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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月 5日 (日)

定型の共感性のなさ?

 パートナーと散歩しながら「共感」について話してたんですが、ふと気づいたことがあって、なんか面白いなあと思ったんです。何かというと、定型は共感性が高く、アスペは共感性が低い、というイメージがあると思うんですけれど、たしかにアスペの人は定型の感情が理解しにくいところがいろいろあります。当然共感もしにくい。でもひっくり返して考えてみると、私もアスペの人の感情についてはなかなか「分かった」という感じにならず、つまり「共感しにくい」んですね。

 だとすると、その点だけで考えれば、私のようにアスペの人は理解しにくいと感じている定型の人間も、アスペの人から見れば共感性の低い人(全然自分のことを理解してくれない人)ということになるわけだなあと思ったわけです。

 で、パートナーに聞いてみたんですが、アスペの人の話を読んだりして、そこに書かれている悩みとか、苦労していることとかを見れば、「ああ、この人がそう感じるのは分かる」とか「この人も同じように苦労したり辛い思いをしているんだろうなあ」と思えたりとうことはやっぱりあると言います。それもまた「共感」ですよね。

 そうすると、アスペの人は共感性が低く、定型は共感性が高い、ということの意味は、実際には定型的なものの感じ方についての共感性が低い、という意味なんだという部分がかなり多そうだと言うことになります。私自身がそうであったし、今も多分にそうであるように、当然定型の側は自分たちのものの感じ方を当然のことと思いこんでいますから、共感とはそのような定型的感じ方を共有できる力のことであり、それ以外の共感能力というのはイメージすることがむつかしいことになります。

 で、多くの場合少数派のアスペの人もまた、共感というのは定型的な感じ方を理解することだという多数派の枠組みの中で孤立して成長していきますし、自分たちのものの感じ方や感情の表し方については「それはおかしい」というふうに否定され続けて育つ人が多いので、「自分は共感性が低い」というふうに思うようになっていく。

 これも散歩しながら聞いたことですが、実際パートナーの場合も子どもの頃からそういうことの連続だったし、また私との関係でも「どうしてそういうふうに理解するの?そうじゃないんだってば」とか、言われ続けてきて、つまりは「自分の感じ方」を否定され続ける結果、最後には自分自身でも否定するしかないような状態に置かれるわけです。その結果どうなるかというと、自分の感じ方には一切自信が無くなってしまう。あるいは「自分の感じ方は間違っている」と思うようになってしまう。

 その結果、自分自身が実際は素朴に感じたことを「そんなことは感じていない」という風に自分自身が無視するようになったり、さらにはそうやって自分が自分の感情を否定している、ということすら意識できなくなったりしてしまうようになる。そうじゃないと生きていけないような世界だったわけです。

 私のパートナーの場合は、「自分が自分の感情を否定している」ということを意識できるようになったのはほんとにこの1年くらいのことだそうです。アスペルガーという理解が共有されるようになって、お互いを手探りで理解し直し始めてからようやく、そうなったということですね。

 そんなふうに考えてくると、アスペルガーの人が単に「ちょっと変わった人」で済まなくて、「思いやりのない人」とか、「すぐに自分を被害者のように見なす」とか、「閉じこもって攻撃的な感じで接してくる」とか、コミュニケーションに対して「苦手」を通り越して「破壊的」に見えるような振る舞いをすることがあるのは、生まれながらにそうだと言うよりも、自分を理解されず、否定され続ける環境の中で、自分を守るために身につけた振る舞いである可能性が結構あるような気がします。少なくとも私のパートナーについては、そういう風にみることで私にも「分かる」感じがする部分が多いです。

 そう考えれば、たとえばカレンさんの娘さんのように、親からも十分に受容されて育った人の場合は、周囲からもとても受け入れられやすい人柄を身につけていくということも無理なく理解することができます。また同じアスペの人でもかなり自信を持って生きていく人とそうでないひとの差が大きそうだと言うことも、ある意味で当然のことと思えるようになります。アスペの狸穴猫さんが常に訴え続けられている「二次障害をなくせ」ということも、つまりはそういうことにつながる問題なのかなと思いました。

