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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年5月27日 (金)

「もう一つの常識」

 昨日はjoさんのコメントを考えるときのひとつ目のポイントである、「障がいと文化」のことで終わってしまいました。結論だけ簡単にまとめると、アスペと定型のコミュニケーションということを考える場合、アスペの人にも定型の人にも「他者とのつながり」は大事で、それを求める気持ちとか、仲間を求める気持ちがあるし、必要としているということは(すべてのアスペの人かそうかどうかは私にも分かりませんが)多くの場合言えるだろうということ。ただし、どうやってひととつながろうとするか、あるいはつながりたいと考えるか(逆に言えばどういうところは「放って置いて欲しい」か)、ということについて、アスペと定型ではかなり違いがあるんだろうということでした。そしてこのそれぞれの「人とのつながり方」を「文化」という見方で考えてみることに、きっとそれなりの意味があるだろうと思ったわけです。

 今日の話はその「それなりの意味」の中味について考えることになると思いますが、そのポイントに行く前に、カレンさんに対するみみさんのコメントで、ちょっと感激してしまった部分があって、ちょうどこの話にうまくつながると思えるので、ちょっと寄り道をします。

 カレンさんはお母さんとカレンさんの関係は、カレンの夫さんとカレンさんの関係とはある意味で正反対な関係にあるようです。一方でお母さんは自分の領域に入り込んでくる。他方でカレンの夫さんとは共感も成り立ちにくく、全く突き放されるような、お互いに入り込みあえない関係にも感じられる部分があったのだろうと思います。

 そのカレンさんに対してみみさんはどうやってお母さんと距離を取ったらいいか、その「こつ」のようなもの(この中味もまたすごいなあと思いましたが)を伝授された上で、こう書かれています。「これは、全て私がカレンさんと同じ悩みを抱えて、やり場がなく、混乱した時、アスペの主人から教わった事です。(最近なんですけどね!) うちのアスペ主人を尊敬しました。以前書いた、主人の、その場しのぎの考え、都合悪い事は忘れる、依存しない(相手にしない)、自分のしたい事をやる… う〜ん、アスペは素晴らしい!と、その時思いました。私と母の関係に対して、完璧な考えだと思ったのでした。」

 ちなみにかく言う私も、以前に何度か考えてみたように、やっぱり自分をもう無意識のレベルにまで渡って強烈に支配するような力を持った、そういう母親の重力圏に大人になっても長いこと無自覚に捉えられていたこと、そのことに知らず知らずに苦しんでいたことと、アスペルガーのパートナーを求めたことが深い関係を持っていて、いわばそれは必然のようなものだったのだろうという理解をしてみました。

 カレンさん、みみさん、そして私という、アスペルガーのパートナーを「(そうとは知らずに)選んだ」三人は、実はこの点ですごく共通した問題を抱えていたのではないかと、みみさんのコメントを読んで思えたのですね。母親の強烈に「つながろう」とする重力を脱する力として、逆に「(定型のようには)つながろうとしない」、その意味で自分の世界を脅かさずに尊重してくれる(ある意味では無関心な)人と「つながろうとした」という訳です。

 これが上の話とどうつながるのかというと、相手との距離の取り方という面で見ると、アスペルガーの人はかなり距離を置く形でつながろうとする。カレンさんのお母さんやみみさんのお母さん、あるいは私の母親のように、強烈に距離をなくそうとする(自分の中に取り込んでしまおうとする)形でつながろうとする人たちも少数ある。で、その間の距離感覚でうろうろしている「多数派」がいるというふうに見ることができそうなわけです。

 すると、たとえばアスペルガーの人から見ると、私たち「多数派」には私やみみさんやカレンさんがその母親に対して感じていたような「近づきすぎ」のしんどさを感じるかも知れない。また逆に境界性の私の母親から見れば、私なんかは「距離を置こうとする」冷たい、共感性のない人間に思えるかも知れない。

 なんか少し単純な図式化をしすぎているところがあると思いますけど、そういう相対的な感じでそれぞれにそれぞれの仕方で「相手とのつながりを求めている」んじゃないかなと思えるのです。どの立場から見ても、相手は距離が「近すぎる」と感じたり、あるいは「疎遠すぎる」と感じたりするけど、アスペルガーの人も決して「つながりを求めない」訳ではない。それは定型とは異なるつながり方なのだし、その意味で「文化」と言ってもいい(あるいは独特の文化的な集団を作る可能性があるし、少数かも知れないけど実際に作っている)んだという気がするんですね。そこはカナータイプの自閉の問題の場合とは相当違うと思えます。もちろん自閉症スペクトラムとかいう言い方があるくらいで、境界線はとても曖昧なのかも知れませんし、このことをどこまで強く言えるかは、アスペルガーの人によって随分違うのでしょうけれど。


 さて、以上で寄り道を終わって次のポイントに行きたいと思います。それは発達検査の「ぎざぎざ」のプロフィールの意味に関係することです。joさんはこんな風に書かれています。 「検査項目が、動作性とか、言語性とか、それ以下の下位分野についても、細かくカテゴリー化されています(精神医学的に、臨床心理学的に、それらの経験的にということなのか、それ、即ち定型的ということなのか)。」

 それで、お子さんの検査結果は細かい項目の出来方がすごく「アンバランス」で、凸凹しているというわけですね。一体それは何を意味しているのだろうということ。結論的にはその検査の作られ方が「経験的にということ」ですなわち「定型的ということ」から理解できることだと思います。


 昔、学生時代とかカナータイプの自閉の子達と付き合いがあった頃に知ったことですけれど、あの発達検査の項目の領域分けは基本的には作成者の直観によるもののようです。実際項目のまとまりを見てみると、なんでこれとこれが同じところにまとめられているの?と訳が分からないものがいくつもありますが、作ってる人もそれ、はっきりとはわかんないみたいなんですよね。面白い(?)ことに。

 で、具体的な検査項目も試行錯誤で「年齢による出来方の違い」がよくでるようなものを探して当てはめていく。それができたからどういう意味があるのか、ということはひとつひとつ丁寧に吟味されているわけではないんです。「あ、これ、年齢で違うから使える」というのが基本。ただ、結果としてその年齢の特徴を表すような項目がある程度集まってくることにはなります。でも本当にそれが大事なのか。それ以外にもっと大事な項目はないのか、ということは不問に付されています。(たとえば思いやりの発達を見るための項目領域なんてないですよね)

 そして検査結果になんで凸凹が出来るかというと、あの項目は「平均的な子どもだったらどのくらい出来るか」というのを基準に並べられています。だから、「平均的な子ども」を物差しにして、より成績が悪いところは凹になるし、より成績がいいところは凸になる。つまり結局は多数派のバランス(平均)が基準なんです。それなのでアメリカとか外国で作った検査をそのまま日本では使えない。日本人の平均を改めて確かめて、それにあわせて作り直す必要もあるんです。たしか「標準化」とかいう言い方だったと思います。同じ日本だって時代が変わると平均が変わるから、ある程度時間が経つと「標準化」をやりなおさないと駄目になります。(joさんの釣り鐘理論の話で言うと、釣り鐘の真ん中や広がり方を実際にそこの社会の人たちで測って確かめてるわけですね。)

