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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年4月17日 (日)

一対一と一対多の関係の違い

ほんとにご無沙汰してしまいました。

原発の危機的状態は過ぎ去っているわけではなく、ここ数ヶ月はすくなくとも継続しそうですが、想定される中で最悪の「爆発」という事態になったときにも、ちゃんと対処すれば被害をものすごく少なくできる、ということが分かりましたし(対処しないのとでは後の発ガン率に数十倍以上の差が出るでしょう)、対応の面でのおおよその見通しがようやく立ってきたので、ちょっとほっとして、またある意味で日常に近い状態に戻れそうな気がし始めてきました。

もちろん必要な準備や警戒はしながらですが。知り合いのすごい好意で、緊急時には子どもを一時的に疎開させる手はずも終えましたし。被曝したからと言って20km圏内はすでに避難を終えていますから、すぐに亡くなる方や重い症状になる方はまず出ないはずです。あとは十年とか二十年とか後になって、ガンになる「確率」の問題ですから、被曝したから必ずガンになるわけでもないし、もともと被曝以外の原因でガンになる人の方が圧倒的に多いわけですし、仮にのちにガンになっても、それがどっちの原因なのかはわかりようがありません。

でも特に若い人たちの場合は、そんな危険を少しでも減らしてあげるべきだと思います。その点、福島の子どもたちは本当に心配です。なにしろ福島県の調査で、全県の小中学校の4分の3の学校で、「放射線管理区域」に指定されるレベル以上の放射線量が測定されたというニュースに本当にショックを受けました。「放射線管理区域」というのは、病院のレントゲン室の前によく看板が出ているあれですね。福島の子どもたちの多くが、言ってみればレントゲン室の中のような環境で毎日授業を受け続けなければならない、というような状況になっているということになります。

放射線は目に見えないし一見普段と何も変わらない学校がそこにはあります。でも目に見えない「放射線管理区域」の標識が、実はそこに掲げられているわけです。そういう状況に大人は子どもたちを置き続けているという事態をどう考えたらいいのか。親としての責任ということを考えてしまいます。


さて、今日はほんとに久しぶりにパートナーと二人で河原を歩いてきました。私自身、ずっと家に閉じこもり状態が続いていたので、なんだか1年ぶりくらいだろうか、といいうくらいの感じで「大きな空」を見てきました。

前回も少しだけ書いたのですが、子どもが家を出て生活を始め、もう20年ぶりに二人だけの生活がまた始まったところで、ほんとに驚くほどに状況が変わりました。パートナーに「すごくかわったよね」と尋ねてみると「え?そう?」と最初はわかんない感じでしたけれど、いろいろ話している内に「そうかもしれない」と言うようになりました。

定型の私から見ると、今の変化はこういうことのように思えます。

前にも少し書いたように、そしてjoさんとも少しやりとりしたように、私の場合はパートナーと知り合ってまもなく一緒に暮らし始めて、そのころはとてもハッピーだったんですね。なんかズレはあったんだけど、それはそのハッピーさに隠れてそんなに大きな問題にはならなかった。

最初に問題が出てきたのは実家との関係でです。境界性で、私に対する強烈な精神的支配力と強烈な依存の欲求を持っていた母親(という理解は40歳になるまで分かりませんでしたが)と、そのまるで対極にいるパートナーの間で、やっぱり通常の嫁姑関係とは比較にならないような難しさがあるわけです。でも、母親の言い分も分かるところはあっても、私はまずはパートナーの味方になる形で対応し続けて、まあ夫婦関係自体は守られたわけです。

で、夫婦間で問題が顕在化したのは子どもが産まれてからでした。このこともすでに何度か書きました。それはなんでなんだろうかと考えるんですが、今日パートナーに話して「そうかもね」というふうになったのはこういうことです。

私のパートナーは一対一の関係だと、たとえば会話をしていても一応それなりに話は進みます。もちろんお互いに伝わりにくいこととか、すぐにとぎれがちと言うことはあるにせよ。でも、一対多というか、グループで話し合っている井戸端会議みたいな場ではほんとに理解ができなくなる。これは私のパートナーに限ったことではなく、アスペルガーの方がしばしば自分のこととして語られることでもありますよね。

そうすると、パートナーももちろんいろんな問題を抱えて苦しんでいた子どものことはものすごく心配で、なんとかならないかと必死だったんです。その対処の仕方は定型の私の目から見ると、「それは却ってまずい、逆効果だ」と真剣に悩んでしまうものだったのですが、とにかく本人としてはそうです。つまりここで「一対一(パートナーと子ども)」の関係がパートナーにとっては成立することになる。もちろんその子どもとの関係は彼女にとって私との関係よりも大事なものであったはずです。

