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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年3月 8日 (火)

「対等な勝負」を可能にする条件

 なんか今日はちょっと楽しい気分です。
 「やっぱり豊かな個性を見ないと……」にお寄せいただいたみなさんのコメント・議論がなんだかとても豊かなものに感じられて。ついにカレンさんから繭さんへの「愛の告白」もありましたしね。ということは私は仲人でしょうか?お二人の末永いお幸せをお祈り申し上げます m(_ _)m ……にしても、カレンさんはやっぱりアスペの人がタイプなんですね、きっと (^_^)v

 ま、冗談(?)はさておき、チロさんのコメントにある

 「私はこれまで、コミュニケーションについて他人の感情を創造したり立場を置き換えて考える能力の問題だと考えてたけど、意志とか志向の問題でもありますね。」

 というところ、「そうそう!そうなんだよなあ!」と、なんかかゆいところに手が届くというか、「我が意を得たり」というか、そんな気がしました。(ところで「他人の感情を創造したり」は「他人の感情を想像したり」ですよね?)

 アスペの人にはアスペの人なりに、他人の感情を想像したりすることはされるわけですよね。ただ、その想像の仕方が定型のそれとずれちゃうことが多いから、周囲から「お前は人の気持ちが分からない」と言われ続けたりすれば、だんだん「私は他者の感情を理解する能力はないのだ」と本人も思うかも知れないし、周囲もそう思うわけでしょうけれど。

 そうすると、本人にも苦手意識が生じたりすれば、自然と他者の感情を理解しようとする気持ちも薄らいでいくだろうし、そうなればますます「定型的他者感情理解のテクニック」みたいなものが(元々難しいところに加えてさらに)難しくなってしまうという、悪循環みたいにもなるでしょう。

 チロさんのお子さんが自分の感覚にちょっと自信を持てないような感じでチロさんに確認をしたくなったりするような、そういう展開は、きっとそのあたりの「定型的世界とのズレ」を感じ始めて不安になり始めたところがあるのかもしれないと思いました。だから、チロさんがそういうところを大事に対応されようとしていることは、上のような「悪循環」を避けるためにもとても大きな意味を持つように思います。

 で、一般的には日本の社会では女の子はとりわけ「人の気持ちが理解できる」ということを強烈に求められたりしますから、その理解の仕方にズレがあったりすると、少数派であるアスペの女性はどんどんしんどい状況に追い込まれていく可能性がある。それに対して男性の方は「口べた」というのはむしろ「男らしい」と思われたりもするし、私のように「無口」な人間は「信頼できる」とか「クールだ」とか思われる (あ、アスペの方、最後のとこ、冗談です……念のため(^ ^;)ゞ)。

 ということで、特に男性の場合は比較的アスペ的な性格であることについて、決定的なダメージを周囲から与えられることなく、学力の高い方だったりすれば、家庭環境によってはむしろ肯定的な自己イメージを持って成長し、社会に出られる可能性も出てきますよね。

 で、社会に出ればそれなりにまた困難にも出会うけれど、職種などによってはそれは決定的に深刻な事態には至らずに回避され、それなりの社会的地位を獲得され、自分の生き方に自信を持てる状況を与えられたりすることもある。(ただし、潜在的には周囲とうまくいかない経験が積み重なるので、多分どこか不安に思われることも続くのではないかと想像しますけれど)これもまた男性の方がそうなりやすそうな気がします。

 そうなると、仮に定型のパートナーの方との間で問題が生じたとしても、「自分のやり方を考え直してみる」といいうふうにはなりにくいのではないかと想像します。それには二つ理由があって、ひとつはそれまでの経験から、自分の生き方は基本的に肯定されていて、そこになにか問題になることがあるとは思いにくいこと。もう一つはアスペルガー的な性格として自分のやり方には断固としてこだわる、という傾向があることです。

 うーんと、そう考えてくると面白いことを思い出します。というのは、アスペと定型のカップルで、その「違い」をお互いに認めて、その上で改めて関係を作り直してこられているカレン夫妻と繭夫妻のお話しでは、どちらも共通してアスペの側の方(カレンの夫さんと繭さん)がそのパートナーの方について「最強の敵(相手)」とか「手強い相手」みたいな表現をされているということです。つまり、「アスペルガー的に自分の世界の理屈でおさまる」ことをどうしても許さないで、ある意味「対等な勝負」を常に挑んでこられるという過程がそこにあったわけですよね。

