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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月10日 (金)

「見切り」をどこに置くのか?

 KSさんがコメントの最後の方ででこう書かれています。

 「私は、いまのところ離婚をなんとか処理するので手一杯で、「その先」ましてや「再婚の可能性」なんて考えられないですが、綾屋さんも「これは頑張ってもうまく行かない」関係を放棄されて、「頑張ればうまく行く」関係を手に入れられた訳で、自分の「見切り」をどこに置くのか・・・というのは、大事な問題ですね。」

 以前、joさんも同じような問題を書かれていたと思うのですが、この「見切り」をどこに置くのか、あるいはどこまでいけば「見切れる」のか、というのは、実際ほんとに難しいことだと思います。
 
 もしかすると、この見切りが「普通」にできる人はアスペと定型のズレの問題についてもそれほど傷つく前に見切ってしまえるのかもしれない。そしてそれがへたくそで、ずるずるとなってしまったり、変に(?)しつこく(?)こだわって何時までも見きれない人が、結局にっちもさっちも行かないところまで煮詰まってしまって、鬱になったり、命に関わるところまで行くという可能性も考えられないではないですよね。そこまで行ってようやく「見切り」を本気で考えられるようになるとか。

 もしそうなら、こういうブログに来てくださる方は、そのあたりが「へたくそ」な人が多いのかもしれないし、私なんかその最たるものかもしれません。いや、少なくとも私自身についてはそうである可能性が結構ありそうな気がします。しつこいというか、あきらめが悪いというか、見通しが悪いというか何というか……。「離婚」という言葉がかなり現実味を帯びて私の頭の中に彷徨いだしたのはやっぱり鬱になってからですね。

 ただ、仮に離婚と言うことになるにしても、その時期を考えると、子どもへの影響の問題がどうしても引っかかってきます。離婚した方が子どもにプラスになるともし思えていたら、比較的早い時期にそうしていた可能性もあります。でもそこがそう思えなかったことが「見切れなかった」原因の一つでした。

 これまでみなさんのコメントを読みながらいろいろ考えながら書いてきたことの中に、お互いのコミュニケーションが劇的に変化するひとつの理由は「アスペルガーと定型のズレ」という理解の共有ができることのようだ、ということがあります。そこが難しいと、どうしても一方が問題を抱え続ける形になってしまい(あるいは、お互いに自分だけで問題を抱え続ける形になってしまい)、「ズレ」を前提に一緒に調整する、という過程に入ることができないからです。だからどうしても「相手の理解を期待せずに一人で頑張り続ける」という形にならざるを得なくなってしまう。

 何がその共有の可能性を左右するのか、もしそれがどうしても困難な状況にある場合、じゃあどうしたらいいのか、ということは引き続き考えていかなければならない重要な問題だと感じています。当然その中には「解決法」としての「離婚」という選択肢も必要なものとして含まれるでしょう。

 joさんのように子どものことを考えてその選択肢は取らず、なんとか調整の方法を模索され続ける場合もあるし、みみさんのようにご自分についてはその選択肢を考えずにむしろ相手に学ぶような感じでいこうとされる方もあるし、チロさんのように子どものために「離婚」を選択しようとされている方もあるし、Alonaさんのように、「離婚」の時期を予め子どもの問題が整理された後という形で留保した上で、今は相手に合わせる形にする、という考え方もある。ほんとに様々です。  

 逆に結婚した後に「アスペルガーと定型のズレ」という理解が共有された場合は「離婚」という選択肢がなくなるのか、というと、それもまた違うように思います。カレンさんご夫妻のように、「アスペルガー」という理解がすぐに「福音」のような前向きの意味を持った場合もあるし、繭さんご夫妻のようにそれ以前からお互いに妥協無くぶつかり続けても、そのこと自体つながりを保つための前向きな相互理解に大事なことであり続け、「アスペルガーと定型」という理解は、その相互理解にまた新しい意味を加えるような積極的なものになっているように私には感じられる場合もあります。

 けれども私の場合は、その理解の共有は「じゃあどうしようか」と改めて考えるための出発点というか、仕切り直しのポイントというか、そういう感じでした。「どうしようか」の中には当然「離婚」も含まれるわけです。その直前にはもう「離婚」(または人生の終焉)しかない、あとはその時期をどう考えるかだけだ、というところまで煮詰まってしまっていたので、それに比べると「離婚も含まれる」というふうに選択肢が拡がったとは言えるかも知れませんが、でも決して「福音」というような積極的なものではなかったですね。

 ……と、「離婚」を巡るいくつかのカップルのたどってきた(たどりつつある)道筋を、ごく表面的な理解ですけれども見てみた上で、改めて「見切る」ってなんなんだろうと考えてみるとどうなるんでしょう?(あ、ここで「見切る」ということは別に「離婚を決意する」という意味だけではなくて、「改めて一緒にやっていこうと思う」ということも含みます)

 うーん、なんか複雑だな。少なくとも今の段階で私にはまだよく分かりません。「離婚を決意」とか「一緒にやっていくことを決意」とか、そうなったときには見切ったことになるんでしょうが、それは結果の話ですしね。どうしたら「見切り」ができるのか、何が「見切り」を生むのか、そういうことは私にはわからないままです。
 


 

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コメント

「見切りをつける」とは、「その事態に対するひとつの結論を出すこと」だと、わたしは思います。

それには、勇気は不要で、冷静に状況を判断することが必要だと。

判断するには、判断材料が要る。
判断材料は周囲にあふれているけど、それを見つけられるか、どうかが鍵。

たとえば、離婚の判断材料になる出来事に出会うと、葛藤が起こる。
その出来事(どんな些細なことでも)をどう判断するのかが、鍵なんでしょう。
「見切り」とは、その小さな判断の積み重ねの結果です。

(出来事が起こるには時機があり、その時機はふつう自分ではわかりません。)

出来事に対して、間違った判断を下せば、また別の形で葛藤の繰り返し。
正しい判断をするには…、自分の潜在意識を知ること、ですかね。
 
 
わたしは昔、大きな判断をしたことがあります。
母親にとてもひどいことをされて、大学を卒業間近にやめざるを得なくなりました。
そのときは先が真っ暗になって、本当に自殺しそうになりましたが、考えを改めて、家を飛び出しました。
それから、一度死んだつもりで、だれも知り合いの居ない土地へ行き、生活しました。
仕事もなく、貯金も無いままでしたが、たくましく生き、精神的に鍛えられたと思います。

結果としてその出来事は、わたしを生まれ変わらせるチャンスでした。
死ぬか、生まれ変わるかの判断だったと思います。

それからわたしは、自分に起こる出来事に対して、ある程度の判断を下すように癖をつけるようにしています。
わたしの人生は、
「何か引っかかったら、疑問を持ち、自分を問いただし、その都度判断をする」
…の繰り返しです。
 
 

わたしは未婚ですが、皆さんのおっしゃることはとても参考になります。

>「アスペルガーと定型のズレ」という理解の共有ができること

これは彼との生活でしていきたいです。
アスペと定型の違いはあっても、どちらも楽に生活できることを目指していきたいです…。

経済学者の友人が「効用>負の効用なら結婚継続、効用<負の効用なら離婚」(不等号これしか書けないのだけど、実際にはこの不等号が二重になってて、「はるかに大きい」「はるかに小さい」という不等号です)と助言してくれたことがあります。その時は経済学者らしい割り切った助言だなぁと思いましたが、今は真実をこれ以上ついている助言はないと思っています。

何が効用で何が負の効用かは、人やライフステージによって違いますよね。たとえば「離婚はいけない」という信念の持ち主だと、離婚することは「罪悪感」という負の効用が生まれる。

でも、私の場合は、やっぱり「好き」っていう素朴な感情や、「相手を尊敬できる」っていうのがないと、ダメかな。私はそういう感情が死んだので、プラスマイナスが大きくマイナスに傾いたという感じですね。

あと子どもが大学生になったというのも大きいです。「大学受験時に親が離婚して生活が変わることの子どもの受験(後の人生)への悪影響」など、離婚に伴う負の効用(逆に言うと結婚継続の効用)がぐぐぐ〜っと減ったので、それもマイナスに大きく不等式が傾いた要因です。

お久しぶりです。

今は、ちょっとだけ。

私たちの場合は、すでに離婚前提で別居までしていた最中にアスペルガーのことを知ったので、「違い」を知ったことが最後の一縷の望みだったのです。

今日の夜以降、数日分読ませていただきますね!