 ということで、その社会の平均からどれだけ離れているか、ということで発達障がいのレベルが数字で表されたりしますし、またその凸凹の形の特徴で、障がいのタイプが推定されたりもするわけです。その意味で全部「多数派の目から見た障がいの像」です。だからもし自閉の子の成績を基準にしてそれにあった検査を作ったとすれば、今度は定型の子のプロフィールはものすごい凸凹になります。

 そういう定型の子に合わせた検査が世の中でこれだけ使われるのは、そしてそれなりに「役に立つ」のは、結局社会が多数派の平均に会うような形で作られているところが多いからです。そこからズレればズレるほど、その社会の中でうまく生きていくことが難しくなる。

 そして平均値から離れた「障がい」を抱えた子どもさんを持つ親御さんは、その多数派の社会の中で子どもがなんとか生きていかれるようにと、一生懸命努力されるわけです。逆に昨日チロさんがコメントで紹介してくださった話を使わせていただけば、「手話を習っていたときに昔のろう学校の話も聞いて、普段からろうの人は音が聞こえない不便があるし口話はとても難しい、健常の方が歩み寄って手話くらい覚えたらいいんじゃないかという意見に納得した覚えがあります。」という見方も当然成り立つわけで、なかなかそうならないのは結局多数派の方が社会的に力を持つからですよね。多数派にあわせて社会を作った方が全体としての効率がいいんでしょう。

 
 さて、そんなふうに「障がい」の基準も「多数派」によって作られるのだとして(だから精神障がいかどうかについて「適応出来ているか(本人が困ってないか)」という「後付の話」が大きな判断基準になったりするわけですが)、アスペと定型のカップルの個人的な関係を考えるときに、この理屈だけで調整がうまくいくだろうか、というのが二つ目のポイントになります(……ああ、時間かかった (^ ^;)ゞ )。

 社会の大きな仕組み、ということでいうと、多数派と少数派にどうしても埋められない溝があって、どっちかのやりかたを選ばざるを得ない場合には、多数派にあった仕組みを選ぶ、ということは仕方ない部分もあると思います(だから少数派を無視していいとか言うこととは別のこととして)。逆に少数派の人に合わせて作ると、たとば階段をスロープ化するとか、そういう場合には多数派にも同時にやさしいやり方になったりしますけれど、すべてがそれでいけるわけではなくて、逆に多数派の人がやりにくくなることがいろいろ出てくるでしょう。だからどうしても基本的なところは多数派のやり方に会わせて作りながら、少数派の人もそこでできるだけうまく生きていけるような工夫を加えていく、という形になることは、ある程度無理のない話かなと思います。

 けれどもその考え方を極端にして「少数派は文句を言わずに多数派に従え」という形になるとおかしくなってしまいます。ひとつの社会がひとつの論理だけで統一されてしまうというのは怖いこと、とても危険なことで、柔軟性を失って早かれ遅かれそういう社会は崩れていくでしょう。そういう社会はjoさんが書かれているように、常識を越えた新しいもの(当然まずは少数派から始まる)を生み出す力も無くなってしまいます。多様性は社会の命だし、多様性をいかせる社会が本当に強い社会だと思えます。

 そしてそのことだけではなく、ある意味ではそれ以上に大事なこととして、一人一人の人と人との付き合いのレベルで考えると、そういう「多数派優先」とか、実際問題としてそういう話だけでは通じにくいんじゃないかと思えるわけです。たとえば夫婦。

 自分のやり方の方が多数派のやり方だから、相手もそれに従うべきだ、という姿勢は、実は(頭では良くないと思っても)無意識では私もすごく持っていたようです。でもそういう姿勢を持っている限り、やっぱり関係に無理が出てきます。それはパートナーが繰り返し言っていた「結局私がすべて悪いということなんでしょう」という言い方にもよく現れたように思います。

 もちろん「そういう意味じゃないんだ」と私は言い続けたんですが、やっぱり私は多数派の「常識」を背中にしょっていたんでしょう。それがすごく権力的なものに感じられたのかも知れません。(最近は随分変わって、そういうお互いの「常識のズレ」を感じると、パートナーは半ばあきれたように、半ばふざけて「もう、定型ってそうなんだから困ったもんだよね」みたいな言い方をするようになってきています)

 そういう個別の一人一人の関係の中では、やっぱりお互いが持っている「常識」をすりあわせながら、なんとか調整していくことが必要になると思えるんですね。そこにそれぞれの夫婦の個性というものが生み出されていくんだと思います(みんな金太郎飴のように同じ夫婦でも面白くないでしょう)。そのときに多数派の論理で一方的に決めてしまうことも出来ないし、逆に少数派の論理で支配される、というのも同じように問題になるでしょう。

 そしてそれをするには、どうしてもお互いに「相手の常識は自分と違うところがある」ということを認め合う必要がある。定型からすれば「アスペルガーの人のつながり方」を定型の常識とは異なるもうひとつの「常識」として考えること、アスペルガーから見れば「定型のつながり方」をもうひとつの「常識」と考えること、言葉を換えれば「ある種の異なる文化的なものとして認めること」がそこでは大事になるような気がするのです。

 「もうひとつの常識」という見方がいいなと思うのは、それは「相手の常識」を認めるために「自分の常識」を否定する必要がなくなるからです。もちろん「自分の常識」を守るために「相手の常識」を否定する必要もなくなる。「常識」が複数ある。それに優劣は付けられない。だからお互いを尊重して調整しあうよりない。そういう理屈です。ついでに言うとこういう考え方が実際「異文化理解」では大事にされていますね。

 そういう形をお互いに取ることが出来るかどうか。取れれば状況は大きく変わるし、取れなければどちらかが問題を一方的に抱え込んでしまうことになるか、どちらもしんどい状態になってしまうか、いずれにせよかなり辛い状態が続くと思えます。


 というところで、あらためてこの理屈がjoさんの問題提起、joさんの抱えている状況にどれだけ意味があるんだろう、ということを考え直してみる必要がありそうです。たとえばお子さんの育て方について、joさんが「そうすると、受容できないことは受容できないで変わりありませんが、配偶者の子に対する言動に対する理解と(奇妙な異常とも言える)『共感みたいなもの』が私の中におきかけている。にも関わらず、どんなに理解しても、それは私的には、子に二次障害を与えるような絡み方なので、身を挺して守らないわけにはいかない。そうすれば配偶者との溝を深めるというジレンマです。」と書かれているようなシビアな問題。

 ここには二つほどの問題が絡んできそうです。ひとつはまず「もうひとつの常識」という見方を実際にお互いに共有しあえるのか、という問題。これは「アスペルガーという認識の共有」という話で何度か書いてきましたが、実際ここで壁に突き当たって苦しんでいらっしゃる方は少なくないと感じます。joさんもそこは本当に困難な状態と書いていらっしゃったですよね。

 そして二つ目は、仮に幸い(?)共有できたとして、夫婦間の問題だけなら、「お互いを認め合い、譲り合い、調整し合って」みたいな、まあきれい事とも言えるような話で何とかいける可能性が大きくなりそうです。でもそこに「子育て」という問題が絡んできたら、そういう悠長なことを言っていられるのか、ということについてです。これが三つめのポイントかなと思うのですが、また長くなりましたので、今日の所はここでお休みにします~。(この問題難しそうなので、今私なりの答えが果たして出るのかどうかあやしいですが……、でも大事なところだからいつかは書かないといけないですね (^ ^;)ゞ)

 

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コメント

さきほど、母のことを書いたところにコメント書いてここに来ました。「お~っ」という感じです。今、時間がないので、また!

