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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月20日 (月)

対等な闘い

 「親としての罪悪感」の記事を書いて、カレンさん、チロさん、繭さん、みみさん、KSさん、joさんからそれぞれ本当に真剣なご意見を書いていただき、またパートナーと話をし、自分の記事を読み返してみて、改めて自分の限界を見るような思いがします。

 「限界」とは書きますけれど、そして実際「限界」だと思っていますけれど、その言葉で自分を否定しているわけではありませんし、もちろん褒め称えているわけでもありません。ただ、これまでの人生の中で逃れようもなく自分が作り上げ、抱えている「自分の姿」がまたひとつよく見えてきたということです。

 その自分はある面から見れば鼻持ちならない姿をさらしているように感じるし、また別の面から見ればぎりぎりの所であがきながら頑張っているようにも見えるし、そのどちらが「本当の自分だ」というわけでもなく、ただそんな色んな面を持つ自分なんだし、仮にそれが自分にとって嫌な面を持つとしても、その自分から逃れて「美しい自分」になれるわけでもない。ただそういう自分がそこにいて、どう進むにしてもそこからしか進むことができない足場、みたいなものです。それ以外のことができないという意味で、その姿が自分の「限界」なんだと思います。

 
 「いい面」の方からいうと、このブログの記事を熱心に読んで下さったり、あるいは真剣なコメントを下さる方から、「自分だけの視点を離れて、少し俯瞰した視点から問題を見つめ直す、ということを、このブログを通してするようになった」というような感想を頂いていて、それはとても嬉しいんですね。いろんな視点から柔軟に問題を見ていくことで、がちがちに固まって身動きできなくなってしまった苦しい状態を和らげ、そこからなにか新しいものを生み出すことができるかも知れない。

 でも、下手をすると、その「俯瞰した視点から」という態度が、なんだか「上から目線」になってしまう危険も常にあるように思います。「私は自分の立場だけでなく、相手の立場も理解して、問題を考えようとしている。相手は自分の立場しか考えられていないから、だから自分の方が<正しい>んだ」というような。「親としての罪悪感」の記事も、読み返してみれば下手をするとそうなりかねないような「鼻持ちならなさ」を漂わせているようにも感じたんです。「対等に」といいながら、それでは本当の対等になっていない気もする。

 
 カレンさんご夫妻にしても、繭さんご夫妻にしても、お話しを聞いている限り、めちゃくちゃ「対等に闘い続けてきた」という感じがします。その結果として今があるという感じがする。家庭というものが、改めて前向きで創造的な、良い意味での「闘い」の場として、成り立っているような気がする。それは自分を否定することで成り立つわけでも、相手を否定することで成り立つわけでもなく、お互いがお互いを本当に尊重するからできる「闘い」だと思います。

 もちろん私もパートナーを同じ人間として尊重する、ということにはこだわり続けているわけですが、でも「対等に闘い続ける」という感じにはなぜかならないんですね。それは私自身が親との関係で作られてきた「闘う姿勢」と、パートナーのが親との関係などで作り上げてきた決して「闘わない」姿勢とのズレが生み出すものでもあると思います。そしてややこしいのは、私が「闘う姿勢」を身につけた理由のひとつは、親同士の激しい闘いの中で、いわば戦場で子ども時代をずっと過ごしたからで、その姿勢が自分の生き方の根っこの部分に根付いてしまったところがあります。にもかかわらず「闘わない」人をパートナーとしたのは、そういう戦場で傷つき続けた自分がいて、そうでない関係を求めていたからだと思うのです。矛盾と言えばすごい矛盾したことですよね。

 あと、私の父親が私のことを「こいつは男として育てるんだ」と言っていたようなのですが、そういう「<弱者>を守る男の姿勢」=「強者の上から目線」みたいなものをやっぱり自分が身につけているところも感じます。それが一概に悪いとも言い切れないですけれど、ただやっぱり「鼻持ちならなさ」につながる面も否定できないように思うし。


 アスペと定型のコミュニケーションを考えるときに、「対等な関係がいいんだ」ということを一般的に言っているだけではなにか届かない問題があって、下手をすると人によっては思わぬ落とし穴にはまりそうな、そんな気がします。そのあたり、それぞれのカップルの個性によって、より自然なバランスの取り方が幾通りもあるのかもしれません。  