数日分を読み終えました。なんだか、何日か学校を休んだ後に、欠席していた間の遅れを取り戻す生徒のような気分です(笑)

上のコメント、正確には、

「離婚前提で別居していた最中に、アスペルガーのことを夫と共有でき、それを一縷の望みとして、何度も話し合った上でもう一度やり直すことにした」です。

私たちの場合は、

夫も私もお互いのことが好き・それぞれに子どもたちのことをすごく思っている・子どもたちは父親である夫のことも母親である私のことも好き、

それなのに、なぜかどうしてもうまく行かず、離婚前提の別居にまで至っていました。
(子どものことがあったので、定期的に、出て行った夫が家に戻ってきていました。)

でも、それでもやっぱりあきらめがつかず必死になっているときにたどり着いたのがあの掲示板で、そこのブログ主さんが紹介されていた「一緒にいてもひとり」にたどり着き、

夫と私が「一緒にいてもひとり」を読むことで、夫がアスペルガーであることを共有できたのが、別居開始から3ヶ月のことでした。

それから再び同居するまでの2ヶ月間は、それでも離婚の方向で考えるのか、離婚を回避して結婚を継続するのかずいぶんと逡巡しましたが、

自分たちの心身の健康を考えても(別居は、夫にも私にも予想外の喪失感をもたらしました)、子どもたちにとっての私たちそれぞれの存在の大きさを思っても、離婚はできないと思いました。

そして、自分にとっても夫にとっても子どもたちにとっても、今ここ家庭の中で、心臓と肺のようなものである夫と私が互いに攻撃し合っている場合ではない、という結論に達したのです。
                         
(たぶん、これが、私たちにとっての「見切り」のポイントだったのでしょう。)


もちろん、アスペルガーということを共有した上で再同居してからもいろいろと問題は生じ、掲示板にもいろいろと思いをつづっていましたが、

ひとつひとつの問題に、ひとつひとつ向き合ってきて、昨年秋にはなんとか落ち着いた、と言えるくらいにまでなり今に至ります。

先週、娘と会っていろいろ話しましたが、私が病気ざんまいの時期・夫と私がものすごくもめていた時期は、娘にとって「お母さんがいない時期」だったようです。

「あの時期はお母さんがいない感じだった」「そこにいるのに、いない感じだった」という娘の言葉・・・

なんと的確にあの時期の私の状態を言い表していることかと、とてもせつなく、やるせなく、「お母さんがそこにいてもひとり」という状態になってしまっていた娘のことを思いやる余裕のなかったあの時期のことを、胸の痛みとともに思い出します。

(息子の方のことについても、いろいろと思いはあるのですが、今ここですべてを書くことはできないので、また追い追いということにします。)

「私のためにも、家族のためにも、まずは私自身が元気になろう。元気でいよう」という、あの4年前の決意を新たにしているところです。

Anさんの

「「見切りをつける」とは、「その事態に対するひとつの結論を出すこと」だと、わたしは思います。それには、勇気は不要で、冷静に状況を判断することが必要だと。」

と、KSさんの

「経済学者の友人が「効用>負の効用なら結婚継続、効用<負の効用なら離婚」……と助言してくれたことがあります。その時は経済学者らしい割り切った助言だなぁと思いましたが、今は真実をこれ以上ついている助言はないと思っています。」

と、お二人はアスペか定型か、結婚か離婚か、ということについて全く異なる立場で書かれていることですけれど、なんかすごく似ているように思えて興味を持ちました。世界を効用(プラスとマイナス?あるいは損得?)で理解するということを考えた人って、もしかしてアスペルガーの人だったりして……

とはいえ、KSさんが「何が効用で何が負の効用かは、人やライフステージによって違いますよね。」と書かれているみたいに、なにをプラスと考えるかの判断やプラスとマイナスのどっちを大きいと考えるかの判断自体がじつはすごい主観的で、なんか誰にでも通用するような「普遍的」で「客観的」な基準はできないわけですよね。

Anさんは「正しい判断をするには…、自分の潜在意識を知ること、ですかね。」と書かれていて、その「潜在意識」というのがまた難しくてわけわかんないところがあるし、KSさんの「でも、私の場合は、やっぱり「好き」っていう素朴な感情や、「相手を尊敬できる」っていうのがないと、ダメかな。」というところもとても分かる気がする一方で、「好き」という感情自体がめちゃくちゃ謎めいてますから、なんかそういうの、予め「計算」できそうにもないし。やっぱり難しい。

ただ、KSさんの「私はそういう感情が死んだので、プラスマイナスが大きくマイナスに傾いたという感じですね。」というのは、定型の私にはすごく説得力がありました。理屈はあとからいろいろ付けるかも知れないけど、とりあえず相手の人を求める気持ちが続くかどうか、そこですよね。

カレンさんの「別居は、夫にも私にも予想外の喪失感をもたらしました」という、離婚されなかったことに関する体験談も加えて、KSさんと私と三人の例だけで「定型は」というのはちょっとおこがましいですが、今のところでは最終的に「相手を何らかの意味で必要と実感できるかどうか」というあたりが「見切り」の境目になるのかなあ。ただ「どこが最終なの?」というのがまたややこしいですね。そのあたりも結局結果論になるのかな。

なんか、「最後はあなた自身がそれで幸せに思えるかどうか、生き甲斐を感じられるかどうかということなんだよ」、という、とっても素朴な結論になってしまうような感じもします。「自分の心に聞いてみよう」みたいな。

それとアスペルガーの方の立場からすると、そこがこの三人の例とどこまで共通するのかどうか、そこもまだ私には謎です。定型よりも「理性的に考える」から逡巡することが少なかったりとか、そういうことってあるんだろうか?

うーん、なんか、もともと働かない頭が今日はますます働かなくなってます。すごい不完全燃焼感…… (^ ^;)ゞ

その経済学者の友人に「私、離婚しようと思う。でも、もしかしたら夫はメンタルに問題抱えてるかもしれず(発達障がいのことは話がややこしくなるから言ってない)、なんだか見捨てるようで少し罪悪感も覚える」と言ったら、「罪悪感感じることなんか、ぜ〜んぜんないって。だって、彼の人生は彼の人生であって、彼自身が自分の責任で生きるべきもので、あなたの人生じゃないんだからさ!」と言われました。

夫がアスペルガーだったとしても、「アスペルガーで生きにくいだろうから、気の毒だから、支援を必要としてるから、結婚を継続する」というのは、一人の人、一人の男性としての夫に対して失礼だと思いました。また、アスペルガーの方、全般に対しても。

だって、ここの来ていらっしゃる当事者の方たちは、それぞれに魅力的で、それぞれの人が「その人そのもの」だから。

その人がアスペルガーかどうか、じゃなくて、私にとって、その人が魅力的かどうか、というのが、配偶者を選択する場合も、友人として親しくおつきあいさせていただく場合にも、大切な「基準」かな?と思います。

配偶者と友人では、違う部分もあると思いますが。でも、それは定型同士でも同じですよね。配偶者は日本の法律では1人だからね。友達はいっぱいでもOKですもん。

たとえば、「あなたは目が見えなくて、自分一人で生きていくのは大変だろうから、結婚してあげる」なんて、すっごく傲慢で変なことだもんね。

目が見えないけど(あるいは、目が見えないゆえの苦労ゆえに深みの増した性格のゆえに)、あなたのこと好きだから、私、あなたの目になってあげる・・・というのは、アリだと思うし、そういう相手なら、一方的にこちらが支援するだけじゃなくて、励まされたり、優しくされたり、そういう双方向な関係が作れるはずだと思う。

私にとっては「見切り」は、その双方向性かな? 

