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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年5月 8日 (日)

私の幸せと不幸を生きること

 6日の記事(「あきらめの話」)へのみなさんのコメントは、何時にもまして深さと広さを感じて、何からどう考えるのがいいのか、すぐには分からない、というか、簡単に分かった気になりたくないという感じがしています。なんかじっくりと自分の中で受け止め、ゆっくりあたためながら、少しずつ自分なりに考える糸口を探していくというか、そうしたいようなコメントの数々です。

 今日は散歩をしながら、パートナーにみなさんのコメントのことを少し話をしたりしていたのですが、「絵に描いたような<幸せ>な家庭の方がめずらしいんじゃない」と言っていました。いや、別にみなさんが<不幸>な生い立ちであったとか、そしてその結果として今も<不幸>であるとか、「親の因果」で人を脅して儲ける安物の占い師みたいな、そういうことを訳知り顔に言いたいわけではないんです。何が幸せで、何が不幸かなんて、そんなものは他人が物差しで測ってみせるような、そんなものではないと思いますし。ただ確実に言えることは、やっぱり改めて人が生きていくということの重さを改めて感じるということでしょうか。

 なんか、しょうもない一般論になりそうな気もしますが、でも幸せとか幸せではないとか、それはまず自分自身の中のできごとなんですよね。それを無視して他人がとやかく言うことに意味はないし、他人と比べることにも意味はない。私は逆立ちしたって転がり回ったって私以外ではあり得ないわけだし、私の人生は私以外の人が生きることはできないわけだから、そこで問題なのは「私の幸せ」だし「私の不幸」でしょう。

 ただし、その「私の幸せ」とか「私の不幸」に周りの人たちとのつながり方が深く関わってくる。でも、子は親を選べないし、親も子を選ぶことは出来ない。そこから始まって、私たちが本当に自由に選べる関係なんてどれだけあるでしょうか?そのことを含めて、やっぱり「幸せ」も「不幸」もまずは「私」のこと、「私がそれをどう感じ、どんな風にそのことに向き合うか」なんだという気がします。

 もしかするとこんなことはアスペルガーの方にはあまりにも当たり前のことかも知れないですね。もともと私は私であって、他人は他人であって、私の幸せは私のものだし、他人の幸せは他人のものということは大前提。その上で、他人が幸せであることはそれはそれとしていいことだし、他人が不幸であることは避けるべきことでもある。定型の方はそのあたり、私の幸せなんだか相手の幸せなんだか、どっちの不幸なんだかものすごく曖昧なことがとても多いし、それを共感と言ったりするのでしょう。

 そういう違いはあるかもしれないけれど、でもいずれの場合でも、私の幸せに他人が大きな影響を持ってしまう、ということはやっぱり一緒なんですね。どちらも他人との関係で幸せを感じたり、幸せを感じられなかったり、そういうことがあるのは間違いない。なぜ、どんなふうにしてその幸せに影響するか、何に幸せを感じるかは違う部分もあるのかも知れないけれど。でも場合によってはアスペルガーの繭さんに対して、むしろ定型(変型?)のカレンさんがものすごく深いところで共感してしまうような、そういう部分、そういうことだってある。

 みなさんのコメントを読みながら、なんだか、アスペルガーの特徴として、よく言われる三つのこと(三つ組の「障がい」)、社会性の障がい、コミュニケーションの障がい、想像力の障がい、という言い方が、ものすごく表面的な、浅いことを言っているような気がしています。

 なんというか、もっともっと深く、個性的なその人その人の人生を歩みながら、それがあるところでそういう三つ組、と言われるような特徴も表すことがある。そしてそのように見ることで、お互いの関係の取り方に変化が生まれる部分もある。でも最終的に本当に大事なのはそっちではなくて、アスペの人であろうと定型の人であろうと、その人その人の個性的な人生だし、その個性的な人生の中で、その人なりの、その人にしか生きられない「幸せ」と「不幸」を生きていくことなんだよなあと、なんかそんなことを今改めて実感しているのかも知れません。

