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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年4月

2011年4月29日 (金)

真面目な変人とアスペ夫妻

 joさんがコメントで「配偶者問題が問題になってる人は、ひょっとしたらド定型ではないんじゃないかな、と思うんです、なんとなく。」と書かれていることがなんとなく頭に引っかかってきています。なんか言えてる部分があるような気がして。

 アスペルガーの人の割合が1%とか言うけど、それで大体の人がもし結婚するとすれば、2%の夫婦はアスペルガーの人を含んだカップルと言うことになるし、2%って結構大きい数ですよね。で、カレン説ではさらに多いんじゃないかと言うことらしい。

 そうすると、たとえばこういうブログなどに来て下る方は、かなりその問題に苦しんで、鬱になったり自殺を考えたりとか、あるいは離婚を考えたりとか、そういう方が少なくないと思うんだけど、その2%で必ずどちらかあるいは二人共が鬱になる、ということもないだろうなという気がしますし(あんまり根拠無いけど (^ ^;)ゞ )。

 ま、少なくとも一番よくコメントを下さるjoさんもカレンさんも繭さんも、とっても「個性的」な方で(あ、私は「個性的」は誉め言葉です。念のため)、まあ世間的には「外れ者」ですよね。明らかに。なんか私って「正常」だわ、と思えてしまうくらい (^_^)v

 いや、こういうことを下手に書くと、アスペルガーの関わる問題で悩む人間はおかしな奴だ、という新たな偏見を生んでしまうからやばいですが、まあでも、そういう問題にある意味真面目に悩んでしまうタイプの人と、意外にあっさりとかわしてひょうひょうと生きられている人がいるのかも知れない、とは思うんです。(そうか、僕等は「真面目」なんだ!あ、もともと鬱になりやすい人ってそうなんですよね?)

 そう考えてみると、joさんの真面目ぶりなんて、ちょっと桁外れにすごい、という感じがしてきました。釣り鐘型の4分の1とか、随分遠慮なさっている言い方と思えますよ。なかなか世の中そこまで真面目な方はいない。

 うーん、そういえば、そもそもアスペルガーの方も真面目な人が多いんですよね。それを悪く言えば「融通が利かない」と文句を言われたりすることもあるわけだけど、でもそれほどに真面目とも言えそう。そうすると、アスペルガーの人に惹かれる人の中には、そういう真面目さに惹かれる人も結構あるのかもしれない。で、そういう人は自分自身も真面目だったりとか。

 だいたいこの本格的な「真面目」というのは定型の中でも少数派ですよね。だいたいみんな適当に妥協するところは妥協して、適当に流して生きている(ように見える)。ところがカレン夫妻にしたって、繭夫妻にしたって、なんかそういう妥協が全然なく、正面からぶつかってきた感じじゃないですか。私とjoさんはちょっと違う形だけど、でもやっぱり問題に対してはずっと正面から悩み続け、考え続けてきたわけだし。で、ある意味もうぎりぎりのところまで、しつこくあきらめないわけでしょう?確かにこれは「変」ですよね。「多数派」から見れば、あきらめが悪いというのか、往生際が悪いというのか、偏屈というのか……全然誉め言葉にならないじゃん (^ ^;)ゞ

 だからどうなのよ?って言われると今は困るんですが、なんかでもちょっと心にひっかかるポイントになりそう。

 

2011年4月26日 (火)

なんか難しい話

 joさんからいただいた「猫が犬になっちゃった話」のコメントや、カレンさんの「男と女の違い」の話や、ほんとに複雑だし、大事だし、面白いといえば面白いし、根が深いと言えば深いし、広がりがあると言えばとても広がりのある話だなあと改めて思っています。

 私は仕事もあって韓国にも友人が何人かあるんですが(韓国語はカムサハムニダくらいしかわかりませんけど (^ ^;)ゞ )、あっちの方では「恨(ハン)」という言葉があって、すごく大事みたいなんですね。日本語だと「恨めしや~」となって相手をのろい殺すとか、そんな話になりそうですが、同じ漢字でもこの「恨」はだいぶ違って、なんか人と人をつなぐ大事な思いみたいらしいんです。すごくわかりにくい話なんですが。

