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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月 5日 (日)

「見え方」「感じ方」のズレについて

 繭さんがコメントでご自分の「症状」ということで、こんなことを書かれています。

「服のラベルや素材、照明の色や明るさ、テレビやPCのディスプレイは真っ先に明るさダウン、商業施設ではたまに他の人の聞こえない音が大音量で聞こえるし(耳をふさいでダッシュ)、寝る前の時間の過ごし方に過敏だし(うまく行かないといつまでも眠れない)、スーパーマーケットでは目が泳ぐしフリーズするし、嗅覚が過敏なときと鈍感なときがあって困るし、見えなくなるし、聞こえなくなるし、目に入りすぎたり、聞こえすぎたり、5分と1時間の違いがわからないときもざらだし、夫が泊まりがけの出張から帰ってくると微妙に怯えて逃げるし(最短一泊)、記憶も混乱しがちで…あぁ、手のかかる体質だ…としみじみ思いました(笑)」

 どれも定型の人間からは自分にはない(あるいはまれにしかない)「症状」と感じられることなんだと思いますが、もしかりに世の中の人の大多数が繭さんと同じような感覚や記憶を持っていたとしたら、たとえば服の素材は違うものにするとか、ディスプレイの明るさは暗くするとか、スーパーの物の並べ方も別の整理のされ方になるとか、世の中全体がそれにあったように作られるはずですから、そういう世界では「症状」ではなくなる筈ですよね。

 ただ、それが「症状」として言われるのは、今までの人間の進化の歴史の中で、定型に特徴的な感覚とか記憶の仕方とか、そういうものがなんかの理由で人間の集団に「有利」なところがあって、それが多数派をしめたからなんでしょう。その証拠に他の動物は人間とはまた全然違う感覚を持っているし行動のしかたも全然違います。それぞれの動物の生きている環境の中で、その感じ方ややり方が何か「有利」なものになっていたんだと思います。

 それと、繭さんが例に挙げられた「症状」にしても、同じアスペの人の中でも程度も種類もきっとかなり様々なんだろうと思うので、その意味でも「多数派」になりにくい部分があるんでしょうね。

 「多数派の目から見たアスペの定義」ではなく、「アスペの人自身が感じているアスペの世界」について、ここのところ紹介をしてきた綾屋さんの文章や、Rosamonde姐さんの本を読んでいてとても印象的だったことが、多数派からはまず問題にされやすい「他の人とのコミュニケーション」の問題の前に、回りの状況を感じ取るいろんな感覚の段階で定型とはズレる独特の世界が作られているところが多いのかなあと言う、そのことでした。例を挙げてもう少し説明するとこういう事です。

 たとえば、視覚障がいの知り合いの話が面白かったんだけど、その人は「見る」という言葉を普通の会話やメールのやりとりなどですごく自然に、結構頻繁に使うんですよね。たとえば「昨日テレビで見たんだけど」とか、「山に登って海を見たんだけど」とか。注意していいなければ、こちらは全然違和感なく会話を続けたりします。ところが、ふと気づくと、その人は目が見えないわけですから、常識的には「見る」ことはないはずなんです。別に「心の目」で超能力のように見ているわけでもないし。

 そのことに気がついて、いろいろ聞いてみたんだけど、細かく聞いてみると、もちろん「目で見る」世界はその友だちには無い訳なので、「○○を見る」と言っても、その意味はやっぱりずれていることが分かります。おおざっぱに「○○に注意を向ける」みたいなこと(音を聞いたり、それについて他の人と話題にして説明してもらったり)は共通しているんだけど、そこで体験している内容はやっぱり違うわけだから、そういうところではやっぱりお互いのコミュニケーションがずれていきます。

 そんなふうに、「感覚」という段階でもしお互いにズレがあって、何を心地よいと感じるか、不快と感じるか、何に注意を向けやすいか、何を見過ごしやすいか、といったことに違いがあるとすれば、コミュニケーションの前提になっている「回りの世界の感じ取り方や理解の仕方」に最初からズレがあるのだから、お互いのやりとりが噛み合わなくなってしまうことが多くなるのは、ある意味で当然のことかなと思うんですね。