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コメント

ぱんださんの記事や、みなさんのコメントを読んで、少しずつ元気がでてきました。
辛いのは、自分一人じゃない…と思えた事、そして、みなさん、苦しんで模索しながらも、明るく、元気に行動している事が、とても励みです。

ぱんださんの記事を読んで、当たり前の事なんだけど、とても良い記事だと実感しながら読みました。
感想を書くとしたら、ぱんださんと同じ記事になってしまいます。

AS主人と私は、いろんな角度から見ても、本当に違うタイプで…
似ている所は…特にないです…

私は、今までは、主人をASと決めつけて、自分の価値観を押し付け、知らず知らずのうちに、一方的に主人を制圧していたような形になると思うんですが、

主人と私の決定的な違いは何か…と思い、考えた時に、「制圧」と「固執」という言葉が出てきました。

私は主人に固執して過干渉、制圧していた部分があり、
主人は、全くそれはありません。無関心のように映り、私を無理に制圧や束縛もしません。

私は、主人に対して、ああした…こうした…こう言われた…とかよりも、無関心な所に一番不満があったのです。
それはわかっていましたが、でも、でも、家族なんだから…旦那なんだから…義父が…子供が…私は…という部分がありました。

そこら辺は、やはり、私の過剰なACからきていると思います。
束縛されて依存されても嫌だし、無関心も嫌なんですが、
主人が無関心過ぎる、と、映る根本には、私の依存的要求や過干渉が拍車をかけていた…というあたりまではわかりました。

確かに、主人は言葉の解釈や理解力などから、ASだと思う所は多々ありますし、他人と比べて、無関心過ぎる所はあるのですが…ACではありません。主人の父親は、とんでもない自由奔放な人で、子供にも色々迷惑をかけたようですが、自分が自由なぶん、子供に制圧をかける事は一切なかったようです。
(直らないのですが、注意すると、わかったよ…ってな感じの人なので)

納得できない制圧をうけた私たちACは、感受性が強く、賢いことに、小さな時は親を責めてよいのに、「親を責める事は、自分をも責める事」だと、ずっと、よくわかっていると思います。
この矛盾が私の一番の矛盾の苦しみです。

無関心なアスペをもつ配偶者の関係(最終的な気持ち)と酷似してますよね…

という事は…依存という文字が見えてきますし、それによって、やはり自分たちの子供もACにさせてしまう可能性は充分ありますので、やはり、私はASの主人よりも、自分のACの問題が先決だと思います。
ACや依存を克服するのは、かなり辛い思いをするのかもしれませんが、それらを克服するヒントは、ASの主人にたくさんあると思います。
(主人は職場や周りとは大きなトラブルなどはないので)

私も職場や周りとは目立ったトラブルはありませんが、気を使っていただけであって、一昔前の家庭内は主人とはトラブル続き(1人でイライラしていただけですが)だったので…

主人を模範として見てヒントを得れば、自分の依存も納得しながら克服出来、親との関係もスムーズになれるのではないか…と思います。(相手を変わらせる事は難しいですので、自分が変わる…という事ですね)

私たちの悩みは、ASとか、どうだった…とかではなく、「相手を責める事は自分を責める事になる」という所まできているのではないでしょうか?
私がパンダさんのブログが素晴らしいと思うのは、パンダさんの所に訪れる皆さんは、相手のAS問題の枠を超えて、自分の事も客観視出来ていて、次のステップに行ってる方が多いという所です。(他はあまりわかりませんが…)

夫婦間の依存が子供に依存を生むのは、ACの特徴だと思いますが、結局、子供はのびのびと自立ではなく、依存や制圧を受け、依存や制圧での対応しかわからない(許し方や交わし方を知らない)という連鎖のように私は思いますので、(それだけではないですが、)
相手を責める…というよりも、
交わし方を知る…という方が、スムーズだと思いました。
そして、離婚は、それだけで子供にとって、矛盾と制圧になりますので、
何も、自分の気持ちまで抑えたり、無理に諦めたりしなくても良いと思います。