何故私は夫に惹かれたのか…私も、自分が親から得られなかったものを求めていたんだと思います。

私の母は子に愛情を注いでくれましたが、それが独特で、身体的・物理的な面に限られていました。「見えないものはない」の人でした。
高校生の頃、私が食事を摂れなくなったことがあったのですが、彼女が問題視(心配)したのは「食事を摂らない事」で、その背景を気に掛けることはありませんでした。
十代で精神科に掛かったときも、それは「見えない領域」だったので、遠巻きに見ていて、ほとんど無反応でした。
でも、同じ時期に(実家に行けば今もですが)、私の夜中のトイレの回数を誇らしげに言い当てるのです…。母なりの愛情表現だったのだろうと思います。
父は子育てには無関心で、ほとんど家にいなかったので、子供としては、愛情不足でした。

一年程前に、改まって「お母さん、子供の気持ちを考えたことある?」と尋ねたら、母は「気持ち?……ない」と、玉砕しました。分かっていましたが、ショックでした。
母は「子供には複雑な感情は生まれない」という当時の育児書の記述を、忠実に守って子育てをしたらしいです。そして母の意識の中では、私は今でも「子供」です。

私は、自分の感情や気持ちに関心を持ってもらいたかったのです。
そういった自覚の生まれないままに夫と結婚して、彼との問題が落ち着き始めた頃に、自分の親子問題を本格的に自覚できるようになった辺り、カレンさんと似ています。

自分の経験から考えても、joさんの問題は簡単な解決が難しいと思ってしまいます。
でも、子供の気持ちを受け止めてくれる親がいることは、救いだと思います。

大家族
核家族化
父性不在
男女共同参画社会
男女共同参画家庭
我汝関係
2コンマ5人社会
とりこみ、同化
、、、、

ここまで書いていいの?と思いつつ・・・私も高校1年の時から10数年間、子どもが生まれるまでずっと、激しい摂食障害でした。まだ病名もない時代の話で、世界中でこんなことになっているのは自分だけだ、と、誰にも言えないままものすごく苦しんでいました。

気がついたらすっかり治ってしまっていたのですが、後になって考えたときに、子どもの誕生によって「こんなにも私のことを無条件に受け入れてくれる人がいる」と感じたことが、最大そして自然の治療となったのだと思います。

あと、いろいろ、家族の謎も解け始め、私なりに解決の糸口をつかみ始めましたが、また時間のあるときに。

繭さん

 今回の記事を書きながら、繭さんのお母さんとの関係はどう理解したらいいんだろうかと考えていたんですが、なるほど~でした。
 繭さんのお母さんは繭さんよりもさらに「アスペ度が高い」、という感じなんですね?
 そうすると境界性の母親の距離感から逃げてパートナーに適度な距離を求めた私とは、ちょうど裏返しのような形で、自分を認めてくれる人を求められと言うことになるのか。そう考えるとすごくわかりやすい感じがします。

> でも、子供の気持ちを受け止めてくれる親がいることは、救いだと思います。

 joさんに向けられた言葉ですけど、私が鬱になりながら子どもとの関係を改めて作り直せた後で、子どもからそういう言葉をもらいました。これは本当にそうだと思います。


joさん

 新たなキーワード群、どう展開していくのでしょうね。

パンダさん

>繭さんのお母さんは繭さんよりもさらに「アスペ度が高い」、という感じなんですね?

うーん、難しいです。

母は外的世界へのこだわりが強い人なのだと思います。
世の中とは、仕事とは、家庭とは、母親とは…と、それぞれにニッチな観念を持っていて、そこに強くこだわるし、その見方以外は想定外な感じです。
それらが母にとってはどういうものなのかという質問をすると、「だから、○○とは…」という答えが返ってきます。

私は内的世界へのこだわりが強いです。
それが自分にどう感じられるのか…を基準に、こだわった人間関係や仕事、結婚をして、自分にとって価値の感じられるものをカラスのように集めています。
それらが世間や常識的にはどうかと考えるのは、苦手です。

偏る方向が正反対なのですが、母の方がアスペルガー度が高いかもしれません。
私の育った家庭では、父が一番アスペルガー度が高いと思います。配偶者掲示板の事例に、父とそっくりな話が沢山見当たります。
私にとって、父がどのような人間であるのかは謎で、父と意思の疎通をはかることは、難しいです。

繭さん

> 母は外的世界へのこだわりが強い人なのだと思います。
> 私は内的世界へのこだわりが強いです。

 こういう「こだわりの方向の違い」があるんですね。いや、もしかして「そんなの常識」ということなのかもしれませんが、私は知らなかったので、ちょっとびっくりしました。

 いやあ、そうなのか。そういう風に説明していただくと、またなんだかいままでもやもやしていた分からなかった部分がすーっと見えてくる感じがしています。アスペルガー的個性って、そういう風にも発揮されるんですね……

 多分カレンさんも「内的世界へのこだわり」がすごく強いタイプだろうと思います。だからその部分では定型とアスペの違いを超えて、ものすごくお二人が共鳴したり、共感したり、ほとんどラブレターの交換のようなやりとり(笑)になったりするんですね!

 うーん、いやあ、新鮮です。面白いです。

繭さん

こんばんは。
こちらの繭さんのコメントを読んで、イタタタ…となりました。
外的世界へのこだわりの強い人…その内容など、想像するに、まさに私で…私でした。

それとは別の話で…いつも思いますが、何か変ですよね。
私は繭さんのお話を聞いていて、繭さんの母と私は、なんとなく重なる時も多いのです。
でも、繭さんの母は、私の母とも重なるのです。

でも、変なのです。私は繭さんの気持ちは、いつもよくよくわかるのです。

繭さん、今、多分、頭の中がこんがらがっているでしょう?書いている私もこんがらがっています!
ここ、いつかじっくり話たいのですが、今日は考えるの、やめます!
私は何度考えても、図がまとまらず、
金太郎飴とか、海老○みどりとか、カラスのお面を被った繭さんしか浮かんでこないので、考えるのやめました!
(私の中でだいぶウケました)

でも、「内的世界へのこだわりが強い」というのが、最初、どのようなものか、よくわかりませんでした。
その感覚を基準に、友人関係、仕事、結婚…という事も、???更にピンとはきませんでした。
考えた結果…私の解釈は、「価値観」というより、「世間体」という言葉が浮かんできましたが、

違う言い方をすれば、
「繭さんの母は世間体をすごく気にした
繭さんは、あまり世間体を気にしなかった」
私の解釈はこの形で落ち着きますが…あってるかな?

私は物凄く世間体を気にして生きてきました。最近は、自分自身を大切にしなきゃと思い、少しは丸くなってこれたと思いますが、
以前は、全てにおいて、世間体をきにしなければいけない自分が、最大のコンプレックスだったと思います。
そう…まさにそうでした。
ああ…また今日一つ自分の事が事実として気付けました。何だか嬉しいです(勝手ですが)。繭さんありがとう。
解釈が違っていたらごめんなさい!
話も中途半端でごめんなさい!