 もうひとつ別の例を書いてみます。

 昔学生時代に聞いた話だけど、モンシロチョウは雄も雌も白い羽に黒い紋がついていて、大きさも同じで、見た目に区別ができないんだけど、モンシロチョウは随分離れたところから雄と雌を見分けることができて、だから雄は雌をちゃんと求め、間違って雄を追いかけたりはしないんだそうです。それがなぜか不思議だったんだけど、実は紫外線をあててみると、雄と雌では違う模様だったんですって。つまりモンシロチョウは人間が見えない紫外線のレベルでものを見ていて、それをコミュニケーションに使っていることになります。だから人間との間ではそのコミュニケーションはうまく行かない(って、別に人間がモンシロチョウに求愛する訳じゃないけど (^ ^;)ゞ……、その行動の原因とか意味がよく分からないということですね)。

 同じように、回りの世界の感じ方にある程度の違いがあると、お互いに見えている世界が違うわけですから、相手の言っていることがうまく理解できなくなったりして、コミュニケーションがうまく行かなくなっても当然なわけです。ところがそうであるにもかかわらず、僕等はふつう「相手の人と同じ世界を見ている」ということを疑わないので、「同じ世界を見ているのになぜ話が通じないんだ!」となって、混乱してしまうことになります。
 
 もちろん人間の感覚の世界はモンシロチョウよりものすごく複雑にできていて、物の見方にも他人の影響が入ってくるのは普通だし(たとえばあるものを大きいと感じるか小さいと感じるか、魅力的とおもうかどうかなどにも他の人の影響が入ってきますよね。流行とか「みんなが格好いいと言っている」と自分もなんとなくそれがすてきに思えてきたり、で流行が去ると何も思わなくなったり)、モンシロチョウの話をそのまま全部人間の理解に持ってくると無理が出てくるけど、でもまあこういう話でいえば、かなりそのたとえ話で言えるところがあると思うんです。

 それで、そういうものすごく基本的なところで定型とアスペの間にズレがあったとして、アスペの人は子どもの頃から、それこそ言葉を学ぶころから、そういうズレを抱えながら周囲の定型の人とコミュニケーションをすることになるわけで、そうすると、自分の感じ方にはぴったり当てはまらないことや、全然矛盾したことを前提に周囲のコミュニケーションが進んだりする。そのよくわからないコミュニケーションの仕方をアスペの人は学ばなければならないと言うことになります。
 
 そういう中で、「あなたの見方はおかしい」とか「感じ方が変だ」とみんなから言われ続ければ、自分の素朴な素直な感覚を信頼できなくなったとしても、ある意味で当たり前ですよね。で、何を信じて相手とコミュニケーションをすればいいのか分からなくなるから、「とりあえず相手に合わせる」というようなやりかたになるか、あるいはそれでも自分の感じ方に自信を失わずに済んでいる場合には、強引に自分の感じ方や理解の仕方を相手に主張して押し通す(この場合は定型から見れば「ジャイアン」のように見えることもありそう)、と言った形でズレを調整するしかなくなる。

 ということで、ここまで書いてきて、自分がなにを考えたかったのか、何を言いたかったのかが少し整理されてきたように思うんですが、つまり「アスペと定型のコミュニケーション」を考えるときに、たとえば「言葉の使い方」とか、「あいさつの仕方」とか、そういうテクニックを学ぶ、みたいなことでは全然解決しない問題が一番根っこにあるんだと思えるわけです。「三つ組の障がい」というような定型から見た定義の仕方だけをやっているのでは、その大事な部分に迫ることがむつかしくなると思えます。

 なんて言ったらいいのか、「世界の見え方のズレ」みたいな、すごく基本的な感じ方の違い、とういところまでお互いに受け入れた上で、どうやってその違いを調整したり、あるいは妥協したり、逆に違いをうまく活かした協力関係を作ったり、もしくはあまり無理せずに距離を取ったり、といったいろいろな対応を模索していく必要がある。……いや、ちょっとパートナーとまたズレを感じてショックを受けることがあって、改めてそのことを思いました。

 もちろん、定型同士のカップルだって、それぞれ個性が違うし、感性も違うわけだから、似たような問題は常に起こるだろうし、同じように違いは違いとして認めながら調整する必要もあるでしょうが、アスペと定型のカップルの場合はやはり定型同士とは一段違う難しさ、努力が必要なんだろうと思います。

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コメント

ヒトはヒト、自分は自分…という認識がわたしの中にはずっとあって
そのために、もう人と同じ感覚は無いものだと最初から考えているところがあります。
定型の中で生きてきたため、そう思うようになったのでしょうか。

わたしは、味覚でたとえばお餅を苦いと感じたり、聴覚だと歌を聞くと歌詞が全く聞きとれなかったり、臭いに敏感だったり、電磁波に弱かったりします。
また、普段同じことを体験しても、大抵他の人と感想が違ったりして。

