ見えてきているように、お互いに同じ物や同じ事態に出会っても、そもそもの受け止め方が全然ずれている場合もあり、またそれをどう表現するか、どう相手に伝えるか伝えないか、そこで相手に何を期待しているか、といった「コミュニケーションのスタイル」とか「無意識の前提」みたいな部分にたくさんのズレがあるわけで、そのことに気がつけば、ある程度の「翻訳」をして、もう一度相手とのやりとりについて考え直してみる可能性が出てくる。誤解があれば誤解を解く、譲り合える部分があれば譲り合う。そういったことを「端から行い、やり尽くしたら、考えて、それでも出尽くしたら……「できることはやった」という気持ちになる」ところまでは頑張ってみる。

 その結果、これは「誤解」に基づくものではなく、やっぱり基本的な考え方や生き方に共感できないんだ、とか、魅力を感じられないんだとか、むしろ苦痛を感じてしまうんだとか、そういうことであれば、別に一緒に居続ける理由は無いわけですね。子どもの問題など、直接のカップル間関係以外の問題が絡んでいれば、別れる時期などには配慮があるのは当然でしょうけれど、そこまでのことでしょう。それよりもっといい人生をお互いに探した方がよほど健康的です。

 逆に「誤解」の部分を「翻訳」などで解きほぐし、可能な妥協はお互いに妥協して、その上で相手が自分にとってやはり大事な人と思えれば、関係を継続させればいいわけですよね。

 だから、これ、どちらもお互いのコミュニケーションを改めて考え直した結果だと思うんです。大事なことは無意識のうちにお互いが抱えていたコミュニケーションの理解についてのズレに気づかないまま、結果として自分だけの見方で相手の非を一方的に「断罪」し、決めつけて、そして結論を出してしまうということは可能な限り避けることなのだと思います。ただし個人の力だけでそれをやることはほとんど不可能に近いから(少なくとも私には逆立ちしても無理)、こうやって色んな方の見方を交流しながら、特に大事なことは定型当事者とアスペ当事者の両方の方の意見を聞きながら、そのあたりを整理しつつ、自分たち自身のコミュニケーションとか関係を見つめ直し、その上で結論を導き出すことだと思います。
  

 

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コメント

そうね。コミュニケーションしたから、ダメだって分かるっていう面もありますね。
同じ「結婚継続」でも、臭い物にフタして「問題がないフリ」している結婚継続もある。
コミュニケーションを放棄していれば、離婚というのは起こらないかもしれません。
コミュニケーションしたから(あるいは、その試みをしたからこそ)の離婚かもしれません。

離婚前提で別居して、その間には弁護士事務所や司法書士事務所にも通って、あとは離婚届用紙を役所に持って行きさえすれば・・・というところまで行っていた私たち。

あの時の予定では、下の子の高校卒業時を目処をしていたので、そのまま離婚の方向で話を進めていたら、今頃、結婚生活は残すところ1年半ほど&離婚に向けての最終準備をしていたのでしょうね。

あの頃、頭の中では完全に離婚していたも同然でした。子どもたちの受験や進学等のタイミングがあったので、法的に離婚していなかっただけで。

でも、あの別居中、2人それぞれが予想外にものすごく大きな喪失感を味わったこと、そして、アスペルガーのことを共有したことで、私たちは、法的にではないけれども、一度離婚した状態から再婚したようなものだと思っています。

あの予想だにしていなかった、無意識の領域から出てきたとしか思えない、何とも形容したがい喪失感は、なんだったのでしょう。

2年前までの数年間は、お互いを剣で刺しあうような激しい言葉の応酬の連続で、別居前などは、もうお互いにお互いを、鎧の上からどこもかしこも突き刺して、ズタズタのボロボロにした感じでした。

なので、ひょっとしたら、お互いの心の鎧を、とことんまで壊し合ったところから、その鎧の下にあった無意識の気持ちが浮遊するように現れてきたのかもしれません。

あまりにも過激なコミュニケーションではあったけれども、このやるだけやった結果が、鎧の下から出てきた喪失感と「アスペルガー」についての共有だった、ということかもしれません。

法的には離婚には至りませんでしたが、気持ちの上ではいったん離婚し、そこからあらためて話し合いを重ねて、もう一度結婚し直した・・・

結婚継続というよりは、「気持ちの上で一度離婚して、もう一度結婚し直した」とか、「同じ相手と再婚した」という方が、私たちの関係の場合にはしっくりくるような気がします。

何年ぶりかに、おそるおそる、昔の日記の一部を読んでみたのですが、私の体調はボロボロ(頭痛・腹痛・発熱・めまい・むくみ・蕁麻疹・どうしようもない睡魔、体重減少等々)で、夫とはちょっとしたことからあっと言う間に口論・・・

