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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月28日 (火)

「同じ」と「違う」

 人と人は「同じだからつながれる」のか、それとも「違いを大事にするからつながれる」のか。

 繭さんからのコメントに書かれていた次のことですが、

「そういえば…と思い出したのですが、私がこちらにお邪魔し始めた頃、アスペルガーについて夫に理解を求めようと話をすると、彼から拒絶反応のようなものがあったのですが、その心境はパンダさんが記事に書かれていたこと、
>なんとかしんどさを耐えながら改善して行こうとしていたその自分のやり方が全く意味を持たなかった、ということを思い知ることで、「これ以上自分には何も出来ないのではないか。もう自分の力の限界なのではないか」という思いになったことが大きかったように思います。
この感覚になることをおそれる気持ちがあったのかもしれない、と今は思います。最近はアスペルガー・定型ネタの軽口も行き交ったりしています。」

 これを読んで、今まで私にはよく分からなかった、繭さんの夫さん(なんかへんな言い方 (^ ^;)ゞ)の「拒絶反応」がすごく分かる感じがしました。「アスペルガーと定型のズレ」という風に理解するのではなく(というか、そういう見方は視野に入っていない時に)、「同じ人間としてなんとか理解の仕方を探そう」というところでものすごい努力を続けている場合には、「アスペルガー」という言葉が、相手と自分が同じ人間としてつながる可能性が否定されてしまって、自分の努力が台無しにされる、一種の「絶望」的な宣告にも思えるのかも知れないですね。

 なんだかそこでそういう見方が共有されたと言うことは、自分自身としてとても感慨深い気がします。というのは、私は日本の人間関係は特に「相手と同じ」ということをとても強調し、そこを大事にするように思える(逆に言えば他人と違うことを恐れる)傾向が強いと感じているのですが、それに対して私は自分のことを「違う」という面をすごく重視してきた人間だと思っていたからです。

 ほんとは違いが大きくて、ずれているのに、それをむりやり「同じ」と言い合ったり、思いこんだりすることで、ものすごく無理して相手に合わせることになって一方が苦しんだり、あるいはお互いにしんどくなったり、場合によっては憎しみ合いにもなったり、また「違う」人をいじめたり排除したり、無理矢理自分たちと同じようにさせようとして苦しめたり、そういう悲劇が沢山あるような気がする。それで「いや、やっぱり違うんだよ。違いを認めようよ。それが相手を尊重することにもなるし、自分が自分でいられることの第一歩でもある」ということを思い続けてきました。

 けれども、そういう話をすると、寅さんの「それをいっちゃあおしまいよ」じゃないですけど、「そうはいっても人間として同じと言うことが大事なんじゃないか。違いばっかり言っていたら、つながれなくなるんじゃないか」という感じの反論をされることがよくありました。

 でもいくらそう言われても、「まあ、もちろん同じ人間なんだけど、でも一人ひとり違う人間なんだし、もしその違いの所で問題が生じているのなら、違いに目をつぶらないで、違いをお互いにしっかり理解することが大事なんじゃないか」と、そう考え続けてきたんですね。もちろんパートナーとの問題がどんどん深刻化していったときにも、「違いは何なんだ?」ということを一生懸命考えようとしました。また話し合ってそこを理解しようとも努力しました。

 でも、結局その「違い」を理解する理解の仕方自体が実はお互いに深刻にずれていたことに気づけなかったわけです。アスペルガーという認識ができるまでは。たとえばやはり繭さんがコメントで何度も書いて下さったような、基本的な感覚というか、ものの見え方というか、そういうところからすごくズレがあるということを、少なくとも私は全然といっていいほど、気づいていませんでした。もちろんパートナーもです。だから、そこはあるいみ「人間として一緒」と無意識に考えていたんですね。

 その上で「違いを理解しよう」という努力をぎりぎりまでやって、もう力尽きた、というところになって、そこで実はその「人間として一緒」と思いこんでいたところが違うんだ、という「ズレ」の現実を突きつけられて、それで半ば絶望的になったんだと思います。

 つまり、ややこしい話ですが、「違いを理解することの大事さ」とか自分では思っていても、実際にはそれを理解するための前提の部分は「同じだ」という思いこみがあったということですよね。

