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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年5月

2011年5月27日 (金)

「もう一つの常識」

 昨日はjoさんのコメントを考えるときのひとつ目のポイントである、「障がいと文化」のことで終わってしまいました。結論だけ簡単にまとめると、アスペと定型のコミュニケーションということを考える場合、アスペの人にも定型の人にも「他者とのつながり」は大事で、それを求める気持ちとか、仲間を求める気持ちがあるし、必要としているということは(すべてのアスペの人かそうかどうかは私にも分かりませんが)多くの場合言えるだろうということ。ただし、どうやってひととつながろうとするか、あるいはつながりたいと考えるか(逆に言えばどういうところは「放って置いて欲しい」か)、ということについて、アスペと定型ではかなり違いがあるんだろうということでした。そしてこのそれぞれの「人とのつながり方」を「文化」という見方で考えてみることに、きっとそれなりの意味があるだろうと思ったわけです。

 今日の話はその「それなりの意味」の中味について考えることになると思いますが、そのポイントに行く前に、カレンさんに対するみみさんのコメントで、ちょっと感激してしまった部分があって、ちょうどこの話にうまくつながると思えるので、ちょっと寄り道をします。

 カレンさんはお母さんとカレンさんの関係は、カレンの夫さんとカレンさんの関係とはある意味で正反対な関係にあるようです。一方でお母さんは自分の領域に入り込んでくる。他方でカレンの夫さんとは共感も成り立ちにくく、全く突き放されるような、お互いに入り込みあえない関係にも感じられる部分があったのだろうと思います。

 そのカレンさんに対してみみさんはどうやってお母さんと距離を取ったらいいか、その「こつ」のようなもの(この中味もまたすごいなあと思いましたが)を伝授された上で、こう書かれています。「これは、全て私がカレンさんと同じ悩みを抱えて、やり場がなく、混乱した時、アスペの主人から教わった事です。(最近なんですけどね!) うちのアスペ主人を尊敬しました。以前書いた、主人の、その場しのぎの考え、都合悪い事は忘れる、依存しない(相手にしない)、自分のしたい事をやる… う〜ん、アスペは素晴らしい!と、その時思いました。私と母の関係に対して、完璧な考えだと思ったのでした。」

 ちなみにかく言う私も、以前に何度か考えてみたように、やっぱり自分をもう無意識のレベルにまで渡って強烈に支配するような力を持った、そういう母親の重力圏に大人になっても長いこと無自覚に捉えられていたこと、そのことに知らず知らずに苦しんでいたことと、アスペルガーのパートナーを求めたことが深い関係を持っていて、いわばそれは必然のようなものだったのだろうという理解をしてみました。

 カレンさん、みみさん、そして私という、アスペルガーのパートナーを「(そうとは知らずに)選んだ」三人は、実はこの点ですごく共通した問題を抱えていたのではないかと、みみさんのコメントを読んで思えたのですね。母親の強烈に「つながろう」とする重力を脱する力として、逆に「(定型のようには)つながろうとしない」、その意味で自分の世界を脅かさずに尊重してくれる(ある意味では無関心な)人と「つながろうとした」という訳です。

 これが上の話とどうつながるのかというと、相手との距離の取り方という面で見ると、アスペルガーの人はかなり距離を置く形でつながろうとする。カレンさんのお母さんやみみさんのお母さん、あるいは私の母親のように、強烈に距離をなくそうとする(自分の中に取り込んでしまおうとする)形でつながろうとする人たちも少数ある。で、その間の距離感覚でうろうろしている「多数派」がいるというふうに見ることができそうなわけです。

 すると、たとえばアスペルガーの人から見ると、私たち「多数派」には私やみみさんやカレンさんがその母親に対して感じていたような「近づきすぎ」のしんどさを感じるかも知れない。また逆に境界性の私の母親から見れば、私なんかは「距離を置こうとする」冷たい、共感性のない人間に思えるかも知れない。

 なんか少し単純な図式化をしすぎているところがあると思いますけど、そういう相対的な感じでそれぞれにそれぞれの仕方で「相手とのつながりを求めている」んじゃないかなと思えるのです。どの立場から見ても、相手は距離が「近すぎる」と感じたり、あるいは「疎遠すぎる」と感じたりするけど、アスペルガーの人も決して「つながりを求めない」訳ではない。それは定型とは異なるつながり方なのだし、その意味で「文化」と言ってもいい(あるいは独特の文化的な集団を作る可能性があるし、少数かも知れないけど実際に作っている)んだという気がするんですね。そこはカナータイプの自閉の問題の場合とは相当違うと思えます。もちろん自閉症スペクトラムとかいう言い方があるくらいで、境界線はとても曖昧なのかも知れませんし、このことをどこまで強く言えるかは、アスペルガーの人によって随分違うのでしょうけれど。


 さて、以上で寄り道を終わって次のポイントに行きたいと思います。それは発達検査の「ぎざぎざ」のプロフィールの意味に関係することです。joさんはこんな風に書かれています。 「検査項目が、動作性とか、言語性とか、それ以下の下位分野についても、細かくカテゴリー化されています(精神医学的に、臨床心理学的に、それらの経験的にということなのか、それ、即ち定型的ということなのか)。」

 それで、お子さんの検査結果は細かい項目の出来方がすごく「アンバランス」で、凸凹しているというわけですね。一体それは何を意味しているのだろうということ。結論的にはその検査の作られ方が「経験的にということ」ですなわち「定型的ということ」から理解できることだと思います。


 昔、学生時代とかカナータイプの自閉の子達と付き合いがあった頃に知ったことですけれど、あの発達検査の項目の領域分けは基本的には作成者の直観によるもののようです。実際項目のまとまりを見てみると、なんでこれとこれが同じところにまとめられているの?と訳が分からないものがいくつもありますが、作ってる人もそれ、はっきりとはわかんないみたいなんですよね。面白い(?)ことに。

 で、具体的な検査項目も試行錯誤で「年齢による出来方の違い」がよくでるようなものを探して当てはめていく。それができたからどういう意味があるのか、ということはひとつひとつ丁寧に吟味されているわけではないんです。「あ、これ、年齢で違うから使える」というのが基本。ただ、結果としてその年齢の特徴を表すような項目がある程度集まってくることにはなります。でも本当にそれが大事なのか。それ以外にもっと大事な項目はないのか、ということは不問に付されています。(たとえば思いやりの発達を見るための項目領域なんてないですよね)

 そして検査結果になんで凸凹が出来るかというと、あの項目は「平均的な子どもだったらどのくらい出来るか」というのを基準に並べられています。だから、「平均的な子ども」を物差しにして、より成績が悪いところは凹になるし、より成績がいいところは凸になる。つまり結局は多数派のバランス(平均)が基準なんです。それなのでアメリカとか外国で作った検査をそのまま日本では使えない。日本人の平均を改めて確かめて、それにあわせて作り直す必要もあるんです。たしか「標準化」とかいう言い方だったと思います。同じ日本だって時代が変わると平均が変わるから、ある程度時間が経つと「標準化」をやりなおさないと駄目になります。(joさんの釣り鐘理論の話で言うと、釣り鐘の真ん中や広がり方を実際にそこの社会の人たちで測って確かめてるわけですね。)

 ということで、その社会の平均からどれだけ離れているか、ということで発達障がいのレベルが数字で表されたりしますし、またその凸凹の形の特徴で、障がいのタイプが推定されたりもするわけです。その意味で全部「多数派の目から見た障がいの像」です。だからもし自閉の子の成績を基準にしてそれにあった検査を作ったとすれば、今度は定型の子のプロフィールはものすごい凸凹になります。

 そういう定型の子に合わせた検査が世の中でこれだけ使われるのは、そしてそれなりに「役に立つ」のは、結局社会が多数派の平均に会うような形で作られているところが多いからです。そこからズレればズレるほど、その社会の中でうまく生きていくことが難しくなる。

 そして平均値から離れた「障がい」を抱えた子どもさんを持つ親御さんは、その多数派の社会の中で子どもがなんとか生きていかれるようにと、一生懸命努力されるわけです。逆に昨日チロさんがコメントで紹介してくださった話を使わせていただけば、「手話を習っていたときに昔のろう学校の話も聞いて、普段からろうの人は音が聞こえない不便があるし口話はとても難しい、健常の方が歩み寄って手話くらい覚えたらいいんじゃないかという意見に納得した覚えがあります。」という見方も当然成り立つわけで、なかなかそうならないのは結局多数派の方が社会的に力を持つからですよね。多数派にあわせて社会を作った方が全体としての効率がいいんでしょう。

 
 さて、そんなふうに「障がい」の基準も「多数派」によって作られるのだとして(だから精神障がいかどうかについて「適応出来ているか(本人が困ってないか)」という「後付の話」が大きな判断基準になったりするわけですが)、アスペと定型のカップルの個人的な関係を考えるときに、この理屈だけで調整がうまくいくだろうか、というのが二つ目のポイントになります(……ああ、時間かかった (^ ^;)ゞ )。

 社会の大きな仕組み、ということでいうと、多数派と少数派にどうしても埋められない溝があって、どっちかのやりかたを選ばざるを得ない場合には、多数派にあった仕組みを選ぶ、ということは仕方ない部分もあると思います(だから少数派を無視していいとか言うこととは別のこととして)。逆に少数派の人に合わせて作ると、たとば階段をスロープ化するとか、そういう場合には多数派にも同時にやさしいやり方になったりしますけれど、すべてがそれでいけるわけではなくて、逆に多数派の人がやりにくくなることがいろいろ出てくるでしょう。だからどうしても基本的なところは多数派のやり方に会わせて作りながら、少数派の人もそこでできるだけうまく生きていけるような工夫を加えていく、という形になることは、ある程度無理のない話かなと思います。