 で、「我々は恨の民族だ!」とか強調するし、若い人はあんまり恨とか言わなくなってるようだけど、でも感覚的に分かるらしいんですね。

 で、日常生活の中でも恨という言葉を使って人生の大事な話がされたりするみたいだし、そういう韓国の人たちの生き方のすごく深いところに根付いているように言われる「恨」なんだけど、じゃあ「恨」って何?と聞いてみると、それは説明が難しいと言うことになる。それでもなんとか説明をしてくれて、それを聞いて「ああ、じゃあこういうことかな」と確認してみると、そこにいる韓国人の人たちがそろって、「いや、そうじゃないんだよね」と言ってお互いに納得してたりするんです。

 ところがほんとに面白いことなんだけど、その韓国の人たち同士の間でも「恨って何か」ということはなかなか一致しない。それぞれのひとにそれぞれの恨の見方があるみたいで、しかもそれはとても大事なもので、で、(いかにも韓国の人らしい感じですが)非常に熱くお互いにそれを語り合い、ぶつけ合うわけです。でも一致するわけではない。

 じゃあ「恨」なんてないのかというと、それは違って、間違いなく恨は我々の魂だ、みたいな確信はあって、実際私の「こういうこと?」という質問に、一致して「それは違う」と言えたりするわけです。なんか基準はあるんですね、きっと。

 なんかアスペルガーって何?という議論とどっか似てないでしょうか?

 これは私にとってほんとに驚きでしたが、私の個人的な経験を書くと、「私と全く一緒です」とか、そいうことを書いてくださる方が何人もいらっしゃって、それを読むと、「そうか、やっぱりそうだったんだ。これはアスペルガーの問題だったんだ!」という確信が出てくる。だから「アスペルガー」なんて明確なものは無いんだよ、とは到底思えなくなります。ところが「アスペルガーはこういうものじゃないか」という話になると、「いや、そこはちょっとちがうんだよね」という議論が必ず出てくる。

 たとえば有名なアスペルガーの狸穴猫さんのブログなんかでは、アスペの人同士で「定型って一体なんであんなふうなんだろう?」みたいな議論がいろいろあったりして、アスペの人たちから見た「定型像」がそこで作られたりもするけど、定型の私の側から見ると、なんかちょっとズレてるなあと感じることも多いし、人によっていろいろだよ、と思うこともあります。当然その逆もそうなわけですよね。定型が「アスペはこうだ」と納得しても、アスペの人から見れば「なんでそんな見方になるの?」とか、「私はそんなんとは違う」とか、いろいろ出てくるのだと思います。

 そういうことを細かく考えていくと、結局アスペと定型の違いはどんどん分かんなくなっていく。で、「スペクトラムだ」とかいう考え方も出てくるのかも知れません。「境目ははっきりしなくて、自閉性が強い人から弱い人までいろいろいるんだよ」みたいな話ですよね。だからはっきりした線引きが出来ないという。

 そういわれるとちょっと分かった気にならないでもないけど、でも皆さんのコメントとか見せていただいていると、このスペクトラムというのも「自閉性」という、なんか一本の抽象的な物差しできれいに並ぶような感じもしないんです。なんかもっと平面的というか、立体的というか、ほんとにいろんな面があって、人によってどういうところにアスペ的な部分が見えるか、(逆に言えば人によってどういうところに定型的な部分が見えるか)が違ったりする。

 だからAさんについて「あの人アスペだよね」と言うときと、Bさんについて「あの人もアスペだね」という時と、同じ「アスペ」という言葉を使っていて、それで「うんそうだよね」とかお互いになんとなく納得できるんだけど、実際はAさんとBさんでは何がどうアスペ的なのかはお互いに見ている部分が違うことだってあるんだと思うんです。

 で、だから結論は何なの?と聞かれると困るんですが…… (^ ^;)ゞ
 難しいなと言うか、面白いなというか、ある意味豊かだなというか……
 ま、ぼちぼちかんがえていきましょう。

2011年4月24日 (日)

ネコ型アスペルガーと犬型定型

 私とパートナーの間で、というより、私にとって本当に長いことシビアだった問題のひとつに、「再会の時の態度」ということがありました。

 たとえばこれは前にも少し書いたような気がしますが、今なら私が家にいてパートナーが仕事から帰ってきたとき、あるいは以前なら私が仕事から帰ってきたときや、特にある程度長期の出張から帰ってきたときなどのパートナーが私に向ける(と感じられる)態度や行動です。

