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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月27日 (月)

ブログを通して変化する

 考えてみると面白いことだなと思うのですが、以前離婚を真剣に考えざるを得ない状況にあったときには、パートナーが「アスペルガーだ」ということがものすごく大きな意味を持っていたんですね。アスペルガーという理解がなくてしんどいときには離婚はちらちら頭に浮かぶ程度だった時期が長かったけれど、アスペルガーという理解が固まった前後くらいから本格的に考えるようになったと思います。

 なんか「障がい者差別」みたいな感じですよね。これを書くだけだと。そして実際そういうのを障がい者差別と言うのかも知れないけど、もうちょっと素朴に自分の気持ちを言えば、なんとかしんどさを耐えながら改善して行こうとしていたその自分のやり方が全く意味を持たなかった、ということを思い知ることで、「これ以上自分には何も出来ないのではないか。もう自分の力の限界なのではないか」という思いになったことが大きかったように思います。

 このブログを始めた頃は、まだそこから抜け出していたわけではないと思います。そして今振り返ってみると、そのころから考えるとほんとに大きく変わったと思う。

 もちろんパートナーがアスペルガーで私は定型であると言うことは、今でもとても大きな意味を持っています。でもなんというか、それはパートナーが女性であるとか、彼女の体型は○○であるとか、なんかそういう特徴のひとつとして意味がある、くらいの感じに近くなってきてるように思うし、前にも書きましたが、「これだからアスペは困るね~」とか「何で定型はそうなんだろう」とか、おたがいに冗談で言えるくらいの感じにはなってきています。

 もちろん神ならぬ身、人生何が起こるか分からないし、今後どう展開するのかを断言することなどできないわけですけれど、でも今は自分の中から離婚という文字はほとんど意識されなくなっていることは事実です。それよりこれからどんな風に生活を作っていくかということの方がよほどリアリティーがある。


 熱心にブログを読んで下さっていたある方からメールを頂いて、その方もやっぱりブログを読みながら、ずいぶんとご自分が変わられた部分があったそうです。もちろん私が読み手の方を「変えよう」と思ってブログを書いているわけではないし、コメントを熱心に下さる皆さんも、特定の誰かを自分の思う方向に変えようと思って書かれているわけではないと思うのですが、それぞれの人がそれぞれの思いをつづり続けてくる中で、書かれているご本人もそうだし、それを読んでいる方の中にも変化が起こり続けているんですね。

 人間の変化の可能性と言うことについては、正直、自分の母親をみていると、いつもぐるぐると同じ所を回っていて、結局何も変わらないのかとあきらめに近い気持ちになったりするんですが、アスペと定型のズレの問題でこんなふうに大きな変化が起こりうるという事が、もう少し自分の中で安定して感じられ、自分自身の気持ちも安定してきたら、母親の境界性的な部分の大変さとの付き合い方も、もう少し何か考えられることも出てくるのかも知れないという気も、ちょっとだけしてきます。今は到底そこにエネルギーを使える状態にはありませんけれど。アスペと定型の間の工夫でそのまま境界性の人との間に応用できるものはほとんど思いつきませんし。なにしろある意味正反対の傾向ですから。


 まあ、ほんとに人生、一歩一歩ですね~。
 寿命の問題があるからどんだけかかってもいいというわけにもいかないけど。
 というか、そういう限界も含めて人生か。

 おっと、私もKSさんのように仙人になりつつあるか?

  

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コメント

最近、こちらのブログを見ている夫から、
「繭さんが、こんな風に自分の気持ちや考えを載せていることに驚いた。よかったね」
という言葉を掛けられました。
よく「薄紙をはがすように」という言葉を耳にしますが、日々の変化は本当に見えないもので、年単位を振り返った時に、自分でも驚くようなことが沢山ありました。

先日チロさんも仰っていましたが、この場を作っておられるパンダさんを始め、コメントされる皆さん(言うまでもなくですが、チロさんもです)の誠実さと温かさは、私にとってとても大切な場となっています。
なんだか怪しげな勧誘のようになってしまいましたが、本当にそう思っています(^ ^)

本題の、定型とアスペルガー問題は、引き続き色々と教えていただいたり、私のことでお役に立つのなら喜んで書かせていただいたりしたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いします。


パンダさん

>おっと、私もKSさんのように仙人になりつつあるか?

ここを読んで、先日の夫の不思議な笑顔を思い出しました。
諦観半分、面白半分、おまけで愛情……? という希望的観測で(笑)

>パンダさん
私も最近、「は? アスペルガー? それが何か?」っていう感じよ。夫との関係ではパンダさん夫婦とは違う方向に進んでますけど、繭さんやRosamondeさんとのおつきあい(と呼ばせていただいていいよね)で「不便」は感じないし、心強い助言者を得て、人生百人力よん!(母の言動の謎も今後相談できそうだし)という感じ。

KS仙人は修行が足らず、先日、うっかりと霞以外のもの食って吐いちゃいました。霞食ってると、俗世の食べ物が体質に合わなくなってくるのでしょうか。(詳しくはあちらの掲示板へ)

>繭さん
写真、すごくステキね。時々見せていただいています。なんていうか、自分のまわりにある喧噪がだんだん遠のいていって、心が静まっていくという感じがするの。

繭さん

 「最近、こちらのブログを見ている夫から、「繭さんが、こんな風に自分の気持ちや考えを載せていることに驚いた。よかったね」という言葉を掛けられました。」

 おお、それはそれは! 夫さまにくれぐれもよろしくお伝え下さい……って、
 お伝えしていただかなくても読んでらっしゃるのか (^ ^;)ゞ

 「パンダさん……の誠実さと温かさは」

 おお、よくぞ分かって下さいました! でも誠実ってなんなのか、私は分かってないんですが(^ ^;)ゞ、 体温は暖かい方かも知れません。


KS仙人

 「は? アスペルガー? それが何か?」

 この言葉をKS仙人から聞けるというのがなんともいいですね!もう、心おきなく離婚への道を応援してしまいます!

