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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月 1日 (水)

「リハビリの夜」:当事者だからこそ

 前に「つながりの作法」でご紹介した熊谷晋一郎さんのその前の著書「リハビリの夜」(医学書院)を読みました。これがまたなんとも面白くて、刺激に満ちた言葉があちこちに満載です。書き出しの方に、こんな言葉があります。車いすを乗り換えようとして失敗して転び、怪我をしてしまうエピソードに続く文章です。

 「なぜ私の体は転倒しやすいのだろうか。……『なぜって、そりゃ君の身体は脳性マヒという障害を持っていて、不自由だからじゃないの?』……でも、私はそういう表面的な説明を求めているのではない。『脳性マヒ』だとか『障害』という言葉を使った説明は、なんだかわかったような気にさせる力を持っているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。」

 なんか、若いけどお医者さんでもある人なので、いろいろ脳の話とかで説明するところもあるんだけど、基本的にはそれも含めてあくまで「当事者としての自分の体験」からず~っと考えてきてることを書いてくれています。しかも「体が不自由」という「少数派」なので、常に親からも学校の先生からも友だちからもそういう「不自由な人」という目で見られ、多数派の動きを「正しい目標」として苛酷なリハビリの日々が18年間も続くんですね。本の帯には本人の字なのか、味のある手書き文字で「痛いのは困る」と書いてあったりします。その痛み(と繰り返される敗北の体験がもたらした奇妙な快感)の経験こそが彼の出発点です。

 でもその難行苦行があっても、結局座れるようになるわけでも、立ち上がれるようになるわけでもなく、「正しい目標」を目指して動こうとすれば却って実際の自分の動きとの違いにあせり、緊張が高まってさらに動けなくなる、というような状態からも全然逃れられません。その熊谷さんが自分の体を改めて取り戻したのは、大学に入ってひとり暮らしを始めた18歳の時です。それまですべての面倒を見てくれていた親が家に帰り、アパートの床にひとり転がった熊谷さんが初めて自分の体の動きだけを使って、自分の意志ですべてを行わなければならない状態になります。

 そしてしばらく転がっていて、最初に熊谷さんを突き動かしたのがトイレに行きたい、という思いなんですね。それから彼は時間をかけてずりずりとトイレに這ってたどりつき、便器を見て、さあどうやってこの便器の上にのぼって腰掛けたらいいのかと考える。今まで手伝ってもらってトイレをしていたときには気づかなかったような、便器の形とか隙間の様子とか、いろんなことが目に見えてくる。壁に手を突っ張ってずり上がって座ろうとして何度か失敗し、そして結局は力尽きてお漏らしをしてしまいます。

 このあと、トイレに補助具を工夫するなどして、アパートのトイレは熊谷さんの動き、熊谷さんの体にあった形で、熊谷さんにとって自由な世界になっていきます。そうやって回りの世界とのつながりを自分の体を出発点として作り直していくんですね。そういう自分自身から出発したつながり直しを作り続けることで、研修医になったときには今度は回りの医療スタッフとのつながり直しによって、それまでひとりでは無理だった注射(採血)などもこなしていくことになります。それはもちろん「多数派のやりかた」ではなく、自分の体の動きかたと、回りのスタッフの動きとの共同作業でできていく、独特の形なんですね。挿絵とか写真とかで説明されていたりして面白いです。

 失禁と言えば最後の方に書いてあったこんなのもすごく面白くて。

 「以前は便意との密室的な関係(注:迫ってくる便意を誤魔化そうと身体と相談する関係)の中で、いつも相手(便意)の顔色をうかがって怯えていたのだが、その煮詰まった密室に失禁介助者という社会の風が吹き込むようになって、便意と私との関係はそれほど緊迫感のないものになっていき、便意との交渉における私の立場は前よりも強くなった。そしてその結果、失禁の頻度も減ったのである。

 排泄規範に限らず、あらゆる規範というものは、『あってはならない』運動・行動の領域を設定する。しかし私の経験を通して言えることは、失禁を『あってはならない』とみなしているうちは、いつ攻撃してくるか分からない便意との密室的関係に怯え続けなければならない、ということだ。むしろ失禁を『いつでも誰にでも起こりうるもの』と捉えて、失禁してもなんとかなるという見通しを周囲の人々と共有することによって、初めて便意との密室的な緊張感から解放されるのである。

 規範を共有することだけでなく、同時に『私たちは、気をつけていても規範を踏み外すことがあるね』という隙間の領域を共有することが、一人ひとりに自由をもたらすと言えるだろう。」

 熊谷さんはいまだに脳性麻痺の人に対するリハビリが、多数派の動きを真似させる形になっていることに素朴な疑問を投げかけています。なんで自分の体から出発して、そこからそれにあった形で目標に到達するような、そんな工夫をしていかないのだろうか。

 もちろん練習によって習得できるものを修得しないことはもったいないでしょう。でもひとそれぞれに得意不得意があって、ある人には修得できるけど、別の人には相当苦労してもうまく修得できないこともある。もしそうなら修得できないやりかたをめざし続けることにどんな意味があるんでしょうか。同じ目標の到達の仕方にだって、いろいろなやり方があるはず。もっと自分自身の特徴を活かした形で、自分の体を使い、自分と周囲の物との関係を作り、そして人とのつながりをつくっていくことを模索する方が、結果としてもよほど効率がいいし、精神衛生上もいい筈なんですよね。自分の人生なんだし。

 こういう本って、やっぱり当事者じゃないと書けないなあと思います。でも当事者がそうやって書いてくれれば、当事者でない人間にもある程度は共有できる部分が出てくる。「読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。」という熊谷さんの狙い通りの結果ですね。

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コメント

こちらで初めて熊谷さんを知ったのですが、個人的気づきをシェアするという意味合いで、書きますね。

”障害へのあきらめ”という考え方がすごく共感できます。

私の場合、AS(かもしれない)という障害を持ち、人間関係や仕事のミスにひどく怯えていました。
でも、
「障害なのだから、仕方ない。定型発達者のようにできなくて当然」
と思うことで、幾分気持ちが軽くなったことがありました。
「ASへのあきらめ=定型発達者のようにしたいというこだわりを手放す」ことだったんですね。