 いろんな経緯があって、今は私はその思いこみの「同じ」についても見直した上で、改めて違いを理解する、という風になっているし、その「違うんだね」という理解を共有することで関係がうまくいくようになってきているところがたくさんあります。でも、その今の「違い」についての考え方の裏にも、きっと同じように、「でもここは同じだよね」という一種の思いこみがくっついているんだろうと思います。だからいつかまたそこで新しい壁に突き当たることもあるでしょう。
 
 自分は「違い」を大事にする人間だ、とずっと思っていたわけですが、実は「アスペルガーという理解」という形で「違い」を見せられたときに、ある意味で動揺してしまった。なんかそこが繭さんが想像された繭さんの夫さんの気持ちの動き方とすごく共通する部分があるように思えたのです。なあんだ、そういう意味じゃ、私も「同じだからつながれる」と思っていたとも言えるじゃないか、ということに気づかされたというか。

 もちろんここで「同じだからつながれる」とだけ言いたいわけでもないし、「つながるには違いが大事」とだけ言いたいわけでもなくて、結局どっちの面も切り離せないんだなと思いました。ただその時々でとか、その人の性格としてとか、どっちをより強く意識するかの違いはあるわけですが、どちらか一方だけと言うことは絶対にありえないんだなと、実感を持ってそう思えたわけです。
 

 

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コメント

パンダさん、こんにちは。

繭さんのお話を聞いていて、繭さんはご自分で、私はASかも、と思い、自らご主人に理解を求めたなんて、すばらしいですね。男と女の違いなんでしょうかね…?

私の思いでは、好きな人、大切な人に対して
「色々話したい、分かち合いたい、知りたい、知ってもらいたい」など、たくさん共感共有したい、というのは、人類、万国、共通の常識だと思っていたので、主人との不可解な生活は、理解しがたいものでした。
先日のチロさんのパンのお話などは、特徴として典型例かな?とも思いますが。
うちも、ごはんのおかずとか、お菓子とか、そのような事がよくありました。
お皿を一人づつ分けないと、主人は、コロッケが大皿に、何個乗っていて、何人いて、だいたい一人何個位か?なんて全く考えず、食べたいものに、箸を向け、取って食べる…だけで、そこに、「お前もたべるか?」とか、「自分が食べ過ぎたら他の人、まだ一個も食べてないし、食べれなくなるな」なんて、全く頭に入っていませんでした。
全て食べられて、「えー、私まだ一個も食べてないんだけど…」と言うと、
「あーっ、あー…ご、ごめん。じゃあ、これやるよ…」と、その返ってくる言葉が、「えーーホントに冗談じゃなく無意識なの?」と、これまた不思議でしたし、最後の食べかけのひとかけらのコロッケを、私に返そうとするあたりが、失礼、でも、本当に無意識なんだな(泣)と思わせる瞬間です。それに、一連を何度も繰り返しても、学習しなかったのですが…
今は、たまに忘れる時もありますが、殆どは、コロッケ何個まで食べていいの?と聞いてくれますし、「5個あって2人だから、お前3つ食べていいよ」「私2つでいいからあなた3つ食べて」「あーそー」みたいな会話があります。
「あなた一人に出した訳ではない」「私もたべたかった」「食べる時は、私にも一言声をかけて欲しい」「個数と人数で大体でいいから割って欲しい」と思うけど、あなたはどう思う?「そうだね」という会話が繰り返しあって、学習したようです。

「と私は思うけど、あなたはどう思う?」という所が大切で、2人で相談しよう!的な、大局的な意図が、主人にはストレートにそこまで言わなければ、通じないようです。(個人的には、気付かない事とセットで、このあたりASのわかりやすい特徴だと思います)(なので、ただただ言い方を柔らかく変えても、大局的な意図が伝わらないと、主人からしたらあくまで、私は、私、私の自己中、一方的になるようです)
(なので、そのような言い方にきをつけてからは、だいぶ、話は通じてきたように感じます)

「私の事考えてないのね」「自分一人で食べれば満足なんでしょ(怒)」というのは、主人の中では「違う」という事です。だから、「何が違うのよ!」と、いつもケンカで絶望でした。

気持ちは同じなんだけど、やり方(気付き方)が違っていた、となるのかな…?

