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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年5月25日 (水)

コミュニケーションの変わり方とアスペルガー

 最近の世界を劇的に変えちゃった人は誰? って聞かれたとしたら、まずビルゲイツ、ビンラーディン、そしてフェイスブックのマーク・ザッカーバーグあたりを思いつきます。共通点は何かと言えば、ネットの世界で今までの人のつながり方とか国境線の意味とかを変えてしまう力を持った人たちというところです。

 ビルゲイツは言うまでもなくマイクロソフトの御大で、ウィンドウズやエクスプローラーやアウトルックや、要するにネットでやりとりするための道具を広めながら大もうけした人ですよね。ビンラーディンはそういうネットを最大限に利用して、今まで誰にも手が出せなかった世界の王者アメリカの心臓部を直撃し、その後の世界の秩序が劇的に変化する最大の引き金を引いた訳で、彼自身はもう死んじゃったけど、このインパクトはこれからもさらに広く、深く、大きく世界を変えていく。で、マーク・ザッカーバーグはもう映画も出来たみたいだけど、フェイスブックで瞬く間に世界の数億人の人をつないでしまい、その結果今中東では「独裁的」と言われていた政権がどんどん崩壊したり、危機に立たされたりしてます。

 ネットというのはほんとに人と人のつながり方をすごく変えていますよね。ラジオとかテレビとかももちろん大きく世界を変えたけど、まあ一方的に情報を流すだけで、ある意味では「中央集権的」というのか、基本的には「多数派の世界」を支える道具になっていると思います。でもネットというのは「少数派」がどんどんつながっちゃう道具なんですね。それまでは周囲に誰も分かってくれる人がいなくて、個人で抱え続けてきた問題とか、あるいはやり続けてきた趣味とか、そういうものを日本中とか世界中から同じような人が集まって「グループ」でやれてしまう。

 このブログもそうなわけですけど、ま、多分世の中的には変わり者の集まりみたいになってますよね。でも毎日必ず数十名から100名近い方が全国から、あるいは海外からも読みに来てくださっていて、それがこのところ着実に増えている感じがあって、しかも熱心に何ページも読んでくださる方が多くて、半年でもうページビューも3万6千を越えちゃってる。びっくりです。

 100名っていったって、日本人口1億2千万から見たら120万分の1でしょう?0.00008%位かな。少数派もいいところですよね。でも、こういう場の意味って、そういう数字で測れるようなものではないじゃないですか。コメントを下さる皆さんの議論の重みが0.00008%だという訳ないですもんね。それぞれの人にとって、まあ自分の人生の重み100%な訳ですし。

 しかもこのブログの場合、ありがたいことに、少数派の中でもしばしば対立する立場にあるアスペと定型の方たちがつながっていろいろ対話が出来たり、なんだかびっくりするような共感が両者で生み出されたりしています。それも驚き。しかもお互いに名前も知らないし、会ったこともないような人たちな訳ですもんね。というか、それだからこそ、というところがきっとあるんでしょうけれど。

 ということで、このブログも一つの例になるように、ネットは今まで少数派として日陰に置かれてきた沢山の人たち(いろんなタイプの少数派が沢山集まると、全部合わさるとすごい数ですよね。むしろ多数派かも)が、それぞれにそれぞれのひとにとって大事な小さなつながりをあちこちで生み出していて、そのことがこれからの世界を全然違うものに変えていくんだと思います。

 で、最初に戻るんですが、上に挙げた三人の内、二人はどうもアスペルガーの人のようですね。それがものすごく面白く感じられるんです。圧倒的に多数の定型の人間のコミュニケーションスタイルを劇的に変えているのがアスペルガーの人だということ。コミュニケーションに障害を持つ、と多数派から言われている人が、多数派のコミュニケーションを変えてしまうということの不思議さ。

 joさんがその影で沢山の涙が流されているんだ、というような意味のことをかかれていましたし、それもまた事実なんだろうなと思うんですが、それはまたその問題として考えることにして、アスペと定型のコミュニケーションを考えるときに、今世界で起こっているそういう不思議な変化の構図みたいなことも、どっかで頭に入れておく必要があるのかなと、そんなふうに感じます。