そこから、自分の人生に対する要求が随分と減りました。
こうしたい、ああしたいという願望はあるけれど、「障害なのだから、ある程度でいいや…」と。

そしたら、急に視野が広がったのです。
「障害だから、障害に適した生き方を模索していこう」
という考えに変わり、人生に対して前向きになったというか。

…なんとなく、熊谷さんのことに近い気がしたので、コメントしてみました。

近日中に読む余裕はないですが、パンダさんの書評はものすごく参考になり、ただちに応用を考える材料になるのでありがたいです。

高機能発達障害系の家族の問題を密室である家庭の外に出していくということ。これは、相談機関、発信、その他、ですね。

それはいいとして、一方で、「相当苦労しても習得できない」とか「相当苦労したら習得できる」、どれほど苦労して習得できるなら練習する価値あることなのか、というグラデーションの問題は、おそらく解決がない。環境とか当事者に反応する周囲が絡んできて個々のケースごとに特殊な問題になってしまうのでは。たいていは、熊谷さんのお母さんのようにはなれない。何歳からのおつきあいかということなんか結構重要だったりして。

それと「得手不得手があって、、、」という所で、高機能発達障害群では、出発点とすべき「自分の身体感覚」を把握するところに不得手があり、さらに「助けを求める」ことが不得手だという上に、得手か不得手かもたぶん自覚していないだろうという三重苦があるような気がします。

熊谷さんも客観的自己を捉えたときに初めて試行や思考が機能しはじめたようなことはないのでしょうか。

書きなぐってるので舌足らずかもしれません。
また改めて。

Anさん

「個人的気づきをシェアする」っていいですね。

「なんとなく、熊谷さんのことに近い気がした」

ということで、そうなんだあ、と思いました。と同時に、脳性麻痺の場合とアスペルガーの場合では同じ「障がい」と呼ばれても、他の人からの理解のされ方にはすごく違いもあると思うので、そのあたりはAnさんはどう乗り越えられたのか、ということに興味を持ちました。

 つまり、脳性麻痺の場合は一目見ればすぐに「障がい」だと分かるので、周りの人が最初からそういう構えを持って受け入れたり、あるいは拒絶したりしますけれど、アスペルガーの場合は外見でお互いの違いが分かるわけではないので、かえってこじれることが多いと思うんですね。

 自分の方は「自分は障がいだから」と納得して自分にあったやりかたをしようとしたとしても、回りは定型と同じ事をそのまま求め続けたりして、そこでしんどくなったりすることもあるように思うんですが、そのあたりはどう対応されているのか、結構悩んでいる人も多そうに思うので、また良かったら教えてください。


joさん

「熊谷さんも客観的自己を捉えたときに初めて試行や思考が機能しはじめたようなことはないのでしょうか。」

 そうなんですよね、まさにそこがこの本の中でずっと語られ続けている問題の一つのように思いました。その「客観的自己」というものがどんな形で「作られて」いくのか。基本的には「うまく行かない」というズレを感じたときがその出発点ということと書かれているように思います。それを物との関係や人との関係でいろいろ考えられているし、また人と言ってもその人がどんな姿勢で自分と関わってくるかでまたそのあたりが変わってくることが、とても大きな問題として語られ続けているように思います。

 joさんの奥さんのことを考えるときに、この「客観的自己」がどんな風に奥さんの中で成立したり、あるいは揺れ動いたり、または成立が難しいところがあったりするのか、そいうことが、とても大きなポイントのひとつなのかな、と最近のコメントを拝見していてなんとなく感じています。

記事の本題からは外れるかもしれないけど、目に見えない障がいの場合、本人も周りも障がいに気づくまでに遠回りをしますよね。
私のブログの方で、また心の狭さ全開で書いてますけど、職場にびっくりする程仕事ができない、する気もないように見える人が入って、かなり疲弊しました。見た目は普通なので普通に仕事を頼むと、普通ではない出来上がり(もしくは出来ない)。アレ?アレ?の連続で。職場全体に困惑が広がってました。
私自身うつ病で仕事能率が下がり迷惑をかけてる身でありながら、心の狭いことですが、彼女イライラ、ヒヤヒヤしっぱなし。本人は自覚がないらしく、そこがまた難しいところでした。
私もうつ病のことを隠さずに理解してもらおうとしてるけど、職場では気を張ってるから元気に見えて上司からはズル休みだと思われてるフシもあり。見えない障がいは難しいと感じる日々です。

「もうひとつの常識」のところに書こうかとも思いましたが、コメントが膨大になって、なんだか深海に潜って潜水状態でお話ししているような感じになりそうだったので(潜って行くのに時間がかかる、という意味です・・・笑)、こちらに書きますね。


繭さんとAnさんへのお返事も含めてのコメントになるのですが、

実は昨夜、20代前半、職場の人に連れられて人生で初めて行ったスナックに行ってきました。

そのスナックが私にとってはオリジナルのものなので、他の一般的なスナックを知ったときには、とてもビックリしたのですが、そこは、私にとっての心の故郷であり理想郷のようなところです。

カウンターの中の女性たちは世代交代はしていますが、日本人だけでなく、中国人・モンゴル人・アメリカ人その他、いろんな国の方が常にいらっしゃって、健聴者だけでなく聴覚障がい者がいらっしゃっる時もあります。

また、お客さんの方も、老若男女・日本人・いろんな国からの方・聴覚障がい者・健聴者・・・本当に、常に、いろんな人たちの言葉や文化が入り混じります。

なので、そこに行くと、

「中国人が一生懸命話す日本語を、聴覚障がいのある日本人が口の動きを読み取って理する」→「その聴覚障がいのある方が、本来の母国語である"日本手話"ではなく、日本語の語順に合わせた"日本語対応手話"を使いながら、音声でも日本語を発する」→「その、若干不明瞭なところもある日本語を中国人が聞き取って理解しようとする」→「音声だけでは伝わりにくい部分は、手話のわかる健聴者が明瞭な発音で補足する」