ということは、彼女としてはそれでもう精一杯になるわけです。私は私の目から見て彼女のやり方に問題を感じるので、そのことで「どう子どもに対すべきか」と相談をしようとする。でもそれはパートナーにしてみれば「一対二」の関係になってしまう。私の考え方、私と子どもの関係の取り方を理解しながら、なおかつ子どもと自分の関係について考え、その二つの関係を調整することをしなければならない。

井戸端会議ができない彼女にとって、これがどれほどしんどいことであったかという風に考えてみると、分かる気がするんですね。もう子どもに向き合うことで一杯一杯で、そこですごい不安を抱えて身動きがとれない状態が続いているときに、それ以上の関係を私から求められる。

しかも私が一生懸命伝えようとすることは、子育てでの「共感的姿勢」の重要さ、というようなことになるわけです。それを手を換え品を変えて伝えようとするのだけれど、全くと言っていいほど、いや全く伝わらない。なぜこんな簡単なことが伝わらないのかと当惑しながら、私も繰り返しそれを伝えようとせざるを得ない。

そういうことがくりかえされるほど、パートナーは混乱し、その苦しさに私に対して自分を閉ざすよりなくなっていく。で、私はなぜ閉ざされるのかが分からず、子どものために相談しようとしていることがなぜこんな風に拒絶されなければならないのかが分からず、また悩むという悪循環になっていくことになります。

最終的にはこれはパートナーが私という存在を拒絶しているんだ、と思わざるを得なくなっていきました。あ、もちろん子どもとの関係だけの問題ではなくて、ここにも書いてきたいろんな感覚の違いの問題とかも重なってのことですけれど。そして離婚のことも現実的な選択肢として考え続けるという状況が続いてきたわけです。実際、この数年間は、そこまで自分のことを拒絶されるのなら、もう自分はどうにも耐え難い、というような話も何度かした覚えがあります。

そんな中で子どもは思春期の大変な時期を文字どおり命がけの大変さで乗り越え、幸いにしてしっかりと自分の足で立って巣立ちの歩みを始めてくれました。

そして、その結果として、パートナーにとって「一対多」という困難な状況が消えたのです。ほんとにそのとたん、と言っていいほどの速さで、パートナーは私との「一対一」の関係に20年ぶりに戻ってきたということになります。その結果、関係が劇的に変化してきたと思えるのです。

先日かかりつけの医者にこの話をしたら、医者もその変化に驚いていました。そして、驚きながら、とても納得していました。実際私自身が自分で体験してほんとうに驚き、そしてそう理解することでとても納得したのです。

この理解がどこまでうまくこれまでのことをつかめているのか、それは私にもなんとも言えませんけれど、気持ちの上ではかなり納得できる感じがします。とにかく新たに関係を見直していくための、大きな転機が訪れたと言うことは間違いありません。

どこまで一致できているのかは分かりませんが、とにかくお互いの関係について、今回私の説明にパートナーは「そうかもね」と言ってくれました。こんな風に共通理解がある程度成り立つのも一体どれほどぶりのことか、もう思い出すこともできないほどです。やっぱりそれだけ大きな変化だと言うことなのでしょうね。(←またもや「ね」)

…… あ、これは定型の私の側の、私に都合の良い偏った見方に過ぎませんけれども。そう考えると自分としてはなんかすっきりするところがあるし、ある意味楽ちんになれるなあという。だから別の目で見れば何かごまかしがあるのかもしれないし、そこはよく分かりません。

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コメント

パンダさん、お元気そうでよかったです(^^)

パンダさんのご家庭でのお子様の巣立ちの後の変化がどのようなものであったのかをお伺いしたいと、お待ちしておりました。

私としては2通りの変化を予想していたのですが、パンダさんのお宅での変化はそのうちの2つ目の方でした(笑) お2人で散歩される姿を想像しながら、微笑ましく読ませていただきました。


そして、私がここで思い出したのは、アストン博士の本に書かれていた、"Shoot the messenger(伝達人を撃て)" というフレーズです。

このフレーズが意味しているのは、

アスペルガーの側から見ると、定型のパートナーが、自分にはわからない他の人の気持ちや感情を自分に伝えてくる「伝達人」の役割をしていて、アスペルガーの側は、そんな他の人の気持ちや感情を伝えてくるパートナーを邪魔だと感じる。そのパートナーさえいなければ、自分は何も問題を感じない・自分には何も困ったことはないのに・・・というようなことです。

