つながりの作法
今、パートナーが買ってきた、綾屋紗月さんと熊谷晋一郎さんの書いた「つながりの作法:同じでもなく違うでもなく」(NHK出版、生活人新書)というのを読んでるんですが、なんというか、もう、すごく面白いです(子どもみたいな感想!)。綾屋さん(松浦亜弥のアヤヤじゃないけど、読み方はアヤヤ。こういう名字があるんですね!)はアスペルガー当事者の方で、熊谷晋一郎さんは脳性麻痺だけど小児科のお医者さんになったという人(しかしよく医師免許がとれたなあと驚きです。本人の頑張りに加えて教育機関の側での配慮とか、医師免許審査上の配慮とか、きっとかなりいろいろあったんだろうと思うんですが)。どちらも30代の半ばくらいの人です。
アスペの綾屋さんは回りから聞こえてくる音とか、声とか、体のいろんな部分から来る感覚とか、定型の人間ならそういう沢山の「情報」をほとんど無意識的に取捨選択して、必要なものにだけ注意をするということをやるわけなんですけど、それが難しくって、聞こえてくるもの、見えてくるもの、体のあちこちの感覚がみんなバラバラに同じような重みで押し寄せてくるという感じがあるんですって。
私のパートナーもそうだし、繭さんも書かれていたように思うけど、アスペルガーの場合、井戸端会議が苦手というのも、それに関係するところがあるんでしょうか。いろんな話題が並行してやってきて、どこに注意を向けたらいいかわかりにくいし、そのすべてに注意を向けて一つ一つのつながりを追おうとするとわけがわかんなくなってしまうとか。
それで、そんなふうに沢山のことがいっぺんに押し寄せてきて、自分というものを保てなくなってしまう、というか、まとまりを作りにくくなってしまう。そういうのを「つながらない身体」とか名前をつけて説明されています。
で、脳性麻痺の熊谷さんの方は、赤ちゃんの頃からお母さんがつきっきりで必死でリハビリに取り組んでこられて、それはそれは厳しくて、お祖母さんがたまたまその場面を見て泣いちゃったという位だったらしいんです。そうやってお母さんがある意味心を鬼にして(実際お母さんも辛かったようです)、熊谷さんのためにその体の動きを「健常者の動き」のイメージを元に矯正しようとする、というのは、なんというのか、お母さんのイメージで完璧に熊谷さんをコントロールしようとするわけで、熊谷さんがお母さんの思うとおりに手足になるような状態でもあります。
もちろんそれだけではなくて、お母さんはたとえば熊谷さんがおなかがすいたとか、トイレに行きたいとか、そういう風になったとき、その気持ちを敏感に感じてすぐに手助けをしてくれる。熊谷さんが言葉で頼むまでもなく、すぐに察してくれるわけですから、これは今度はお母さんが熊谷さんの手足になっているような状態です。だからどっちが「頭」でどっちが「手足」か、ということについては場合によっていろいろで、決してどっちかがいつも支配者だ、とかいうわけではないわけですけど、でもどっちかが「頭」でどっちかが「手足」という関係が続いている。
つまり、お母さんと熊谷さんがいつもぴったり一つの体のようにくっついちゃっているわけです。そういうのを熊谷さんは「つながりすぎる身体」という言葉で表現しています。
そういうふうに見てみると、綾屋さんはつながらない事に悩み、熊谷さんはつながりすぎることに悩んできたという意味で、ちょうど両極端の状態にある(あった)少数派だというわけですね。それでそのあいだに適度なつながりを保っている多数派(いわゆる健常者)がいる。
なんかこういう対比の仕方についてはちょっと上手にきれいにまとめ過ぎちゃっている感じはするんですけど、でも「へえ、そんな見方もあるんだ」というのはすごい新鮮だし、なにより当事者自身が自分の体験を一番の足場にして考えようとされているわけで、そこがすごくいいんですね。だから私も共感したんだけど、いわゆる「外から(客観的に)見るアスペルガーの定義」とされている、三つ組みの障がいという考え方にも違和感を唱えられている。
なんか定型から見るアスペルガーの像ってやっぱり定型の見方からのそれになるわけだし、アスペルガーから見る「自分」とはどうしてもずれてしまう。もちろんその逆も同じで、アスペルガーの人が理解する定型の見方って、やっぱりアスペルガー的な理解で、定型から見ると「え?どうしてそういう見方になるの?」ということになる。でも世の中的には定型的な見方を基準として理解する形になってるから、アスペルガーの人がそういう医学的な見方とかに違和感を感じる状態になるのは、それがいいというわけじゃないけど、まあ当然というか、仕方ないというか、そんな感じになってると思うわけです。