というようなコミュニケーションが、あちこちの席で行われます。

決して広いとは言えない空間の中で、日本語・手話・英語・中国語等々が、同時に飛び交っていて、それぞれが、相手の言葉や文化・できることとできないことに敬意や注意を払いながら、コミュニケーションを楽しんでいる・・・そんな空間です(これは、多分に、そこのママさんのお人柄と生き方によるものでしょう)。

その空間では、もちろん、音声による日本語だけの人どうし・手話だけの人どうし・英語だけの人どうし、のコミュニケーションもあるし、その一方で、そこにいるすべての人たちの言葉がなんとなく混じりあったりすることもあり、

「あ、ここは手話じゃなくて、日本語を使うんだった・・・笑」とか、「あ、ここはもっと易しい日本語に言い直さないと」とか、いろんなことが起こりますが、それがまた、純粋な楽しみのひとつでもあるのです。

このところ、アスペルガーということにずっと焦点を当てて話すことが多いのですが、実生活の中で、配偶者・親子という関係だからこそ難しい面はあるにしても、

私の心の中では、やっぱり、このスナックでの体験とか、アメリカでいろんな母国語を持ついろんな人種の人たちと過ごした体験とか、聴覚障害のある人たちと過ごした体験とかいうものが、原点なのです。

違っていると認め合うところから始まる、違っているからこそ相手のことを知りたいと思うところから始まるコミュニケーション・・・私はそれが、もともと、子どもの頃から好きなのです。

なので、アスペルガーと定型という違いを知ったことは、本当に私にとっては福音でした(一度は「ラッキー」と書きましたが、その言葉では軽すぎると感じたので、やっぱり「福音」としました)。

夫のこと、そして、そこから、私自身のこと、娘のこと、と、自分の中での理解が進んできたのですが、その中で、「自分が無理をしているのか、それとも、これが無理のない自分の自然な生き方なのか」・・・

この1か月近く、漠然とそんなことを考えてきて、「でも、やっぱりこれが自分にとっての自然な生き方だ」と徐々に思うようになり、

昨日は、その思いが本当に自分の心身の中にあるものなのかどうかを、確かめに行きたくなったようです。

昨夜は、急に思い立って、家事も夫に丸投げでそこに行ってみたのですが、本当に行ってみてよかったです。今までやってきたこと・今やっているいことは、自分の外からの評価や価値観の押し付けなどではなく、自分の中にあるものだとはっきりわかりました。

娘のことがわかってくるにつれて、

つい2年ほど前までの、夫との争い&娘相手に夫のことで愚痴っていた内容が、天に唾するように自分の痛みとしてすべて返ってきただけでなく、どれほど娘の心をズタズタに傷つけてきていたのかがわかり、

昔、自分が投げつけていた剣が、すべてが天から降ってきて私の心に突き刺さってくるような痛みも感じています。

でも、きっと、違いを知らなかったがゆえに投げつけてしまった剣ですが、違いを知ってからは投げつけることをしないようになってきているし(今、ゼロとは決して言いません・・・懺悔・・・)、

「自分の中にある、自分にとっての自然な生き方」が、いつか、その剣で今も受けている傷を癒す力になってくれような気がしています。

すみません、個別にいただいたコメントへの返事にはなっていないかもしれませんが、

本当に、親の気づかないところで、ものすごく頑張ってきた娘の心を、せめて今から新たに剣を投げつけることなく&自分の傷も癒しながら、まずはしっかり抱きしめてやりたいと思っています。

>「なぜ私の体は転倒しやすいのだろうか。……『なぜって、そりゃ(以下略)

「何故これが出来ないのか?」と質問されるとき、いつも私の中には「あなたは何故これが出来るの?」という疑問が浮かびます。逆もまた同様に。
相手が夫であるときには、口に出して尋ねてみます。
最初の頃は、明確な答えは返ってきませんでした。それはどうやら、疑問を持たずに済む状態だから、答えも必要とされていなかったようです。

翻って、私が自分の理由を説明するとき、私には至極当然で疑問のないことでも、相手との差異を理由にした答えを探さなければなりません。
そうなると、結局、上記の私のした質問の答えが必要になるのです。

>「あなたを道連れに転倒したい」

疑問が生まれたとき、相互に同じだけの疑問が投げかけられている…ということを共有できたら、そのとき一緒に転倒できるのではないだろうか、といったことを考えました。

客観的自己については、私はまだ、考えると途方に暮れるような心持ちです。
材料となる、人から見た自分は?と考えると、よく、分かりません。
分かるのは、誰かが私に言ってくれた言葉だったり、笑顔だったり、怒りや悲しみだったり。
それらを統合しようにも、漠然としすぎていて、そもそも、比較の基準が捉えられていないし…ぐるぐるしてしまうので、このへんでやめておきます。

それとは別に、「便意との密室的な関係」が、面白い表現だ…と思いました。
記事を読んでいて、私は自分が「便意との密室的な関係」にあった頃(まだ一人ではトイレに行けず、親に付き添ってもらっていた頃)の、断片的な記憶を思い出しました。

思い立った時に用を足せないのは、なかなか緊張感のあることでした(^ ^;
きっと大多数の人が通って来た道だと思うのですが、そういった、自分の意思と、身体と、環境とをつないできた過程を覚えている人が大勢いたら、気楽に道連れに転倒できる人が増えるのかもしれませんね。

>目に見えない障がいの場合

まず、説明しても、すぐには信じてもらえないことが多いです。
働いていた頃、出社時に挨拶をしながら着席して、机の書類に目を向けた途端に音が聞こえなくなる。だから、後から来た隣の人の挨拶に気付かずに、無視してしまう形になっている…。
なんて、本当に信じてもらえませんでした。最初は、相手から指摘を受けるまで気付いていないことに気付けないので、分かった段階ではすでに相手の気持ちは相当こじれていることが多かったです。
分かっていれば、事前に説明出来たし、そこまでこじれることもなかったのかも、と思います。