 けれどもその考え方を極端にして「少数派は文句を言わずに多数派に従え」という形になるとおかしくなってしまいます。ひとつの社会がひとつの論理だけで統一されてしまうというのは怖いこと、とても危険なことで、柔軟性を失って早かれ遅かれそういう社会は崩れていくでしょう。そういう社会はjoさんが書かれているように、常識を越えた新しいもの(当然まずは少数派から始まる)を生み出す力も無くなってしまいます。多様性は社会の命だし、多様性をいかせる社会が本当に強い社会だと思えます。

 そしてそのことだけではなく、ある意味ではそれ以上に大事なこととして、一人一人の人と人との付き合いのレベルで考えると、そういう「多数派優先」とか、実際問題としてそういう話だけでは通じにくいんじゃないかと思えるわけです。たとえば夫婦。

 自分のやり方の方が多数派のやり方だから、相手もそれに従うべきだ、という姿勢は、実は(頭では良くないと思っても)無意識では私もすごく持っていたようです。でもそういう姿勢を持っている限り、やっぱり関係に無理が出てきます。それはパートナーが繰り返し言っていた「結局私がすべて悪いということなんでしょう」という言い方にもよく現れたように思います。

 もちろん「そういう意味じゃないんだ」と私は言い続けたんですが、やっぱり私は多数派の「常識」を背中にしょっていたんでしょう。それがすごく権力的なものに感じられたのかも知れません。(最近は随分変わって、そういうお互いの「常識のズレ」を感じると、パートナーは半ばあきれたように、半ばふざけて「もう、定型ってそうなんだから困ったもんだよね」みたいな言い方をするようになってきています)

 そういう個別の一人一人の関係の中では、やっぱりお互いが持っている「常識」をすりあわせながら、なんとか調整していくことが必要になると思えるんですね。そこにそれぞれの夫婦の個性というものが生み出されていくんだと思います(みんな金太郎飴のように同じ夫婦でも面白くないでしょう)。そのときに多数派の論理で一方的に決めてしまうことも出来ないし、逆に少数派の論理で支配される、というのも同じように問題になるでしょう。

 そしてそれをするには、どうしてもお互いに「相手の常識は自分と違うところがある」ということを認め合う必要がある。定型からすれば「アスペルガーの人のつながり方」を定型の常識とは異なるもうひとつの「常識」として考えること、アスペルガーから見れば「定型のつながり方」をもうひとつの「常識」と考えること、言葉を換えれば「ある種の異なる文化的なものとして認めること」がそこでは大事になるような気がするのです。

 「もうひとつの常識」という見方がいいなと思うのは、それは「相手の常識」を認めるために「自分の常識」を否定する必要がなくなるからです。もちろん「自分の常識」を守るために「相手の常識」を否定する必要もなくなる。「常識」が複数ある。それに優劣は付けられない。だからお互いを尊重して調整しあうよりない。そういう理屈です。ついでに言うとこういう考え方が実際「異文化理解」では大事にされていますね。

 そういう形をお互いに取ることが出来るかどうか。取れれば状況は大きく変わるし、取れなければどちらかが問題を一方的に抱え込んでしまうことになるか、どちらもしんどい状態になってしまうか、いずれにせよかなり辛い状態が続くと思えます。


 というところで、あらためてこの理屈がjoさんの問題提起、joさんの抱えている状況にどれだけ意味があるんだろう、ということを考え直してみる必要がありそうです。たとえばお子さんの育て方について、joさんが「そうすると、受容できないことは受容できないで変わりありませんが、配偶者の子に対する言動に対する理解と(奇妙な異常とも言える)『共感みたいなもの』が私の中におきかけている。にも関わらず、どんなに理解しても、それは私的には、子に二次障害を与えるような絡み方なので、身を挺して守らないわけにはいかない。そうすれば配偶者との溝を深めるというジレンマです。」と書かれているようなシビアな問題。

 ここには二つほどの問題が絡んできそうです。ひとつはまず「もうひとつの常識」という見方を実際にお互いに共有しあえるのか、という問題。これは「アスペルガーという認識の共有」という話で何度か書いてきましたが、実際ここで壁に突き当たって苦しんでいらっしゃる方は少なくないと感じます。joさんもそこは本当に困難な状態と書いていらっしゃったですよね。

 そして二つ目は、仮に幸い(?)共有できたとして、夫婦間の問題だけなら、「お互いを認め合い、譲り合い、調整し合って」みたいな、まあきれい事とも言えるような話で何とかいける可能性が大きくなりそうです。でもそこに「子育て」という問題が絡んできたら、そういう悠長なことを言っていられるのか、ということについてです。これが三つめのポイントかなと思うのですが、また長くなりましたので、今日の所はここでお休みにします~。(この問題難しそうなので、今私なりの答えが果たして出るのかどうかあやしいですが……、でも大事なところだからいつかは書かないといけないですね (^ ^;)ゞ)

 

2011年5月26日 (木)

「つながり方の違い」という文化

 joさんがこれまでのいろんなコメントを改めてまとめるような、すごく大きな問題提起(と私には思えるのですが)をしてくださっています。

 私が理解した範囲で、提起されている問題を書いてみると、ひとつは先日来からやりとりのある、アスペルガーと文化の問題で、果たしてアスペルガーのみなさんの「独特な(と定型から見える)」コミュニケーションスタイルを、定型とは違うひとつの文化として見ていいのかどうか。見られるとすればどういう点で、見られないとすればそれはなぜなのか、ということです。

 「障がい」をひとつの文化とか、個性として見る、という考え方は、決して新しいものではなくて、少なくとも私の学生時代にはもうありました。もしかするとそのころが出始めなのかも知れませんが。たとえば耳が聞こえないみなさんのグループとか、手話でコミュニケーションをする方たちがありますよね。で、手話にもいろんな「方言」とかもあるらしいんですが、聴覚障がいの奥さんを持っている友だちに依れば、声の言葉とはまた違った味わいがあるようで(私は分からないんですが (^ ^;)ゞ )、耳の聞こえる人々のつながりとはちょっと違った独特のつながり、コミュニティーができるようです。

 ただ、昔の聴覚障がい児の教育では、絶対手話は使わせなかったそうです。それはなぜかというと、聴覚障がい児も大人になって耳の聞こえる多数派の中で生きていかなければならないのだから、多数派と同じコミュニケーションの技術を身につけないといけない。そうすると、手話は通じないわけだから、あくまでも口話(相手の唇の動きで何を言っているかを読み取り、自分の声でそれに応え、話しかける)を身につけなければならない。手話を知ってしまうとそっちが楽だから口話が身につかなくなるから、絶対禁止、ということだったようです。

 で、経験者によると、この口話を学ぶ、というのはものすごくしんどいことで、同じコミュニケーションの力を身につけるために、多数派のこどもの何倍も何十倍も努力しないといけないわけです。そうやって身につけたとしても、相手の唇で言葉を読み取るのはいつまでたっても完全には無理で、ほんとうに自分の理解であっているのかどうか、常に不安という状態に置かれてしまいます。耳が聞こえる場合、よそ見していても話は聞こえますけど、口話の場合、常に話している人の口元をものすごい緊張して正面から見つめ続けなければならない。

 声を出して話す、ということについても、耳が聞こえる多数派の人間は、話しながら自分の声を聞いて声の高さや大きさを調節しています。でも聴覚障がいの人にはそれは無理ですから、息の出し方とかのどの震え方とか、なんか他の手がかりで一生懸命調節をしながら、相手の人の反応もみたりしながら話すしかない。

 どちらの場合も、最終的にはその読み取り方が正しいか、声の出し方が正しいかを自分で判断できないんですね。あくまで「正しい判断」は耳の聞こえる相手、多数派が握っていて、自分は常にそれに従うしかないわけです。

 そういうのはおかしいんじゃないか、という異議申し立て。「私たちには私たちの特徴にそった生き方があり、私たちの特徴にあったつながり方やコミュニケーションがあるんだ」というのが、障がいを独自の文化として考え、耳の聞こえる多数派に引け目を感じずに平等に生きていこうとする模索だったんだろうと思います。

 同じような流れの中で、自閉症もひとつの個性とか、あるいは文化として考えようという考え方が出てくるんだと思いますが、カナータイプの自閉の子どもたちとおつきあいのあった私は、そこはちょっと違うと感じていたんです。何が違うのか、というと、ちょうどjoさんが問題にされているようなポイントに関わります。つまり、カナータイプの自閉の子どもたちの場合、自分たちの力で仲間集団を作ることができない。もう少し言えば、自分たちの力で集団を作って生きていく、ということができないわけです。やはり大人になっても基本的な生活にわたって「ケア」の対象という形で多数派の社会に受け入れられ、生きていくことが必要になります。そこは仕事に就いたり家庭を持って社会生活を送りながら、仲間同士のつながりも作って行かれる聴覚障がい者とは大きく違うように思えました。

 この強いイメージが私にとって「自閉」ということの基本になってしまったものですから、パートナーが「自閉系」の障がいを持っている、という理解がほんとに遅くなってしまったんですね。なぜならパートナーはちゃんと視線を合わせて会話も出来る。仕事もしている。友だちも(すごく少ないし、いつのまにか関係が切れたりしてるみたいだけど)それなりにないことはない。トルストイだのドストエフスキーだのオースティンだの、文学関係は教養のない私なんかついて行けない (^ ^;)ゞ (あ、そういえば学生時代、文学関係の授業のレポートを代筆してもらったことも (^ ^;)ゞ )。絵や音楽も好きで、漫画も小さい頃から描いてるし、そのころは漫画のストーリー作りもしていた。たしかにちょっと自閉っぽい「性格」の所はあるけど、これが自閉の訳がない、と長いこと信じて疑わなかったんです。高機能自閉というのは名前として知っていましたが、映画「レインマン」のイメージになっちゃっていたし。あれならカナータイプの自閉の子がそのまま特殊な知的能力を伸ばした感じで理解できましたし。

