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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年5月 6日 (金)

あきらめの話

 チロさんが「僕は絶望なんかしてませんよ。希望があるから苦しいんだ。」というドラマの台詞を紹介してくださっていて、うーん、と唸る感じでした。そうなんですよね。絶望しきれない、まだどこかに可能性があるんじゃないかと思いながら、でもいつまで経ってもその可能性が見えてこない。むしろ状況はどんどん悪くなる。でもやっぱり希望を捨てられない……。ほんとに、ちょっと言葉にならないくらいつらい状況です。

 そういえば「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とかいう言葉もありましたね。これって希望を捨ててるのか、それとも「身を捨てたら何とかなる」という希望を持っているのか???……

 joさんがコメントで、「この子に「あなたはこの環境に生まれたのだから、これを当然と思って成長しなさい」ということは、「大人になって親と同じ苦痛を味わえ」と言うのと同じですから。そこはやはり私にできることがあるうちはあきらめきれないです。」と書かれたことは、やっぱりそこは同じだなと思えます。私の場合は1度目の通院は上の子の状態が本格的に悪くなったとき、そこをなんとか改めて子どもと向き合って子どもが一人で歩き始められるようになって、とりあえず私の状態も上向き、そして二度目は下の子の問題がぐっとシビアになって、そこからまた暗中模索が続き、その中でなんとか先が見えてくるようになり始めた頃、力尽きた、という感じでまた通院が始まりました。

 私の場合はその二回目の時期とパートナーとの「アスペルガー」という理解の共有が成立した頃が重なり、改めて話し合う中で、ここは最初から(?)その理解が「福音」となったカレンさんと少し経過が違いますが、まずは衝撃的な事実(自分が必死でこらえ、努力し続けてきたことが、ひとつひとつ全くずれていて、逆効果でしかなかった、とか無意味だったということを突きつけられること)が次々に見えてくる中で、どんどん状態も悪化していきました。言ってみればチロさんが書かれていた「希望」という言葉の「無意味さ」を一つ一つ目の前で潰されていくようなことだったのかもしれません。

 同時にそういう「現実」が「理解」されていく中で、改めて足場探しを細々と続けてきた、というのはまだ「あきらめきっていない」状況だったということになるのでしょうか。でも何をあきらめきってなかったのかは、今はまだよく分かりませんが。とにかくその経過の中で、下の子どもの先行きに対する前向きの確信も強まっていき、ようやく昨年末当たりに「谷底」に降り立った感じになったという展開。

 ああ、そう考えると、チロさんの選択も、私やjoさんの現時点での選択も、一見方向は違うように見えて、実は同じことなんですね?やっぱり「子ども」をあきらめるという選択肢はない、というところで。このあたりはカレンさんの場合、もちろんお子さんのことを含みつつではあるけれど、ちょっと違う面もあるような印象を持ちます。なんというか、とにかく「自分自身であること」についての確信みたいな、そういう思いを近代医療への絶望や自然との向き合いの体験などから獲得してこられた、そのことがとても大きそうです。

 自分自身であることへの確信について、私がどうだったのかとちょっと考えてみるんですが、ある意味では物心つかない昔から、強烈な自己主張の固まりのような母親と、融通の利かない訳の分からない頑固さの父親の闘いの狭間で震えおののきつつ、ただし、極度に自己中心的ではあってもその両親のそれぞれの形での「愛情」はしっかり注がれることで自己崩壊は免れつつ、その親をモデルとして取り込んで「自分自身であること」を相当貫いてきた人生ではありました。

 で、逆にそういう自分の生き方の中で、子どもにこれだけのしんどい思いをさせてしまったことで、それまで自分自身について感じていた「価値」がすべて無意味に思えてきてしまった、という展開でしょうか。もちろんこれまでにも大小様々な挫折体験は繰り返してきましたけれど、自分の人生に全く意味を感じられなくなるほどの、自己肯定感をここまで足下から根本的に崩されてしまう体験というのは、子どものそういう苦しみに直面したときが生まれて初めてでした。