あとは、たとえば、相手が認知症になっちゃったり、植物人間になっちゃって、双方性がほとんどなくなっちゃっても、それまでの間にもらったものの総計が、愛おしい相手の最後をみとりたい・・・という気持ちとして表れるかどうか?かな。

私はあまり勉強しない学生でしたが経済学を専攻してたのでメリット、デメリットの感覚はすごくあります。若い頃、遠距離片思いをしてた頃は、会えないいしんどさが会えたときの嬉しさを超えたら辞めようと決めてました。結局、私の気持ちが冷めて会えたときの嬉しさが減ったと感じ、もう辞めどきだなと悟りました。こう書くと冷静沈着のようですが、何年もあがいた末のことです。

夫に「この結婚生活にはメリットがないから離婚したい」と言うと、メリット=金銭とか便宜と思ったようで「メリットって何だよ!」と怒ってましたが、メリットって嬉しい、楽しいという気持ちですよね。「私が掃除したりご飯作ったり、あなたにはメリットがある。あなたがなりたがっていた既婚者にもなれた。でも、私には話し相手にもならず生活費は折半。私は何のためにあなたのご飯を作ってるの?」(←アスペルガーに禁物の疑問形!)と言うと、夫は「そりゃあ愛だろ、愛」と即答。愛とか好きとかの言葉は厄介です。

私の場合は、最初の方こそ夫に認められたいという気持ち(意地?)がありましたが、あとは責任と義務(悪気のない夫に対して、自分の選択に対して)と子供にとっての父親の存在がメリットと言えるものでしたが、子供への接しかたをみるうちに父親の存在というメリットが薄れ、夫といると自分が鬱になったことでデメリットが増えました。

先日もDV夫を妻が殺害したニュースがありました。追い詰められ、逃げる選択肢が見えなくなったのでしょう。子供がいては逃げるのも大変でしょう。悲しいです。
私も夫が離婚に応じないときは、離婚できない→どちらかが死ぬまでこの苦しみが続く→まさか殺す訳にはいかないから自分が死ぬ?→でも自殺すると身内に迷惑かける→夫だって新婚の妻が自殺じゃ世間体悪いだろう。だいたい世間体悪いから離婚したくないんだし→ 自殺より離婚の方がよっぽどマシじゃない?→でも結婚したのは私の責任。相手に落ち度ないのに離婚なんて許されないのでは?→でも殺人犯だって出所して生きているる→離婚は法律でも認められている訳だし→離婚してもいいんだ!という思考で自分に離婚の選択肢を許しました。その後は思考停止のまま別居が続き、今になって夫が離婚を言い出したという状況です。だから、私の場合は離婚したいかどうか悩んだことがないのです。離婚はけしからんという意見に言い訳を探していただけ。アスペを知ってからは、夫を別の角度から見れば変わるかな?と少し期待したこともありましたが。

結婚は悩みました。悩んで悩んで、最終的に見切り発車だと感じながら清水の舞台から飛び降りる気持ちで決めました。結婚はタイミングだ、今逃げたら逃げ癖がつく、なんて思いながら。
結婚した後思ったのは、結婚はあんなに悩んで決めるものではないんじゃないかということ。幸せそうなカップルを見ると、当然のようにすんなりと結婚している。
これが離婚にも当てはまるかどうかはわかりませんが。

KSさんの

「その人がアスペルガーかどうか、じゃなくて、私にとって、その人が魅力的かどうか、というのが、配偶者を選択する場合も、友人として親しくおつきあいさせていただく場合にも、大切な「基準」かな?と思います。」

そのほか書かれていることに、なんかすごく納得です。「アスペルガー」ということもその人の個性の一部として、それが自分にとって大切なら話は別だけど、「アスペルガーだから」結婚してあげる、とか、別れないでいてあげる、とか、あるいは別れるとか、そういうのはどれもなんか私的には違和感がありまくりだったんですよね。

「私にとっては「見切り」は、その双方向性かな? 」

これもほんとに納得の感じ。もちろんアスペと定型の間では「支援」とか「励まし」とか「優しさ」とか、そのあたりの表現とかに結構深刻なズレがあったりして、それが問題をややこしくするんだと思うけど、でもやっぱりある程度「翻訳」可能な形ではそれは存在しているということが、私にはここのやりとりでも少しずつ実感できてきたわけだし、そこをお互いに見いだしてみようという努力はある程度までは必要だと思うんだけど、そういうことを前提にしてなお「双方向性」が感じられなければそれはもう「ご縁がありませんでしたね!」で正解という気がします。

あとは社会的なしがらみに縛られて……みたいなことが重たくのしかかる場合もあり得ると思いますが、そこはまた少し別に考えるポイントで、なんか基本はKSさんの書かれたことのような気がします。しかも最後のこれが私には効きました。

「あとは、たとえば、相手が認知症になっちゃったり、植物人間になっちゃって、双方性がほとんどなくなっちゃっても、それまでの間にもらったものの総計が、愛おしい相手の最後をみとりたい・・・という気持ちとして表れるかどうか?かな。」

うーん、私としては自分自身の問題としてなんかかなりすっきりした感じ。他の方はどう感じられたんでしょうね。

私は人生に関わるような大きなことで「見切りをつける」ことがなくて、少し考えていました。

私は「見えてくる」まで待つことが多いです。
試せることがあるうちはそれを端から行い、やり尽くしたら、考えて、それも出尽くしたら、後は無意識に任せて、問題から気持ちを離します。と言うより、自然に離れます。
その頃には「出来ることはやった」という気持ちになっています。

しばらくその状態で過ごしていると、時間はまちまちですが、ある時、結論がすとん、と降ってきます。それが「見切り」ということになります。
結論の理由もその時には分かりますが、何よりも気持ちが納得しています。

日常の小さなことから、人生の大きなことまで、基本的にはこのやり方で結論を出してきました。
Anさんの「潜在意識を知る」や、パンダさんの「自分の心に聞いてみよう」と似たようなことをしているのだと思います。

現状への可能性への現実的な材料を集める→想像内で可能性を探る→材料が集まったら、自分の本心(無意識)に判断させる。といった感じです。
無意識に任せるまでの間は、うだうだ悶々とすることも多いですが、結論が出た時には、迷いがなくすっきりしているので、このやり方が私に合っていると思います。

迷った時によく考えるのは、「明日も、一年後も、十年後も、幸せでいる為には」ということです。
いつも手放しで幸せということではなくて、どれだけ日々を納得して過ごすかということを、自分に確認するような心持ちです。納得していない今日を十年分積み上げて、十年後の今日が幸せとは想像できないのです。

私たち夫婦にとっては、結婚が「見切りをつけた」ときでした。
私のアスペルガーとAC問題は、どちらも名前は知らなかったものの、結婚前にほぼ表面化していたので、それらを含んだ結婚生活を、私も夫も(感謝です)覚悟していました。
そういう意味では、アスペルガーを知ったことは、問題の理解には大変役立ちますが、問題の本質には関わりがありません。「解決は、二人で話し合って」は、これまでも、これからも変わりません。

>それとアスペルガーの方の立場からすると、そこがこの三人の例とどこまで共通するのかどうか、そこもまだ私には謎です。定型よりも「理性的に考える」から逡巡することが少なかったりとか、そういうことってあるんだろうか?

