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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年6月

2011年6月28日 (火)

「同じ」と「違う」

 人と人は「同じだからつながれる」のか、それとも「違いを大事にするからつながれる」のか。

 繭さんからのコメントに書かれていた次のことですが、

「そういえば…と思い出したのですが、私がこちらにお邪魔し始めた頃、アスペルガーについて夫に理解を求めようと話をすると、彼から拒絶反応のようなものがあったのですが、その心境はパンダさんが記事に書かれていたこと、
>なんとかしんどさを耐えながら改善して行こうとしていたその自分のやり方が全く意味を持たなかった、ということを思い知ることで、「これ以上自分には何も出来ないのではないか。もう自分の力の限界なのではないか」という思いになったことが大きかったように思います。
この感覚になることをおそれる気持ちがあったのかもしれない、と今は思います。最近はアスペルガー・定型ネタの軽口も行き交ったりしています。」

 これを読んで、今まで私にはよく分からなかった、繭さんの夫さん(なんかへんな言い方 (^ ^;)ゞ)の「拒絶反応」がすごく分かる感じがしました。「アスペルガーと定型のズレ」という風に理解するのではなく(というか、そういう見方は視野に入っていない時に)、「同じ人間としてなんとか理解の仕方を探そう」というところでものすごい努力を続けている場合には、「アスペルガー」という言葉が、相手と自分が同じ人間としてつながる可能性が否定されてしまって、自分の努力が台無しにされる、一種の「絶望」的な宣告にも思えるのかも知れないですね。

 なんだかそこでそういう見方が共有されたと言うことは、自分自身としてとても感慨深い気がします。というのは、私は日本の人間関係は特に「相手と同じ」ということをとても強調し、そこを大事にするように思える(逆に言えば他人と違うことを恐れる)傾向が強いと感じているのですが、それに対して私は自分のことを「違う」という面をすごく重視してきた人間だと思っていたからです。

 ほんとは違いが大きくて、ずれているのに、それをむりやり「同じ」と言い合ったり、思いこんだりすることで、ものすごく無理して相手に合わせることになって一方が苦しんだり、あるいはお互いにしんどくなったり、場合によっては憎しみ合いにもなったり、また「違う」人をいじめたり排除したり、無理矢理自分たちと同じようにさせようとして苦しめたり、そういう悲劇が沢山あるような気がする。それで「いや、やっぱり違うんだよ。違いを認めようよ。それが相手を尊重することにもなるし、自分が自分でいられることの第一歩でもある」ということを思い続けてきました。

 けれども、そういう話をすると、寅さんの「それをいっちゃあおしまいよ」じゃないですけど、「そうはいっても人間として同じと言うことが大事なんじゃないか。違いばっかり言っていたら、つながれなくなるんじゃないか」という感じの反論をされることがよくありました。

 でもいくらそう言われても、「まあ、もちろん同じ人間なんだけど、でも一人ひとり違う人間なんだし、もしその違いの所で問題が生じているのなら、違いに目をつぶらないで、違いをお互いにしっかり理解することが大事なんじゃないか」と、そう考え続けてきたんですね。もちろんパートナーとの問題がどんどん深刻化していったときにも、「違いは何なんだ?」ということを一生懸命考えようとしました。また話し合ってそこを理解しようとも努力しました。

 でも、結局その「違い」を理解する理解の仕方自体が実はお互いに深刻にずれていたことに気づけなかったわけです。アスペルガーという認識ができるまでは。たとえばやはり繭さんがコメントで何度も書いて下さったような、基本的な感覚というか、ものの見え方というか、そういうところからすごくズレがあるということを、少なくとも私は全然といっていいほど、気づいていませんでした。もちろんパートナーもです。だから、そこはあるいみ「人間として一緒」と無意識に考えていたんですね。

 その上で「違いを理解しよう」という努力をぎりぎりまでやって、もう力尽きた、というところになって、そこで実はその「人間として一緒」と思いこんでいたところが違うんだ、という「ズレ」の現実を突きつけられて、それで半ば絶望的になったんだと思います。

 つまり、ややこしい話ですが、「違いを理解することの大事さ」とか自分では思っていても、実際にはそれを理解するための前提の部分は「同じだ」という思いこみがあったということですよね。

 いろんな経緯があって、今は私はその思いこみの「同じ」についても見直した上で、改めて違いを理解する、という風になっているし、その「違うんだね」という理解を共有することで関係がうまくいくようになってきているところがたくさんあります。でも、その今の「違い」についての考え方の裏にも、きっと同じように、「でもここは同じだよね」という一種の思いこみがくっついているんだろうと思います。だからいつかまたそこで新しい壁に突き当たることもあるでしょう。
 
 自分は「違い」を大事にする人間だ、とずっと思っていたわけですが、実は「アスペルガーという理解」という形で「違い」を見せられたときに、ある意味で動揺してしまった。なんかそこが繭さんが想像された繭さんの夫さんの気持ちの動き方とすごく共通する部分があるように思えたのです。なあんだ、そういう意味じゃ、私も「同じだからつながれる」と思っていたとも言えるじゃないか、ということに気づかされたというか。

 もちろんここで「同じだからつながれる」とだけ言いたいわけでもないし、「つながるには違いが大事」とだけ言いたいわけでもなくて、結局どっちの面も切り離せないんだなと思いました。ただその時々でとか、その人の性格としてとか、どっちをより強く意識するかの違いはあるわけですが、どちらか一方だけと言うことは絶対にありえないんだなと、実感を持ってそう思えたわけです。
 

 

2011年6月27日 (月)

ブログを通して変化する

 考えてみると面白いことだなと思うのですが、以前離婚を真剣に考えざるを得ない状況にあったときには、パートナーが「アスペルガーだ」ということがものすごく大きな意味を持っていたんですね。アスペルガーという理解がなくてしんどいときには離婚はちらちら頭に浮かぶ程度だった時期が長かったけれど、アスペルガーという理解が固まった前後くらいから本格的に考えるようになったと思います。

 なんか「障がい者差別」みたいな感じですよね。これを書くだけだと。そして実際そういうのを障がい者差別と言うのかも知れないけど、もうちょっと素朴に自分の気持ちを言えば、なんとかしんどさを耐えながら改善して行こうとしていたその自分のやり方が全く意味を持たなかった、ということを思い知ることで、「これ以上自分には何も出来ないのではないか。もう自分の力の限界なのではないか」という思いになったことが大きかったように思います。

 このブログを始めた頃は、まだそこから抜け出していたわけではないと思います。そして今振り返ってみると、そのころから考えるとほんとに大きく変わったと思う。

 もちろんパートナーがアスペルガーで私は定型であると言うことは、今でもとても大きな意味を持っています。でもなんというか、それはパートナーが女性であるとか、彼女の体型は○○であるとか、なんかそういう特徴のひとつとして意味がある、くらいの感じに近くなってきてるように思うし、前にも書きましたが、「これだからアスペは困るね~」とか「何で定型はそうなんだろう」とか、おたがいに冗談で言えるくらいの感じにはなってきています。

 もちろん神ならぬ身、人生何が起こるか分からないし、今後どう展開するのかを断言することなどできないわけですけれど、でも今は自分の中から離婚という文字はほとんど意識されなくなっていることは事実です。それよりこれからどんな風に生活を作っていくかということの方がよほどリアリティーがある。


 熱心にブログを読んで下さっていたある方からメールを頂いて、その方もやっぱりブログを読みながら、ずいぶんとご自分が変わられた部分があったそうです。もちろん私が読み手の方を「変えよう」と思ってブログを書いているわけではないし、コメントを熱心に下さる皆さんも、特定の誰かを自分の思う方向に変えようと思って書かれているわけではないと思うのですが、それぞれの人がそれぞれの思いをつづり続けてくる中で、書かれているご本人もそうだし、それを読んでいる方の中にも変化が起こり続けているんですね。

 人間の変化の可能性と言うことについては、正直、自分の母親をみていると、いつもぐるぐると同じ所を回っていて、結局何も変わらないのかとあきらめに近い気持ちになったりするんですが、アスペと定型のズレの問題でこんなふうに大きな変化が起こりうるという事が、もう少し自分の中で安定して感じられ、自分自身の気持ちも安定してきたら、母親の境界性的な部分の大変さとの付き合い方も、もう少し何か考えられることも出てくるのかも知れないという気も、ちょっとだけしてきます。今は到底そこにエネルギーを使える状態にはありませんけれど。アスペと定型の間の工夫でそのまま境界性の人との間に応用できるものはほとんど思いつきませんし。なにしろある意味正反対の傾向ですから。


 まあ、ほんとに人生、一歩一歩ですね~。
 寿命の問題があるからどんだけかかってもいいというわけにもいかないけど。
 というか、そういう限界も含めて人生か。

 おっと、私もKSさんのように仙人になりつつあるか?

  

2011年6月23日 (木)

アスペ的「安定性」との向き合い方

 チロさんのコメントに「パンダさんの奥さん(自分を責めてしまう)と私の夫(俺の何が悪いんだ?)ではタイプがかなり違いますが、こちらの必死の訴え(相手からすると攻撃だったり騒音だったり)が届かない感じは共通するのかな?と感じました。攻撃だと捉えてるなら避けるのも当然ですが。」と書かれている部分がありました。

 ここでのやりとりのなかで、定型の側から見たアスペの配偶者のイメージとして、「自分を責める」というパターンと「相手を責める(自分は悪くない)」というパターンと、なんだか全然正反対に感じられる二つのものが出てきて、「あれ~?」と思ったりしてちょっと混乱したことがあるのですが、改めて考えてみると「自分」か「相手」か、そのどちらかだけ、というふうになりやすくて、しかもそこがなかなか変わりにくい、というふうに考えると、そこは定型のパターンとは違う、アスペの人に共通したパターンなのかも知れません。

 繭さんの「好みは安定していてがなかなか変化しない」という話の所でも考えたことですけれど、この「自分を責める」タイプか、「相手を責めるタイプ」か、ということはもちろん定型の中でも「どっちかに偏りがち」みたいな感じでその人の個性のひとつにもなっていますけれど、それも生まれながらに最初から決まってしまっている、というのでもないのではないかという気がしますし、そのことはアスペの人でも同じではないかと。

 つまり子どもの頃、どんな環境で育ったか。肯定されて育ったか、否定されて育ったか、ということがすごく影響するのではないのかなあと思うんです。で、定型の場合はそこが大人になってからでもまた環境によって結構変わったりする。たとえば結婚によって初めて自分が肯定されて、すごく自分自身への見方が変わるとか、親との関係に大きな変化が起こり、自分を受容できるようになるとか、あるいは宗教の場合なら「神に受け入れられて救われ、自分を肯定できるようになる」とか。自分の罪はイエスが十字架に架けられることで代わりに背負って下さっている、とか(信者じゃないので怪しい理解ですが)、そんな形も考えられる。