チロさん

 「心の狭さ全開で書いてます」

 って、心の狭さを全開したら広くなったりして (^_^)

 「見えない障がい」については、「見える」ようにすることが大切だと思うけど、
 下手に「見える」ようにすると決めつけと差別を生んだり、ほんとに難しいですよね。


繭さん

 「最初の頃は、明確な答えは返ってきませんでした。それはどうやら、疑問を持たずに済む状態だから、答えも必要とされていなかったようです。」

 って、そうなんですよね。ほんとに。自分にとって当たり前の事って、実はわかんない。自転車ってどうやったら倒れないで乗れるようになるのか、口で説明しろと言われても無理!みたいな。 でも、そういう「当たり前」を「当たり前じゃない」という目で見直して改めて考えてみることで、いろんな新しい見方が生まれるんですよね。

 「まず、説明しても、すぐには信じてもらえないことが多いです。」

 これ、ほんとにそうです。僕の方がパートナーの言うことを信じられないことが結構ありましたもん。嘘をついているとも思えないのですごく困惑しましたけど。結局自分の「常識」の範囲に入ってこないことは、なかなか受け止めにくいんですよね。一旦常識を崩さないとわけわかんないし。

 「きっと大多数の人が通って来た道だと思うのですが、そういった、自分の意思と、身体と、環境とをつないできた過程を覚えている人が大勢いたら、気楽に道連れに転倒できる人が増えるのかもしれませんね。」

 これ面白いなあと思いました。大人になると子どもの「常識」はもうすっかり忘れてしまっていますが、たしかに子どもの頃はそういう「常識」で生きてきたはずなんです。だから、それが思い出せるなら、すごく手がかりになりそう。
 ただ、むつかしいのは、記憶力の「なさ」に自身がある私なんか典型ですが、なかなかそういうのって思い出せる人が少ないということですかね (^ ^;)ゞ

 

繭さんの挨拶の話を読んで、なるほど…と思いました。職場ではとりあえず挨拶などうわべのコミュニケーションが重視されますからね。私も定型を自称しているけど、気が利かず飲み会で料理を取り分けたりお酌をするのが苦手で大嫌いでした。若いときってそういうことで評価されるし。

私の職場にいたバイトの人について、あまりのできなさぶりに「あの人、障がい者なの?」と私に聞いてくる人もいました。そう考えた方が腹も立たないけど、そう決め付けるのも…。

イライラしっぱなしだった自分を棚に上げて言うと、やっぱり世の中色んな人がいるという前提で心構えしておくのがいいってことでしょうか。
挨拶しなくても目が悪いとか耳が聞こえないとか充分有り得るし。

あと思ったのは、アスペとか天然とか不思議ちゃんは友人や恋人関係だとあまり問題にならず、職場の浅い付き合い、家庭の濃密な関係では問題になりますね。職場は仕事、家庭は生活や子育てという目的型のコミュニティーだからでしょうか?

度々すみません。いろいろ思い付いてしまって。

なぜできないのか?の話。自称定型の私にも似たようなことがありました。転職したいと言ったとき、離婚したいと言ったとき、なぜ?なぜ?ときかれ、そんな理由じゃダメだダメだと言われたけど、私は逆になぜ辞めたくないの?なぜ結婚を続けたいの?と聞きたかった。明日も仕事を続けること、結婚を続けることにいちいち理由は求められない。それは多数派だから。でも私は、言いたかった。あなたが結婚を続ける理由、それと同じ理由が私にはないから、だから離婚したいんだ、と。
それと同じようなことかな?だとすると、やはり多数派は傲慢ですよね。なぜ自分はできるのか、すぐにはわかりませんもんね。

今、頭が疲れてて考えまとまらないまま書いてることお許しください。自分のことばかりで恐縮です。バイトの人のできなさぶりにイライラしていた私ですが、私自身うつ病で今は担当を減らしてもらっており、上司から給料分の仕事をしていないと言われ、本当のことだけどショックでした。上司は厭味とかじゃなく事実を言っただけなのですが、自分はそのこと忘れてたので。それと、今は軽減してもらってるけど今までバリバリ働いたのに…もうバリバリ働いて見返すこともできないんだ、と悔しい気持ちもありました。
私は自称定型で、心のどこかでマイノリティであるアスペを不憫がってたんだと思います。でも、私も職場ではうつ病持ちというマイノリティで、大目に見てもらっており、弱者としての自分に甘んじなくてはいけない立場。給料分働いてないという言葉に一瞬、じゃあ辞めます!と言いそうになったけど、弱者だって生きてたいんだ、仕事仲間が弱ったときに見捨てないために休業などの制度があるんだ、弱者でもプライド持っていいんだ、と思い直しました。だって、自分じゃなく他の誰かだって病気のときは仕方ないもの。困るのは困るけど。
私はアダルトチルドレンではないと思うけど、母が苦労していて、人から「お母さん大変だね」「お母さんに迷惑かけちゃいけないよ」と言われ続けて、迷惑かけてると思われたくない気持ちが強かっんです。だから、ラクして給料泥棒と言われるよりもサービス残業がましだったんです。
でも、自分が親になると、離婚は親の勝手で子供は迷惑かけられて可哀相って言われ…。私の母も言われてたのかな?