 もしかすると一緒に生活を始めた当初はそれほどではなかったのかも知れないし、そこはちょっと思い出せないのですが、少なくとも今までかなりの長期にわたって、ほぼ確実にと言っていいほど、私が帰るとパートナーはまず不機嫌な顔をしているように見えました。そしてこれも必ずと言っていいほど、何か私を問い詰めるとか責めるように感じられる言葉がいくつか出てくるのです。

 それは些細なことと言えば些細なことなのですが、たとえば洗い物のお皿の置き方が違うとか(私なりの工夫ではあるのですが)、洗濯物のたたみ方がちがうとか、カーテンがどうとか、ゴミがどうとか、どこの電気がついているとか消えているとか、冷蔵庫のものの入れ方がどうとか……、なんだかひとつひとつはよく思い出せないくらいに、ある意味では些細なことでもあり、しかもなぜそこにこだわらなければならないのか、よく分からないようなことが大部分でした。

 だから、ほんとに最近まで、下手をすると憎しみの表情にも見える態度で語られるそれらの文句を、私は「私を拒絶しているサイン」として感じてきました。特に長い出張から帰って来たときなど、久しぶりに家に帰ってほっとしたいし、また再開を喜びたい気持ちはあるわけですが、その都度、本当に必ずと言っていいほど、まずはなにか文句が来るのです。それはとても辛いものでした。久しぶりの旅から帰ってお風呂にゆっくりつかりたいと思っても、「今日は湧かす日じゃなかったから湧かしていない。入らないといけないの?」という感じで迷惑そうに感じられる言葉が返ってくる。

 自分はそこまでパートナーに対して恨まれるようなひどいことを続けているのだろうかと、そういう罪悪感にも苛まれるし、拒絶されることへの苦しみは続くし、しかもその理由がよく分からないので、どうしたらいいのかもわからない。実際ほんとにしんどい状態でした。

 そのあと、去年、パートナーがアスペルガーだという理解が共有されるようになってから、話し合う中でひとつの新しい理解が生まれてきました。それは仕事から帰ってきたときのことについてなのですが、仕事の間はパートナーは苦手な対人関係でものすごく気を遣ってへとへとになって帰ってくる。だから家ではホッとしたい。ホッとすると言うことは、言ってみればそういう自分にはよくわからない気の遣い方をしないことであって、むすっとしていることでもあるし、感じたことはストレートに表現することでもある。むしろ一人になってホッとしたい時間なのだ。そんな理解です。

 そういう理解をするようになってから、私はパートナーが帰る時間には自分の部屋にしばらく閉じこもっていることにしました。そうやって2時間ほどもすれば、だいぶん表情もゆるんでいるし、パートナーもそうしてもらうと助かると言うことだったのです。

 けれどもその理解だけだとやっぱり分からないことがあります。たとえば長期の出張から私が帰ってきたときにも同じような感じになる。とてもじゃないけど、「出張先でこういうことがあってさ」などと話が出来る雰囲気でもないし、そういう「おみやげ話」を喜んでくれる感じもしない。で、逆に責められるような言葉がつらなるわけで、そういうのはパートナーが「しんどい思いをしてきたからホッとして一人でいたい」というのとは違うわけですね。

 それで、つい最近、というか今日、ふと思うことがあって、パートナーに聞いてみたんです。

 家はパートナーが好きでネコを飼っているのですが、そのネコがたとえばとなりの部屋に行くとき、まず入り口で立ち止まってじっと中をうかがうんですね。たとえいつも行っている慣れている部屋でもそうです。そこにえさを置いたときでさえ、やっぱりしばらくはじっとうかがって、それからようやくおもむろにえさに向かう。

 なんでかネコに聞いてみた、というのは嘘ですが、それがネコの習性のようです。新しい場に行くときには慎重に、他のネコが居ないかどうか、危険はないかどうか、とにかく緊張をしてまず確認を怠らない。そういう習性ですね。

 で、その感覚でパートナーのことを考えたら、わかりやすい感じがしたわけです。仕事からパートナーが帰ってきたとき、あるいは私が仕事から、あるいは出張から帰ってきたとき、パートナーにとってはその先の場面も繰り返し経験している慣れた場面であるはずなのですが、でもやはりそれまで居た場所や場面とは異なる、新しい場面に入ることでもあります。その「新しい」場面にどう適応したらいいか、まずは緊張し、そして危険はないかいろいろ探りを入れる。