私はこれを昨年の秋に読んだのですが、「わー、これ、前に夫が言っていたことと全く同じ!」と、苦笑せざるをえませんでした。

実際、うちの場合、2年前の夏、夫が私に「あなたの存在さえなければ、俺には何も問題起こらないし、困ることは何もない!」とズバリ言っていて、

そのことで、その後3か月間、少なくとも私の側は、私たちのバトル最終章を飾るにふさわしい(?)強烈に欝々とした期間を過ごしました。

(この最後の試練は、パンダさんが「カレンさんと夫のつながり」の中で書いてくださっているような、自分でも予期していなかった形で乗り越えることになったのですが。)


他の人(家庭内においては主に子ども)が関わってくると、

定型の側は、表情・身体表現・雰囲気から、他の人の気持ちや感情を意図しようがしまいが自然と察する→それを気がついていないアスペルガーの側に伝える→アスペルガーの側では、自分にはわからないそんなものを伝えられても困るとか迷惑とかいうふうに感じる→定型側とアスペルガー側の間で軋轢が生じる・・・

という図式になりやすいんですよね、どうしても。

今では、このへんのことも、「アスペルガーと定型という違う思考パターンがあると、夫と私が互いに認めたこと」で、それこそ「問題」はほとんど起こりませんが。

子どもたちが小さいうちに、アスペルガーと定型という違いがあるということを知っていたら、もっと別の形の子育てができたんだろうなぁ、と思ったりもしますが、

私たちは知らないまま子育てをする運命にあったのでしょうから、後悔するよりは、今から、この知識をどう生かしていくか・・・だと考えています。


他に、

男性・女性、どちらがアスペルガーでどちらが定型かによって、家庭のありようもずいぶん違ってくるのだなぁ、とか

奥様が心を閉ざしていかれた感じ、同じ女性としてはわかるなぁ、とか

その他、無限に近いほど(?)あらためていろいろなことを考えますが、全部書く時間はないので、今はこれでとりあえず終わります。

カレンさん

>私としては2通りの変化を予想していたのですが、パンダさんのお宅での変化はそのうちの2つ目の方でした(笑)

 おっと、ひとつ目はなんでしょう? 気になる~

 性差の問題はshoot the messengerに書いて下さったことにつながるんでしょうか。つまり、男性がアスペルガーである場合には、社会的な立場は女性より強いことが多いでしょうから、自分を変える、ということについてより抵抗感が強い。女性はまずはそれにあわせようと努力したり、あるいはその努力がむつかしくなったにしても、それに正面からぶつかることはなかなかしづらい(そこはカレンさんは違ったのかも知れませんけれど)。

 逆に男性が定型である場合には男性の方がアスペルガーのパートナーを変化させようとする力が強い。女性の方は変え難いんだけど、でも受け身になりやすいので強くそれに対抗することもしづらい(ここは繭さんは違ったのかも知れませんけど)。

 私は自分としては「男女平等」とか、頭では思って居るんですが、でも父親が「こいつは男だから男らしく育てる」という方針だったらしく、「男!」という部分がなんだか骨の髄からにじみ出ている部分があるような気もするんですね。家庭のことでも「自分が責任を負わなければならないんだ」とか、気がつくとそういう「男!」の意識がすごいあるような気がしますし。だから、ますますそういう性差の問題なんかがパートナーとの関係に色濃く出てくるのかも知れないなあと、そんなことも思います。

 そのあたり、joさんとかどうなのかなというのもちょっと興味があります。

社会的な立場は、結婚当初は私の方が圧倒的に優位でした。ある時から子供とうまくいかなかった配偶者に働きに行ってもらい、私が家事、育児、アルバイトですから今は圧倒的に社会的弱者です。

私の成育家庭は、時代がそうだったのでしょうが、父親が威張って「男」が強調されていたのはパンダさんと同じ。でも、私自身は、そんな父親に反発を感じて母親の行動原理をかなり取り入れて育ったように思います。だから「男」にしてはかなり「女性的に」我慢強いところがあります。そういう「ジェンダーの身につけ損ない」という意味ではアスペっぽいところがあるのかもしれません。ただ、「自分を変える」とか「自分になかった考え方を採り入れる」とか、そういうスキルは仕事の中でかなり身につけたと思います。それをやらないと生き残りづらい所で生きてましたので。