 さてそこであらためて「アスペルガー」という「自閉系」の障がいに向き合って、それをどう理解したらいいかを考えるようになったわけです。そうするとある意味で一番難しいのが、例の「三つ組」の障がいの定義です。私の中ではカナータイプの自閉の子についてはそれはすんなりわかる。でも、アスペルガーの人については、多数派の大部分の人が「この人はなんか付き合いづらい人だ」などとは思っても、「アスペルガー(あるいは障がい)だ」とは思わないように、「基本的にはコミュニケーションがとれるけど、ちょっと(あるいは結構)苦手」という感じでしか理解できなかったわけです。とてもじゃないけどカナータイプとは比べられないし、「同じことの延長上」とは思えなかった。

 ところが私もある段階からはもう何かが自分たちとは決定的に違うもの=アスペルガーという理解しか出来なくなり、パートナーも当事者の本などを読んで自分がアスペルガーであることを自覚し、その理解が共有されるようになってからいろいろ話し合ってみると(それができるようになるまでも困難があったわけですが)、ここに何度も書いてきたように、何度もお互いの理解の仕方のズレに衝撃を受け続けてくると言う経過がありました。

 そうなると、今度は「自閉だから共感性はない」「仲間を作りたいという気持ちがない」「ひととつながりたいと思わない」といった逆向きの「決めつけ」的な理解が覆い被さってきます。たしかにそう見ると分かる、ということがたくさんありました。でも、それだけだとどこか自分の素朴な実感とはずれるんですね。で、どう理解していいかわかんなくて、このブログでやってきたような模索を続けてきました。そうするとやっぱりアスペのドラマーの金田ゆうじさんの話(アスペルガーの人にとっての「仲間」と「孤独」)でもそうでしたし、繭さんとの一連のやりとりでもそうでしたし、そういう単純な決めつけは不可能だということが改めて分かってきます。Rosamonde姐さんも熱心にこの場に参加してくださる。やっぱりなにか「共感」があるし、「仲間」が求められているし、「つながり」が必要とされている。

 で、先日ご紹介したアスペの綾屋さんや小児科医の熊谷さんなんかも、はっきりと「三つ組」の障がいという見方自体に違和感を述べられている(つながりの作法)。結局あれは多数派の目で、「多数派のようにはできない」ということを、特徴づけた言い方に留まってしまっていて、「多数派」の目からはそれである程度分かる部分があるんだけど、アスペの当事者の素朴な実感からはずれてしまう、ある種の「決めつけ」になってしまっているし、そしてそのことが実際アスペルガーのみなさんとこうやって対話が出来てみれば、私たち定型(多数派)に属する人間にも、それなりに了解できるようになってきているように思えるわけです。

 そしてそれだけではなく、アスペ当事者の自助グループみたいなことも、困難はあるんでしょうけれど、成立はするわけですよね。

 そういう現実を前提として、あらためてjoさんの書かれていることを考えてみたいわけですが、

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『文化の差異』は、別の定型的多数派の知的行動様式をひきずっているということで、「何かちがうぞ、おかしいぞ」と言ったって、それはいづこかの「定型的多数派の知的行動様式」ということにちがいないわけですよ。でも、非定型な人というのは、それこそ独自に近い個性的な知的行動様式を持っているように思うのです。
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 この文章だけからいうと、多分そのポイントは「アスペルガーの人たちは基本的にバラバラな個人として独自の世界を作るわけだから、多数派のグループをどこかに作ることが出来ない。だから文化とは言えない」ということだと思えるのですが、そこがまさに微妙なポイントだと思えるわけです。

 上に書いたように、カナータイプの自閉の場合には書かれていることでそのまま理解できる。でもアスペルガーのみなさんは、そこは越えて他者との独特の「つながり方」を持っているし、そのつながり方で当事者グループを作ったりもされるわけです。その点では聴覚障がいの皆さんとも似ている。前にどなたかがコメントで書かれていたように(すみません、このブログ、うまく検索ができなくて (^ ^;)ゞ)、IT関係の企業だと、そういうアスペルガー的な対人関係が「多数派」になって、定型の行動パターンが異様な「少数派」になってしまう職場もある。(歯科技工士の方たちの職場ももしかしてそういうこともあるかなと思ったことがあります。


 なぜこのポイントにこだわりたいかというと、それは次の二つの見方の分岐点に関わると思えるからです。

 ひとつは定型には適切な「つながり方」があるけれど、アスペの人はその「つながり方」の能力が欠如していて、それこそがアスペの障がいの本質なんだ、という考え方。そしてもうひとつは定型が定型に適した「つながり方」を持っているように、アスペはアスペに適した「つながり方」があるから、定型とアスペの間のコミュニケーションは、その両方のつながり方をすりあわせる、という形で模索するよりないし、それは一定程度は可能なんだ、と考える考え方です。

 そのどちらの視点からアプローチするかで、アスペと定型のコミュニケーションの模索の仕方がだいぶ変わってくるんじゃないかと思えます。

 で、その点で言うと、私はこれまでのこのブログでの模索や、パートナーとの模索の中で、今のところやっぱり後者なんだろうなあという感じがしているのですね。そのお互いの「独特のつながり方」に注目して、文化の違いという見方がある範囲では役に立つような気がしています。

 という話を前提として、joさんが書かれている大事な問題提起の二番目にうつりたいんですが、ちょっと長くなったので、とりあえずここまで一旦お休みにします…… coldsweats01 

 

2011年5月25日 (水)

コミュニケーションの変わり方とアスペルガー

 最近の世界を劇的に変えちゃった人は誰? って聞かれたとしたら、まずビルゲイツ、ビンラーディン、そしてフェイスブックのマーク・ザッカーバーグあたりを思いつきます。共通点は何かと言えば、ネットの世界で今までの人のつながり方とか国境線の意味とかを変えてしまう力を持った人たちというところです。

 ビルゲイツは言うまでもなくマイクロソフトの御大で、ウィンドウズやエクスプローラーやアウトルックや、要するにネットでやりとりするための道具を広めながら大もうけした人ですよね。ビンラーディンはそういうネットを最大限に利用して、今まで誰にも手が出せなかった世界の王者アメリカの心臓部を直撃し、その後の世界の秩序が劇的に変化する最大の引き金を引いた訳で、彼自身はもう死んじゃったけど、このインパクトはこれからもさらに広く、深く、大きく世界を変えていく。で、マーク・ザッカーバーグはもう映画も出来たみたいだけど、フェイスブックで瞬く間に世界の数億人の人をつないでしまい、その結果今中東では「独裁的」と言われていた政権がどんどん崩壊したり、危機に立たされたりしてます。

 ネットというのはほんとに人と人のつながり方をすごく変えていますよね。ラジオとかテレビとかももちろん大きく世界を変えたけど、まあ一方的に情報を流すだけで、ある意味では「中央集権的」というのか、基本的には「多数派の世界」を支える道具になっていると思います。でもネットというのは「少数派」がどんどんつながっちゃう道具なんですね。それまでは周囲に誰も分かってくれる人がいなくて、個人で抱え続けてきた問題とか、あるいはやり続けてきた趣味とか、そういうものを日本中とか世界中から同じような人が集まって「グループ」でやれてしまう。

 このブログもそうなわけですけど、ま、多分世の中的には変わり者の集まりみたいになってますよね。でも毎日必ず数十名から100名近い方が全国から、あるいは海外からも読みに来てくださっていて、それがこのところ着実に増えている感じがあって、しかも熱心に何ページも読んでくださる方が多くて、半年でもうページビューも3万6千を越えちゃってる。びっくりです。

 100名っていったって、日本人口1億2千万から見たら120万分の1でしょう?0.00008%位かな。少数派もいいところですよね。でも、こういう場の意味って、そういう数字で測れるようなものではないじゃないですか。コメントを下さる皆さんの議論の重みが0.00008%だという訳ないですもんね。それぞれの人にとって、まあ自分の人生の重み100%な訳ですし。

 しかもこのブログの場合、ありがたいことに、少数派の中でもしばしば対立する立場にあるアスペと定型の方たちがつながっていろいろ対話が出来たり、なんだかびっくりするような共感が両者で生み出されたりしています。それも驚き。しかもお互いに名前も知らないし、会ったこともないような人たちな訳ですもんね。というか、それだからこそ、というところがきっとあるんでしょうけれど。

 ということで、このブログも一つの例になるように、ネットは今まで少数派として日陰に置かれてきた沢山の人たち(いろんなタイプの少数派が沢山集まると、全部合わさるとすごい数ですよね。むしろ多数派かも)が、それぞれにそれぞれのひとにとって大事な小さなつながりをあちこちで生み出していて、そのことがこれからの世界を全然違うものに変えていくんだと思います。

 で、最初に戻るんですが、上に挙げた三人の内、二人はどうもアスペルガーの人のようですね。それがものすごく面白く感じられるんです。圧倒的に多数の定型の人間のコミュニケーションスタイルを劇的に変えているのがアスペルガーの人だということ。コミュニケーションに障害を持つ、と多数派から言われている人が、多数派のコミュニケーションを変えてしまうということの不思議さ。

 joさんがその影で沢山の涙が流されているんだ、というような意味のことをかかれていましたし、それもまた事実なんだろうなと思うんですが、それはまたその問題として考えることにして、アスペと定型のコミュニケーションを考えるときに、今世界で起こっているそういう不思議な変化の構図みたいなことも、どっかで頭に入れておく必要があるのかなと、そんなふうに感じます。

2011年5月22日 (日)