 いつもと違うところはないか、自分のイメージとずれているところはないか、少しでも危険を感じるところはないか、そのことをじっと探り、そして私に対しても確認をする。ずれていれば不安になって何でそうなっているのかを問いただしたくなる。一通りそうやって自分の周囲を確認して、ようやく安心できるようになる。

 「そういうことじゃないのかな?」と聞いてみたら、パートナーは「そんな風に考えたことは無かったけれど、そうかもしれない」と言っていました。それほど違和感のある理解ではないようです。

 最近、定型の人間は犬型で、アスペルガーの人はネコ型なんかなあと思えることが重なっていたのですが、このことについてもそういう理解でなんとなく分かったような気持ちになれる部分がありました。

2011年4月20日 (水)

揺れながら歩く

久しぶりにDVDで映画を見ました。

ある中年夫婦、妻はフィットネスクラブのような所でインストラクターをやっていて定時に帰る仕事。夫は心理カウンセラーで一日中いろんな悩みに付き合って、調べ物をしたり、いろいろとくたくたになって帰宅が遅くなることもしばしば。なんとなく秋風が吹き始め、妻の心の隙間にふっと他の男性が入り込みそうになったり。

多少のごたごたと喧嘩があって、結局別れることになり、離婚届を出しにいくと、「手続に婚姻証明書が必要」と言われ、家中をあちこち探しても見つからず、しかたなく再発行手続をしようとするのだけれど、随分昔にそれを発行してくれたところが街の再開発でなくなっていて見つからず、うろうろしているうちにお互いに結婚したころのことを思い出して涙したり。エンディングは二人でまたうろうろとしているシーンでした。

離婚するのに婚姻証明が必要で、その婚姻証明がみつからなくて、離婚のために二人で「再発行してくれるところを探す」共同作業をするけど、見つかりそうにもない。そうやってまた二人は改めて一緒に生きていくことを暗示して終わりな訳ですが、離婚のための婚姻証明というのがなんだかユーモラスでもあり、婚姻が証明できないから離婚できないというのも人を食ったような話でもあるけど、なんだか象徴的な感じもし、離婚のための共同作業が揺れ動く二人を改めて結びつけているというのもなんだかおかしくて、いろいろだなあと改めて思いました。

いくつか面白い台詞もあって、その一つが家に押しかけてきた元隣人に、妻と喧嘩した夫がぼやく台詞。「結婚するときは幸せになろう、妻を幸せにしようと思うだろう。それで一生懸命働いて、妻に良い暮らしをしてもらおうと頑張るだろう。でも、そうやって頑張ってそれが実現してみると、妻は充たされていないんだ」

どこにでもありがちな夫婦のすれ違いかもしれません。「妻に良い暮らしをしてもらおうと」という夫の言葉も、半ば真実、半ば言い訳でしょう。アスペと定型のカップルに訪れるズレに比べて、ささやかな、おだやかなズレだなという気もするし、でもなにかつながるところもあるような気もするし。

そうやってゆらゆら揺れながら、人は歩いていくんでしょうか。

2011年4月18日 (月)

ちょっと変わった人

 アスペルガーの人にもいろんなタイプや、いわゆる自閉傾向の強さにもすごい幅があるように、職場の方にもそういうアスペルガー的な人が生きやすい職場と生きにくい職場があるわけですよね。

 これはかなり勝手な想像に過ぎないけど、まあ営業とかはしんどいでしょうね。逆に技術系の仕事とか職人芸的な仕事はその人にその方面の才能があれば向いていそうな気がする。昔で言えば(今も?)「気むずかしい陶工」とか「こだわりの染め物職人」とか、結構そういうタイプの人がいたんじゃないでしょうか。

 私の住んでいるところに、小さなおいしいケーキ屋さんがあって、でもなんか店の名前とか、店内の置物とか、改めて考えると全然ケーキ屋さんぽくない、不思議なものだったりするんです。そこは奥さんが店に出ていて、後ろのケーキ工房にだんなさんがこもって仕事してるんだけど、その不思議な置物などを、奥さんのかわいらしいセンスでなんとか極端な違和感のない状態まで持って行っています。