で、問題の「文化」なんですが、お二人はこの本の中で「文化」という言葉で書いているわけではありません。ただその社会とか、あるいは集団の中で共有されているいろんな常識みたいなものを「構成的体制」という、なんかちょっと難しい言葉で表現していて、それがまあ「文化」と言ってもいいものかなと思えます。
綾屋さんの方は自分がアスペルガーだと診断されて、ようやく自分の今までのわけのわからない苦しみとかに名前が与えられたような、なにか出発点に立てたようなそんな厳粛な気持ちになったということですが(カレンさんが「福音」と書かれていたことにもつながりそうな気がしますけど)、そのあと、同じような境遇の人たちの当事者グループに参加されたりしたんですね。そうすると、定型が多数派の社会の中で同じような苦しみを味わっていて、お互いにそれを語り合うことですごく「共感」できるし、仲間みたいになるし、新しいつながりがそこで生み出されていく。
そうすると、今度は少数派である「私たちアスペルガー」と多数派である「あなたたち定型」という、なんかグループ間の対立みたいな意識ができてくるというんです。で、そこでは「アスペルガーとはこういうものだ」とか「定型とはこういうものだ」みたいな「常識」、あるいは「定型のこういうやり方によってアスペルガーは苦しめられている」という「常識」が共有されてくる。つまりそこでアスペルガーの人たちをつなぐ「構成的体制」というものが作られていくんですね。もしかするとこのあたりがjoさんが違和感を感じられている「自閉系文化圏」につながる話なのかもしれません。
そんな形で「私たちアスペルガー」という当事者のグループが結束を強くしていくと、実際にはその中にはいろんな個性の方たちが集まっているし、アスペルガー的な部分やその程度もいろいろだったりするわけなんだけど、なんか「これこそ正しいアスペルガーの姿」みたいなイメージが作られていくようで、そこから外れることになんか「仲間じゃない」みたいな感じが出てきたりしてしまうらしんですね(そのこと自体、アスペルガーについての定型的な常識からずれるようで面白いですが)。
結局綾屋さんはそういうことはしんどくなって、距離を置くようになったようなんです。なんか矛盾するような話だけど、定型の持つ「構成的体制」の中で、それに適応できずに苦しみ、自己評価もとても低くさせられてきた人たちが、同じような境遇の人たちが集まることで、自分たちに合った「構成的体制」を作っていく。そうすると、今度はその自分たちの「構成的体制」という新しい枠組みに縛られてしまって、そこから外れる自分の部分が否定されてしまう感じになり、別の意味でなんだか「押さえつけられる」部分が出てきてしまう訳ですね。そして定型とアスペの関係は「敵対的な関係」という形で固定化されてしまう。
いや、もちろん定型とアスペのカップルが、お互いによくわからないズレによって苦しみ続けるということが頻繁に起こる、ということは、まあ当事者である私たちが身を以て体験してきていることな訳です。けれどもよく見てみれば、どうも「定型だから駄目だ」とか「アスペだから駄目だ」という簡単な問題ではないらしい。定型とアスペでもどこかで馬が合う場合もあるし、もうどうしても駄目な場合もある。時期や環境によってよかったり駄目だったりが変わることもある。定型の人の持っている個性とアスペの人の持っている個性の組み合わせとか、周囲の人の態度とか、そういういろんなことが絡み合いながらそれによってひとそれぞれ、というか、カップルそれぞれで、一口にくくれない訳ですよね。
ところが、定型の側でもいいですし、アスペの側でもいいですが、もし当事者グループが綾屋さんの説明しているような形になってしまうと、個性の組み合わせとか、そういうのは二の次になって、「アスペだから」あるいは「定型だから」ということが永遠に変わらない絶対的な線引きになってしまって、身動きがとれなくなってしまいます。あとはアスペ同士、あるいは定型同士の固い団結と、相互の闘い、みたいな図式だけに固定してしまうかも知れない。
もちろん結果として闘いになることはあるし、そうすべき時や場合、あるいは組み合わせもあると思います。でも最初から最後までそれしかない、というのは結局誰にとっても苦しいことになるのではないか、という気持ちを熊谷さんも綾屋さんもお持ちのように感じます。
それじゃあどうしたらいいのか?どちらかがどちらかを押さえつけるのでもなく、両者が身動きのとれない対立関係になるのでもなく、どうやってあらたにコミュニケートしたらいいのか?その問いかけと、それに対する二人の答えが「つながりの作法:同じでもなく違うでもなく」というタイトルになっていくわけです。
いやあ、なんかすごく面白いです。
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コメント
