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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月21日 (火)

闘う関係、闘わない関係

 このところ、改めて自分自身のいまの姿を見直してみる、みたいなことを少しやってきているわけですが、なぜそれを必要と感じているのかは、自分でもまだよく分かりません。ただなんとなく必要という気がしているだけで。

 ただ、書いてみることで新しく見えてくることとか、みなさんからのコメントを頂いて新たに気づくこととか、そういうことはいろいろあります。そのひとつが「闘う関係と闘わない関係」ということです。

 まず私とパートナーの関係のことで言うと、昨日の記事やjoさんのコメントなどを通して、二人の間にずっと抱え込んでいたズレに、「闘う」ということについてのなんだかややこしい、こんがらがった関係があったんだなあということに気づいたんですね。改めて整理してみると、

 私自身は自分の育った家庭が父母の「闘いの場」で、「戦場」の中で生まれ育った人間です。そうすると人間関係というのは「闘い」なんだ、という理解が常識として自分の中に作られていく。私の人生最初の記憶というのは、父親が怒って母親に金だらいに汲んできた水を頭からかけ、そして母親が私を連れて家を出て実家に帰ろうとする、というシーンですものね。目の前で親が殺されるような(戦時中の話でそういう被害を受けた方の話を直接に何度も聞いたことがありますが)、そんな悲惨な状況まではいかないにしても、でも2歳の子どもの「人生の最初の記憶」としてはやっぱりちょっと悲しいですよね。

 その後も両親の闘いの場面には傷つき続けましたけれど、でもそれでは生きていけませんから、それに耐えられる自分を作り、むしろそういう姿勢を無理にでも自分の中に取り込んでいかないといけなくなるわけです。そうやって「そういう姿勢こそが普通で、正しくさえあるんだ」とう思いが作られていく。

 両親は未だに全くのすれ違いの生き方を抱えて戦い続けているので、たまに実家に帰ったりすると、「ああ、自分はこういう環境で子ども時代をすごしたのか」と思い、我ながら子ども時代の自分が可哀想で、愛おしくなってきたりしますし、そのスタイルを身につけた自分が大人になって日本的な「和=我慢や譲り合いや」を大事にする人間関係の中で浮きまくり、苦労し続けたのも、まあ無理はないなあという気持ちになったりします。

 けれども、そのスタイルがすべてマイナスだったわけではなく、前にちょっとjoさんとやりとりしたみたいに、「真剣な闘いを通してほんとに深いつながりを作る」みたいな、そんな人間関係にも恵まれましたし、海外の、お互いに自己主張をしあいながら生きていく、という世界の中にもある程度は入ってつながりを作れるところもできた。また世の中に充ち満ちている「弱者を踏みつけにして成り立っている世界」について憤り、闘う姿勢みたいなものも作られていきました。「対等」についてのこだわりも、そのあたりにも関係しているように思います。

 そうやって「闘う姿勢」がある面で「前向きな生き方」にむつびついて行ったところがあるので、周囲からいじめられたり激しく叩かれたり浮きまくったりしても、それでも潰されずにめげずに生きてこられたのでしょう。

 でもやっぱりそういう常に闘いに自分を追いやられるような生き方は、常に自分が脅かされ続ける生き方でもあって、他方ではすごく強く「闘わない場」のやすらぎを求めていたんでしょうね。私にとってパートナーの「闘わない(闘えない)」姿勢は、実はそういうやすらぎを与えてくれるものだったように思います。しかも母親のように境界例の人が持つ「過剰な愛情」、相手の世界の中にどんどん入り込んでいってかき回し、相手の世界を飲み込んでしまうような姿勢とは違って、すごくサラッとした「愛」があって、その距離感がとても心地よかったんだと思います。

 だから「闘う」と「闘わない」ということのプラスとマイナスの意味が、私の中ではなんだかややこしく絡まり合って私とパートナーとを結びつけ、またその関係を混乱させるもとにもなってきたように思えます。長所は短所、短所は長所、というと簡単に言いすぎでしょうか?