なんか話が逸れましたね。最近疲れのせいか、思考が乱れてます。カウンセラーさんからも、最近うつ病というより神経症っぽいと言われました。

チロさん

「だとすると、やはり多数派は傲慢ですよね。なぜ自分はできるのか、すぐにはわかりませんもんね。」

 そうなんですよね……。でもそれって、自分が少数派の立場に立って初めて分かる、というところがありますよね。多数派は自分が多数派だと言うことすら意識しなくて済むと言うことなんだと思います。

「弱者だって生きてたいんだ、仕事仲間が弱ったときに見捨てないために休業などの制度があるんだ、弱者でもプライド持っていいんだ、と思い直しました。だって、自分じゃなく他の誰かだって病気のときは仕方ないもの。困るのは困るけど。」

 表現とかは少し違うけど、私も医者から言われましたね。前は(今思えば)かなり多くの仕事を瞬時に切り換えながら並行してこなしてきたのが、やっぱり鬱になってそういうことができなくなって、これでちゃんと復帰できるんだろうかと思う、という話をしたときのことですけど。

 Rosamondeさんが繰り返し強調されていることも、しっかり休みなさいということでした。

 あ、それと、前に私のパートナーが村上春樹を好きかどうか、ということをチロさんに聞かれていて、そのときは読んだことないという話だったと思いますが、さっき、「図書館で借りてきて読んでるけど、なかなか面白い」とか言ってました。なにがどう面白いのかはまだ聞いてませんけど~

〉パンダさんへ

こんばんは。…パンダさん…出来れば、の個人的なお願いです。

携帯で見た場合、少し長文のコメントなどは、途中で途切れてしまっていて、最後の方とか読めないんです…。おそらく、PCで観覧した場合は、普通に最後まで出ているのかな?と想像しますが…
私はブログに無知なんですが、
もし、コメントの文字で、携帯の場合の反映される文字数など、制限がなくできるようでしたら…お願いしたいです…
いつも…あ…いいところ…!で切れてしまっていて、(泣)携帯の場合は、残念です。
もし、出来なかったら、諦めるので、結構です!もし、出来るようでしたら…お願いしますだ…(泣)

みみさん

 今自分の携帯で(初めて)見てみましたが、私の場合も確かに長文の場合、後ろが切れていました(パソコンでは最後まで表示されます)。それでココログのFAQなどを色々見てみましたが、該当するものが見つからず、またパソコンと携帯の両方で管理画面の設定を見てみましたが、これも該当するものが見あたりませんでした。

 ということで、すみませんが、私もこのあたり、音痴なこともあり、今のところお手上げ状態です。どなたかおわかりになる方がもしあれば教えていただければ助かります m(_ _)m

パンダさん

>自分の方は「自分は障がいだから」と納得して自分にあったやりかたをしようとしたとしても、回りは定型と同じ事をそのまま求め続けたりして、そこでしんどくなったりすることもあるように思うんですが、そのあたりはどう対応されているのか、結構悩んでいる人も多そうに思うので、また良かったら教えてください。

私の場合、学生の頃から変人の自覚があったので、常にそんな部分を出さないように目立たないようにしていました。
問題に直面したのは、アルバイト等で社会に出てからです。
職場の人が多い環境では、うまく作業ができないと悟りました。
それで、働くなら、極力一人で働ける仕事を選んできました。

今は、未熟者ですが、フリーランスで在宅のデザインの仕事をしています。
一人で働くことは、自立できると共に、人に気を遣うこともあまりなく自由なので、アスペルガーに合っていると思います。
無理に周りに合わせず、ASに(というか自分に)合った仕事をするのが一番かと思います。

最低限の人間関係は、致し方無いので、気を遣うことでカバーするしかないでしょう。
私の場合は、一人で色んな場所を回る営業?のようなバイトをしていたので、挨拶や人付き合いに関してはかなり鍛えられた気がします。
ASのためか、普通以上に問題は多かったものの、得た物も多かったので、仕事は給料がもらえて勉強にもなる有り難いものだと思いました。


カレンさん

まさに異文化コミュニケーションの場ですね、面白い。
海外の人や障害のある人とは、どういった部分で繋がりを感じるのでしょうか。
ASと定型発達者もまさに異文化交流ですから、その覚悟をしないと成り立たなそうです。

私は相性って、文化や性別や障害を超えたところにあると思うんです。

私と彼の場合、彼はバツイチで、前妻はおそらく定型です。
前妻とは相性が合わず別れたそうです。
今は私と付き合っていて、相性が良いと言ってくれています。

私たちも、実際いっしょに生活すると、きっとその”異文化”にお互い辟易することもあると思うのです。
それでも、お互いを思いやって相性でカバーできるのではないかと思うんです。

私は彼と、肉体や精神を超えたところで繋がることができるコミュニケーションをしていきたい。
というか、そうするしか道はないのではないかと(笑)

そして、カレンさんはきっと、それを実践されてきているような気がしました(^^)


チロさん

>あと思ったのは、アスペとか天然とか不思議ちゃんは友人や恋人関係だとあまり問題にならず、職場の浅い付き合い、家庭の濃密な関係では問題になりますね。職場は仕事、家庭は生活や子育てという目的型のコミュニティーだからでしょうか?

ああ、そうですね。
目的達成となれば、協調性が必要なところが多いですよね。

私の家族は私以外は定型で、かなり疎外感がありましたから、日常生活では協調性のない自分は苦痛でした。
しかし、友人には恵まれ、友人たちと協力して何かを成し遂げるということに関しては、うまくいっていたような気がします。
友人もアスペルガーとまではいかなくても、結構一人好きの個性的な人が多いので、集まって互いの楽しみの範囲で、無理なくできることだけやっていたように思います。

しかし、仕事になると、楽しみの範囲だけでいかないし、厳しい面も多いですよね。
だから世の中、定型発達者の人やタフな精神の人が生き残るんでしょうね。

私は学生の頃から環境が合わず、うつのような状態が続き、ひどく疲れやすかったです。
そんな中思ったのですが、ある程度努力してもできないことは、辞めるのが一番楽だと。
合わない環境で頑張るのは、砂漠で種が芽を出そうとしているのと同じでしょう。

頑張らない生き方は、理にかなっているし、自分らしい生き方ができる術だと思うんですよね。
ASでも合う環境はきっとあると思うんです。私はずっとそれを求めて生きています。

〉ぱんださん

調べて下さって、ありがとうございます。
私もブログ音痴なのに…すみません!