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何度読んでも、まず最初に思い浮かぶことがいつも同じなので、書くことにしますね。
その、最初に思い浮かぶことというのは、「つながらない」生き方もあるということを知って(再認識して?)初めて、私は、自分がどんなに「つながりすぎる」生き方をしてきたかということに気づいた・・・ということです。
本来の自分というのは、幼少時を思い出せば思い出すほど、かなり自由奔放だったり、めんどくさがり屋だったり、ひとりでいることを好む面もずいぶんあったのですが、きっと、生育歴や環境の中で、人と「つながりすぎている」関係にならざるをえない場面が多かったのでしょう。
「つながりすぎている」関係と"いわゆる優等生"的な言動というのは一致することも多く、そんな中で、身動きが取れなくなることも多々あったのだ、と、自分を振り返ってみて思います。
「つながりすぎている」関係は、結局、お互いに苦しくなるので(少なくとも私は、という言うべきでしょうか)、そういう関係にあった人とは徐々に距離を置くようになり、結局、友人関係にしても何にしても、最後は自立した人とのつきあいに落ち着きつつあるという感じですが。
とは言え、私の場合、「つながらない」と「つながりすぎる」の中間にいる多数派というよりは、「つながりすぎていた」関係から、自分自身を少しずつ必死に引っぱり出してきている、といった感じで、正直、まだ、かなりもがいているところもあります。
「つながりすぎていた」種々の関係から、「つながらない」関係に徐々に引っぱり出され、今、「おっとと・・・」「おっとと・・・」と、両方向に揺れながら、新たに自分の立ち位置を定めようとしているような感じです。
いったん心地よい位置を見つけたとしても、「つながらない度」や「つながり度」は、相手や時によって変動するものなので、日々あらたに「おっとと・・・」をしながら、バランス見つけをしているところです。
投稿: カレン | 2011年5月24日 (火) 14時51分
へえ、その本はいづれ機会があれば手にとってみたいです。
前のコメントに、根っこにあるものが「文化の差みたいなもの」になって表出してるらしい、と書きましたが、ウィングの三つ組もそのような表出するときの形でしょうね。文化圏の違う外国でも診断的に通用するということは、それだけ一般化されてるけど、やはりあの三つ組は、結果として出たものであって「特徴」ではないと思います。三つ組が部分的にしか表れない人たちも、その理由はさまざまでしょうからね。
「定型をどのような環境においたら三つ組が表れるか」なんて禁じられた実験は今後もあり得ないでしょうが、はからずもそういう環境が、あり得ることを私達は感じているでしょう。(遠回し)
定型:非定型というカテゴリー化をした途端に多数派の視点になる気がします。
パンダさんも、KSさんも、あーあさんも、、、異文化経験をひきあいに出されています。そういう経験が少数派の経験だとしても、そういう経験者の中でやはり多数派と少数派が自動的に再帰的にできていくでしょう。えっと、例えば、在日日本人から見れば在外邦人は少数派でも、現地で邦人コミュニティーを作ってたり、そこからの外れもんがいたり、外国の在留邦人会の外れもん同士が集まってコミュを作ってたりしますよね。変人にも仲間いますし、このブログしかり。人間関係の基本的ダイナミックスだと思います。そのような場合に少数派の方に入っていく原因が本人の中のどういうところにあるのだろうか。そのあたり「個性」との連続性ということでしょうか。
が、そういうのが非定型的視点からは、どう見えているのか、ほんとうにわからないし興味ありますね。定型の側から「学習しない」「常識がない」という言い方がよく出ますが、常識的一般化をあえて無視することでしか新しい発見はありませんよね。だから常識のないやつが天才を恵まれるのでしょう。
私と配偶者の間では、経験の一般化の仕方にすごく差がある感じです。「これは前回と同様の例だから、前回と同じ対策をしてくれるはず」と私が思っても十中八九は外してくれます。そういうことがあって、自分の考え方を懇切丁寧に説明した後では、逆に「どうしてそれとこれとをごっちゃにしてしまうかぁ?」ということがたまにおきます。私からは「俺ルール」に見えるんですが、、、私が「俺ルール」で動いている可能性も否定しません。
でも私の視点から配偶者を見て、彼女のカテゴリー化を想像すると、階層がものすごく皮相的に感じられるのです。個々の経験が個々の経験としてデータベースに入ってる感じ。だから、「これとこれを類似としてまとめてくれ」と言うと、とんでもなく違うものが一緒くたになってしまうらしいんですね。カテゴリー化が他人と一致しなかった経験から、安全策として個々をデータベースとしてしまいこむように成長したのか、、、因果関係は不明ですが、、、基本は指示待ち型(怒られないように)でも、たまに(気をきかすと)勝手にアレと思うことやっちゃう。つらいだろうと思いますよ。こっちもつらい。