 で、その旦那さんは直接目撃したこともないし、これも私の勝手な想像に過ぎないんだけど、そのかわった置物や店の名前にかかわる趣味が、なんとなく自閉的な世界を思わせるんですね。そう思ってみると、なんとなく奥さんの様子も「アスペルガーの旦那さんと頑張って店をやっている」という風に見えてきたりする。いや、完全に思いこみかも知れないんだけど、そういう思いこみが成立してしまうと、そのケーキも「さすがアスペルガー的こだわりのおいしさ」と感じてしまったりするから面白いものです。

 あと、私のパートナーがやっている福祉関係の仕事も、比較的受け入れられやすいところかもしれません。もともと福祉というのは「定型的な生活」が何らかの理由で難しい人たちについて、定型的世界との橋渡しをする、というような意味を持っていますから、そこで働く人は定型的な基準からのズレについては「許容度」が高くないとやっていかれない。その延長で、一緒に働く人同士の間でも、他の職場に比べると多分ずれていることについてわりに寛容なのかなという気がします。ま、職場にもよるかも知れませんが。

 昨日パートナーに聞いたんですけど、彼女は職場では「ちょっと変わった人」というふうな受け止められ方だそうです。上司が別のタイプで強烈な「変わった人」らしいので、職場で一番目立つ「変わった人」ではないところはちょっと救われているのかも知れません。

 そうすると、「ちょっと変わった人」ということで、なにか扱いに違いがあるのか聞いてみたんですが、ときどき「話聞いてる?」「話分かってる?」と確認してくれるんだそうです。もちろん一対一の時は大丈夫なんですが、昨日書いたように、会議みたいな時ですね。話について行けなくなって分かんなくなって取り残されたりする。そうすると彼女は正直に「いや、わかんない」と答えるそうです。そのことが他の人たちにはもう了解されて居るみたいで、確認を取って、改めて説明してくれたりするそうです。

 福祉の仕事は共感能力や愛情一杯が理想、と思われるかも知れませんが、実は医者とか看護師さんとちょっと似ていて、あまり相手にのめり込みすぎないドライさも必要なんですね。まあ、兼ね合いの問題なんでしょうけれど、特に海千山千の人たちを相手にする老人関係の仕事はそうなります。で、そういう「ドライに必要なことを見極める」ということについては、パートナーは職場で一目置かれているらしいんです。

 なんかそうやって「ちょっと変わった人」が「ちょっと変わっている」ことを活かして生きていかれるというのは、考えてみればいいことですよね。実際世の中にそういうタイプの人が必要とされる場があるわけだし。

 私も世の中的にはパートナーとはまた違った意味で、強烈に変わった人でしょうから、これは変わり者同士の出会いであったわけです。ちょっと変わった人がどうやって生きていったらいいか。あるいは私のように強烈に変わった人がどうやって生きていったらいいか。社会の中でそういう人間がどういう役割を果たせるのか……。

 ああ、そのためにはそもそも「世の中って<ちょっと(またはだいぶ)変わった人>が一杯居るんだよね。そういういろんな人がいてこれまでの世の中は成り立ってきたんだよね」という意識が世の中に普通に広まらないといけないんでしょう。ちょっとでも他の人たちから外れることを極端に恐れるような社会では、そういう人たち本人も含めてみんなが生きにくくて仕方ないはずです。

 「変わった人」同士でもなんか合う人もいるし、合わない人もあるし、「変わった人」と「そんなに変わってない(普通の?)人」の間でも合う人もあれば合わない人もある。もちろんいわゆる「普通の人」同士だってそこは同じです。そういういろんな可能性があるんだから、そのことを見つめて無理のない形に調整しながら、場合によっては一時的とか永遠にとか関係を絶ち、場合によっては関係を作り直し、そうやってお互いにとって無理のない、より納得のいく道を生きていくことができればなあと思います。

2011年4月17日 (日)

一対一と一対多の関係の違い

ほんとにご無沙汰してしまいました。

原発の危機的状態は過ぎ去っているわけではなく、ここ数ヶ月はすくなくとも継続しそうですが、想定される中で最悪の「爆発」という事態になったときにも、ちゃんと対処すれば被害をものすごく少なくできる、ということが分かりましたし(対処しないのとでは後の発ガン率に数十倍以上の差が出るでしょう)、対応の面でのおおよその見通しがようやく立ってきたので、ちょっとほっとして、またある意味で日常に近い状態に戻れそうな気がし始めてきました。