子に発達障害が出はじめ、こりゃたいへん、と思ったときも、職を辞しても子を助けなきゃ、という動きができたことは、母の行動原理だったと思います。父の行動原理を取り入れていたらそうはならなかったはず。期間を区切ってなら自分のアイデンティティを変えてしまうことにあまり抵抗がなかったですね。

ただ、その時点では、根底にある自閉系の諸問題に対する知識は全くありませんでした。子の発達途上の一時的な緊急避難的な対策だと考えていたので、半年か1年、女性が育児休暇をとる程度の期間で復帰できると思っていました。その範囲でなら自分にも復帰できるという(男っぽい)自信、自負があったのです。

ところが、調べれば調べるほど深みにはまり、配偶者について何かわからなかったけど感じていた違和感に次々に説明がついてきました。(私が想定していた)変化が起きなかったのがなぜだったのかということです。子の方も「(私が想定していた)通常」の早さの発達が実現しないし、「特別な」配慮が必要で「通常」以上の時間が必要だということがわかってきて、、、だからといって振り切った舵を途中で切り返すわけにもいかず、家事育児にどっぷりつかっているうちに、社会の風向きも変わり、リーマンショックやら、あれやら、これやら、気がつけば、すべてが向かい風に。ライフセーバーのはずだった貯蓄も食い潰し、使いきった時間の中で専門家としての能力がズタズタになり、もはや前の専門職に復帰する見込みなし。これで本当にリソースの全くないどん底。

今、ここが原点でしょうね。男でも女でもないプロとしての私でもない、私。でも親であることは逃れられないです。

--- あ、この点。「親の自覚」はフツウ女性の方が強いはずですよね、物理的にお腹から出てきたわけだし。男にしてみれば不確かな関係ですフツウ。うちの子の場合、ただ単に私と過ごす時間が長いからということでは説明のつかない「絆」を暗示するエピソードがあったので、私は親だという強い感じがしています。それがまた子にコミットする原因になっているのかもしれません。

joさんとの共通点と違いの両方について、一体どうなんだろうと考えてきましたが、今回書いていただいたことを読んで、前よりだいぶリアルに感じられるようになった気がします。

お互い、パートナーとの関係で驚いたり悩んだりするところはとてもよく似ていたし、またそれについて自分自身が自分自身をどう考えるか、みたいなところも結構似ていたんですよね。だから私の書くことについて、joさんが「「自分が書いたような気持ちになる」ということをおっしゃっていたと思います。そう書いていただいてほんとに私も驚きましたし、ある意味納得しました。

違うのは、前にjoさんが職を離れるのと離れないのとの違いは大きいと言うことを書かれていた、ひとつはその部分がほんとに大きいんですね。それって、単に仕事の問題では無くって、なんというかその後の社会的な立場みたいなものにものすごく影響する。当たり前のことなんでしょうけれど、そのことの重みを改めて考えています。

このあたり、職を一旦離れる、ということについての感覚の世代的な差も関係しているのかも知れません。僕等より新しい世代は、その辺りで生き方を随分変え始めた人が多いでしょうし、そうするとこれまでの世の中のいき方とは違う、新しい暮らし方を新たに模索していかなければならない訳ですから、その分課題も大きくなるということなんですね。

なんか自分とはまた違う種類の「現実の重み」のようなことをとても感じますし、別に自分が楽してきたとは思わないけれど、でもjoさんが向き合ってきた課題の大きさと、それに対して必死の努力というのか頑張りというのか、やっぱりすごいと感じます。

お久しぶりです。
パンダさん、子供さんが無事に巣立たれて、おめでとうございます。
パートナーさんとも良い雰囲気が感じられて、なんだか春らしいですね(^ ^)

私は、地震後一月過ぎた辺りからこちら、浮き沈みが激しくて不安定です。
長い文章を書こうとすると、考えが在らぬ方へ飛んでしまい、纏まらないので、ご挨拶だけで失礼します。

カレンさんの「Shoot the messenger」のお話や、性差のお話、興味深いです。
また落ち着きましたら、コメントさせて下さい。

繭さん、お久しぶりです(^^)