彼女は私のカテゴリー化を想像してくれてないだろうね、きっと。いや、私と同じような思いを抱いている可能性はある。。。かもね。
投稿: jo | 2011年5月24日 (火) 16時00分
カレンさん
そういう視点で見ると、私の場合も母親が極端に精神的に子どもを支配したので(その強烈な重力圏に気がついて…つまり境界性の特徴ということ…最終的に脱したのが実に40になってというものすごさ)、その意味では「つながりすぎ」だったわけで、パートナーを選んだのは、その重力圏から脱しようとする無意識の選択だったように思えます。だから母親に自分の家庭を取り込まれないように、矛盾を感じながらもパートナーのために母親からの防壁の役割を続けたんでしょう。
そう考えると、自分から求めてアスペルガーの相手に魅力を感じるタイプの人間の中にはそういうふうに、なんかの意味で「つながりすぎ」のタイプ、しかもそこから抜け出したいという思いをどっかに持った人が一定程度いるのかも知れないですね。私自身については医者の意見でもやっぱり境界性ではないと言われるんだけど、母親に取り込まれて育った結果、境界性的な人間関係の取り方は身につけているところがあるんですよね。ただ、やっぱりその境界性的な部分は持って生まれたものとは違うので、しんどくて「つながりすぎ」から逃げようとしたわけでしょう。そこが分かってからは随分人間関係が楽になりましたけど。
で、境界性の人は強烈な「つながりすぎ」状態を求め続ける人だと私には思えるんだけど、境界性の人がアスペルガーの人に魅力を感じるかどうかはちょっと興味があります。
joさん
この本、面白そうでしょう?なんか著者ともお話しできたらなあと思ったりします。ファンレターでも送ってみようかしら…… (^ ^;)ゞ
> 定型:非定型というカテゴリー化をした途端に多数派の視点になる気がします。
ですよね~。ほんとにそうだと思う。で、そういうカテゴリーを作るのはだいたい定型の側な訳で。別にそれが悪いとは言わないけど、でもそのことに自覚的であることは必要だと思います。でないと、ほんとに自分の見方だけで「少数派」を決めつけることになってしまうし。
> 彼女は私のカテゴリー化を想像してくれてないだろうね、きっと。いや、私と同じような思いを抱いている可能性はある。。。かもね。
そういうことについて、なんかうまいこと会話が出来るようになるといいんだけど……。なんか、自分だけでそういう思いを一方的に抱えているって、すごいしんどいじゃないですか。もちろんjoさんと彼女のこれまで積み重ねてきた生活の歴史みたいなのがあって、その上での今の状態だろうから、そんなに簡単に「そういう会話ができる」というふうにはならないんだろうな、とも思いますけど。でも、そうなったらいいなあとは思う。彼女の個性にもよるのかもしれないですし、難しいですね。
投稿: パンダ | 2011年5月24日 (火) 18時50分
パンダさん
やはり、そのへんのことを含んでのお話ですよね。なんか、最初に読んで、そのことがまずピンと来ました。そして、私はまだその重力圏から抜けることができていません。そのことに気づいたこと自体、ほんの2年ほど前のことですし。
このところ、端から見ればほんの些細なことなのかもしれませんが、本当にいろんなことが重なってしまって、かなり参っています。それこそ、自分でいつの間にか作ってきてしまったものではあるのですが、「カレン」のイメージ返上、という感じです。
特定のひとりに対して何か言えば済むというものでもないし、それをしてしまうと、自分自身が大きく傷つくことになるだろうし、かと言って、取り込まれてしまう・取り込ませてしまうことはお互いに対して失礼でもあり耐えられないことでもあり、・・・と、かなり悶々と、悪戦苦闘しています。以前と違って意思表示はしっかりしているものの・・・相手があってのことですし、なかなか、本当に難しいです。
相手が自分以上に体力も気力もあるとわかっていれば、安心して、いっそのことバンバンやれるんですけどね。そういう安心感があれば人と戦いもできるけれど、そうでなければ戦えない・・・よくも悪くも、それが私です、昔も今も。
投稿: カレン | 2011年5月24日 (火) 21時27分
カレンさん
> やはり、そのへんのことを含んでのお話ですよね。
あ、それ書いてるときは全然意識してませんでした~ (^ ^;)ゞ
カレンさんのコメントを見て、そうか!と思っただけで……
> 「カレン」のイメージ返上、という感じです。
それって、脱皮の時、羽化、バージョンアップっていうことでしょうか。