小さなお子さんがいる所は、本当にまだ可能性がたくさんありますので、頑張って行ってほしいと思います。

無関心だし、同じ事でも、その都度、その都度、その場、その場で対処する事しか出来ないASの主人ですが、そこは、ACの私には無い一面ですので、何かヒントはありそうです。

(これらは、私と主人の場合で書かさせて頂きました)

私も

>「絵に描いたような<幸せ>な家庭の方がめずらしいんじゃない」

と思っていました。まあ、まわりグルッと見回しても、なんか<不幸>を抱えているようであり、マスコミ沙汰になるような悲劇にさえも、必ず「そんな風には見えなかった、<幸せ>そうに見えた」というコメントが付くので、<<幸せ>そうに見える>ことと、<幸せ>とは、私の中ではリンクしていません。自分の<不幸>も「ま、こんなもんじゃないの」ぐらいに思いこんで納得して前に進むことが多かったので、「いくらなんでもこれはおかしいんじゃないのか?」と思い、<今たどり着いている<真実>の暫定的な解釈 >に至るまで、必要以上に時間と犠牲がかかったように思われます。と、ここまで書いてみて、、、大事なことは担保しておく癖があるみたいですね、私。

で、次はググッとカメラを引いて見て(ほんとに自己の視点を離れるのは難しいですが)、「絵にかいたような<幸せ>」を体現していて、まわりにはそういう人ばかりという人っているだろうと思うんですよ。もちろん「ぐるっと見回すと<不幸>を抱えてる人ばかり」という人もいる。それは、1つには、その人の周りは本当にそういう人ばかりということになっている可能性があるのと、もう一つは、その人はそういう人ばかり探して見ているというか、自分の枠組で世界を見るので、それに合わない物が見えていない可能性がある。ほんとの意味で自己の視点を離れるのは不可能でしょうね。

やっと頭だけ浮かんで泳いでるなら、誰でも自分の水平線まではたかだか数メートルしか見えない。その中で、たまたま周囲が自分を含めてみんな <不幸>で溺れかかってても、1キロほど向こうに泳げば、周囲がみんな<幸せ>に泳いでる地点があるかもしれないですよね。たとえ<幸せ>が<不幸せ>の数%ぐらいの分布だったとしてもです。

確かに、たまたま<幸せ>の潮流に乗りつづけて泳ぎきれる人もいます。「そんな風には見えなかった、<幸せ>そうに見えた」というコメントに素直にびっくりできるような人ですね。いづれの流れの中にあっても、流れの中にいては景色がドラスティックに変化することは少ないでしょう。ぐいぐいっと力を入れて水を掻いて流れを脱出してみないことには。今へばっているなら、しばらく流れに身をまかせて充分休んでからでもね。

それで、私はいったい何がいいたいんだ!?

パンダさんのブログで、すごーく、<一般的な>結論が出てきたとしても、それは<パンダさんとその仲間の限定的な>議論だと私は思うんだろうな、と思っています。でも、その通り道で、各個人個人が見た心象風景は、各個人個人の<経験>なのだろうな、と思います。自分で消化しているのでね。<本を読む><映画を鑑賞する>みたいに疑似的だけど、質の高い経験です。

でも、<新しい枠組を手に入れた>と思った時ほど要注意です。なんでもかんでもその枠組で見たり、解決しようとしますからね。でも「おーい、こっちに<幸せ>が流れてるみたいだぞう!」という声はあげてくださいね。そっちの方に泳ぎますから。

やっぱり支離滅裂になってしもた。coldsweats01

パンダさん

幸せなときも、辛いときも、その感覚にすっぽりと入り込んでしまうのは、良くも悪くも、私の特徴だと思いますが、良くない感覚のときに意識して外の世界と関わることを、忘れないでいたいと思います。