 そうすると、なんか逆説的ですが、定型の大人の広い意味での共感性(つまり、定型的な感じ方しか認めないような限定された共感性ではないもの)や柔軟性の有無が、アスペルガーである子どもの他人との関係の作り方や自己評価に、相当大きな影響を与えてしまうという可能性が感じられてきます。

 もちろん、たとえば子どもが熱でしんどいときに、そばに寄り添っていてあげるような、そういう意味での定型的な「共感性」についてはアスペルガーの人は少なくて、その結果定型の側が苦しい思いをする、ということはあるわけで、そういう共感性のズレが結果として深刻な問題を生んでしまったりすることがあるわけですから、単にどっちもどっちという言い方ですませることはできないわけですが、でもその深刻な問題を何とかするためにも、「ある意味ではどっちっもどっちという面がある」ということを改めて考えていく必要があると思いました。

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コメント

うちの場合は、今振り返って思い出すと、夫の感覚に娘が共感を示すことがけっこうありました。

私が夫に「なんでこんなふうにするの?これは普通こうでしょ!」みたいに怒っていたときに、娘が可愛らしい子どもの声で「お母さんは、お父さんのやり方じゃいけないの?私は別にお父さんのやり方でいいと思うよ」などと言っていたり、

いわゆる熱血教師ドラマに私と息子が熱心にはまって見ているときに、夫と娘は「なんかわざとらしいから、このドラマ好きじゃないなぁ」などと興ざめなことを言っていたり、

・・・ほんと、今思えばなのですが、そのような数々のことは、娘の感覚からは、夫に自然に共感できていたということだったのでしょう。

逆に、今、夫に娘のエピソードをいろいろ話すと、「これはきっとこれこれこう考えて言っていることだよ」とか「その感覚はよくわかる」などということもよくあります。

息子の感覚は私と似ていて、(最近は私とは男女差による違いが謙虚になり&男として夫ににてきたところはあるにしても)、とっても定型的だなぁ、と思うことがよくあります。

その定型の息子の感覚が夫にはわからないことが多く、私がフォローのつもりで定型的なやり方で息子をかまったことで、「なんで今そういう関わり方が必要なわけ(怒)?」と夫が怒り出し激しい喧嘩になったこともありました。

最近は、夫が「息子は意識してかわいがることが必要なタイプ」と認識も新たにとてもよい関わりを持つようになっていますし、息子に対する私の定型的な関わり方に対して全く否定しなくなりました。それどころか「こんな関わり方もあるんだね。こういうタイプの子には、こういう関わり方をするべきだ学んだ」とよく言っています。

アスペルガーどうしの共感・定型どうしの共感・親同士の共感・子ども同士の共感・女同士の共感・男同士の共感・・・

その時々で、誰かがその共感の外に、出されてしまうこともあるけれど、「え、それって3人とも?違うの自分だけ?」みたいな笑い話ですんでいます。

本当に、娘がすでに成人まで今になって親も本人も気づくなんて・・・と思いますが、

夫と娘の共感・理解は成り立つし、私にしてみれば、夫の言葉からより娘のことがわかる・娘の言葉からより夫のことがわかる・・・そういう意味で嬉しいです。

>コミュニケーションに対して「苦手」を通り越して「破壊的」に見えるような振る舞いを
することがあるのは、生まれながらにそうだと言うよりも、自分を理解されず、否定され
続ける環境の中で、自分を守るために身につけた振る舞いである可能性が結構ある
ような気がします。

これは、aspと何とか、共存しようと努力されるパンダさんの「ひいきめ」だと思います。

最近、配偶者の井戸端掲示板で、強烈に印象に残った一文があるのですが、
「aspとは、道で、石につまづいて、転んだ時、そこにある石が悪い、としか考えられない
脳の障害である。」