新しくなる時って、それまでの殻を脱ぐから、傷つきやすい時期ですよね。
繭さんのブログ「羽化」を見て癒されながら変身していかれるのかな。
投稿: パンダ | 2011年5月25日 (水) 10時16分
ASなのか、ACなのか、わかりませんが、私は「人とつながる」ということと、「人間関係に巻き込まれる」ということを、幼少期に間違って覚えていたと思います。
育った家庭においては、家族の伝達係で、調整役で、巻き込まれることが私の立ち位置だったのですが、おそらく両親共にアスペルガーの家庭ではそれが出来ても、外の世界ではそもそも通じないし、キャパオーバーでした。
それで長らく、家ではつながりすぎて、外ではつながれない…このギャップはなんだろうか、という時期が続きました。本当のところは、家でもつながっている実感はなかったのですが、当時はそういう実感が得られることはとても少なくて、分かりませんでした。
そのうち、友人と「つながれた実感」を得ることが出来るようになって、「なんだろう? これは自分の知っているつながり方と違う」と、どこかで無意識にもやもやしたまま、家と外との価値観が乖離した日々が続きました。
ここ数年になって、パンダさんおっしゃる重力圏にいることにはっきりと気付いて、今は重力源と意識的に距離を置いています。
きっと、本当に重力の影響を受けずに(人の受け皿をすることが自分の存在価値と思わずに)いられるようになったら、今よりももっと「空気の読めない人」になるような気がしますが、それが本来の私なら、それでいいやと思っています(笑)
もともと察しが悪いのに、それが出来ないことで自分を見失ったり、毎晩うなされて寝汗びっしょりで飛び起きたりするのは、もうごめんです。
つらつらと書いてしまいましたが、やっぱり私、反抗期なんですね(^ ^;
カレンさん
以前、カレンさんが仰っていたこと(ドーナツの覚え書きのお話)、優等生をいい子ちゃんに換えると、私のことかと思う内容でした。今回のお話も、似たような心境になったことがあります。
私は「それはこういう理由で無理」と言うことは出来ても、「やだ」と言えない自分に困っていました。最近、夢の中で「ぜっったいにやだ!!」と言って目が覚めて、何の夢だったのか覚えていないのですが、なんだか嬉しかったです。
カレンさんのコメントを読んでいて、そんなことを思い出しました。
投稿: 繭 | 2011年5月25日 (水) 17時57分
パンダさん、繭さん
何度も書こうとしてみましたが、考えることが多すぎて、どうしても文章がまとまりません。
心の整理ができない、というのは、こういう状態のことを言うのかなぁ・・・という感じです。
繭さんの「羽化」にあやかりたいです。私の場合は、うちに6年近くいるエビと同じで、何度も何度も脱皮を繰り返している、という感じでもありますが(笑)
繭さんの写真には、日々癒され、そして、感動しています。
投稿: カレン | 2011年5月26日 (木) 11時24分
反抗期の繭さん
> きっと、本当に重力の影響を受けずに(人の受け皿をすることが自分の存在価値と思わずに)いられるようになったら、今よりももっと「空気の読めない人」になるような気がしますが、それが本来の私なら、それでいいやと思っています(笑)
そういう「開き直り方」が出来ると、却って人付き合いが楽になって、うまくいく部分も出来てきたりしないのかなあと、そんな気もしました。ま、気がしただけで、ほんとはどうか分かりませんけど (^ ^;)ゞ
エビちゃんタイプのカレンさん
無限の脱皮、無限の成長…… ということでしょうか。
なんか常に変化し続ける最先端の生き方だと言えなくもないのかも知れないけど、
ご当人にとってはずいぶんしんどいことですよね、きっと……。
カレンの夫さんとの関係が大きく変わることで、
改めてもう一つ足下にあった問題が浮かび上がってきたとか、
そんなことなのかなあと勝手に想像したりもするのですが。
もしそうなら、ある意味必然的で「順当な脱皮」なんですけどね。
カレンの夫さんとの関係の変化には「自然との出会い体験」が大きかったようですが、
今度は繭さんがカメラに収めた「自然」に支えられ、
また反抗期の繭さんとの出会いに共鳴しながら、というところが
新しいところなのでしょうか。
すみません。わかんないのに勝手なこといろいろ書いてしまいました m(_ _)m
投稿: パンダ | 2011年5月26日 (木) 22時01分
パンダさん
今日の午後、エビを見ながら、そして、新緑のことを考えながら、私は「エビな緑」に
改名しようかな、などと考えていたんですよ。そして、それをもう1度、頭に浮かべた瞬間「ん?エビな緑? 海老名みどり・・・あれ?」という感じでした。で、「あ、この改名はだめだ・・・」なんて、本気半分冗談半分で(笑)