 でもなんか、修行が足りなかったみたいですが(まだ掲示板は拝見してませんが)、なお一層のご精進の程を!

KSさん

写真を見て下さって、嬉しいお言葉をありがとうございます(^ ^)

私も自分の両親の言動は、結構謎の部分があります(特に父)。
健全な家庭はどのようなものなのかもよく分からないので、比較が出来なかったのを、こちらで色々知ることができて、「なるほど…、むむむ」としています。
今後、謎解明にご一緒させて下さい。

掲示板、拝見しました。
私も親のことを考えて、発熱したり、吐いてしまうことがありました。食中毒とは、言い得て妙です。
KSさんがお話ししたくなったら話をして、つらい時はお休みをして、ご自分の気持ちと相談しながらがいいのかもと思いました。お大事になさって下さい。

小さな幸せを感じられる感覚が戻って来た時、世界が変わって見えたことを思い出しました。
あの頃の感動は、ずっと忘れないでいたいと思っています。
日々のごはんがおいしいって、とても幸せなことですね。

それで思い出したのですが、私が夫と出会う前、友人から好みのタイプを聞かれると、「一緒にごはんを食べて、幸せを感じられる人」と即答していました。
どれだけ食い意地が張っていたのだ(笑)…ということでもありますが、上記の感覚の影響も大きかったように思います。


パンダさん

夫はいつのまにか読んでいて、たまにぽろっと「あの書き方はなんか変だけど、繭さんらしくていいんじゃない(爆笑)」などと言っています。
そういえば…と思い出したのですが、私がこちらにお邪魔し始めた頃、アスペルガーについて夫に理解を求めようと話をすると、彼から拒絶反応のようなものがあったのですが、その心境はパンダさんが記事に書かれていたこと、

>なんとかしんどさを耐えながら改善して行こうとしていたその自分のやり方が全く意味を持たなかった、ということを思い知ることで、「これ以上自分には何も出来ないのではないか。もう自分の力の限界なのではないか」という思いになったことが大きかったように思います。

この感覚になることをおそれる気持ちがあったのかもしれない、と今は思います。
最近はアスペルガー・定型ネタの軽口も行き交ったりしています。

>でも誠実ってなんなのか、私は分かってないんですが(^ ^;)ゞ、 体温は暖かい方かも知れません。

誠実…私の勝手なイメージは、相手を尊重することと自分を尊重すること、両方を大切にすることだと思っています。体温は、パンダ柄の毛皮をお持ちなので暖かそうですね(^ ^)

>繭さん

>「一緒にごはんを食べて、幸せを感じられる人」と即答していました。
その男の選択基準は素晴らしいわ。

長田弘の『食卓一期一会』を読んだことあります? まだだったら是非読んで。きっと繭さん、気に入ってくれると思う。でもって、お夕食の仕度がもっと楽しくなると思うわ。

この詩集の中の「人生とはー誰と食卓を共にするかということだ」という言葉は、私、本当にその通りだと思います。

すごく苦しかった時にふとこの本を手にしたのですが、その後離婚を決意した理由の決定打は「こいつと一生飯食うのは嫌だ!」という「感覚」だったかも。

助言ありがと。無理せずに、自分の気持ちや身体に正直に自然体で行くね。

謎解きのご協力依頼への受諾もありがと! 繭さんと一緒に「謎解き」と思えば、母(や夫)の言動について思い出すこともちょっと辛さが減る感じがします。

あ、掲示板も読んでくれてありがとう。掲示板に書いた「花を買った」の花は赤いフリージアなの。ちょっと珍しいでしょ? 少し毒々しい赤だったりはするんだけど、「心の中に濁はありつつも、とりあえず咲いてます」みたいな感じがして、「私もそうだよ」という気分になって買いました。

繭さんのパートナー、ほんとに優しくてすてきな人ですね。いいなぁ。

変化ではないですが、、、私は定型「らしい」です。
なんでこんなこと改めて言うかというと、私はうちの軋轢で困るようになり、発達障害の概念と出会ってから、どちらか、または両方が発達障害ではないかと思って相談してました。
なにしろ自覚できないのが状態象の一つだということなので、それなら当然、自分が「そういう特殊な」振る舞いないし感じ方をしていても、それに気付かない可能性があるから。
で、ずっと自分の検査を依頼したのですが、ウツ状態やら落ち込みがひどいので検査しても意味ある結果が出せないということで何年間も検査してもらえずでした。
それが最近またお願いしたら「すこし状態が改善してるようなので」と検査してもらえたんですね。半日かかってしんどかったですが。そしたら「多少のデコボコはフツウの範囲、とても障害を疑うようなプロファイルではないと」言われました。
それで、続きはまた後で書きます。


joさん

 コメントを読んで、なぜか今までとは違う形でjoさんの「痛み」がダイレクトに伝わってくるような気持ちになりました。

 なんか、私の方の「読み方の変化」かもしれないし、joさんの「変化」ではないのかもしれないけれど……、うーん、でもやっぱり私の方だけのことではないような気がします。

 すごい印象的な書き方しかできないんだけど、その伝わってくる痛みが、びっくりするくらいほんとに痛く感じられて、でもそのことがとても大事なことのような、そんな気になるんです。

 続きが気になります。

KSさん

>長田弘の『食卓一期一会』を読んだことあります? まだだったら是非読んで。きっと繭さん、気に入ってくれると思う。でもって、お夕食の仕度がもっと楽しくなると思うわ。