成育家庭の問題を口外するのは、たとえ大好きな祖父母でもだめだと、厳しく躾けられていた子供の私は、誰にも相談できないまま、大人になりました。
大人になってからも、どこかで親の目を気にしながら、こっそりと人に相談をするような感覚でした。

私はそんな自分に息苦しさを感じていながらも、結局自ら選んで苦しさのなかに嵌り込み続けていたんですね。
ずっと、ずっと、破りたかった殻でした。

最近、ここに書き込みをするまで、自分が破裂しそうな内圧を感じていました。
やっと、時が満ちて、殻に穴を開けることが出来ました。
今日になって、胸の底が戦慄くような感覚がしています。

夫からは「反抗期だね」と言われています。
本当に、やっと自我が芽生え始めたのかもしれません。

パンダさんには、こちらの場を勝手にお借りして、後になってから、「失礼なことをしてしまったのかも」と気付きました。申し訳ありません。
パンダさんとのやりとりで元気が出た勢いで、一気に書き込んでしまいました。
勝手に書き込んでおきながらですが、とても感謝しています。


みみさん、こちらでは、本当にお久しぶりです。

依存は気付くまでがやっかいだったと、自分を振り返って思います。
まだたくさんあるのだと思います。

ゆっくり、拾い上げて行きたいです。
また、お話をさせて下さい。

みみさんは元気になってくるし、joさんは支離滅裂になるし((^ ^;)~)、繭さんはついに羽化し始めるし、なんだかすごい! としか言いようが無い感じです。

なんというのか、それぞれの皆さんが自分を語りながら、お互いにすごい刺激を受けているんでしょうね。う~ん、すごい。

違う人間同士が触れあうことで新しいものがそこから生まれてくる、というのが大切なことなんだと思い続けてきたんですが、少なくともみなさんが作っているこの場はそんな場になっているんですね?きっと。 ほんとにすごい。

もちろんその新しいものはどっかから「輸入」されたものではなくて、自分自身がこれまでいろいろな形で積み重ねてきたものが、それこそ「羽化」するように、新しい姿を見せていくことなんだと思いますし、いやあ、すごいなあ。

あっちこっちでそういう場が沢山出来てくるとほんとにいいのになと思います。

このブログのタイトルも「アスペと定型(変型)の羽化」とかにします? (^ ^)

パンダさんや皆さんの書かれたことを読ませていただきながら、いつものことながら、いろいろなことを考えていました。

一つのことに絞って書こうとしても、ものすごく長くなってしまい、一昨日から断続的に書いては削除、書いては削除・・・を繰り返して今に至ります(苦笑)。

その削除の部分は本当に削除というか、省くとして、

「今(5月11日の午後のある時間帯)、私の心象風景はとても不幸だ」という、私にとっての事実を書くことにします。

どうして不幸なのか、その理由を語り出すと、それだけでもとても長くなるので、そこも省きますが、

「幸せだと感じる瞬間が多くなった」「幸せだと感じる瞬間が連続することが多くなった」ということで、「生活全体としては毎日幸せだと感じている」のですが、

ついさっき、その「幸せの瞬間の連続」の間に、私にとっての「不幸な瞬間」が入り込んでしまった、のです。

その「今の不幸」の正体は、感情で表すとすれば「怒り」です。

私が「自分がいかに凡人であるかを知っている」と思うのは、こういう瞬間瞬間の「自分の不幸」を感じる自分の存在を知っているからかもしれません。

生活全体として、あるいは、人生全体として、「幸せな人」「不幸な人」な区別はあるのだと思いますが、

実は、それは、「幸せな/不幸な瞬間が多いか少ないか・幸せな/不幸な瞬間が連続するのかしないのか」、ということであって、

「幸せな人」「不幸せな人」という固定した存在や実体は、ないような気がしています。

・・・と、ここまで書いているうちに、さきほどの、「怒り」に起因する「私の不幸」はもう消えて、"やっと"コメントを送信できるという「喜び」に起因する「私の幸せ」がやって来ています。 