>無限の脱皮、無限の成長…… ということでしょうか。
なんか常に変化し続ける最先端の生き方だと言えなくもないのかも知れないけど、
ご当人にとってはずいぶんしんどいことですよね、きっと……。
カレンの夫さんとの関係が大きく変わることで、
改めてもう一つ足下にあった問題が浮かび上がってきたとか、
そんなことなのかなあと勝手に想像したりもするのですが。
その後、ゆっくり落ち着いて考えてました。まさにパンダさんのおっしゃる通り
です。
自然とつながった体験から自分の中に大きな変化が起こり、そのことが夫との関係を大きく変えることにつながり、また、それとほぼ同時に、夫の関係の背後にあった父との関係と対峙し、そして、その2つの関係が収束してきた頃に見えてきたのが、母との関係。
本当に、いろんなものの陰に隠れて、2年前まで全く気付いていなかったのです。
カレンの夫さんとの関係の変化には「自然との出会い体験」が大きかったようですが、
今度は繭さんがカメラに収めた「自然」に支えられ、
また反抗期の繭さんとの出会いに共鳴しながら、というところが
新しいところなのでしょうか。
すみません。わかんないのに勝手なこといろいろ書いてしまいました m(_ _)m
たぶん、そうだと思います。どんなにどんなに、自然と共鳴しても、一番、その共鳴する心の内側の奥の部分を、一番狭めてしまうのが、
生まれて最初に、親によって作られた環境の中で身に着けた規範とか考え方とかいう、厚い暑い皮。脱いでも脱いでも、着せられてしまうコールタール状の鎧のような感じもしています。
そこの部分があまりにも強力な日には、その私の周りの鎧によって、ドーナツの穴の部分が見えないほどに小さく小さくなって、魂の輝きが見えなくなりそうになります。
私が私でいるために、私の内的世界を守り、内的世界で本当にやりたいと感じていることを、外に表現するためには、いっそ、発想をひっくり返して、内的世界を自分の外に持ってきて表現してもいいのかもしれませんね。
鎧を脱ぎ捨てるのか、破るのか、ひょっとすり抜けるのか・・・とにかく、内的世界は、外的世界とつながっているのですがら、自分の意識さえ変われば、なんとかなるものなのかもしれません。自分の奥深くの世界だけれども、自分や自分の外側の価値観・概念・評価・・・そんなものを飛び越えて、もっと自分を超えたところで表現する可能性もあるのかもしれません。
パンダさんの見守りを胸に、自然を胸に、繭さんの世界を胸に、ここの皆さんお力も借りながら、何かを生み出せれば、と思います。
「親の不幸の責任を子どもが取ることはない」・・・チロさんの言葉も大きかったなぁ。
皆さんが、それぞれに、先生です。
投稿: カレン | 2011年5月26日 (木) 23時56分
カレンさん
カレンさんは、脱皮の先輩ですね(^ ^)
そして、しょっちゅうぐるぐるしている私は、心の整理ができない先輩ですね(笑)
脱皮とぐるぐるを同時は大変過ぎるので、自分を甘やかしすぎているかな位で、ちょうど良いのではないか、などと思います。
現実にはむずかしいとしても、甘やかす気分で(^ ^)
パンダさん
反抗期の繭です(^ ^)
開き直りたいですが、まだまだ小心者です。でも自己暗示を…(笑)
開き直ることと、人とのコミュニケーションを模索することは別物なのだなぁと、最近思っています。
先日いただいた蛇の写真のコメント、ご名答です。
あれは星の王子さまを読んでいないと分からないので、反則でしたね(^ ^;
投稿: 繭 | 2011年5月27日 (金) 00時06分
カレンさん
上の私のコメントは、カレンさんの前のコメントに宛てたものでした。
>私が私でいるために、私の内的世界を守り、内的世界で本当にやりたいと感じていることを、外に表現するためには、いっそ、発想をひっくり返して、内的世界を自分の外に持ってきて表現してもいいのかもしれませんね。
このお気持ち、なんだか分かるなぁと思います。
私も同じような危機感を抱いて、あのブログを始めました。
お母様と、ご自分との狭間の苦しさも、分かるように思います。
うまく言葉が出ませんが、これだけでも伝えたくて。
投稿: 繭 | 2011年5月27日 (金) 00時32分
海老名みどりをやめたら体がエビになっちゃったカレンさん
> そこの部分があまりにも強力な日には、その私の周りの鎧によって、ドーナツの穴の部分が見えないほどに小さく小さくなって、魂の輝きが見えなくなりそうになります。私が私でいるために、私の内的世界を守り、内的世界で本当にやりたいと感じていることを、外に表現するためには、いっそ、発想をひっくり返して、内的世界を自分の外に持ってきて表現してもいいのかもしれませんね。
とっても素朴な話なんですけど、ドーナッツの穴って、最初から「内側」じゃなくって、外側の世界と切れ目なくつながってますよね (^_^)