 ということで、なんにせよ、「対等に闘う姿勢」というのが私の表向きの生き方になっていき、パートナーとの関係でもなにか問題があれば「対等に議論して解決する」ということを理想としてきた部分があります。でも実際に自分がパートナーを求めたのは自分の中の「闘いたくない姿勢」という、裏に隠れた思いの部分がものすごく大きかったのだろうと思うのです。だからものすごく矛盾したことを自分はパートナーに求めていた、と言う風にも言えそうです。その矛盾が今、ようやく(?)表に出てきたのかも知れません。


 さて、この「闘う」「闘わない」という、あるいみとてもややこしい問題が、ここでいろいろコメントを下さっている皆さんのそれぞれに個性的な関係の中で、すごくいろんなバリエーションを持っているように感じるんです。もちろん全然闘いの経験がないカップルというのはあまりないだろうし、ひたすら闘いだけの夫婦というのもないでしょう。私の両親でさえ(?)熱々の時期もありましたし(それはほんとに救いでしたが)。

 でも理由は様々でしょうけれど、徹底して闘い抜く中で次を作り出してきたカップルもいらっしゃれば、闘ったけど比較的早く闘わない関係に移行されたカップルもいらっしゃる。闘いの結果として関係が持続するカップルもあれば、関係に決着を付けるカップルもあるし、闘わないことで現状を維持して将来の離婚に備える方もあれば、闘わない関係を続けることでカップルを持続されようとする方もある。ほんとに「ありとあらゆる組み合わせがある」という感じがします。

 そこで改めて思うことなんですが、「闘う関係」か「闘わない関係」か、「別れる」か「別れない」か、といったことは、私たちの人生にとってはとても大きな意味を持つ生き方の違いになります。私は多分上に書いたような理由でこれまで「闘う関係」の方が「闘わない関係」よりも「正しい」という感覚が強かったのですが、でも今はその見方に大きな変化が出てきています。そしてこの様々な生き方について、優劣を付けることが今の私にはできない。

 みなさんのお話しなどを教えていただいても、それぞれにそれぞれの事情があって、それぞれの生き方があって、カップルにもそれぞれの組み合わせがあって、その個性の中で何を選んでいくかが結果として決まるものであって、頭から「これが正しい、これは良くない」とはとても言えるようなものではないと感じられるようになってきているからです。

 ただ、ひとつだけ共通することを探すとすれば、どれも「アスペと定型」というカップルの中で生じているということでしょう。そしてどういう方向に進んでいるにせよ、その「アスペと定型のズレ」の問題がそれぞれに絡んでいるし、そのことがすごく大きな問題として意識されている(または意識されていた)わけです。

 そこで改めて実感することなんですが、普通アスペルガー問題が議論される時って、「まずアスペルガーという問題がある」という感じですよね。「アスペルガーという問題をどうするか」というのがメインテーマになる。でも上のように見てくると、やっぱりそれはなんか本末転倒という感じになってきます。「いろんなカップルが、色んな問題を抱えていて、それに対していろんな対処の仕方をしようとしている。そういう色んな問題の中に、アスペルガーと定型のズレということが絡んでくる場合がある」というのが本当の姿なんじゃないでしょうか。

 だって「闘う」か「闘わない」かとか、そういうのって、別にアスペと定型だから出てくる問題なんじゃないですよね。定型同士だって普通にある問題です。ただアスペと定型のズレのせいで、そのカップルに起こりやすい独特の問題の傾向みたいなことがそこに加わるということにすぎない。しかもその独特の傾向が加わったとしても、やっぱりそれがどういう方向に進み、どういう結果を生み出していくかは、また千差万別で「アスペと定型」だからこうなる、というものではない。

 もちろんアスペと定型のズレによって、定型同士のカップルでは見いだしにくいような、独特の難しい問題があって、それがほんとに深刻な状態を生むと言うことを否定したいわけではありません。そのことは大前提ですが、その上で、その問題に向き合うときに「アスペと定型のズレ」ということだけを考えていては解決がつかない部分がとても大きいし、定型同士のカップルともつながるもっと大きな問題がその土台の部分にはあるのではないかという、そんなことをこの三回ほどの記事のやりとりの中である程度リアルに感じられるようになってきました。


 

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コメント

私も同じようなところがあります。夫は、争わないタイプ。それがおおらかな人に見えたけど、実は争わず我慢する、あるいは難を逃れる方法を取っていたのでした。
私が怒っても泣いても暖簾に腕押しでしたが、それは、相手の表情などから感情を読み取りにくいとか言葉の認識というアスペの特性だけでなく、夫のそもそものスタンスだったように思います。

闘う、闘わないのスタンスの違いがあっても、すり合わせや役割分担のようなやり方で解決しているのが、実は仲のよい恐妻家であったり、従うふりして夫を手の平で転がすというものでしょうか?