つながりの作法

 今、パートナーが買ってきた、綾屋紗月さんと熊谷晋一郎さんの書いた「つながりの作法:同じでもなく違うでもなく」(NHK出版、生活人新書)というのを読んでるんですが、なんというか、もう、すごく面白いです(子どもみたいな感想!)。綾屋さん(松浦亜弥のアヤヤじゃないけど、読み方はアヤヤ。こういう名字があるんですね!)はアスペルガー当事者の方で、熊谷晋一郎さんは脳性麻痺だけど小児科のお医者さんになったという人(しかしよく医師免許がとれたなあと驚きです。本人の頑張りに加えて教育機関の側での配慮とか、医師免許審査上の配慮とか、きっとかなりいろいろあったんだろうと思うんですが)。どちらも30代の半ばくらいの人です。

 アスペの綾屋さんは回りから聞こえてくる音とか、声とか、体のいろんな部分から来る感覚とか、定型の人間ならそういう沢山の「情報」をほとんど無意識的に取捨選択して、必要なものにだけ注意をするということをやるわけなんですけど、それが難しくって、聞こえてくるもの、見えてくるもの、体のあちこちの感覚がみんなバラバラに同じような重みで押し寄せてくるという感じがあるんですって。

 私のパートナーもそうだし、繭さんも書かれていたように思うけど、アスペルガーの場合、井戸端会議が苦手というのも、それに関係するところがあるんでしょうか。いろんな話題が並行してやってきて、どこに注意を向けたらいいかわかりにくいし、そのすべてに注意を向けて一つ一つのつながりを追おうとするとわけがわかんなくなってしまうとか。

 それで、そんなふうに沢山のことがいっぺんに押し寄せてきて、自分というものを保てなくなってしまう、というか、まとまりを作りにくくなってしまう。そういうのを「つながらない身体」とか名前をつけて説明されています。

 で、脳性麻痺の熊谷さんの方は、赤ちゃんの頃からお母さんがつきっきりで必死でリハビリに取り組んでこられて、それはそれは厳しくて、お祖母さんがたまたまその場面を見て泣いちゃったという位だったらしいんです。そうやってお母さんがある意味心を鬼にして(実際お母さんも辛かったようです)、熊谷さんのためにその体の動きを「健常者の動き」のイメージを元に矯正しようとする、というのは、なんというのか、お母さんのイメージで完璧に熊谷さんをコントロールしようとするわけで、熊谷さんがお母さんの思うとおりに手足になるような状態でもあります。

 もちろんそれだけではなくて、お母さんはたとえば熊谷さんがおなかがすいたとか、トイレに行きたいとか、そういう風になったとき、その気持ちを敏感に感じてすぐに手助けをしてくれる。熊谷さんが言葉で頼むまでもなく、すぐに察してくれるわけですから、これは今度はお母さんが熊谷さんの手足になっているような状態です。だからどっちが「頭」でどっちが「手足」か、ということについては場合によっていろいろで、決してどっちかがいつも支配者だ、とかいうわけではないわけですけど、でもどっちかが「頭」でどっちかが「手足」という関係が続いている。

 つまり、お母さんと熊谷さんがいつもぴったり一つの体のようにくっついちゃっているわけです。そういうのを熊谷さんは「つながりすぎる身体」という言葉で表現しています。

 そういうふうに見てみると、綾屋さんはつながらない事に悩み、熊谷さんはつながりすぎることに悩んできたという意味で、ちょうど両極端の状態にある(あった)少数派だというわけですね。それでそのあいだに適度なつながりを保っている多数派(いわゆる健常者)がいる。

 なんかこういう対比の仕方についてはちょっと上手にきれいにまとめ過ぎちゃっている感じはするんですけど、でも「へえ、そんな見方もあるんだ」というのはすごい新鮮だし、なにより当事者自身が自分の体験を一番の足場にして考えようとされているわけで、そこがすごくいいんですね。だから私も共感したんだけど、いわゆる「外から(客観的に)見るアスペルガーの定義」とされている、三つ組みの障がいという考え方にも違和感を唱えられている。

 なんか定型から見るアスペルガーの像ってやっぱり定型の見方からのそれになるわけだし、アスペルガーから見る「自分」とはどうしてもずれてしまう。もちろんその逆も同じで、アスペルガーの人が理解する定型の見方って、やっぱりアスペルガー的な理解で、定型から見ると「え?どうしてそういう見方になるの?」ということになる。でも世の中的には定型的な見方を基準として理解する形になってるから、アスペルガーの人がそういう医学的な見方とかに違和感を感じる状態になるのは、それがいいというわけじゃないけど、まあ当然というか、仕方ないというか、そんな感じになってると思うわけです。

 で、問題の「文化」なんですが、お二人はこの本の中で「文化」という言葉で書いているわけではありません。ただその社会とか、あるいは集団の中で共有されているいろんな常識みたいなものを「構成的体制」という、なんかちょっと難しい言葉で表現していて、それがまあ「文化」と言ってもいいものかなと思えます。

 綾屋さんの方は自分がアスペルガーだと診断されて、ようやく自分の今までのわけのわからない苦しみとかに名前が与えられたような、なにか出発点に立てたようなそんな厳粛な気持ちになったということですが(カレンさんが「福音」と書かれていたことにもつながりそうな気がしますけど)、そのあと、同じような境遇の人たちの当事者グループに参加されたりしたんですね。そうすると、定型が多数派の社会の中で同じような苦しみを味わっていて、お互いにそれを語り合うことですごく「共感」できるし、仲間みたいになるし、新しいつながりがそこで生み出されていく。

 そうすると、今度は少数派である「私たちアスペルガー」と多数派である「あなたたち定型」という、なんかグループ間の対立みたいな意識ができてくるというんです。で、そこでは「アスペルガーとはこういうものだ」とか「定型とはこういうものだ」みたいな「常識」、あるいは「定型のこういうやり方によってアスペルガーは苦しめられている」という「常識」が共有されてくる。つまりそこでアスペルガーの人たちをつなぐ「構成的体制」というものが作られていくんですね。もしかするとこのあたりがjoさんが違和感を感じられている「自閉系文化圏」につながる話なのかもしれません。

 そんな形で「私たちアスペルガー」という当事者のグループが結束を強くしていくと、実際にはその中にはいろんな個性の方たちが集まっているし、アスペルガー的な部分やその程度もいろいろだったりするわけなんだけど、なんか「これこそ正しいアスペルガーの姿」みたいなイメージが作られていくようで、そこから外れることになんか「仲間じゃない」みたいな感じが出てきたりしてしまうらしんですね(そのこと自体、アスペルガーについての定型的な常識からずれるようで面白いですが)。

 結局綾屋さんはそういうことはしんどくなって、距離を置くようになったようなんです。なんか矛盾するような話だけど、定型の持つ「構成的体制」の中で、それに適応できずに苦しみ、自己評価もとても低くさせられてきた人たちが、同じような境遇の人たちが集まることで、自分たちに合った「構成的体制」を作っていく。そうすると、今度はその自分たちの「構成的体制」という新しい枠組みに縛られてしまって、そこから外れる自分の部分が否定されてしまう感じになり、別の意味でなんだか「押さえつけられる」部分が出てきてしまう訳ですね。そして定型とアスペの関係は「敵対的な関係」という形で固定化されてしまう。

 いや、もちろん定型とアスペのカップルが、お互いによくわからないズレによって苦しみ続けるということが頻繁に起こる、ということは、まあ当事者である私たちが身を以て体験してきていることな訳です。けれどもよく見てみれば、どうも「定型だから駄目だ」とか「アスペだから駄目だ」という簡単な問題ではないらしい。定型とアスペでもどこかで馬が合う場合もあるし、もうどうしても駄目な場合もある。時期や環境によってよかったり駄目だったりが変わることもある。定型の人の持っている個性とアスペの人の持っている個性の組み合わせとか、周囲の人の態度とか、そういういろんなことが絡み合いながらそれによってひとそれぞれ、というか、カップルそれぞれで、一口にくくれない訳ですよね。

 ところが、定型の側でもいいですし、アスペの側でもいいですが、もし当事者グループが綾屋さんの説明しているような形になってしまうと、個性の組み合わせとか、そういうのは二の次になって、「アスペだから」あるいは「定型だから」ということが永遠に変わらない絶対的な線引きになってしまって、身動きがとれなくなってしまいます。あとはアスペ同士、あるいは定型同士の固い団結と、相互の闘い、みたいな図式だけに固定してしまうかも知れない。

 もちろん結果として闘いになることはあるし、そうすべき時や場合、あるいは組み合わせもあると思います。でも最初から最後までそれしかない、というのは結局誰にとっても苦しいことになるのではないか、という気持ちを熊谷さんも綾屋さんもお持ちのように感じます。

 それじゃあどうしたらいいのか?どちらかがどちらかを押さえつけるのでもなく、両者が身動きのとれない対立関係になるのでもなく、どうやってあらたにコミュニケートしたらいいのか?その問いかけと、それに対する二人の答えが「つながりの作法:同じでもなく違うでもなく」というタイトルになっていくわけです。

 いやあ、なんかすごく面白いです。

2011年5月19日 (木)

誠意って何?