投稿: パンダ | 2011年5月27日 (金) 09時11分
〉カレンさん
理不尽な心の葛藤、よくわかります。
様子が目に見えます。
惑わされて、負けないでください。
絶対、負けないでくださいね。
カレンさんは、間違っていなしい、とても素敵な方です。
惑わされる必要はありません。
カレンさんが、毎日の生活を、あくまで毅然な態度で(親に対して、媚びる必要もなく、嘆く必要もなく、悲観的に思う必要もなく)
かと言って、カレンさんは、威張る人でもないし、親に口で無謀に偉そうな事を言ってるわけでも全くありません。
ただ、ただ、その時、その時、カレンさんが正しいと思った事や、行動、態度をとれば良い話。
自分の思った事を伝えて、(手紙でもいいでしょう)
時には、無視したり(完全無視ではなく、あ、ちょっと忙しいからごめんね!)とか言って、少し離れて家事をする(何か仕事を見つけて)…とか、
「あ、ごめん、用事思い出したから帰るね!またくるからね!」…とか…その空間を自ら離れるのも、時には必要です。
私はカレンさんは何も悪くないし、そうなったらイライラするのは当たり前の事だと、凄く思いますが、
カレンさんが母の話に「心や言葉が」付き合っている(形になってしまう)と最悪です。
相手はそういう時、「逃げるのか?!」と思うかもしれませんが、そうです、悪いけど逃げさせてもらうんです。最良の方法です。
そして、また時をおいて、何もなかったかのように、普通に付き合う。
毎回、毎回、その繰り返し。
これは、全て私がカレンさんと同じ悩みを抱えて、やり場がなく、混乱した時、アスペの主人から教わった事です。(最近なんですけどね!)
うちのアスペ主人を尊敬しました。
以前書いた、主人の、その場しのぎの考え、都合悪い事は忘れる、依存しない(相手にしない)、自分のしたい事をやる…
う〜ん、アスペは素晴らしい!と、その時思いました。
私と母の関係に対して、完璧な考えだと思ったのでした。
これでスムーズに丸くいくとは限りませんが、
私は主人の考えを、カレンさんに、伝えたいと思いました。
カレンさんは、とても素敵な人だし、間違っていない…と思うこと(行動)を、ただ、ただ、やれば良いと思いました。
相手も少なからず…気付く事を祈って!
早く元気になって、またカレン節を聞かせてくださいね!
投稿: みみ | 2011年5月27日 (金) 09時20分
繭さん
あのブログ、そういう危機感からなんですね。今あらためてお伺いして、そのお気持ちよくわかる気がします。
そして、あの意味不明のドーナツの話、そう、まさに覚書という感じでした。なんか、こう、ポヤ~ンとしている時にふっと感じることが、私の今の生き方の指針になっていることが多いので、その瞬間のことを、書きとめておきたくなって。
↑
ここって、マルチ機能搭載のブログになってますよね。懺悔室機能までありますから。
(すみません、勝手に懺悔してます。)
パンダさん
>ドーナッツの穴って、最初から「内側」じゃなくって、外側の世界と切れ目なくつながってますよね (^_^)
思わず、「パンダ君、いいところに気がついたね~!」とか「素晴らしいことを考えているんだね~!」とか言いたくなってしまいました・・・失礼(^^;)
そうなんですよね、そう、最初からつながっているんです。でも、しかし、にもかかわらず、
自分のこととなると、数年前まではそんなふうには全く考えたこともなかったんです。
自分の肉体とか自意識とかだけで、外側をでガチガチに固められてしまっていたのか、私は、自分の内側と外の世界がつながっているということに全く気がついていませんでした。
でも、意識が自分(と、思っている部分)から、ふっと離れた瞬間、自分の内側の空洞のようなところに気づき、それが、外の世界の空気や他の生き物・植物と全部つながっているいことに気がついた、
その時、初めて、自分はガチガチの外壁に囲まれているわけではなく、ちゃーんと、外の命とつながっていて、それに支えられるようにして?その中に浮かんでいるような感じで?存在しているのだ、と感じたのです。
でも、まぁ、その自分の肉体や自意識があるから、私は他者と区別もされていて、他者の肉体や自意識に囲まれた、他者の内側の部分ともつながることができたのだと思いますが。
なんにも区別がなければ、自分の内側もない・他者の内側もない、それこそ全部宇宙になってしまうでしょうから。
肉体や自意識を否定するわけでは決してないけれど、そこ"だけ"に意識が言っている間はしんどいなぁ、と思ったり、
でも、肉体や自意識があってこそ、自分と他の人という区別があり、その区別もあるからこそ「つながり」もあるのだろう、と思ったり。
相変わらずの、カレン風自己完結問答です(笑)
みみさん
親身のアドバイス、ありがとうございます!