書評を見てみました。食の詩集なのですね、興味深いです。
ご紹介ありがとうございます。読んでみます。

それから、赤いフリージアは珍しいですね。フリージアのすらっとした姿と濃い目の赤い花を想像しました。
花や植物に励まされたり、癒されたりってありますね。

>繭さんのパートナー、ほんとに優しくてすてきな人ですね。いいなぁ。

ありがとうございます。
多分夫がこれを読んだらモゴモゴと変な顔をすると思います(^ ^)

気づき→変化→気づき→・・・を繰り返しているような毎日ですが、

パンダさんのブログの中で、私は、

自分がもともと多くのアスペルガー的な要素を持っていること、そして、その要素+日々の生活の中で"夫的"なコミュニケーションの仕方を習得する(?)中で、かなり自分がアスペルガー的思考をするようになってきていること、

に気づいています。

アストン博士が「アスペルガーの人の配偶者もまた、アスペルガー的になる」というようなことをどこかで書かれていましたが、自分のことを考えてみると、生活の知恵・環境への適応・生きていく上での必須条件として、アスペルガー的コミュニケーションを学習してきているのかもしれません。

でも、KSさんがいつか書かれていたように、時々、夫とのコミュニケーションモードのまま=アスペルガー的コミュニケーションモードのまま定型の人に接してしまい、「あ、しまった」と思うことがあります。

人の話を聞くときや人の書いた文章を読むとき、自分があまりにもアスペルガー的読み方をしたり、アスペルガーの人の立場そのもので読んでいることがあって、時々自分でハッとすることもありますね。

最近では、沖縄の方が米軍基地のことについて言われた「なぜ今でも沖縄に・・・!」という言葉を新聞で読んだ時、

「その理由は・・・」とまず考え始めた自分に気がついて、ちょっとびっくり&苦笑しました。

この場合の「なぜ」は、以前ならば、間違いなく、「悲嘆・悲憤・怒り・やるせなさ」を表す言葉と捉えていたでしょうに、その「なぜ」に対して、まず「理由」を考え始めている自分の姿は、良いとか悪いとかではなく、ちょっと衝撃的でした。

日常生活の中でも、「教えて欲しいから尋ねるのだけど」という「なぜ」を聞く場が多く、また、自分もそのような意味で「なぜ」を使うことがほどんどになっているので、

ひょっとしたら、生活のどこかで、定型の人が発した「なぜ」の解釈を間違って、その定型の人を傷つけたりはしていないだろうか、という自己点検を心がけようと思っているところです。

別の話に移りますが、

ここで繭さん・Rosamondeさん・Anさんのお話を伺えてきたことは、「アスぺルガー」というものを考える上でも、私の意識をいい意味で、とても変えてきてくれました。

繭さんやRosamondeさんAnさんのお声を伺うことで、

画一的な「アスペルガー」についての概念から解き放たれて心が軽くなったり勉強になったり、

夫のときもそうでしたが、

その人を知りたいから、「アスペルガー」のことを知りたいのだ、という自分の気持ちが、よりはっきりわかるようになりました。

定型の方々からの疑問は、自分の中にもある疑問だったり、自分ではまだ気づいていない疑問だったりもしますし、これからもいろんな方からのお声を伺いたいです。

他にも、感謝を込めて書き記したいことはありますが、いつかまた追い追い(^^)

カレンさんの

「自分がもともと多くのアスペルガー的な要素を持っていること、そして、その要素+日々の生活の中で"夫的"なコミュニケーションの仕方を習得する(?)中で、かなり自分がアスペルガー的思考をするようになってきていること、に気づいています。」

 というの、ある意味ではそれまで気づかなかった自分の中のすごく沢山の要素を知ることができたのかも知れないですね。多分、アスペルガーという問題との出会いがなければ気づくことがなかったような自分の要素。

 そう考えると、人間ていうのは、気づいていないだけで、ほんとうはものすごく幅広くいろんなものを持っている生き物なのかなという気もしてきます。ただ、その人によって、それらのうちのどの部分が強調されているか、大事にされているか、意識されているか、生き方の中心の方にあるか、というようなことが違うから、それぞれ個性的になるんだけど、気づかれずにとか、無視されたりとか、周辺に追いやられたりとかしてそれ以外の部分もものすごく沢山(むしろそちらの方が多いくらいに)持っている。

 そうだとすれば、

 「繭さんやRosamondeさんAnさんのお声を伺うことで、画一的な「アスペルガー」についての概念から解き放たれて心が軽くなった」

 ということもわかりやすくなるような気がしました。小さな枠に自分を閉じこめて他人や自分を見ていた世界から、もともと持っていた豊かな可能性の世界に解き放たれたということなのかも。

 そういえば、学生時代、それまで出会ったことの無いようなめちゃくちゃ個性的な人たちに沢山出会って、「わあこんなんもありか!」とびっくりして、人間に対する見方がすごく拡がって面白かったことを思い出します。ああいう経験って大事だと思います。

「誰にもわかってもらえない。おかしいのは私!?」というのは、カサンドラ状態だったわけだけど、私は、ドクターに「あなたはおかしくない」と言ってもらいたかったんでしょうね。そう言ってもらったら、きっとスッキリすると思ってました。「やっぱりおかしいのは、そっちだったんだ」と思えると思ってたからでしょうね。で、検査前に思ってたように、スッキリしたかというとそんなことないんです。

一つは、「あなたは、おかしくない」と言ってもらったけど、「あなたは、ずっとおかしくなかった」と言ってもらったわけじゃない。やっぱり私がおかしかったことがあったかもしれないという自分の感じは、あまり変わらないんですね、今も。希死念慮も経験したほどですから。