 で、そういうのが可能な状況ってどういうのだろうと考えてみると、まずは定型の側の方がそういう「ど根性」というか、「しつこさ」というか (^ ^;)ゞ、「必死な思い」というか、そういうものをかなり強く持っている方だと言うこと。それからアスペの側の方がそういう相手に対して、馬鹿にしたり避けたりしないで、ちゃんと「対等な勝負」をしようとされる方であること。そして周囲の環境として、そういう「対等な勝負」を認める状況があること(つまり、たとえばアスペの夫について、その実家の人が一方的に加勢して、「悪いのは全部嫁だ」みたいな形になってしまうとそれは無理になる)。まだあるかもしれませんが、とりあえずそんなことが思いつきます。

 そういう「有利」な状況があっても、お互いのズレを認識してそこを共に乗り越えようとする努力に至るまでには、文字どおり命がけの葛藤を経過したりするわけですから、それらの条件のどれかが欠けたりすると、その困難さはさらに想像を超えるようなものになるかもしれません。それこそ「スーパーマン(ウーマン)」でもない限り、そりゃあ無理だよ、という風になるのかも知れない。

 でも、逆にこうやって何がそれを乗り越えるのに有利な条件なのか、ということがさらに分かってくれば、そのための何らかの新しい工夫が切り開かれてくる可能性もありますね。

 あ、もちろん、それだって大変な努力がいるわけだから、そういう努力をしてでも「この人と関係を続けたい」といいう思いがどっかに続かないと無理でしょうけどね。それはもう相手との相性とか、ご縁の問題という気がします。

  

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コメント

ご指摘どおり、「他人の感情を想像」が正しいです。訂正ありがとうございました!

私のコメントをパンダさんに掘り下げてもらって、私自身もすごく納得しました。夫が「自分は普通(人並み)」という自負をもちつつ、世間体をびくびくと気にするのは、潜在的に「ちょっと変わり者」だった子供時代の不安があるからだと思います。

後半の「対等な勝負」の話、とても興味深いです。まだ私にはピンとは来ないけど、いつものように、じっくりじわじわ私にも分かってくるといいなぁ。

久しぶりに書き込みをさせていただきます。

確かに「対等な勝負」をしてきたなぁと、これまでのことを振り返って感じます。「勝ち負け」をこえたところに今立っているという実感もありますね。

私(たち)には「有利な条件」が備わっていたといえるでしょう。
仕事の面では特に「自分の持っている」ものをそのままの形で生かせたこと、気の合う先輩や同僚と「お互いの手の内を見せあって」「協力する」ことが「全体の利益」につながるということが体感できたこと。目先の「成果」を求めるのではなく、長い目で見ることが大切であるという風土が職場にあったことなどなど。

いろいろな方のコメントで、「ASの男性が直面する生き難さ」「ASの夫を持つ妻の苦悩」を拝読するにつけても、「妻(=カレン)が味わっていたある種典型的な」苦しみと「私がほとんど自覚せずに済んだ生き難さ」を考えてしまいます。なぜ私はそれほど「生き難」くなかったのか。なぜ私たちは「対等な勝負」の後、穏やかな気持ちで今とこれからを過ごせるのか。要因の一つは「幼い時からの家庭での暮らし」「親子関係」にあるようだというところまではたどり着きました。

チロさん

 その後体調は大丈夫ですか?
 チロさんのブログで拝見したお義父さんとの関係とか、
 ほんとに大変だと思いますけど、頑張ってくださいね。

 また、わかりにくいところはどんどん指摘してください。
 他の読者の皆さんもそう感じていられる方も多いだろうと思いますし。


カレンの夫さん

 久しぶりにコメントいただいて嬉しかったです。
 もしかして何かの理由でちょっと書き込みにくくなっていたりしたとすれば
 申し訳ないなと思っていました。

 定型とアスペのカップルの間で、「生き難さ」について
 必ずしも二人が同じようなレベルでは感じられていないということは
 結構あるのではないかと、私自身の体験からも思いました。
 この点、現実的にはかなり重要なポイントの一つのようにも思います。