そういう違いを、面白いと思えるうちはいいのですがね。
長続きはしません。

わたしは、「面白い」が「苦痛」になりそうになったら、ひとりの世界に帰ります。
瞑想するのも好きです。
そうやってバランスを取るしかないんです。

Anさん

「そういう違いを、面白いと思えるうちはいいのですがね。長続きはしません。わたしは、「面白い」が「苦痛」になりそうになったら、ひとりの世界に帰ります。瞑想するのも好きです。そうやってバランスを取るしかないんです。」

 ネットがいいのは、「面白いうち」ですませて、「苦痛になりそうになったら」パソコンから離れてしまえばいい、というところがありますよね。実生活では物理的にそういうことが難しいことが多いから、調整がむつかしくなるんですよね。

 私のパートナーの場合は、仕事帰りで疲れてるときは、私が自分の部屋に引きこもって彼女を一人にするようにしています。最初は彼女の説明を聞いて、私の方は頭では「その方がいいらしい」と思っても、どうしても定型的な感覚から抵抗感があったんだけど、何度かそれに感謝されているうちに、なんだか抵抗がなくなりつつあります。面白いもんですね。

Anさんのように、コツコツと地道に努力する人、私は好きですよ(^^)

私にしても、もともと何か天性の突出したのものを持っているわけではありませんし、ただ自分が好きだと思うこと・やりたいと思うことを続けていたら、それが職業につながり、

そして、体調を崩して大きな組織である職場での仕事を辞してからも、その好きなことを個人的な形でコツコツと続けていることで、大きな喜びを得ています。派手な仕事ではないし、収入も以前に比べたら無いに等しいくらいのものですが、

このひとつの仕事を続けることが楽しい、努力することが楽しい、そして、それが誰かのためにもなる・・・大きな組織の中では保障されていたものがなくなった厳しさはありますが、同時に大きな組織の中では得られなかった喜びがそこにはあります。

「瞑想」の感覚がわかってきたのは、私の場合ごくごく最近です。自分のバランスの取り方をやっと知り始めた・・・そういう意味では全くのひよっこです。瞑想でバランスを取ることを知っているAnさん、すごいと思います。

お世辞でもなんでもありませんが(というか、近しい人ならみんな知っていますが、私はお世辞は言えません)、自分のバランスのとり方を知っているということは、それだけでも素晴らしいことだと思いますよ。

あちこちに連投ですみません。

娘がたぶんアスペルガーだとわかってきてから、夫のときとはまた別の疑問や考えがいろいろと浮かんでくるようになっています。

娘のことを、いつか掲示板で「間違いなく定型」と書いたのは、そんなに前のことではない(1年半ぐらい前?)ですし、今でも「アスペルガーの特性はとても多いけれども、ひょっとしたらもとは定型?」と思ったり、よくわからないところがあります。

というのも、娘の場合は、赤ちゃんのときから少なくとも私とはずっと自然なアイコンタクトがあるからです。

好奇心旺盛な私としては、赤ちゃんである娘や息子でちょっと実験したりもしていたのですが(子供たち、ごめん!)、娘も息子も、私が無表情だと無表情、私が笑いかけると笑い返してくる、そんなやり取りがごく普通にあったのです。

いろんな思いが交錯して、昨日は娘の生まれた直後からの膨大な数の写真を、たぶん10年ぶりぐらいに見ながら、いろんなことを思い出していたのですが、

どの写真を見ても、とても表情豊かで目力があるし、実際、本当に表情豊かな子どもでした。(小学校高学年のころから、若干表情に曇りが見え始めているように思うのは、あの頃病気ざんまいだったり喧嘩ざんまいだったりした私&私たち親の影響だろうか、と胸が痛みますが・・・)。

そして、ひとつ、どうしても忘れられないエピソードがあって、このことが、娘のことを考える上での謎を深めてもいるのです。

そのエピソードとは、次のようなものです。

娘がまだ4か月だった頃のことですが、私が2泊3日家を空けたことがありました。
母乳とミルクの混合でもあったし、夫がちょうど休暇を取れる時期でもあり、かなり思い切りのいることでしたが、ちょっと出てみたんですね。

そうして、娘のことが気になりながらの、まる2日の外出を終え、家に帰ってみると・・・

「○○ちゃん、ただいま!」と笑顔で声をかけても、娘の反応が全くない・・・!もう、ものすごくビックリして、かなり動揺して、その後、とにかく、抱っこして話しかけて話しかけて・・・そんなことを何時間したのか、今ははっきり思い出せませんが、とにかく必死でした。