 このところ「頑張っている振り」とか「誠意を見せる」とかということについて、コメントがいくつか続いていますけれど、何が誠意を見せることになるのか、何が信頼を表すことになるのか、逆に言えば何が誠意を裏切り、信頼を壊すことなのかっていうのはすごくむつかしいですね。

 私の場合、異文化の人とのコミュニケーションでそういうことを嫌と言うほどに体験してきました。自分としては誠意を見せているつもりのことが、相手にはとても不誠実なことであったり、その逆もそうです。こういうことをやるのは信頼を裏切る行為だ、と激しく憤りを持つ行為が、実は相手にとっては信頼を示す行為だったり。もうこうなると悲劇と言っても良いようなものですね。

 で、このところだんだんと実感が深まっているのは、アスペと定型の間にそういうことがやはり起こるんだと言うことです。アスペの人が誠実に応答している(正直にと言っても良いですが)ことが、定型から見ると相手のことを考えない身勝手で不誠実な応答に感じられる。逆に定型が相手のことを思いやってやることが、アスペの人にとってはなにか嘘をつかれたような、騙されたような、とても不誠実な行為に思える。

 ただ、世の中「定型の天下」で、だいたいは定型がえばってますから(ひとつひとつの家庭の中では男女の力関係で逆転したりしますけど)、アスペの人は「こんなの不誠実なやり方に思えるんだけど」と感じながら、それでもなんとか定型に合わせてその不誠実に感じられるやりかたをまねしないといけなかったりするわけですね。定型の方はそれが不誠実などとは夢にも思わないから、そのままそれをやり通す。

 それと、もうひとつ興味を持つことがあるんですが、そういう定型の「誠実さ」とか「思いやり」とかは、実はものすごく日本的なんじゃないかと思えることなんですね。たとえば相手の欠点などについてもできるだけストレートには言わない。相手を傷つけないようにする。もちろん見ず知らずの人や親しくない人ならそれは当然なのかも知れないけれど、相当に親しい人同士の間でも、なんか遠慮があったり、遠回しに言ったり、あるいは本人には言わずに周りの人に愚痴のように語って、それが回り回って本人に「あなた、誰かからこんな風に言われたりしてるみたいよ」という警告として間接的に伝わるようにする。「誰が言ってるの?」と聞かれても、「うーん、なんか噂だけど。ちょっと気をつけた方がいいんじゃないかな」みたいな感じでぼかされる。

 海外の映画なんか見ていると、洋物でもアジア映画でも、その点、ものすごくストレートに相手に言ったりしてる場面に何度も出会います。なんかびっくりしてしまう。逆に日本的定型のそういう回りくどい(あるいは相手を配慮して慎重な)やり方はむしろ不誠実に思われてしまったりする。

 ちょっと漫画チックに言えば、日本以外の多くの文化の人たちはけっこうアスペ的な人間関係を作っていて、日本だけが特別に定型的なんじゃないか、という感じさえ持つことがあります。

 ま、もちろん海外でも定型とアスペ、という、区別はちゃんとあって、その比率もそんなに変わらないだろうし、みんながアスペ、なんていうことは全く無いわけだけど、日本的定型の目から見ると、海外の定型的行動にアスペルガー的な部分が感じられたりすると言うのか、日本的にはアスペの特徴と表現されている行動の仕方を定型の人がやってたりすることがぼちぼちあるような気がするわけです。

 もしかするとその辺のことと、前ににじいろ管理人あ~あさんがコメントで「しかし、社会が変わると状況もかなり変わります。文化の異なるカナダですべて言葉にしなければならない環境で夫と暮らした時はずいぶん楽でした。」と書かれていたことにもなんかつながってくる問題があるのかもしれません。よくわかんないけど。そういえばカナダでしばらく暮らしたことのある方に聞いたことがあったけど、向こうで暮らしているとほんとに周囲に一生懸命気を遣わなくて良くて、とてもいごこちがよいのだけれど、日本に帰ってくると、とにかく回りにものすごく気を遣わなければならないから、しんどくて仕方がない、とおっしゃってましたね。体調を崩すくらいだと。

 で、その気の使い方は、違う文化の人から見ればなんだか不誠実にも見えるし、そしてまたアスペの人から見ても不誠実に見えたりする。異文化の人のその見方とアスペの人のその見方が全く同じだ、とは私も言う気はないですが、でもどこか重なる部分はありそうです。

 

 

2011年5月15日 (日)

なんで「ふてぶてしく」感じるか?

 今日も散歩しながらパートナーといくつかのことを話したんですが、私が最近彼女の身体の動き方などを見ていると、そのときの調子が分かる気がしてきた、ということも一つの話題でした。

 アスペルガーの人は自分の状態(特にマイナスの状態)を意識するのが苦手、という話を何度か読んだり聞いたりしたように思いますが、ここでもやはり私がそういうと、「え?」という感じで、彼女は自分では分からないということでした。

 で、具体的にこんな感じの動きになるように思う、と説明しながら、そうやって自分の身体の動きなどに注意を向けると、もしかして自分の調子の変化に気づきやすくなるんじゃない?と聞いてみたんですが、そんなの無理だと言うんですね。

 それで、たとえ話として、スポーツで先生や先輩や指導者から自分の動きの良くないところを具体的に教えられ、モデルを示されたら、最初はぴんと来ないかも知れないけど、繰り返しているうちに、ああそうかと意識できるようになったりするだろう、という話をしてみたんですが、そこで即座に出てきた答えは「私は(体育などの時間に)そういう教えられ方をして出来たことがまったくなかった」というものでした。

 「はあ、そう」と、なんというか、ちょっとある意味感動しながら、「それでも、(もともと運動が苦手なので)苦手意識が強いからできなかったことは印象に強く残っているだけで、よく考えたら小さな事でも出来たときもあるんじゃない?」と聞いてみると、そういえば、ということで「水泳の息継ぎは出来るようになった」とか「自転車は乗れるようになった」ということを思い出しました。

 でも、息継ぎにしても自転車にしても、私自身の体験からすると、人からコツを教わって出来たと言うより、自分で試行錯誤をしているうちに、突然コツが分かって出来てしまう、というものの気がするんですね。だとすれば上の話とはちょっと違う。

 これがアスペルガーの人にとってどの程度一般的なことなのかは分かりませんけれど、自分の身体の動きと相手の人の身体の動きを重ねてイメージしてみる、ということが少なくとも私のパートナーは苦手なようです。すこし言い方をかえると、このことは「自分の身体の動きを他人の目で客観的に見る」ということが苦手、ということにもつながるように思うし、もしそうだとすれば、「自分の調子を自分で気がつくのが難しい」ということにもそれがどこかつながっていく感じもするんですね。

 これは子どもが言葉を獲得していくときの話になりますが、「相手のまねをすること(模倣すること)」というのが、その過程でとても大きな、大切なステップになるようです。カナータイプの自閉の子どもなどはここでほんとに躓いたりする。もちろん全然出来ないわけではないし、その延長にやがてカナータイプの自閉の子どもに独特の言葉も獲得していきますけれど、かなり苦手で独特であることも確かです。

 なんかそういう「他人の身体を自分の身体に重ねてイメージし、まねをすること」ということがアスペルガーの人の場合でもかなり難しいことがあるのかなあと、ちょっと納得するような気持ちになりました。

 もうひとつ、その話題の続きで面白かったのは、パートナーがチームでやるスポーツが全く苦手だったという話に関係することですが、チームプレイが苦手ということ自体は、アスペルガーの人の多くは井戸端会議も難しいわけですし、すぐに分かる感じがします。サッカーなんかでもそうですが、沢山の人の動きや意図をお互いに察知し合いながら、先を見て行動をしていかなければならないわけですし。

 で、面白かったのは授業でソフトボールか何かの試合に出さされるときの話で、自分は全然下手で他の人に迷惑をかけるからとできるだけ迷惑のかからない、外野とかを守るようにするんだそうです。そのときに、球もそんなに飛んでこないし、退屈なのでうつむいて足で地面に漫画を描いていて、よく怒られたと言うことでした。

 ちょっと驚いて、そりゃ怒られるよ、と思い、なんでそんなことをしてたのかと聞くと、だって外野だから、球が飛んできたら声がかかるから、そしたら取りに行ったらいいし、と言うんですね。それまではやることないから漫画でも描いてたんだと。なんか本人としては「すごく合理的なことをやっていた」という思いであったようです。

 それで、一応、外野と言っても、常にバッターを見ていて、ボールを打った瞬間にはもうどっちの方に球が飛ぶかを予想してそちらに移動し始めなきゃいけないんだよ。声がかかってからでは遅いんだ。という説明をしたんですが、「へえ、そんなもんなんだ。考えたこと無かった」という感じの反応でした。

 本人としては別にやりたくてやっている事ではないわけですし、自分ができないこともよく分かっているから他の人の迷惑にできるだけならないように、球が飛んでこないところを守っているわけですし、で、球が飛んでくるまでは暇だから、声がかかるまで地面に漫画を描いて時間つぶしをしている。ということで、まあとても「筋が通った話」だったのでしょう。だから何を怒られているのか、その本当の理由はぴんと来なかったようです。

 これを定型の側からみれば、事態は全然違う風に見えますよね。「あいつはなんて不真面目な子どもなんだ。みんなで頑張ろうともしないで、勝手にさぼっている。注意をしてもなかなか直らない、ふてぶてしい奴だ」という感じに見えるでしょう。そうすると、まあ怒りの火に油を注ぐような行動が繰り返されていることになります。

 もしそうだとすると、本人としては「みんなのことを考えて、つつましく行動している」つもりのことが、周囲の定型の人間からすれば「実にふてぶてしい反抗的な態度」に見えてしまい、言ってみれば「堂々と宣戦布告をされている」ようなものに感じられるという結果になるんだと思います。そしてそう見えてしまうと「こいつは多少たたきのめしたくらいでは堪(こた)えない奴だから、徹底してやっつけてやらないとだめだ」と周囲に思われてしまう可能性が出てきます。そして激しい攻撃=いじめにつながっていく。

 当然、そうされた方は訳が分からないことになります。そして「なんで自分はこんなにいじめられなければいけないのか」という思いが蓄積されていく。もともと闘う意志なんてないわけで、ただ「つつましく」行動しているだけなんですから。

 そう考えると、私とパートナーの間にこれまで生み出された訳の分からない軋轢についても、かなりわかるところが出てくるような気になりました。この他にもまた興味深いズレの話があったんですが、今日の所はこのくらいにしておきます。

2011年5月12日 (木)

アスペルガー的共感?