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コメント

それはジェンダー(社会的性)ではないですか。

子供は、お母さんが電球を変えられないからお父さんに頼んでるところとか、
掃除機を修理しているお父さんとか、重い家具を動かすお父さんとか、
そういうのを見せないで育てられないから。それは各個人のせいじゃないでしょう。

闘ったり、闘わなかったりする私たちは、意識してバランスをとらなければならない方向に「スペクトラム」なんじゃないですか。無意識にバランスをとるカップルは闘ったり、闘わなかったりしないはずですから。

さまざまな対等な関係のありかたがあるように思います。

私は実質父親不在の家庭で育ったので、日曜大工も、大掃除も、家具の移動も、病気の時も、学校や近所の問題も、なにもかも母と子供たちだけでやって来ました。父は途中まで経済的には大黒柱でしたから、それだけが存在感を持っていました。
子供の頃、両親が穏やかにも、激しくも、話し合っているところをほとんど見た覚えがなく、夫婦のコミュニケーションは「話さないこと」と子供の頃は疑いもしませんでした。
それが後に目の前で崩壊して、まともな話し合いもなされないまま離婚して、あの日々はなんだったのだろうという疑問は大きかったです。

そしてその頃には、私は男性不在の女性として成長していました。
一般的な女性らしさ(優しさ・細やかさ・気遣いなど)を求められることは、当時の私にとって苦痛でしたし、今も不得手です。私の実家での存在意義は、ほとんど長男的なもので、そういったものではなかったのです。

私の夫は、一般的男性よりも、女性的な部分を持っている方だと思います。その分、自分が強者だという意識は、良くも悪くも薄いです。そういう意味で、お互いに手加減なく言葉をぶつけ合ってしまったという面もありますし、ジェンダーの意識の弱い者同士で求め合う組み合わせなのだと思います。

パンダさんの男性として守りたいというお気持ちと、パートナーさんの女性として守られ、守りたいお気持ちが、ご夫婦で求め合う形になるのであれば、それはひとつの対等な関係と思います。
闘うことにこだわる必要はないと思います。

ずっと気になっていたのが、パンダさんの奥様やjoさんの奥様の〔少なくとも今このブログの中でお伺いする中での〕自己評価の低さです。

なぜそれが気になるかと言う、休職→復帰→退職→4年前までの私の姿が、まさに、お2人の奥様方のお姿と重なるからです。

「全部自分のせい」「取り返しがつかない」「私なんかいない方がよかった」「生まれてこなければよかった」・・・そんな言葉のオンパレードで、今考えると、どれほど夫に迷惑をかけたことかと今更のように思い、そして、別の部屋で聞いていたかもしれない子どもたちに、とても辛い体験をさせてしまったと思います。

その後のいろんな流れの中で、たまたま、人生で初めて軽やかな気分と自己肯定感を得ることができたものの、じゃあ、人の自己肯定感をすぐにあげてあげられるか、と言えば、それは無理な話。(継続的に直接会って、時間をかけてゆっくりと・・・ということであれば話は別ですが。)

やっぱり、自己肯定感などというものは、幸福感と同じで、自分でその感覚をつかむしかないのだと思います。

パンダさんやjoさんからしたみたら、奥様の自己評価の低さや自罰的な言動は、とても困惑したりイライラしたり腹が立ったり、ということに繋がるのではと思います。そのへんのところは夫も同じでした。

もともとは対等だったけれども、この弱り切った時期はとても対等とは呼べず、夫の言うように同じ土俵には全く乗れない時期でしたね。「なんで自己評価が低いわけ(怒)!」などと、夫にガンガン言われれば言われるほど、どんどん気分は落ちていき、地の底まで落ちて行きました。

何かのきっかけで、"根本的なところで"、奥様の自己評価があがって行くと、何か新たな展開も望めると思うのですが・・・。

(私自身は、これなくして、今の生活はありませんから・・・。でも、他のバランスのとり方というのもあるのかもしれませんし・・・。すみません、今は結論はありません。)