もう一つはフツウに見られる多少のデコボコというのが、どういう経緯を経てきた帰結なのか、決して知ることができないからです。そんな検査なんかフツウの人は受けたことないのがフツウだから、もしかしたら、私だって発達障害型プロファイルを持ってここまで生きてきて、いろいろな経験の積み重ねで薄紙を重ねるような学習をしてきて現在のプロファイルに辿り着いたのかもしれないし、それだったら過去の自分はそうとう歪んでいた(何を基準に??)可能性もありだと思うんです。あるいは、実はもっともっとド定型の円満なプロファイルを持っていたのに、ここ数年のストレス負荷によって多少ギザギザになってしまった(ウツで経験した違和感の数々が発達障害の状態像とかなり共通点があるのを実感しましたから)とか。あるいは、加齢と環境が相互作用していろいろな能力がバラバラに減衰した結果が今のプロファイルに現れてるかもしれない。そうだとしたら、この種のしんどさは、今後も厳しさを増していき、そういった自分に今後さらに適応していかなければ、もっともっと生きにくいことになる可能性もある。

「あなたは定型」と言ってもらっても、霧が晴れたようにスッキリすることはなかったです。そのことがわかったことはプラスだったかな。一時、配偶者の診断をつけることこそが、問題の原因をつきとめて、対処法をみつける最良のそして必要不可欠の手続きの一部だと考えて躍起になっていた頃がありました。フツウの問題解決はそうですよね:原因に遡って対策を考慮する。でも「発達」とか「適応」とか「対人」とかの分野では、それではたちゆかないことも多い。

自分自身のプロファイルを知ったときの自分のこころの動き方を洞察したことで、相手のプロファイルが明らかになったときの自分のこころの動きを、前よりもっとリアルに想像することができます。もし仮に、配偶者のプロファイルが非定型であったと判明しても、「そのこと」によりスッキリと対処法に直結したり、自分のこころをスッキリさせるものとはなり得ないということが、なんとなく実感としてわかった気がするのです。それでもこころの中では「悪いのは僕じゃない!」と叫んでいるかもしれないのですが、、、

悪者さがしに勝利することはできないような気が、今はしています。

「検査を通して」なのかパンダさんの「ブログを通して」なのかは不可知ですけどね。

--- このような懐疑主義は、理系の人らとの交流をはじめ数々の異文化を経験するなかで身につけたものと思います。

joさん

「それでもこころの中では「悪いのは僕じゃない!」と叫んでいるかもしれないのですが、、
悪者さがしに勝利することはできないような気が、今はしています。」

 これ、両方とも真実のような気がします。
 joさんに悪い所なんてどこにもないと思えますし、
 joさんが抱え込んだ生きづらさの問題はjoさんが作った訳じゃない。
 
 同時に彼女が一人で作ったわけでもない。
 もちろん「相手が悪い」場合もありうると思うけど、
 この場合はちょっと違うかなと思うし、
 
 それでも彼女を「悪者にする」ことはもちろん可能だけれど、
 joさんはそういうことはしない方のように思えるし、
 もしそうなら彼女を悪者にしてのかりそめの勝利もない。

 でも、絶対に大事なことは「joさんが悪いんじゃない」
 ということですよね。
 彼女が悪くないというのならなおさらのことだと思います。


「--- このような懐疑主義は、理系の人らとの交流をはじめ数々の異文化を経験するなかで身につけたものと思います。」

 懐疑主義とか相対主義とか、やっぱり問題だと思うのは、それが自分を見失わせることのように思います。そして実はそれは相手を見失うことでもあるし、もう少し言えばお互いの関係を見失わせるものでもある。そんなふうに思えるんです。

 だって、「しんどい!」と思うのは、それ自体もうどうしようもなく否定できない自分の事実なんだし、「自分は悪くない!」という思いもそうですよね。本当に正直な、素直な心の叫びなわけで。「でも相手は悪くないのかも知れない」という思いがその自分の素直な気持ちを見失わせてしまうことがつらい状況を作るような気がするんです。

 その思いで苦しんでいるのに、その思いを見ないことにしてしまったら、何も解決しないように思えます。そこは相対化してはいけないことだと思う。解決すべき問題が見失われてしまいます。相対化しなければならないのはそこではなくて、「なんでしんどいのか」ということについての見方だと思います。そこは柔軟に考えていく方がいい。

 だから「相手が悪いとは言えない」でも「自分は悪くないし、自分は十分苦しめられている」という、その両方が真実なんだと思うんです。ものすごく矛盾したように見えるかもしれないですけれど、そこで「なんでもあり」の相対主義や懐疑主義にならないための足場になるのが、「ズレによって生み出される苦しみ」という見方なんじゃないだろうか。そう思って私はこのブログをやってます。

>joさん

今のjoさんの心の弱り具合を分かってる訳じゃないから、もし、不快になったら途中で読むのやめてね。

joさん、奥さんのこと好き?  私はね、母のこと嫌いよ。

一番はっきりしてるのは、母から傷つけられるのは嫌い。

母が私の心をこれでもか、これでもかっていうくらい傷つけるのは、母が「悪い」訳じゃないけど、でも、母が悪くなくても、私が傷つくというのは「事実」だし、こんな目に合うのは嫌い。

母のこと嫌いって思っても、傷つく度合いが減る訳じゃないし、何も変わらないようにも思うけど、私、「母のこと嫌い」って口に出来るようになってから、心の「足場」が出来たみたいに思う。

もっとアスペルガーのことを知って母の「ロジック」が分かれば、「母のことは好きでも嫌いでもない」けれども、「傷つけられることは嫌い」に変わるかもしれないし、それでもなお、母のこと嫌いかもしれない。

結婚や家族って「制度」だから、国家にとっての「正義」だけど、誰にとっての「正義」である訳でもないし、そのありようは歴史とともに変わってるよね。

私の友だちのお母さまの一人は戦争中に写真だけで結婚を決め、もう一人は写真も見ずに結婚を決めたそうです。そんな結婚が「普通」だった時代もある、というか、その時代を生きてきて今も生きている人がいるのだから、その時代はまだ「今」なのです。