こうした擦り合わせや役割分担は、アスペと定型の違いがあると、困難だと感じます。
もちろん、アスペと定型の違いは、闘う(あるいは闘わない)理由やきっかけになり易いでしょう。(アスペゆえの家事、子育て、金銭問題など)
でも、それよりも、そういった問題を闘う(あるいは闘わない)ときに、同じ土俵に立てないことが、本当の困難だと感じます。

パンダさんの奥さん(自分を責めてしまう)と私の夫(俺の何が悪いんだ?)ではタイプがかなり違いますが、こちらの必死の訴え(相手からすると攻撃だったり騒音だったり)が届かない感じは共通するのかな?と感じました。攻撃だと捉えてるなら避けるのも当然ですが。

定型は、この人は言いたいことあったらすぐ言う人だからいちいち反応しなくていい、あの人はなかなか言わない人だから言うときは余程のこと、などというのを認識して、ある程度それぞれに合わせて対応するけど、それが難しくて、すべて騒音、すべて攻撃になったりするのかも?

勝手な推測でした。パンダさんの言わんとしてることとズレてたら、ごめんなさい。

パンダさん、ちょっとこの場をお借りします。

>Rosamondeさん(私信)
ご著書、読みました。すごく分かりやすかったし、参考になったし、元気が出ました。
どこに書こうかな、と迷ったけど、あっちの掲示板に感想書いときました。

ここに来られる皆さん、どなたもそうなのですが、今具体的に明かされるパンダさんの子ども時代も壮絶だったのですね。それも2歳の時の記憶ということで、ちっちゃなちっちゃな子パンダちゃんの様子を思い浮かべ、とてもせつなくなります。

そしてまた、パンダさんのご両親とうちの両親、子ども時代のパンダさんと私&うちの子どもたちのいろいろが重なり、なんとも言えない気持ちです。と、同時に、何かしら皆、家庭のそういうものを引きずりながら生きているのだろうなぁ、と、「人間というもの」の強さ・弱さ・美しさ・醜さ・素晴らしさ・悲しさ・賢さ・愚かさ等々を思わずにはいられません。


ところで、チロさんが書かれている以下の部分、以前パンダさんが書かれていた「聖人云々」、そして、みみさんが以前から言われていることと関連して、私が夫を通して気づいていることを書いてみます。

チロさんのコメントより:
「こちらの必死の訴え(相手からすると攻撃だったり騒音だったり)が届かない感じは共通するのかな?と感じました。攻撃だと捉えてるなら避けるのも当然ですが。・・・(中略)・・・すべて騒音、すべて攻撃になったりするのかも?」

ここの「必死の訴え」というのは、私の経験から言うと、少なくとも夫には伝わりません。
以前から話題にしていることでもあるのですが、こちらの心境が「ニュートラル」「虚心坦懐」といったものでないと、伝わらないのです。

必死になっているときというのは、どうしても、声のピッチやトーン・表情や動作の中に、心の中にある「怒り・不満・悲しみ・不安・心配・憎悪等々」が現れてしまうので、その、まとめて言ってしまうと「負の感情=不快であるという感情」のようなものに、夫は敏感かつ激しく反応します。

そこが、アスペルガーの人の特性についてよく言われる「感情が入ると、中身が伝わらない」ということなのだと思うのですが、「ニュートラル」な心か「正の感情=喜び等、快の感情」を持った心で話す分には、その中身がとてもよく伝わります。

私たち(定型?)にしても、どんなに誰かが自分に向かって言葉を発していても、周りに騒音があると聞こえませんよね。でも、静かな場所か、適度な音量の穏やかなBGMなどが流れる場所であれば心地よく話せますよね。

