2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« コミュニケーションの変わり方とアスペルガー | トップページ | 「もう一つの常識」 »

2011年5月26日 (木)

「つながり方の違い」という文化

 joさんがこれまでのいろんなコメントを改めてまとめるような、すごく大きな問題提起(と私には思えるのですが)をしてくださっています。

 私が理解した範囲で、提起されている問題を書いてみると、ひとつは先日来からやりとりのある、アスペルガーと文化の問題で、果たしてアスペルガーのみなさんの「独特な(と定型から見える)」コミュニケーションスタイルを、定型とは違うひとつの文化として見ていいのかどうか。見られるとすればどういう点で、見られないとすればそれはなぜなのか、ということです。

 「障がい」をひとつの文化とか、個性として見る、という考え方は、決して新しいものではなくて、少なくとも私の学生時代にはもうありました。もしかするとそのころが出始めなのかも知れませんが。たとえば耳が聞こえないみなさんのグループとか、手話でコミュニケーションをする方たちがありますよね。で、手話にもいろんな「方言」とかもあるらしいんですが、聴覚障がいの奥さんを持っている友だちに依れば、声の言葉とはまた違った味わいがあるようで(私は分からないんですが (^ ^;)ゞ )、耳の聞こえる人々のつながりとはちょっと違った独特のつながり、コミュニティーができるようです。

 ただ、昔の聴覚障がい児の教育では、絶対手話は使わせなかったそうです。それはなぜかというと、聴覚障がい児も大人になって耳の聞こえる多数派の中で生きていかなければならないのだから、多数派と同じコミュニケーションの技術を身につけないといけない。そうすると、手話は通じないわけだから、あくまでも口話(相手の唇の動きで何を言っているかを読み取り、自分の声でそれに応え、話しかける)を身につけなければならない。手話を知ってしまうとそっちが楽だから口話が身につかなくなるから、絶対禁止、ということだったようです。

 で、経験者によると、この口話を学ぶ、というのはものすごくしんどいことで、同じコミュニケーションの力を身につけるために、多数派のこどもの何倍も何十倍も努力しないといけないわけです。そうやって身につけたとしても、相手の唇で言葉を読み取るのはいつまでたっても完全には無理で、ほんとうに自分の理解であっているのかどうか、常に不安という状態に置かれてしまいます。耳が聞こえる場合、よそ見していても話は聞こえますけど、口話の場合、常に話している人の口元をものすごい緊張して正面から見つめ続けなければならない。

 声を出して話す、ということについても、耳が聞こえる多数派の人間は、話しながら自分の声を聞いて声の高さや大きさを調節しています。でも聴覚障がいの人にはそれは無理ですから、息の出し方とかのどの震え方とか、なんか他の手がかりで一生懸命調節をしながら、相手の人の反応もみたりしながら話すしかない。

 どちらの場合も、最終的にはその読み取り方が正しいか、声の出し方が正しいかを自分で判断できないんですね。あくまで「正しい判断」は耳の聞こえる相手、多数派が握っていて、自分は常にそれに従うしかないわけです。

 そういうのはおかしいんじゃないか、という異議申し立て。「私たちには私たちの特徴にそった生き方があり、私たちの特徴にあったつながり方やコミュニケーションがあるんだ」というのが、障がいを独自の文化として考え、耳の聞こえる多数派に引け目を感じずに平等に生きていこうとする模索だったんだろうと思います。

 同じような流れの中で、自閉症もひとつの個性とか、あるいは文化として考えようという考え方が出てくるんだと思いますが、カナータイプの自閉の子どもたちとおつきあいのあった私は、そこはちょっと違うと感じていたんです。何が違うのか、というと、ちょうどjoさんが問題にされているようなポイントに関わります。つまり、カナータイプの自閉の子どもたちの場合、自分たちの力で仲間集団を作ることができない。もう少し言えば、自分たちの力で集団を作って生きていく、ということができないわけです。やはり大人になっても基本的な生活にわたって「ケア」の対象という形で多数派の社会に受け入れられ、生きていくことが必要になります。そこは仕事に就いたり家庭を持って社会生活を送りながら、仲間同士のつながりも作って行かれる聴覚障がい者とは大きく違うように思えました。