見たこともない人と一生排他的にセックスしろって、いったいどういうこっちゃ?と、次世代の私は思うけど、それが「正義」だった時代は、まだ私たちの「同時代」です。性という自分の身体のもっとも奥深いところに「産めよ増やせよ」の国家は堂々と侵入してくるのです。「家族」という「正義」をふりかざして。

私はjoさんは「家族」や「結婚」の「正義」にとらわれているように思う。とくに、「男の責任」に。それはjoさんの誠実なところで魅力でもあり、私の夫にはjoさんの爪のあかでも煎じて飲ませたいぐらいですけど(私の夫は息子の高校入学時の支払いのお金も用意していませんでした。しかも私、全額くれって言った訳じゃないんだよ。3分の1出してって言っただけなんだよ。つまりは30万円ちょい)、その「とらわれ」を一度「選択」に変えるとラクになるような気がする。

現在の日本に流布している「正義」の歴史性を踏まえた上で、自分の「正義」の範囲を決めていく。その「正義」が自分の「正義」と重なっていれば、無批判に「正義」を受け入れているよりも、それは強い本物の「正義」となる。自分の「正義」と重なっていない場合は、「正義」を踏み外すことの代償との損得の計算をして、自分の「妥協」の水準は「ここだ」と決めていく。

どんな場合も、一番に守らないといけないのは子どもだよね。私も、「息子を守る」が最優先課題です。「子どもを守る」の中には「自分が元気になる」「自分が生き生きする」というのも入る。

joさんとこは、まだ子どもさんが小さいのよね。

子どもさんたちといっぱい一緒に遊んでね。私は父と遊んだ思い出がいっぱいある。沢山の冒険も体験させてもらった。父のぬくもりは今も覚えている。父がしてくれた「でたらめ」なお話は、息子にもしてあげた。父は、私といることを自分も「楽しんでいた」と思う。「遊んで『あげる』」じゃなくて「一緒に遊ぶ」だった。私が「暴力」にもかかわらず、父のことを懐かしく思い出す(最近ようやく思い出せるようになったんだけどね)ことが出来るのは、父が私といることを「幸せ」だと思っていてくれたからだと思います。

あれこれ書いてしまって言いたいことが伝わるか不安ですが、要するに「重荷」を背負い続けるにせよ、いったんその重荷をおろしてみて、それから背負ってみたら、ちょっとラクになるんじゃないかなぁって、そんな気がしたということです。

あとは、子どもさん小さいうちに子育てうんと楽しんでね〜!ってことね。

ご自身が診断受けられたのは、ご自分の「立ち位置」を測定する上で大事なプロセスのひとつだったのではないか、と私は思います。

お互い一歩ずつ、無理しすぎないようにしながら進みましょうね。私も「嘔吐」に気をつけつつすすみます。あんまり吐くと食道が痛みそうだし、食道ガンとかになりたくない(「吐く」と「がん」の関係があるかどうか分からないけど、良いこととは思えない)。

これからもよろしく!

私が言う『懐疑主義』とは、「常に自分が見ている絵が全部だと思わない。まだ見ぬピースを見た時に、絵の全体は、まったく違った姿を表わすかもしれない。」ということだと思います。「自分の主観に騙されないぞ」というスタンスはたぶん自分の哲学と言ったら格好よすぎですが、価値観みたいなものだと思っています。だからパンダさん、そこは私のアイデンティティと深く関わっていて、今の自分は、(不必要に?)苦しんでしまった自分のことも抱きしめてやりたいと感じています。そのような苦しみ方をしなければ、「私」ではなかったとでもいうのか。

自分の内奥から聞こえる声に耳をすませることも、もちろん決して軽んじるわけではありません。でも、その大きな絵を見つけるためには、なまなかのことでは行かないということも経験的に知っているからだと思います。

私も吐きまくりましたよ。パンダさんの言う「どうにもならない限界に突き当たって」いることがわかって、それでもなお、という時には、すでに生きてるのか死んでるのかわからなかった。実際、すでに社会的には死にましたからね。

パンダさんと、私と、KSさんのお父さんは同じ種類の♂みたいです。私の拳が壁でなく彼女に当たらなかったことは、ただの偶然かもしれないとすら思います。置かれた立場が同じだからかな。ジェンダーロールがその立場に立たされたときの共通の反応かもしれない。でもね子供といることが楽しいしうれしいのです。登っちゃいけないはずの金網フェンスも、キョロキョロ、誰も見ていなかったら2人で登って越えちゃうんです。先日、子がヤバい危機に直面して、フツウの子が「お母さーん!」と泣き叫んでるはずの場面にかけつけたら「お父さん、お父さん!」と泣きじゃくっているのを見て、改めてびっくりしました。その絆は、私の宝石だと思います。それはこの子の母親なしには輝かないのかもしれないです。

>joさん

私の父は、物を壊す方が専門(?)で、母を殴ったことも何度もあったみたいだけど、基本は「怒鳴る」&「物を壊す」でした。救急車で運ばれたのは、実は、父なの。ガラスのドアを拳で割って、動脈切ったのか血が吹き出て、床中血だらけになって、何針も縫いました(マヌケ)。

私は目撃してないけど、包丁投げたこともあるらしいので、本当に一歩間違えば、母が命を落としていたというのが、私にとって「現実」であったことは間違いないのですけどね。
(Alonaさんのパートナーが枕元に包丁つきつけた話は、私には本当に「リアル」な恐怖でした。Alonaさんは本能的に賢いから、そこで「決定的一言」を言ったりしなかったけど、もし、「(Alonaさんのパートナーにとって)最後の一線を越えるような(しかし、それは「常識的」には「当たり前」だったりもする)一言」をAlonaさんがぽろっと口にしてしまったら、Alonaさんはここにはいなかったかもしれないとマジで思います)

joさんが、ご自分を制御されていらっしゃること尊敬します。

joさんの見ている絵がの全体像が、ご自身で納得できるところまで把握できる日が早くくるといいですね。

ただ、それでも、後から後からピースは出て来るよね。生きてる限り。どんなピースが出て来るかは、いろんな偶然に左右されると思う。パンダさんのブログとの出会いもそのひとつだと思う。