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コメント

ここ数日来、「文化の差ではなく、文化の習得の仕方の差」という点に絡めて、一般化、カテゴリー化の話をコメントにしつこく書いていました。それとの関係なのですが、もはや、自分勝手に論じているかもしれないので、どこに書いたらいいかわからず --- 自分の blog 立ち上げろコノヤロって聞こえてきそうですが --- なので、とりあえず新しい話題のところに書かせてもらいます。

なんだかんだ七転八倒あった挙句に、うちの子供は診断を頂きました。診断書には「アスペルガー症候群、または、特定不能の広汎性発達障害」でした。玉虫色。いくつかの機関で何度か異なる種類の発達検査を受けてきました。その検査プロファイルというのが、いづれもかなりのギザギザでした。幼児期の発達検査プロファイルがギザギザ=能力が凸凹、というのがどういうことなのかについて考えておきたいのです。

PEP-R でも WISC でもビネーでも、知能関連の検査ならたいていそうですが、検査項目が、動作性とか、言語性とか、それ以下の下位分野についても、細かくカテゴリー化されています(精神医学的に、臨床心理学的に、それらの経験的にということなのか、それ、即ち定型的ということなのか)。

それらの検査でうちの子は、すぐ隣接している領域で、パーセンタイルが上位5%だったり下位5%だったりしています。「いくら何でもこれがこんなにできるのなら、ほとんど同じタスクであるこれもできて当然だろう」というようなことが、本当に、本当に、できなかったのですよ。あり得ない!これには私も相当ショックを受けました。目の当たりにしてもしばらく信じられないようなことでした。

自閉症施設での療育を始めたころは、自動的に気づく力が、ほとんどありませんでした。今でも強烈に私の記憶に残るその頃のエピソードです。何かの検査タスクをやらせている最中に、いきなり横で太鼓叩いても、笛をふいても(これも検査項目の一部です)ほんとうにピクリとも影響をうけないで、黙々とタスクを続けていました。当時この子は、耳塞ぎをするような聴覚過敏も併せ持っていたのです。静寂の中でいきなり大きな音ですから、横で見ていた大人の私は驚いて跳び上がったような音です。これには(こいつはフツウではないな)と思いました。一方で、同じ検査の最中にですよ、防音した検査室の窓の外からの微かな物音、私が耳をすませれば、(ああ確かに聞こえているな)と感じられる音に、気を散らされてタスクが滞って遂行不能に陥ってしまうという場面も、本当にあったのです。このアンバランスはいったい何?全く同じチャンネルの聴覚の処理でしょう。それが、察知できないほどに脳まで届かなかったり、やってることができなくなるほどに脳まで届き過ぎていたりしてたわけです。(本人にすれば全く異なる音質だったのかもしれません。なにしろ過敏でしたから。)

うちの子のそういう性質は、療育などを受けながら成長してきて、今ではかなり改善しています。調子の良いときは他の子と大差ありません。現在では、表面的に沈静しています。耳塞ぎもおさまりました。注意力も暦年齢相応とまではいきませんが、いくつか年下の子供たちと同程度には追いかけ発達しています。そのことは本人も特別気にしてないし劣等感も持っていないようです。でも、何かの形で、どこかに残したまま成長していくというのは、ありそうなことだと思います。何かの拍子に表面に表れてきて、この子の何かの能力にブーストをかけるのか、この子を何かの形で苦しめるのか、そいう可能性はあると思っています。

しかし、そのような定型的ではない認知体系を使って○歳までの知識体系をつくってきたということ、これは根本の所で、多数派の定型(つまり発達スクリーニングに一切ひっかからなかったような大多数)の子供たちのような知識獲得をするしかけとは、一味違った非定型的な知識獲得のしかけを発達させている可能性があると思うんです。私たちが子供だったころは、検査スクリーニングなんか無かったわけで、うちの子のような子供たちも「オクテ」とか「育てにくい」とかいうレッテルを貼られることはあったでしょうが、大人になってちょっと変わってることなんか、誰も、本人でさえも、気づかず、気にすることさえあり得ないことになっていた(いる?)んだと思います。そういうことが、文化(多数派の構成的体制?)との関わりあいの中で、何とも言えない「味」というか「個性」になって、ひょっこり顔を出すことがあるのではないでしょうか。