人ってもともと、なかなか自分を客観視できないらしいです。(私も〜)
だから人は、自分を相手に投影している(自分の気付かない所を相手の中に見ている)…というのを最近読みましたが、私と主人も、ASと定型も、「違う」「同じ」が、そこに隠れているような気がしました。

大事な事を書き忘れました。

そうなると、夫婦などは、投影という意味で、一心同体少女隊(パンダさんやカレンさんには通じるかな?繭さんは、昔のアイドル三人組、少女隊、知りませんね…きっと…)

親子、夫婦など(近い人)が典型例で、一心同体という言葉で説明がつくような気がしました。

パンダさん

>おお、それはそれは! 夫さまにくれぐれもよろしくお伝え下さい……って、
 お伝えしていただかなくても読んでらっしゃるのか (^ ^;)ゞ

ありがとうございます。夫に伝えました(^ ^)

夫は「そ、そ、それはどうも、恐悦至極にございます!(ほろ酔い)」と、言っていました。
それから、「こちらのみなさんは、すごく一生懸命に生きてらっしゃるよね、僕もがんばろうと思います。とお伝えください」と付け足していました。

カレンさんからのよろしくには、
「こちらこそよろしくお願いします(この時は素面)。それから、カレンさんにエールを(^ ^)」と言付かっています。

みみさん

少女隊…すみません、分かりませんでした(^ ^;

記事のコメントは、また改めて。とり急ぎの伝言メッセージでした。

取り急ぎ、

繭さんのご主人からの伝言、しかと受け止めさせていただきました。
ありがとうございます(^^)

みみさん

「親子、夫婦など(近い人)が典型例で、一心同体という言葉で説明がつくような気がしました。」

 という結論のところが、私にはちょっとよく分かりませんでした。

 記事で書いてみたように、「違う」と「同じ」の間で揺れ動きながら行くのが人間と人間のつながりなのかなと思うのですが、「一心同体」のイメージは私の中では「同じ」という方になってしまって、「違い」の方がどうなるのか見えなくなったからだと思います。

 みみさんにとっては「違い」はどういう意味を持つのか、興味があります。


繭さん

 夫さまから「恐悦至極」とのお言葉を頂いて「恐懼謹言」、申し上げます m(_ _)m
 お気がお向きになられましたら、どうぞ玉音の言の端をお書きいただけますれば、
 これに勝る幸せはなく、心よりお待ち申し上げております m(_ _)m
 以上、畏こみ畏こみ恐れ慎みて申し上げ奉りまする~ fuji

今日も短く、

みみさん

私も、残念ながら少女隊知りません・・・(^^;)


繭さん

ここの内容と関係とはないことですみませんが(パンダさん、すみません)

繭さんの写真の「雨屋鳥」の中の光は何ですか?なんとも不思議な感じで魅了されています。ずっとお尋ねしたいと思いながら、繭さんのブログでのコメントの入れ方がわからず&ここではタイミングを逃していて、今になりました。

カレンさん

いつも見ていただいて、ありがとうございます。

「雨屋鳥」の光は、窓ガラスの水滴がぼやけて映り込んだものです。
出先で雨に会い、お茶をしながら待っていた時に、窓際の席から見えた緑と水滴を写しました。
あまやどりが「雨宿り」と知った時、「雨屋鳥の方が楽しいのに、ロマンが減ってしまった…」と思ったことを覚えています。
でも、今もやっぱり雨屋鳥の気分で雨宿りをしています(^ ^)

私のブログは、コメント欄を設けておらず、閉鎖的になっています。
写真の感想をいただくようになり、少し迷っていますが、元々の目的である「自分の為の絶対安全領域」という意味で、勝手ながら、いましばらくはコメント欄は作らない方向でいたいと思っています。

一応、ブログの拍手から、短いコメントが入れられるようになっています。
これもコメントをいただいて初めて気付いた機能でした(^ ^;