夫にとっては、私のなんらかの「負の感情」が騒音となって話が伝わらない(あるいは拒絶する)環境となり、私の「ニュートラル」か「正の感情」が話を聞ける環境をつくるものだ、
ということに、

この2年ぐらいの実験も含む(!)経験から、そして、2年前までのすべての経験を振り返っての分析から、気がついたのです。

このことと関連して、最近面白い記事を見つけました。以下、6月15日付、毎日新聞夕刊、「音のかなたへ:静けさ」という、梅津時比古さんの記事からの抜粋です。

*****

 ピアニストの遠山慶子さんは、アルフレッド・コルトーに可愛がられた。・・・(中略)・・・初めの頃のこと、レッスンに行って、ピアノに向かい、弾き始めようとしたところ、横に座っていたコルトーから「うるさい」と一言投げつけられた。遠山が「私、まだ何も弾いていませんけど」と答えると、「弾く前からうるさいのだ」と怒られた。

 コルトーは、作品への精神の対し方として内省の静けさを、弾く前から求めていたのだろう。・・・(中略)・・・彼の演奏は演奏は明確な語りを表出しているが、晩年はその語り先が静けさへと向かっている。今、遠山慶子の演奏を聴くと、どこかに静けさをたたえていて、それが聴き手を魅了し、考えさせることに気づかされる。

*****

夫はピアノは全くですが、

(余談:私はピアノやっていましたが、そのピアノがどれほど「うるさい」ピアノだったが、今わかります・・・(・・;)・・・)

上の会話を、「私、まだ何も話してませんけど」「話す前からうるさい」と置き換えると、まる
っきり、以前の夫と私のことになります。

他のある人たちについても、夫は「やかましい〔人 〕」という表現をよく使うのですが、その人がどういう人であるかと言うと、やはり自分のなんらかの「負の感情」を露骨に外に出している人たちであることが多いようです。

一応「定型」の私としては、そのような声のピッチとかトーン・表情・ボディランゲージによる感情の表出も含めてコミュニケーションだとは思うのですが、

夫とのコミュニケーションにおいては文字通り「言葉が命」「言葉がすべて」なので、

例えば、繭さんのように「言葉はひとつの完結した世界」というように、言葉を大事に、言葉に自分のすべてを乗せるような気持ちで(ピアノの音に心を乗せるように)、

「ニュートラル」な心で、あるいは、「正の感情」でもって伝える、

中身は「辛い・悲しい・怒っている」ということであっても、というより、そういう中身であればあるほど、「ニュートラル」な心・「正の感情」を持って伝えることが大切なのです。

(このあたり、繭さんの言われる「言葉で事実を伝えて欲しい」というところともつながるのかな、と私は理解しています。)

もちろん、私は、20数年の間に夫に何度も言ってきたことですが、「私は、聖人でもキリスト様でもマリア様でも仏様でもない」「私はお義母さんでもお義姉でもない」ので、

怒らず悲しまず憎まず云々ということはできませんが、

それでも実際、怒ると蕁麻疹が出るし、身の丈を超えることをするとギックリ腰になるし、考え過ぎると頭痛がする、という形で体からのサインが出るので、

(今は「感情に気づく→体にちょっと出る」ですが、以前は「体に大きく出る→全く感情に気づかない or ちょっと感情に気づく」でした)

夫との関係のためだけではなく、自分のためにも、

「負の感情」はできるだけ持たない、あるいは、できるだけ早く捨てられるようなような心持ちや思考回路でいた方がいい、と考えるようになってきています。

「聖人」にはなれけれど、「自分の心の管理ができる人」でありたい、と思っています。
(今はまだそうでないから、"ありたい"なのですけど・・・(^^.)・・・)

「人生の最初の記憶」…胸が痛みます。

私たち夫婦は、激しい感情と共に向き合うことを続けてきて、それが「闘う」という表現になると思いますが、正確に言うと「争い」ではありませんでした。

私も夫も、激した言葉を投げ合っている最中でも、「あなたのことを大切に思っているから、だから今、怒って(悲しんで)いるんだよ!」ということを、なるべく口にして来ました。
どんなに言い合っても、その目的が相手を傷つけることではなくて、理解であることを忘れたくないと思っていますが、頭に血が上って忘れることも結構あります。そういう時は冷静になってから謝ります。