だそうです。なるほど、と思いました。配偶者もそうだから。
定型ならば、石に気づかず、転んだら、自分の不注意を反省しますよね。
でも、aspは、そこにある石が悪い、としか考えられないそうです。
そこに、共感しろ、理解しろ、といわれても、共感も理解もできないと思います。
お前が悪い、と普通に定型に否定されて、当然だと思います。

定型とaspとは、そういう関係なのです。
ただ、aspであっても、転んだときに、「石が悪い」というと非難されることを学び、
その時の対処法の学び方は、それこそ、100人aspの人がいたら、100通りの対処法が、
あるということです。

私は、石につまづいて転んで、石にぶつぶつ文句言ってる配偶者に、
「転んで、痛かったね。大丈夫?石があなたの邪魔したんだね。でも、次は、気をつけようね」
と言えるまでに、学習しました。
それが、本人のためかどうかは、わかりませんが、少なくとも、それが、家庭のトラブルを
なくす最善の策なので・・・

Alonaさん(?)

 お久しぶりです。

「これは、aspと何とか、共存しようと努力されるパンダさんの「ひいきめ」だと思います。最近、配偶者の井戸端掲示板で、強烈に印象に残った一文があるのですが、「aspとは、道で、石につまづいて、転んだ時、そこにある石が悪い、としか考えられない脳の障害である。」だそうです。なるほど、と思いました。配偶者もそうだから。」

 書いてる本人(私)は素朴な実感を大事にしながら考えているので、そういう自覚はありませんが、まあ他の方から見ればひいきめというところもあるかもしれないですね。

 「石につまづいて……」の話は私も何度か読んだりした覚えがあります。こちらにもそういうことを書かれた方がいらしたような……(すみません、記憶力が (^ ^;)ゞ )。

 そういう方もあるんでしょうね。定型でもそういうタイプの人がありますけれど、アスペの人の場合調整せずにストレートに出してしまったりすると強烈になるのかもしれません。

 ただこれもたとえば私のパートナーなんかは正反対で、何かというと「私がすべて悪い」と考えてしまうタイプです。ここのコメントなどをご覧になると、そういうアスペルガーの方の体験談も結構紹介されてますし、多分そんなに珍しいことではないように思います。というか、生育歴などを通してそうなりやすい条件があるだろう、ということは上にも書いてみましたが、どんなものでしょう。私としては特に無理矢理理屈をこじつけた意識はなくて、いろんな方の体験談とかを教えていただいて、わりあい素直にそういう理屈が成り立ちそうだなと感じています。

 「それが、本人のためかどうかは、わかりませんが、少なくとも、それが、家庭のトラブルをなくす最善の策なので・・・」

 これもこのブログやコメントで繰り返し書いてきたことですけれど、実際この問題にどういう姿勢で臨むか、ということはほんとにそれぞれのカップルが置かれた状況で千差万別だと思います。定型の方でもそういうことを重視してコメントをされる方もあるし、またAlonaさんのように、あるひとつの関係のパターンを取り上げて「定型とaspとは、そういう関係なのです。」と断定される方もあるし、そこもまた様々ですよね。私も含め、結局人間って自分の視点からは逃れられませんから、それもまた当然のことかなと思います。

私はAC的抑圧はあったものの、成育家庭内では、どのように感じるかという意味での感情を否定されたことは、あまりありませんでした。否定はされなかったけれど、肯定もされず、感情に基づいた言動は理屈が通らないので、そのこと自体がよろしくないといった感じでした。
「好きだから、嫌いだから、楽しいから、つまらないからなど」は理屈で説明しないと許されない。好きな食べ物は例外。理屈っぽい子供になる訳です(苦笑)

それが理由なのかは分かりませんが、やはり感情を表現するということはしない方向に成長しましたが、自分の感覚や気持ちに対する感受性は、持ち続けて来られたように思います。