〉チロさん

私は読んでいて、何だかチロさんのけなげさに、感動してしまいました。(感受性が強いので大袈裟でごめんなさい)
チロさんの考えは、定型的と思いますが、利己的とは違うんじゃないでしょうか?


一生懸命努力しているチロさん、早く元気になって下さいね!(私も人に言っている場合じゃないのですが…)

上司の給料泥棒?!のお話、私、かなり、頭にきました。
言っていい事と、悪い事にも程があります。そんな事があったなら、チロさんが、イライラするのも当然ですね。
でも、そこで、ぐっとこらえれたチロさんは、なかなか立派だと思いました。
私なら…どうしただろうか…。チロさんみたいに対応できただろうか…。

チロさんは、今、職場にも、結婚生活にも…自分の居場所がなくなる不安に置かれているんだと思います…。
不遇や不安が重なると、自分がおかしい、悪い…と錯覚してきたりしますが、どうか、本来のチロさんを失わないでくださいね!

新しいバイトの人も入り…チロさんは、給料分の仕事もしていない…と言われ…
なんか、比べる対象にもならないのに、来るものホイホイ、去るもの使い捨て…
組織なんて、所詮、どこでもそんなものです。でも、チロさんは、チロさんであるべきために、チロさんを、今まで通り理性をもって通すべきです!
そんな嫌みを言う上司は、チロさんが切れなくたって、いつか他の人が同じような事で、ブチ切れるでしょう…
チロさんが悪いんじゃなくて、ただ相手がそういう理性に欠けた人なだけですから。自分も悪いんだけど…なんて、思わないでください!…違うか…そういう所がチロさんの良いところでもあるのかもね!

そのバイトの女の人も…、チロさんは、今まで通り、新人という相手に対して少し程度、考慮すれば良いのだと思います。チロさんが強く何か言わなくても、いつか、誰かが言ってくれるでしょう。
チロさんは、イライラする事も含めて、読む限り、何も間違っていないと思いますよ。
逆に、私は、イライラした相手にも、考慮して色々考えて対応した事や、上司に突っかからなかった事、偉いと思います。誉められて、感謝されるべき事だと思います。チロさんもそう思いませんか?
最後まで、文句を言わず、正しいと思う事を、たんたんとやれば、いいんです。それが組織や社会では良い人ですから。
わかっている人は、ちゃんとわかっていますよ。口に出さなくても、チロさんの行為や気持ちをわかってる人は必ずいるもんです。

それに、ご主人との事も、重なっていますね。アスペ問題を、もっと私も真摯に受け止めますね。でも、チロさんは、よく今まで、それなりに耐えながら、こなしてがんばってますね!
チロさんのブログを読ませて頂いて、チロさんの努力や、優しさの部分がよく見えてきました。
私は、以前も書いたように、離婚にはなるべく反対派ですが、でも、その私の考えが必ず良いとも思いません。
状況や、相手も違うし、あくまで私の目線ですから。
チロさんのイライラや、うつの裏側には、チロさんの努力や、優しさがみえました。
定型であっても、どこかでマイノリティに感じたり、そんな立場になる場面も必ずあると思います。それが普通だと思います。それを自覚できなければ、定型とはいえないと思います。
チロさんは、何も間違ってないと思いますよ!早く元気が出てくるといいですね!
パンダさん?Rossamondeさん?が言うように、頑張った分、あとでたっぷり休養してくださいね!

Anさん

>問題に直面したのは、アルバイト等で社会に出てからです。
職場の人が多い環境では、うまく作業ができないと悟りました。
それで、働くなら、極力一人で働ける仕事を選んできました。

私たち親の気づかないことろで"も"、とても頑張ってきて、学生としてはうまくやってきている娘ですが、今、本人が(そして間接的に私も)直面しつつあるのが、まさにこのあたりのことです。なので、Anさんのお話はとても参考になります。

私や夫と同じで、出世欲とか世間的な誉みたいなものは求めないタイプの子なので、淡々と自分のよさを生かせる道に進むことを本人も望んでいますし、結果的にそれが人のためになればいいなぁ、というようなことを考えています。

(私にしても、自分が好きで淡々とやってきたとが、たまたま世間一般的な基準では評価されることが多かったりもするので、自分の思惑とは別に過大評価され続けたりすると、私にとってはそれが負担になることがよくあります。この感覚を、日本の一般的な?世間の中では、わかってくれる人は少ないの、自分で受け流せるようになることが今後の自分のひとつの課題かな。)

他にも書きたいことありますが、今は時間がないので、またそのうちに書きますね(^^)

〉Anさん
こんにちは。
彼を本当に愛しているんですね!応援してます、頑張ってより良いものにしてくださいね!
肉体や精神を超えた繋がり…私は、ACだからなのかも知れませんが、良いのか悪いのか、それが何だか母性本能的になってきてしまっています。
母性本能と言っても、一般的に言われているものとは違います。
「まぁ…いいでしょう」「しょうがないわね」的な、過干渉、依存なしの、れっきとした愛情です。主人を通して、自分のACを克服しようとしているのかな?なんて、最近思いました。また色々聞かせてください。

〉カレンさん

お仕事?!ご苦労さまです!
最近、私の頭の中は、糸がこんがらがったまんま、放置状態ですが、
最近では、それ(こんがらがった事)を、一旦横に置いておく事も覚えました!
以前は、こんがらがったら、即、きれいに解いていかないと、リラックス出来ない私でしたが!
この前は、お説教じみた事を書いて、すみません。私が主人から学んだ事には間違いないのですが、なかなか実践は難しいですよね。以前、繭さんから学んだ距離感も…
くっつきすぎてもだめ…離れすぎてもだめ…私も、ころあいや、交わし方が、実際まだよくわかりません。頭でわかっていても、何かに(感情)引っかかって、できない時も多いです。人に関してはやはり不器用なのですね。
カレンさんの、家庭のアスペ図、面白いです。
もし、先日、私が書いた対応を、お母さまに対応したとしたら、カレンさんは、母から見て、紛れもない「アスペルガー」になってしまいますよね。
私の視点からは、カレンさんは定型っぽく、アスペルガー?とは思いませんが、相手によって見方も変わる場合もある…という事ですよね。
で、おさらいも兼ねて、混乱している私として、どうしても聞きたい質問があるのですが、
カレンさんやみなさんの思うアスペルガーって、どのようなものですか?(これだけは外せない…という特徴など)
三つ組みも含めてでも構いません…