だから、ある程度のとこまで行ったら「とりあえず今はこう見えてます。で、私はこうしたいと思います」というのでもいいんじゃないかと、個人的には思ったりはするけど(>すみません。おせっかいで。息子にもいつも怒られます)、でも、joさんは真面目だから、その「ある程度」は半端なレベルじゃダメなんだろうな・・・と思います。

お互いの「自分の納得」を大事に生きていきましょう。それが一番大事なことだと思います。で、いつか「吐かずにすむ暮らし」を手に入れましょう。

金網越え、楽しそうですね。子どもにとって、そういう体験って、すごーく印象深いのよね。私も息子と「ちょっと道にはずれた(?)こと」何度かしてますが、息子にとっては、「温泉に行った」とかそんなことより、「お母さんと、昔こんなことしちゃった」というのがいい思い出みたい。

父は器用でマメな人で、べっこう飴の型とかカルメ焼の道具とか買ってきて、一緒に作ってくれた。高いお菓子を買ってもらうよりずっといい思い出。理科系だったので、作りながら「理科的な理屈」も説明してくれました。

>joさん

少し補足。
私もね、友だちから「本来のKSちゃんらしさが戻ってきて良かった、良かった」と言われるとね、「(夫との)トラブルがあった時にヘロヘロになっちゃったのも、やっぱり私なんだと思う」と言っています。

「物事が順調に進んでいて明るく前向きでいられる」というのを、人は「本来のその人」と思いたがるけど、「物事が順調に行かなくなった時にどうなるか」「どうふるまうか」というのも、「本来のその人」が露呈する場なのだと思う。

逆境にあってあたふたしてしまう自分も愛せるようになることが大事なのだと思う。

KSさんの補足、ほんとにそうですね。

私も補足です。

配偶者の名誉のために。うちの子はお母さんのことも好きなのです。言葉が出ない頃に、いろんな嫌な思いや怖い思い、危い体験をさせられてたので、幼い頃は母親と子の距離を作るのに私は必死でした。その過程で失職もあり、もちろん離婚も真剣に考えてたけど現行法では未就学児がどうなるのか明らかでしたからその選択はできなかったのです。今でも反応性愛着障害の様相で今も母子が顔合わせるとすぐに喧嘩が始まりますが、それは遅蒔きながらようやく「嫌」が言える段階に達したということです。かなり遅めの第一次反抗期かな。パンダさんの言う「今、子供はこういう状態だから、こうなっていくだろう」の境地です。そんなふうに顔見れば喧嘩してても子は、母親のことを心配するし、、、そういうのを見てると私が「好きか嫌いか」はしばらく棚上げして、この先、私の気持ちも含めてどうなるか変化を見とどけたい気持ちも少しづつですが出てきているのです。すでに蒔いた種、お世話の失敗をいっぱいして、もうだめかもしれない、でも、どんな花が咲くのか見られるのはずいぶん先だろうから、それまではとりあえず水やりだけはしておこうかという感じですかね。

DVというと暴力的な人、他罰的態度を想像するけど、壁を殴って手から血を出すのは、自傷行為です。当事者だからわかります。最初は壊れるはずのないコンクリートの部分を殴ってますから。それが狙いが外れて壊れる場所にあたって穴があくと、自分が傷つかないで済む経験をしてしまうので、エスカレートしていくんでしょうね、本来の怒りの向かってる方向にずれながら。ふみ留まることができた(ている?)ことは幸いですね。

以前、アスペルガー配偶者の女性が仲間をみつけるために、DV被害者の会に出かけていったら、違和感を感じてスゴスゴ帰ってきました。「それってアスペルガー当事者の会に近いメンバーが集まってる場所なんじゃないの?」と言って上げたら、「あ、そうか!」ってその違和感の正体に納得してたことがあります。アスペルガー女性が定型男性のDVにあうケースかなりあるでしょうね。学校でのいじめ、自閉症施設でのいじめ、認知症の虐待なども同根のケースが多いと思いますが、特にアスペルガーは自覚的にも他覚的にも認識がない上、定型の神経を逆撫でしますから、表面上はDV被害者になりやすいと思われます。DV加害者の中には、アスペルガーの配偶者問題で救済すべき定型人がそうとう含まれているような気がします。

>joさん

冷静になって考えてみれば、私も、母との「楽しい思い出」がゼロっていう訳ではないです。日曜日のブランチに母はよくホットケーキを焼いてくれたんですが、それがとても楽しみでした。

私も「遅れて来た反抗期」なのかしら。あまりに遅いぞ!って感じですけど。「母のこと嫌い」って言えるようになった(認識出来るようになった)のも最近のことなの。

自分に無理のない範囲で少しずつ考えてみます。なにしろ、まだ「ハハはアスペルガー?」ショックから抜けきれてないので。

DVについては、発達障がいとの関係は、是非とも専門家に早めに解明して欲しいですね。♂当事者がもろもろの軋轢から派生する二次障害として暴力に走るというケースも多いと思います。DVは命に関わることもあるし、「知識があれば防げること」あるいは「緩和できること」については、必要な手だてが必要だと思います。

そうか。父の暴力は「自傷」から始まったのね。父の苦しかったであろう心情とjoさんが重なって見えます。

男性が職を失うことのダメージは、とても大きいですよね。

女性の場合だったら何にあたるんだろう。「私の夢は幸せな家庭」と、結婚と同時に仕事を辞め専業主婦になったけど、子どもが出来ない・・・っていうようなのと似てる気もするけど、やはり少し違う気がします。