 ああ、そう考えると、チロさんはきっとそういうある種の「後悔」はしないですむんでしょうね。それからお子さんが小さい内にズレに気づいたjoさんにしても。それってすごいことだなという気がするし、ある意味うらやましくもあります。もちろん、こんな自分にはこういう選択肢しかなかっただろうな、とか、これ以上の力も能力も自分には無かっただろうという気も今はしていて、その意味では「あきらめ」なのか、ずうずうしい「自分の受容」なのか分かりませんが、そういう感覚はあるので、お二人を嫉妬するとか、そんなのとは違うけど、でもある意味うらやましい。

 
 と、ここまで書いてきて改めてまた思うことは、このように状況を理解したりするというのは、チロさん、joさん、カレンさん、そして私と定型(変型?)の側の人間が歩んできた道についての(私の理解の)ことで、それぞれのパートナーの方の、あるいはアスペの方の世界観というのか、感じ方というのか、そこから見ればまた違うような理解があるのかなあとも思います。こういう問題の設定の仕方自体もしかするととっても定型(変型?)的かも知れないので、そこはうまく対話になるかどうか、なんとも今は分かりませんけれど。

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コメント

パンダさん、そしてこれをご覧になる皆さんこんばんは。
ご無沙汰してしまいましたが、すべての記事とコメントを拝読しております。

さて「あきらめる」ということに関して自分のことを思い出して書いてみます。
カレン(妻)と違って、私はずいぶん前からすっかり「あきらめ」ていたのです。いわゆる「幸福な夫婦」として生活することを。
日常の中で例えば友人との付き合い、お互いの親族との付き合い、子育てに関わる問題、仕事に対する考え方・・・・大袈裟にいうとすべてが食い違うわけですから。
夫婦であること(=結婚生活を維持していくこと)は、「お互いに我慢すること」だと固く信じていましたし、何度激しい喧嘩をしようとも、妻がどんなに体調を崩そうとも、文字通り「お互い様」で「どちらにも問題があり」「一方的に被害者面をするのはお門違いである」と主張し、徹底的に攻撃していました。

妻自身も今は自覚していますが、ACだった彼女は子どもの頃、遅くとも若い時代に、他人から厳しい言葉で、欠点や短所を指摘される経験をしていませんでした(少なくとも私にはそう見えていた)。私の言葉で何かに気づき、どん底まで行ったときに「私の主張」が妻に理解され、論争にピリオドが打たれる日が来ると思っていたのです。

今思えば、それは「あきらめていない」ということだったのでしょうか。本当に「あきらめ」ていたらもっと早い時期に妻の話に耳を傾け、納得いかないままに妻の望むような言動を取り、表面をつくろって生活するという選択肢もあったのかもしれません。「あきらめ」られなかったからこそ、極限まで行き、そこで初めて自分のASが原因なのではないかと考え始めたのです。それから今日まで、驚くほどのスピードでいろいろな変化が起きています。

どんな変化があったのかはまたあらためて書きます。

昨夜、就寝直前に夫のコメントを読み、大筋では「ああ、あの頃のああいうことね」理解しながらも、

あらためて当時のことが思い出され、予想外にショックを受けました。例えば次の部分。

"何度激しい喧嘩をしようとも、妻がどんなに体調を崩そうとも、文字通り「お互い様」で「どちらにも問題があり」「一方的に被害者面をするのはお門違いである」と主張し、徹底的に攻撃していました。"

夫が文字通り「徹底的に攻撃」しようと思って、仕事を失い家事もできず鬱状態にあって、しょっちゅうめまいを起こすような状態にあった私を「被害者面するな」と思いながら攻撃していた図・・・今こうして文字で読むと、当事者として経験していたことではありますが、本当に激しいですよね。

そして、私が一番、気になっていたことが、上記のような夫と私の姿を子どもたちに日常的に見せてしまっていたことです。

元気になった後も、上の子からは、「お父さんとお母さんの話し声が聞こえるだけで眠れなかった」「お母さんが死んでしまうんじゃないかと、ずっと心配だった」と、何度言われたことでしょう。