娘を抱っこして話しかける一方で、私がいない間にいったい何が起こったのかと、夫にいろいろ尋ねてみたのですが、「変わったことはなかった」「世話もしていた」とのこと。

でも、もしや、と思って、「ミルク飲ませる時やおむつを替える時には、話しかけた?」と尋ねると「話しかけていない」との返事。それから、いくつか質問をしてみたのですが、要するにまる2日間、夫は娘に全く話かけるということをしていなかったそうです。

「普通に寝かせていれば問題なかったし、自分は自分のことをしていた」とも言っていました。

今でこそ、そのような夫の対応の仕方の理由もわかりますが、その時の驚きと怒り、そして、何よりも、たった2日間で、全くの無表情になってしまった娘のことが心配で心配でたまりませんでした。

でも、今私がここでお話したいのは、夫に対するあの時の気持ちよりも、たった2日間大人からの話しかけがないだけで、あんなに表情豊かだった赤ちゃんが全くの無表情になってしまったことの驚きと、それに端を発する謎なのです。

娘の赤ちゃん時代から今までのことを思い出したり、本人の話を聞いたりすると、娘はアスペルガーだと思うのですが、アイコンタクトとか表情の豊かさとかいうのは、どう考えても一般的に言われる特徴とは全く一致しません。

でも、もともとアスペルガーとして生まれてきたけれども、生まれた直後から後天的に私を通してそういうものを学習してきたのだと思えば納得もできそうです。

また、逆に、定型として生まれてきたけれども、夫と過ごす時間も長かったので、後天的にアスペルガーの特性を身につけてきたのかな、と思うこともあり・・・。

でも、体の感覚とか他のいろんなことを考えると、生まれた直後から定型のパターンの学習をし始めていて、それが途切れた時に娘本来のアスペルガー的なものが夫との間で強く出たのかな、と思ったり・・・。

すみません、結論出ないまま、あれこれ考えています。ちなみに夫は、「あの子は先天的にはアスペルガーで、生まれた直後から定型的なものを学習してきたんだと思う。自分はもっと遅い時期からだったけど、意識して学習していたから」というようなことを言っています。

それにしても、2日間・・・たった、2日間で、それまでの4か月の間の表情が消えてしまったというのは、とても衝撃的なことでした。

順番が後先になりましたが、

帰宅したその日、何時間か娘とか関わっているうちに、娘に表情が戻り、笑顔や私の声掛けに対する反応が戻ってきたときには、「あー、いつもの○○ちゃんが戻ってきたねー・・・!」と、何度も何度も娘を抱きしめて頬ずりしたことを、思い出します。

パンダさんが書かれている「障がいの三つ組み」のことにも、今、あらためてすごく疑問を持ち初めていますし、

アスペルガー本人や周辺の人たちという当事者で、こういうお決まりの「障害の三つ組み」について、少しずつでも声を上げていく必要があると考え始めています。

ちょっと急いでいて、まとまりのないままいろいろ書きました<(_ _)>

しつこくてすみません。明日から数日、それこそ家を空けるので、準備の合間を縫って書かせていただいています。

さきほどの書き込み、正しくは「三つ組みの障害」でしたね・・・(^^.)

数か月前まで、よそで発達障害のある方と接していろいろお話を伺う機会もあったのですが、その中のアスペルガーと思われる方の言葉を、今また思い出します。

その方は、「自分は人と接するのが苦手です」言われる。そこで、「どうして苦手だと感じるのですか」とお尋ねしてみたら、

「自分の思っていることを言うと怒られますし、怒られることを避けようとして黙っていると、なんで黙っているのかと怒られます。何を言っても言わなくても、どちらにしても人を怒らせることになるので、自分は人と接することが苦手だと思うようになりました」と、

人と接することが苦手だとは思えないほど、いろんなことを話してくださるのです。

アスペルガーの人について、一般的には「人付き合いやコミュニケーションが苦手」という、お決まりの特性が挙げられていますが、もし、反対にアスペルガーの人のために「定型を理解するために」などという本ができたりしたら、

「定型の人は、アスペルガーの人にコミュニケーションに対する苦手意識を植え付けることが多い」などという定型についての説明がなされることもあるのかもしれません。

こうして、"あえて"文字にしてみて、「なんだか感じの悪い説明だなぁ」と思うのですが、アスペルガーの人って、日常的にこういう感じの悪い見方をされてることが多いのだと思うと、なんだかやるせなくなります。