> 母は外的世界へのこだわりが強い人なのだと思います。
> 私は内的世界へのこだわりが強いです。

私は、こういうのは典型的タイポロジーとして感じていました。

すんません。ここのコメンターの多くの人(多数派)が、「ASと定型」問題から考えをめぐらせて、自分自身の育ちの「気づき」へと流れて行く良い雰囲気の中で、、、(またしても私は少数派なのだろうか)、、、ちょおっとまったあ。

つながりすぎる人がいる。つながらない人がいる。そういうグラデーションがあって、その程度が私とあなたではちがう、だから心地よいつながり方ができない。そういう感じではないんです。少なくともうちの場合は。

私の場合、そういうことなら調整が可能です。はじめて就職したときとか、ちがう文化圏へ転職したときとか、外国の文化圏に適応するとか、そういうスキルを転用できることならば。周囲の人を見て多数派の文化を読みとって習得するのと同じように、その人の個性を読みとって、内向的で放っておいて欲しいタイプの人とつきあう時は、そういうつながり方を心がけて、それでも深い共感は可能だと思う。濃いつながりが好きな人とは、できるだけ自分をも開示していくことで良いつながりを模索します。

あなたと私でこの距離は近すぎだよね、少し離れよう。とか、これじゃちょっと遠いね、もう少し近づこう。とか。途中ヤマアラシのジレンマは感じながらも、一定の時間の後、関係は安定(決別も含めて)するのがフツウです。両親との関係ですら、そこは一番難しかったけれどコントロールが可能な領域だった、と今の段階では思っています。高齢で最終的な決別も遠くないので、今後どうなるかはわかりませんが。

配偶者との関係の難しさは、そういう感じではないんです。そういった、調整するためのその人固有の距離感覚を持ち合わせていないのです。そのズケズケと侵襲してくる感じとか、あてにしても応えてもらえない感じとか、そういうのが調整できる感じじゃないんだなあ。それは子の発達検査の凸凹みたいに、予想もできないところで予想もできない反応をされます。いくらなんでもこれだけ妥協すれば共闘体制が組めるでしょう、というぐらい頑張ってみても期待した反応は得られない。とか、じゃこの位距離をとったら傷つけられないですむかな、と思ってもさらにずんずん侵襲してきたりする。下がった分だけ攻めてこられたり。その結果、不意打ちパンチを顔面やボディにバンバン喰らってふらふらになるんです。リーチがワンピースみたいで読めない。

配偶者を観察していると物理的距離感覚や時間の感覚が非常に弱いです。身体感覚も私から見るとかなり弱い。同様に対人関係でも距離感覚が本人もつかめないんだろうと思います。本人も攻めてるつもりはない。攻撃してることになっていることすら気づいていないのです。一回一回のイベントがそのような距離感覚なしに起きるから、いづこかの文化圏の定型的な人を相手にしてる時のような予測をつけることができません。前回と同じようなイベントだからこうなるだろうと定型的な予測をして身構えてもパンチが当たってしまう。距離感覚の凸凹さ加減が定型の人みたいに安定していない感じです。実際、本人もわかっていないんだったら、そうなるでしょうね。ここにうちの救いのなさがあるような気が、、、。

パンダさん、
社会の方に外向きに考えるキーワードを忘れないように書きつけておいたのですが、ちがう考えがポッとでてきてしまいました。そっちの方はまたいづれ。いつも脈絡をくずして、すいません。(でも、そういうの楽しんでません?)

つまり、言いたかったのは、「相手の常識」が「常識」ではないのです。変化するのです。というか、こちらが規定してしまっている可能性があるのです。調整のために一旦引き下がることが、そこまで許したことになってしまっていたりする。自己の領域が空間いっぱいにひろがる感じに通じるのかもしれません。

母に最近、「ササッとわかる大人のアスペルガー」「大人のアスペルガーが楽になる本」を読んでもらっているのですが、それを読んで母曰く、「カレンの夫さんやお父さん(私の父)や、○○ちゃん(私の娘)もそうだけど、カレンもアスペルガーなのかしら?」

私の返事は「やっぱり、そう見える?」でした。 この頃やっと、スぺクラムのことがわかり始め、母から見た私は、幼少の頃から言われてきたことを考えても、とってもアスペルガー的です。

直観的・本能的・見た瞬間に状況や人の気持ちがわかる、という点や、身体の動きや運動能力もたぶん一般的という点においては定型だとしか思えないのですが、

その他の性格や、感覚過敏のあたりは、アスペルガーの人と共通する特性をすごく持っていると、この頃とても自覚が進んだので、ひょっとしたら、母から見ると、私は子供のことからアスペルガーのように見えているのではないかと考えるようになっていたのです。

そして、母が続けていうには、「ちょっと変わっているとは思っていたけど、個性の範囲と思っていた」と。母がよく愚痴をこぼしていた父の性格と、私の性格には、とても似通ったものがあり、それは、母から見ると、自分にはない、なんだかよくわからないものでもあったようです。

環境的に身に着けたのであれば、一緒にいる母からの影響の方が強いはずなのですが、それでも父に似ているところが多い、というのは、やっぱり遺伝的要素が強いということなのでしょうか。

徐々に知識を得るにつれて、そして、ここで皆さんの個々のケースを教えていただくにつれ、我が家全体としての「常識」はかなりアスペルガー的なものだと確信するようになりました。

アスペルガー度の強い順番に並べると、夫≧父≧娘>私>息子>母 という感じで、私が、「アスペルガー的特性の多い定型」という位置、母は、ただひとり、全くアスルガー的な要素を持たない、言ってみれば、我が家の仲では異質な人、ということになるのかもしれません。

娘のことは今年初めぐらいまでは定型だと思い込んいて疑ったこともなかったのですが、私や本人がいろいろ知識を得て、本人の話も聞いて、小さい頃からのことも総合して考えると、どうもアスペルガーと言っていいような感じ。本人も、それを今は自覚し初めています。

そう考えると、夫のアスペルガー的なところについて(それを知らない時期も、知ってからも)、娘相手に愚痴をこぼしたりしていたけれど、それって、娘に対しては可哀そうなことをしていたんだ、と今になって思います。

そして、もっと早くにこういう知識を得ていれば、娘のことも、もっと早い時期に、「なんで???」という疑問を持つこともなく、ありのままを受け入れてやれていたのではないかと、なんだかせつない気持ちになります。

でも、「なんで???」とは思っても、それを否定したり怒ったりはしたことがないし、娘は娘の才能を伸ばして行ってくれているので、それはそれでいいのかな、と思えることが大きな救い・・・でしょう。

それこそ、確定したわけではないけれど、娘が自分のことをわかる年齢になり、感覚についても詳細に表現できるようなり、そのうえで自分のことを「アスペルガーかも」と思い始めた娘です。夫のときもそうでしたが、「あー、これで、娘のことをもっと理解することができる・・・!」と、嬉しいとうか、なんだか感謝するような気持ちです。

我が家の常識は、アスペルガー的常識と定型的常識が混ざり合っていますが、他のご家庭から見たら、全体としてかなりアスペルガー的常識を持った家庭に見えるのでしょうね。

距離の取り難さは、私と母の関係にもありました。
もっとも、大人対子供、しかも非定型であろう者同士でのことなので、joさんの状況の困難さとは比較にならないですが。

>予想もできないところで予想もできない反応をされます。いくらなんでもこれだけ妥協すれば共闘体制が組めるでしょう、というぐらい頑張ってみても期待した反応は得られない。とか、じゃこの位距離をとったら傷つけられないですむかな、と思ってもさらにずんずん侵襲してきたりする。下がった分だけ攻めてこられたり。