私のACの問題は、上のような激しい状況があったからこそ噴出し(私のやり方をことごとく否定し非難する夫の中に、私はいつの間にか昔の父の姿を見ていました)、結果的には、その問題と対峙することもでき、

その対峙のあと、私は自己肯定感を持った、夫の言うところの「史上最強の敵」として(バージョンアップと言うより、生まれ変わったような形で)夫の前に再び現れたわけです。

自己肯定感が持てないうちは、私の方がおかしいのだろうとか、私が悪いのだろう、とかいう思いが強く、夫の問題にまで気が付いていなかったのですが、

自己肯定感を持てるようになってからは、夫や、夫と私のことを客観的に見る余裕ができ、それからASという糸口をつかんだ・・・ということです。

それにしても、

ASと定型のことをお互い知らないときは、本当に、どちらも大変でしたね・・・。

「この人はASだから」「この人は定型だから」という、「納得とあきらめ」が双方に生じたことが、夫婦としてやっていくことを「あきらめない」ことにつながったのだろう、と思う今です。

夫も、何か続きで書くことがあるようですが、今日はこれから1日仕事なので、朝のうちに書かせていただきました。

昨夜のショックで、思いの他、夜中に目が覚め朝方まで眠れなかったほどなので、このショックは今ここで吐き出して、仕事頑張ってきます!・・・引きずらないのが元気のコツです(^^)v

珍しく続けてコメントします。

先ほど午前中の仕事からカレン(妻)が帰宅して、このブログでのやり取りについて話しているのですが、そこから浮かび上がってきた点を少し書かせていただきます。

1 「史上最強の敵」という表現をめぐって

私がこの表現を使ったのは、生涯で初めて「同じ土俵に立って議論が出来ない」相手と果てしない(と感じられる)争いを繰り広げていたからです。そしてそれは2年ほど前に終結しており、現時点では私にとってカレンは「好敵手」という表現が最もふさわしい相手なのです。
ところが昨日の私のコメントの後にカレンが記入したものを読みますと、認識の相違がありました。特に大きかったのは、私が現時点で彼女を「史上最強の敵」と思っていると彼女が認識している点です。同じブログにコメントをしたり、あれこれ話しているのにこれほどの「ズレ」があったことに驚きました。

カレンにその旨話しましたところ、私同様か私以上に驚いています。「じゃあ今の私は『好敵手』っていうこと?」「それそれ!」というやりとりがありました。

2 変化したなと感じること

ここ2年ほどで自分でも変わったなと思うのは、「自分の尺度だけで物事を判断しない」ように気を付けるようになったことです。これには「人物の評価」も含まれます。以前の私なら、問答無用で切り捨てるところも、カレンに聞いて「参考にする」局面があります。出来るだけ「論争」や「喧嘩腰」にならないように気を付けて、人の話を聞くと思いがけない展開があって、楽しいこともあるというのをこの年になって実感しています。

パンダさん、皆さん、お久しぶりです。

今回の記事の内容が、今の私の気持ちに重なるように感じています。
書き上げてから、個人的過ぎる、かなり重い話だと気付きました。
読んで、ご不快に思われる方がいらしたら、申し訳ありません。
私は「話す=自分自身に希望を持つ」ということをしたくて、それを自分に許したくて、ここに投稿します。

>「僕は絶望なんかしてませんよ。希望があるから苦しいんだ。」

今、私はここに嵌り込んでいます。
私の場合は、親をあきらめられないという状況です。
そして、親にあきらめられた子供だった大人でもあります。

私の父は、経営者ではないのに、所属する会社の資金繰りの為に、私たちの家を担保にして、普通の人が一生掛かっても返せないような負債を作り、私たちは住む家を失い、苦しい生活をしました。
そのことを父は、会社に感謝されて、自分は良いことをしたと、今でも考えています。

お見合い結婚だった母は、父のことが好きではなかったらしいです。
その父のしでかしたことが露呈してから、母は父が心中を考えていると、私にほのめかす(あからさまでしたが)ようになりました。
父の追い詰まり様を考えると、それは十分考えられることではありました。