その分、他者の感情を受け取ることも、自分の感情を表現することも出来ないまま、人と摩擦を起こす期間が長かったのかもしれませんし、それを意識することを覚えてからの、社会で特に仕事上で定型者に合わせている時のストレスは、人間関係が見かけ円滑で問題がなくても、自分が無理している自覚があり、着々と蓄積していったように思います。

仕事話のついでの余談ですが、先日の出社時の挨拶問題は、その後、謝罪をして、私が両隣と前の席の人には遅くなっても挨拶するようにしたことと、昼休みのチャイムや上司の呼びかけにも反応しないことで、呆れられ半分に平和解決に至りました。

>そうすると、アスペの人は共感性が低く、定型は共感性が高い、ということの意味は、実際には定型的なものの感じ方についての共感性が低い、という意味なんだという部分がかなり多そうだと言うことになります。

1対1の関係だと、どちらも共感し合えなくなってしまうこと、ありますね。
夫と暮らし始めた頃、家の中で私が突然具合が悪くなって、床に膝をついてかがんでしまったことがありました。
側にいた夫はのほほんと、「何してるの? 変なの」らしきことを言っていたと思うのですが、私は痛くていっぱいいっぱいで、「具合が悪いの!」と怒ったのでした。

後の夫の話では、特に苦しそうな顔もしていないし、よく不思議な動作をしているし、具合が悪いなんて分からなかったそうです。
こういったことはその後も数度あって、私が表情を作る余裕がない程具合が悪くなると、夫は気付かず。動くことも出来ないときは、なんとか声を出したりして伝えていました。
場合によっては、私が突然無表情になることで、怒っていると夫が誤解して、彼は喧嘩モード、私は困惑なんてこともありました。

私、突然無表情。
夫「なんで急に怒るわけ??(不機嫌)」
私「ぃ…た…い…」
夫「なに???」
私「いたいの!!」
夫「…痛いんだったら早く言いなよ!(まだちょっと不機嫌)」
私「言ってる!」

といった感じで、当時は笑い事ではありませんでしたが、大事にも至らず、今思い出すとショートコントです(笑)

多分、逆に私の気付かないパターンはもっと沢山あった(る)と思います(^ ^;
お互いの自己申告と、私の身体の動きや傾き、夫の溜息や無言の時間など、色々試行錯誤を重ねて、最近は、お互いに少しづつ色々な信号を受け取れるようになって来ています。

私は普段、無意識に近いところで表情を使っていますが、緊急事態には使えなくなってしまうのが、コミュニケーション上の難点です。
そういえば、表情のバリエーションも少ないです。
暑い・寒い、荷物が重い、怖い、少し痛い・苦しい辺りは、人から「○○ないの?」と訊かれるので、多分表せていないと思いますし、読み取るのも苦手です。
声色は表情よりも分かるので、そちらに頼ることも多いです。

バレちゃってました? ごめんなさい。
以前、波風を立ててしまったので、ロム専でいようと思っていたのですが、
つい、コメントしちゃいました。

私は、夫しか、aspの人を知らないので、ここで交わされる議論に、どうも、
共感しづらいところが、あるのです。違和感を感じるのです。

でも、結婚した人が、たまたま、aspだったので、私としても、aspについて、とことん、
知りたい、学びたい、という感情があるのも事実です。

なぜ、私は、こんな目に合わないといけないのか?
私の人生は、いったい、何だったのか?
私は、絶対、夫を許せることは、ないだろうけど、夫だって、世間との葛藤に
苦しんでるし、悩んでるし、そこのとこは、かわいそうだと思うけど、
でも、やっぱり、定型の私は、心の底から、夫を受け入れることはできない・・・
もし、結婚前に、aspの知識があったなら、絶対、結婚しなかった・・・

それでも、子供が、やっぱり、aspかも・・・という事実に直面しているのです・・・
夫は、受け入れられない、とばっさり、できても、やっぱり、わが子は、
ばっさり、できないのです・・・

ここは、aspの情報の宝庫なので、これからも、通い続けます。
(多分、ロム専になると思いますが・・・)
お互い、自分の信じた幸せの道を探し続けましょう。
パンダさんのブログに出会えたことに、感謝しています。