 だんだん考えていきたいところのひとつですね。
 また次のコメントを楽しみにしています。

有利な状況…だったのですね。
パンダさんの仰るとおり、何かの条件が少し違っただけで、私達は夫婦として一緒にいなかったかもしれません。

私と夫の場合は「勝負」というより、「お互いが納得するまで、エンドレスの話し合い」でした。途中でどちらかが投げやりに「分かった、自分が間違っていたことでいい」と言い出しても、もう片方が「間違っているかどうかが問題じゃない」と言い出して、終わりませんでした。

どちらも勝ち負けよりも、気持ちの確認がしたかったのだと思います。
特に一緒に住みはじめの数年間は、言葉も物も(相手には当たらない方向に)よく飛んでいたので、翌日一緒に片づけをすることもありました。

そういった状況の中で、夫のあきらめなさは、私にとっては驚きでした。
彼が私に求めるものたちは、私には難しかったり、譲れなかったりするものが多くて、他の人と実現した方が、彼はずっと楽で幸せなのではないかと思うこともありました。
でも、そういう提案は、彼を余計に傷つけることになってしまいました。

お互いギリギリの精神状態で、それでも、相手に迎合したり、決めつけたりすることを避けようとする夫と対峙している中で、彼への信頼感は高まったように思います。
当時は実感するような余裕はありませんでしたが。

私が育った家庭では、共感しあうことがあまりなかったので、外の世界で対人関係への苦手意識を持ちながらも、「人の気持ちが分かるかどうか」というところまでは考えが至らないまま成人しました。
ただ、大小いくつかの挫折を経験しているので、自分を変えることへの抵抗感は(私なりには)少なくなっていたと思います。

思い返してみると、骨まで砕いて整形し直したような感覚があります(笑)
それでも、自分が失われたようには感じず、むしろ、自分らしさは増したような気がするのが面白いです。

繭さん

> 有利な状況…だったのですね。

 あ、なんか偉そうな書き方だったですね (^ ^;)ゞ すみません m(_ _)m

 でも真剣勝負というか、繭さんの言葉の「対峙」の方がかっこいいですが、
 そういうのがしっかり成立するって、結構難しいことだろうなと思うんですね。
 とくに日本のように直接のぶつかり合いをできるだけ回避するような環境では。 

> そういった状況の中で、夫のあきらめなさは、私にとっては驚きでした

 これ、パートナーの方も同じ事をおっしゃっているわけですよね、きっと (^_^)

 それにしても「骨まで砕いて整形し直す」というのは
 すごいリアルで考えさせられます。
 パートナーの方の骨も砕けたんでしょうか?ちょっと興味。

パンダさん

いえ、偉そうとかでは全然なくて、
「あれでも有利といえる状況だったんだ…。大変だったけど、言われてみれば…そうか、も、しれない…?」みたいな気持ちで書きました。

>とくに日本のように直接のぶつかり合いをできるだけ回避するような環境では。

本当にそうですね。
夫は「人とがっぷり組み合ってベストを尽くすのが、相手を尊重していること」と思っていたとのことで、それを実行したらしいです。
最近は「他の方法もありかも」と言っています(笑)
それから、男女の役割という考えが少ない人なのも、良かったかもしれません。

>これ、パートナーの方も同じ事をおっしゃっているわけですよね、きっと (^_^)

はい、私も言われました。
でも、求めるものが得られない夫と、持たないものを求められる私とでは、彼の方がずっと苦しかったのではないかと思います。
私は、ある意味では自分が人から受け入れられないことに慣れていましたし、人と価値観が合わないことへの耐性も少しあったのだと思います。
だから楽だったとは思いませんが…。

「骨まで砕いて…」は、夫の方から、半ば笑い話として出た言葉です。私も同感でした。
私達はタコ夫婦ですね(^ ^)

繭さん
おはようございます。どちらにお住まいなのか存じませんが、地震でいろいろな影響が出ていることかと拝察いたします。お見舞いを申し上げます。
「共通点」ということで、下に引用させてもらった部分、大袈裟に言うと私たちと「瓜二つ」なので驚きました。


夫は「人とがっぷり組み合ってベストを尽くすのが、相手を尊重していること」と思っていたとのことで、それを実行したらしいです。
最近は「他の方法もありかも」と言っています(笑)
それから、男女の役割という考えが少ない人なのも、良かったかもしれません。