 この強いイメージが私にとって「自閉」ということの基本になってしまったものですから、パートナーが「自閉系」の障がいを持っている、という理解がほんとに遅くなってしまったんですね。なぜならパートナーはちゃんと視線を合わせて会話も出来る。仕事もしている。友だちも(すごく少ないし、いつのまにか関係が切れたりしてるみたいだけど)それなりにないことはない。トルストイだのドストエフスキーだのオースティンだの、文学関係は教養のない私なんかついて行けない (^ ^;)ゞ (あ、そういえば学生時代、文学関係の授業のレポートを代筆してもらったことも (^ ^;)ゞ )。絵や音楽も好きで、漫画も小さい頃から描いてるし、そのころは漫画のストーリー作りもしていた。たしかにちょっと自閉っぽい「性格」の所はあるけど、これが自閉の訳がない、と長いこと信じて疑わなかったんです。高機能自閉というのは名前として知っていましたが、映画「レインマン」のイメージになっちゃっていたし。あれならカナータイプの自閉の子がそのまま特殊な知的能力を伸ばした感じで理解できましたし。

 さてそこであらためて「アスペルガー」という「自閉系」の障がいに向き合って、それをどう理解したらいいかを考えるようになったわけです。そうするとある意味で一番難しいのが、例の「三つ組」の障がいの定義です。私の中ではカナータイプの自閉の子についてはそれはすんなりわかる。でも、アスペルガーの人については、多数派の大部分の人が「この人はなんか付き合いづらい人だ」などとは思っても、「アスペルガー(あるいは障がい)だ」とは思わないように、「基本的にはコミュニケーションがとれるけど、ちょっと(あるいは結構)苦手」という感じでしか理解できなかったわけです。とてもじゃないけどカナータイプとは比べられないし、「同じことの延長上」とは思えなかった。

 ところが私もある段階からはもう何かが自分たちとは決定的に違うもの=アスペルガーという理解しか出来なくなり、パートナーも当事者の本などを読んで自分がアスペルガーであることを自覚し、その理解が共有されるようになってからいろいろ話し合ってみると(それができるようになるまでも困難があったわけですが)、ここに何度も書いてきたように、何度もお互いの理解の仕方のズレに衝撃を受け続けてくると言う経過がありました。

 そうなると、今度は「自閉だから共感性はない」「仲間を作りたいという気持ちがない」「ひととつながりたいと思わない」といった逆向きの「決めつけ」的な理解が覆い被さってきます。たしかにそう見ると分かる、ということがたくさんありました。でも、それだけだとどこか自分の素朴な実感とはずれるんですね。で、どう理解していいかわかんなくて、このブログでやってきたような模索を続けてきました。そうするとやっぱりアスペのドラマーの金田ゆうじさんの話(アスペルガーの人にとっての「仲間」と「孤独」)でもそうでしたし、繭さんとの一連のやりとりでもそうでしたし、そういう単純な決めつけは不可能だということが改めて分かってきます。Rosamonde姐さんも熱心にこの場に参加してくださる。やっぱりなにか「共感」があるし、「仲間」が求められているし、「つながり」が必要とされている。

 で、先日ご紹介したアスペの綾屋さんや小児科医の熊谷さんなんかも、はっきりと「三つ組」の障がいという見方自体に違和感を述べられている(つながりの作法)。結局あれは多数派の目で、「多数派のようにはできない」ということを、特徴づけた言い方に留まってしまっていて、「多数派」の目からはそれである程度分かる部分があるんだけど、アスペの当事者の素朴な実感からはずれてしまう、ある種の「決めつけ」になってしまっているし、そしてそのことが実際アスペルガーのみなさんとこうやって対話が出来てみれば、私たち定型(多数派)に属する人間にも、それなりに了解できるようになってきているように思えるわけです。

 そしてそれだけではなく、アスペ当事者の自助グループみたいなことも、困難はあるんでしょうけれど、成立はするわけですよね。

 そういう現実を前提として、あらためてjoさんの書かれていることを考えてみたいわけですが、

===========================
『文化の差異』は、別の定型的多数派の知的行動様式をひきずっているということで、「何かちがうぞ、おかしいぞ」と言ったって、それはいづこかの「定型的多数派の知的行動様式」ということにちがいないわけですよ。でも、非定型な人というのは、それこそ独自に近い個性的な知的行動様式を持っているように思うのです。
===========================

 この文章だけからいうと、多分そのポイントは「アスペルガーの人たちは基本的にバラバラな個人として独自の世界を作るわけだから、多数派のグループをどこかに作ることが出来ない。だから文化とは言えない」ということだと思えるのですが、そこがまさに微妙なポイントだと思えるわけです。