私の思うアスペルガーを書いておきますね。(書物とかではなく、主人など、周りの人を対象に…)

・意識の向け方が限定されている(特徴的)(一人を好む、過集中、少数派、会話の意識も限定されていて、心境、話の前後が読めないなど)
・含み言葉や、言葉の曖昧さが本当に通じない(ストレートにとってしまう、ストレートに言わないと通じにくい)
・一般的理性に欠ける部分が多い
・笑わない(作り笑みもできない、苦手)
(微笑みが無い…と言いますか…)
・話さなくても平気
・思い込みでものを話す(自分のみを基準に普通を算出する)

言葉、心、考え、など…全て?!単品、単品…意識の向け方が限定されているような気がするんですが…
意識と意識を繋げれない…というか…

三つ組みの想像力の問題は、単品、単品なら普通にあると思います。となると、やはり意識の限定ではなく、興味の限定となるのでしょうか…

意識が繋がりにくい人がアスペで、意識がどんどん繋がりすぎてしまう人がADHD(私がそう…)、
自閉症や広汎性発達障害は意識においての…何らかの異常…?!〈あくまで持論です〉
みたいになってしまうのですが…どうでしょうか…(汗)お時間のある時にでも…

みみさんからのご質問にも、私なりの答えとしての答えを答えたいし(←長い!)、繭さんのご主人とのことについての同意も書きたいし、チロさんの今の状況についての共感についても書きたいし・・・・

と、思いつつ、今、みみさんのおっしゃる通り仕事からいったん帰宅して、もうすぐ第二弾に出かけるので、まずは、Anさんへ。

>海外の人や障害のある人とは、どういった部分で繋がりを感じるのでしょうか。
ASと定型発達者もまさに異文化交流ですから、その覚悟をしないと成り立たなそうです。
私は相性って、文化や性別や障害を超えたところにあると思うんです。

午前中、仕事の合間や移動中に、ずっとこのご質問に対する答えを考えていました。

このへん、パンダさんがおっしゃる「しつこい」に相当するのだと思いますが、誰から質問されたり、自分の中で何か疑問が浮かぶと徹底的に考えるのが、私の性格でもあり趣味のようなものでもあります(笑)

で、このAnさんのご質問に対しての最初に浮かんだ私の答えは「理論的には、自分でもわからない」でした。考えても考えてもはっきりした理由がわからず・・・。

でも、さっき、ちょっと考えるのをやめたときに、ふっと理由がわかりました!

と、その肝心なところを書く時間がまたもや今はありません・・・残念。ということで、続きはまたそのうちに。

みみさんも、気長に待っていてくださいね(^^)

パンダさん

>一旦常識を崩さないとわけわかんないし。

私たち夫婦の場合は、ここが山場だったと思います。
私から見ると、常識にこだわっているように感じられましたが、ここが安定していることが、定型者の安定感に通じるのかな、とも思います。


カレンさん

なにやら楽しそうなスナックですね。人見知りですが、私も行ってみたいと思いました。
カレンさんのドーナツの穴が、外とつながっていることを、確認して来られたのでしょうか(^ ^)

興味って、違いに気付いたときに生まれる好意だと、私は思っています。
同じだったら、知る必要もないですし、なによりつまらないと思ってしまうのです。

…と、あるとき夫に説明したら、「同じである部分を確認しなきゃ、安心して違いを楽しめないじゃない」と言われました。バランスも大切ですね(^ ^;

娘さんとカレンさん、お二人一緒に、癒されて行くのだなぁと思いました。


チロさん

>転職したいと言ったとき、離婚したいと言ったとき、なぜ?なぜ?ときかれ、そんな理由じゃダメだダメだと言われた

これは息苦しいなぁと思いました。
人生に関わる決断はとても個人的な領域だと思うので、無責任に否定されるのは、私は好きではないです。


チロさん、パンダさん

村上春樹さん、私はとても好きです(^ ^)
江国香織さんは、恋愛メインでないものは、結構好きです。
小説に限らず、絵やお芝居なども、解釈が一様でないものが好みです。


Anさん

Anさんと彼さんが、穏やかな関係なのでしたら、喧嘩は(少なくとも)私たち夫婦よりは少なくて済むのではないかと思います。
「なついている」ってなんだか可愛らしいですね(^ ^)


みみさん

私のアスペルガーのイメージを書いてみます。

・認識の仕方が、あらゆる意味において、点の集合体であり、統合して評価することに困難がある。
以上です。

会話も、人間関係も、自分の感情も、感覚も、過去の記憶も、点描画を望遠鏡で覗いているような感覚で、どこに向けて覗いているのか、拡大倍率は、その人それぞれで違う…そんなイメージです。

今日一日寝て、だいぶ元気になりました。

みみさん
私が思ってるアスペルガーの定義は次の3つです。
1、因果関係や情報を関連づけて考えない
2、周りが見えない
3、思い込みが強い
その他の夫を見てアスペの特徴だと思っていたことは、他のアスペ(疑い) の人たちにはあてはまらないみたい。夫は感情的なものに疎く、学校では現代国語が全然ダメだったそうです。村上春樹を読ませたら「風景描写ばかりだ」と言いました。こうしたエピソードを言葉を額面どおりにしか受け取らないというアスペの特徴に結び付けてたけど、違ったみたい。単にそういうタイプの男性だったみたいですね。