最近はコメントの書き出しを読んだだけでは投稿者が妻(=カレン)なのか、繭さんなのか判別できないことが増えてきて、これにも驚いています。

カレンの夫さん

こんにちは。遅くのお返事になり、失礼致しました。
落ち着いて来ましたので、書かせていただきます。

カレンの夫さんも、カレンさんと「がっぷり組み合って」来られたのですね(^ ^)
私達夫婦のことを考えていたのですが、この「がっぷり+ベスト」は、夫婦どちらも当て嵌まります。

私から見た夫は、基本的に誰に対しても「がっぷり」の人で、相手が子供でも、目上でも、本気で対しているところがあり、出会った頃は驚きました。私が彼に惹かれたり、大変だったりする部分のひとつでもあります。

私は、「がっぷり」をするかどうかは相手を選びます。基本的には、好きな人にしかしません。それ以外の人との場合は、距離を取ることによって、互いのストレスが減るように調節します。昔は「攻撃的がっぷり」をよくやって、自業自得に陥りましたが、今はこの方法で落ち着いています。

男女の役割に関しては、以前の記事のコメントでパンダさんとjoさんが、奥様が中性的性格というようなことを書かれていて、不思議に思っていました。引用すると長くなりますので、下にアドレスを入れます。
記事「アスペルガーという理解の共有について」最後2件のコメントです。
http://communicative.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-3fea.html

私自身はというと、女性として生まれて来ましたので、それを楽しんでいますが、男女の役割という意識は薄いほうだと思います。このことについては、以前から考えていて、ひとつ思い至ったのが「私は『異性を意識した』女性らしさが少ないのではないか」ということです。有体に言うと、子供っぽいのです。

夫と話していて、彼が「十歳のころの自分だったら、きっと趣味も話も、もっと合ったと思う」ということが時々あり、不思議に思って、その頃の興味はどうなったのかを尋ねると、彼は「第二次性徴の頃にかなり失われてしまった」と言っていました。

自分のその頃を思い出してみると、周りの女の子たちの会話(異性や芸能人など)について行けなくなった頃でした。そして、それは基本的には、今もそのままです。

夫は、「女性らしすぎる人が苦手」と言い、「繭さんの中には、小さな女の子がいるね」と言いますので、彼から見ても、そのように映るようです。

色々と興味深いです(^ ^)

すみません、追記です。

夫の「がっぷり」は、彼曰く「いつでも誰にでもやっていたら、身が持たなくなってきた」とのことで、最近は、私も一緒に新しい方法を模索中です。

私の妹からは「お姉ちゃんたち、やっと上手なけんかの仕方を覚えて来たんだね」と言われています(^^)

繭さん
こんばんは。コメント拝読しました。

>私は、「がっぷり」をするかどうかは相手を選びます。基本的には、好きな人にしかしません。それ以外の人との場合は、距離を取ることによって、互いのストレスが減るように調節します。昔は「攻撃的がっぷり」をよくやって、自業自得に陥りましたが、今はこの方法で落ち着いています。

私もかなり近い方法を用いています。少しだけ違うのは「互いのストレス」という発想はなくて、100%自分のことを考えている点でしょうか。幼い頃(小学3年ぐらいまで)は私も「攻撃的がっぷり」オンリーでした。面白い表現ですね。

夫君が繭さんを評しておっしゃる言葉も、お二人が手を携えて対人関係で模索していらっしゃる様子もとてもよくわかります。うまく行ったエピソードや、残念ながら失敗してしまった顛末をまた教えてください。

私、定型ワールドに歩み寄ることなく非定型ワールドに住み続けたい非定型の方の「選択」を重視して「別れる」というのも、「対等」のひとつでは?と思うようになりつつあるのですが、パンダさん、どう思われます?

対等であるなら、非定型ワールドの価値も対等に認める訳で、そちらの世界でのびのびと生きていただく方がいいのではないか、と。元夫の場合では「哀れなKSのためにお情けで離婚して『やった』」と一生ハッピィに信じててくださいね〜と。それは夫にとっては「真実」なのですから、いたずらに、「私の『真実』とは違います」なんてこと、言う必要もないのかなぁと。(言っても通じないし、もう時間とエネルギーの無駄使いはやめます)

それを、夫は「気の毒」とか思うのは定型側の傲慢で思い上がりかなぁと。単に「国」が違うだけかなぁと。

定型×非定型は、友人関係であれ、恋愛関係であれ、夫婦関係であれ、「国境を越えて」つきあいたい組み合わせの人だけが、つきあえば良いのであって、それ以外の場合は「並存並栄」で、なるべく接触しないのが平和かなぁと思うんですよね、最近。

対等だからこそ別れる。対等だからこそつきあいたくない人との人間関係はスッパリ切り、そのことに罪悪感を感じないでいられる。

どうでしょう?