私に関しては、理性的に考えて逡巡せずに済むのは、心の問題以外のことだけです。
愛着の対象には、理性では対処できないので、「分かっていても、逡巡して、悶々とする」期間が長いです。
私の母の問題に、今悶々としている最中です。でもそれも、上記の経過の中だということは分かっているので、何年後かは分かりませんが、それまでは気の済むまで悶々とします。
そうしたら、いつか結論が降って来るでしょう。頭では母のことは既に諦めているので、後は心の問題です。

今、KSさんの追記部分を読んで、パンダさんの仰る「理性的に考える」の意味が分かったように思います。

>「私、離婚しようと思う。でも、もしかしたら夫はメンタルに問題抱えてるかもしれず(発達障がいのことは話がややこしくなるから言ってない)、なんだか見捨てるようで少し罪悪感も覚える」

この罪悪感に関わるような部分(情のようなもの)という理解で合ってますでしょうか。
この部分に関しては、私は(対等でない)親子関係以外には、あまり迷いません。KSさんのご友人と同意見です。
逆に、誰かに幸せにしてもらおうとする人や、誰かを幸せにして「あげ」ようとする人とは、距離を取りたくなります。

これを言うと夫は怒りつつ悲しむので、普段は言いませんが、夫が私といてメリット(幸せ)を感じられなくなったら、それは私にもメリット(幸せ)がなくなるので、関係は続けられなくなると考えています。逆も然りなのですが、今のところ考える必要を感じていません。

自分が満足することと相手が満足すること、お互いがこの二つの為に努力することは、二人でいることに必要な条件だと思っています。それが続けられる関係だと思えたので、夫と結婚する「見切り」が付いたのだと思います。

上の自分のコメントを読み返していて、反省しています。

>逆に、誰かに幸せにしてもらおうとする人や、誰かを幸せにして「あげ」ようとする人とは、距離を取りたくなります。

これは言い過ぎでした。
人には色々な理由や気持ちがあるのに、それを言葉尻や態度だけで断定するのはよくなかったです。私の悪い癖を出してしまいました。

嫌な思いをされた方がいらしたら、申し訳ありません。

>繭さん
別にいいんじゃない? 繭さんがそういう人を避けたいだけで、そういう人の存在否定してる訳じゃないんだから。

繭さん

私もKSさんと同じことを思いました。
誰かを誹謗中傷する話は別ですけど、
お互いの好み(の傾向)を知ることも大事かと。

「見切り」の問題を考える時、ジェンダーの問題というのも「重たさ」を持ってますよね。

結婚で女性が仕事を辞めたり、変わったり、減速したりすると、経済面では、ほぼ取り返しがつかないくらいのハンディを負うことになる(ことが多い)。離婚後、自分一人食ってくことすらままならない場合もありますからね。まさに、生存に関わるハンディを負うことになります(なることが多い)。

男性には、そのことへの「負い目」もあるだろうし、責任感もあるだろうし、実際、責任もあるでしょう。

だから、経済的社会的に失うものの大きい女性が関係を絶つ場合に比べて、(誠実で真面目で優しい)男性が関係を絶つのは心理的にハードル高いかもしれないと思います。不誠実で不真面目で身勝手な男は履いて捨てるほどいますけどね。

いろいろの社会制度が整って、出産・育児が女性の生存にハンディとならない時代が来ればいいと思います。そうなって初めて対等な結婚というものが可能になる気がします。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、と男女ともに正々堂々と言えるようになると思います。

まぁ、「愛情に基づいた結婚」(ロマンティック・ラブ)というのは、欧米中心の、たかだか200年くらいの歴史しかないイデオロギーではありますけど。

あちらの掲示板に書いたのですが、私、最近、「母はアスペルガー?」というのに気づき、衝撃を受けています。私自身、かつても今も、耳をふさいで「やめてくれ〜!」と叫びたくなることがあったりするので、父が暴力にからめとられてしまったことは、絶対に許せないし、許していないし、今後も許すつもりはないけれど、父が少しずつ心の歯車を狂わせていったプロセスは理屈でというよりは、体感的に理解できます。

ガラスの割れる音、家具が壊れる音・・・私が体験した恐ろしい破壊のエネルギーが、パンダさんやjoさんの場合、ご自分のうちに向いていったと思うと、どれだけ苦しかったろうと思います。

そして、alonaさんが、精神を二重構造にして「子どもが大きくなるまで」と踏ん張っておられる、その大変さと、しんどさを思うと、胸がしめつけられ、呼吸が苦しくなるほどです。

でも、今は「辛い」と思ったら先に進めないから、とにかくがむしゃらに前に行くしかない。

今思えば、私もそうやって夫との問題を先送りにしながらここまで来たのだと思います。子どもが小さいうちに家庭に波風立てたくなかったから。「きちんと向き合う」が「結婚を解消する」に結びつく危険が小さくないことを、こころの奥底のどこかで直感してたから。

alonaさん、どうぞいましばらく頑張ってね。私、遠くからいつも声援送ってるから。


繭さん

>私たち夫婦にとっては、結婚が「見切りをつけた」ときでした。
私のアスペルガーとAC問題は、どちらも名前は知らなかったものの、結婚前にほぼ表面化していたので、それらを含んだ結婚生活を、私も夫も(感謝です)覚悟していました。
そういう意味では、アスペルガーを知ったことは、問題の理解には大変役立ちますが、問題の本質には関わりがありません。「解決は、二人で話し合って」は、これまでも、これからも変わりません。

ここを読んで、確固たる&揺るぎのないお2人の決断と結束に感動を覚えました。

もし、自分たちが結婚前にアスペルガーのことを知っていたとしたら、どういう決断をしていたのだろうとか、もし娘が将来結婚するとしたら、どんな人とどんなプロセスを経て結婚するのだろうとか、いろいろなことにも思いを馳せます。

アスペルガーのことについては、いつかもどこかで書きましたが、この2年間、アスペルガーという概念や症状について、ひとしきり本を読んだり実生活の中であれこれ観察したり、その部分だけを取り出してじっくり考察してきてきましたが、

今では、アスペルガーというひとつの個性がスポッと、夫や娘の中の一部としてはまったような気がしています。パンダさんの言われるように、「アスペルガーで"も"ある」人という感覚でしょうか。ここまできてしまうと、それは、もはや夫や娘の特徴のひとつでしかなく、とりたててどうこう言う感じでもなくなってきているような気もします。

たぶん、自分の受け止め方のステージが徐々に変化してきているのでしょうね。


ところで、母のことは、このブログで書かせていただいたおかげで、その後急速に、客観的に落ち着いて考えることができるようになり始ました。パンダさん、読んでくださった皆さん、アドバイスいただいた皆さん、ありがとうございました。

KSさん

KSさんの子ども時代のご経験とうちの子どもたちの経験が、ずいぶん前から、とても重なる気がしていました。うちは、物理的に物が壊れるようなことはなかったですが、とにかく喧嘩が激しかったですから・・・。

特に娘の方に対しては、とにかく気持ちを聞いて受け入れてやりながら、今後、遅まきながら、失われた数年間を埋めていく共同作業が必要だと感じています。

(私にとっても娘にとっても、ほとんど空白と言っていい数年間があることを娘との話の中で確認し、その時期のことを、今後、ゆっくり思い出しながら、少しずつなんとかしていこうと思います。)

このことについても、KSさんのお話、いろいろ参考にさせていただきたいと思います。

カレンさん

「パンダさんの言われるように、「アスペルガーで"も"ある」人という感覚でしょうか。」

 うちの場合、最近は「アスペルガー」とか「定型」ということが
 お互いのコミュニケーションの中で「ネタ」になってきてます (^ ^;)ゞ

 「これだから定型は困ったものだ!」とか「なに?それもアスペルガーのせい?」とか、
 相手をからかったり、笑いながらやんわり「批判」したりするネタですね。
 この「定型」とか「アスペルガー」の部分を、たとえば「男」とか「女」とか、
 あるいは「けちんぼ」とか「鈍感」とか、そういう言葉に置き換えて言うときと
 「シビアさ」のレベルはある意味あんまり変わらない感じになりつつあるかも。

 つい半年前には想像もつかなかった変化です w(゚o゚)w

KSさん

「だから、経済的社会的に失うものの大きい女性が関係を絶つ場合に比べて、(誠実で真面目で優しい)男性が関係を絶つのは心理的にハードル高いかもしれないと思います。」

 私のパートナーの場合は、福祉関係で収入はほんとに低いですし、アスペルガーが持つハンディのせいで、職場になじむのも大変だし、もっといい条件の所に移ることはさらにものすごいハードルの高さになります。

 だから、仮に離婚という選択肢になったとした場合には、彼女は生活そのものがものすごく困難になる可能性が高いので、収入を合計して折半とか、なんかそういうことは考えざるを得ないだろうなと言うことは思っていましたね。