もちろん必要な準備や警戒はしながらですが。知り合いのすごい好意で、緊急時には子どもを一時的に疎開させる手はずも終えましたし。被曝したからと言って20km圏内はすでに避難を終えていますから、すぐに亡くなる方や重い症状になる方はまず出ないはずです。あとは十年とか二十年とか後になって、ガンになる「確率」の問題ですから、被曝したから必ずガンになるわけでもないし、もともと被曝以外の原因でガンになる人の方が圧倒的に多いわけですし、仮にのちにガンになっても、それがどっちの原因なのかはわかりようがありません。

でも特に若い人たちの場合は、そんな危険を少しでも減らしてあげるべきだと思います。その点、福島の子どもたちは本当に心配です。なにしろ福島県の調査で、全県の小中学校の4分の3の学校で、「放射線管理区域」に指定されるレベル以上の放射線量が測定されたというニュースに本当にショックを受けました。「放射線管理区域」というのは、病院のレントゲン室の前によく看板が出ているあれですね。福島の子どもたちの多くが、言ってみればレントゲン室の中のような環境で毎日授業を受け続けなければならない、というような状況になっているということになります。

放射線は目に見えないし一見普段と何も変わらない学校がそこにはあります。でも目に見えない「放射線管理区域」の標識が、実はそこに掲げられているわけです。そういう状況に大人は子どもたちを置き続けているという事態をどう考えたらいいのか。親としての責任ということを考えてしまいます。


さて、今日はほんとに久しぶりにパートナーと二人で河原を歩いてきました。私自身、ずっと家に閉じこもり状態が続いていたので、なんだか1年ぶりくらいだろうか、といいうくらいの感じで「大きな空」を見てきました。

前回も少しだけ書いたのですが、子どもが家を出て生活を始め、もう20年ぶりに二人だけの生活がまた始まったところで、ほんとに驚くほどに状況が変わりました。パートナーに「すごくかわったよね」と尋ねてみると「え?そう?」と最初はわかんない感じでしたけれど、いろいろ話している内に「そうかもしれない」と言うようになりました。

定型の私から見ると、今の変化はこういうことのように思えます。

前にも少し書いたように、そしてjoさんとも少しやりとりしたように、私の場合はパートナーと知り合ってまもなく一緒に暮らし始めて、そのころはとてもハッピーだったんですね。なんかズレはあったんだけど、それはそのハッピーさに隠れてそんなに大きな問題にはならなかった。

最初に問題が出てきたのは実家との関係でです。境界性で、私に対する強烈な精神的支配力と強烈な依存の欲求を持っていた母親(という理解は40歳になるまで分かりませんでしたが)と、そのまるで対極にいるパートナーの間で、やっぱり通常の嫁姑関係とは比較にならないような難しさがあるわけです。でも、母親の言い分も分かるところはあっても、私はまずはパートナーの味方になる形で対応し続けて、まあ夫婦関係自体は守られたわけです。

で、夫婦間で問題が顕在化したのは子どもが産まれてからでした。このこともすでに何度か書きました。それはなんでなんだろうかと考えるんですが、今日パートナーに話して「そうかもね」というふうになったのはこういうことです。

私のパートナーは一対一の関係だと、たとえば会話をしていても一応それなりに話は進みます。もちろんお互いに伝わりにくいこととか、すぐにとぎれがちと言うことはあるにせよ。でも、一対多というか、グループで話し合っている井戸端会議みたいな場ではほんとに理解ができなくなる。これは私のパートナーに限ったことではなく、アスペルガーの方がしばしば自分のこととして語られることでもありますよね。

そうすると、パートナーももちろんいろんな問題を抱えて苦しんでいた子どものことはものすごく心配で、なんとかならないかと必死だったんです。その対処の仕方は定型の私の目から見ると、「それは却ってまずい、逆効果だ」と真剣に悩んでしまうものだったのですが、とにかく本人としてはそうです。つまりここで「一対一(パートナーと子ども)」の関係がパートナーにとっては成立することになる。もちろんその子どもとの関係は彼女にとって私との関係よりも大事なものであったはずです。