写真の方、毎日見せていただいています。
「記憶」とそこに書かれているコメントを読んで、繭さんのご心境を漠然とながら推察していました。


繭さんとご主人・パンダさんと奥様・joさんと奥様、自分と夫のこと等々を考えながら、

夫婦の関係というものをきっかけに見えてくるもののひとつが、かつての親子関係なんだろうなぁ、と思うこの頃です。

今から仕事なので、またいつか。

繭さん

 今、パートナーと一緒に散歩してきました。ハナミズキや梨や、いろんな花が一斉に咲いていました。このところ私は家にずっと籠もりがちだったので、「歩きなさい」ということで、健康に気遣ってくれたのですが、「散歩は一人より二人の方が楽しいよね」と聞いたら、「うーん」と間をおいて、「まあちょっとは。でもさっさと歩かないといらいらするけど」とか言われました (^ ^;)ゞ

 11日以降、「散歩をする」という日常もずっと途絶えていた感じです。地震が揺らすのは地面だけではありませんね。いろんな余震がはやく収まって欲しいものです。

 繭さんのブログの「流星の行方」、写真としてもいつもながらにとても面白いし、その見立ての仕方が「へえ」とちょっと唸らされました。


カレンさん

 アスペの人の割合が人口の1%ぐらいで、世界の人口で考えたら、だいたいイギリス人全員くらいの人数がアスペの人だ、という話を読んでなんだか面白かったんですが、仮に大体の人が結婚するとすればカップルの50組に1組位の割合でどちらかがアスペなんですね。結構すごい割合だなあと改めてちょっとびっくり。
 
 そうすると、やっぱりアスペと定型のカップルと言ったってほんとに千差万別でもあるのは当然なのかも知れませんね。もちろんその「千差万別」さの中には親子関係で培われてきたものがすごく効いてくるでしょうし、同時にアスペの人に惹かれやすいタイプに育ちやすい親子関係もあるのかも。

 こういう場での経験の交流は、そういう意味で「アスペと定型」の問題を単純な型にはめてしまわないで、そのカップルカップルの個性をふまえて考えるために、すごく大きな意味を持つような気がしました。

カレンさん

いつも見ていて下さって、ありがとうございます(^ ^)
見ていただいていると思うと、安心します。

>夫婦の関係というものをきっかけに見えてくるもののひとつが、かつての親子関係なんだろうなぁ、と思うこの頃です。

今まさに、そこに嵌り込んでいます。
久しぶりの大波ですが、以前よりは余裕があるような気がします。
以前カレンさんが、どこかで書かれていたこと「考えようと思ったら、敢えて別の楽しいことをする(だったような…うろ覚えです)」を思い出しています。


パンダさん

お散歩いいですね。
私も久しぶりに散歩をして来ました。
風と陽に当たって、写真を撮って、やっぱり自然が好きだなぁと思いました。

パートナーさんがおっしゃること(さっさと歩かないといらいらする)、私の夫の言と似ているので、思わず笑ってしまいました。
私は道草時間と歩く時間が同じ位なので、さもありなんではあります(笑)

「流星の行方」は、結構考えて付けたタイトルでしたので、そうおしゃっていただくと嬉しいです。
自分の中のイメージにぴったりの言葉が見付かると、なんともいえない満足感があります。
それを気に入っていただくと、それはまた格別に嬉しいです(^ ^)

繭さん

こちらこそ、私の書いたことを覚えてくださっていてありがとうございます。
嬉しいです。

私は、今でも、ひとつのことを冷静に考えようとするときは「そこにガーっとはまり込んで考えることと」、「あえてそこから離れて全く別のことをすること」、を、意識して適度に切り替えようにしています。(場合に応じて、考えていることと実践を交互に繰り返しながらのフィードバック、というのも行いますが。)

悩みは悩みながらも、辛いことは辛いと感じながらも、

それはそれとして、とにかく動く・他の世界の空気を吸ってみる・いつもとは違うパターンの行動を試してみる・見るものを変える・視点を変える・楽しめることをする・楽しんでリラックスする・・・視野を広くしながら柔軟に考えられる自分でいられるようにする

・・・こんな努力は、難しくもあるけれど、この努力はとても自分を楽にしてくれる意味のある努力だと思っています。全く無関係だと思っていたところから、思わぬヒントを得ることもありますし。

特に自然からは、自然の一部としての生き方・生かされているものとしての生き方等々、たくさんのことが見えてきますよね。そういう意味でも、繭さんの写真(世界)、とても好きですよ(^^)

連投ですが

パンダさん、夫婦のどちらかがアスぺルガーというカップル、最近私はもっともっと確率が高いのではないかと、実生活の中のあれこれから思い始めています。

詳しいことは、またいずれ。おやすみなさい。

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