なんだか一生懸命、文字を打ち込んでくださっている姿が見えるようです。
と、ここで、みみさんの書き込みをコピーしようと何度かトライしたのですが、なぜか、さっきできた操作が今はできず・・・(^^.)・・・すみません、パソコン音痴です、本当に。
みみさんが、ご主人から教わったと言われること、すごくよくわかります。書かれていたことは、私が、「幸福論」に勝るとも劣らないと思う「カレンの夫名言集」の中に入れたいようなことのひとつです。
本当に、そうなんです、人とつながり過ぎる私に、つながらないやり方を実施で(?)あるいは、いろんな言葉で一番教えてくれたのは夫です。
これまでの人生の中で、大人になって知り合って一番身近にいる夫。その夫だから、一番揉めもしたのですが、
その夫と揉めたことで、それまでの、私の人生の中の外側から順々に問題点が見え始め、どんどん人生初期=内側の問題に向かって順々に向かい合ってきています。
こう考えると、やっぱり夫とは結婚すべくして結婚したという気がするし、私の人生にとって最大のキーパーソンです。(謎もまだ残りますが、それも含めて人生のお楽しみでしょう・・・笑)。
パンダさん、繭さん、みみさん、皆様、
母のことを、これほど文章にしたのは初めてでした。
父のことは、高校生の頃からすでに日記にいろいろ書いたりし、その後も、気持ちを表現する場がたくさんありましたが、母に対しては気づくのが遅かったこともあり、
なんだか全然わからないままに、昨年秋ぐらいまで、なんだかモヤモヤしていました。
でも、何がどう問題なのかだんだん見えるようになり、そして、自分が「つながらない」関係を知って、心地よい立ち位置も知り始めると、「つながりすぎる」関係から遅まきながら自立したい・・・と強く願うようになったようです。
とっても遅い反抗期ですが、「順当な脱皮」なのでしょう、きっと・・・と思えるようになりました。皆様、ありがとうございます。
あ、それから、ドーナツ・ドーナツと何度も書いたり読んだりしていたら、無性にドーナツを食べたくなって、今日、整体に行った帰りに買って帰りました(^^)v
投稿: カレン | 2011年5月27日 (金) 18時13分
カレンさん
脱皮、おめでとうございます。(で、いいのでしょうか?)
そして、おつかれさまです。
ドーナツの外側も、内側も、まるごと食べて、一息付かれたでしょうか◎
私も昨日、新たな脱皮を開始しました。
私の脱皮(絵)はどう仕上がるか、下書きなし・技術なしのノープランで、経過を楽しんで来ます(^ ^)
投稿: 繭 | 2011年5月28日 (土) 01時44分
繭さん、ドーナツの外側も内側も、まるごと食べて、一息つきました(^^)v
ドーナツの外側も内側もなくなりましたが、両方、私の中に入りました。パンダさん風に言えば、そのうち、それはまた外に出るんでしょうけど?!
↑
(「カレン」はやっぱり脱皮したのでしょうか・・笑)
繭さんも、新たな脱皮、どうかそのプロセスを楽しんでくださいね(^^)
投稿: カレン | 2011年5月28日 (土) 10時09分
とても魅力的な記事でした!!
また遊びにきます。
ありがとうございます!!
投稿: ビジネスマナー | 2011年9月24日 (土) 21時03分
ビジネスマナーさん
お返事遅くなり失礼しました。
「魅力的」と書いていただいて、何書いてたっけ?と思わず読み返しました (^ ^;)ゞ
綾屋さんと熊谷さんが「当事者」という立場を離れずに問題に向き合っている、
その「魅力」がすごいんだと思います。
熊谷さんなんてお医者さんですから、ある意味もっと「客観的」に分析する
という方が周りにも受け入れやすいし楽なんでしょうけど、
でもそれじゃ自分の悩みに届かないんでしょうね。
そういうの「当事者研究」と呼ばれるらしいですけど、
なんか応援したくなります。
投稿: パンダ | 2011年9月28日 (水) 15時13分