 「私が体験した恐ろしい破壊のエネルギーが、パンダさんやjoさんの場合、ご自分のうちに向いていったと思うと、どれだけ苦しかったろうと思います。」

 ありがとうございます。もともと昔から精神的には鍛えられて、人よりはかなり逆境に強い方ではあったと思うのですが、その自分がほんとに沢山の方に言葉に尽くせないご迷惑をおかけする状態にまで「崩壊」していったというのは、たしかに自分で当時自覚していた以上に深刻なことだったと思います。

 同時に今別の意味で深刻だなと思うのは、そういう自己崩壊の「原因」は、決して自分の努力不足とか、パートナーの「悪意」によるものではなかったという事実です。「アスペと定型のズレ」ということについてのお互いの無理解が、それに対する有効な対処を探す可能性を失わせていたんですね。結局お互いに自分の視点でしか相手の言動を判断できなかったことで、あれだけ苦しみ続けたと言うことになります。

 アスペと定型のズレ、という理解が共有された後は、それでもずっとしんどい状況が続き、ある面ではさらに状態が悪くなる面もありましたけれど、ただひとつだけ、パートナーがものすごく誠実に、そして私のことを考えて、そのためには自己犠牲も厭わない、という姿勢が確実に伝わってくるようになったことはある意味決定的だったと思います。

 もちろん、そうであったとしてもやはりお互いのために離婚、という選択肢も引き続きありました。そのズレに自分の精神がどうしても耐えきれない可能性もやはり残るからです。けれど、仮にそうなったとしても、それは「お互いに力が及ばなかったからだ」と納得できる形になったと思います。そこまでは何とかコミュニケーションをしっかりしていきたいと考えていました。

KSさん、パンダさん、ありがとうございます。

好みとしては、自分の足で立とうとする人が大好きです。
上の自分のコメントを読み返していて、好み以上の感情が強く感じられて、「これは八つ当たりなんじゃない?」と自己突っ込みが入った次第でした。

どこか私には、幸せにしてほしいとか、してあげたいという風に考える人が羨ましい・妬ましい気持ちがあるのです。
こだわりが強すぎて、母以外の依存対象(人にも物にも)に拒絶反応が出て依存できず、そのまま大人になり、自分の足で立たざるを得なくなった、不満いっぱいの子供の自分が、まだいるのだと思います。
依存的な人を見て、「私はあなたとは違う」などと思っていましたが、依存気質たっぷりの私の負け惜しみ的な感情をねじったものでした。

結果的に、小さな依存を織り交ぜつつ、山谷の地を直線で突っ切るというような、近道だか遠回りだか分からないルートを取って来たことは、今の私には誇りともなっています。
けれど、思い切り依存することへの満たされなさは、まだ顔を出しているみたいです。

うだうだ書いてみたら、なんだかすっきりしています。こういう自分を出すの、以前はためらわれたのですが、これも私と思ったら、まぁいいかと思えるようになりました。
KSさん、パンダさんに、感謝です(^ ^)

カレンさん

>ここを読んで、確固たる&揺るぎのないお2人の決断と結束に感動を覚えました。

私たち夫婦は揺れも大きいですし、決然としている訳でもないので、なんだか嬉し恥ずかしです(^ ^)
お互いぐしゃぐしゃに泣きながら、自分をさらけ出し合うことを何度も重ねて来て、根本が「二人でいること」だと確認し合えたことが、これからも変わらないと思える理由なのだと思います。

>パンダさんの言われるように、「アスペルガーで"も"ある」人という感覚でしょうか。ここまできてしまうと、それは、もはや夫や娘の特徴のひとつでしかなく、とりたててどうこう言う感じでもなくなってきているような気もします。

何人かの方に、私がアスペルガーとは思えないというコメントをいただきましたが、その時に思うのは、「私がアスペルガーかどうか」ということが重要なのは、本当は私自身にではなくて、周りの人たちにこそ重要なのだろう、ということです。

私はアスペルガーでも、人格障害でも、定型発達でも、中身そのものが変わることはありません。それをどう呼ぶか、どう説明したら、安心して歩み寄れるのか…ということなのかな、と思っています。
勿論、治療可能な疾患であれば、私にも重要度が増すのですが、アスペルガーは工夫と改善が主ですし、私は自分の世界の視え方が好きなので、そこが「治療可能」としても、治すつもりはありません(笑) 私は私です。

私の夫はアスペルガー・定型という考え方に対して慎重でした。
今もアスペルガーについて話をするとき、「定型と自分のことを言うのは好きじゃない」と言います。
レッテル貼りみたいな考え方になることを恐れているとも言っていました。そういうところ、たまに面倒ですが、私が好きなところです(^ ^)

KSさんやパンダさんが書かれていた、「介護ができるかどうか」については、夫と2ヶ月前に、あることをきっかけに話したところです。

詳細は省きますが、

「夫さんが具合が悪くなると、正直、どうしても以前の恨みつらみのようなものが湧き上ってきてしまう。実際具合の悪い最中には言えないし言わないから、元気な今言っておくけど。で、将来もし私が夫さんの介護することになったら、まだ今のままだと、私、けっこうひどいこと言ってしまうかも」

と、私が言ったところ、

夫の答えは、「それはこれまでのことを考えたら、いたしかたあるまい。もしそうなったら、甘んじて受けよう」でした。

あまりにも、夫が真剣に静かに語るので、「えっ、そうなの?!」と言いながら、なんだか笑ってしまいました。そしてこれが、この2年ほどの夫の言動と考え併せてみて、内心「あ、これなら介護できる」と思った瞬間でした。

繭さん

>お互いぐしゃぐしゃに泣きながら、自分をさらけ出し合うことを何度も重ねて来て、根本が「二人でいること」だと確認し合えたことが、これからも変わらないと思える理由なのだと思います。

次のテーマのところのコメントとして、まさにこのあたりのことを書こうと思い、PCを開いたところでした。あまりにも同じようなことを書こうとしていたので、びっくりでした。

あと、「アスペルガー」という名称はともかく、それに対しての「定型」というのは、繭さんのご主人と同様、私も好きではありません。うちでは、私は「非アスペルガー」と言ってみたり、「便宜上、定型という言葉を使うけど・・・」という前置きをしたりしています(笑)

それにしても、繭さんのご主人はいいなぁ。繭さんにストレートに「好き」と言ってもらえて(^^)

追加です。

「アスペルガー」「非アスペルガー」「便宜上、定型」の他に、最近では「限りなくアスペルガーの特性を多く持った定型」「定型中の定型」などという言い方も、我が家の中では造語されています。

親兄弟親戚について、スペルクラムの位置を考えてみたり、

夫:「共通の友人の中で、定型中の定型って、カレンさんは誰だと思う?」
私:「うーん、○○○さんかなぁ。」
夫:「なるほどねー!納得!」

みたいな会話をしたり。

最初の頃のようには、こだわりがなくなった分、「元○○勤務経験者・現○○勤務の私としては」「妻としては」「母親としては」「女性としては」等々と同じようなレベルで、「かろうじて定型であろう私としては」などというフレーズも使うようになってます。

夫:「それって、定型的には当たり前なわけ?」
私:「それは、定型的には当たり前ですよー。」

とかいう会話も。

>カレンさん

親も限界を抱えた一人の人間です。

そのことを頭では分かっているけれど、心で分かることが子どもには難しい。子どもは、子ども時代に「親が自分を最優先に考えてくれた」「親が命がけで自分を守ってくれた」ということを実感できないと、いくつになっても「親にも限界あるんだし」ということを認められない。

「じゃ、自分は親として完璧なの?」とか「人間として完璧なの?」と問われれば、「ごめんなさい。不完全です」と答えるしかないのに。

でも、大丈夫。カレンさんとカレンの夫さんは、私の両親とは違って、真剣に相手を求め合っての喧嘩でした。まっすぐに向かい合った喧嘩でした。そして、また、そのことについて、子どもに「淋しい思いをさせた」ということを、きちんと語っています。