当時高校生だった私は、父に話をしました。
皆が家族でいる為に、何故このようなことをしたのか、心を開いて話してほしい…と。
分かった、と言った父は、何日待っても何も話さず、夜中に帰りを待って問うた私に、自分は責められていると、自分が死ねばいいんだろ、と怒鳴りました。
このことを、当時、私は誰にも話しませんでした。

(その後、私と夫が婚約報告に父を訪ねた際、父は私の気の強さの象徴の話として、この話を嗤いながら夫に話しました。衝撃でした。)

私はその日から、父が心中を決行する日を恐れるようになりました。
毎晩、父が帰宅してから寝付くまで、息を殺して待ちました。
夜がとても長く感じられました。

その後、両親は離婚し、家は競売に掛けられました。

私に心中を持ちかけたのは、母でした。
私は断りました。
親に殺されることは、受け入れられませんでした。

思い入れのある家を出て、新しい住まいに移ってしばらくしてから、私は部屋に閉じこもりました。
母には、私が一連のことで傷ついているということが、うまく理解できないようでした。
ましてや、その加害者が父だけではなくて、母も入っているということは、想像も出来なかったらしいです。
毎日、母は結婚を、それをもたらしたお見合いを悔い、父とその親族への呪詛を吐き続けていました。
子供がいたから、離婚も出来なかったと、何度聞いたでしょうか。
その中で、私は、幸せだと思っていた子供時代が、実は母にとっては我慢と不満の日々であったと知りました。私の思い出は、母の言葉で次々に壊れて行きました。

でも私は、母に「結婚は、悪いことばかりではなかった」と思って貰いたかったのです。
少なくとも、子供がいることは、マイナスではなかったと、彼女に言って欲しかった。
だから、母を責めることは、一言も言いませんでした。
当然、私が閉じこもる理由を話せる訳もなく、次第に苛苛とするようになった母は、私をあきらめました。
母が私の前に置いた緑色の縁取りのカード、いのちの電話の番号案内…。
私は一人で電話をし、近くの精神科を紹介され、一人で受診しました。
母はそのことに、ほとんど興味を持ちませんでした。
彼女にとって、精神科に行くという人間は、異世界の人間だったのです。

結局、私は半年間、閉じこもりました。
それがタイムリミットでした。
家に娘が閉じこもっているという状況に、母が耐えられなくなったのです。
私は、母に理解されることを諦め、仕事を探しました。
笑うことも、泣くこともなく、重い気持ちと身体を引きずって、仕事をしました。
ただ、生きていました。

以上が、今も私を苛む、最もつらいフラッシュバックの原点です。
これが、アスペルガー傾向の為か、PTSDなのか、自分では分かりません。

数年前まで、私には、上記のことが辛いことだったと、うまく認識できていませんでした。
これ程大変な状況で、子供を捨てなかった母に、誇りと感謝と負い目を感じていました。
母は、本当は、父や子供に人生を邪魔されずに幸せになれた筈だったと。

自分を受け入れられなくなると、母に、父に、受け入れられなかった、子供の自分が蘇ります。
元々、父は子育てに無関心で、仕事で家におらず、母は幼い頃から過集中やこだわりの強い私を奇異の目で見ていました。(母にもあるのですが私程ではなく、自覚がないようです)
両親が、彼らなりに私を愛していたことは、分かっています。

私には、上記の間もずっといてくれた友人たちがいて、自分で努力して、それがある程度は報われて自分でも満足して、夫と出会って、今は彼がいるのに…。
自分を受け入れられない私がいやです。

地震の前は、大丈夫かもしれないと思える程度まで、諦めることが出来ていました。
でも嵌り込むと、心の底から、母に、父に受け入れられたいと、願ってしまいます。
私が一人の人間で、心を持っていると、気付いて欲しいと。
ただ、私が喜んでいること、悲しんでいること自体を、否認しないでいて欲しいだけなのです。
決して叶わないのに、大人になってからも何度もトライして、思い知っているのに、諦められない自分が、苦しいです。

でも、私は、親を愛する自分を諦めたくはありません。
本当は、親を求めることと、愛することは違うと、私は気付いている筈なのです。
私はもう、愛されるのを待つだけの子供じゃない。
私はそれを知っている…それが、私の持ち続けたい、希望です。