ちょっとした「不幸」のおかげで書きたいことがあっ言う間にまとまり、私にしては珍しく、さきほどのコメントは短時間のうちに一気にできました(笑)

カレンさん

「ちょっとした「不幸」のおかげで書きたいことがあっ言う間にまとまり、私にしては珍しく、さきほどのコメントは短時間のうちに一気にできました(笑)」

 ということで、どうもおめでとうございます。と言うべきなのかどうかよくわかりませんが……coldsweats01

 「不幸を知らない人は幸福を知らず、幸福を知らない人は不幸を知らない。」って誰の言葉でしたっけ?

禍福はあざなえる繩の如く、世は塞翁が馬、平家の武士も數多きに、時頼こそは中々に嫉しき程の仕合者(しあはせもの)ぞ(高山樗牛『瀧口入道』)

コピペさん

 な、なんか、格好いい気がする…… coldsweats01

カレンさん

幸福に眩んで不幸から目をそらすことも、不幸に埋もれて幸福を見逃すことも、どちらも同じくらい勿体無いことのように思います。
「どちらもしっかりと味わおう」などと格好付けて考えていても、実際にはあっという間に翻弄されてしまうのですが。
ジグザグ大迷走は、とても私らしいと開き直ることにしています(笑)

あ、格好いいつながりで、大好きな言葉をひとつ。

ことばは沈黙に
光は闇に
生は死の中にこそあるものなれ
飛翔せるタカの
虚空にこそ輝ける如くに
(「ゲド戦記・影との戦い」より)

パンダさん

>ということで、どうもおめでとうございます。と言うべきなのかどうかよくわかりませんが……

「おめでとう」でよいのだと思います。ありがとうございます(^^)

あとで気がついたのですが、上のコメントを書き始めたときには「とても不幸」だと思っていたのに、書き終えたときには「ちょっとした不幸」に変わっていました。これって、書くことの効用(特に、読み手を想定して書くことの効用)=自分を客観視することの効用・・・ですよね。

このような「パンダさんと、出入り自由の仲間たち」の場を作ってくださったマスターことパンダさんに感謝です。

繭さん

>幸福に眩んで不幸から目をそらすことも、不幸に埋もれて幸福を見逃すことも、どちらも同じくらい勿体無いことのように思います。

勿体無い・・・なんだか新鮮な響きです。そして、本当にそうですね。

実は、今朝、いつが最後だったかわからないくらい久しぶりに蕁麻疹が出ました。そして、「あー、やっぱり出た」と。

20年数年来のことなのですが、私には時々、いつも同じところ数か所に、見たらびっくりするぐらいの激しい蕁麻疹が出ます。

そして、これは、以前なら、「あれ?この蕁麻疹はなぜ?・・・あ、そうか、これは昨日のあの時のイライラのせいだ」と、いつも後から原因がわかっていたんです。

ところが、この数年は、先に「怒り」や「苛立ち」を感じ、「あ、これ明日あたり出るかも」と、蕁麻疹予想ができるようになったんですよ。

つまり、以前の私は、体に何か症状が出るまで自分の感情、特に「怒り」とか「苛立ち」を意識することができていなかった・・・ということなのだろう、と今になってわかります。

今は、囚われていたものから解放されて、自分の「不幸」も「幸せ」も感じることができる・・・勿体無いことをせずにすむようになったのかもしれません(^^)

>ジグザグ大迷走は、とても私らしいと開き直ることにしています(笑)

そうなんですね(笑)