そんな数年前と今とでは、夫も私も、まるで別人のよう。

あの頃の、お互いにとってもうどうしようもない敵が、今では気の置けない仲間・好敵手として一緒に平和に暮らしているのですから、人生何が起こるかわかりません。

あまりにも過激なコミュニケーション(ディスコミュニケーション?)は、決して人にお勧めできるものではありませんが、「やるだけやった」という意味で、離婚に向けてのコミュニケーションから得たものは大きかったと思います。

なんだか、いつもうまく行くようになってからのことばかりを書いているので、もう封印したに近い状態だった数年前の日記を、本当におそるおそる開けてみたのですが、

もう、本当に悪夢、地獄。

皆さんのお気持ちに少しでも添えるように、そして、あの頃の自分の姿を客観的に見つめるためにも、たまには、目をそむけたくなる事実にも目を向けないと。

私たちは、結婚前に一度、別れ話をしていました。
一緒に暮らすようになってから、アスペルガーと定型の違いが露呈して、諍いの絶えない日々でした。
今考えると、私の実家での環境はアスペルガー的環境でしたので、日常のささいなことまでが、彼と合わなくて、それはもう…(遠い目)でした。

それで私は鬱(通院)になるし、彼は苦しむし、限界でした。
「もうこれ以上は、私が私でなくなるしか、歩み寄りの手段が見付からない」と思ったとき、私の方から彼に別れを切り出しました。
二人とも泣きながら別れを決めました。

その数日後、実家にいた私に、彼から連絡があって話し合うことになり、改めて関係を見直すと約束する彼の言葉を、一度だけ信じようと思い、今に至ります。
実質、別れていたのは一週間もない位でしたが、彼の約束は果たされ、その後の関係は大きく変わりました。別れて再会した数ヵ月後に、私たちは結婚の約束をし、相変わらずの(でも中身の違う)沢山の喧嘩をしながら結婚しました。

私の感じた大きな変化は、「どうして」の意味だったと思います。
それまで彼の言う「どうして」は、信じ難いと責める為の言葉、分かって欲しい・思い通りになって欲しい感情語でした。
今、夫の言う「どうして」は、納得しがたい時や、理解したい気持ちが主です。私の言った言葉を、一旦信じてくれていると実感できたのが、とても大きかったです。

私は何が変わっただろうか、と考えていましたが、ひとつありました。
夫が怒っているときは、本当は悲しんでいるときがあると意識して受け取るようになったことです。
お互いに、相手が歩み寄ろうとしているということを、信じられるようになったのだと思います。

結果が関係の継続であるのか、別々の道であるのか、それがどちらでも大切な結論だと思いますし、どちらを選んでも、大きな決意が必要になりますね。


カレンさん

こちらに失礼します。

カレンの夫さんの言葉「それはこれまでのことを考えたら、いたしかたあるまい。もしそうなったら、甘んじて受けよう」、素敵というか、不謹慎ながら面白いというか、すごくツボです(^ ^)
カレンの夫さんは、カレンさんのことを真っ直ぐに見ていらっしゃるのですね。時にはレーザービームのようだったのかもしれませんが…。

一旦別れを決意するところまで追い詰め合ったところが、カレンさんご夫妻に重なります。
私たちも、そこで見えて来たものがありました。

我が家も「ていけい」「共感力のある人たち」「アスペさんたち」「非アスペルガー」「人の気持ちに敏感な人たち」などの造語が話の内容に沿って繰り出されています(笑)

それから、定型中の定型や、知り合いの分布位置の話題、先日私たちも話していました。
夫の友人は全体的に定型度が高く、皆でわいわいするのが好きな人たち。私の友人はアスペルガー度が高くて、何人集まっても個人ペースという結果でした。面白かったです。

私は「好き」ということにためらいがなくて、思った時はストレートに口にしています。
友人や家族にも言います。言うのも言われるのも大好きな言葉です(^ ^)

私は、離婚すると決めたら、気持ちがまっすぐになり、ずんずん元気が戻ってきたの。そのあたりもお2人とは違うのかもね。

夫は「依存型」(?)なので(繭さんとは正反対)、夫の頭の中にあることを私がシナリオどおりにやるのは「家族だからあたりまえ」で私が稼いだお金を使うのは「夫婦の財布はひとつなのだからあたりまえ」。

アスペ語で話してなかったし、夫は鬱かもと思ってたからオブラートに包んだような表現が多く、夫を混乱させてしまった部分はあると思うけれど、修復を試みていた間の私の訴えに夫は、私のカウンセラーさんいわく「木で鼻をくくるような反応」でした。