う〜ん、たしかにアスペの人には共感できるかもしれません。
ちょっと変わった人と仲良くなるのは得意です、わたしは…。

でもわたしの場合、親友とかになるのはアスペも定型も関係ないんですね、なぜか。
やっぱり相性だと思うんですが。

自分自身、発達障害に理解ある親に育てられたら、もっとまっすぐ成長できたろうになぁと思います。
親には否定されまくって生きてきましたから…こちらも心を閉ざすわけです。
結果、境界例などの人格障害になってしまうような愛情不足におちいっていました。
(でも、母はわたしを愛していましたし、わたしも母を愛していました。ただ、コミュニケーションがうまくいかないため、愛情も疎通しなかったようです)

大人になって、私の場合、定型の彼に愛情をもらって癒されたわけですが…定型でもアスペのような人に理解ある人は居ました。

わたしは定型のことを理性では理解できるようになりましたが、感情ではなかなか無理です。たぶん、それは脳みその違いのせいかな。
それでも、なんとかコミュニケーションをとって、意思を通わせようとするのは、人間関係の醍醐味だと思います。

繭さん

「「好きだから、嫌いだから、楽しいから、つまらないからなど」は理屈で説明しないと許されない。好きな食べ物は例外。理屈っぽい子供になる訳です(苦笑)」

 そうやってその家庭の中で通用するコミュニケーションスタイルとして、一種の家庭文化が作られていったわけですね?

 うーん、なんか私の家もある意味すごく理屈っぽかったですね。特に父親が頑固に理屈っぽかった。で、母親は激しく感情的かつ自分が納得しないとどこまでも追求してくる感じがあって、そうするとこういう理屈っぽいようで理屈が通らないようで、頑固な訳の分からない私のような子どもになるわけか (^ ^;)ゞ

 とにかくある種の強烈な理屈っぽさ(頑固さ?)の中で育ったので、「相手の感情を慮んばかっておだやかに行動しようとする」日本的な人間関係の中ではうきまくってましたね。一方で私の場合は共感性は高い方だと見られることが多い気がするし、アスペ的に感情理解の仕方が定型と違う、ということはないわけですが、他方ではアスペ的に理屈の世界で生きようとするようなところが作られたんでしょう。その辺がカナータイプの自閉の子どもたちや、アスペルガーの皆さんの世界になんとなく親しみを感じる部分がある理由かも知れません。繭さんの「分析」にしばしば感動させられるもそういうことかも。

 「後の夫の話では、特に苦しそうな顔もしていないし、よく不思議な動作をしているし、具合が悪いなんて分からなかったそうです。」

 これはものすごく印象深い話です。「へえ!そうなんだ!」という。なんか「痛みに顔がゆがむ」というのは、完全に自動的なことなのかと未だに思いこんでいました。たしかに心理的な痛み、たとえば突然大事な人を失ったときには、その直後には激しい悲しみを感じることもできず、涙も出ず、ぼーっとしてしまうとか、そういう状態にしばらくなることはあると思うんだけど、身体的な痛みについてはそういうことは全然想像したことがなかった。
 カナータイプの子どもでかなり痛そうな怪我をしても平気で遊んでいたのが、言葉を獲得する頃に痛みを表現するようになった、という話は聞いたことがありますが、そういうことともどこかでつながるんだろうか……。
 なんか定型とアスペのコミュニケーション上のいろんな問題の理解に関係してきそうな気がします。どう関係するかはまだわかんないけど。