ここまで読んでくださった方に感謝します。
ありがとうございます。

繭さん、お久しぶりです。私がドラマの台詞を紹介したことで、重い気持ちにさせてしまって、ごめんなさい。
辛い思いをされてきたんですね。繭さんは人の言葉をまっすぐ受け取る人だから、ご両親の言葉は怖いし辛かったでしょう。(子供ですしね)
繭さんが辛い思いをされたことを否定するわけでは全然ないし、私の勝手な推測だけど、もしかするとご両親の言葉は「売り言葉に買い言葉」「大袈裟な泣き言」の部分もあったかもしれないと感じました。私の父もしょっちゅう母に向かって「殺すぞ」と言い、実際に暴力もありましたが、私は子供ながら「また言ってるな」くらいに思ってました。暴力は今でも母に怪我の後遺症があるくらい深刻でしたが、父が本当に母を殺す気がないことはわかってました。私が定型だからか、同じ境遇で話し合える姉妹がいたからか、父の言うことは話半分で聞いてました。
DV家庭でも私が割と平気でいられたのは母が「子供たちが生まれたからよかった」「あなたたちがいるから頑張れる」と言ってくれたからだと思います。離婚後は生活が苦しく余裕が無くなり、お互いキツイ言葉を言い合い、私が反抗したり激ヤセしたり暗い家庭になってたこともありますが、なんとか持ち直した感じです。
母は離婚前は「子供のため我慢する」と言ってたのに離婚後は「子供のためにも離婚した方がいいと思った」と言い、そのときはナニソレ?と思ったけど、今自分も離婚を考える身となって、どっちも本当だろうと思います。母子家庭だと、無責任な大人から「お母さんに苦労かけるんじゃないよ」とか「お母さんに感謝しなさい」とか言われて自分がお荷物のような気がして嫌だったけど、自分が親になって、つくづく「親の不幸に子は責任がない」と思います。感謝するのは、また別の問題。
父に関心を持ってもらえななかったせいで若い頃は自分に自信が無く、なぜか結婚相手私にまで関心を持ってくれない人を選んでしまいましたが、今では、彼らが私に関心を持たないのは私の問題ではなく彼らの問題だと考えてます。
私の育った環境が繭さんほど深刻じゃないから分かってないのかもしれません。もし、お門違いのコメントだったらごめんなさい。

のっけからリンクです。

http://blog.goo.ne.jp/nekotech/e/e74a5b530435c3d20f0795ea0dc246e8

別に私は霊能者のブログの愛読者ではありませんが、「あきらめないラット」の実験をどこかで読んだことがあって、それを確認したくて検索していて、このページに行き当たりました。

たしかに私は「あきらめの悪い」野郎です。だから生育過程で経験した耐性訓練を思い出してみました。中高は運動部で、たいした戦績ではなかったにしろ、そこそこ頑張ってた思い出があるし、思春期の嵐の中でも、自分で舵取りして切り抜けたという思いがあるし、青年期もうまくレールに乗っかることをしなかったようです。そこで味わった苦難の中には社会の掟に罰せられた面もなきにしもあらずですが、その向こうの景色も見たことがあります。

だからでしょうか「ヒーヒー言いながらも、でもなんとか次を模索している…」というのは。

溺れないように、こうして支えあいながら、ぼちぼち行きましょうや。

繭さんが今、生きてここにいらしてくださること、心から祝福し感謝したい気持ちでいっぱいです。

繭さんと私は何かとても似ている、という印象をここで初めてお会いした頃からずっと持っていましたが、今回のお話を伺って、なぜそこまで似ているのかの謎も解けました。

>毎日、母は結婚を、それをもたらしたお見合いを悔い、父とその親族への呪詛を吐き続けていました。
子供がいたから、離婚も出来なかったと、何度聞いたでしょうか。
その中で、私は、幸せだと思っていた子供時代が、実は母にとっては我慢と不満の日々であったと知りました。私の思い出は、母の言葉で次々に壊れて行きました。