混乱の中にも、「(等身大の)KSとかかわりたい」という真摯な姿勢や葛藤が感じられれば、私の反応も異なったかもしれませんが、夫から伝わってくるのは、「自分が救われたい」「自分のシナリオどおりに人生を進めたい」「KSは妻なのだからその駒としてふるまうべきである」(私はエスパーではないのであなたの頭の中のシナリオは読めません)というような雰囲気ばかり。

そのあたりが、カレンさん夫妻、繭さん夫妻、との違いですね。

あ、もちろん、そういう夫を選んで結婚したのは私ですし、夫がもはや私にとっては魅力を失ったとしても、夫に良いところがないという訳でもないし、現に夫を好きになって結婚の約束までした(と思われる)女性もいるのです。社会的にもまぁまぁの地位を築いてますしね。

私が今やろうとしていることは「自分の選択に自分の手でオトシマエをつける」です。

予想外の試練がカップルを襲うことは、どんなカップルにもあるでしょう。その時にその試練を乗り切れるかどうか、ということが、常に試されるのでしょう。ひとつひとつの小さな山や大きな山を乗り越えながら、手を携えて進むのがカップルなのでしょう。

カップルのひとりひとりの能力、環境、ふたりの絆の強さ、など、そういうものの総計が、そのひとつひとつの山を乗り越えられるかを決めるのでしょう。

たまたま、あまり大きな山に出会わなかったから、結果として長続きしたという場合もあるでしょう。たまたま、大きな山に出会ってしまったので、普通なら長続きしたはずなのに関係を解消したという場合もあるでしょう。

人生は沢山の偶然の中で、一瞬いっしゅん、判断・決断・選択を重ねて行くものなのかもしれません。

私、なんか最近「仙人」みたいね。

繭さん カレンさん

 うーん、やっぱりお二人とも一度「離婚」を経て今があるんですね。
 そこまでぎりぎり追い詰められてどうなるか……

 KS仙人が書いてるみたいにそこまでいかずに、
 ある意味アスペと定型とかそういうことも考えずに済みながら
 一生をすごす夫婦だってあるわけでしょうけれど。

KS仙人

 最近の仙人は「オトシマエ」とか付けちゃったりするんですね!すげー!
 まあ、でも書かれていることはなるほどなあと思います。
 もしうちのパートナーもそういう姿勢なら、まあ答えはハッキリしてるでしょうね。

 あれ?でも仙人になっちゃったら、もう次のロマンスはないのかしら?

〉繭さん

お久しぶり?!です!
繭さんのコメントを読んでいて、私も衝撃をうけましたよ!どのような衝撃かと言うと、「おっ!いいぞ!そうだ!繭さん!」…のような衝撃です。

ASだからとか、ACだとか…何だとか、だからダメって事はないですよね。
私は、繭さんの、定型的な所も、AS的な所も、ニョロニョロが好きな所も、全部含めて繭さんですし、好きですよ。
繭さんのご主人もそうなんだと思いますね…

私の主人に関しても、同じ感じです。
今は、たっぷりAS的な所もあれば、逆に、色々話をしていれば、私の方がアレ?となり、主人は定型的に映る時もあれば、様々です。
色んな面を含めて、改めて主人という人を好きになる事ができました。
(嫌いと思った事はないのですが…)

私は今、結婚をやり直せるとしたら、間違いなくすぐに主人を選びます。
上辺の対処法を覚えたんではなく、理解しあった結果です。(私が勝手にしたんですが)
主人以上の人を探すのは、かなり大変だと思います。

なぜそう思うのかなぁ?と素朴に考えたら、単純に、やはり、私にないものをもっているからでした。
そして、それらに対して、私に動じる事なく、媚びる事なく、情を出すわけでもなく、一貫している態度や行動など…
主人の考え、話を聞けるようになってから、「はぁ〜ん、ほほー、なるほど」と思う事が有りすぎる位多いのです。
主人は私の模範的な親みたいです。
昔は、それらが無関心、情無しという形で、最大の不満の塊でしたが…今は、私に、毅然とした態度を通してくれた事に心から感謝すらしています。
私は、意見が違う時、どうしても納得できないとき、自分の心を一旦止めて(抑えてではなく)、主人の考えや気持ちに耳を傾けてみます。
100%納得出来る事が多いです。
私のいけない所に気付けます。
最近わかった事の一つは、主人は現実をしっかり受け入れている人だ…という事です。いいも、悪いも、こんな私も、全て含めてあくまで現実。そして、主人はそれに逆らわず、一つ一つ対処していく人です。
私は…いつも、「普通は…」とか、「だって…」とか、「あなたがこうだから」とか、こじつけて理想ばかり語り、現実を受け入れたがらず、対処出来ないわがままな子供…という所…に気付いてからは、私の考えや捉え方も、どんどん変わっていっています。
主人といると、いつか私も、いっちょ前の大人に成長できそうです。
私は現実に目を向けずに逆らうのは、好きじゃありませんが、結局、そうしていたんですね…つまり、うちの場合は主人は大人的で、私はお子ちゃま的だった訳です。
だからと言って、私が無理に変わる必要はないと思います。
今は気付いて納得しはじめた段階で、気付けば私も自然に変わっていくでしょう…。
あくまで私は私だけど、私にない部分や、自分で自分を納得出来ない部分を、補ってくれたのが、主人だと思います。だから、大切だし必要です。
自分で自分を納得出来ない部分とは、なぜか人に尽くしすぎて疲れる所や、感情をコントロール出来ず、押しつぶされるところ等でした。
他人の嫌な所は、自分に引け目があるところ…と言いますよね。そこに気付いて素直に出した繭さんは、偉いですね!
もしや…反抗期、おわっちゃったんですか?私を置いて、1人先に大人にならないでくださいね(笑)