 でも、アスペの人の場合、子ども時代に作られた方向は、大人になっても基本的なところでは定型よりもはるかに変化しにくいのかもしれないと、そんなことを思うようになりました。

 だからたとえば「自己評価が低い」という話についても、定型の私の感覚から想像して「こういう風に接すればもっと自分に価値を感じられるようになってくれるのではないだろうか」と思えるような接し方がほとんど全く意味を持たない(ように感じられる)といったことが起こる。その結果、一生懸命に相手の支えになろうとする努力がひたすら空回りするだけで、無力感から逆にこちらの自己評価が危うくなっていくということも起こる。

 子ども時代にそういう接し方をされていれば、自己評価の在り方も全く違ったのかも知れません。でも大人になってからは、少なくとも私の定型的常識のレベルで考えた方法と努力ではそうそう変わるものではない。

 仮にそうだとすれば(本当にそうなのかは分かりませんけれど)、定型の側の自分にできることは「自己評価が低い」ことを「可哀想だ」などと考えてそれをなんとかしようとすることではなく、それ自体を相手にとっては大切な個性のひとつ、生き方のひとつとして受け止めて、そのことを前提にいい付き合い方を探していくことなのかも知れません。

 もちろん定型的な感覚では「可哀想」とか「こまったこと」とか、否定的に受け止められやすいことについて、それを「大切な個性」という風に受け止め直すと言うこと自体、そんなに簡単にできることではないでしょう。場合によってはそんなことは無理、ということもあるかもしれないし、さらに場合によってはそういうことはすべきではない、と言う場合もあるかもしれない。

 なんか、その辺はまたとてもややこしそうですが、でも少なくとも今の自分とパートナーとの関係にとって、何かそういう見方の切り替えが意味を持ってきているのかも知れないと、そんな気もするのです。

2011年6月21日 (火)

闘う関係、闘わない関係

 このところ、改めて自分自身のいまの姿を見直してみる、みたいなことを少しやってきているわけですが、なぜそれを必要と感じているのかは、自分でもまだよく分かりません。ただなんとなく必要という気がしているだけで。

 ただ、書いてみることで新しく見えてくることとか、みなさんからのコメントを頂いて新たに気づくこととか、そういうことはいろいろあります。そのひとつが「闘う関係と闘わない関係」ということです。

 まず私とパートナーの関係のことで言うと、昨日の記事やjoさんのコメントなどを通して、二人の間にずっと抱え込んでいたズレに、「闘う」ということについてのなんだかややこしい、こんがらがった関係があったんだなあということに気づいたんですね。改めて整理してみると、

 私自身は自分の育った家庭が父母の「闘いの場」で、「戦場」の中で生まれ育った人間です。そうすると人間関係というのは「闘い」なんだ、という理解が常識として自分の中に作られていく。私の人生最初の記憶というのは、父親が怒って母親に金だらいに汲んできた水を頭からかけ、そして母親が私を連れて家を出て実家に帰ろうとする、というシーンですものね。目の前で親が殺されるような(戦時中の話でそういう被害を受けた方の話を直接に何度も聞いたことがありますが)、そんな悲惨な状況まではいかないにしても、でも2歳の子どもの「人生の最初の記憶」としてはやっぱりちょっと悲しいですよね。

 その後も両親の闘いの場面には傷つき続けましたけれど、でもそれでは生きていけませんから、それに耐えられる自分を作り、むしろそういう姿勢を無理にでも自分の中に取り込んでいかないといけなくなるわけです。そうやって「そういう姿勢こそが普通で、正しくさえあるんだ」とう思いが作られていく。

 両親は未だに全くのすれ違いの生き方を抱えて戦い続けているので、たまに実家に帰ったりすると、「ああ、自分はこういう環境で子ども時代をすごしたのか」と思い、我ながら子ども時代の自分が可哀想で、愛おしくなってきたりしますし、そのスタイルを身につけた自分が大人になって日本的な「和=我慢や譲り合いや」を大事にする人間関係の中で浮きまくり、苦労し続けたのも、まあ無理はないなあという気持ちになったりします。

 けれども、そのスタイルがすべてマイナスだったわけではなく、前にちょっとjoさんとやりとりしたみたいに、「真剣な闘いを通してほんとに深いつながりを作る」みたいな、そんな人間関係にも恵まれましたし、海外の、お互いに自己主張をしあいながら生きていく、という世界の中にもある程度は入ってつながりを作れるところもできた。また世の中に充ち満ちている「弱者を踏みつけにして成り立っている世界」について憤り、闘う姿勢みたいなものも作られていきました。「対等」についてのこだわりも、そのあたりにも関係しているように思います。

 そうやって「闘う姿勢」がある面で「前向きな生き方」にむつびついて行ったところがあるので、周囲からいじめられたり激しく叩かれたり浮きまくったりしても、それでも潰されずにめげずに生きてこられたのでしょう。

 でもやっぱりそういう常に闘いに自分を追いやられるような生き方は、常に自分が脅かされ続ける生き方でもあって、他方ではすごく強く「闘わない場」のやすらぎを求めていたんでしょうね。私にとってパートナーの「闘わない(闘えない)」姿勢は、実はそういうやすらぎを与えてくれるものだったように思います。しかも母親のように境界例の人が持つ「過剰な愛情」、相手の世界の中にどんどん入り込んでいってかき回し、相手の世界を飲み込んでしまうような姿勢とは違って、すごくサラッとした「愛」があって、その距離感がとても心地よかったんだと思います。

 だから「闘う」と「闘わない」ということのプラスとマイナスの意味が、私の中ではなんだかややこしく絡まり合って私とパートナーとを結びつけ、またその関係を混乱させるもとにもなってきたように思えます。長所は短所、短所は長所、というと簡単に言いすぎでしょうか?

 ということで、なんにせよ、「対等に闘う姿勢」というのが私の表向きの生き方になっていき、パートナーとの関係でもなにか問題があれば「対等に議論して解決する」ということを理想としてきた部分があります。でも実際に自分がパートナーを求めたのは自分の中の「闘いたくない姿勢」という、裏に隠れた思いの部分がものすごく大きかったのだろうと思うのです。だからものすごく矛盾したことを自分はパートナーに求めていた、と言う風にも言えそうです。その矛盾が今、ようやく(?)表に出てきたのかも知れません。


 さて、この「闘う」「闘わない」という、あるいみとてもややこしい問題が、ここでいろいろコメントを下さっている皆さんのそれぞれに個性的な関係の中で、すごくいろんなバリエーションを持っているように感じるんです。もちろん全然闘いの経験がないカップルというのはあまりないだろうし、ひたすら闘いだけの夫婦というのもないでしょう。私の両親でさえ(?)熱々の時期もありましたし(それはほんとに救いでしたが)。

 でも理由は様々でしょうけれど、徹底して闘い抜く中で次を作り出してきたカップルもいらっしゃれば、闘ったけど比較的早く闘わない関係に移行されたカップルもいらっしゃる。闘いの結果として関係が持続するカップルもあれば、関係に決着を付けるカップルもあるし、闘わないことで現状を維持して将来の離婚に備える方もあれば、闘わない関係を続けることでカップルを持続されようとする方もある。ほんとに「ありとあらゆる組み合わせがある」という感じがします。

 そこで改めて思うことなんですが、「闘う関係」か「闘わない関係」か、「別れる」か「別れない」か、といったことは、私たちの人生にとってはとても大きな意味を持つ生き方の違いになります。私は多分上に書いたような理由でこれまで「闘う関係」の方が「闘わない関係」よりも「正しい」という感覚が強かったのですが、でも今はその見方に大きな変化が出てきています。そしてこの様々な生き方について、優劣を付けることが今の私にはできない。

 みなさんのお話しなどを教えていただいても、それぞれにそれぞれの事情があって、それぞれの生き方があって、カップルにもそれぞれの組み合わせがあって、その個性の中で何を選んでいくかが結果として決まるものであって、頭から「これが正しい、これは良くない」とはとても言えるようなものではないと感じられるようになってきているからです。

 ただ、ひとつだけ共通することを探すとすれば、どれも「アスペと定型」というカップルの中で生じているということでしょう。そしてどういう方向に進んでいるにせよ、その「アスペと定型のズレ」の問題がそれぞれに絡んでいるし、そのことがすごく大きな問題として意識されている(または意識されていた)わけです。

 そこで改めて実感することなんですが、普通アスペルガー問題が議論される時って、「まずアスペルガーという問題がある」という感じですよね。「アスペルガーという問題をどうするか」というのがメインテーマになる。でも上のように見てくると、やっぱりそれはなんか本末転倒という感じになってきます。「いろんなカップルが、色んな問題を抱えていて、それに対していろんな対処の仕方をしようとしている。そういう色んな問題の中に、アスペルガーと定型のズレということが絡んでくる場合がある」というのが本当の姿なんじゃないでしょうか。

 だって「闘う」か「闘わない」かとか、そういうのって、別にアスペと定型だから出てくる問題なんじゃないですよね。定型同士だって普通にある問題です。ただアスペと定型のズレのせいで、そのカップルに起こりやすい独特の問題の傾向みたいなことがそこに加わるということにすぎない。しかもその独特の傾向が加わったとしても、やっぱりそれがどういう方向に進み、どういう結果を生み出していくかは、また千差万別で「アスペと定型」だからこうなる、というものではない。

 もちろんアスペと定型のズレによって、定型同士のカップルでは見いだしにくいような、独特の難しい問題があって、それがほんとに深刻な状態を生むと言うことを否定したいわけではありません。そのことは大前提ですが、その上で、その問題に向き合うときに「アスペと定型のズレ」ということだけを考えていては解決がつかない部分がとても大きいし、定型同士のカップルともつながるもっと大きな問題がその土台の部分にはあるのではないかという、そんなことをこの三回ほどの記事のやりとりの中である程度リアルに感じられるようになってきました。


 

2011年6月20日 (月)

対等な闘い

 「親としての罪悪感」の記事を書いて、カレンさん、チロさん、繭さん、みみさん、KSさん、joさんからそれぞれ本当に真剣なご意見を書いていただき、またパートナーと話をし、自分の記事を読み返してみて、改めて自分の限界を見るような思いがします。

 「限界」とは書きますけれど、そして実際「限界」だと思っていますけれど、その言葉で自分を否定しているわけではありませんし、もちろん褒め称えているわけでもありません。ただ、これまでの人生の中で逃れようもなく自分が作り上げ、抱えている「自分の姿」がまたひとつよく見えてきたということです。