この部分だけをとっても、全く同じです。

高校生になった頃から、

父からは、ひとつ失敗するとその傷を広げるような非難を延々とされ、何かうまく行っても「まだまだダメだ」「そんな程度では社会では通用しない」と結局、延々と説教されることになり、

母からは、「お父さんが話を聞いてくれないから」「相談に乗ってくれないから」「○○してくれないから」と、いつも重い相談を持ちかけられ、「あなたたち(子供)さえいなければ離婚するのに」「離婚できたのに」を繰り返され、

そして、その同じ頃、勉強面で初めての挫折を経験したことも重なって(今思えば大したことではないのですけど)、

とにかくその時期からは、自分に対する評価が下降する一方でした。

子どもの頃からの夢だった職業につき、その職業が自分にとってのアイデンティティとなったことで、社会的にはそれなりに評価され、その評価が自分の評価にもなったのですが、

そういう外側のところ以外の、もっと内側ところでは、私はとても自分の評価が低かったのです。

今やっと、あえて年齢も言いますが40代後半になってやっと、自分というものができてきて、チロさんが書かれている 「親の不幸に子は責任がない。感謝するのは、また別の問題」ということがわかるようになりました。

(チロさん、お若いのに、ここまで考えていらっしゃるなんて、すごいと思います。)

それから、繭さん、

私は、繭さんのことを、私と似ていると感じる以外に、娘の姿と重ねて見ていることが多いことに、いつの頃だったか気が付いていました。

そして、今回書かれていることを読んで、繭さんの子ども時代のお姿が、「お母さんが死んでしまうんじゃないか」と、眠れないまま、もう本当に怯えながら心配していた娘の姿と重なるものであり、

心に抱えてこられた問題が、娘のそれととても似ている、ということが、とてもよくわかりました。

私は「繭さんとご主人の関係っていいなぁ」と思っているのですが、その気持ちが、いつの間にか、「娘も繭さんのご主人みたいな人に出会ったたらいいなぁ」という気持ちに変わっていることがあります。

繭さんの希望は、私の希望でもあります。

パンダさんが書かれているように、チロさんやjoさんのところのように、子どもさんが小さいうちからなんらかのケアができていらっしゃることを、ある意味とても羨ましく思ったりもするのですが(それはそれで、ある意味とても大変なことなのだとも思います)、

もう子どもたちが小さかったあの時期には戻れません。今、そして、今からをよりよいものにしていくことしかできないし、そうしていくよう、ぼちぼち、あきらめずに行きたいと思います。

チロさん、お久しぶりです。

私が嵌り込んでしまったきっかけは、地震とそれにまつわる色々なことでした。
チロさんが紹介してくださった台詞が、偶然にも今の自分の心持ちにぴったりの言葉で、思い切って書き込みをした次第です。
チロさんの言葉が原因ではありません。誤解を招くような書き方になってしまって、すみませんでした。

チロさんのお話を伺いながら、自分の子供時代に親の話をどう受け取っていたのかを思い出してみると、本当に私は両親の話を真に受けていたのだなぁと、思います。
チロさんの書いてくださった思い出は、子供のチロさんにとって、とてもお辛かっただろうと思うのに、それでも「話半分」という言葉が出てくる…。
なんといったらいいか、とてもしなやかな感じを受けました。

私は二人姉妹の姉なのですが、私の妹は、私よりダメージが少なくて済んでいます。
そのことを私は、親から聞かされた話の差によるものと考えていました。
けれどもそれだけではなくて、子供の頃の私の「真に受け」具合を考えると、妹に見えていた両親と、私に見えていた両親の違いは、それぞれのしなやかさの違いによって、更に大きくなったのかもしれません。

私の両親は、他人(互いの配偶者や親戚や妹)に聞かせたくない話を私に話すことが多く、それを口外しないことが求められていました。
今になって考えると、もともと聞かされやすい立場(長子)であったことに加えて、私が聞いたことを真に受けて、耳を傾け、沈黙を守り、彼らの望むように動くことで、余計にその立場を強くしていたように思います。

