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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年5月11日 (水)

再びアスペと境界性と私

 カレンの夫さんのコメントの次の文章「今思えば、それは「あきらめていない」ということだったのでしょうか。本当に「あきらめ」ていたらもっと早い時期に妻の話に耳を傾け、納得いかないままに妻の望むような言動を取り、表面をつくろって生活するという選択肢もあったのかもしれません。「あきらめ」られなかったからこそ、極限まで行き、そこで初めて自分のASが原因なのではないかと考え始めたのです。それから今日まで、驚くほどのスピードでいろいろな変化が起きています。」

 なんというのか、その徹底した妥協のない「頑固さ」は、私にも通じるところがあるように感じるんですね。そのことでこれまでどれほどに周囲の人たちと軋轢を繰り返してきたことかと思います。とにかく自分が納得のいくところまで、とことんまでつきつめると言うか、いろんな場面でそういうことは繰り返してきたと思います。で、親からはそうすることが「正しいことだ」という価値観を与えられてきたと思うし、またそれを受け取る素地も私の中にあったのでしょう。

 だからなにか人間関係で問題が生じたときも、「まあまあまあ」と適当に誤魔化すことが苦手で、とにかく徹底して問題をはっきりさせる、ということにこだわることが多かったし、「原則にこだわる」ことも多かったし、だから当然のように、人間関係の中での「相手の気持ちを察しての譲り合い」とか「その場その場での柔軟な対応」をものすごく重視する日本的な人間関係の中ではもう浮きまくっていたと思います。

 とはいえ、そういう自分の生き方に共感してくれる人もいて、決して孤立して生きてきたとは思っていません。むしろ「中途半端に妥協しない」ことで、すごく深い人間関係が作られることがよくありました。(あ、今はもういい加減そのもののような人生にも思えますけど (^ ^;)ゞ)

 実は韓流に私もかなり染まった時期がありまして(今もときどきみますが)、とにかくあの韓国の人たちの人間関係って激しいんですよね(と、私には見える)。プラスもマイナスもお互いの感情をぶつけあったり、批判とかものすごくストレートにばんばんやるし(ただし他方でものすごく気遣って自分の思いを決して伝えないようなこともあるのですが)、お互いに傷口を開いて塩をすり込み合うような、そんな風にみえるやりとりもある。相手に対する激しい憎しみを育てながら、でも、そうやって関係が深まり、信頼が深まっていったりする感じなんです。私の言う「妥協しない」という生き方とはまたちょっと違う面がありそうですが、でも「徹底して闘う」みたいなところで、そうやって関係を深くしていく、というところで、結構リアルに「そうだよなあ」と思えたりしました。自分の経験とも照らし合わせて。

 そんなこんなで、カレンの夫さんの「極限まで行き」という感じと、私の「中途半端に妥協せず」というところ、やっぱりすごく似てる部分があって、それじゃあ私もアスペルガーの側なんだろうか、と考えると、やっぱり違うよなあと思える。このあたりjoさんなら「釣り鐘型4分の1の理論」で説明するんでしょうけれどね。

 うーん、何が違うんだろうなあ。私の「妥協のない姿勢」は、多分境界性の母親の影響が強いような気がします。私の経験では、境界性の人はものすごく判断が「純粋」で、いろんな要素を考え合わせてバランスを取るような、そういう「曖昧さ」が許せないようなタイプの人が多いように思います。その結果、ものすごく鋭く相手を見抜いたりする力も持っている。ごまかしが利かないというか。

 ただ、おっさん臭く言うと、世の中実際矛盾に満ちていて、いろんな要素が絡まり合っているので、どうしてもそういう「純粋」な判断は実際の物事の一面しか見られないような限界も持つんですよね。そうすると境界性の人は、その現実の矛盾を目の前にしたときに、時として瞬時に近く、ごろっと判断がひっくり返ってしまうことが時々あります。人の評価でもそうですしね。ある時期徹底して尊敬したり、あるいはものすごく高く評価してきた人が、ある時を境に今度はものすごく悪い評価になって、その人を激しく攻撃し始めたりする。なんか揺れがものすごく大きいんです。

 ある意味で、そうやって矛盾を解消している、と言えなくもないですね。一面的な見方になってしまうと、他面が見えなくなるから、あるときに別の見方に切り替える。そのときは今度はそっちの方で一面的な見方で「純粋」にものをみるようになったりするんですが、元の見方は否定されてしまう。そうやって「時間差」で両面をみてバランスを取っているのかなと思うのですが、だからすごく揺れが激しくて、私も親にはすごい振り回されました。