何事においても人から「あなたは~である」と決めつけられるのはいやなものですが、今自分で、アスペルガーの人から見ての「定型とは~である」を想定して書いてみて文字にしたとき、こういうことを頻繁に書かれたり言われたりするアスぺルガーの人の痛みが、自分のものとしてわかるような気がしました。
自分の中の、これまでとはまた違う形での親心を感じながら、夫と夫の両親との関係・私と私と両親の関係などにも、あらためて思いを馳せています。

カレンさんの出張のお話、興味深く読ませてもらいました。あぁ、そうだったのか!と。

私の場合は、2日くらいの出張の時はさほどでもなかったけどく、1ヶ月くらいの出張の後は、子どもの表情が「冷凍」状態になってる感じがしてました。1ヶ月の出張でも気持ち良く出してくれるし、食事の仕度や洗濯もこなせるし、はたからは「KSちゃん、理解ある旦那さんで幸せね」という状況だったのだけど。

帰宅して、毎日少しずつ子どもが「解凍されてく」感じで、表情が戻ってきたのを思い出します。

単に「母親と離れる」ということでそうなってたのだと思ってたけど、違ったのかも・・・。


カレンさんのコメントに関して。

だから私は、後天的=反応性の方を問題視しているのです。

私の配偶者と子の関わり方は、私の視点からは「変わっていた」けれど、核家族で身近に標準的モノサシがない環境で初めて子育てしてると次のようなことになります。「標準vs.変わってる」に見えるものが、いろんなものである可能性がある。つまり、男女の感じ方の差、出身地の地方文化の差、教育水準の差、社会階層やそれまでの職業文化の差、etc. etc.

それらの可能性を視野に入れる力があればあるほど、解決を模索すべき選択の幅が広がり、いろいろな可能性を念頭に丹念に調整を試みれば試みるほど、結果、ますます深みにはまることになります。「私はマトモ、あんたオカシイ、離婚!」と短絡的に行動できる場合は深みにはまることはないでしょう。

いよいよ意を決して問題を外に出そうとしたときに、おきるのが次のようなこと。何がフツウ問題=「本やドラマのようにはいかないのがフツウよ」、世間の母性神話=「そんなことあるはずがないでしょう、母子の絆は慈愛。あなたの神経質よ」、氷山問題=ケースを話題にしても「そんなことの一つや二つ、どこの家でもあることよ」(10や20じゃないから問題にしてるんだ!)。諸々の壁に阻まれて♂カサンドラは、鬱から発狂寸前。ここまできて介入があっても「ほら、やっぱり父が…」

家族環境では親子とか配偶者とか、個体間の関わり方の(多数派視点からみた)『おかしさ』(=偏り)が、『そのような(多数派視点)おかしさ』を再生産する構造になっているのです。自分視点からオカシイと感じることも、個体がどんな環境にも適応して発達するという現実の帰結だとしたら、オカシイと感じることはどういう意味なのだろうか、と考え直さないわけにいかないでしょう。

一昔前は、大家族や数人の兄弟間系の中で多数派の勢力が自動的に調整機能として働いて、そのようなおかしさが個性として溶けこんでいってたのです。生き残るのは(例えばASのような)少数派が多数派になっている家族だけです。昨今の核家族で大人の発達障害が絡むと、1対1プラス乳幼児の環境ですから、上述の調整機能がなしで、摩擦、衝突が常態になること必定です。その環境で乳幼児が成長する。(2コンマ5人家族)この結果は、発達障害が絡んでる場合だけでなく、男女の感じ方の差や文化的差異、先にあげた諸々の差異からおきた家庭内の摩擦や衝突が原因でも、子どもにとっては同じ結果になりますから、結果である子どもの発達状態像から原因を模索したり議論することも無意味です。

今、世間を騒がしている発達障害うんぬんは、後天的=反応性であるケースが多いと思います。支援を求めている人々の中でも、器質的=先天的な自閉症群はおそらく少数派で、多くは環境の(偏見的表現ですが)犠牲者群だと思います。そこには、環境の調整で状況を改善できるという希望の光があり、これが世間の趨勢ですが、発達障害支援に関しては、定型発達の敗戦処理でしかないという悲しい定めもあります。

いま「発達障害ブーム」で専門家が現実的な見解を真摯に述べることがタブーになってないだろうか?愛知の杉山登志郎先生「子ども虐待という第四の発達障害」などをよく読んでみてください。「あなたが悪いんじゃないよ」というメッセージは、心地よいけれども、はたしてどのように効いてくるのか、結果は十数年後に逆戻りできない形でしか現れない。このテーマに関する追跡縦断研究なんか今まで日本にはなかったですから。(ルーマニアを対象にしたイギリスでの研究があり、上の本で解説があります。)