 これはパートナーに聞いてみてちょっと分かってきたことで、果たしてどの程度アスペルガーの方たちに共通することなのかはなんとも言えないんですが、前から頭の中にごちゃごちゃしていてよく分からなかったことがひとつ整理されてきた感じがしています。それはアスペルガーの人にとっての共感の問題です。

 相手の人の喜びが自分の喜びになったり、またその悲しみが自分の悲しみになったり、というのは共感的な関係ということでしょうし、そういう関係にある間柄の人はかなり深いつながりを持っていることになる、というのがまあ定型的には自然に感じられることだと思います。自分の喜びや悲しみに寄り添ってくれる、ということが生きることの支えになったりもする。

 だから、「あなたが幸せなら自分も幸せに感じられる」「あなたが嬉しそうにしているときは自分も嬉しくなる」「あなたが悲しそうなときは私も悲しくなる」「あなたが苦しそうにしているのを見ると、自分もつらい」というようなことばをかけられることは、定型的には嬉しいし、支えられる思いにもなるし、逆に言えば自分から相手にそういう言葉をかけるときは、「自分はあなたのことを本当に大事だと感じている」という意味にもなりますよね。

 ところが、少なくとも私のパートナーはこの辺の感覚がうまく共有されません。ぴんと来ないようです。どうしてそういうふうになるのか、分からないと言います。で、そのあたりも「共感性がない」とか「人の気持ちが分からない」と言われたりする原因になるのでしょう。

 でも、たとえば自分が相手のために何かをしてあげたとき、相手がそれで喜んでくれたら自分も嬉しい、ということはパートナーはちゃんとあると言います。彼女は福祉関係の仕事をしていますから、必要なケアをして、そのことで喜んでもらえたら、それは嬉しいんですね。自分のせいで相手が苦しんだり悲しんだりと言うときには、そのせいで苦しむと言うこともある。

 これも相手の人と感情を共有する、という意味では共感的とも言えそうです。もしそうなら「共感性がない」という言い方は出来ないことになるのかもしれないし、基本的に定型と変わらないじゃない、ということになるかもしれない。

 また、アスペの人は相手の感情を理解するのが難しい、ということもよく言われると思うのですが、私のパートナーなんかは小説も好きで、とても良く読んでいます。私はなにしろ教養不足なので (^ ^;)ゞ、小説には(にも)疎いんですが、ロシア文学とか、イギリスのオースティンという作家の描く人間模様とか(私はその超有名らしい作家さえちっとも知らなかったので子どもにめちゃくちゃあきれられましたが)、そういうのもよく読んでいます。

 ある時私がトルストイのアンナカレーニナの映画版をDVDで見て、そのあらすじのあらすじ(もう身も皮もない骨だけのもの、というか、骨の中でも背骨しかないようなもの)を話したら、原作を何度も読んでいるパートナーに「そんな身も蓋もない言い方ないでしょう」というような感じで笑われるというか馬鹿にされるというか、そんなふうにもなりました。

 小説の人間模様を楽しむなんて、登場人物の感情の理解抜きには成り立たないと思えますから、ここでもよく分かんなくなっていたんですね。アスペルガーだから人の感情が理解できないという単純なことでもない。

 まあ、どこまで入り組んだ感情を理解するのか、という見方をすると、それはそれでまた違いが見えてくるということもあるのでしょうが、まあでも小説の中の人間模様を楽しむという、私はあまり得意でないことも楽しめたり出来るわけですし、その辺もあんまり単純には言い切れない感じがする。

 というようなことで、頭が混乱してたんですね。違うのはきっと違うと思えるんだけど、何が違うのかがよく分かんなくなってしまう感じで。

 そこが、今回パートナーと話をしていて、パートナーのこんな言葉から自分なりにすっと整理できた気がしたんです。「相手の人がなんで喜んでいるのか、その理由が分かるときは自分もそれを喜べることはある」というんですね。逆に言うと「何でなのかわからないけれど、とにかく相手が嬉しそうにしている」と言うときに何となく自分も嬉しい感じになる、というようなことはないことになります。そして極めつけは「小説は登場人物がどうしてそういう感情を持つのか、理由が分かるから共感できる」という言葉でした。

 どちらもポイントは「理由がわかるかどうか」というところです。定型の場合はあくびが伝染するように、感情が伝染してしまうことはしばしば経験することだと思います。そしてそのことが人間関係を維持したり深めたりする上で大切な働きをしている。そこで伝染せずに冷静さを保つことは逆にちょっと努力が必要だったりもする。その上で、理由が分かればさらに共感が深まったり、あるいは微妙な色合いまで含めてちょっと「複雑」な共感になったりも出来る。それに対して、少なくとも私のパートナーの場合は、まずは理由が大事なんですね。訳の分からない感情の伝染ではなくて。

 この問題についてはまだちょっと糸口が見え始めたかな、という程度ですけれど、このあたりを考えていくと、定型とアスペの間の「それなりの」共感的関係の作り方、みたいなことが何か分かってくるかも知れないなと言う気がしました。

2011年5月11日 (水)

再びアスペと境界性と私

 カレンの夫さんのコメントの次の文章「今思えば、それは「あきらめていない」ということだったのでしょうか。本当に「あきらめ」ていたらもっと早い時期に妻の話に耳を傾け、納得いかないままに妻の望むような言動を取り、表面をつくろって生活するという選択肢もあったのかもしれません。「あきらめ」られなかったからこそ、極限まで行き、そこで初めて自分のASが原因なのではないかと考え始めたのです。それから今日まで、驚くほどのスピードでいろいろな変化が起きています。」

 なんというのか、その徹底した妥協のない「頑固さ」は、私にも通じるところがあるように感じるんですね。そのことでこれまでどれほどに周囲の人たちと軋轢を繰り返してきたことかと思います。とにかく自分が納得のいくところまで、とことんまでつきつめると言うか、いろんな場面でそういうことは繰り返してきたと思います。で、親からはそうすることが「正しいことだ」という価値観を与えられてきたと思うし、またそれを受け取る素地も私の中にあったのでしょう。

 だからなにか人間関係で問題が生じたときも、「まあまあまあ」と適当に誤魔化すことが苦手で、とにかく徹底して問題をはっきりさせる、ということにこだわることが多かったし、「原則にこだわる」ことも多かったし、だから当然のように、人間関係の中での「相手の気持ちを察しての譲り合い」とか「その場その場での柔軟な対応」をものすごく重視する日本的な人間関係の中ではもう浮きまくっていたと思います。

 とはいえ、そういう自分の生き方に共感してくれる人もいて、決して孤立して生きてきたとは思っていません。むしろ「中途半端に妥協しない」ことで、すごく深い人間関係が作られることがよくありました。(あ、今はもういい加減そのもののような人生にも思えますけど (^ ^;)ゞ)

 実は韓流に私もかなり染まった時期がありまして(今もときどきみますが)、とにかくあの韓国の人たちの人間関係って激しいんですよね(と、私には見える)。プラスもマイナスもお互いの感情をぶつけあったり、批判とかものすごくストレートにばんばんやるし(ただし他方でものすごく気遣って自分の思いを決して伝えないようなこともあるのですが)、お互いに傷口を開いて塩をすり込み合うような、そんな風にみえるやりとりもある。相手に対する激しい憎しみを育てながら、でも、そうやって関係が深まり、信頼が深まっていったりする感じなんです。私の言う「妥協しない」という生き方とはまたちょっと違う面がありそうですが、でも「徹底して闘う」みたいなところで、そうやって関係を深くしていく、というところで、結構リアルに「そうだよなあ」と思えたりしました。自分の経験とも照らし合わせて。

 そんなこんなで、カレンの夫さんの「極限まで行き」という感じと、私の「中途半端に妥協せず」というところ、やっぱりすごく似てる部分があって、それじゃあ私もアスペルガーの側なんだろうか、と考えると、やっぱり違うよなあと思える。このあたりjoさんなら「釣り鐘型4分の1の理論」で説明するんでしょうけれどね。

 うーん、何が違うんだろうなあ。私の「妥協のない姿勢」は、多分境界性の母親の影響が強いような気がします。私の経験では、境界性の人はものすごく判断が「純粋」で、いろんな要素を考え合わせてバランスを取るような、そういう「曖昧さ」が許せないようなタイプの人が多いように思います。その結果、ものすごく鋭く相手を見抜いたりする力も持っている。ごまかしが利かないというか。

 ただ、おっさん臭く言うと、世の中実際矛盾に満ちていて、いろんな要素が絡まり合っているので、どうしてもそういう「純粋」な判断は実際の物事の一面しか見られないような限界も持つんですよね。そうすると境界性の人は、その現実の矛盾を目の前にしたときに、時として瞬時に近く、ごろっと判断がひっくり返ってしまうことが時々あります。人の評価でもそうですしね。ある時期徹底して尊敬したり、あるいはものすごく高く評価してきた人が、ある時を境に今度はものすごく悪い評価になって、その人を激しく攻撃し始めたりする。なんか揺れがものすごく大きいんです。

 ある意味で、そうやって矛盾を解消している、と言えなくもないですね。一面的な見方になってしまうと、他面が見えなくなるから、あるときに別の見方に切り替える。そのときは今度はそっちの方で一面的な見方で「純粋」にものをみるようになったりするんですが、元の見方は否定されてしまう。そうやって「時間差」で両面をみてバランスを取っているのかなと思うのですが、だからすごく揺れが激しくて、私も親にはすごい振り回されました。

 で、私はどうも境界性ではないようなので、そのうち「物事の一面をつきつめる」という姿勢はすごく影響を受けたのかも知れないと思います。ただ、ある意味器用に前の見方をあっさりと去って他の見方にがらっと切り替える、というようなことは出来ない。(いや、今は随分いい加減になりましたから、がらっとではないですが、ずるっと(?)視線を切り替えてみたりはしますけど (^ ^;)ゞ )