私の方は、多少は年の功もあってか、「大迷走」から「中迷走」ぐらいにはなったような気がしていますが、どうなんでしょう。

ご紹介くださった言葉、格好いいですね!さすが、「言葉はひとつの完結した世界」とおっしゃている繭さんだと思います。

私の好きな言葉・・・と、いうのとはチョット違うと思いますが、頭の中によく浮かんだり実際によく使う言葉は、

「起死回生」「転んでもただでは起きない」「塞翁が馬」「継続は力」、そして、「笑う門には福が来る」(^^)v

他に、私は中島美嘉の歌が好きなのですが(特に「STARS」)、「あるけど見えない/見えないけどある」「近いのに遠い/遠いけど近い」、みたいな感じが、なんだかとても好きです(「ドーナツの穴」のような世界・・・笑)。


カレンさん

> このような「パンダさんと、出入り自由の仲間たち」の場を作ってくださったマスターことパンダさんに感謝です。

 いやあ、感謝なんて、自分は何にもしてないっす。(←ここ、高倉健の調子で)

 dollarさえもらえれば、あとは何も要らないっす。(←ここ、パンダ調で)

パンダさん、久しぶりにdollarが出ましたね(笑)
では、奮発してdollardollardollarで、どうでしょう。
              ↑
(しかし、これ、探し出すのがとても大変でした・・・(^^.)・・・)


みみさん

>無関心だし、同じ事でも、その都度、その都度、その場、その場で対処する事しか出来ないASの主人ですが、そこは、ACの私には無い一面ですので、何かヒントはありそうです。

ヒント、とってもたくさんあると思います!

今だからこそ、こんなことも言えるようになったのですが、結婚前からこれまでに夫が言ったことを集めたら、「幸福論」顔負けの「カレンの夫・名語録」ができそうです。

「名」ではなく「迷」であることもあるのですが、そこは私にしても同じでことですし、ひょっとしたら、私の方が多いかもしれません・・・(^^;)

自分のおシアワセって、人の幸せをマネることができないなぁ~と。

自閉さん当事者としては異色です。※異色というのが、TVに出ている当事者と違いすぎること。いい大学出身じゃないし、何かズバ抜けた特技はないし、エロトーク&オタトーク(オタクの話)全開で女子力は低いし(オヤジ女子力は高い)、良妻賢母路線でもないし、穏やか(受動型)ではないと言うウケの悪い当事者のこと。

規格内でおさまろうとしているから『不幸』と感じていました。1ヶ月間寝込んだ理由は、自閉さん当事者としてウケのいい優等生当事者になれない自分がイヤだったという自己嫌悪ストレスが原因でした。

今、何が起こるかわからない時代に入っているので、規格外当事者として生きようかと思っています。

私自身、毎日台所に立って料理すること、ドライヤーで頭を乾かしていること、顔を洗うこと、お風呂に入ること、物を運ぶこと、買い物に行くことなどの日常生活を送ることは当たり前ではありません。→自閉さんと言うより線維筋痛症さんの影響です。痛みが激しいとご飯も食べることがしんどい時があったり、痛みで睡眠不足になることもあります。天候によっては寝込んでしまうことがあります。

自分で料理することは当たり前ではなく『お幸せ』になるんだなと思いました。線維筋痛症さんと診断されてから、強烈に人の縁を切られたことはありません。→離れていく人はほとんどいなかったと言うこと。

他の人の幸せ基準が自分の幸せ基準とは違う。(できていた時などの)昔の栄光基準値のままだったら不幸せと感じるかもしれない。今の自分軸での基準なら幸せの軸は崩れないなと私は思います。

カレンさん

激しい蕁麻疹…すごく痒そうですね。
私もまれに出ますが、一旦出始めると、蕁麻疹が原因で蕁麻疹が出そうなくらい痒いです。
お大事になさって下さい。

>ところが、この数年は、先に「怒り」や「苛立ち」を感じ、「あ、これ明日あたり出るかも」と、蕁麻疹予想ができるようになったんですよ。

>つまり、以前の私は、体に何か症状が出るまで自分の感情、特に「怒り」とか「苛立ち」を意識することができていなかった・・・ということなのだろう、と今になってわかります。