ジェンダー等、ほかにも思うことがありますが、今日はここまでにしておきますね。

joさん

「闘ったり、闘わなかったりする私たちは、意識してバランスをとらなければならない方向に「スペクトラム」なんじゃないですか。無意識にバランスをとるカップルは闘ったり、闘わなかったりしないはずですから。」

 そうですね。「闘う」ことについてはそう思っていましたが、「闘わない」ことについてもそうだというのは、ああ、考えてみればなるほど! という感じがしました。ちょっと新鮮です。 ジェンダーということについてはそんな感じはしています。


繭さん

 「パンダさんの男性として守りたいというお気持ちと、パートナーさんの女性として守られ、守りたいお気持ちが、ご夫婦で求め合う形になるのであれば、それはひとつの対等な関係と思います。」

 ここがすごく大きなポイントになるのかなと思いました。これから自分の中で沢山のことを整理し直していかなければならないところだと思います。


カレンさん

「人の自己肯定感をすぐにあげてあげられるか、と言えば、それは無理な話。(継続的に直接会って、時間をかけてゆっくりと・・・ということであれば話は別ですが。)」

 無理な話、というところまではそう思います。「継続的に……」というところは、少なくとも今の私の在り方では無理だと言うことが実感されてきているように思います。少なくとも、私にとって自分の自己肯定感とは何か、それを支えるものが何か、と考えていることと、パートナーにとってその自己肯定感とは何か、それを支えるものが何か、ということの間にどうもズレがあって、そこはずっと空回りし続けてきたのだなあと感じています。

 「奥様の自己評価の低さや自罰的な言動は、とても困惑したりイライラしたり腹が立ったり、ということに繋がるのでは」

 改めて考えてみると、以前はすごく大きいと言うことはないですが、それは多少あったように思います。今は素朴な実感としては全然無いように感じます。そこは繭さんが指摘して下さっている問題につながりそうな気がしています。

昨夜は、まず最初に思ったことを書いてみたのですが、その後思ったことのひとつを書きますね。


パンダさんの書かれている、

>私の父親が私のことを「こいつは男として育てるんだ」と言っていたようなのですが、そういう「<弱者>を守る男うの姿勢」=「強者の上から目線」みたいなものをやっぱり自分が身につけているところも感じます。

というところと、joさんや繭さんが書かれていること(あるいは以前から書かれていたこと)とも関連するのですが。

私の場合、少なくとも学校や職場においては、「女性だから」という意識はありませんでした。時代の流れや世代的なものが大きいのだと思うのですが、まさに男女共同参画が声高に叫ばれる中で就職もし、小中高と同じ学校に通ったある同級生女子が、女性総合職の第一期生として大々的にテレビ放映されたような時代です。

そして、、そのような時代に同世代として同じ職場にいた夫は、それこそ私のことを「対等」として見ており、それは家庭という、職場とはまた違った環境になってからも、よくも悪くも同じように続きました。

そこで・・・なのですが、

私も夫との関係において「対等」を望んではいたのですが、以前から漠然と望んでおり、そして、正直なところ今でも望んでいる(と、最近気がついた)のは、「違いを斟酌したうえでの対等」です。

「違い」を考える上での観点は、年齢・男女・体力(特に、健康であるか病気であるかなど)等々なのですが、

夫の思う「対等」は職場でのそれと同様であり、私の思う「対等」は男女という性の違いを持ったものどうしとしての「対等」でした。

ですから、女性であり病気にもなっていて、というときに、夫の思う「対等」な姿勢でバンバンやられたことは、とても辛いことでしたね・・・。

たまたま、「周りの条件がどう変わっても揺らぐことのない、自分を支えている絶対的な肯定感」というようなものを得ることができ、それを今では夫と共有している、とわかるので、少々何があっても、そういう意味で「対等」だと思えるのすが、

「女性として」となった時には、本音の本音のところでは、ジェンダーの違いを斟酌したうえでの「対等」を、夫には考えて欲しかったし、今でもそういう気持ちはあります。

実際、「女性・体調絶不良・失職・家庭での居場所も感じられない」という状況にあるときには、夫の思う「対等」な姿勢は、私を追い詰める以外のないものでもなかったのですから。  
          ↑
(以上のことは、夫本人にも話してきています。)