人間の脳の可塑性、可能性が驚くべき力を持つことも真実ですが、その可能性が発現するパーセントを考えると暗澹たる気持ちになることもまた当事者にとっての事実です。

〉joさん

しつこいみみをお許しください。
私は真剣なので、こういう場ではしつこく主張していくつもりです。
(自分の意見が正しいとか、通したいという事ではなく、自分の思った意見を書く、という事です。また、お話して、他者の意見ももっともっとたくさん聞きたいです)
私は、アスペルガーなどの掲示板に対して、ただの夫婦間の侮辱、毒吐き場のような現象、印象を受ける時が多いです。
そのような方は、夫婦離婚問題の場所の方が合ってるような気がします…

パンダさんのブログは、定型とアスペルガーのコミュニケーションを考える…
私は必要ですし、好きです。
辛くて、嘆いてもいい、そういう時もある、でも、なにか進歩するべきですよね。
今後も、単なる毒吐き場にはなってほしくないです。(なってないから好きなんですが…)

何でもかんでもアスペルガー、気にいらないとアスペルガー…所詮アスペルガー、見下し、あなたがおかしい、弱者は不要、馬鹿者扱い、慰謝料いくら、とか、それこそ私は色々読んでて吐き気がしてきます。
ASとわかっていて、バカ、慰謝料ふんだくれ…まで行くと、定型と主張する人の人間性を疑ってしまいます。(そうなってしまう気持ち…まではわかりますが)

成り立たない場合もあると思いますが、相手がアスペルガーとわかっていて、自分はそんなに定型を主張するなら、まっとうで、おりこうさんな訳ですから、子供の立場も考えて、だまって身を引くんじゃないでしょうか…と、私の目からは自分が正しいという粘着と、欲にまみれた傲慢にしか見えない時があります。

離婚した私の父は、ADHDタイプで、借金やDVもありました。ダメだったと思います。父はバカ、ダメ、悪い人、と言われ続けましたが、私の中では、子供思いの優しい面白い父でした。
どういう過程や背景で、借金をしたか…DVになったか…その背景には、一言で父が変だからそうなった…では済ませられない、夫婦間の様々な理由が私は見えます。モラハラ対DV、ADHD対AS的?、とか、鶏が先か卵が先か的な、紙一重的な問題です。
離婚は、父が一方的に悪かった…という事になっていて、私もそういう事にしていますが(父とはコンタクトをとれないので)、心の中は、お互いが歩み寄って、仲良くしてほしかった…と、複雑のままです。

もっと、AS問題って、違うものだと思います。何がAS(自閉圏)なのか、見定めていかないと、あれもこれもASという状況下では、夫婦の押し付け大会で終わってしまうような気がします。パンダさんのブログのような報告や話し合いが大切だと思います。
カレンさんは、あれ?そう言えば…と思って、こんな事がありました、と報告してくれたんだと思います。
今後も話し合いをもてれば、何らか明確な意義あるものになっていくと思います。

joさんの思うアスペルガー、または自閉圏でも構いませんが、どういうものか、joさんなりの定義や、改めてはずせない所、これは違うんじゃない?とか、ぜひ聞いてみたいです。良ければ時間のある時に、聞かせて頂きたいです。

joさん

何だか、下の文を読み直してみて…、joさんに向かって言っているように感じていたら?!ごめんなさい。

joさんへのコメントは、一番下の部分だけです。
joさんの考え(コメント)に賛同して、私も更にAS問題をAS問題として真剣?!に考えたいです…というのが言いたくて、書いたものでした。

上の部分は、joさんには全く関係ない話で、最近、私が気になって、溜まっていたものが、出てしまったものでした。
ですから、気になさらないで下さい。

色々なアスペルガーに関する掲示板などを見ると、何だか、悲しくなってくるのです。
個人の自由かも知れませんが、もちろん、相手のある事ですから、やり場のない気持ちもわかる部分もありますが、ちょっと言葉的に、私は…色々感じて、悲しくなってしまいました。
私は位置不明なので、否定型立場としての言い訳になるのかも知れませんが…