『文化の差異』は、別の定型的多数派の知的行動様式をひきずっているということで、「何かちがうぞ、おかしいぞ」と言ったって、それはいづこかの「定型的多数派の知的行動様式」ということにちがいないわけですよ。でも、非定型な人というのは、それこそ独自に近い個性的な知的行動様式を持っているように思うのです。

そんなユニークな人たちも、同じような趣味の人と出会い、つながることでコミュができたりする可能性も部分的にはあるかもしれないけど、、、例えば、(電車の車内アナウンスを大声で繰り返すような子はカナー型に近いんでしょうか?)そういう自閉的鉄道マニアを集めてきたらうまくコミュが自然発生するんでしょうか。そこに文化は育つのでしょうか。てなことを考えていると、障害と個性の連続性が、ぼやーっとグラデーションで見えてきます。

で、やっぱり親は子に苦労してほしくはない、そんな立派になんなくてもいいからというわけで、個性をある程度、平にならせばよかろうと思うわけ。療育みたいな訓練で、できない不得意を底上げしてあげたらよかろう、と私のような素人は考えるんですが、それは無理なんですって。不得意なことを取り出して訓練して克服するというのは、フツウの人でもとっても嫌なもんです。こればっかりやられると人間が歪みますって。でも、アスペルガーの多数はそういう状態で成育してきて、二次障害を抱えこんで苦しむのではないでしょうか。スクリーニングも診断ももらってない人はそうなりがちでしょうね。じゃ、どうするかって、凸の得意を伸ばすことにより、全体を引っ張り上げて凹底が人並になるようにしてあげるしかないようです。

私は、「この子の育ち」を眺めながら、「配偶者の育ち」を想像して自分の頭の中で再構築しているのです。定型的には自然な行動だと思いますが。そうすると、受容できないことは受容できないで変わりありませんが、配偶者の子に対する言動に対する理解と(奇妙な異常とも言える)『共感みたいなもの』が私の中におきかけている。にも関わらず、どんなに理解しても、それは私的には、子に二次障害を与えるような絡み方なので、身を挺して守らないわけにはいかない。そうすれば配偶者との溝を深めるというジレンマです。自閉症、反応性愛着障害、発達障害、ADHD、アスペルガー、人格障害、、、、こんなにいろいろな概念が、特定の状態を理解するために区分されてきている一方で、それってみんな同根なんじゃないの?っていう面も確かにあるんですよね。少なくともうちの場合はそうですね。ああ、統合失調もこの中に入りますよ。うちの配もトーシツを疑うに足る言動が出ていた時期がありましたから。

人生の中盤でいろいろな経験をつんで、そういう凸凹がこなれてくる可能性はあります。でも、そうやったところで凸凹が残っているならば、人生の後半で、加齢により脳機能低下して凸凹山が全体的に下がってきたときに、凹の深さ、凹箇所の多さによって再び『障害』が顔を出してくるかもしれません。特に生殖、子育てを終えた後というのは、そいう時期と期を一にするのではないでしょうか。これが『自称アスペルガーの配偶者たち』から「認知症を相手にしているみたいだ」という言葉になって聞こえてくるものの私なりの解釈です。

知能のベルカーブと絡まって、人間発達のカーブも(「徳」というようなものも含めて)数値化できないですけどベル型になってるんじゃないでしょうか。幼少期に人よりオクテで急激に発達したした人は、老年期の坂をころげ落ちるとか、、、恐い冗談です。

私、何かに挑戦をするたびに凡人であったことで悔しい思いをしてきましたが、そのことのなんと幸だったことか、なんて勝手な合理化しながら、人生の下り坂を転げ落ちています。ちょっと急すぎると思うけど。。。

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