正確にjoさんの辛さを想像することは出来ないでいますけれど、それが男性のアイデンティティの根幹に関わる大きなことだということは想像出来ます。

子どもさんのために、それを選んだというjoさんの勇気はものすごいと思います。

初めまして。

「アスペな夫」というまんまなブログを書いております
みおと申します。
夫はウツになり、休職→無職になりました。
子供は3歳です。私は専業主婦でしたが、これから働き出します。

私は夫との関係に悩みました。
他にも実母や義母の事が重なって、
キャパオーバーになってしまいました。
自分が正しいと思ってきた事が実は正しくないかもしれないと
価値観も何もかもひっくり返ってしまいました。
今は「まずは自分が大事(それが子供にとっても大事)」を
モットーに、少しずつ建て直し中です。
まだまだ夫との衝突・・・私の一方的な八つ当たり(?)もありますが、
自分を必要以上に傷つけなくなってきたと思います。

パンダさんの優しい視点、考え方の深さにひかれました。

コメント欄にまでたくさんの話が詰まっていて、
まだまだ読むのが追いつかないのですが、
いずれ、皆さんとの会話に参加させて頂けたら嬉しいです。

みおさん

 コメントどうもありがとうございます。
 このブログは定型当事者の方からもアスペ当事者の方からも
 いろんな経験談を聞けたりアドバイスをもらえたりするので、
 すごいありがたいです (^_^)

 アスペと定型のズレ、お互いに大変ですけど、
 みなさんとの交流を通してその経験を「豊かな経験」に
 ふくらませられたらいいですよね。

 ま、「普通には」経験できないことが目白押しですから、
 ここはその分「得をした」くらいに居直って (^ ^;)ゞ
 わたしなんか、みなさんのコメントのおかげでだいぶ「儲かって」ますね。

 しんどい思いをした(してる)分、転んでもただでは起きず、
 お互いに元をとってやろうというど根性(貧乏性?)で、
 どうぞこれからもよろしくお願いします m(_ _)m

joさん

「でもね子供といることが楽しいしうれしいのです。登っちゃいけないはずの金網フェンスも、キョロキョロ、誰も見ていなかったら2人で登って越えちゃうんです。先日、子がヤバい危機に直面して、フツウの子が「お母さーん!」と泣き叫んでるはずの場面にかけつけたら「お父さん、お父さん!」と泣きじゃくっているのを見て、改めてびっくりしました。その絆は、私の宝石だと思います。それはこの子の母親なしには輝かないのかもしれないです。」

 というところを読んで、なんかもう、自分なんかが言うことはなんにもないな、と素朴に思いました。なんかもう一番大事な足場を作ってしまわれているような気がして。

 「第二反抗期」とか、またいろいろあるのはあるんでしょうし、改めて悩まれることも出てくるんだろうけれど、悩めるための足場ができているというのかなんというのか。

 「母親なしには輝かないのかもしれない」という一言で、私のその感じ方は決定的になった気がします。

 もちろん、こんなふうに書かれることの背景に、どれほどの重さのことごとが重なってきていて、今もまた重なりつつあるのかということについて、私の想像する重たさが減ったわけではないんだけど、でもそれはそれとして、なんか「生きるために一番必要な希望の力」みたいなものをなんとなく感じたのかも知れません。

 勝手な誤解かも知れないけど、でも「うーん、ほんとうにすごいなあ」というのが素朴な実感です。

恐縮です。エエカッコしすぎましたか。懐疑主義の中には、明日自分が言うことにも責任持てないし、明日はどうなってることやら…というのもちゃんと含めてるんですけどぉ。

パンダさんもおっしゃるように子は親を選べないし、その子の親はどうしようもなくこの2人だから、ましてやそれを取り上げたり、自分ひとりが逃げ出したりは、どうしてもできないよなあ…という感じです。

私だって、母親が、安心して子育てをまかせられる定型だったら、今も「24時間仕事中心」の延長線上にいた--- 私の場合それもそれなり充実してたのでその喪失感は大きいです --- かもしれないですから、今の「子供との特別な絆」はどう考えても、配偶者が与えてくれたオマケみたいなもんです。生業を失ったこと、年収が6分の1ぐらいになったこと、心の平安が失われたこと、すべてがその宝石の対価のようにも思っています。そう思ってみても、そういう生活の激変は、適応するのが困難だったし、今も困難ですし、これから子供の経済的な側面のサポートとか、自立に向かう思春期の真正面の付き合いを父親が今のヘボいライフスタイルで受け止めきれるはずもなく…

うへっ、そんときになったら逃げ出すべぇ。

joさん

「これから子供の経済的な側面のサポートとか、自立に向かう思春期の真正面の付き合いを父親が今のヘボいライフスタイルで受け止めきれるはずもなく…」

 「思春期の女の子との真正面からの付き合い」なんて、父親は絶対無理ですよ……たぶん(^ ^;)ゞ 
 まあ、考えてみれば例外はあるような気もするけど、だいたいは父親なんて「ばっちい、ばっちい」存在になっちゃって、生理的に嫌悪されたりする運命ですし、片想いに泣くのが落ちですね。

 だから、ねらい目は思春期の最初の嵐をとりあえず乗り越えるあたり。高校出た後ぐらいとか。そのあたりからまた関係が回復してきたりすることもまあありますね。私の所はそこで今のところは成功してますけど (^_^)v

「うへっ、そんときになったら逃げ出すべぇ。」

 ということで、そのタイミングで逃げ出すとまずいかも。もうちょっと時期を見計らっての方がお得です、きっと (^o^)

joさん

>先日、子がヤバい危機に直面して、フツウの子が「お母さーん!」と泣き叫んでるはずの場面にかけつけたら「お父さん、お父さん!」と泣きじゃくっているのを見て、改めてびっくりしました。