「必死の訴え」は、私も受け止めることが出来ていないと思います。
夫が感情的になった時、それが静まるまで、その感情を私が受けることは一応出来ますが、それは一時的に感情発散の相手になっている…というような意識が大きいです。相手の話を聞くのは、感情が納まってからです。

反対に、私自身が感情的になった時も、感情的になりながら、本気で相手に何かを訴えることは出来ません。私にとっては強い感情というものは、自分(もしくは相手)の中の嵐のようなものなので、正負どちらでも静まるまでは、まともに説明が出来ません。

そういえば、夫と付き合い始めの頃、初めて大きな喧嘩をした時に、私が「気持ちが納まらないから、一週間くらい話も会いもしたくないです」と言って、更に大喧嘩になったことがありました。
私としては、相手に感情をぶつけたい訳でもないし、かといって苛々した感情があるので、しばらくひとりで発散したいと思って言ったのでしたが、なんだか大げさなことになって、びっくりしました。夫はもっと驚いたらしいです。(この話、前にも書いていたかもしれません)


カレンさん

感情は私にとって、「感情を直接お互いにやりとりする」というよりも、「材料をお互いにやりとりして、そこに感情が生まれあう」といった感覚のようです。
言葉で事実を伝えてもらえると、そこから相手の感情と自分の感情を生み出し(推測し)やすいのだと思います。「ニュートラル」な心・「正の感情」は、その場の環境=相手の感情からの影響が少ないので、とても聞き取りやすいです。

夫に話をしているとき、言葉が選べないような感情的な話し方の時に、夫があっさりと気持ちを理解してくれることがあって、はじめの頃は「謎…??」と思いました。
それまでの私は、感情的になればなるほど、なるべく冷静に話すことを心掛けていたのですが、何故か伝わらず。
感情的なままの方が伝わりやすいなんて…と、カルチャーショックでした。

以前の記事で、「定型は犬型・アスペルガーは猫型」といった内容のものがありましたが、「犬は人に、猫は環境に」という意味では、私は環境重視の猫型です。物理的な環境だけではなくて、人も、その人が醸す雰囲気などの世界が好きなことが多いです。

一方で、「これは少し待っていてね」と言われると、いつまでも、いつまでも…待ち続けてしまうところなどは、犬型だと思います。

あと、自分の成果物(獲物)を見せびらかしに来る猫の気持ちはよく分かります。
私も似たようなことを夫にしています(^ ^)

今ちょっと時間がないので、短めに。


繭さん

繭さんのお話を伺うと、夫のこともより理解できるし、娘から聞いている話ともすごく重なります。

繭さんはご主人から、「だからー!自分は繭さんのことを『好きだ』って言ってるんじゃないか!なんでそれがわからないんだ?」な~んて言われたことありませんか(笑)?

私の発している言葉だけしか夫には伝わっていない、ということを全く知らなかった以前は、私は音声&文字言語以外のところでの私の気持ち・感情が全く伝わらないことによく苛立ち、

何度となく「だからー! 『好き』って言ってるのが、なんでわからないわけ?! なんでここまで言わなきゃいけないの?! ったく、もう、中森明菜の『飾りじゃないのよ涙は』じゃないんだから!」

(かなり古い歌なので、繭さんご存じないかもしれませんね・・・(^^.)・・・)

なんていうことがありました。言い始めは怒り&超イライラなのですが、この言葉を言い終わる頃には、「へっ? 好き?(・・;)」という夫の顔とともに、こちらも自分で爆笑だったり。

(すみません、何でも言葉で伝えることが習慣になると、こんなことまで書いてしまうようにもなって。でも、我が家のショートコントの一場面です。)


以前は、自分の感情をあまり自分で把握できていなかった私なので、夫とは、「自分の感情をちゃんと把握して言葉にできるようになりなさい」という天の采配で出会ったのかも、などと思うこともあります。

もしくは、夫は、「心に乱れが見えた時は打ち据えてますぞ」というお寺の和尚さん(笑)