私がニッチな観念と書いたのは、子供の目から見て、母が満足する加減・ポイントが掴みづらかったことでした。本当にピンポイントで、しかも、対象の少しの違いやタイミング、母の機嫌などで反応が変わってしまう(指摘しても、本人には自覚はありません)。
OKとNOの違いを決定付けるものが分からない…子供として出来るのは、なるべく自分を小さく押し込めて、予測のできない反応に備えることでした。

精神的な面では、母とはある意味「つながりすぎる」状態で、「つながれない」状態でもありました。私は母が表情を変えなくても、彼女の快・不快が分かり、無意識にそれに合わせることをしていました。
例えば、私が誰かに親しみを持っていただいたとしても、母の声色ひとつで私は無意識にその人と距離をとり、母はそれに満足したり、「もっと親しくなればいいのに」と言ってみたり。でもそれは、彼女が私の行動に満足した結果の言葉であることは、子供としてはよく分かっていました。
でもそれも、このひとはOK、こちらはNO…時によっては、同じ人でも反応が変わる。違いは分かりません。

幸いにして、私の母は物理的危険に関しては過剰なほど注意深く、攻撃性も少ない人でしたので、精神的な緊張感はあったものの、私は今こうしていることが出来ています。

最近、アスペルガーという視点から母のこと振り返るようになって、母の不可解な反応のほとんどは「想定外の事態へのパニック(不安感)」だったのだろうと考えると、かなりの部分を理解出来ます。
母が何を想定していたのかは謎のままですが、あの頃の、私が良い結果を出しても、母が喜ぶとは限らない、という緊張感をもたらした「何か」が少し見えた気がしています。

一方的な視点で書きましたが、私も夫から見たら、そのように見えているのかもしれません。
今度その辺りのことを、夫に聞いてみたいと思います。

相手の「常識」という決まったものがない、外的世界に向かう・内的世界に向かう・・・
うーん、本当に、千差万別ですね。人がもともと、ひとりひとり違うのですから、その組み合わせによって、ものすごいバリエーションが生まれてくるのですよね。

考えたら、他の人やよそのご家庭のことを、これほどまでに詳細に聞いたことはなく、少し前まで自分の中で考えていた図式はなんと単純なものだったのだろうと、反省も込めて思います。

joさん

「リーチがワンピースみたいで読めない。」

なるほど~、です。なんか僕の書いている話では(少なくともそのまんまでは)、joさんの抱えている現実に届かないところがあるような気がしていたんですけれど、それがここだったのかあ、ということをちょっと思いました。

「「相手の常識」が「常識」ではないのです。変化するのです。というか、こちらが規定してしまっている可能性があるのです。」

言い換えてさらにつっこむとこうなるわけですね……。
そうすると、こういう言い方は可能なんでしょうか?「joさんに合わせて伸び縮みさせるという「常識」(あるいは「基準」)を持っている」

もうひとつ、どうなんだろうと思うことは、「そういう部分でjoさんが混乱してしまうんだ」、という話を彼女にしたらどうなるんでしょう?全く通じないんでしょうか?それとも何が混乱させているのかはぴんと来ないにせよ、何か混乱させてしまっている、ということについては了解してもらえるのでしょうか?その差は大きい気がするし、それによって、関係の取り方の工夫も変わってくるような気がしました。

「いつも脈絡をくずして、すいません。(でも、そういうの楽しんでません?)」

楽しんでいるというのではないけど、ありがたいと思っているのはほんとです。だって、自分の見方の限界を知ることが出来るじゃないですか。自分が書いていることは結局自分の経験と、そこから考えてたとえばカレンさんとか繭さんとか、限られたひととのやりとりの中で「ああこう考えればお互いに理解できそう」と思えたことにすぎませんから、仮にその中でお互い「そうだよね」ということになったとしても、もう一人別の人が同じように「そうだよね」となる保証なんて何もないわけですし。

ひとりひとり抱えている現実がそれぞれに個性的なんだから、共通する部分で同じように通用するところもあれば、通用しないところもある。その通用しないところはそう感じた方から教えていただくほかないですもんね。自分は自分の見方しかできないわけで。

ということで、楽しんでいるというか、それより「うれしいな」と思うわけです。またもうひとつ視点が増え、そこを考えることで広がりや厚みが出てくるわけですし。


繭さん

「私も夫から見たら、そのように見えているのかもしれません。」

ここ、すごく知りたいです。

はじめまして、Anといいます。
AS配偶者さんのブログを探していたら、こちらのブログにたどり着きました。
上記内容に関係ないコメントで申し訳ないのですが、お許しください。

わたしは女で、ASです。
境界例のような部分もありましたが、定型の彼との付き合いで、安心感を得て、だんだんと良くなってきていると感じます。
今付き合っている定型の彼はとてもいい人で、ASのわたしより自分がしっかりしています。

彼とは良い関係だとは思いますが、正直、彼がどうしてわたしと付き合ってくれるのか、わかりません。
定型の人が人と付き合うときの感覚が、ASと違うようなので、わからないのです。

最近は、彼と結婚も意識しています。
でも、もし結婚できたとして、日常生活で彼を苦しめたり、がっかりさせてしまったらどうしようかと、悩んでいます。

わたしは彼のことがすごく好きで、彼以外は考えられません。
彼と付き合う前は、一人好きのわたしは、どこか田舎で一生一人で暮らそうかと思っていたくらいでした。
が、今は彼と一緒に暮らしたいと思っています。

AS当事者としては、定型の人がASの人が好きな理由を知りたいのです。
後悔しておられる定型の方が多いだけに、結婚への不安は積もる一方です。。。

Anさん

 はじめまして。

> AS当事者としては、定型の人がASの人が好きな理由を知りたいのです。

 Anさんが相手の方を好きになった理由というのも多分説明しろと言われると難しいですよね。それからそのAnさんの理由と他のアスペの人が人を好きになる理由が同じかどうか、つまり「アスペの人が定型の人が好きな理由」というものがあるかと考えると、これも難しそう。

 このブログでみなさんとやりとりをしながら少しずつ考えてきたことでは、ほんとにみなさん個性的で、共通する部分も、全然違う部分もあって、それがとても面白いです。その中で最近、何人かの定型の人はどうも「親とは正反対の部分を相手に求めた」のだと思えることがありました。でも、みんながそうかというとそうでもないらしいことも今議論されています。

 ASと比べたときの定型の特徴とか、定型と比べたときのASの特徴はある程度ありますが、実際に結婚していろんな困難に出会ったとき(それは定型同士、アスペ同士の結婚でも当然あることですが)、それにどう対処するかは、ほんとにそのカップルのお互いがどういう人なのかによってもすごく違うようです。だから、お互いのアスペ的な特徴とか定型的な特徴は一応参考にしながらも、それぞれの個性に合わせて、どうその困難に向き合うかをそれぞれのカップルで自分たちなりにひとつひとつ工夫していく必要があると思えます。

 そういうことがスムーズに出来るためにも、お互いに予め「自分はアスペでもある」「自分は定型でもある」ということは知り合っておく方が良さそうに感じます。その違いに気づかずに、訳が分からないところで苦しんでいるカップルはずいぶん多いように思えるからです。結婚の前にそういうことをちゃんと話し合える関係になればすばらしいですね。

 もちろん以上に書いたことは単に私の個人的な見方に過ぎないので、また他の方は他の見方をされるでしょうし、「これが絶対正解」というものがあるわけではないでしょう。いろんな意見や他の方の体験を参考にしながら、それぞれのみなさんに合った工夫を重ねていくことが大事なんだろうなあと思います。