もし、誤解を与えていたら、すみません…という事です。

みみさんへ、

>私は、アスペルガーなどの掲示板に対して、ただの夫婦間の侮辱、毒吐き場のような現象、印象を受ける時が多いです。

同意です。ただ、私がある掲示板にたどり着いた経緯は、いっぱいいっぱいになっていて、後から考えたら死線を彷徨ってたかもしれない頃で、毒を吐く場所をみつけたことで助かったのかもしれないとも思います。助けていただいた人たちが今もこれを読んでる気がしますけど。

気持ち悪いものは見なければいいと思いますよ。たかがネットですから。例えば、200スレッド程で消えていくような掲示板は、当時は「参考になる意見もいっぱいあるのに、もったいないな」と思ってましたが、毒を吐くのに適しているのでしょう。消されたくなければパンダさんのところにコメントしましょう、なんちゃって。

>joさんの思うアスペルガー、または自閉圏でも構いませんが、どういうものか、joさんなりの定義や、…

アスペや自閉圏の定義ですか。わかりませんほんとうに。そのもやーっとしたところが「圏」の字に定義されてるような気が…。いわゆる先天性奇形のような生まれつき脳に何らかの欠損があるような自閉症があるのでしょうかね。「カナータイプ」や「折れ線型発達」みたいな、環境にまったく反応しない(ように見える)人がいることはいますものね。

でも脳自体は、ただの神経ネットワークに過ぎない、日々形を変えて機能を変えて「適応」していくのが特徴の臓器なので、その可塑性、環境適応性を考えると、そんな先天性異常が医学の謎として残ってるのは不思議です。アスペに至ってはいわゆる知能が発達してるので、発達できないということじゃないでしょう。何かに適応的に発達した結果がそうなんだ、という気がしてしかたないのです。私たちは知能を発達させるときに、既に持っている知能を土台にして経験を処理していくので、極めて幼いときの経験というのは、その後にものすごい影響を残す可能性はあるでしょう。未熟児は自閉やLD、アスぺのリスクグループです。実はうちの子も保育器に入ってました。そんな「経験」といえないような未分化の経験でも、何某かの非定型の経験ではないかと思います。多数の定型の人がお母さんに守られていた人生最初の何日間かですから、禍根を残したとしても不思議はないし残らなかったら僥倖かもしれないです。その後も、親に注意欠陥多動やアスペ傾向がある場合に、どんな扱われ方をするかは、ここの多くの人はご存知だと思います。

何かに適応発達した結果、いま適応的に行動しにくいなら、その何かまで遡って解きほぐすという可能性はあるけれども、それが保育器経験だったりしたら絶望的に器質欠損に限りなく近いものになるんじゃないかな。そういう意味でもやーとしたスペクトラムがあるのが自閉圏ではないでしょうか。(それに、自分の子ども時代を思い出してみてください。主観的経験というものがどういうものだったのか。例えば母さんが電灯を消したことが恐怖体験だったり、父母の性行為がDVに見えてたりすることはよくあるらしい。注意して育てていても、子どもの経験世界を統制することはできない。)

定義になっていないですが、私が見たサンプルは自分の配偶者や子ども、療育所や保育園で見た定型と非定型の親子たちです。

あ、面白いのは、療育所に通っている子の親、アスペや注意欠陥っぽい人がすごく多かったこと。それだって育てにくい子のストレスと鶏と卵の関係なので、そこから因果関係を言うのは間違ってると思います。長期のストレスや強度のストレスは鬱をおこすし、鬱の親は子に長期ストレスを与えるし。それに自分が鬱になったときに違和感が強かった身体症状が注意欠陥や視野狭窄だったんです。なんでこんなこともできなくなってしまったのか、とますます鬱になったりしました。この悪循環が家族の中で行き来してしまうのが問題家族の特徴だと思います。だから「反応性」というキーワードに反応してしまうんでしょうね。

joさん、遅くなりましたが、色々聞かせて下さって、ありがとうございます。深いお話でした。

三つ組み自体、スペクトラムなので、(○に欠けるや、○の不足など)、本当に、圏に定義されている形で、判断は本当に難しいですね。

ASなどは、発達障害と言われているが、適応発達のような気も…
この考えは、私も自閉圏について、考えた事があります。joさんも、以前、何度か触れていましたよね。
サヴァンと呼ばれる人などは、まさにそうではないでしょうか…。