 その自分はある面から見れば鼻持ちならない姿をさらしているように感じるし、また別の面から見ればぎりぎりの所であがきながら頑張っているようにも見えるし、そのどちらが「本当の自分だ」というわけでもなく、ただそんな色んな面を持つ自分なんだし、仮にそれが自分にとって嫌な面を持つとしても、その自分から逃れて「美しい自分」になれるわけでもない。ただそういう自分がそこにいて、どう進むにしてもそこからしか進むことができない足場、みたいなものです。それ以外のことができないという意味で、その姿が自分の「限界」なんだと思います。

 
 「いい面」の方からいうと、このブログの記事を熱心に読んで下さったり、あるいは真剣なコメントを下さる方から、「自分だけの視点を離れて、少し俯瞰した視点から問題を見つめ直す、ということを、このブログを通してするようになった」というような感想を頂いていて、それはとても嬉しいんですね。いろんな視点から柔軟に問題を見ていくことで、がちがちに固まって身動きできなくなってしまった苦しい状態を和らげ、そこからなにか新しいものを生み出すことができるかも知れない。

 でも、下手をすると、その「俯瞰した視点から」という態度が、なんだか「上から目線」になってしまう危険も常にあるように思います。「私は自分の立場だけでなく、相手の立場も理解して、問題を考えようとしている。相手は自分の立場しか考えられていないから、だから自分の方が<正しい>んだ」というような。「親としての罪悪感」の記事も、読み返してみれば下手をするとそうなりかねないような「鼻持ちならなさ」を漂わせているようにも感じたんです。「対等に」といいながら、それでは本当の対等になっていない気もする。

 
 カレンさんご夫妻にしても、繭さんご夫妻にしても、お話しを聞いている限り、めちゃくちゃ「対等に闘い続けてきた」という感じがします。その結果として今があるという感じがする。家庭というものが、改めて前向きで創造的な、良い意味での「闘い」の場として、成り立っているような気がする。それは自分を否定することで成り立つわけでも、相手を否定することで成り立つわけでもなく、お互いがお互いを本当に尊重するからできる「闘い」だと思います。

 もちろん私もパートナーを同じ人間として尊重する、ということにはこだわり続けているわけですが、でも「対等に闘い続ける」という感じにはなぜかならないんですね。それは私自身が親との関係で作られてきた「闘う姿勢」と、パートナーのが親との関係などで作り上げてきた決して「闘わない」姿勢とのズレが生み出すものでもあると思います。そしてややこしいのは、私が「闘う姿勢」を身につけた理由のひとつは、親同士の激しい闘いの中で、いわば戦場で子ども時代をずっと過ごしたからで、その姿勢が自分の生き方の根っこの部分に根付いてしまったところがあります。にもかかわらず「闘わない」人をパートナーとしたのは、そういう戦場で傷つき続けた自分がいて、そうでない関係を求めていたからだと思うのです。矛盾と言えばすごい矛盾したことですよね。

 あと、私の父親が私のことを「こいつは男として育てるんだ」と言っていたようなのですが、そういう「<弱者>を守る男の姿勢」=「強者の上から目線」みたいなものをやっぱり自分が身につけているところも感じます。それが一概に悪いとも言い切れないですけれど、ただやっぱり「鼻持ちならなさ」につながる面も否定できないように思うし。


 アスペと定型のコミュニケーションを考えるときに、「対等な関係がいいんだ」ということを一般的に言っているだけではなにか届かない問題があって、下手をすると人によっては思わぬ落とし穴にはまりそうな、そんな気がします。そのあたり、それぞれのカップルの個性によって、より自然なバランスの取り方が幾通りもあるのかもしれません。  

2011年6月17日 (金)

親としての罪悪感

 昨日、パートナーと久しぶりに「議論」したんですが(と言っても、パートナーは素直な感情をそのまま言葉にすることを抑圧させられる環境に育ち、最近ようやくそこから抜け始めたところで、本当に感じていることを言葉にするのに時間がかかるので、とてもゆっくりしたペースになりますが)、いくつかのことを話す中で、前回の記事でも触れた繭さんの「私は私」という姿勢について、お互いにそこから出発できるのが理想と思う、という話を私の方からしたんですね。定型の視点でアスペを「障がい」としてとらえ、迷惑と考えるか、あるいは可哀想な「ケアの対象」と考えるか、そのどちらにしても「同じ人間として対等」というところが見失われることが多い。繭さんのスタンスはそこをすっと抜けているように感じられるので。

 しばらく考えて、彼女が言ったことは「私には対等と思うことは絶対に無理だと思う」ということでした。なぜかということを聞いていったのですが、最初は自分が思ったとおりに話せば定型の人を傷つけることになる、定型の人の方が余計傷つくわけだから対等ではない、という風な答えでした。けれども、それは場合に依るし、視点を変えれば定型の論理だけでアスペの人たちが差別されたり、排除されたり、傷つけられたりする場面が多いのは間違いないし、そこはある意味「お互い様」なのではないか、という話を私は繰り返しました。

 同じような感じのことはこれまでも何度か話してきたと思うのですが、どうしてもそこのところで彼女が自分を定型と「対等」と考えるには至らず、「自分の方に問題がある」という話になっていってしまいます。昨晩は「お互い様」の話には心から賛成という風にはならないにしても、そう見てくれるのなら嬉しいけれど、という感じではありました。でもやはり最後の所で、そういう姿勢になることは自分は無理だというわけです。

 さらに話す中で最後に出てきたのは「だって、自分はあれだけ子どもたちを苦しめて、傷つけてきたわけだから」ということでした。

 これには私も「そうかあ」と言うしかありませんでした。「そこをどう考えたらいいか、ほんとに大きな問題だなあ」というのが精一杯という感じです。実際その問題をどう考えたら、「対等」にという姿勢を改めて納得しあえるのか、今の私にはすぐには答えが出そうにないからです。

 定型とアスペのカップルの関係なら、まあお互い様、というところに到達するのはなんとか道が見える感じがする。でももともと圧倒的に力関係が違う親子の間でアスペと定型の問題が生じるとき、当然のことながら親に依存せざるを得ない子どもの方がそこで苦しんだり傷ついたりするのは間違いないと思えます。そうやって苦しむ子どもの姿を見て、僕等もとても苦しかったわけですけれど、でもそれを「子どもの責任」とはもちろん思えないし、親である私たちの責任と感じるのは私もそうだし、彼女もそうであるわけです。

 「アスペと定型のズレ」の問題を共有するまでは、ある意味で私と彼女は逆に対等だったのですね。私は彼女の子どもの接し方について定型的な感覚から「問題」を感じる部分がたくさんあったけれど、彼女の方にはそういう理解はない。だからその問題について話し合おうとしても結局「すべて私が悪いというわけ?」という反論(?)になってその先に進まなくなってしまう。最後は話し合うこと自体拒絶されるようになる。

 ところが「アスペと定型のズレ」の問題が共有されると、今度はアスペ的なコミュニケーションスタイルは定型には辛い、ということを頭では彼女も理解するようになっていくので、定型の子どもに対して「自分がアスペだから辛い思いをさせてきた」という理解が成り立つようになってしまいます。

 また、それまでは母親の子どもへの関わりを変えることでなんとかしようとしてきた私も、子どもの状態がいよいよ心配していたようなことになり、自分もそのことに罪悪感を感じて鬱になってようやく、もうこれ以上母親に関わることは無理だとあきらめて、子どもとの関わりに残った力をすべて使うようになりました。そして時間はかかりながらもその私の努力が子ども自身の必死の努力と少しずつ噛み合うようになってきて、その後は大体私の予想の方向に子ども自身が道を切り開いていくのを見守り、側面から支えられるようにもなりました。

 その過程でも私からは何度か「今子どもははこういう状態で、こんな風に変化してきているから、きっとこれからはこういうふうになっていくと思う」とパートナーに私なりの状況理解の説明を試みましたけれど、そのことは理解も信用もしてもらえませんでした(視点が全く違いますので)。しかし、少なくとも現実にはだいたい私が言っていた方向に子どもが進んでいったし、子どもと私の深いコミュニケーションも作られていきましたから、その理由は彼女にはまるでぴんとこないながら、その「結果」については彼女もある程度は認めざるを得なくなっていくわけです。

 そうこうするうちに彼女は「自分は無力であり、自分の関わりは子どもに力にならない」という意味のことを何度か言うようになりました。私はそんな一方的に決めつけてはいけないと感じながらも、子どもに対する以上のエネルギーはもう残っていませんでした。「彼女と理解し合うことはもう無理だ、自分にはそんな能力もエネルギーもない。子どものことがなんとかなったら、今度は自分を立ち直らせるために、積極的に離婚も考えざるを得ない」、というのが偽らざる当時の気持ちです。

 その後、子どもが本当にしんどい状況を、自分たちの力で頑張って乗り越えていってくれて、しかもその苦労をしっかりと自分の生き方の芯に大切な土台として据えながら前を向いて歩き始めてくれました。そして以前にも書いたように、そのあとパートナーと私の関係が思いがけない大きな変化を見せてきたのですが、私との間では彼女も前向きの感じが出てきているところで、結局子どもと彼女の関係の問題が改めて大きく浮き上がってきているのだと思います。

 つまり、私と彼女の関係では、「お互いの違いを前提に、対等に関係を見直していく」という方向を生み出す力になった「アスペと定型のズレ」という理解の共有が、今度は彼女と子どもとの間では「私がすべて悪かったのだ」という親としてのぬぐえぬ罪悪感に彼女がとらわれる原因になってしまっているようなのです。もちろん私もそういう状況をどうすることもできずに子どもに大変な苦労をかけたことについて、やはりぬぐえぬ罪悪感があるのですが、けれどもその後、子どもと私の関係が劇的に変化したことで、少なくとも罪悪感しかない、と言う状況ではなくなっています。

 繰り返しになりますが、権力的に一方だけが相手を押さえつけているような場合は別として、お互い対等な関係を結ぼうとしている大人同士であるならば、「アスペと定型のズレ」の問題で苦しみ続けたとしても、その責任をどちらかに一方的に求めることはできないと思います。自分のやり方が当然であって、相手がおかしいんだ、ということで自分中心の見方しかできなかった点では「お互い様」なのですから。でも親と子どもという圧倒的な違いの中では、そこで生み出された苦しみはやはりより力の大きい大人の方により大きな責任があると私も考えざるを得ません。そう思っているから、最初の方に書いたようにパートナーが定型とアスペの関係を対等と見ることは自分にはできない、ということを子どもの問題を理由として語ったときに、私は言うべき言葉を失ってしまったわけです。

 一体この問題、どう考えたらアスペの側だけが一方的に責められるような状況を脱することができるのでしょう。少なくとも主観的な思いとしては私のパートナーは子どものために必死であったわけで、それが不幸にして定型の子どもとの間のズレによって問題を生んでしまったとしても、そのことを一方的に責める気持ちには私はなれないのです。ある意味、仕事などの「外」の世界に逃げられるところのあった私なんかより、よほど多くの時間子どもと向き合い続け、悩み続けていたのですから。