 上に書いたように、カナータイプの自閉の場合には書かれていることでそのまま理解できる。でもアスペルガーのみなさんは、そこは越えて他者との独特の「つながり方」を持っているし、そのつながり方で当事者グループを作ったりもされるわけです。その点では聴覚障がいの皆さんとも似ている。前にどなたかがコメントで書かれていたように(すみません、このブログ、うまく検索ができなくて (^ ^;)ゞ)、IT関係の企業だと、そういうアスペルガー的な対人関係が「多数派」になって、定型の行動パターンが異様な「少数派」になってしまう職場もある。(歯科技工士の方たちの職場ももしかしてそういうこともあるかなと思ったことがあります。


 なぜこのポイントにこだわりたいかというと、それは次の二つの見方の分岐点に関わると思えるからです。

 ひとつは定型には適切な「つながり方」があるけれど、アスペの人はその「つながり方」の能力が欠如していて、それこそがアスペの障がいの本質なんだ、という考え方。そしてもうひとつは定型が定型に適した「つながり方」を持っているように、アスペはアスペに適した「つながり方」があるから、定型とアスペの間のコミュニケーションは、その両方のつながり方をすりあわせる、という形で模索するよりないし、それは一定程度は可能なんだ、と考える考え方です。

 そのどちらの視点からアプローチするかで、アスペと定型のコミュニケーションの模索の仕方がだいぶ変わってくるんじゃないかと思えます。

 で、その点で言うと、私はこれまでのこのブログでの模索や、パートナーとの模索の中で、今のところやっぱり後者なんだろうなあという感じがしているのですね。そのお互いの「独特のつながり方」に注目して、文化の違いという見方がある範囲では役に立つような気がしています。

 という話を前提として、joさんが書かれている大事な問題提起の二番目にうつりたいんですが、ちょっと長くなったので、とりあえずここまで一旦お休みにします…… coldsweats01 

 

« コミュニケーションの変わり方とアスペルガー | トップページ | 「もう一つの常識」 »

コメント

納得できる部分がたくさんありました。

聴覚障害の方達については、少しだけ手話を習ったことがあって(英語で言えば中一レベル)、手話が日本語ではなく別の言語だとわかりました。外国語くらい違いますね。そして、どなたかも以前コメントしてましたが、ろうの人達の中に入るとこっちが少数派でコミュニケーションに不自由がある人になってしまう。ろうの人どうしのつながりが羨ましかったです。手話を習っていたときに昔のろう学校の話も聞いて、普段からろうの人は音が聞こえない不便があるし口話はとても難しい、健常の方が歩み寄って手話くらい覚えたらいいんじゃないかという意見に納得した覚えがあります。でも、難しくて挫折してしまいました(汗)

三つ組も、アスペ関係の本を読んでピンと来なかったんですよね。アスペ当事者の書いたブログとか読むと、定型が問題にしてるところと違う部分で悩んでるように見えます。当たり前だけど、感覚過敏とかは本人にしかわからないわけで、どうも当事者が困っていることと周りの定型が困っていることが一致してないらしい。三つ組は、当事者が困っていることとも周りが困っていることともちょっと離れてるような。様々なタイプの様々な場面で現れる特徴をひっくるめるために、そうなるのかもしれないけど。

5歳になる私の息子は、電車に詳しかったり落ち着きがなかったりと父親に似たところがあるものの、たぶん定型なのですが、いっちょ前にしゃべるので色々わかってんのかと思ったら、幼児向けワークてかやらせてみるとビックリするほどわかってない!やっぱ子供だなぁって。息子に限らず、子供ってそうですよね。え?そっから分かってなかったの?みたいな。そう言えば、赤ちゃんのとき、大人が気づかないような小さな変化(空高く飛んでる飛行機の聞こえないような音とか見えないような姿とか)に気付くからスゴイね〜と思ってたら、視界に入ってるはずのおもちゃを見つけられなかったり。アンバランスで、大人には理解できないことがありました。
本当に今でも、夫はきちんとできることもあってアスペではないのでは?と思うこともあるけど、アスペじゃないと説明がつかないこともあり、やっぱりアスペだろうと思います。

アスペの方々が人とどういうつながり方をしたいと思っているのか、どういうことをつながりだと感じているのか、知りたいです。

チロさん

> どうも当事者が困っていることと周りの定型が困っていることが一致してないらしい。三つ組は、当事者が困っていることとも周りが困っていることともちょっと離れてるような。

 なんか、ここすごく大事な感じがするんですよね。綾屋さんや熊谷さんが強調されているんだけど「当事者の目から見てどうなの?」という視点で考えることの大切さっていうのかな。どうしてもお医者さんとか「専門家」って、「上から目線」で「客観的」に「分類」したり「分析」したり「指示」したりするじゃないですか。まあそれがひとつ大事な役割だとは思うんだけど、でもそれだけだと実際その問題で悩んでいる当事者にはなんか足りないように思えるんです。当事者の目線からはじめて分かる、とても大事なことがあるんじゃないかと。