 で、私はどうも境界性ではないようなので、そのうち「物事の一面をつきつめる」という姿勢はすごく影響を受けたのかも知れないと思います。ただ、ある意味器用に前の見方をあっさりと去って他の見方にがらっと切り替える、というようなことは出来ない。(いや、今は随分いい加減になりましたから、がらっとではないですが、ずるっと(?)視線を切り替えてみたりはしますけど (^ ^;)ゞ )

 それから境界性の人は感情的にすごく激しい人が多い。強烈に共感を求めたり、あるいは自分を徹底して受容してくれることを求めたり。そういう意味でも妥協がない。で、もしかするとそういうところの影響も受けてきたので、その点で私はアスペルガー的ではないのかも知れないなあと思ったりしますし、そのあたりでパートナーとの関係もしんどかったりしたところがあるんだと思います。

 まあこんな風に書いていることがどの程度ほんとなのか、わかりませんけど、でもこんな風に自分をちょっと引いた目で見ることが出来るようになるには時間がかかりましたね。それとほんとに多くの失敗や挫折を繰り返すことと。

 ちょっと話が横道にそれそうになってしまいましたが、カレンの夫さんの「あきらめない」=「極限まで行く」生き方に自分がすごく通じるものを感じると言うことと、でも自分はやっぱり定型(変型?)だということの「矛盾(?)」がl興味深くて、そんなことを考えてみました。

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コメント

>徹底した妥協のない「頑固さ」は、私にも通じるところがあるように感じるんですね。
そのことでこれまでどれほどに周囲の人たちと軋轢を繰り返してきたことかと思います。とにかく自分が納得のいくところまで、とことんまでつきつめると言うか、いろんな場面でそういうことは繰り返してきたと思います。

激しく同感!
ということは、今んとこサンプル3匹だけですが、ASではなく♂の特徴かもしれない(ダジャレかぁ?)。ただし、

>親からはそうすることが「正しいことだ」という価値観を与えられてきたと思うし、ま
たそれを受け取る素地も私の中にあったのでしょう。

私の親はそんな私のとんがりをヘコます努力をしていたと思うけど、私の中にはヘコまない気質があったような気がします。私も、『日本的な人間関係で浮く』ことはあったし、深く理解、共感してくれる人もあり『ものすごく深い人間関係が作られることがよくありました』

パンダさん曰く、『私もアスペルガーの側なんだろうか、…やっぱり違うよなあ』、『私はどうも境界性ではないようです』のような表現に表れているように、ひょっとしたらそうかもしれないという可能性を単純白黒で全否定していませんよね。私も『自分は定型らしい』と思ってはいるけど、どこかの視点から見たらASに見えるかもしれないという可能性は否定できません。たぶん、いわゆるアスペルガー(定義は置いといて)の人は、そういう技を経験の中で全く(殆ど?)身につけていないか、経験しても身につかないのではないかと思います。そして、そのことで周囲の社会と軋轢をおこしている、ということが後付けの診断的定義でしたよね…

なんじゃそれ?そうすると♂3匹ともそうか、やっぱり?

joさん

> ということは、今んとこサンプル3匹だけですが、ASではなく♂の特徴かもしれない(ダジャレかぁ?)。

 あすでなくおす……  零下3°

 そういえば確か、前、どなただったか旦那さんがアスペの方のコメントで、
 男らしいところに惚れた、みたいなことを書かれていた人があったような気も……
 いや、表現は少し違ったような気もしますが。

 「無口で頑固一徹」って、なんか一昔前の「男!」のイメージですよね。
 「戦闘的」というのも型どおりの「男!」のイメージの一つでしょうし。
 そうすると、アスペルガー的特徴ともどこか親和性があるのかな。

 そういえば、カナータイプの自閉の子がミニカーとか
 無機的な玩具が大好きだったりしますけど、
 定型の男の子も好きですよね。ただ好きさのレベルは違うけど。
 なんか方向同じ方に向いてるのかな。

 あと、でも当事者の方のブログとか読んでいると、
 男性でもそうじゃない感じの人もいますね。
 すごく内向的な感じで。
 とはいえ、女性的とはちょっと言えないのかも知れないけど、
 
 少なくともカナータイプの自閉の子どもについては
 圧倒的に男の子の割合が多いんですが、
 その辺も関係するのかなあ。

 例の釣り鐘理論で説明すると、
 雄の釣り鐘と雌の釣り鐘では、雄の釣り鐘の方がASの方にだいぶずれてて、
 雄の集団の中では結構AS的であっても社会的には「定型」と見なされ、
 雌の場合は雌集団の中ではちょっとASの方向にズレると
 もう社会的には「非定型=AS」として扱われるということになるんでしょうか?