 ……と、ここまで書いてみて、ひとつだけ思いつくことがありました。それはやはり「アスペと定型のズレ」という問題を、私との間だけではなく、子どもとの間に共有しつつ、関係を作り直していくことの必要性です。いや、単に「知っている」というだけなら、もうすでに「共有」されています。問題はそのことを前提に、お互いの関係を改めて作り直すと言うことです。言ってみれば彼女が改めて子どもと自分の関係を取り戻していくこと、そこがひとつの鍵になるのではないか、そんな気がしてきました。もちろん上に書いたことも含め、私の状況理解にもまだまだいろいろと考えるべき問題があるとは思いますけれど。

 

2011年6月15日 (水)

対話的なバランス

 ある方に「アスペルガーのパートナーのいる女性が知っておくべき22の心得」(ルディ・シモン スペクトラム出版社)という本を頂きました。著者は「ニューヨーク在住の文筆家かつアスペルガー症候群の教育者」と紹介されていて、ルディさん自身は本の情報源を次の三つだと言われています。

 ・私個人の経験
 ・私のウェブサイトを通じて連絡をくれた男性と女性へのインタビュー
 ・ASの人のためのフォーラム

 つまり、彼女自身のパートナーがアスペルガーなんですね(補足:実は彼女自身も40歳代でアスペルガーという診断を受けているようです)。で、22ある章には、それぞれその章のテーマ、たとえば「孤独あり」とか「人前での愛情表現は、おそらくなし」、「コミュニケーションはいつだって難題」、「ベッドではあなたよりも消極的」、「たいへんなときに、そばにいてくれない彼」、「『彼はしょせん、男なのよ』という周囲の声」など、定型の当事者が出会うような具体的な困難について、まずその概要を紹介し、彼女から見たその理解を書き、それから「彼いわく」という形でアスペルガー当事者の発言を2~3引用し、その後そういう事態をどう受け止めたらいいか、どう対処したらいいかの対策を書き、最後に「ポジティヴノート」という形で、一見マイナスに見えるその事態をポジティヴに受け止め直す視点を提案する、という形になっています。

 短いものですが「彼いわく」という、アスペルガー当事者の声を載せてあったり、定型の側からは否定的に見えやすい事態について、その積極的な面をあえて考えてみるという姿勢をとっていたり、「定型の側からの一方的な決めつけはしない」という姿勢を頑張って貫こうとしていますし、例のアストンさんもこの本に寄せた序文の中で「ASの男性との関係について書かれた本は沢山出ています。しかし、ルディ・シモンによる本書ほどASの男性とASでない女性の両方の見解を深い洞察力と理解をもって正確に記したものを私は読んだことがありません。読み進めるとわかることですが、どの章も現実的かつ肯定的で、偏見がありません」と書かれています。


 私のパートナーは女性ですから、この本とは逆のパターンですけれども、書かれている困難な事態については、やっぱり共通点がとても多いですね。「ああ、やっぱりそうか」と改めて思えることがたくさんありました。

 読み進める内に、でもちょっと息苦しくなる部分がありました。それは「大変だけど、でも頑張って前向きに受け止めていこうね。ちょっと視点を変えることで、マイナスにしか思えないことも、プラスに見えるところだってあるかもしれないし。相手に期待しすぎずあきらめて、辛すぎるところあまり無理をしないで、気をそらして別のことをしたり、一人になったり、別の友だちとつきあったりして補いましょう。」というような感じの文章が続くことです。たとえば次の文章。

 「ASには、しばしば、うつや無力症、不安がついてきます。処方箋を書いてくれる医師もいますが、薬の効き目は一定の間しか続きません。彼にとってやりがいが感じられることを探し、激励したり側面から支えるようにしてみてください。ただし、押しつけてはいけません。彼の怠惰について小言を言ったり、批判するのはよくありません。観劇、旅行、秋のドライブなどは控えましょう。そういう社会的な活動は、アスピーが得意とするものではありません。ここまでくれば、あなたの忍耐力はもはや聖人並だと思います。その忍耐を保って、あとは、あまり考えすぎないように時間を他のことに費やしてみてください。」(11.「長い間ふさぎこんだり、まったく無気力になる」の「対策」部分)

 特にアンダーラインのところなど、「わ、しんどい!」と思ってしまいました。私は聖人になるのはちょっと(死んでも)無理ですし。原文を知らないのでもしかすると私の理解と本当はニュアンスが少しズレるのかも知れませんが、まあずっとそういう感じで書かれているところが多いので、そんなに大きくはずれないでしょう。

 とはいえ、お互いの努力が大事という感じのことは何度か言及されているし、そのためには「アスペルガー」という共通理解が力を発揮することも書かれているし、そして最後には次のような言葉で結んでいるし、アストンさんの言うように、定型当事者である彼女の経験をふまえたバランスの取れた本だと思います。

 「『彼は、そして彼との関係は、本当に努力してつなぎ止める価値があるだろうか』 これはあなたにしか答えられない質問です。答えは、あなたがどれだけ彼を愛しているか、どれだけ相性がよいか、そして二人がどれだけ思いやれるかにかかっています。 どんな関係でもメインとなる成分は幸福であるべきです。あなたも彼も、他の人たち同様に、幸福に値する人間なのです。あなたと彼が、二人の幸せをみつけられますように。」

 
 その上で、私はこういう「バランス」の次に大事なことは何かと考えるんです。というのは正直なところ私にはやはり物足りなさも残るのでからなのですが、それはここで実現している「バランス」、アストンさんが「深い洞察力と理解を持って正確に」という「バランス」は、やっぱり「定型の目から見たバランス」になってるような気がすることが原因だと思います。

 もちろん定型の人間は定型の感じ方や物の見方から完全に自由になることなんてできませんから、定型の側から語ればそれが「定型の目から見たバランス」になることは、もう逃れられない運命です。聖人や神様になれるわけじゃないですし。そういうの、医者とか専門家とかでも同じでしょう。まあ医者とか専門家を聖人や神様と思う人はいないかもしれませんが (^ ^;)ゞ、でも現実にはなんかそういうふうな姿勢で書いたり診断したりすることが多いですよね。

 じゃあ、そういう無理難題を越えるにはどうすればいいか、ということなんですが、結局「自分は自分の視点でしか見られない」という現実を受け入れる事じゃないでしょうか。いや、だから「それしかできないからそれでいいんだ」と開き直るという意味ではありません。「自分にはそれしかできない」からこそ、「相手の視点を求める」必要があるという意味です。

 「あなたのこの行動、私が定型的に見たら、こう感じてしまうんだよね。」とアスペの人に言ってみる。アスペの人だって逆にどこまで行ってもアスペの見方を完全には逃れられませんから、「いや、アスペの私から言えばこういうことなんだけど。定型のあなたがどうしてそういう変な風に見るのかな?」と問い返す。

 どうしても視点がずれた者同士が、そのどちらかの視点を一方的に絶対正しいものとすることなく、ズレを前提にしてバランスを作っていくには、そんなやりとりが大事なんじゃないでしょうか。つまりこのブログの中で少しずつ作られつつあるような、そんなやりとりが。

 
 そんな願いを持っている私にとっては繭さんの次のコメントは結構(良い意味で)衝撃的でした。社会的にはなかなか肯定されない立場に立たされてしまっている少数派のアスペの方が、そこでアスペであることに卑下するのではなく、ここまで対等に自己を肯定しながら多数派と考え合う可能性がちゃんとあるんだと知って。

 「私はアスペルガーでも、人格障害でも、定型発達でも、中身そのものが変わることはありません。それをどう呼ぶか、どう説明したら、安心して歩み寄れるのか…ということなのかな、と思っています。勿論、治療可能な疾患であれば、私にも重要度が増すのですが、アスペルガーは工夫と改善が主ですし、私は自分の世界の視え方が好きなので、そこが「治療可能」としても、治すつもりはありません(笑) 私は私です。」

 お互いに、そういう自己肯定を前提にし、そしてそのことの結果として相手を肯定し、そういう人間同士としてのバランスができること、それが私の願いですね。そのためにも「私は私」であり、そして「私は私」でしかない、ということをどこまで受け止められるかが大事になる気がします。

 そういうバランスは、定型の人が一方的に語ることでも、アスペの人が一方的に語ることでも達成しきれない。もちろん「語る」と言うことそれ自体に定型とアスペの間に独特の難しさがあることを前提に、「語り合うバランス」を模索すること。私がこの本に(も)感じた「物足りなさ」はそこの部分に踏み込めていないことなんだと思います。

2011年6月13日 (月)

離婚もまたコミュニケーション

 このブログは「アスペルガーと定型のコミュニケーションを考える」ことがメインテーマで、これまでもずっとそういうことをやってきたわけですが、どうしても自分の中ですっきりしないことの一つが、「コミュニケーションを考える」ということが「離婚をすべきでない」とか、「離婚に至るのはコミュニケーションへの姿勢が不足しているからだ」とか、そういう見方につながってしまう心配があることでした。

 そんなこともあって折々に私自身、記事の中で「離婚という選択肢」を必要なものとして書いては来ましたけど、なんか言い訳的に付け足し的に書いている感じが残ってしまう。全体のトーンは「どう理解し合えるか」ということでしたし、その中でここに参加してくださるアスペルガーの方とはほんとに次々と新しい理解が生み出されていくし、そういう流れの中ではどうしても「離婚は敗北だ」みたいな、あるいは「人として未熟だ」みたいな、そんな受け止められ方がされてしまうのではないかと恐れ、そこがすごくいやだったんですね。かといって折角芽吹いてきている相互理解の可能性を止めることもまたおかしな事になりますし。

 もちろん(?)、「相手がアスペルガーという障がい者だから」離婚する、という考え方は私は今でもすごく嫌いです。それって、やっぱり相手の人を一人の人間として見ることを最初から放棄してしまっているし、ものすごく差別的だと感じるからです。

 みみさんが憤慨される「毒吐き」のような、一方的なアスペの配偶者非難については、joさんが書かれているように、たしかにその問題を自分の中に一人で抱え込み続けて、カサンドラ症候群みたいになって、もう生死を彷徨うような状態で、そこを越える為には「毒吐き」が大事な「必要悪」である場合は確実にあると思います。実際、私自身もほんとにぎりぎりの時には、親しい友人何人かに自分の視点だけでパートナーを結果として悪者のように語って「こういう悲惨な状態なんだ」とそれまで人に言えなかった思いを一挙にはき出し、そこで共感してもらうことでものすごく救われました。それがあったからこそその次のステップに進むことができたと思っています。