> アスペの方々が人とどういうつながり方をしたいと思っているのか、どういうことをつながりだと感じているのか、知りたいです。

ほんとにそうなんですよね。で、それって定型の側が勝手に想像してもやっぱり限界があって、アスペの当事者の人と話し合ってみないとわかんない(話し合っても分かんないことも多いだろうけど)んだと思うんです。

定型の側だって、アスペの配偶者との関係で悩んでいるところにはすごく共感できる共通した部分もあるし、やっぱりそれぞれの配偶者の個性とかによって、それぞれに違う部分もあるし、その「同じ」と「違う」のどっちかを切り捨てちゃいけないように思えます。でもそれが何なのかは当事者ひとりひとりで違うんだから、最初から「こうだ」と決めつけられなくて、実際に話してみないとわかんないですしね。

はじめまして。

自己診断ですが、おそらく僕はアスペルガーの側かと思っています。アスペルガー者が障害を持っているというよりも、アスペルガーと定型では異なる文化を持っているというのは僕自身の実感とも近いです。会う人のうち男であれば5%くらいは「こっち側」と感じます。そういう人とはうまくコミュニケーションがとれる。やはりアスペルガーと定型とは異文化なのだと思います。

パンダさんは多数派であるにもかかわらず、自己を相対化されています。これはそう簡単なことではないと思います。頭が下がります。うれしく感じます。

定型発達者がアスペルガー者への文句を書きつらねているのを読むととても悲しい気持ちがしますし「他者への共感性がない」などの記述を読むと理不尽さを感じます。生まれてからずっと定型発達者のなかで生きてきたアスペルガー者とアスペルガー者とはかかわる必要のなかった定型発達者とでは条件が違うのでしかたないことなのかとは思います。

パンダさんのような存在は心強くありがたく感じます。きちんとカナータイプとの違いを語っているあたりに、おためごかしではない本当の理解があることを感じました。

このコメントで「普通をよそおわなくてもいい」というのは気が楽です。そこにあまえないようにしたいと考えてはいますが。僕自身は社会的にカミングアウトはしていないのでいちおう偽名です。「奇異」に思われたり、変にあわれまれたりされることのない社会になるといいのですが。

yoshioさん

 初めまして。

 私が「こういうふうに自分が見て,考えて,行動できたらいいなあ」と思っていることについて,ストレートに認めてくださったようで,とても励まされました。なにか「違う者同士が一緒に生きていく」ための,「共通の足場」の様なものがみえる可能性を感じられるからかもしれません。

 相対化というのはほんとにむつかしいことだと思います。とりあえず一旦は自分を否定してみないといけないわけですから。特に社会的に有利な立場に置かれている側は,自分を否定しなくても生きていけますから,ますますむつかしくなる。

 今ふと思い出したんですが,親鸞の「悪人正機」という考え方,そういうふうにも理解できるんですよね。善人が往生できるのなら,なんで悪人が往生できないことがあるだろうか,という話。

 人間,ほんとは「善人」になんかなれっこないのに,善人は自分を善人だと思いこんじゃっているから,自分を否定して阿弥陀如来の救いの手を求められない。でも悪人は自分を悪人だと思い込んでるから,自分を肯定できずに阿弥陀如来に救いを求められやすい。

 阿弥陀如来は全ての人を救うことを自分の使命と考えているのだけれど,善人は自分の悪に気づけないからなかなか救うことがむつかしい。そんな善人でさえ阿弥陀如来は救おうとされるのだから,ましてや自分の悪を知り,救いを求める悪人が救われないわけじゃないじゃないか。そんな理屈ですね。

 「善人」を「多数派」,「悪人」を「少数派」と置き換えて考えてみても,同じような理屈が成り立ちます。「力の強い者」と「力の弱い者」でも同じですね。ああ,そう考えると,キリストの「貧しきものは幸いなり」という言い方もなんかつながってくるところがありそう。

 そう考えてみると,なるほどこの世の中に「宗教的な考え方」が必要とされる理由の一つもわかる気がします。それはこの世の中で「虐げられた人」の中に大事な「価値」を模索するという働きを持っているのでしょう。(このあたり,常連のにわとりさんが格闘されている問題にもつながると思いますが)