Anさんは、自分の得意不得意がわかって、ちゃんと自分に合う環境を選んでるのがスゴイですね。彼氏さんもAnさんが選んだ人だったら、この先も大丈夫なんじゃないでしょうか?と思いました。コメント読んでると、ほとんどノロケに見えます(良い意味で)。結婚前から疲れまくってた私からすると。何かの本で読んだけど、会ってすぐまた会いたくなる関係はよくないそうです。よい関係は会ってしばらく(一日とか三日とか)は満ち足りた気分でいられるもので、そうでないのは満たされないからだそうです。私はこれ凄くあてはまりました。

あらためて、

Anさん

ご質問に対して、なんと答えたらよいものかと長いこと考え、でも考えても「そういう交流が好きだから」「そういう交流が好きな人どうしの間で自然そういう繋がりができる」、とか
いう、漠然とした答えしか浮かばなかったのですが

ふっと思ったのは、「違うとわかっている人どうしのコミュニケーションは、それ自体が純粋に楽しみであるというだけでなく、どこかとても真摯なものである」ということです。

お互いに違うとわかっていれば、同じと思っている時のような、時にはあまり言葉を選ばないまま行われてしまうことも多いコミュニケーションと比べると、いかにして「自分が本当に言いたいこと」=「真意」を伝えようかと、かなり考えるんですよね。

同じと思っているときは、私自身もそうですが、「真意」を真摯に伝えることをどうも怠りがちのような気がするのです。

もちろん、その異文化圏の人どうしのコミュニケーションが成り立つためには、相手への敬意が絶対条件。なので、"違うということに対して"相手に怒りや不満をぶつけるのは、ご法度です。

よくよく考えてみると、上に書いたスナックには(というより、サロンかクラブのような雰囲気ですが)、"違うことで"相手を責めたり相手に怒ったり、という人は、お店の方の中にもお客さんの中にも、ひとりもいません。

お互いに違うことを受け入れつつ&違うことを受け入れられつつ、みんなが安心して楽しみながら真摯に交流することができる場、それこそが私にとっての心の故郷・理想郷・・・そんなことを「私自身のリハビリの夜」に確認して帰って来ました。

そして、

繭さんの言われる「興味って、違いに気付いたときに生まれる好意だと、私は思っています。同じだったら、知る必要もないですし、なによりつまらないと思ってしまうのです。」には、激しく同感!なんと簡潔で的確なのだろう、と感嘆しながら、「本当にそうそう!」と思いました。

Anさんとは男女逆ですが、私はどこか夫が自分とは違っていると思うところに惹かれたところがとても大きく、そして、その違いの根本が何なのかがサッパリわからなかったから大喧嘩もしてきたのですが、

その違いのおかげか、夫と私の間では「マンネリ」ということが起こりません(笑)

チロさんが書かれて「家族の濃密な関係」で、なかなかうまく行かなくなるのは、目的型コミュニティーということとも関連するのですが、職場などと違って「2人という1対1の関係」の中で、お互いに「自分が・自分のやり方が正しい」と思ってしまいがちなので、そのときに争いが生じやすいからなのだと思います。

アスペルガーと定型という違いを知らなければ、かつての私たちのように、徹底的に相手を否定し合う・批判非難し合う、ということにもなってしまいます。

今でも「もっと早くに違うとわかっていれば・・・」という無念に苛まれることがありますが、それは、もう考えてもどうにもならないことなので、今と今からをどうするかを考えるようにしています。

それから、(と、長くてすみません)

家庭内だからこそ失敗していたのが、「私の」という考え方。「私の」夫・「私の」妻・・・そこに大きな罠がありました。

他の人であれば許せることなのに、「私の」と考えてしまうから許せなくなる・「私の」という領域の中で支配したいという気持ちが多かれ少なかれ生じるから、「私の」領域の中で思い通りにならないことがあると怒りが生まれ、それが否定・批判・非難という形で相手に向かってしまう・・・

かつては、夫と私の関係の中にはそれがありました。

なんで外の人とはお互いうまく行くのに家庭内でのみうまくいかないのか、について、相当考えた時期があり、その時に気づいたのが、この「私の」という罠です。

なので、「私の」の罠から逃れるために、いろいろと対策を考えたのですが、その時に、私から夫に提案したことのひとつが、「距離を取るために、お互いを "さん"づけで呼ぶ」こと。

「カレン"さん"」「夫"さん"」と「さん」づけで呼び合うことを提案し、何度かの家庭内会議の末、「さん」づけで呼び合うことが可決され(笑)、それ以来2人のお互いの呼び方は絶対に「さん」づけ。

このことは、アスペルガーと定型の違いを知ったこととも並行して、とても功を奏しています。(お互いの呼び方にはその人たちの関係性が端的に表れるし、逆に呼び方で関係性が変わります。)

違うことについての話し合いや調整はしても、違うことに対しての怒りはご法度(まだまだ未熟ですが・・・(^^;)・・・)、逆に言うと、怒りを持っているときは、話し合いや調整はできません(少なくとも、私たちの場合は)。

かつての私たちは、

違いを知らず同じと思っているから怒りが生じる&「私の」と思うから怒りが生じる→怒りが生じるから話し合いや調整ができなくなる→ますます怒る→ますますこじれる→・・・という悪循環に陥っていたのです。

ということで(?)

ま、今は、なんだか確かに、いろんな枠を超えたところで、今は夫と繋がっている感じでしょうか。夫もいつか書いていたけれど「好敵手」というか「親友」というか。

ふぅ~、これ「確認」したら相当長いのでしょうね。読んでくださった皆さん、ありがとうございました。

みみさんへのお答えや、繭さんへの質問等々、いろいろ頭の中にはあるのですが、パンダ先生の猛ダッシュモードの授業(!)の中のどこかで、また挙手させていただきます(^^)

パンダさんがすでにあちこちで書かれていたことと重複することも書いてしまったようですが、どうかお許しください。

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