Anさん

「親には否定されまくって生きてきましたから…こちらも心を閉ざすわけです。結果、境界例などの人格障害になってしまうような愛情不足におちいっていました。」 

 この、「親には否定されまくって」というのは、私のパートナーも含め、アスペルガーの方から割によく聞くことのように思うんですが、なんでなんでしょうね。いや、もちろん定型の家庭でもそういうことは十分起こりうるし、逆にカレン家やjoさんの家のようにまるで逆に親にすごい愛情をかけられる場合もあるわけだから、絶対ではないけど。
 あと、私の限られた経験と臨床の人に聞いた話から、人格障害は経験でそうなる、というものとは違うように私は理解しています。私自身も強烈な境界性の母親にべったりと育てられて、それに対応するコミュニケーションスタイルをかなり身につけたところがあるので、結果として自分自身を境界性的に感じるところもありましたが、やっぱりそれは後天的な、表面的なもののようです。医者も私は違うと言いますし。
 ま、こういう先天か後天か、統合失調症のように「素質」+「環境」か、というような話は、自閉の問題も含めてなかなか断言できるようなものではないですけれどね。

 「わたしは定型のことを理性では理解できるようになりましたが、感情ではなかなか無理です。……それでも、なんとかコミュニケーションをとって、意思を通わせようとするのは、人間関係の醍醐味だと思います。」

 これ、「定型」を「アスペ」と置き換えると私も全く同じです。そしてお互いにその「醍醐味」を味わおうというのがこのブログの究極の目的だと思っています。


Alonaさん

「私は、夫しか、aspの人を知らないので、ここで交わされる議論に、どうも、共感しづらいところが、あるのです。違和感を感じるのです。」

 アスペと言ってもほんとに様々ですし、定型の側も感じ方や考え方がめちゃくちゃ多様ですから、そういうことが起こるのはとても自然なことだと思います。
 ある一つの視点からは見えてこない違う問題やそれを見る視点をお互いに提供しあえるのがいいと思います。「これこそが正しい唯一の見方だ」と言うことではなくて、「私の経験ではこういうことがあるし、私はそれをこう感じた(他の人はどうか分からないけれど)」という一つの例としてお互いに語り合う限り、「違和感」からの発言は「多様性」への扉になると思います。

はじめまして。
今はじめて拝見させていただいて、衝動的にコメントさせていただきます。
すいません。


「aspとは、道で、石につまづいて、転んだ時、そこにある石が悪い、としか考えられない
脳の障害である。」

という文章について考えてみました私の場合、、、

私は、ずっと石が悪いという感覚の持ち主だったんですが、人に指摘されて、自分が悪いという考えをもつようになりました。

きっと提携の人は臨機応変に対処するんでしょうけど、私の場合は、良いか、悪いかしかに判断出来ません。

180度に考えを変える感覚しか持ってません。
その、自分に嘘をついてる感覚が辛くて。
一体自分はどうすれば良いのか??自分の感覚はどうすればいいのか!!と破壊的な方にむかっていきます。


なので、アスペルガーの人に注意するのはその本人に良いのか、悪いのか、、、、

あたしはたぶんアスペルガーです。

アスペルガーの人は自分に嘘をつかない居場所を確保出来れば幸せでいれるのかなあ。。。

突然のコメント失礼しました

アクリルさん

 はじめまして。コメントありがとうございます。

 「180度に考えを変える感覚しか持ってません。その、自分に嘘をついてる感覚が辛くて。」

 この「180°考えを変える」ということ、いろいろ考えてくる中でアスペの人を理解するときに、手がかりのひとつになるのかなと感じていたことでした。アクリルさんの場合はそこが大きいんですね。
 「その自分に嘘をつく感覚が辛い」というのも、多分そこにつながるんだと思います。つまり片方が本当のことであればもう一方は嘘である。両方とも本当で両方とも嘘でもある、という「曖昧」な考え方をすることはしないから、だから片方のことを本当と思いながら定型にあわせてもう一方のことを言ったりするのは嘘にしかならない。嘘は辛い。

 もちろん、定型の私も自分の信念に反することをさせられるような状況になればすごく辛いと思います。でも「自分にはこれが本当に思えるけど、相手はまた別のことを本当と思っているんだな」と考えられるようになったり、「自分はこれだけが本当と思っていたけど、少し見方を変えると、あれも本当と言えるところがあるんだな」と思えるようになれば、それに合わせた行動がとれるようになって、一方的に辛い、といいう状況は減っていくように思います。