 でもいつまでもその「毒吐き」の段階でぐるぐる回っているだけだったり、ましてやその「毒吐き」によってあたかも自分たちが「唯一の正義の集団」になって「悪の集団アスペルガーをぶっつぶせ!」みたいな感じに展開してしまうとすれば、それは私にとって話は別です。みみさんが書かれているように、むしろその人たちの姿勢をこそ「悪」として問い直さないといけないと思う。(但し書きが多くてすみませんが、ただし、その人がその人の置かれた「権力関係」の中で、常に虐げられる立場に強制的に置かれているような場合は、その虐げられた関係を打ち壊すための、「弱者が自分の人間性を取り戻すための闘い」という性格が出てくることがあるので、そこは単純に「悪」とは思いませんけれど。これは立場を逆にしても同じ事が言えますね。むしろアスペルガーの人の方が社会全体としてはそういう虐げられる立場に立ちやすいわけすし)

 それでKSさんのまとめや、チロさんの書かれたことを読んで、その自分の中のもやもやがすごくすっきりしてきた感じがしています。やっぱり大事なことは、相手がアスペルガーである(または定型である)ということもその一部に含めて、その人の人間にひかれるところがあるかどうか、その人を必要と感じられるかどうか、そこなんだろうと思います。この「基準」は別に相手がアスペであろうが定型であろうが、他の「障がい」であろうが、「障がい」とは関係なく、定型同士の関係であろうが、どんなカップルにも言えることではないでしょうか。

 というところで今度は繭さんからのコメントが入りました。ちょうど今私が書こうかなと思っていた問題に関係していることでした。

 「試せることがあるうちはそれを端から行い、やり尽くしたら、考えて、それも出尽くしたら、後は無意識に任せて、問題から気持ちを離します。と言うより、自然に離れます。その頃には「出来ることはやった」という気持ちになっています。」

 なんか、私がぐちゃぐちゃ下手な言葉で書くより、よっぽどすっきり結論を書いてくださいました。

 上に「どんなカップルにも言えること」と書きましたけれど、もちろんアスペと定型の場合には、それに応じた特徴や、その関係の中で出やすい特有の問題も当然あるわけです。そこはみそくそ一緒で一色単に「同じ」とは言えません。で、それが何かというと、定型同士では無意識のうちに通じ合っているコミュニケーションの前提が、定型とアスペ同士では必ずしも共有されていないことが多いと言うことです。アスペ同士の場合そこがどこまで無意識のうちに通じ合うのかはまだ私にはよく分かりませんが、「自閉さんご夫妻」Rosamondeさんの書かれていることからいうと、アスペ同士でも無意識の前提がずれることが多いみたいですね。

 だから、もしカップルの中の葛藤に、アスペと定型のズレの問題が絡まっている可能性が感じられたら、定型同士のカップルとはちょっと違った面から「試せること」をいろいろやってみる必要はあると思えるのです。それが私がこのブログで掲げている「アスペルガーと定型のコミュニケーションを考える」ということなのでした。

 このブログのやりとりの中でもいろいろ見えてきているように、お互いに同じ物や同じ事態に出会っても、そもそもの受け止め方が全然ずれている場合もあり、またそれをどう表現するか、どう相手に伝えるか伝えないか、そこで相手に何を期待しているか、といった「コミュニケーションのスタイル」とか「無意識の前提」みたいな部分にたくさんのズレがあるわけで、そのことに気がつけば、ある程度の「翻訳」をして、もう一度相手とのやりとりについて考え直してみる可能性が出てくる。誤解があれば誤解を解く、譲り合える部分があれば譲り合う。そういったことを「端から行い、やり尽くしたら、考えて、それでも出尽くしたら……「できることはやった」という気持ちになる」ところまでは頑張ってみる。

 その結果、これは「誤解」に基づくものではなく、やっぱり基本的な考え方や生き方に共感できないんだ、とか、魅力を感じられないんだとか、むしろ苦痛を感じてしまうんだとか、そういうことであれば、別に一緒に居続ける理由は無いわけですね。子どもの問題など、直接のカップル間関係以外の問題が絡んでいれば、別れる時期などには配慮があるのは当然でしょうけれど、そこまでのことでしょう。それよりもっといい人生をお互いに探した方がよほど健康的です。

 逆に「誤解」の部分を「翻訳」などで解きほぐし、可能な妥協はお互いに妥協して、その上で相手が自分にとってやはり大事な人と思えれば、関係を継続させればいいわけですよね。

 だから、これ、どちらもお互いのコミュニケーションを改めて考え直した結果だと思うんです。大事なことは無意識のうちにお互いが抱えていたコミュニケーションの理解についてのズレに気づかないまま、結果として自分だけの見方で相手の非を一方的に「断罪」し、決めつけて、そして結論を出してしまうということは可能な限り避けることなのだと思います。ただし個人の力だけでそれをやることはほとんど不可能に近いから(少なくとも私には逆立ちしても無理)、こうやって色んな方の見方を交流しながら、特に大事なことは定型当事者とアスペ当事者の両方の方の意見を聞きながら、そのあたりを整理しつつ、自分たち自身のコミュニケーションとか関係を見つめ直し、その上で結論を導き出すことだと思います。
  

 

2011年6月10日 (金)

「見切り」をどこに置くのか?

 KSさんがコメントの最後の方ででこう書かれています。

 「私は、いまのところ離婚をなんとか処理するので手一杯で、「その先」ましてや「再婚の可能性」なんて考えられないですが、綾屋さんも「これは頑張ってもうまく行かない」関係を放棄されて、「頑張ればうまく行く」関係を手に入れられた訳で、自分の「見切り」をどこに置くのか・・・というのは、大事な問題ですね。」

 以前、joさんも同じような問題を書かれていたと思うのですが、この「見切り」をどこに置くのか、あるいはどこまでいけば「見切れる」のか、というのは、実際ほんとに難しいことだと思います。
 
 もしかすると、この見切りが「普通」にできる人はアスペと定型のズレの問題についてもそれほど傷つく前に見切ってしまえるのかもしれない。そしてそれがへたくそで、ずるずるとなってしまったり、変に(?)しつこく(?)こだわって何時までも見きれない人が、結局にっちもさっちも行かないところまで煮詰まってしまって、鬱になったり、命に関わるところまで行くという可能性も考えられないではないですよね。そこまで行ってようやく「見切り」を本気で考えられるようになるとか。

 もしそうなら、こういうブログに来てくださる方は、そのあたりが「へたくそ」な人が多いのかもしれないし、私なんかその最たるものかもしれません。いや、少なくとも私自身についてはそうである可能性が結構ありそうな気がします。しつこいというか、あきらめが悪いというか、見通しが悪いというか何というか……。「離婚」という言葉がかなり現実味を帯びて私の頭の中に彷徨いだしたのはやっぱり鬱になってからですね。

 ただ、仮に離婚と言うことになるにしても、その時期を考えると、子どもへの影響の問題がどうしても引っかかってきます。離婚した方が子どもにプラスになるともし思えていたら、比較的早い時期にそうしていた可能性もあります。でもそこがそう思えなかったことが「見切れなかった」原因の一つでした。

 これまでみなさんのコメントを読みながらいろいろ考えながら書いてきたことの中に、お互いのコミュニケーションが劇的に変化するひとつの理由は「アスペルガーと定型のズレ」という理解の共有ができることのようだ、ということがあります。そこが難しいと、どうしても一方が問題を抱え続ける形になってしまい(あるいは、お互いに自分だけで問題を抱え続ける形になってしまい)、「ズレ」を前提に一緒に調整する、という過程に入ることができないからです。だからどうしても「相手の理解を期待せずに一人で頑張り続ける」という形にならざるを得なくなってしまう。

 何がその共有の可能性を左右するのか、もしそれがどうしても困難な状況にある場合、じゃあどうしたらいいのか、ということは引き続き考えていかなければならない重要な問題だと感じています。当然その中には「解決法」としての「離婚」という選択肢も必要なものとして含まれるでしょう。

 joさんのように子どものことを考えてその選択肢は取らず、なんとか調整の方法を模索され続ける場合もあるし、みみさんのようにご自分についてはその選択肢を考えずにむしろ相手に学ぶような感じでいこうとされる方もあるし、チロさんのように子どものために「離婚」を選択しようとされている方もあるし、Alonaさんのように、「離婚」の時期を予め子どもの問題が整理された後という形で留保した上で、今は相手に合わせる形にする、という考え方もある。ほんとに様々です。  

 逆に結婚した後に「アスペルガーと定型のズレ」という理解が共有された場合は「離婚」という選択肢がなくなるのか、というと、それもまた違うように思います。カレンさんご夫妻のように、「アスペルガー」という理解がすぐに「福音」のような前向きの意味を持った場合もあるし、繭さんご夫妻のようにそれ以前からお互いに妥協無くぶつかり続けても、そのこと自体つながりを保つための前向きな相互理解に大事なことであり続け、「アスペルガーと定型」という理解は、その相互理解にまた新しい意味を加えるような積極的なものになっているように私には感じられる場合もあります。

 けれども私の場合は、その理解の共有は「じゃあどうしようか」と改めて考えるための出発点というか、仕切り直しのポイントというか、そういう感じでした。「どうしようか」の中には当然「離婚」も含まれるわけです。その直前にはもう「離婚」(または人生の終焉)しかない、あとはその時期をどう考えるかだけだ、というところまで煮詰まってしまっていたので、それに比べると「離婚も含まれる」というふうに選択肢が拡がったとは言えるかも知れませんが、でも決して「福音」というような積極的なものではなかったですね。

 ……と、「離婚」を巡るいくつかのカップルのたどってきた(たどりつつある)道筋を、ごく表面的な理解ですけれども見てみた上で、改めて「見切る」ってなんなんだろうと考えてみるとどうなるんでしょう?(あ、ここで「見切る」ということは別に「離婚を決意する」という意味だけではなくて、「改めて一緒にやっていこうと思う」ということも含みます)

 うーん、なんか複雑だな。少なくとも今の段階で私にはまだよく分かりません。「離婚を決意」とか「一緒にやっていくことを決意」とか、そうなったときには見切ったことになるんでしょうが、それは結果の話ですしね。どうしたら「見切り」ができるのか、何が「見切り」を生むのか、そういうことは私にはわからないままです。
 


 

2011年6月 7日 (火)

細い糸

カレンさんの娘さんについての話がすごく印象的でした。

ひとつには、カナータイプの自閉の子の場合はほんとにアイコンタクトが難しいですが、私の印象ではそれは「避けている」というよりも「興味ない」という感じが強いように思います。「相手の目を見ることに意味を感じていない」という感じかな。でも私のパートナーもそうですし、アスペルガーの人は私の知る範囲ではアイコンタクトはあるんですよね。そこでとくに不自然さを感じないし、もしそれが少ない場合には「視線を避けている」とか、「性格が内気だ」とか、そんなふうに感じられるようなレベルでの少なさになります。