〉パンダさん
ちなみに私は子供が絡むと離婚には反対派ですが、場合によっては、相手もある事なので、離婚もあり、と全然思いますよ。
離婚を軽蔑したり、否定している訳ではありません。
こちらに訪れている方は特に、主人がいつも言うように、相手の良いとこ、直らない事、自分の限界、良いも悪いも、全て現実を受け入れた上で、離婚という対処を見いだしていると思いますから…。
賛否両論あるとは思いますが、自分にとっても、相手にとっても、子供にとっても、良しとなれば、離婚もありだと思います。(子供の悩みは私の悩みなので)
ただ、離別して、みんなが良い…というのは、私にはちょっと難しく感じられたし、このままで良い訳もないと思い、現実に対して理解してみよう、という道を選んだだけです。
それが私の一番の見切りです。

みみさん

お久しぶりです(^ ^)
みみさんも衝撃を受けられていたのですね。私は、自分ではそんなに驚かせることを書いたつもりがなかったので、少しびっくりしました。うん、でも、嬉しいです。

>私は、繭さんの、定型的な所も、AS的な所も、ニョロニョロが好きな所も、全部含めて繭さんですし、好きですよ。
>他人の嫌な所は、自分に引け目があるところ…と言いますよね。そこに気付いて素直に出した繭さんは、偉いですね!

ここまで読んで、泣いてしまいました。
ずっと自分で自分に幻滅して、気付かない振りをして押し隠して、親にも見せられなかった部分のひとつだったのです。
今回、KSさんとパンダさんの言葉に反応して、すとんと自分の気持ちが見えて来たので、思い切って書いてみました。
書けた(出せた)ことが、私にとって何よりのプレゼントでしたが、更に嬉しい言葉をみみさんからいただきました。

みみさん、ありがとうございます。
私も、いろんな「らしさ」を持っているみみさんが、とても好きです(^ ^)

私の反抗期はまだまだです。パンダさんのコメントにも書きましたが、人より変化がゆっくりなので、反抗期も長い予定です(笑)

>私は今、結婚をやり直せるとしたら、間違いなくすぐに主人を選びます。
上辺の対処法を覚えたんではなく、理解しあった結果です。(私が勝手にしたんですが)
主人以上の人を探すのは、かなり大変だと思います。
なぜそう思うのかなぁ?と素朴に考えたら、単純に、やはり、私にないものをもっているからでした。

みみさんのご主人も、きっと御自分にないものを、みみさんに見ていらっしゃるのでしょうと思います。
優しさや情熱、細やかさ、人の気持ちを考えるところ、そして多分、笑顔。みみさんの素敵なところです。
ご夫婦で補い合うって、素敵ですね。

私はたまに、もし自分そっくりな考え方の男性と結婚したら…と考えるのですが、
そうすると、お互いに「じゃ」と言って別々に、ルームメイト状態のイメージしか浮かばないのです(^ ^;
やっぱり、自分とは好ましく違う人がいいです。

以前みみさんが書いてくださったご主人の秘策を読んで、すごいと思いました。
ずっとぶれないようになりたいと思っていましたが、実際にどうしたらぶれないのか、そもそも何が「ぶれる」ということ?ということがすっとイメージできるようになりました。
実践がんばります(^ ^)/

昨夜はここを見ないままだったので、今、ここのコメント読みました。

繭さん、KSさん、パンダさん、みみさんのお話に、ふむふむと思ったり、感心したり、笑ったり。

KSさんの場合は、離婚を決めたことで元気になられている、ということですから、きっとこれはKSさんにとって正しい選択なのでしょうね。体は正直ですから。

みみさんの、ご主人考察、私も同じようなことを感じることがあるので、いつかまた書きたいと思います。次のテーマの「聖人」とからめてなのですが、これ、書くとすごく長くなりそうです・・・(^^.)

繭さんの、「じゃ」のルームメートの話、目に浮かび過ぎて大爆笑です !(^^)!

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