繭さんは、ご主人にとって、可愛いワンちゃん&ネコちゃん、そして、女神様か女和尚さんかも、です(^^)

カレンさん、びっくりです。

夫から、怒りながら言われたことがあります! 私も苛立ちながら、夫に言ったことがあります!
言われた直後、どちらも「ポカン…」でした(笑)

『飾りじゃないのよ涙は』聞き覚えがあります(^ ^)v
お互いに愛情表現・確認手段がずれていたようで、分からないのですよね。

夫から言われた後、「どれがその表現なの?」と質問をして、「ふーん、なるほど~」と関心しきり。
仕舞いには、一般的女性(夫世代)の愛情表現まで夫に講釈されました。
私以外の女性の女心は、夫の方が分かっているようです。

お礼に、私の愛情表現を説明して、「恋愛の機微がないよ…」と言われました(^ ^;
「機微はある」と力説しましたら、「好きだと少し困らせたくなるとか、相手を見なくなるとか、甘えたくなるとか、それは男だよ…」だそうです。

付き合い当初は、夫が私の女心を推測して、私の無反応に喧嘩になったことも数知れずでした。
今はお互いに、ストレートに言葉に出しています。本当に、我が家も何でも口に出しています。

カレンさん宅のショートコント、いいですね(^ ^)
カレンの夫さんの普段のコメントの雰囲気からは、「へっ? 好き?(・・;)」が想像できなくて、「か、かわいい」と思いました(笑)

夫が時々「繭さんと一緒にいると、修行だね。あ、いい意味だよ」と、とほほ顔で言うことがありますが、そういう意味なのですね…。
うーん、夫の言う、「あまからすっぱ、いたしかゆし」の意味が分かるような気がしました。
私にとっての夫も、結構手強いです(^ ^)

超爆笑!

繭さんのところの、「男」「女」を反対にした会話したら、まるっきりうちの会話です。

「もう、なんで私が男心の講釈しないといけないの!プンスカ、プンプン・・・(>_<)・・・」というのもたくさんあったし、私が「あなたには男女の心という機微ものがない」と、落ち込んだり激したりしながら陰険に言い放って、最悪の喧嘩になったこともありました。

ご主人も「修行」なさっているんですね(笑) 私がずっと言っていた「修行」の意味を、ここでやっとわかってくださる方々(繭さんとご主人)がいらっしゃるとわかって、嬉しいです。

この「修行」の意味は、「わかってくださる方がいるかもしれないし、でも、ひょっとしたら一生(?)誰にもわかってもらえないかもしれない。わかってくださる方がいらしっしゃれば嬉し、でも、誰にもわかってもらえなくても自分でわかっていればそれでいい」という類の感覚でした。
                          ↑ 
(繭さんが以前書いていらっしゃった感覚と、たぶん同じだと私は思っています。)

夫は、文字言語や音声言語では、選ぶ言葉が四文字熟語だったり語気が強かったりするので、かなーり厳しい印象を受けます。怒ったり困ったり悲しんだりすると、どれもまたコワい顔に見えたりもするのですが、見慣れて来るとそんなにコワい顔ではないし(笑)、

ニュートラルな時とか嬉しいとき・喜ぶとき・びっくりするときは、なんだか子どものように可愛いですよ。(←カレンの夫さん、ここを読んだら、どんな顔になるかな・・・笑) 末っ子キャラというか、素直&素朴キャラというか。(夫の同僚の年下の子からも、「夫さん、可愛い!」なんて言われることも。)

(カレンの夫さんへ:
夫さんが書かないうちに、私が勝手にどんどん書いています・・・<(_ _)>・・・)

カレンさん

私以外にも「恋愛の機微がない」と本気で言われている人がいたのですね!
しかも男心の講釈付きで(笑)
カレンの夫さんに、親近感がむくむくと湧いてきました。
末っ子キャラだったとは、意外です(^ ^)

そういえば、私はけっこう断言口調なところがあって、気をつけています。
「気が強いんだか、弱いんだか、分からない」と言われることも。

ここに来てやっと、カレンさんの仰る「修行」と、私の夫の言う「修行」がよく似ていると気付きました。
夫は、「他の人との会話や、会社でのプレゼンの時に、『修行』が役に立っているよ(笑)」と言ってくれて、プラスに受け取ってもらえることに感謝しています。