 またみなさんと交流したいような体験や「謎」や「発見」などがありましたら教えてくださいね。他の方たちにも大事な経験として共有されていくと思います。

今回は、娘がアスペルガーなのだろうということことを、やっと認識し始めたばかりの親としての書き込みです。

上のコメントにも書きましたが、娘に対しては「なんで???」と思うことも多かったのですが、私にとっては可愛い娘ですし、大人の男性として知り合った夫とは全く違う感じで見ていました。

見た目も成人男性とは違うし(当たり前ですよね)、私と性格的にはすごく似ているところも多いけれども、感覚的に何かが違って、でも、それも含めて、なんか愛らしい感じで。
いわゆる「天然」っぽいところも含めて、周りからは可愛がられる娘です。
(親ばかまる出しですみません。でも、その親ばかのところを割り引いても、これは本当です。)

夫のことであれこれとアスペルガーのことを知る中では、子どもたちにも徐々に情報提供をしたり、情報を共有したりしてきたのですが、このような過程の中で、私は私で「あれ?娘はアスペルガー?」、娘は娘で「あれ?私はアスペルガー?」と徐々に思うようになってきたのです。

この段階にまで来たのは、本当に、ごくごく最近のことで、

「配偶者がアスペルガーの立場」→「私もアスペルガー的特性を多く持った定型という立場」→「娘がアスペルガー?という立場」というように、いろんな立場としていろんなことを考えています。

娘自身はまだ結婚とかいう時期にはありませんが、繭さん、ASの時の(?)みみさん、そして、Anさんのお話も、いろいろとぜひお伺いしたいです。

パンダさん

>こういう「こだわりの方向の違い」があるんですね。いや、もしかして「そんなの常識」ということなのかもしれませんが、私は知らなかったので、ちょっとびっくりしました。

私も一般的にどうなのかは分かりませんが、アスペルガーを特徴ごとに分ける考え方もあるようですね。

積極奇異型・受動型・孤立型
リンク
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/as.htm

同じ管理人さん(ADHDの精神科医)のブログも興味深いです。
http://blog.m3.com/adhd_asperger_etc


みみさん

はい、こんがらがりました…(--)

>違う言い方をすれば、
「繭さんの母は世間体をすごく気にした
繭さんは、あまり世間体を気にしなかった」
私の解釈はこの形で落ち着きますが…あってるかな?

私の母が世間体をとても気にしていたのは、みみさんの仰る通りなのですが、なにかが違うのです。
定型的「本音と建前」がなかったというか、一体化していたというか。
世間的には良いことでも、母がどう判断するかは予測できないところが多々ありました。

私は人目が気になりますが、結局対応できないし、自分の好きにしたい気持ちの方が強いので、なるべく目立たないように、好きなことをしています。
青い頃には、世間体には反発心たっぷりでした…(^ ^;


カレンさん

以前、カレンさんが過集中や感覚過敏があると仰っていたのを思い出しました。
本当に定型からのグラデーションなのですね。

アスペルガーの本を読んでいて、私が当て嵌まることは沢山あるのですが、これも?と思ったのが、「ボール投げが苦手なことがある」でした。
私は中学生の頃に、体力測定のソフトボール投げで、学年最下位を出したことがあります。走ったり、泳いだりは問題なかったのですが、そういえば、高校生の時も、100メートルハードル走でハードルを全部倒して走りました(^ ^;

>でも、「なんで???」とは思っても、それを否定したり怒ったりはしたことがないし、娘は娘の才能を伸ばして行ってくれているので、それはそれでいいのかな、と思えることが大きな救い・・・でしょう。

とても大きな救いです。と思います(^ ^)

>、「あー、これで、娘のことをもっと理解することができる・・・!」と、嬉しいとうか、なんだか感謝するような気持ちです。

アスペルガーと判明した時に、親からこう思われるのは、とても嬉しいし、幸せなことだと思います。

よそのご家庭のことって、親しい友人でも話題になることが少ないですし、私も伺って驚くことが沢山ありました。
夫との生活でも、食事中に会話を楽しむとか(私は話していて、食べるのを忘れることが多いですが)、「遊んで楽しいことは良いことだ」と言われたりとか、いちいちびっくりしてました。

>繭さん、ASの時の(?)みみさん、そして、Anさんのお話も、いろいろとぜひお伺いしたいです。

はい、お役にたてるのでしたら喜んで(^ ^)
話がずれますが、私もここ最近頭の中がドーナツになっていて、昨日食べました(^ ^)v
ミスタードーナツだったのですが、Dポップ(一口サイズの穴なしドーナツ)が目に入り、「ドーナツの穴が売られている…?」と思いました(笑)

Anさん、はじめまして。

私は未診断ですが、自分がアスペルガーの可能性が高いと考えている、女性既婚者です。夫は定型のようです。

Anさんが結婚を考えるくらい好きになれる方と出逢われたこと、とても素敵なことだと思います。
もし、お相手がAnさんのASをご存知なのでしたら、AnさんがASと定型の考え方の違いで悩んでいることを伝えた上で、お相手がAnさんを好きな理由を、率直に尋ねてみるのはいかがでしょうか。

Anさんに、何がしかのこだわりや、感覚過敏、気付けないこと、変えられない習慣などがある場合は、ご結婚後、生活を共にするお相手に、どうしても譲ってもらうことが多くなると思います。
そういったことをひとつひとつ、話し合って解決していく時に、関係を支える信頼感はとても大切だと思います。
お互いに大切に思い合っていると信じ合えるのは、信頼関係の要と思います。

好きな理由を直接相手に尋ねる行為は、相手に誤解を与える可能性もあり、定型的な方法ではないと思いますが、私は一番大切なことこそ、一番大切な人に確認するのが良いように思います。

もちろん、これは私のひとつの考えに過ぎませんし、見当違いのコメントでしたら申し訳ありません。
他にも、良い関係を築く方法はたくさんあると思います。
Anさんとお相手の方との良い関係を大切になさって下さい。

皆さま、唐突なわたしのコメントにお答えしていただきありがとうございます。
あたたかいお言葉に胸が熱くなりました。

はじめに、わたしはASと書きましたが、自分で出来る範囲のテストで診断しただけで、病院では未診断です。
誤解を招くようなことを書いて申し訳有りません。


パンダさん

ブログを拝見すると、パンダさんのASを理解しようという気持ちがすごく感じられます。
わたしの彼にも、そういう風に理解してもらえたら嬉しいです。

彼には最近、わたしはASかも?と打ち明けたのですが、彼は自閉症の知識が全く無い人で「そうなの?」という感じでした。
一応、参考に『僕の妻はエイリアン』という本を渡したのですが、読書をあまりしない彼は読んでくれるかしら。

わたしが彼を好きな理由…それは、明確にあります(個人的過ぎて言えませんが…すみません)。
その理由に付随して、一緒にいると感情面で安心するという所でしょうか。

ASのせいか分かりませんが、わたしは好きという感情以上に、彼と付き合う理由があったので、彼と付きあおうと思いました。
きっかけはそんな感じでしたが、今は感情的にも、彼を必要としている自分がわかります。

わたしは、すご〜く考えた結果、行動するので、後悔することは無いのですが(ASの特性?)、彼は割と深く考えない性格なので、結婚したら後悔するかも!?と思い、不安なのです。
考えすぎでしょうかね。