親を呼びながら泣きじゃくることが出来る安心感…これは子供さんにとって、後々まで持ち続ける土台になるのじゃないかと思います。

私は物心付いた頃には、誰を呼んでいいのか分からずにいました。精神的危機には特に。親=確約された安心 ではありませんでした。
joさんの宝石は、子供さんにとっても宝石だと思います。

なんかオカシイわが子のことで相談した医療機関で、ドクターでなくケースワーカーさんが勧めてくれたから、とにかく愛着の土台を築くことを最優先にしました。これから先は、孕んでいた父子密着の恐れも配慮しながら進むことにします。

今になって、私が必死にやってきたことは、この子を定型化することだったのかなと思いはじめています。それはとりもなおさず非定型を否定することだったのかなと。結局、自分と同じような凡人にさせようとしたのかも。

AS親の非定型的な子との付き合い方も、それはそれで自分と同じような非定型人にさせようとしているのでは?という意味では一緒のように思えてきました。そこ、ここで起きていることは、「わがままな遺伝子」のせめぎあいなのでしょうか。

繭さんのもつ独特の鋭敏な感受性は、その耐えてこられた不安な気持ちの代償に与えられているかもしれませんものねえ。私が繭さんの写真を見て感じていることは、「映像」だけでなく、そのタイトルや短いコメントの中の「言葉」との、えもいわれぬ関係性の中に光るものが見えることです。

盲人は鋭敏な聴覚が得られるように、聴覚障害者には深い静寂が得られるように、安心の不在で得られるものもあるのでしょうね。そのつらさの程は私には想像不可能かもしれないけれど、、、

たまにお写真拝見してますよ。

joさん

「なんかオカシイわが子のことで相談した医療機関で、ドクターでなくケースワーカーさんが勧めてくれたから、とにかく愛着の土台を築くことを最優先にしました。これから先は、孕んでいた父子密着の恐れも配慮しながら進むことにします。」

 あ、言葉足らずで済みません。今は愛着の土台を築くことが何よりも大切なんじゃないでしょうか。それだけではすまない問題は、その次の段階にお子さんが進む中で、自ずと見えてくるというか、お子さんが自然に教えてくれるんだと思います。そのサインだけにはちょっと注意しておくにしても、それが見えたらそのときにちょっと立ち止まって考える、ということで十分だと私は感じます。いまは余り考えすぎずにしっかりと支えてあげた方がいいと、ちょっと年上の人間としては思います。

 それにしても、繭さんの僕等への影響力は偉大ですね。平板なアスペ理解をどんどんいい方向に崩して下さって、なにか光を与えていただいているような気がします。

joさん

定型の人が圧倒的に多いこの世界で、幸せな非定型として生きることを考えたら、ある程度の「一般化=定型化」は必要だと思います。そして個人的には、それは早い方が良いだろうと感じています。

生まれながらの本能だけでは生物として不完全なままの人間には、どんな形であれ、適応という変化無しには成長できないことで、もしもそれを促す刺激がなかったら、人間どころか、どんな生き物としてもいられないでしょうから。
非定型は、多かれ少なかれ適応において定型とは異なる癖を持っています。でも、それは適応できない・必要としない訳ではないと私は思います。

私だって、人と分かり合いたい、受け入れ合いたい、その方法を知りたいし、知っていたかった、そう思います。その欲求の感覚そのものも、癖によって違う形態なのかもしれませんし、それが人を傷付けるのかもしれません。
それでもやっぱり、私は人を求めているのだなぁと思います。お互いにジレンマを抱くことになるのだとしても。

だから…と繋ぐのは変な流れですが、一緒にわくわくしながら金網フェンスを乗り越えたり、不安な時に助けを求められたり、「あなたのことが大好きだよ」って子供さんに沢山伝えてあげて下さい。
joさんが関わることで増えている、子供さんの安心感と笑顔が、何よりの答えになるのではないかと思います(^ ^)

余談ですが、私は夫から愛情のスキンシップを知ることができました。
幼い頃は母親に抱かれていたり、手をつないだりしていた筈なのですが、例に漏れずスキンシップはごく少ない関係でしたから、それは何かの必要があって行われることが多かったようです。

ハグされることの安心感を知ってから、自分からハグできるようになるまで、半年掛かりました。そうなって初めて、私は自分が親からのスキンシップが足りないと感じていたことに気付きました。他所の親子が目の前で行っていた甘い関係は、これに近いものだったのだと理解して、それを自分が手にした幸福と、本当はずっと欲しくてたまらなかったことに気付いてしまった悲しさと、呆然としました。

以前、子供を「解凍」した経験について語られていましたが、私も冷凍されていた部分が結構あるなぁと思います。解凍されてやっと、冷たかったことを感じ取れるようになると実感しています。

>盲人は鋭敏な聴覚が得られるように、聴覚障害者には深い静寂が得られるように、安心の不在で得られるものもあるのでしょうね。そのつらさの程は私には想像不可能かもしれないけれど、、、
たまにお写真拝見してますよ。

写真、見て下さって、ありがとうございます(^ ^)
安心の不在や無関心によって結果的に守られ、良くも悪くも修正されなかった部分が、私には確かにあると思います。
アスペルガー傾向として「変わらない環境」を必要とするなかで、それを自分の中に見出せたことは、今となっては「良かった」といってもいいような気にすらなっています。
そういう意味では、父母に感謝かなぁ…。本当は沢山感謝していることもありますし、今でも両親が好きです。でも、遅ればせ反抗期の今としては「かなぁ」の心持ちを重視したいと思っています。


パンダさん

>それにしても、繭さんの僕等への影響力は偉大ですね。平板なアスペ理解をどんどんいい方向に崩して下さって、なにか光を与えていただいているような気がします。

なんだかまた、こそばゆい気持ちです。
光をいただいているのは私の方です(^ ^)

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