もしかしてカレンさんは、カレンの夫さんの顔から、微妙~な表情を読み取ったりしていますか?
私の夫がよくそれをやっていて、何かに集中していた私が気付くと、「微妙~な表情の変化があって面白い」と言ったりするのです。
じーっと見ていても気付かないところも、以前はむっとしてたけれど、最近は面白いらしいです。

繭さんのご主人の、「他の人との会話や、会社でのプレゼンの時に、『修行』が役に立っているよ(笑)」、ものすごくよくわかります。

夫に話が伝わる心の状態を保てるよう気をつけていると、他の人との会話や仕事の中での話の伝わり方も、自然に良い方に変わってきています。日々修行のおかげです(^^)v

(『修行』というと、何かとっても厳しく自分を律するようなイメージがあると思いますが、心持ちに気を付ければ自分の健康もいい感じで保てることが多くなったし、これは『修行』ではあっても『難行苦行』ではありません。)

>もしかしてカレンさんは、カレンの夫さんの顔から、微妙~な表情を読み取ったりしていますか?

ピンポーン♪ してます、してます(笑)

以前、「雪の色」の話が出たことがあったと思いますが、同じ表情のようでも、その中にいろんな感情があるのだとわかってからは、かなり意識して表情を見ています。

ただ、その「表情」というのは、顔はもちろんですが、体全体の動きだったり、こちらからの話しかけに対する反応の有無だったり、反応の仕方だったり・・・これって、定型的な表情の読み取りなのかもしれませんが、

夫独特のボディランゲージとか感情表現の方法というのが、少なくとも以前よりは、かなりわかってきていると思います。一般的なボディランゲージと同じものもあれば、違うものもある、という感じです。

繭さんに親近感持っていただけると夫は喜ぶと思います。夫は、繭さんには一目も二目もおいていますから。私は私で、繭さんのご主人に親近感が湧いてきました(^^)

チロさん

「パンダさんの奥さん(自分を責めてしまう)と私の夫(俺の何が悪いんだ?)ではタイプがかなり違いますが、こちらの必死の訴え(相手からすると攻撃だったり騒音だったり)が届かない感じは共通するのかな?と感じました。攻撃だと捉えてるなら避けるのも当然ですが。」

 ちょっと考えていたんですが、この二つの方向(自分を責める、相手を責める)って、実はひとつのものなのかも知れませんね。どちらかひとつだけに偏りがちでなかなか動かないという意味で。

 もう少し記事で考えてみます。

カレンさん

>ピンポーン♪ してます、してます(笑)

やっぱり、してましたか(^ ^)♪

>夫独特のボディランゲージとか感情表現の方法というのが、少なくとも以前よりは、かなりわかってきていると思います。一般的なボディランゲージと同じものもあれば、違うものもある、という感じです。

私のボディランゲージは、一部限定で、すごく分かり易いです。
家の中では、おいしいと上半身がひょこひょこ揺れたり(たまに外でもやって、注意されます)、気分が良いときには変な踊り(振り付けは気分次第)をしたりしています(笑)

夫の表情・ボディランゲージは、まだまだ研究中ですが、分からない表情は訊くので、少しずつ分かるものも増えています。
微妙な見分けはむずかしいです。

>繭さんに親近感持っていただけると夫は喜ぶと思います。夫は、繭さんには一目も二目もおいていますから。私は私で、繭さんのご主人に親近感が湧いてきました(^^)

とっても嬉しいです(^ ^)
夫は、カレンさんの「修行」の話に、脱力したような不思議な笑顔を浮かべて、「頑張ってらっしゃるんだね」と言っていました。
「カレンさん、お互い大変ですね(笑)」という意味?と、私は推測しています。

繭さんの歩くお姿、やっぱり娘と似ているかもです。子どもの頃から、気分で急にそういう動きが出ることがあり、私はや周りは「出た、○○ちゃんダンス!」とかなんとか言いながら思わず笑ってしまいます。

ご主人に、私からぜひぜひ、よろしく伝えくださいね(^^)

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