むしろ、少しずつASの負の部分(?)を小出しにして、免疫を持ってもらったほうがいいのかな、と思いはじめています。


カレンさん

カレンさんの娘さんはAS?で天然系の可愛らしい方なのですね。
ほんわかした感じなのでしょうか。

わたしも、天然と言われることは度々ありますが、やっぱりASです。
キャラクターとしては、天然系のほうが人間関係で角が立たないと気付いてからは、つっけんどんな物言いにならないように、意識してゆっくり優しくしゃべるようにしています。
そのお蔭か、人間関係のトラブルはあまりありません。
(誤解はままありますが…)

わたしの場合、いつも意識してニコニコして、相手にわかりやすく「不器用な人(天然)」を出しています。
「変わった人だけど、いい人」という認識を周りに持ってもらうように、人と接するときは注意しているんです。
AS的処世術ですね。

娘さんはどうなのでしょう。
ASのいいところを出して、人に好かれているのならとても素晴らしいですね。


繭さん

繭さんの旦那さまは定型の方なのですね、興味深いです。

>お相手がAnさんを好きな理由を、率直に尋ねてみるのはいかがでしょうか。

あ、今思い出しましたが、実は以前聞いたことがありました。
でも、彼はわたしと違ってはっきりと理由を言葉に出来ない様で、色々な理由で付き合ってくれているみたいです。

考えてみると、定型の人は、明確な理由なしに、自然と行動しているのかも?と思いました。
考えないと行動できない自分としては、それがうらやましくもあり、一方で腑に落ちない点でもあり…(笑)

>Anさんに、何がしかのこだわりや、感覚過敏、気付けないこと、変えられない習慣などがある場合は、ご結婚後、生活を共にするお相手に、どうしても譲ってもらうことが多くなると思います。

ああ、そうです。
生活の面で、彼との軋轢が出ないか不安なのです。

繭さんは、どうしていますか?
わたしは一人好きなので、共同生活で、逆にこっちが気を使い過ぎて疲弊してしまわないか…なども、不安なのです。

>そういったことをひとつひとつ、話し合って解決していく時に、関係を支える信頼感はとても大切だと思います。

はい。お互いにその都度話し合える関係を築きたいです…。
これからも、いろいろ参考にさせてください。

繭さん

いつだったか、繭さんと娘のイメージがだんだん重なってきたというようなことを書いたことがありますが、繭さんの、少なくともこのブログで感じる、人に対する穏やかさ(内面にはいろいろなものを抱えていらっしゃるにしても)や、身体感覚のことを読みながら、私の中でのアスペルガーのイメージが変わってきたところがあるのです。

正直なところ、今年の初めまでは、アスペルガーというと成人男性のイメージ、しかも、もっと正直に言うと、自分の配偶者のイメージしかなかったので、そのイメージには全然当てはまらない娘のことは、ほんと、見えてなかったのだと思います。

でも、繭さんが書かれていることから私の中でだんだんイメージできてきた像が、「あれ?なんかよく知っている誰かに似てない?」という感じになってきたのでしょう、たぶん。

身体感覚のこととか、表情の読み取りのことなどは、私から見た娘の様子や娘自身が言っていることと同じことも多いですしね。

ただ、娘も場合は、本来は持ち合わせていなかったかもしれないものも、努力(?)や環境の中にあったチャンスによってすごく身につけてきているのだと思います。

例えば、小学生の頃まで、私の顔をものすごくじっと見ていることがあり、「どうして、そんなにお母さんの顔を見るの?」と尋ねると、「お母さんの表情を見たら、今どんな表情をしたらいいのかがわかるから」とか「お母さんの表情によって、どんな反応をしたらいいかがわかるから」と言っていました。

私にしてみれば、わかるような、わからないような感じで、「そんなにお母さんの気持ちを気にすることなく、自由に自分の気持ちで反応したらいいのよ」などと答えていたのですが、娘にしてみれば、そして今思えば、そうやって一生懸命人の表情を観察することによって、表情を覚えたり、人の気持ちを感じようとしていたのかもしれません。

今では、私から見れば表情もごく自然ですし、わずかなタイムラグはあるのかもしれないけれど(ここは、本人でなければよくわかりません)、その場の雰囲気や人の気持ちもよくわかっているように思います。

中学校までは、定型の女の子のパワー全開の世界なので、違和感を覚えたり辛い思いもしたり、あきれたりもしていたようですが、幸い、いろんなタイプの友人に恵まれ、いじめとか孤立するとかいうことは皆無でした。
              ↑
(この時期、一番、娘の足を引っ張ったのは、ほかでもない、娘の両親=夫と私の争いです・・・うっ・・・(^^;)・・・)

高校以降は、夫にしてもそうだったようですが、周りが大人になってくることや、自立したタイプの友人に恵まれることが増え、その中で安心して自分の客観的思考力を発揮することもできているようです。
              ↑  
(中学までは、これをやると浮いてしまうとわかっていたようで、控えていたようです。)

繭さんのご主人って、「楽しむこと」も普通にできるような、自己肯定感の強い方なのですね。

私は(も)、以前は、なんとなくいつも「楽しむ」とか「リラックス」することに罪悪感を持っていたのですが、「楽しむ」こと「リラックス」することを当たり前のように知っていて、それを人にも勧めてくれる夫&夫との諸々のプロセスの中で、やっとこの数年「楽しむ」ことを本当に楽しむことができるようになりました(^^) 


Anさん

>カレンさんの娘さんはAS?で天然系の可愛らしい方なのですね。
ほんわかした感じなのでしょうか。

当たりです。まさに、その通りです(笑) 私自身は、真面目な天然(?)なのですが、娘は見た目の雰囲気もあって、本当にほわほわ・ほんわかの天然系です。

>キャラクターとしては、天然系のほうが人間関係で角が立たないと気付いてからは、つっけんどんな物言いにならないように、意識してゆっくり優しくしゃべるようにしています。
~AS的処世術ですね。

このあたり、娘本人に聞いてみないとわかりませんが、娘の場合は、上にも書いたように、中学校時代までは、天然を演じるというよりは、自分の客観的&分析的思考力を出すことを控えていた、という感じです。

この「天然」を演じているうちに、それが地になったのが、私かもしれません。最初は処世術のはずだったんですけどね(笑)

>娘さんはどうなのでしょう。
ASのいいところを出して、人に好かれているのならとても素晴らしいですね。

簡単には言えませんが、今のことろ、娘のいいところを生かしてくれる友人とか先生とか環境に恵まれてきた、ということが多かったですね。

「アスペルガー」の概念を知ったこと自体、私や夫が2年前、娘はその後なので、アスペルガーのいいところを出した、という感覚は、私たちも娘も全くなく、

今、さかのぼって考えれば、それを生かしてくれる人たちや環境に恵まれてきた、ということなのでしょう。

娘は今学生ですが、今後は社会にも出ていくことになります。繭さんやAnさんのお話は、自分のことを考えるにあたってのみならず、娘の将来を考える上でも、とても参考になります。(アスペルガーであってもそうでないくても、いろんな意味で・・・(^^)・・・)

繭さん

ドーナツの話、昨日読んでからしばらく爆笑でした。・・・と、そこに、たまたま、ミ○ドの新製品のドーナツをよそからいただき、こちらもまたまたドーナツを味わいました。「あ、今のひと口で穴がなくなった・・・!」みたいな(笑)