現に、私はその後十年以上の間、誰にも話さず、その後はごく親しい人と夫にだけ聞いてもらっていました。
なんだか、考えが固まるべくして固まっていますね(苦笑)

「話半分」、目から鱗…というよりは、目に鱗が貼りついていることを教えてもらった気分です。
私が話半分に聞けるかは、今のところ微々たるものですが、そういう聞き方に、以前よりも実感が感じられるように思います。

>「親の不幸に子は責任がない」と思います。感謝するのは、また別の問題。

そうですね、と、最近少し思えるようになりました。
ずっと混同していた子供の頃の私に教えてあげたいです。

チロさん、チロさんのお話を聞かせていただいて、嬉しかったです。
ありがとうございます。


joさん

記事のご紹介、ありがとうございます。読ませていただきました。
私もしみじみと「あきらめの悪い」人間です。

思い返してみると、「あきらめることをあきらめた」転機といえる時期がありました。
部屋で、自分に閉じこもっていた頃は、自分は壊れるのではないかと、楽になりたい期待半分に思っていたのですが、案外丈夫なもので、いつかは眠くなるし、空腹も痛みも鈍くなっても完全になくなりはしない。
希望のない状況で、生きる理由も、死ぬ理由も、そう簡単には見付からなくて、それでも私は生きていることに気付いたのです。

正確にはいつだったのか、思い出せませんが、あるときふっと「この状況はいやだ。私は幸せになる」という思いが浮かびました。そこが始まりでした。
河原で砂金をさがすような気持ちで、泥の中に、一粒、光るものが見付かったら、それをより分けて、大切に、大切に持って見つめ続けること。今ではずいぶん集まりました。
だから今、見えてくることがあるのかもしれません。

あきらめずに泳ぎ切ったら、それは「溺れたネズミ」ではないのかもしれませんね。


カレンさん

祝福と感謝、言葉にならないくらい嬉しいです。

カレンさんのご両親のエピソード、お母様の話は勿論、お父様の話も私の父と少し似ています。父は私を娘というより息子に対するように接していて、何かと自分の力や優位を誇示していました。
後に、父親は娘を可愛がるのが一般的というのを見聞きして、本当にそんな父親が沢山いることに驚きました。

子どもの頃からの夢を叶えられたこと、努力されて、すごいなぁと思います。

私にも子供の頃からの夢があったのですが、それは進学をしなかった段階で、あきらめました。
幸いに、もうひとつの夢に近い職業に就けたことなどもあり、それは今では懐かしい思い出になっています。

時々、もしあの事態が起きずにいたら、私は今どうしていただろうかと考えることがあります。
見かけ上は平穏な家庭で、希望通り進学して、そこからうまく行って夢が叶ったとしたら、きっとそれには満足して暮らしていただろうと思います。
同時に、今の私が抱えている問題は、時限爆弾のように潜伏し続けただろう、とも思います。
それではどちらが幸せかと考えると、「どちらも」と思います。

私はカレンさんに、姉のような、こうあって欲しかった母親のようなイメージを持っていると思っていますが、もうひとつ、自分の理想像のような憧れに似た淡い気持ちを持っているみたいです。

私は今、三十代半ばで、カレンさんと娘さんの間にいると思います。
両親に対する自分の本当の気持ちに気付いたのは、ごく最近のことです。
母に「離婚前後のこと、本当はつらかったの」と告白できるようになるまで、十五年以上の年月が掛かってしまいました。
その告白が母に受け入れられることはありませんでしたから、自然な成り行きだったとも思います。

カレンさんの娘さんのこと、いくつになっても親の愛情は子供に届いて、そこに根を張ると、自分への希望も込めて思います。

繭さん
「しなやか」と言ってもらって嬉しいです。でも、私は単に子供の頃から自分に甘いチャッカリ者なんです。父親を見くびったりするのは、定型の、と言うより私のいやらしさ、ずる賢さによるものであって、自慢できるものではないのですが、この方法で繭さんの背負ってるものが一割でも二割でも軽くなればいいと思って書きました。
繭さんの砂金がたくさん集まった話、読んでほっこりしました♪

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