 それから境界性の人は感情的にすごく激しい人が多い。強烈に共感を求めたり、あるいは自分を徹底して受容してくれることを求めたり。そういう意味でも妥協がない。で、もしかするとそういうところの影響も受けてきたので、その点で私はアスペルガー的ではないのかも知れないなあと思ったりしますし、そのあたりでパートナーとの関係もしんどかったりしたところがあるんだと思います。

 まあこんな風に書いていることがどの程度ほんとなのか、わかりませんけど、でもこんな風に自分をちょっと引いた目で見ることが出来るようになるには時間がかかりましたね。それとほんとに多くの失敗や挫折を繰り返すことと。

 ちょっと話が横道にそれそうになってしまいましたが、カレンの夫さんの「あきらめない」=「極限まで行く」生き方に自分がすごく通じるものを感じると言うことと、でも自分はやっぱり定型(変型?)だということの「矛盾(?)」がl興味深くて、そんなことを考えてみました。

2011年5月 8日 (日)

私の幸せと不幸を生きること

 6日の記事(「あきらめの話」)へのみなさんのコメントは、何時にもまして深さと広さを感じて、何からどう考えるのがいいのか、すぐには分からない、というか、簡単に分かった気になりたくないという感じがしています。なんかじっくりと自分の中で受け止め、ゆっくりあたためながら、少しずつ自分なりに考える糸口を探していくというか、そうしたいようなコメントの数々です。

 今日は散歩をしながら、パートナーにみなさんのコメントのことを少し話をしたりしていたのですが、「絵に描いたような<幸せ>な家庭の方がめずらしいんじゃない」と言っていました。いや、別にみなさんが<不幸>な生い立ちであったとか、そしてその結果として今も<不幸>であるとか、「親の因果」で人を脅して儲ける安物の占い師みたいな、そういうことを訳知り顔に言いたいわけではないんです。何が幸せで、何が不幸かなんて、そんなものは他人が物差しで測ってみせるような、そんなものではないと思いますし。ただ確実に言えることは、やっぱり改めて人が生きていくということの重さを改めて感じるということでしょうか。

 なんか、しょうもない一般論になりそうな気もしますが、でも幸せとか幸せではないとか、それはまず自分自身の中のできごとなんですよね。それを無視して他人がとやかく言うことに意味はないし、他人と比べることにも意味はない。私は逆立ちしたって転がり回ったって私以外ではあり得ないわけだし、私の人生は私以外の人が生きることはできないわけだから、そこで問題なのは「私の幸せ」だし「私の不幸」でしょう。

 ただし、その「私の幸せ」とか「私の不幸」に周りの人たちとのつながり方が深く関わってくる。でも、子は親を選べないし、親も子を選ぶことは出来ない。そこから始まって、私たちが本当に自由に選べる関係なんてどれだけあるでしょうか?そのことを含めて、やっぱり「幸せ」も「不幸」もまずは「私」のこと、「私がそれをどう感じ、どんな風にそのことに向き合うか」なんだという気がします。

 もしかするとこんなことはアスペルガーの方にはあまりにも当たり前のことかも知れないですね。もともと私は私であって、他人は他人であって、私の幸せは私のものだし、他人の幸せは他人のものということは大前提。その上で、他人が幸せであることはそれはそれとしていいことだし、他人が不幸であることは避けるべきことでもある。定型の方はそのあたり、私の幸せなんだか相手の幸せなんだか、どっちの不幸なんだかものすごく曖昧なことがとても多いし、それを共感と言ったりするのでしょう。

 そういう違いはあるかもしれないけれど、でもいずれの場合でも、私の幸せに他人が大きな影響を持ってしまう、ということはやっぱり一緒なんですね。どちらも他人との関係で幸せを感じたり、幸せを感じられなかったり、そういうことがあるのは間違いない。なぜ、どんなふうにしてその幸せに影響するか、何に幸せを感じるかは違う部分もあるのかも知れないけれど。でも場合によってはアスペルガーの繭さんに対して、むしろ定型(変型?)のカレンさんがものすごく深いところで共感してしまうような、そういう部分、そういうことだってある。

 みなさんのコメントを読みながら、なんだか、アスペルガーの特徴として、よく言われる三つのこと(三つ組の「障がい」)、社会性の障がい、コミュニケーションの障がい、想像力の障がい、という言い方が、ものすごく表面的な、浅いことを言っているような気がしています。

 なんというか、もっともっと深く、個性的なその人その人の人生を歩みながら、それがあるところでそういう三つ組、と言われるような特徴も表すことがある。そしてそのように見ることで、お互いの関係の取り方に変化が生まれる部分もある。でも最終的に本当に大事なのはそっちではなくて、アスペの人であろうと定型の人であろうと、その人その人の個性的な人生だし、その個性的な人生の中で、その人なりの、その人にしか生きられない「幸せ」と「不幸」を生きていくことなんだよなあと、なんかそんなことを今改めて実感しているのかも知れません。

2011年5月 6日 (金)

あきらめの話

 チロさんが「僕は絶望なんかしてませんよ。希望があるから苦しいんだ。」というドラマの台詞を紹介してくださっていて、うーん、と唸る感じでした。そうなんですよね。絶望しきれない、まだどこかに可能性があるんじゃないかと思いながら、でもいつまで経ってもその可能性が見えてこない。むしろ状況はどんどん悪くなる。でもやっぱり希望を捨てられない……。ほんとに、ちょっと言葉にならないくらいつらい状況です。

 そういえば「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」とかいう言葉もありましたね。これって希望を捨ててるのか、それとも「身を捨てたら何とかなる」という希望を持っているのか???……

 joさんがコメントで、「この子に「あなたはこの環境に生まれたのだから、これを当然と思って成長しなさい」ということは、「大人になって親と同じ苦痛を味わえ」と言うのと同じですから。そこはやはり私にできることがあるうちはあきらめきれないです。」と書かれたことは、やっぱりそこは同じだなと思えます。私の場合は1度目の通院は上の子の状態が本格的に悪くなったとき、そこをなんとか改めて子どもと向き合って子どもが一人で歩き始められるようになって、とりあえず私の状態も上向き、そして二度目は下の子の問題がぐっとシビアになって、そこからまた暗中模索が続き、その中でなんとか先が見えてくるようになり始めた頃、力尽きた、という感じでまた通院が始まりました。

 私の場合はその二回目の時期とパートナーとの「アスペルガー」という理解の共有が成立した頃が重なり、改めて話し合う中で、ここは最初から(?)その理解が「福音」となったカレンさんと少し経過が違いますが、まずは衝撃的な事実(自分が必死でこらえ、努力し続けてきたことが、ひとつひとつ全くずれていて、逆効果でしかなかった、とか無意味だったということを突きつけられること)が次々に見えてくる中で、どんどん状態も悪化していきました。言ってみればチロさんが書かれていた「希望」という言葉の「無意味さ」を一つ一つ目の前で潰されていくようなことだったのかもしれません。

 同時にそういう「現実」が「理解」されていく中で、改めて足場探しを細々と続けてきた、というのはまだ「あきらめきっていない」状況だったということになるのでしょうか。でも何をあきらめきってなかったのかは、今はまだよく分かりませんが。とにかくその経過の中で、下の子どもの先行きに対する前向きの確信も強まっていき、ようやく昨年末当たりに「谷底」に降り立った感じになったという展開。

 ああ、そう考えると、チロさんの選択も、私やjoさんの現時点での選択も、一見方向は違うように見えて、実は同じことなんですね?やっぱり「子ども」をあきらめるという選択肢はない、というところで。このあたりはカレンさんの場合、もちろんお子さんのことを含みつつではあるけれど、ちょっと違う面もあるような印象を持ちます。なんというか、とにかく「自分自身であること」についての確信みたいな、そういう思いを近代医療への絶望や自然との向き合いの体験などから獲得してこられた、そのことがとても大きそうです。

 自分自身であることへの確信について、私がどうだったのかとちょっと考えてみるんですが、ある意味では物心つかない昔から、強烈な自己主張の固まりのような母親と、融通の利かない訳の分からない頑固さの父親の闘いの狭間で震えおののきつつ、ただし、極度に自己中心的ではあってもその両親のそれぞれの形での「愛情」はしっかり注がれることで自己崩壊は免れつつ、その親をモデルとして取り込んで「自分自身であること」を相当貫いてきた人生ではありました。

 で、逆にそういう自分の生き方の中で、子どもにこれだけのしんどい思いをさせてしまったことで、それまで自分自身について感じていた「価値」がすべて無意味に思えてきてしまった、という展開でしょうか。もちろんこれまでにも大小様々な挫折体験は繰り返してきましたけれど、自分の人生に全く意味を感じられなくなるほどの、自己肯定感をここまで足下から根本的に崩されてしまう体験というのは、子どものそういう苦しみに直面したときが生まれて初めてでした。

 ああ、そう考えると、チロさんはきっとそういうある種の「後悔」はしないですむんでしょうね。それからお子さんが小さい内にズレに気づいたjoさんにしても。それってすごいことだなという気がするし、ある意味うらやましくもあります。もちろん、こんな自分にはこういう選択肢しかなかっただろうな、とか、これ以上の力も能力も自分には無かっただろうという気も今はしていて、その意味では「あきらめ」なのか、ずうずうしい「自分の受容」なのか分かりませんが、そういう感覚はあるので、お二人を嫉妬するとか、そんなのとは違うけど、でもある意味うらやましい。

 
 と、ここまで書いてきて改めてまた思うことは、このように状況を理解したりするというのは、チロさん、joさん、カレンさん、そして私と定型(変型?)の側の人間が歩んできた道についての(私の理解の)ことで、それぞれのパートナーの方の、あるいはアスペの方の世界観というのか、感じ方というのか、そこから見ればまた違うような理解があるのかなあとも思います。こういう問題の設定の仕方自体もしかするととっても定型(変型?)的かも知れないので、そこはうまく対話になるかどうか、なんとも今は分かりませんけれど。