 あ,なんかすいません。勝手に自分の興味関心の方に話を進めてしまいました (^ ^;)ゞ

逆説的でいろんな解釈ができるのが「悪人正機」という言葉の魅力だと思います。
僕自身は「善人である」というのは「金持ちである」や「才能がある」と同じように生まれながらにしてより多くを与えられていると考えられると思います。つまり、もともと良いものを与えられて楽して生きている人間でさえ救われるのだから、「悪人である」という苦しみに耐えて生きている人間が救われるのは当然だといった感じです。
宗教に関しては僕も興味があります。一時期はコリン・ウィルソンにはまっていましたが、今はラーマ・クリシュナ、ラマナ・マハルシ、ニサルガタッタ・マハラジあたりに興味があります。

僕が身につけてきた人間関係の構築のルールとして「自己開示は段階的にしたほうが良い」というものがあります。何度もくりかえしてきた失敗から学んだルールです。アスペルガー的特徴のひとつとして他人と適切な距離をとるのが難しいという点があります。そのせいで、人間関係で傷つくことが多かったかと思います。なのでパンダさんに対しても、自分の情報を小出しにしていくことをお許しください。

「アスペルガーと定型を共に生きる」読みました。すごく良かったです。僕は既婚者です。すくなくとも僕の目から見て「あるある」ネタがたくさんありました。一例を挙げると「妻は甘やかされて育ったからきちんとなおしてやらなければならない」ってのは僕自身もすごく感じていたことです。むしろそっちのほうが「普通」だったという驚きがあります。僕もよく「はっきりと言葉に出さないで『察して』というのは甘えだよね」と言っていました。

妻と僕の違いは「男女差」だと思っていました。たとえば買い物につきあうのは男なら誰でも苦手だったりすると思います。パンダさんのように逆パターン(アスペ妻と定型夫)について知ることはどこらへんが男女差でどこらへんが「定型アスペ差」なのかを知るうえでも貴重だなと感じます。

いずれにしても、僕がこのサイトに気づいたときすでに「お休みします」だったのは残念です。再開を心待ちにしています。
よろしくお願いします。

yoshioさん

 インドの思想にとても関心をお持ちなんですね。

 アスぺの方は「人の心を理解するのが苦手」みたいな理解のされ方をよくされますけど,yoshioさんが宗教的な精神世界に関心を強くお持ちであるとかいうことを考えても,そういう理解がほんとに一面的なものだと感じます。

 私自身は信仰というものを持ったことはありませんが,昔のインドの方だと無我の話とか,好きです。日本だと,西田幾多郎とか面白いですね。アスぺの方にとってそういう「無我」とか,「主客未分」とか,そういう話がどう受け止められるのかは結構興味があります。もちろん人によっても違うでしょうけれど,それでもなにか傾向があるのかどうかとか。

 クリシュナとか,マハルシとか,私はほんとに知りませんけれど,異なる信仰についても否定しない態度を持っているのでしょうか。wikiとか見るとちょっとそんなことが書いてありましたが。異質なものをどう受け入れあえるのか,すごく大きな問題だと思います。

 本を読んでくださってありがとうございました。定型側の私にとってはカレンさんの話は分りやすく,伸夫さんの話はなんだか不思議な感覚で紹介させていただきましたけれど,それがyoshioさんから見ると伸夫さんの感覚がとても自然だ,ということのようですね。ふーん,やっぱりそうなのか,と感心します。私にはよく分らない感覚をとても自然に受け止める方「たち」がいらっしゃるという事実ですね。

 ブログ執筆については,とりあえず私の方から積極的に発信する,ということについてはちょっとお休みをさせていただいています。ちょっと気を張りすぎて,空回りする部分もあるような気がしましたし,どう頑張ってみたところで,それを否定的に見る方がなくなることはないし,自分も謙虚になり切れるわけではないし,もう少し肩の力を抜きながら発信できるようになれないかなあとか,そんなことを思っています。

 幸い常連の皆さんの間での情報交換や意見のやりとりがむしろ今の方が活発になっている部分もありそうな気がして,それには私があまりでしゃばらないことも,もしかして関係する部分もあるのかなと想像したりしています。

 そんなこんなで,そのうちにでしゃばらず,肩ひじ張らず,可能な限り自然体で何かを書けるようになればなあとか,そんなことを考えています。yoshioさんも,何か書きたいこととかできましたら,こちらにでも掲示板にでも,どうぞお気楽に投稿なさってください。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/40141621

この記事へのトラックバック一覧です: 「つながり方の違い」という文化:

« コミュニケーションの変わり方とアスペルガー | トップページ | 「もう一つの常識」 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