「体調が落ちているときの扱い」「定型であるということ」の次に(?)、「女性であること」ということを少しずつは(?)考えてくれるようになったような気もしますが、

生活をトータルに考えてみると、お互いに男女差をあまり意識しないからこそうまく回っている面もあるので、私としてはなんとも微妙複雑です。

自己肯定感の問題はひとまず置いておくとして、

パンダさんやjoさんの、「<弱者>を守る」→「相手と自分の条件の違いを斟酌した上での対等」という考え方、一女性としては大いに歓迎です。

追記:

上のコメントの最後の行、「一女性としては」、と言うより、「私としては」ですね。

夫にとっては、相手の状況を斟酌することは苦手なことのようなので、

これまでブログの中で書いてきた「戦った/闘った」は、私の側からすれば「ここは私が譲歩して、元気で"対等」"に闘わざるをえなかった」、というふうに言い換えることもできます。

別に、闘うために元気でいるわけではないのですが、元気でいるとは、私自身にとっても他の誰にとってもいいことですし(でも、本当は、甘~い雰囲気とか、ちょっとは欲しかったりもしますよ・・・笑)

パンダさん

 「奥様の自己評価の低さや自罰的な言動は、とても困惑したりイライラしたり腹が立ったり、ということに繋がるのでは」

 改めて考えてみると、以前はすごく大きいと言うことはないですが、それは多少あったように思います。今は素朴な実感としては全然無いように感じます。そこは繭さんが指摘して下さっている問題につながりそうな気がしています。

                      ↑

えーっ、そうなんですか?!(と、上のコメントを書いた後、あらためて思いました)。

うちの場合は、私の「自己評価低いモード」に比例して、夫のイライラ&怒りモードが上昇していたので、そうでない夫と妻の関係というのが、私には新鮮です。

しかも「全然無い」とは、信じられないほどの驚きです (・・)

そんなパンダさんと奥様なのであれば、「闘う」というのは、なんだか最初から全然違うような気がします。

それこそ、私も、私の経験の中からのことしか言えないので、

前のテーマの時に書いたコメントにしても、以前の夫と私の関係の中での「私の自己評価低い時期=夫がガンガン怒る」という図式があってのことでした。穏やかパンダさんへのメッセージとしては、かなり的外れなことが多かったかもしれませんね・・・すみません。

ただ、夫の名誉(?)のために言っておくと、私からは「イライラ&怒りモード」に見えていたことでも、夫の側からすると「自己評価の高い私 /好きなことを楽しんでいる私」であって欲しいがゆえの「叱咤激励」であったことも多いようですし(後にいろいろ話す中でわかってきたことですが)、

今では、私や子供たちが凹んでいるときの対応もバリエーションが増えてます(^^)

カレンさん

「えーっ、そうなんですか?!(と、上のコメントを書いた後、あらためて思いました)。
うちの場合は、私の「自己評価低いモード」に比例して、夫のイライラ&怒りモードが上昇していたので、そうでない夫と妻の関係というのが、私には新鮮です。
しかも「全然無い」とは、信じられないほどの驚きです (・・)」

 他の人が観察するとどう感じるかは分からないですけど (^ ^;)ゞ
 私の素朴な実感としてはやっぱりそうですね。
 思うことは

 「そんなに自己評価が低くて苦しんでいるパートナーに対して
  その自己評価を高める力を自分が持っていない」

 という現実を繰り返し突きつけられることについての無念さでしょうか。
 「共感」とか「励まし」、「側に寄り添うこと」など、
 定型的にはその相手の人の「自己評価」を高める力を持つことが、
 パートナーに対しては無力なんだということを知ったときのショックは
 ほんとに大きかったです。
 自分という存在が彼女に対して何の意味も持てないような気がして。

 今は彼女にとっての「支え」を別の角度から考え始められるように
 ちょっとだけなってきているので、そのショックは乗り越え始めています。
 ですから、「自己評価が低い」ということについて、
 悲しくなることや自分の無力さにうちひしがれることはあっても、
 怒りとか、そういう感覚はほとんど無かったように思うし、
 今は悲しくなることや無力さを感じるということも
 ほぼ無くなってきているように感じます。
 (無力でなくなったという意味ではなく、見方が変わったという意味で)

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