サヴァンについて、よく特殊な能力…等と言われたりしますが、
サヴァンを特殊と思わない所が私の特徴です。
円周率や、カレンダーの日付、私は(サヴァンでは全くないですが)ピアノをやりますので、絶対音感や、ソルフェージュなど…全て、繰り返す事により、脳内に規律正しく順番通りに記憶され、プログラミングされているだけのものです。(感覚的にも身体の一部になっているような)
大事なポイントは、「ある一点(ドの音や現在や過去)から辿る」という事と、…「規則順番通り、裏切られる事はない」…という所だと思います。
始まりや終わりを意識した、規律正しい決まりきった点と点の繋がりの事に過ぎません。「裏切られる事のない事実・現実・安心」ですよね…。
これは、自閉症に接する、理解する上で、私は本当に重要なポイントに感じます。
ですから、自閉症にサヴァンが多いのは、そのようなものに、打ち込むのは、安心出来る事実…があるからでしょうかね。
私も、様々な苦痛で嫌いだったもの(お稽古)から、ピアノを好んで選んでいった理由は、単純なもので、ドを押すとドの音が出る、レはレの音、ドの次はレと、決して裏切られる事なく決まっている…という所でした。自分が間違わないで、ドミソと上手に引いたら、ドミソとピアノも返してくれます。気持ち良いものでした。

趣味や、誉められた…叱られた…とか、いつ、何に、どんな形で起因するかだけの問題で、私は絶対音感はあっても、円周率は3と、ひとよひとよにひとみごろ?しかわかりませんし、カレンダーなんて過去をさかのぼって考えた事などありません…
でも、延々、延々と考えれば、プログラミングして記憶され、出来るのかも!…と思います。
でも、そこまで時間や興味がないだけで…ピンときた事や得意の延長をサヴァンと思っています。

私は、ASやADHDに対して、自閉的な部分が元にあり、ASタイプやADHD(ADD)タイプに適応発達していった…という考えももっていますが、
その興味(進路)の対象が、いつ、何に向くかは、環境によって違い、タイプも様々変わってきますよね…。
AC等が絡めば、無意識的にも、模索として、人間観察にも力が入り、自分に合わせて様々な性格(プログラミング)が出来上がるでしょうし…
でも、定型でも、最初は無知な訳ですから、成り立ちは同じですよね。

でも、幼い自閉症児は確かに存在し、その特徴は、興味の限定、過集中、こだわりです。

その、規則通りの順列(興味やこだわり)が、誰もが求める安心の為なのか、関係なく、元々脳内のプログラムの仕組みなのか、が、まだ謎ですが。
誰でも、人は、パターン化した安定したもので安心をつかみますよね。
でも、定型は、成長に合わせて変化や順列の心地よさをどんどん覚えていく
自閉症は、元々、またはごく早い時期からそのようなものを見いだしている…ような感じもします。

そして、カナータイプ…。謎が多いですが…

ですから、私が思うには、自閉症とADHDやADDは「何事においても繋がる順列にこだわる」という点で似ているんです。

しかし、ASは繋がらない点と点…
私は繭さんの言った言葉に、興味深々深々です。(見ていて主人もそうなんです。)
書きながら色々思いあたる事が浮かんできて、話が止まらなくなりそうなので…
それらは、自分のブログである程度まとめてから、パンダさんの方に書こうと思います。
反応性…私は反射性…と感じた事がよくあります。有名なティン・バーゲンのイトヨの実験など、(信号刺激と本能、それらの連鎖)など、かなり家族関係や人間社会と重なった事があります。
パンダさんのモンシロチョウなんかも、「見え方が違う」場合もあるんだな…と思ってとても興味深く読んでいました。
生き物は、複雑すぎて…

自閉症など、私は遺伝(先天的)または、ごく早い時期などを感じています。やはり、よく言われているように、脳神経に関わっているのかなとも感じますが…
これから、繭さんに点と点について聞いてみて、また色々考えたいと思います。
joさんのお話もまたぜひ聞かせてください。
それと、相手のある事ですので、大変だったり、辛かったり、やりきれなかったり…カサンドラになるお気持ち、よくよくわかります。読んでいて、joさんの奥様と、私の母は似ているなといつも思っていました。
joさんの訴えは、私に重なるものがたくさんありました。
通じないので、joさんが色んな面で我慢や努力している分、心が沈むんでしょうね。私はため息一つも許されない子でした。ため息は一種の否定であり、それをする事によって、更に延々と正当化の制圧が飛んでくるからです。相手は私にため息ばかりでしたがね…(苦)
制圧と客観視の問題ですよね…相手が客観視が出来なくて困っている所で、自分を客観視しなさい!と制圧されるような矛盾ですよね(苦笑)joさんは、客観視して、相手を理解しようとしているのに…ですよね…
そんな時は…パンダさんとこに報告するしかないですね!

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