定型でもアイコンタクトをかなり避ける人がいるし、そういう意味でまあ個性の範囲内みたいな印象なんですね。さらに言えば日本ではアイコンタクトを基本的には避ける傾向が強いから、欧米の人なんかとは全然違いますし、だからと言って日本人はみんな自閉だという話にはならない。そのレベルで気にならない程度にアイコンタクトが少ないことはあるかもしれない、と言う程度で、ほとんど気にもなりませんでした。

アイコンタクトを使ったコミュニケーションができず、言葉の獲得に大きな問題が出てくるカナータイプの子と違って、娘さんは普通(以上?)にお話しをできるようになったのでしょうし、そういう意味ではアイコンタクトが普通にできても、そのことは私は全然不思議はないと思えるのですが、実際にそうだったんですね。

もうひとつすごく印象的なのは、やっぱり二日間のことで一時的にでもがらっと変わってしまったと言うことでした。私とパートナーとの関係でも、定型同士なら乗り越えていくように思えるちょっとしたコミュニケーションの問題で、それ以降それまで開かれていた気持ちがさっと閉じてしまうような、そんな印象を持ったことが何度かあるからです。それまでは「自然」な感じの気持ちの交流ができていた部分が、彼女からの働きかけをこちらが一度受け止め方に失敗するだけですっと失われてしまう、そんな感じだったんです。

定型同士の関係なら、そこで「なんで受け止めてくれないんだ」ということについての葛藤がその後も割に尾を引きながら、お互いに調整していくんだと思うんですが、そうならずにすっとそこで身を引かれてしまう感じ。それで「あれ?大したことではなかったのかな?」とそのときは思うんだけど、その後だいぶ経って気がつくとその部分で心がもう永遠に閉ざされてしまい、あたかも最初から存在しなかったような感じになっている。

カレンさんと娘さんの場合はその後の数時間の関わりでまたもとに戻ったと言うことですが、私の場合はその後10年単位でその状態が続き、そこがちょっと戻ってきたのはほんとにごく最近のこと、私の方も考え方や接し方が大きく変わって、関係を作り直してきて、この数ヶ月以内という感じなんですね。それも少しずつですけれど。

なんというか、印象的に書くと、アスペの人は人とつながろうとする気持ちのものすごく繊細で細い糸を持っていて、それがわりと自然なつながりを生み出すことがあるんだけど、それはあまりに繊細で細いために、ほんの少し強く引いたり、乱暴に扱ってしまうと、すぐに切れてしまい、もうなかなかつながり直すことなくそのままいってしまう、そんな感じがどこかするんですね。一旦切れた糸はその糸口を探すこと自体がものすごく難しい感じ。

もちろん定型的な感覚からすれば、アスペルガーの人の発言がものすごく乱暴に思え、傷つくことも多いということも事実です。とくにたとえば家庭内での「権力関係」がそこにあって、一般社会の状況とは反対に定型の人の方が弱い立場に置かれたりしている場合には、そこで一方的に近い形で苦しみ続けることもあるんだと思います。みみさんもそのあたりに触れられているのかなあと想像しました。そういうことの結果、定型の側からつながりを断たざるを得なくなる状況に追い込まれることがあるのも当然だろうと思います。

と同時に、アスペルガーの人が、もちろんすべての人なのかどうかは全然分かりませんが、少なくとも何人かの例ではものすごい繊細さを持って生きているということが、最近なんだかリアルに感じられつつあります。たとえ繊細さが発揮される部分が定型と違っていたとしても、だからといって繊細さを持たないなどと言うことは言えません。ただ定型とはずれた部分があると言うだけのことでしょう。

そう思ってたとえば繭さんの写真ブログなどを見て、その繊細な感覚に最初は驚くばかりでしたけれど、今では驚くよりもむしろ当然のことのように感じられるんですね。そう感じるようになったのには繭さんがご自分の感覚のものすごい敏感さについて説明してくださったことも影響していると思います。ある意味定型的に「鈍感」になれない部分で定型的な世界にうまく適応できずにその「過剰な刺激」に振り回され、苦しまれているところがある。そんな感じがします。

そしてもうひとつ、たしかに繊細さの在り方はずれているかも知れないけれど、たとえば繭さんの写真に定型の人間も驚き、感動したり癒されたりするということも大事なことかなと思えます。もちろん実際には感動している部分に微妙な違いがあったりする可能性はいくらでもあるんだけれど、でも「同じ写真を見てそれぞれ感動している」ということは間違いないですよね。

2011年6月 5日 (日)

「見え方」「感じ方」のズレについて

 繭さんがコメントでご自分の「症状」ということで、こんなことを書かれています。

「服のラベルや素材、照明の色や明るさ、テレビやPCのディスプレイは真っ先に明るさダウン、商業施設ではたまに他の人の聞こえない音が大音量で聞こえるし(耳をふさいでダッシュ)、寝る前の時間の過ごし方に過敏だし(うまく行かないといつまでも眠れない)、スーパーマーケットでは目が泳ぐしフリーズするし、嗅覚が過敏なときと鈍感なときがあって困るし、見えなくなるし、聞こえなくなるし、目に入りすぎたり、聞こえすぎたり、5分と1時間の違いがわからないときもざらだし、夫が泊まりがけの出張から帰ってくると微妙に怯えて逃げるし(最短一泊)、記憶も混乱しがちで…あぁ、手のかかる体質だ…としみじみ思いました(笑)」

 どれも定型の人間からは自分にはない(あるいはまれにしかない)「症状」と感じられることなんだと思いますが、もしかりに世の中の人の大多数が繭さんと同じような感覚や記憶を持っていたとしたら、たとえば服の素材は違うものにするとか、ディスプレイの明るさは暗くするとか、スーパーの物の並べ方も別の整理のされ方になるとか、世の中全体がそれにあったように作られるはずですから、そういう世界では「症状」ではなくなる筈ですよね。

 ただ、それが「症状」として言われるのは、今までの人間の進化の歴史の中で、定型に特徴的な感覚とか記憶の仕方とか、そういうものがなんかの理由で人間の集団に「有利」なところがあって、それが多数派をしめたからなんでしょう。その証拠に他の動物は人間とはまた全然違う感覚を持っているし行動のしかたも全然違います。それぞれの動物の生きている環境の中で、その感じ方ややり方が何か「有利」なものになっていたんだと思います。

 それと、繭さんが例に挙げられた「症状」にしても、同じアスペの人の中でも程度も種類もきっとかなり様々なんだろうと思うので、その意味でも「多数派」になりにくい部分があるんでしょうね。

 「多数派の目から見たアスペの定義」ではなく、「アスペの人自身が感じているアスペの世界」について、ここのところ紹介をしてきた綾屋さんの文章や、Rosamonde姐さんの本を読んでいてとても印象的だったことが、多数派からはまず問題にされやすい「他の人とのコミュニケーション」の問題の前に、回りの状況を感じ取るいろんな感覚の段階で定型とはズレる独特の世界が作られているところが多いのかなあと言う、そのことでした。例を挙げてもう少し説明するとこういう事です。

 たとえば、視覚障がいの知り合いの話が面白かったんだけど、その人は「見る」という言葉を普通の会話やメールのやりとりなどですごく自然に、結構頻繁に使うんですよね。たとえば「昨日テレビで見たんだけど」とか、「山に登って海を見たんだけど」とか。注意していいなければ、こちらは全然違和感なく会話を続けたりします。ところが、ふと気づくと、その人は目が見えないわけですから、常識的には「見る」ことはないはずなんです。別に「心の目」で超能力のように見ているわけでもないし。

 そのことに気がついて、いろいろ聞いてみたんだけど、細かく聞いてみると、もちろん「目で見る」世界はその友だちには無い訳なので、「○○を見る」と言っても、その意味はやっぱりずれていることが分かります。おおざっぱに「○○に注意を向ける」みたいなこと(音を聞いたり、それについて他の人と話題にして説明してもらったり)は共通しているんだけど、そこで体験している内容はやっぱり違うわけだから、そういうところではやっぱりお互いのコミュニケーションがずれていきます。

 そんなふうに、「感覚」という段階でもしお互いにズレがあって、何を心地よいと感じるか、不快と感じるか、何に注意を向けやすいか、何を見過ごしやすいか、といったことに違いがあるとすれば、コミュニケーションの前提になっている「回りの世界の感じ取り方や理解の仕方」に最初からズレがあるのだから、お互いのやりとりが噛み合わなくなってしまうことが多くなるのは、ある意味で当然のことかなと思うんですね。

 もうひとつ別の例を書いてみます。

 昔学生時代に聞いた話だけど、モンシロチョウは雄も雌も白い羽に黒い紋がついていて、大きさも同じで、見た目に区別ができないんだけど、モンシロチョウは随分離れたところから雄と雌を見分けることができて、だから雄は雌をちゃんと求め、間違って雄を追いかけたりはしないんだそうです。それがなぜか不思議だったんだけど、実は紫外線をあててみると、雄と雌では違う模様だったんですって。つまりモンシロチョウは人間が見えない紫外線のレベルでものを見ていて、それをコミュニケーションに使っていることになります。だから人間との間ではそのコミュニケーションはうまく行かない(って、別に人間がモンシロチョウに求愛する訳じゃないけど (^ ^;)ゞ……、その行動の原因とか意味がよく分からないということですね)。

 同じように、回りの世界の感じ方にある程度の違いがあると、お互いに見えている世界が違うわけですから、相手の言っていることがうまく理解できなくなったりして、コミュニケーションがうまく行かなくなっても当然なわけです。ところがそうであるにもかかわらず、僕等はふつう「相手の人と同じ世界を見ている」ということを疑わないので、「同じ世界を見ているのになぜ話が通じないんだ!」となって、混乱してしまうことになります。
 
 もちろん人間の感覚の世界はモンシロチョウよりものすごく複雑にできていて、物の見方にも他人の影響が入ってくるのは普通だし(たとえばあるものを大きいと感じるか小さいと感じるか、魅力的とおもうかどうかなどにも他の人の影響が入ってきますよね。流行とか「みんなが格好いいと言っている」と自分もなんとなくそれがすてきに思えてきたり、で流行が去ると何も思わなくなったり)、モンシロチョウの話をそのまま全部人間の理解に持ってくると無理が出てくるけど、でもまあこういう話でいえば、かなりそのたとえ話で言えるところがあると思うんです。

 それで、そういうものすごく基本的なところで定型とアスペの間にズレがあったとして、アスペの人は子どもの頃から、それこそ言葉を学ぶころから、そういうズレを抱えながら周囲の定型の人とコミュニケーションをすることになるわけで、そうすると、自分の感じ方にはぴったり当てはまらないことや、全然矛盾したことを前提に周囲のコミュニケーションが進んだりする。そのよくわからないコミュニケーションの仕方をアスペの人は学ばなければならないと言うことになります。
 