 そういえば、アスペルガーの繭さんは、自分と人は違う。感じていることも信じていることもみんなそれぞれだ、という考え方を何度も書かれています。そう考えられれば、また状況は変わるかも知れませんね。

 いずれにせよ、自分の信念に反することを他者から強制されるような状態が耐え難い、というのは私も同じです。そこは同じ定型でもすごくいろんな人がいると思いますが、私はダメです。だから「生きづらい」ことも多いですね。その場合の私の(多分定型的な)対処の仕方は「仲間を作って生きやすい環境を作る」ことのように思います。

 またいろいろコメントなどよろしくお願いします。 m(_ _)m

パンダさん
丁寧な返事ありがとうございます。

俺の伝え方がが悪かったです。

「嘘をついている」というのは正しい表現じゃなかったです。

嘘じゃなく、色んな意見に乗っかれる。完全に乗っかれるのです。

それが少ないと自分を保ちながら安定した関係が築けるのですが、膨大な感覚が押し寄せて来た時にパニック状態になる気がします。

俺も、人それぞれ色んな感覚があって、意見が食い違う事は当然とわかってるはずなんですが。


書きながら考えてしまってるので、、、

また良い言葉が思いついたら、コメントさせてください!!

ありがとうございます。

アクリルさん

 ネットのいいところはじっくり考えて書けるところですよね。
 どうぞゆっくりご自分の気持ちにあう言葉を探して、またコメントして下さい。

 しかし、それにしても色んな意見に乗っかれるというのは、定型だと思っている私よりも
 よほど柔軟じゃないですか~。

asの人と知り合って「概念」と「前提」という意味を知るようになりました。

asと定型の両者が、当たり前だと思い込んでいる自分の世界の概念と前提が、相手にはまるで考えも発想もできないようなものであり、そこのスタートラインをすりあわせずに会話しちゃうから、もう混乱と疲労のミルフィーユ状態になりがちです。

でも・・不思議なものでasの人と話していると苛立たしさとむなしさばかりなのに、そのasの人を誰かが批判したりバカにしたりすると、猛然とas寄りになり、asの人の感覚をまるで我がコトのように援護ちしゃうんですよね。

その時ばかりは、asの人と共感まで出来ている感情になるんです。
錯覚かもしれませんが。

私もそのasの人には、乱暴に多数派の概念や多数派の普通を押し付けちゃうこともあります。
でも、そのasの人が自分以外の誰かに誤解されたり、一般論で押される姿を見ると、ついasの概念もあって当然だ! みたいな感情になり、そのasの人の理論はどこから派生したのかやっきになって説明しちゃうんですよね。

共感力の強弱は人それぞれですが「そのasの人との関わり方や関係性や知り合ったきっかけ」などの運命的な出逢い方で、理解者にも共感者にもなれたりなれなかったりするような気がします。

タマさん

「asの人と知り合って「概念」と「前提」という意味を知るようになりました。」

 なるほど! やっぱり、「違う人」と出会うことによって、自分の足下が見えるんですよね。 

「でも・・不思議なものでasの人と話していると苛立たしさとむなしさばかりなのに、そのasの人を誰かが批判したりバカにしたりすると、猛然とas寄りになり、asの人の感覚をまるで我がコトのように援護ちしゃうんですよね。」

 アスペと定型の間の問題でもそういうことが起こるんですね。結局いらだったりむなしく感じたりしながら、一生懸命理解しようと頑張っていらっしゃる訳なんだなと思いました。だから気楽に批判されたりすると頭に来ますよね。

 なんか、コメントを読ませていただいてて、「ああ、こんな風にこの問題に向き合おうとされている方がここにもいらっしゃるんだなあ」と思いました。是非またいろんな体験談とか、疑問とか、発見とか、情報をお寄せ下さい。みんなで交流して豊かにできればと思います。

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