同じような反応が私にもあって、「安全装置が作動した」と思っています。
感情の自覚って大切ですね。

>「起死回生」「転んでもただでは起きない」「塞翁が馬」「継続は力」、そして、「笑う門には福が来る」(^^)v

読むだけで元気が出ます。
とてもカレンさんな感じがします(^ ^)

中島美嘉さん、ほとんど知らなかった(というより、音楽全般に疎い)ので、「STARS」聞いてみました。
あの歌詞と世界観、私もとても好きです。
唯一「WILL」だけ知っていて、好きな曲です。
他の曲も聴いてみたくなりました。

うーん…星空を眺めながら、ドーナツの穴を食べたい気分です(無理…(^ ^)

Rosamondeさん

> 他の人の幸せ基準が自分の幸せ基準とは違う。(できていた時などの)昔の栄光基準値のままだったら不幸せと感じるかもしれない。今の自分軸での基準なら幸せの軸は崩れないなと私は思います。

 この言葉、たとえば私が言っても説得力に乏しいと思うんだけど、Rosamondeさんが言うとすごい重みがあって、ずっしりと説得力があります。そう思えるってすごいと感じる。

ドーナツの外側があるから、

そのドーナツは、「美味しい」とか「まずい」とか言われたり、「こんなに美味しいものがあるはずはない」、とか、「こんなまずいものはない」と言われたりするんですよね。

私は、今、そのドーナツであるよりは、ただただ、ドーナツの穴でありたいです。

まずは、上のコメント、私の中では脈絡のある思考のごくごく一部を切り取って書いてしまったので、意味不明ですみません。

Rosamondeさんの、自分軸のお話、とてもよくわかります。

>お風呂に入ること、物を運ぶこと、買い物に行くことなどの日常生活を送ることは当たり前ではありません。
>自分で料理することは当たり前ではなく『お幸せ』になるんだなと思いました。

繊維筋痛症については私のわずかな知識から想像するしかできませんが、このような日常生活を送ることが当たり前のことではない、という感覚は自分のものとしてわかります。

暑いだの寒いだの言いながらも外を歩けること・家の中の階段を休憩なしで上れること・家事ができること・・・私も、今は、そんなことに幸せを感じます。(寝込む時期を経験しなければ、この幸せには気づかなかったでしょう。)

繭さん、上のコメントを読んでから、私の頭にしょっちゅう「WILL」が流れています。

いつかお会いすることがあったら、星空を眺めながら、私たちそれぞれが持っているドーナツの穴を眺めてみましょうか・・・無理?できる?・・・意味不明?(^^.)

最近の記事や、皆さんのコメントを読ませていただきながら、考えていました。

幸福・不幸って、とても個人的な体験だなぁ…と。

カレンさん

他の人がドーナツの外側を評価することは出来るかもしれないけれど、ドーナツの穴は、誰にも評価出来ないし、味わうことも出来ない…。

カレンさんのドーナツの穴には、どんな星空が映るのでしょうか。
お会いできることがあったら、そんなお話をしたいです(^ ^)

繭さん

あのコメントの意味を、しっかり受け止めてくださっていたことに、またもや驚きです。

先週は、「怒り」事件と前後して、妙に他人からの評価を受けることが多く、その評価に、なんだか疲れてしまっていました。

正確に言うと、人からの評価に自分が動かされそうになっている危機、「このままでは、また"優等生"を演じてしまう」という危機を感じ、その「自分にとっての危機」を「危機」として自覚していることを、どこかに記録しておきたくて書いたコメントでした。

おかげさまで、「怒り」のときと同じく、「危機」を自覚したことで、それを取り出し、いっとき眺めて捨てることができました。

そのコメントを読んでくださり、思いを受け止めてくださったこと、本当にありがとうございます。星空の話、たくさんしたいですね(^^)

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