ということは、彼女としてはそれでもう精一杯になるわけです。私は私の目から見て彼女のやり方に問題を感じるので、そのことで「どう子どもに対すべきか」と相談をしようとする。でもそれはパートナーにしてみれば「一対二」の関係になってしまう。私の考え方、私と子どもの関係の取り方を理解しながら、なおかつ子どもと自分の関係について考え、その二つの関係を調整することをしなければならない。

井戸端会議ができない彼女にとって、これがどれほどしんどいことであったかという風に考えてみると、分かる気がするんですね。もう子どもに向き合うことで一杯一杯で、そこですごい不安を抱えて身動きがとれない状態が続いているときに、それ以上の関係を私から求められる。

しかも私が一生懸命伝えようとすることは、子育てでの「共感的姿勢」の重要さ、というようなことになるわけです。それを手を換え品を変えて伝えようとするのだけれど、全くと言っていいほど、いや全く伝わらない。なぜこんな簡単なことが伝わらないのかと当惑しながら、私も繰り返しそれを伝えようとせざるを得ない。

そういうことがくりかえされるほど、パートナーは混乱し、その苦しさに私に対して自分を閉ざすよりなくなっていく。で、私はなぜ閉ざされるのかが分からず、子どものために相談しようとしていることがなぜこんな風に拒絶されなければならないのかが分からず、また悩むという悪循環になっていくことになります。

最終的にはこれはパートナーが私という存在を拒絶しているんだ、と思わざるを得なくなっていきました。あ、もちろん子どもとの関係だけの問題ではなくて、ここにも書いてきたいろんな感覚の違いの問題とかも重なってのことですけれど。そして離婚のことも現実的な選択肢として考え続けるという状況が続いてきたわけです。実際、この数年間は、そこまで自分のことを拒絶されるのなら、もう自分はどうにも耐え難い、というような話も何度かした覚えがあります。

そんな中で子どもは思春期の大変な時期を文字どおり命がけの大変さで乗り越え、幸いにしてしっかりと自分の足で立って巣立ちの歩みを始めてくれました。

そして、その結果として、パートナーにとって「一対多」という困難な状況が消えたのです。ほんとにそのとたん、と言っていいほどの速さで、パートナーは私との「一対一」の関係に20年ぶりに戻ってきたということになります。その結果、関係が劇的に変化してきたと思えるのです。

先日かかりつけの医者にこの話をしたら、医者もその変化に驚いていました。そして、驚きながら、とても納得していました。実際私自身が自分で体験してほんとうに驚き、そしてそう理解することでとても納得したのです。

この理解がどこまでうまくこれまでのことをつかめているのか、それは私にもなんとも言えませんけれど、気持ちの上ではかなり納得できる感じがします。とにかく新たに関係を見直していくための、大きな転機が訪れたと言うことは間違いありません。

どこまで一致できているのかは分かりませんが、とにかくお互いの関係について、今回私の説明にパートナーは「そうかもね」と言ってくれました。こんな風に共通理解がある程度成り立つのも一体どれほどぶりのことか、もう思い出すこともできないほどです。やっぱりそれだけ大きな変化だと言うことなのでしょうね。(←またもや「ね」)

…… あ、これは定型の私の側の、私に都合の良い偏った見方に過ぎませんけれども。そう考えると自分としてはなんかすっきりするところがあるし、ある意味楽ちんになれるなあという。だから別の目で見れば何かごまかしがあるのかもしれないし、そこはよく分かりません。

2011年4月 1日 (金)

ご無沙汰のご挨拶

みなさん

 ご無沙汰してます。
 コメントはすべて読ませていただいていて、わーすごいという感じなんですが、
 みなさんの間でどんどん展開していることもあるし、
 ちょっとお任せしてしまっていて、まだお返事もせず、どうもすみません。

 ここのところちょっと私事で(悪い話ではないです)ばたばたしていたのと、
 原発事故が新たな段階に入った気がしているので、
 それにどう対処すべきかを考えたりしていて、こちらに書けませんでした。
 それらが一段落したらまた書きますので、失礼の段、お許し下さい m(_ _)m


 あ、そういえば今日はエープリルフールではないですか。
 ではここで一発皆さんを騙さないといけないですね!

 さて、何が騙か、おわかりの方はコメントに解答を下さい。
 正解者には何か賞品を差し上げましょう(内容は期待しないで下さい)。
 (ただし、贈り方をお教え下さった方に限りますけど)

 では又しばらく失礼いたします m(_ _)m

 

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