 そういう中で、「あなたの見方はおかしい」とか「感じ方が変だ」とみんなから言われ続ければ、自分の素朴な素直な感覚を信頼できなくなったとしても、ある意味で当たり前ですよね。で、何を信じて相手とコミュニケーションをすればいいのか分からなくなるから、「とりあえず相手に合わせる」というようなやりかたになるか、あるいはそれでも自分の感じ方に自信を失わずに済んでいる場合には、強引に自分の感じ方や理解の仕方を相手に主張して押し通す(この場合は定型から見れば「ジャイアン」のように見えることもありそう)、と言った形でズレを調整するしかなくなる。

 ということで、ここまで書いてきて、自分がなにを考えたかったのか、何を言いたかったのかが少し整理されてきたように思うんですが、つまり「アスペと定型のコミュニケーション」を考えるときに、たとえば「言葉の使い方」とか、「あいさつの仕方」とか、そういうテクニックを学ぶ、みたいなことでは全然解決しない問題が一番根っこにあるんだと思えるわけです。「三つ組の障がい」というような定型から見た定義の仕方だけをやっているのでは、その大事な部分に迫ることがむつかしくなると思えます。

 なんて言ったらいいのか、「世界の見え方のズレ」みたいな、すごく基本的な感じ方の違い、とういところまでお互いに受け入れた上で、どうやってその違いを調整したり、あるいは妥協したり、逆に違いをうまく活かした協力関係を作ったり、もしくはあまり無理せずに距離を取ったり、といったいろいろな対応を模索していく必要がある。……いや、ちょっとパートナーとまたズレを感じてショックを受けることがあって、改めてそのことを思いました。

 もちろん、定型同士のカップルだって、それぞれ個性が違うし、感性も違うわけだから、似たような問題は常に起こるだろうし、同じように違いは違いとして認めながら調整する必要もあるでしょうが、アスペと定型のカップルの場合はやはり定型同士とは一段違う難しさ、努力が必要なんだろうと思います。

定型の共感性のなさ?

 パートナーと散歩しながら「共感」について話してたんですが、ふと気づいたことがあって、なんか面白いなあと思ったんです。何かというと、定型は共感性が高く、アスペは共感性が低い、というイメージがあると思うんですけれど、たしかにアスペの人は定型の感情が理解しにくいところがいろいろあります。当然共感もしにくい。でもひっくり返して考えてみると、私もアスペの人の感情についてはなかなか「分かった」という感じにならず、つまり「共感しにくい」んですね。

 だとすると、その点だけで考えれば、私のようにアスペの人は理解しにくいと感じている定型の人間も、アスペの人から見れば共感性の低い人(全然自分のことを理解してくれない人)ということになるわけだなあと思ったわけです。

 で、パートナーに聞いてみたんですが、アスペの人の話を読んだりして、そこに書かれている悩みとか、苦労していることとかを見れば、「ああ、この人がそう感じるのは分かる」とか「この人も同じように苦労したり辛い思いをしているんだろうなあ」と思えたりとうことはやっぱりあると言います。それもまた「共感」ですよね。

 そうすると、アスペの人は共感性が低く、定型は共感性が高い、ということの意味は、実際には定型的なものの感じ方についての共感性が低い、という意味なんだという部分がかなり多そうだと言うことになります。私自身がそうであったし、今も多分にそうであるように、当然定型の側は自分たちのものの感じ方を当然のことと思いこんでいますから、共感とはそのような定型的感じ方を共有できる力のことであり、それ以外の共感能力というのはイメージすることがむつかしいことになります。

 で、多くの場合少数派のアスペの人もまた、共感というのは定型的な感じ方を理解することだという多数派の枠組みの中で孤立して成長していきますし、自分たちのものの感じ方や感情の表し方については「それはおかしい」というふうに否定され続けて育つ人が多いので、「自分は共感性が低い」というふうに思うようになっていく。

 これも散歩しながら聞いたことですが、実際パートナーの場合も子どもの頃からそういうことの連続だったし、また私との関係でも「どうしてそういうふうに理解するの?そうじゃないんだってば」とか、言われ続けてきて、つまりは「自分の感じ方」を否定され続ける結果、最後には自分自身でも否定するしかないような状態に置かれるわけです。その結果どうなるかというと、自分の感じ方には一切自信が無くなってしまう。あるいは「自分の感じ方は間違っている」と思うようになってしまう。

 その結果、自分自身が実際は素朴に感じたことを「そんなことは感じていない」という風に自分自身が無視するようになったり、さらにはそうやって自分が自分の感情を否定している、ということすら意識できなくなったりしてしまうようになる。そうじゃないと生きていけないような世界だったわけです。

 私のパートナーの場合は、「自分が自分の感情を否定している」ということを意識できるようになったのはほんとにこの1年くらいのことだそうです。アスペルガーという理解が共有されるようになって、お互いを手探りで理解し直し始めてからようやく、そうなったということですね。

 そんなふうに考えてくると、アスペルガーの人が単に「ちょっと変わった人」で済まなくて、「思いやりのない人」とか、「すぐに自分を被害者のように見なす」とか、「閉じこもって攻撃的な感じで接してくる」とか、コミュニケーションに対して「苦手」を通り越して「破壊的」に見えるような振る舞いをすることがあるのは、生まれながらにそうだと言うよりも、自分を理解されず、否定され続ける環境の中で、自分を守るために身につけた振る舞いである可能性が結構あるような気がします。少なくとも私のパートナーについては、そういう風にみることで私にも「分かる」感じがする部分が多いです。

 そう考えれば、たとえばカレンさんの娘さんのように、親からも十分に受容されて育った人の場合は、周囲からもとても受け入れられやすい人柄を身につけていくということも無理なく理解することができます。また同じアスペの人でもかなり自信を持って生きていく人とそうでないひとの差が大きそうだと言うことも、ある意味で当然のことと思えるようになります。アスペの狸穴猫さんが常に訴え続けられている「二次障害をなくせ」ということも、つまりはそういうことにつながる問題なのかなと思いました。

 そうすると、なんか逆説的ですが、定型の大人の広い意味での共感性(つまり、定型的な感じ方しか認めないような限定された共感性ではないもの)や柔軟性の有無が、アスペルガーである子どもの他人との関係の作り方や自己評価に、相当大きな影響を与えてしまうという可能性が感じられてきます。

 もちろん、たとえば子どもが熱でしんどいときに、そばに寄り添っていてあげるような、そういう意味での定型的な「共感性」についてはアスペルガーの人は少なくて、その結果定型の側が苦しい思いをする、ということはあるわけで、そういう共感性のズレが結果として深刻な問題を生んでしまったりすることがあるわけですから、単にどっちもどっちという言い方ですませることはできないわけですが、でもその深刻な問題を何とかするためにも、「ある意味ではどっちっもどっちという面がある」ということを改めて考えていく必要があると思いました。

2011年6月 4日 (土)

「自分モード」のコーディネート

 昨日はRosamonde姐さんの書かれている「自分モード」の大切さについて、少し書いてみましたが、同時に本の中で繰り返し書かれていることで、ちょっとハッとしたことは、以前よりもそういう「自分モード」でできる仕事が減ってきたという指摘です。

 Rosamondeさんのダンナさんは小学生時代から入れ込んできたパソコンのプログラミングの能力を活かして、IT関係のお仕事をされているようですし、Rossamondeさんご自身は、人に合わせて話すのは苦手だけど、自分の関心のあることについてならひとりでいくらでも話し続けられる、という得意なところを活かして講演活動を続けていらっしゃるとか、あるいはAnさんがコメントで「無理に周りに合わせず、ASに(というか自分に)合った仕事をするのが一番かと思います。」と書かれ、フリーランスで在宅のデザイナーをされていることとか、それぞれに「自分モード」を活かして道を見つけていらっしゃるわけです。

 そういう場所がある一方で、会社組織の中ではひとつのことをしっかりこなすことではなく、多分人件費削減圧力の影響が大きいのだと思いますが、ひとりがいくつもの役割をこなすような働き方が強く求められるようになってきて、それが今までは「ちょっと変わった人」と見られながらもちゃんと仕事をこなせてきた人を浮き上がらせてしまい、不適応状態にしてしまうことが多くなったというわけです。

 IT関係など、新たに生み出されてきた適職がある一方、これまでこなせてきた職種が適応しにくいものに変わってきてしまっている。増えた分と減った分のどちらが大きいのか、私にははっきりわかりません。ただ増えた方はどうもある程度の「才能」が要求される職種であるような印象は受けます。もしそうなら、大多数を占めるだろう一般的な職場の場合、「ひとつのことをしっかりこなす」という働き方が難しくなる分、Rosamondeさんの書かれているように、やはり全体としてはアスペルガーの人に不利になっているのかも知れません。

 会社の組織自体も、以前のように部署毎に縦割りで固定されているよりも、プロジェクト毎にいろんなところからその都度人材を集めてチームを作って横断的にやるような形が増えていますから、ここでもいわゆる「コミュニケーション力」みたいなものが重視される結果になっているでしょう。

 うーん、そうすると、まあそうはいってもチームの中にはいろんな特性を持った人が集まるわけだし、それぞれの得意をうまく組み合わせてそれぞれの力を最大限に発揮できる環境を作ることが重要ですよね。当然その特性の中には「一つのことをしっかりこなす」みたいな力も要求されるはずだから、大事なことはそういう多様な個性をうまく組み合わせるコーディネーターがいることなのかな。そういうコーディネーターはそれじたいがひとつの才能だし、誰でもできるわけではないから、それが得意なタイプの人がやればいい、と考えれば、新しい働き方の中でも、うまくいけばアスペルガーの人も自分の場所を見つけられるのかも知れないですね。

 ああ、そのへん、Rosamondeさんも自分ができることとできないことをはっきりさせることの大事さや、それを相手に伝えることの大事さを何度も書かれていました。それはアスペルガーの人にとって特に必要なこととして書かれていましたけれど、でも考えてみれば、定型であろうとアスペであろうと、どちらにも必要なことですよね。

 今は「なんでもできる」マルチタレントが求められるような雰囲気があるかも知れないけど、それよりも多様な個性を認め合い、伸ばし合ってそれをうまくコーディネートする方が結果として成果も大きいんじゃないだろうか。みんなを一色に染めて強引に引っ張っていくリーダーと言うより、カラフルな人材を上手に組み合わせていくコーディネーターですね。

 そのためにもお互いの個性とか、それぞれの人の「自分モード」を受け止めあえる雰囲気が大事なんだろうなあ。

2011年6月 3日 (金)

「世間モード」と「自分モード」

ここでも常連コメンテーターのお一人、Rosamonde姐さんが最近出版された「これって、大人の発達障害? 人付き合い、家事がうまくいかない理由」(佐々木加奈 PHP研究所)を読みました。