私の場合は、今、母に「DVがあって辛かった」と言っても、「ほんとうにお父さんはひどい人だったねぇ」という言葉しか返って来ません。頭の中では、母が父の暴力に立ち向かうことは不可能だったと分かっていても、心はそれをしてくれなかった母を許せません。あるいは、それが出来なかったことについて、「可哀想なことをした」と思ったり、言ったりしてくれない母を許せません。

でも、叔母が「そんなひどい暴力があったなんて知らなかった。知らなくてごめんね。助けてあげられなくてごめんね」って言ってくれたの。私は、その一言ですごく救われた。大人は誰も私を助けてくれなかった・・・ということに対する傷がずいぶんと癒えました。

息子が生まれた時、私は「命に代えてもこの子を守る」と思いました。暴力やどなり声の現場に立ち会わせたくなかったから、父には一度も孫に会わせなかった。初孫だし、まわりからは批判されたけど、息子を危険に一歩も近づけたくなかった。

だけど、「命がけ」を見せてくれたのは息子でした。夫と言い争いになった時、まだ2歳くらいの息子が頭から夫に突進していったんです。

夫の女性問題が発覚して、私が苦しんでいた時(女性問題そのものも不愉快ではありましたが、それよりも、コミュニケーション不能な状態により苦しみました)も、まだ高校生の息子が、「お母さんが苦しいなら離婚して。僕はお母さんが苦しいなら、2人で頑張る方がいい」って言ってくれました。

私は、もうこの先何もいいことなくても、こんな息子に出会えただけでいい・・・。幸せです。そして、この息子に会うためには、夫と結婚するしかなかったし、こういう子に育ったことの半分は夫のおかげなので、その点では、結婚に後悔はありません。

今後のことは、また別。

あ、なんか話がそれちゃったけど、カレンさんのところは全然大丈夫。娘さんの傷は、少しの時間で癒えます。

KSさん、きっと、お仕事や離婚関係のことでお疲れのところでしょうに、お返事ありがとうございました。もう泣けてしまいます。

あちこちで書いてきたように、やっぱり私が一番気にかけているのは子どもたちのことです。

次のテーマでのところに昨夜書いたように、4年前の入院までの私はボロボロで、そんな状態の中で考えるのは子どもたちに与えてしまった傷の大きさと、そんな傷を与えてしまった取り返しがつかない(と、当時は思っていました)自分の罪の大きさでした。

入院中も毎晩のように子どもたちの夢を見て、子どもたちの体調が悪いと聞けば自分のせいだと自分を責め・・・でも、そのちょっと前の新緑体験や入院中の様々な体験のおかげで、やっと人生の中で初めて自分の中に自分の居場所を見つけ、なんとか、本当にやっとなんとかなったきたのですが。

昨年の夏ぐらいから、断続的に娘から涙ながらのいろんな思いを聞くようになったのですが、小学校?保育園?の頃から我慢していた涙を、去年から一気に流している感じです。

私の場合は、その涙がやっと出たのがほんの数年前のことなので、それを思えば、娘はまだ大丈夫かな、とは思うのですが・・・今は、娘とともに娘の保育園時代~中学時代あたりを行ったり来たりしながら、主に中学時代にいる感じです。

息子とは、夫と別居&娘が大義名分のもとに1年家から離れていた時期に(娘がいない1年間の途中、夫と別居)、2人だけの時間を過ごし、その後もそれなりに、失われた小学校高学年~中学初期の時代を取り戻してきているように思っていますが、

娘の方は、昨年からやっと、やっと今・・・というところです。

KSさんの息子さんのお話、2歳の頃のことにしても、高校生の時のことにしても、そのけなげさに泣けてきますよね。そして、その息子さんにKSさんがどれほど力を与えられてきていらっしゃるのか、とてもよくわかります。

お母様のことは、私の昔からのとても親しい友人が同じことをよく話しています。叔母さんのお話も印象的。いつか掲示板で触れた別の友人も、同じようなことを話していました。誰かひとり、誰かひとりでいいから、自分のことを本当にわかってくれる大人にいて欲しいんですよね。

話がまとまりませんが、

KSさん、本当にありがとうございます。

やっぱり子どものこととなると、自分がいかに昔のことをずっと引きずってきたかを知っているだけに、「なんとかなる!」「なんとかする!」「トラウマの連鎖は断ち切る!」と思いつつも、どこか弱気なところもふっと出てきてしまいます。

昨日、体調ボロボロ時代の日記を久々に見たせいか、今朝は少々テンション低めのスタートでしたが、「全然大丈夫」のお言葉に元気をもらいました。よし、外に出られる元気があることに感謝しながら、今からちょっと外に行ってきます(^^) 

ちなみに、まるっきり付け足しですが、カレンの夫さんの名誉(?)のために書いておくと、
最近になって、「もし離婚したとしたら、どうしてた?」と子どもたちに尋ねたところ、

娘  :「どっちにもついて行かない、この家に残る方と一緒にいようと思っていた」
息子:「○○について考えたらお父さん、△△について考えたらお母さん・・・うーん、わからん」

だそうです(苦笑)

ロム専に戻ろうと思ったけど、ちょっと、この場をお借りしますね、パンダさん。

KSさん。

>そして、alonaさんが、精神を二重構造にして「子どもが大きくなるまで」と踏ん張っておら>れる、その大変さと、しんどさを思うと、胸がしめつけられ、呼吸が苦しくなるほどです。
>
>でも、今は「辛い」と思ったら先に進めないから、とにかくがむしゃらに前に行くしかない。

夫は、もちろん、親や姉妹すら知らない、私の生活の現実をわかってくださって、涙が
出ました。
今の私は、子供たちの為に、どうしても、負の連鎖を断ち切りたい。それだけなんです。
そのためなら、どんなことでも、できます。(我慢ではなく・・・)

過去の様々なトラブル、もめごと、暴力、すべての疑問、謎が、「アスペルガー」という
概念で、すべて、解けたのです。
今では、「石につまづいたら、石が悪いとしか考えられない」夫をかわいそうに思うように
なったのです。
今までの私は、目の見えない人に、「どうして、見えないのよ(怒)」と文句言ってたのと
同じことです。

今は、家族5人揃って、夕食を囲む時間が、一番、幸せです。
私以外の4人は、みんな、野球が大好きで、テレビを見ながら、あーだ、こーだ、
言ってます。夫も、子供たちも、みんな、楽しそうです。
本当に、ホームドラマの1シーンのようです。
私は、この時間を守るためなら、女優でも、夫の親にでも、何にでもなれます。

KSさんこそ、井戸端掲示板の方で、親身にアドバイスされたり、アストン博士にメールを
送ったり、いつか、ワークに参加したい、とか、すごい方だなぁ~と、いつも、尊敬
しています。
KSさんが、心穏やかに過ごせる日がくることを、私も、陰ながら、祈っています。


パンダさん、私的にお借りして、すいませんでした。
それにしても、今の私は、実は、夫のことよりも、長男の方が気がかりなのです。
何も、発達障害的なことは、表面では、見えないけど、やっぱり、ちょっと、どこか、
違う気がする・・・
でも、そのどこか、が、わからない・・・・

場の空気も読めるし、気配り、気遣いもできる。
友達もいるし、遊べるし、運動神経もいい。
普通だけど、でも、何か、引っかかる・・・

この症候群というか、圏というか、まだまだ、見解が統一されていなくて、
不明なことが多い、この分野・・・
大人をきちんと診断できる医者もまだまだ、少ない・・・といわれていますし・・・
発達障害に関する言葉や用語、横文字も、実に、たくさんあるんですよね。

ここにコメントされる方の意見は、どれも、生の意見で、とても、勉強になります。
時々、難しすぎて、理解できない時や、定型と非定型がこんがらがって、
不消化に陥る時もありますが・・・・
これからも、パンダさんのブログに期待しています。
頑張ってください。(禁句?)  応援しています。

Alonaさん

「パンダさん、私的にお借りして、すいませんでした。」

 あ、いや、ここ、全員が断りも無しに私的に(好き勝手に)使ってるみたいで、
 だ~れもびた一文、寺銭呉れないんですよ……
 ああ、お金が欲しい!