パンダさん

本来は自分のブログでやりとり出来るようにすることなのに、いつもこの場をお借りしていて、すみません。

人とのコミュニケーションは私にとって、嬉しく実りあるものであり、夢に見てうなされるものでもあり、距離が分かりづらく、複雑な思いを抱いています。
自分のブログでの不特定多数の方との交流は、まだこわい気持ちが強くて、パンダさんに勝手に甘えさせていただいていますm(_ _)m

お詫びとお礼の気持ちを…dollardollardollarshine

ここしばらくのやり取りの中で、「私はなんだってこんなに『言い方』にこだわるんだろう」と思って、今、それが「謎」です。

アスペルガーの人には「こだわり」があるといいますが、私、自分自身の「『言い方』へのこだわり」が自分で理解できなくなってきた。

「ブログを通じての変化」の方のコメントで「母との楽しい思い出もある」って書いたけど、「楽しい思い出」ではないかも・・・。「嬉しい思い出」ではあっても。

それは、「母がホットケーキを焼いてくれた」という「事実」があっても、「つながり」が感じられないから。

「つながり」って何? 

父も母も同じように「子どものために何かをする」ということをしてるのになんだって、私は父とはつながってる感じがするのに、母とはつながってる感じがしないのだろう。

小学生の私の作った料理が「塩辛かった」とか「(おにぎりの)具が少なかった」とか、その「事実」を伝えられた時、なんで、母から言われると傷ついて、父から言われると大丈夫だったんだろ。なんで、母から言われると「つながってない」感じがするのに、父からだと「つながってる」感じがするんだろ。

なんか、自分自身が「謎」になってきてしまいまいした。

繭さん

 「お詫びとお礼の気持ちを…dollardollardollarshine

 おお、この心がけが大事ですね!
 世の中、心より言葉、言葉より現金でしょう!
 もう、どんどん勝手に使っちゃって下さい (^_^)v

繭さん、説明ありがとうございました(^^)

パンダさん、ありがとうございました<(_ _)>

(絵文字からお金を探すのがすごく大変。目がチラチラしてダメでした・・・。)

〉パンダさん

遅くなりましたが、
〉そうなると、夫婦などは「投影」という意味で、一心同体で説明がつく…

以前、繭さんも、投影について少しお話していましたが、
人って、自分を相手の中に見ている所が誰でもあるそうです。

相手の良い所は自分の良い所、
相手の嫌な所は、自分自身の嫌な所、など……。

夫婦や親子は、距離がごく近いですし、その分、良いところ、嫌なところが多く見えると思いますが、

相手の嫌なところとは、自分と違う部分…と思いがちですが、実は、無意識的に自分自身の中の嫌な部分と同じであったりもする、という事です。

ですから、投影→相手の違い=実は同じ、となり、夫婦で投影すれば、相手の違いも同じになり、(距離が近いですから)一心同体になれる、と思います。
(すみません、あまりうまく文章では説明できません)

違いについて…思う事は色々あるのですが、まだ頭の中を整理できてないので、自分のブログで書いてみて、整理してから、(いつになるかわかりませんが)また改めてパンダさんにお伝えしようと思います!

みみさん

 どうもありがとうございます。

 「ですから、投影→相手の違い=実は同じ、となり、夫婦で投影すれば、相手の違いも同じになり、(距離が近いですから)一心同体になれる、と思います。」

 うーんと、つまり、違いと思ったことも、実は自分の中にある(自分では認めたくない)ものを相手の中に見ているだけだから、結局は自分も同じだという意味ですね。

 よく人は自分に許されていないこと(自分がいけないと思っていること)を他人が堂々とやっていたりすると腹を立てたりするわけですけど、実はそれは本当は自分もやりたいのを我慢してるからだったりする。そういうややこしい心の動きを人間って持っているから、そのことを言われているのならなんとなく分かる感じがします。

 ただ、「一心同体」という言葉については、やっぱり「違い」に気づいていない(あるいは無いと思っている)ことを言うのかなと思いますから、ちょっとこの例にはあてはめにくいかなという気はします。それと、もし上のような意味だったら、特に夫婦とか親子とかに限らず、すべての人間関係にあてはまることのように思います。

 なんかもう少し説明が欲しいような……

 またお手すきの時にでもよろしくお願いします。

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