 ご夫婦で発達障がいと診断され、またご自身は他にも身体的な病気を抱えながら、発達障がい問題に理解を求めるための講演やいろいろな活動に頑張っていらっしゃるRosamondeさんが、ご自分の経験をベースに、いろんな関連する本も参考にしながら、ほんとに具体的な生活上のひとつひとつの工夫にわたって、わかりやすく書かれています。

 いろんなことを思いながら読みましたが、一番感じたことのひとつは、「ああ、生きるってこういうことなのかなあ」という、そんなことでした。部屋の片付け方の工夫、洗濯の仕方の工夫、買い物の工夫、おかずの盛りつけの工夫、服の買い方の工夫、ストレスがたまったときの工夫……。書かれていることには定型の人の多くは、何気なくこなしてしまっているようなこともあるし、「あ、これ、自分にも使えるな」と思えるものもあります。

 逆にいうと「これは定型の人間には全然関係ないことだな」と思えるものは、あんまりないんですね。毎回意識しながらやっているかどうかの違いはあるにしても、やっていること(やろうとしていること)はあんまり変わらないし、ただそのやり方が少し違うかも知れない、という程度の感じです。言ってみれば、「生きる上で必要なことを、毎日ひとつひとつかみしめてやられている」ということなのかもしれません。

 熊谷さんの本を読んだときの感想にもつながることですが、そこではやっぱり「私のからだ」や「私の生活」、「私の気持ち」が一番の出発点だし、そこをひとつひとつ丁寧にみつめ、ケアし、工夫し、そして他の人とのつながりを考え、また行動されていく。

 定型の人間は、回りの人たちとの関係調整をものすごく重視しながら生きていて、そこが定型とアスペの違いだ、と見られ、それが「できない(苦手な)」ことがアスペルガーの「障がい」なんだ、と考えられることも多いと思うのですが、たとえば定型の自分自身のことを考えてみると、ある意味では「周りの人たちとの関係」を「重視しすぎる」ことで、逆に一番の原点であるはずの「自分」をちゃんと見つめることが「できない(苦手な)」状態になっているのかも知れません。

 Rosamonde姐さんがこんなことを書かれています。

 「パニックになったときは、一人だけの落ち着ける時間をもつことが必要です。発達障害を持つ人で、自分の内側に拡がっている世界と、自分の外側に拡がっている世界が一致しないという人によく出会います。自分の世界ではのんびり過ごしていても、一歩外に出たら、世間のスピードや感覚に自分を合わせていかなければなりません。この切り替えがなかなかできず、人よりも苦労します。世間のスピードに慣れることは、発達障害の人にとっては、大変難しいことなのです。
 ……たとえ「自分モード」から「世間モード」に切り換えることができたとしても、「世間モード」の時間でいられる時間は限られています。ウルトラマンみたいに三分間しかいられないというわけではありませんが、その人によって時間が決まっていて、その時間を過ぎると、大きなストレスになります。
 もちろん、「世間モード」に切り換えて、社会生活を送ることは必要ですが、その時間を支えているのは「自分モード」の時間なのです。「自分モード」の時間をゆっくり一人だけの時間として楽しむことが、発達障害の大人にとっては、何よりも心の安定につながります。」

 「世間モード」の自分(時間)を支えているのは、「自分モード」なんだ、ということ。そう言われてみればあまりに当たり前に思えることが、どうして私には新鮮な感覚で迫ってくるのか。ほんとに面白いことだと思います。そして改めて繭さんやカレンさんのコメントなどを思い返してみると、ああ、そういうことなんだなあと思えたりする。

 これは熊谷さんの本のどこかに書いてあったことかもしれませんが(……もう忘れてる (^ ^;)ゞ)、別に「自分モード」が不可欠なのは、アスペの人に限ったことではなくて、地球上のほぼすべての人がそうなんですよね。つまり、「眠る」といことが不可欠だという意味で。夢を見るのも自分勝手な自分の世界を作っているわけですから、その中で「世間モード」で困っちゃったり悩んじゃったり、ストレスをためたりしていることをなんとかしようとしている。

 ごく稀に全く眠ることができないという「障がい」を抱えた人を除き、ほぼすべての人が眠るときは完全に「自分モード」なわけですし、そして眠らないと生きていけないわけです。(眠らせない実験というのがありましたが、参加した人は結局精神状態がおかしくなって、最後まで実験が続けられなかったとうこともあったと思います)

 ただ、定型とアスペの間では、この「自分モード」の保ち方に違いがあって、お互いに相手の感覚が分かりにくく、うまくバランスを取ることが難しいということはあるんでしょうね。joさんが書かれているように、そもそもそういう安定した「自分」というものが相手の人の中に見いだしづらい、ということもあるかもしれません。それは「ない」ということなのか「あるにはあるけれど、とても見いだしづらいような質の違いがある」ということなのかは私には分かりませんけれど。

 ああ、それと、本の中ではRosamondeさんのダンナさんも活躍されています。こちらでは「ダイ兄さん」と呼ばれている方でしたよね?いつものコメントの雰囲気とはまた違うRosamondeさんの文章も拝見して新鮮でしたが、今までRosamondeさんを通してしか知らなかったダイ兄さんについても「へえ、こんな見方をされて、こんな文章を書かれる方なんだ」、と、これもなんかとても新鮮でした。

2011年6月 1日 (水)

「リハビリの夜」:当事者だからこそ

 前に「つながりの作法」でご紹介した熊谷晋一郎さんのその前の著書「リハビリの夜」(医学書院)を読みました。これがまたなんとも面白くて、刺激に満ちた言葉があちこちに満載です。書き出しの方に、こんな言葉があります。車いすを乗り換えようとして失敗して転び、怪我をしてしまうエピソードに続く文章です。

 「なぜ私の体は転倒しやすいのだろうか。……『なぜって、そりゃ君の身体は脳性マヒという障害を持っていて、不自由だからじゃないの?』……でも、私はそういう表面的な説明を求めているのではない。『脳性マヒ』だとか『障害』という言葉を使った説明は、なんだかわかったような気にさせる力を持っているが、体験としての内実が伝わっているわけではない。もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。」

 なんか、若いけどお医者さんでもある人なので、いろいろ脳の話とかで説明するところもあるんだけど、基本的にはそれも含めてあくまで「当事者としての自分の体験」からず~っと考えてきてることを書いてくれています。しかも「体が不自由」という「少数派」なので、常に親からも学校の先生からも友だちからもそういう「不自由な人」という目で見られ、多数派の動きを「正しい目標」として苛酷なリハビリの日々が18年間も続くんですね。本の帯には本人の字なのか、味のある手書き文字で「痛いのは困る」と書いてあったりします。その痛み(と繰り返される敗北の体験がもたらした奇妙な快感)の経験こそが彼の出発点です。

 でもその難行苦行があっても、結局座れるようになるわけでも、立ち上がれるようになるわけでもなく、「正しい目標」を目指して動こうとすれば却って実際の自分の動きとの違いにあせり、緊張が高まってさらに動けなくなる、というような状態からも全然逃れられません。その熊谷さんが自分の体を改めて取り戻したのは、大学に入ってひとり暮らしを始めた18歳の時です。それまですべての面倒を見てくれていた親が家に帰り、アパートの床にひとり転がった熊谷さんが初めて自分の体の動きだけを使って、自分の意志ですべてを行わなければならない状態になります。

 そしてしばらく転がっていて、最初に熊谷さんを突き動かしたのがトイレに行きたい、という思いなんですね。それから彼は時間をかけてずりずりとトイレに這ってたどりつき、便器を見て、さあどうやってこの便器の上にのぼって腰掛けたらいいのかと考える。今まで手伝ってもらってトイレをしていたときには気づかなかったような、便器の形とか隙間の様子とか、いろんなことが目に見えてくる。壁に手を突っ張ってずり上がって座ろうとして何度か失敗し、そして結局は力尽きてお漏らしをしてしまいます。

 このあと、トイレに補助具を工夫するなどして、アパートのトイレは熊谷さんの動き、熊谷さんの体にあった形で、熊谷さんにとって自由な世界になっていきます。そうやって回りの世界とのつながりを自分の体を出発点として作り直していくんですね。そういう自分自身から出発したつながり直しを作り続けることで、研修医になったときには今度は回りの医療スタッフとのつながり直しによって、それまでひとりでは無理だった注射(採血)などもこなしていくことになります。それはもちろん「多数派のやりかた」ではなく、自分の体の動きかたと、回りのスタッフの動きとの共同作業でできていく、独特の形なんですね。挿絵とか写真とかで説明されていたりして面白いです。

 失禁と言えば最後の方に書いてあったこんなのもすごく面白くて。

 「以前は便意との密室的な関係(注:迫ってくる便意を誤魔化そうと身体と相談する関係)の中で、いつも相手(便意)の顔色をうかがって怯えていたのだが、その煮詰まった密室に失禁介助者という社会の風が吹き込むようになって、便意と私との関係はそれほど緊迫感のないものになっていき、便意との交渉における私の立場は前よりも強くなった。そしてその結果、失禁の頻度も減ったのである。

 排泄規範に限らず、あらゆる規範というものは、『あってはならない』運動・行動の領域を設定する。しかし私の経験を通して言えることは、失禁を『あってはならない』とみなしているうちは、いつ攻撃してくるか分からない便意との密室的関係に怯え続けなければならない、ということだ。むしろ失禁を『いつでも誰にでも起こりうるもの』と捉えて、失禁してもなんとかなるという見通しを周囲の人々と共有することによって、初めて便意との密室的な緊張感から解放されるのである。

 規範を共有することだけでなく、同時に『私たちは、気をつけていても規範を踏み外すことがあるね』という隙間の領域を共有することが、一人ひとりに自由をもたらすと言えるだろう。」

 熊谷さんはいまだに脳性麻痺の人に対するリハビリが、多数派の動きを真似させる形になっていることに素朴な疑問を投げかけています。なんで自分の体から出発して、そこからそれにあった形で目標に到達するような、そんな工夫をしていかないのだろうか。

 もちろん練習によって習得できるものを修得しないことはもったいないでしょう。でもひとそれぞれに得意不得意があって、ある人には修得できるけど、別の人には相当苦労してもうまく修得できないこともある。もしそうなら修得できないやりかたをめざし続けることにどんな意味があるんでしょうか。同じ目標の到達の仕方にだって、いろいろなやり方があるはず。もっと自分自身の特徴を活かした形で、自分の体を使い、自分と周囲の物との関係を作り、そして人とのつながりをつくっていくことを模索する方が、結果としてもよほど効率がいいし、精神衛生上もいい筈なんですよね。自分の人生なんだし。

 こういう本って、やっぱり当事者じゃないと書けないなあと思います。でも当事者がそうやって書いてくれれば、当事者でない人間にもある程度は共有できる部分が出てくる。「読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。」という熊谷さんの狙い通りの結果ですね。

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