2011年5月 3日 (火)

やっぱり変だ

 今日はカウンセラーをやってる友だちと久しぶりに電話でちょっとしゃべったんですが、このブログも時々見てくれて居るんだけど、「普通は相手がアスペルガーとかわかったら、だいたいもうそこは<あきらめましょう>となるところ、そうならないで、そこを出発点にしてどうするのか、というふうに考えるところがパンダさんらしい」と言われました。かかりつけの精神科医も当初は明らかに「それはもうその点についてはあきらめるしかない」という感じでしたもんね。

 やっぱり客観的には変な奴ということですね。別に卑下するとかではなく、単なる事実として。カウンセリング的対応とか、精神科の常道からもはずれてるんでしょう。いや、別にカウンセリングが万能だとか、精神医学バンザイとか、そんなことこれっぽっちも思ったこともないですけど、まあでもその道のいわば「常道」から見ればそうなんでしょうから、それを外れてるわけですよね。別に良いとか悪いとかの話ではなく。

 まあ、でもこの世の中、変な奴がいるから変化があるし、変化があるから進歩することもある(悪化することもある (^ ^;)ゞ) わけで、別に変な奴でも構わないですし、変な奴には変な奴の生きてる意味があるんでしょう。その点ではアスペルガーの人だって、境界性の人だって、その他のいわゆる「障がい」を抱えていると言われている人たちだって、なんかその人たちなりの役割というか、生き方というか、意味というか、そういうものがあるんだろうなとも思います。ま、ちょっとこの辺、いろいろややこしい問題も絡みそうで、単純には言えないとは思いますが。

 うーん、完全に居直りですね、これは (^ ^;)ゞ

 そう考えると、やっぱりjoさんなんかも極めつきの「変な奴」なんでしょうね。私から見ていて、どうしてそこまでがんばれるんだろう?とちょっと驚嘆する感じもあります。あの頑張りを支える力ってなんなんだろう?「あきらめて、運命を受け入れる」みたいな、そんな感じじゃ全然無いじゃないですか。ひーひー言いながら、でもなんとか次を模索し続けてるし。うん。やっぱり変だ (^_^)

 そうすると、このブログのタイトルはちょっと変えて「アスペと定型(変型)」としたほうが良いかもしれないですね(笑)

 ゴールデンウィーク、みなさん少しはのんびり出来ているのでしょうか。
 ということで、今日は(も?)あんまり内容のない記事で失礼いたしました m(_ _)m

2011年5月 2日 (月)

共に生きる

 みみさんから悲しいお知らせを頂いて、改めてこのブログと被災地域の方との関係を考えています。

 このブログの場を提供している「ココログ」のサービスのひとつで、どこの地域の方が何人訪問してくださっているのかのデータを見ることが出来るんですが、47都道府県のすべてから読みに来てくださっている中で、過去四ヶ月分を見ると、東北太平洋岸の県はどれも半分より上にランクされていました。中でも福島がそのトップです。でもこの1ヶ月では福島は最下位に、また宮城と岩手もほんとに少なくなってしまいました。
 
 もうそれどころではない、ということもあるでしょうし、そもそもネットを見る環境が失われている、ということも、あるいは残念なことに……


 しばしば言われていることですけれど、この震災とそして今も続く原発事故のことをきっかけに、日本の社会は本当に大きく変わっていくと感じています。阪神淡路大震災と、それからまもなく起こったオウムサリン事件も、当時日本の社会に大変な衝撃を与えましたけれども、それはある意味では序章にすぎなくて、今本章の扉が開いたのではないかと、そんな気もします。

 社会というと、なんだか大きなもので、私たちひとりひとりとはある意味で関係ないもののようにも思えるけれど、でも今はひとりひとりが大きく変わりはじめ、そして社会も変わっていく、そんなことなんじゃないかと思えます。

 東北地方や関東の一部の被災地域やそこに住む皆さんの復興への取り組みは、これから何年にもわたって日本の社会全体が取り組んでいかなければならない大きな課題ですし、原発事故の問題も、まずは収束までに年単位の時間がかかり、その処理にまた十年単位で、そして放射能汚染の問題についても同じような単位で取り組まざるを得ない状況です。

 たしかにそれはほんとに大きな負の遺産なのですし、そこに言いしれぬ怒りや悲しみが、その数を想像することも出来ないくらいに生み出されていることも間違いないことです。私たちはそれを抱え込み、そしてそこから逃げ出すことは出来ない。

 でもそういうしんどい状況を、お互いに助け合ったり、愚痴を言い合ったり、時に喧嘩しあったりしながら乗り越えていくことから、本当に新しいものが生み出されていくというのも間違いないことのように感じます。もしかすると新しいものというのはそんな風にしてしか生み出されないものなのかも知れないとも思うこともあります。

 アスペと定型の問題も、今までもそういう問題だったし、そしていまこの日本の社会が大きく変わろうとしている中で、そこからまた新しい展開をしていくことになるような気もします。その現場に、ここに来られる皆さんのひとりひとりが今立っているのではないでしょうか。


 去って行かれた沢山の命を呼び戻すことはできません。私たちに出来るのは、その大切な命を心に刻み、そして私たちの中で生き続けていただき、私たちと共に新しい何かを生み出す力を与えていただくことなのかなと、そんなふうに思います。そう思うと、「共に生きる」という言葉は、なくなった方との間にも成り立つことなのかも知れませんね。

2011年5月 1日 (日)

相手が「アスペ」に見えるとき

 なんか世の中連休ですが、チロさんのコメントで「結婚したことで、私の定型、夫のアスペがくっきり見えるようになった感じです。」というのがあって、これは深いぞ! と思ったんで、なんか書いてみようかなと思います。

 チロさんは、「私もやっぱり真面目で、仕事では完璧主義と言われます。嘘をつくのが苦手だったり、派閥とかの状況を読むのも下手。変わってるとか天然と言われることも。」ということで、今度からは天然チロさんとお呼びすべきか迷っていますが、それはさておき、やっぱりちょびっと、うっすら自閉系にも思えるじゃないですか。この感じ。「天然」は違うかも知れないけど、そのほかかなり私とも似てるとこあるし (^ ^;)ゞ

 で、学生時代とか、発達に遅れのある子どもたちと接する機会が比較的多かったときに、回りの友達とか見てても面白いことがあったんですね。なんていうのか、「気の合う障がいのタイプ」みたいのがあって、なんかいつも話が落ち着かない友だちは多動の子が好きだったり、ゆったりした友だちはおっとり系で社会性たっぷりのダウンちゃんが好きだったり、そんなのがあったんです。で、私はというと、孤独な(?)自閉系の子がなんとなく好みだった。

 類は友を呼ぶ、というのか、なんか自分の中にもある傾向を、すごくはっきりした形で見せてくれる子に、なんとなく親しみを持ってしまうのかも知れないですね。で、その部分でもし自分が多少なりとも苦労している、という実感があったりすると、その性格で「障がい」と呼ばれ、社会的に苦労しているとか、不利な立場に置かれているように見える子どもに対して、思い入れが出来て共感してしまうとか。なんか、そんなことがあるのかもしれません。

 joさんは「釣鐘4分の1」理論でこのあたりを説明されているのかなと思ったりもするんですが。

 これ、もしかすると前もどっかに書いたかも知れないけど、パートナーの選び方の一つに、自分と大事なところで共通点を持つように感じられつつ(これは安心の素?)、でも自分にはない正反対のものを持っている人(これは魅力の素?)、みたいなことが結構あるように思えるんですが、ま、まだつきあって初々しい頃は、そこでハッピーに行けたりもする。

 でもそのうちに段々と生活上のいろんなことを共にするようになって、ある意味利害も対立するようなこととか、お互い譲れないような所とか、そういうこともなんだかんだと積み重なって、特にそれがしんどくなってきたときに、最初に書いたチロさんの深い言葉「結婚したことで、私の定型、夫のアスペがくっきり見えるようになった感じです。」ということが起こるんじゃないでしょうか。

 これ、やっぱり異文化接触の時にも同じようなことが起こるように思えるんですね。自分の体験から言って。最初は似てる部分も感じて共感したりしてるけど、いざその文化の中で暮らしてみると、あまりの違いにびっくりしてしまって、今度は逆に正反対の見方でお互いを特徴付けたりするようになる。前も書いたけど、私なんか海外に仕事でちょっと暮らしたときに、「俺って外れもんの、だけど<日本人>だなあ」としみじみ思いましたもんね。外れ方自体が日本的なんだなあというか。これはちょっと驚きでした。それまで自分は「ぜんぜん日本人的でない!」と自他共に思ってましたもん。

 で、joさんがコメントで「それまでは、他のまちがった??解釈をしてしまっていたり(男だから、女だから、とか---いや、実はそうかも知れないんだけど----)、得体の知れない怖れにおののいていたりするんですけど。ああ、そうだったのかと、ストンと落ちて整合に至る。」と書かれているように、なんかそういう新しい見方をすることによって、「ストンと落ち」るものがあって、それで一気に気持ちが楽になる部分が出来たりするんですよね。

 で、カレンさんの所もそうみたいだし、うちもそうですけど、その「新しい見方」がパートナーとの間で共有されると、そこからまたさらになんだか大きな変化が実際に起こり始めたりする。それが好ましい方向に行くのかどうかはよくわかりませんけど(何が好ましいのかもよく分かりませんけど)、とにかくお互いの関係に変化は起こる。

 なんかアスペと定型の問題って、そういうややこしい、ある意味ダイナミックな変化の連続、みたいなところが大事になるんじゃないかなと、ちょっと実感し始めてます。何がどう大事なんか、と聞かれると、そんな難しいこと聞かれても、わてアホでっさかい…… (^ ^;)ゞ

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