「これからも、パンダさんのブログに期待しています。
頑張ってください。(禁句?)  応援しています。」

 ありがとうございます~ m(_ _)m
 というか、皆さんが私的に生で面白いこと書き込んでくださるので
 ありきたりの教科書みたいじゃなくて否応なく面白くなりますね、
 おかげさまで私の体調の方もだいぶ良くなってきたみたいです。 

超超超亀コメントですみません。

少し横道からそれますが、最近、私自身が「見切り」をつけていることがあります。

それは、『理想的な当事者』&『理想的な嫁』になると言うことに「見切り」をつけたこととです。

「これぞ、当事者の鑑」とか「これぞ、自閉さんの妻の鑑」と言う枠に無理矢理でも頑張って目指していたのですが、怒り&鬱のメルトダウン(by ルディ・シモンの本より)を起こしまくっていました。

ここは女性の書き込みが多いので、セクハラとして受け取ってしまうかもしれないことを書くと、だにぃさんに「『これぞ、素晴らしい理想的な嫁像』をやめました。オタトーク(オタクトーク)、エロトーク、オヤジトーク、アメトーク解禁します。ただし、人と場所を選びますが」と宣言しました。※アメトークをいれたのが、○○トークが続いていたので重ねたのとだにぃさんの前でお笑い番組を観ることを控えていたということで、アメトークを入れました。

無理して偽装して、ハリウッドスター並の演技力を持っていても、自分の体が壊れたり、だにぃさんの体調を悪化させることが多いです。

素晴らしいいい当事者になることも辞めたと言う「見切り」をつけて、ゲゲゲ(妖怪)道をやると言うのは、大変かなと思います。

あと、自分のお幸せを『他の人基準』で見ることも「見切り」をつけています。自分のお幸せは人のマネからはできないとのこと。

変な醜さのあるものに「見切り」をつけたと言うことなのです。

だにぃさんとは「見切り」をつけていません。

と言うことで。

alonaさん

私が話しかけてもいいのかなぁ、と、ずいぶん躊躇したのですが、上に書かれたコメントに反応して、書かせていただいています。

たぶん、alonaさんには、私の唐突な「うまく行くようになりました」に、ショックと絶望にも似た気持ちを抱かせてしまったのではないかと、なんとなくいつも気になっていました。
そうだとしたら、今さらですが、ごめんなさい。

上のコメントの


>今の私は、子供たちの為に、どうしても、負の連鎖を断ち切りたい。それだけなんです。そのためなら、どんなことでも、できます。(我慢ではなく・・・)

というところ、うちの3年前、わずか3年前の家庭の様子とほとんど重なるので、alonaさんのお気持ちがそのままよくわかり、もう何かこみあげてくるような思いがあります。

>今は、家族5人揃って、夕食を囲む時間が、一番、幸せです。
私以外の4人は、みんな、野球が大好きで、テレビを見ながら、あーだ、こーだ、
言ってます。夫も、子供たちも、みんな、楽しそうです。
本当に、ホームドラマの1シーンのようです。
私は、この時間を守るためなら、女優でも、夫の親にでも、何にでもなれます。

これも、全く同じようなことを3年前に思い、あるところでその思いを記したことがあります。なので、alonaさんのお気持ちは切ないほどによくわかります。

次のテーマへのコメンのところなどを読んでいただくと、うちもかつては、ものすごい状況だったということをわかっていただけるでしょう。そして、うちも、ほんの数年前まで、夫とのことは誰にも相談のしようがなく、病院の先生に話してみても、サンドラ症候群に陥るだけでした。

今でこそ、やっと、気持ちも楽になってきて、ずいぶん軽い話もしたりしていますが、alonaさんと同じ道を私もつい2年ほど前ほどまで歩いていたのです。

掲示板にも、感謝してもしきれないほど感謝していますが、ここパンダさんのブログに来て、新しい見方・考え方をいろいろとさせていただき、皆さんの具体的なお話を聞きながら、考えを広げたり深めたりさせていただいています。

うまく言えませんが、alonaさんの立場からのお話を、他の方も伺うことができたら、またそこで視点が増えて誰にとっても勉強になると思いますし、たとえば、息子さんのことも、何かここでお話していただけら、どなたかがヒントになるような情報をくださるかもしれませんよ。

(すみません、また、マスターことパンダさんの許可なく、勝手にお話させていただいています・・・(^^.)・・・と、言いつつ、いつものことですかね・・・・笑)

まずはalonaさんのお気持ちが少しでも元気になられ、お子さんにもその元気が伝わっていくことを心からお祈りしています(私もまだ現在進行中で、他人事ではありません)。

こんにちは
私は(医師からの診断はありませんが)、実家の母と夫がおそらくアスペルガーです。離婚に踏み切っていかれる方は、勇気ある決断だと思います。実家の母については、友達や、職場の人間関係にいらぬ介入をされて、トラブルがひっきりなしでしたが、最たるものは、高熱を出した時に あまりにも長引いて、病院から出された薬がすべてなくなり、救急車を呼んだら余計な事をしてと 怒られました。正直 母は娘の命が心配ではないのだと思います。
夫は、見合い結婚でしたが、完全に 実家や親戚の中での評価のために 私と 結婚しています。私との 会話は 楽しくないようで、「子どももできないし、期待はずれでつまらない、無駄なおしゃべりをしないで、早く身の周りのことをしたらいいのに」と 思っているようです。話し合いをしようとすると、蹴る、突き飛ばすがあります。友達が少なかったので 良い人間関係ができるように いろいろな人を紹介しましたが、ほうぼうでトラブルを作ってくれます。最近、そもそも 夫が たくさん良い知り合いを作りたいとすら 思っていない事に気づき、自分のした事が みんな無駄だったと知りました。
でも 実家に帰れば 母がいます。逃げられません。距離が置ける人は、距離を置くことも ひとつの方法だと思います。

ゆうこさん

 コメントありがとうございます。
 定型的な感覚ではゆうこさんのような見方になりやすいのはよくわかりますし、そう感じることで大変なつらさを抱え続けて生きている方がたくさんいらっしゃることもよくわかります。

 そういうふうにゆうこさんが「感じられる」ことはごまかしの利かない事実ですし、そのように「感じずにはいられない」不幸を考えていくことを、このブログではずっとやってきています。

 この記事はすでにもう6年近く前のもので、それについてはその後炎上を何度も繰り返しながらコメント数で6500件を超えるやりとり、記事の数で864件の議論が積み重なってきました。(うーん、我ながらびっくり (笑) )

 その結果、以前は全くお互いに理解不能だったことが、びっくりするような「誤解」の積み重ねであることがわかることもたくさんでてきました。

 ということで、今回のゆうこさんの感想は、(繰り返しますが定型としてはよくその感じは理解できますし、そこでゆうこさんが苦しんでこられたこともわかりますが)あくまでも定型としての一般的な見方でそう感じられるということで、そのように定型が見ることでアスペの方が「不当に攻撃された」と感じて傷つく部分がある、ということもだいぶんわかってきています。

 ということで、この場では「アスペは(定型は)○○だ」という言い方は控え、「私には○○と感じられる(けれどもどうなんでしょう?)」という風に、「なぜそう感じるのか、その感じ方にはずれがないのか」ということをお互いに確かめ合う、という姿勢を基本に置いています。

 そういう姿勢を保っているつもりでも、びっくりするようなところで「誤解」が起きて何度も炎上が繰り返されてきましたし、今も時々そういうことが起こります。

 ということで、このゆうこさんのコメントは、たぶん何人かのアスペの方にとっては「許しがたい定型の暴言」という風に「見えてしまう」ことになり、またまた炎上のきっかけになる危険性を感じました。(しつこいですが、定型としてはゆうこさんの言いたいことは理解できないわけではないのですが、それが誰にも伝わるというような生易しい問題ではないところが定型アスペ問題のむつかしさですね)

 そこで私としての個人的な提案なのですが、次のいずれかの方法(またはその両方)をとられてはどうでしょうか?