繭さん

 HPの紹介、ありがとうございました。そういえばこのページ、前に見たことがありました。アスペルガーを「他者を強烈に求める自閉」みたいな感じで捉えている方なんですね。多分精神科医でもあるご自分がADHDで、ADHDというのは他者に対してそういう求め方はしないんだ、というご自分の感覚からアスペルガーの特徴を理解しようとすると、そんな表現になるのかなと思いました。定型の私の感覚とはやっぱりズレる見方ですけれども、結局「障がいの特徴」というのは、自分(あるいは自分たち)の感覚とどう違うか、というところで描き出されるんだなあと改めて感じます。

Anさん

 「ブログを拝見すると、パンダさんのASを理解しようという気持ちがすごく感じられます」
 と書いてくださいましたが、そう感じてもらえると、ちょっと恥ずかしいようなうれしいような感じがします。ま、とにかくアスペと定型カップルの当事者のひとりなんで、必要に迫られて……ということですね (^ ^;)ゞ

 相手の方を好きな理由が明確にある、というのも「あ、そっか!」と思いました。やっぱり私は自分の感覚で「そんなのはっきりとは言い尽くせないでしょう」というのを当たり前と思ってしまっていたんですね。言われてみればアスペの人は「理由が明確」ということもあるんだったと、そう書いていただいて改めて気づきました。

 今後相手の方とのことでお互いに困ったときなどには、このブログもご一緒に利用してくださってもいいかなと思います。記事の方はさておき、なにしろもうすぐ600件になろうとする膨大なコメントでは、百戦錬磨の猛者たちが貴重な体験や意見を惜しげもなく披露してくださっていますので、なにか手がかりになることもあるんじゃないでしょうか。またお二人がコメントでいろいろ問いかけたりされてもいいと思いますし、せいぜいご活用下さい。


Anさん

考えてから行動して、後悔しないというパターンが、私にもあります。
それとも、後悔というクッション作用を持てないから、納得するまで逡巡する習慣が付いたのか、鶏か卵か…(笑)

>生活の面で、彼との軋轢が出ないか不安なのです。
繭さんは、どうしていますか?
わたしは一人好きなので、共同生活で、逆にこっちが気を使い過ぎて疲弊してしまわないか…なども、不安なのです。

私たち夫婦の場合は、結婚前に一緒に暮らしました。
まだアスペルガーというものも知らなかったり、私の個人的な問題もあり、生活の問題と心の問題とで、お互いにかなり消耗しました。多分、小さいものも含めると、喧嘩をしない日の方が少なかったのではないかと思います。
問題は、その都度長い話し合いをして、ひとつづつ解消して来ました。

私は当時、結婚に消極的で、回避したい気持ちが強かったので、余計に問題が大きくなったところもあったと思います。結婚後も色々ありましたが、ここ数年は、かなり平和になって来ています。
最近は喧嘩ではなく、「お話し合い(喧嘩より穏やかだけど、真剣勝負)」を、たまにしています。

私も夫も、納得するまで譲らないし、言い争いも辞さないところがあるので、このような過程になりました。
問題の浮上の仕方は、Anさんとお相手の性質によるところも大きいと思いますし、お二人でアスペルガーの問題を共有されると、生活上の問題なども見えやすくなるのではないかと思います。


カレンさん

娘さんの、表情を観察する様子が目に浮かぶようでした。
私はずっと遅くでしたが、友人たちからそれを教わりました。

中学生の段階で、周囲を観察して、自分を出しすぎることを控えることが出来たり、聡明な娘さんなのだなぁと思います。
ご両親の諍いは、娘さんにはつらい経験だったろうと思いますが、その結果として、理解しあった姿が見られるのは、最も良い報われ方だと私は思います。

>やっとこの数年「楽しむ」ことを本当に楽しむことができるようになりました(^^) 

「楽しいこと」は楽しいって、考えてみると当たり前のことなのですが、私も夫からそれを教わり、罪悪感とさようならが出来ました(^ ^)


パンダさん

>結局「障がいの特徴」というのは、自分(あるいは自分たち)の感覚とどう違うか、というところで描き出されるんだなあと改めて感じます。

立ち位置が違うと見方も変わって、面白いなぁと思います(^ ^)
先日、Rosamondeさんのご本を読み終えたのですが、アスペルガーで女性の当事者という切り口は、とても身近な問題まで書かれていて、参考になることが沢山ありました。

書き出しの部分の、「電子レンジのチンの音が怖い」とか、私も!(消音にしてます)と思いました(笑)
パンダさんの視点からは、どのように見えたのでしょうか?

繭さん

「パンダさんの視点からは、どのように見えたのでしょうか?」

 あ、実は本が届いたところでパートナーが先に読み始めていて、まだ僕の所に戻ってきていません (^ ^;)ゞ

 また戻ってきたら、感想など書かせていただければと思っています。

カレンさん

娘さん、とても良い環境で育ったんですね。
素直にうらやましいです〜。
わたしは親との関係が良くなかったし、そのせいか愛情不足を感じて境界例のような感じになって、ちょっとひねくれてしまいました。

しかし、大人になるに連れて逆に純粋な部分を取り戻していった感があります。
とくに、彼と付き合ってからです。初めのうちは、彼に「お父さん」のように色々と慰めてもらいました。
彼は10歳以上年上のため、彼が我慢しているのか、いままで大きなケンカもなく過ごせています。
わたしも気を遣っていたつもりではありますが、たぶん、彼の怒るポイントはかなりあったのではないかと、今になって思います(汗)
ありがたや。

いい人と付き合うことは大切です…。
娘さんは理解ある人々に囲まれ、もちろん、ご本人の努力もあって、まっすぐ成長されているんですね。


パンダさん

こちらのブログを探したのは、ほかでもない、定型の彼と夫婦になったときの不安からでした。
今までの人生は、自分のことでいっぱいいっぱいだったため、人と真剣に腹を割って付き合ったことがないのです。

参考になる記事が多いです。
こうやってコメントのやり取りをするだけでも、なにかしらの発見があります。
ありがとうございます。


繭さん

>後悔というクッション作用
ああ、後悔とはそういうものなのかと思いました。
そう言われたら、後悔は悪いことではないですね。
納得するまで逡巡する習慣はわたしもあります。
最近はそれに慣れたせいか、決断は大分早くなりました。。。

わたしと彼はいままで、ケンカはあまりなく…
というのも、一緒に生活していないせいもありますが、彼がかなり我慢強く(本人は至ってナチュラルなのですが)、しかもこだわりが少ない性格のためかと思います。
おまけに一回り近く歳が離れているため、わたしは子ども扱いなのでしょう。

しかし、これからは繭さんご夫婦のような「お話し合い」が必要なことが出てくると思います。
彼もわたしもケンカは避けたい性格なので、早い段階で相互理解しあえるように気をつけて行きたいと思います。
ああ、でもケンカになったらと思うと、不安だ〜。
致し方無いと割り切る精神が必要ですね…。

コメントを見ていますと、繭さんはご主人にとっても愛されているのですね。すばらしい。
わたしたちはむしろ、わたしの方が彼に夢中で、ペットのようになついています(笑)
どちらかと言えば「猫」のわたしを、犬好きな彼がこれからどう受け止めるのか…ああ不安だ〜(繰り返し)

あ、わたしってこうやってシュミレートすることで、後悔しないようにしているのかもしれません!


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