KSさん

 「私、定型ワールドに歩み寄ることなく非定型ワールドに住み続けたい非定型の方の「選択」を重視して「別れる」というのも、「対等」のひとつでは?と思うようになりつつあるのですが、パンダさん、どう思われます?」

 あ、なんかそんな気がします。

 「対等だからこそ別れる。対等だからこそつきあいたくない人との人間関係はスッパリ切り、そのことに罪悪感を感じないでいられる。」

 なんか、私としては何もひっかかりなく読めました。もちろんいろんな原因で、別れたくても別れられないとうい現実から逃れられない場合は、またすこし違う観点からの工夫とかが必要なのかも知れないけれど、少なくともKSさんについてお話しを伺ってきた事から言えば、私にはほんとに違和感ないです。すごくすっきりしてる感じがして。

KSさん
いかがお過ごしでしょうか。
パンダさんあてのコメントに対して、失礼ですが一言だけコメントいたします。

「罪悪感」をお感じになることなく、どうぞそのままお進みください。大事なのはKSさんとお子さんが、いきいきと生活できること、そのために最善だと思われることを実行することだと思います。

>パンダさん
返信ありがとうございます。
以前は、非定型(?)で二次障害が出ているのか?とも思われる(しかし「記憶障害」をその特徴の一部とする人も多いらしい、と最近、あちらの掲示板やiroriaさんのところで学んだ)元夫と別れることを「見捨てる」という表現でとらえている部分がありました。でも、そういう考え方自体に「差別意識」があったのかも・・・と最近は思います。

夫は、とりあえずは仕事は出来てるみたいだし、であれば、夫の私に対するスタンスは彼の個性であり、生き方であり、それが私の人生観と合わないだけなんだ、と思うにいたりました。

まぁ、こういう「理屈」も、以前は、自分が「非定型を見捨てる」ということに対する罪悪感(これを感じること自体が傲慢)の「合理化」のために探してただけなんだと思います。今は、「冷たい女」と思われようが、別に構わない、勝手に言っててちょうだいな、もうコイツと一緒の人生はイヤだ、それは譲れん!というとこまで来ました。

私自身にとっては「非定型×定型」問題よりはAC問題の方がクルーシャルなんだ、というのも見えてきました。

私が今の状況から立ち直った時(いや、本当の意味で立ち直るために)、何をしたいか?と考えた時、それは、私と同じようにDV家庭で苦しんでいる女の子たちの支援活動だなぁと思いました。
カサンドラ症候群で苦しんでいる女性たちとの連帯みたいなのも思わないでもないんですけど、限られた時間の中で何が一番やりたいか(私の苦しみの根源は何か?)と考えた時、私の場合は、それは「非定型×定型」問題ではなく、AC問題なんだなぁと思うようになりました。夫との葛藤は、私がACであるが故に抱え込んだ問題群のひとつにすぎないんです。

その意味では、私の場合は、環境を変え、かつ自分を変えるということが、ここから「先」に行くには必要なんだと思います。

>カレンの夫さん
ありがとうございます。心強いです。
息子と私の人生をよりよきものとしたいと思います。そして「今」を楽しむこと、「今」と対峙して「今」を苦しむこと、を一番大切にしながら生きたいと思います。

KSさん

 「夫との葛藤は、私がACであるが故に抱え込んだ問題群のひとつにすぎないんです。その意味では、私の場合は、環境を変え、かつ自分を変えるということが、ここから「先」に行くには必要なんだと思います。」

 もちろん私には具体的なことは分からないわけで、印象でしか書けませんけれど、KS仙人はひとつひとつ確実にご自分の問題を正の部分も負の部分も共に整理して、結婚で経験した問題の範囲を超える深さにまで到達されたんですね。そうやって着実に次を見いだされているのってすごいなあと思います。

 アスペと定型のコミュニケーションを考えるって、ある意味でそこまでいって「アスペと定型」という限られた枠を越えて、初めて「人間のコミュニケーションを考える」ということにつながっていくのかも知れないなあという気もします。

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