 1.これまでの議論を、全部ではなくとも、最近のものから少しさかのぼってじっくり読んで、そこで何が問題になり、どういう新しい見方が積み重ねられてきたのかを考えたうえで、改めてご自分の意見を整理してみる。

 2.コメントをする際「アスペは○○だ」と書かず、「私には○○と見えてしまうのだけれども、そういう見方でいいのでしょうか?」と相手(アスペの方)に尋ねてみるという姿勢をとる。

 

 

ご主人やお母様に問題がおありになるのは事実だと思いますが、二点。

たわいない会話をしたいのは感覚として理解できますし、無駄話をしないでやることをやれ!と言われて傷つくのはわかります。
しかしアスペの中にはそのたわいない会話が苦手だと感じる人もいます。
この点はお互いの相性が合わないといういだけで、相手の人格やアスペの人格の問題ではありません。
アスペを悪者にして責めるのはやめて下さい。

アスペは人付き合いをしたくてもうまくできません。または人付き合い自体に興味がない人もいます。
「友達が少ないのに」との一方的な見方で、人を紹介されても、アスペルガー側からは困惑します。
ましてや「旦那はトラブルを起こしてくれた!」「旦那は人に興味がなくて、善意が無駄だった!」なんて言われても、アスペ側からしたら「人を紹介してくれなんて言ってない!なのにトラブルを起こしたとか妻から文句を言われたくない!」と言いたいです。
その点はゆうこさんの側が、アスペ側の気持ちも考えずにご主人を「友達が少ないかわいそうな人扱い」をし、余計なことをしてるんです。
なのに「せっかく人を紹介してあげたのに、旦那には人には興味がないようで、善意が無駄だった!」なんて、一方的な善意の押し付けをしたくせに、ご主人やアスペ側のせいにし、悪者にして責めるのはやめてください。

それで「アスペに酷いことを言われた!」などど被害感を感じたり、反発なさるのであれば、それはカサンドラとは言えません。単なる被害妄想です。

アスペには人を紹介しても困惑します。

それがどんなに素晴らしい方でも、アスペにとっては気が合うとは限りません(むしろ気が合わない場合がほとんど。人格や色んな面で素晴らしい人と気が合うのとは違う)。
仮に「アスペ自身は友達がほしくてもできない」状態であったとしても、アスペ自身が自ら気の合う人を根気よく探すしかないのです。

娘に干渉するとか、娘の体調に気遣わない、
話し合いに応じずに妻に暴力を振るうのはもっての他です。
心に問題を抱えていても、それを子供や結婚相手を巻き添えにするのは身勝手以外の何者でもありません。

交遊関係はアスペも多いので、アスペ視点でも変な人が多いのも事実です。アスペ側にも問題がある場合は沢山あります。
しかし定型側にも問題がある場合は沢山あります。

ほかの方の発言に「来ないほうが身のため」という通常脅迫と理解される言葉で攻撃するコメントがありましたので公開いたしません。この状態が続く場合,その方からは投稿を一切お断りすることになりますのでご注意ください。

サロマさんへ。

こんばんは、ガーディナーです。
始めてお話しさせて頂きます。

>アスペには人を紹介しても困惑します。

本当にその通りなんですよね。
ちょっと思い出してしまいました。

私は、若い頃に付き合っていた彼I君から、
たくさんの友人を紹介されました。
多分誰が見ても魅力的な、フレンドリーな人たちでした。

「ね、とっても楽しくっていい人たちだから、
ガーディナーもきっと仲良くなれると思うよ」
と満面の笑みで誘われた人たちでした。

でも私は、彼らと一緒にいても、本当に楽しくなくて、
無理に笑顔を作るのにも疲れ切っていました。

でも、I君を責める気にはなれなかったのです。
あんなに良い人たちと楽しめない自分が
100パーセント悪いと思い込んでいたのです。
あの人たちと交わって、
良いところをいっぱい吸収して成長することが、
私に課せられた課題だと思っていたのです。

人と楽しい時間を一緒に過ごすことが苦痛である、
ということが、私のコンプレックスでした。
だから私は、そのことを必死で隠していました。
私には楽しい友人がたくさんいて、
彼らとお付き合いできることが幸せでならない、
という顔をして過ごしていました。

後年になって、自分がアスペルガーではないかと疑った時に、
まず初めにそれを受け入れることをためらった理由が、
この部分だったのです。
人と楽しく過ごせないということが、恥ずかしくてたまらなかったのです。

今にしてみればおかしな話です。
でも、友人を紹介されても負担に思ってしまう、というこの感覚を、
もっともっと一般的なものとして理解してもらえていたら、
それだけで救われるアスペの人たちも多いのではないかと思います。

ちなみに私はこの彼と付き合うことの無理がたたり、
そのあと入院するほどにの病気になりました。

>仮に「アスペ自身は友達がほしくてもできない」状態であったとしても、
アスペ自身が自ら気の合う人を根気よく探すしかないのです。

本当にその通りですよね。
そうして自分の力で探し得た友人とは、不思議と長続きするものです。
例え、続かないようなトラブルがあったとしても、納得できますよね。
これ、友人に限らず、本でも、映画でも、健康法でも、何でもそうです。
人から勧められると、なんかもうその時点で、拒否反応が出ちゃうのは、
アスペゆえか、私の個人的な問題なのかは分かりませんが、
何にしても、自分で探して、自分で決めた事には、納得できます。

サロマさんのコメントを拝見しながら、そんなことを思い出してしまいました。

ガーディナーさん

>私は、若い頃に付き合っていた彼I君から、
>たくさんの友人を紹介されました。
多分誰が見ても魅力的な、フレンドリーな人たちでした。
>でも私は、彼らと一緒にいても、本当に楽しくなくて、無理に笑顔を作るのにも疲れ切っていました。

私も同じでした。
ガーディナーさんと違う部分は、うまく話ができなかった私は無表情でただじっとしていました。
彼から「ずっと怒った顔だったから態度悪いよ。」と怒られました。
柔らかくしているつもりが、無表情だったことに気づいてませんでした。
また「何でサロマは話ができないの?おまえが態度悪いから、俺がヒヤヒヤしたんだよ。」と言われました。
話したくても上手く話せないことを分かってくれない彼に怒りを感じました。

>私はこの彼と付き合うことの無理がたたり、そのあと入院するほどにの病気になりました。

ガーディナーさんは「自分が悪い」「相手の受け入れやすいような接し方をしなければならない」と思うタイプなんですね。
私の場合は理解してくれない彼に怒りを感じていました。
「話下手な私のことわからずにあなたが勝手に紹介したんでしょ!」彼の言うことにとことん反発していました。
彼は「サロマはそうやって人に心を閉ざすから人から嫌煙されるんだよ!」と喧嘩になりました。
人と仲良くなりたくても話下手で、共感や盛り上がる感覚も人と違う私の事情を、恋人なのに何で分かってくれないの?とさらに腹が立ち、お互いに引かない状態でした。
私は、理解してくれない彼の言うことに反発し、腹が立ったことは感情にそのまま出すので、彼も可愛いげがなく、素直さがないと感じたようです。

同じような経験を体験、心で感じたことは同じだとしても、(私が見たガーディナーさんの印象として)ガーディナーさんは柔和だと感じるのに対し、私が人から攻撃的で敵対的だと言われるのは、相手に対する出方が正反対だからなのも一つの理由ですね。

>友人に限らず、本でも、映画でも、健康法でも、何でもそうです。
>人から勧められると、なんかもうその時点で、拒否反応が出ちゃうのは、アスペゆえか、私の個人的な問題なのかは分かりませんが、何にしても、自分で探して、自分で決めた事には、納得できます。

「○○は良いよ!感動した!」などと映画や本を勧めるくらいなら良いですが、「○○見た?」と聞いてきたり、化粧品を使うように勧められたら腹は立ちますね。
いくら間違っていても、自分で決めたことには納得できるというのは理解できます。
これはアスペゆえの感覚なのでしょうか?

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