 うーん、まだなんかありそうだな。なんだかわかんないけど (^ ^;)ゞ
 

今まで知らなかったわけではないのですが、私の夫はやっぱり男性♂です。

そして、夫とその友人たち(=私の友人たちであることも多いのですが)の会話を聞いていると、「男のプライド」みたいなものって、すごく大きいんだなぁ、と思うことも多いです。そして、その大きくなったプライドが何かの拍子につぶされるようなことが起こると、女性以上に傷つくという一面があるような気が・・・。


ところで、


この頃、私の頭の中では、家族・友人・知人等々を、不等式で並べて考えることが増えています(あの「猫」と「犬」の話あたりから)。

釣鐘状グラフで表した男性の真ん中ぐらい(?)のところに、もし女性が位置していたとしたら、その女性はかなりAS的となるのではないかなぁ、と、自分のことや友人・知人のことを思い浮かべながら思ったりしています。

女性の友人と個人的に会って話していると、なんだか世のご主人方はみんなASなのではないかと思ってしまうところもありますし、

サバサバしている女性の友人には「私よりも(?!)AS的な要素が多いなぁ」と思ったり、女性らし~い感じの友人には「典型的な定型の人ってこんな感じを言うのかなぁ」と思ったり。

自分のことも含めて、人間観察がますます楽しくなりました。

そうですよ、前にもどこかで書きましたが、♂の吊鐘はAS傾向で♀の吊鐘はADHD傾向だと思います。たぶん(生物的)性と(社会的)ジェンダーの両方の軸でそういうことが事実あるのだろうと思います。だから、女性の「配偶者AS問題」と男性の「配偶者ADHD問題」は、どの程度かはいえませんが、実は本人の耐性によるところがあると思います。

ところが、だからこそ、まあこの程度の差は性差があるので当然、というバイアスが社会の方にも、当事者にも、本人にも、あるので、ますます、「本当に限度を超えてるAS/ADHDの問題」を見えにくくしていると思います。配偶者問題に関しては、誰に相談してもなかなかまともに相手にしてもらえずカサンドラ状態になった人が多いだろうし、それがまた問題の傷を深くします。定型♂♀が必死で調整を試みるうちに、どうしてもうまくいかず「おかしいのは自分の方か??」と足元が揺らぐ状態、ますます精神の危機的状態にはまります。ここを訪れるみなさんは殆ど経験ずみだと思いますけどね。

そのような、単純な軸だけで語れない、横断的にある質的な差異を感じる(漠然とした表現ですけど)ことも確かです。なんとも言えない違和感です。調整だけではすり合わせできそうにないような「感じ」です。それはAS的であると同時にADHD的と言ったらよいのか、、、カレンさん流に行けば小手先の「調整」ではなく徹底的に向き合って粉砕しなければならないものかもしれませんが、個々のケースによっては、そうすることが必ずしも最善なのかどか、、、


joさん

 ああ、joさんが前に書いていらしたことの意味がようやく分かった気がしました (^ ^;)ゞ
 どうもわかりが遅くて済みません m(_ _)m

> そのような、単純な軸だけで語れない、横断的にある質的な差異を感じる(漠然とした表現ですけど)ことも確かです。なんとも言えない違和感です。調整だけではすり合わせできそうにないような「感じ」です。

 そうなんですよね。単純な軸では語れない、その質的な差異というのがなんなのか。そこですよね。

> それはAS的であると同時にADHD的と言ったらよいのか、、、カレンさん流に行けば小手先の「調整」ではなく徹底的に向き合って粉砕しなければならないものかもしれませんが、個々のケースによっては、そうすることが必ずしも最善なのかどか、、、 

 少なくとも私の場合はそれをやろうとしたけど全くうまく行かず、どんどんドツボにはまっていった、という展開でした。だから、どういうやり方が良いのか、またそもそもそういう苦労をしてうまく行かせようとすることが良いのか、とりあえず別の道を行った方がいい可能性もあるのではないか……、それはほんとにそれぞれのパートナーのお互いの性格とか、結婚に至る経緯とか、子どもの状況とか、周囲の状況とかによってものすごく違うんだと思います。一つの予め決まった答えなんて私には想像も出来ません。

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