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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年3月26日 (土)

善意と悪意、思いと結果

 KSさんがコメント

「「悪意をもって」夫と同じような言い方でメールしてみたら、話がすぅすぅ通ってビックリ! 夫の言い方があまりにも「上から目線」で腹立ったので、「だったらこっちも同じ言い方してやる!」と夫の言い方をマネしてみたんです。そしたら、腹を立てるどころか、なんか嬉々とした感じで頼んだことやってくれてるのです。ちょっととまどってます。」

と教えてくださいました。いや、こう言うと申し訳ないけど、でもほんとに面白いですね!

 以前、「つらいときどうして欲しいのか」で書いたのは、「相手が望むやり方をすると、こちらが悪いことをしているような気になってしまう」し「相手が望んでいるやり方でやられると、こちらは悪意を感じてしまう」というようなことを書きましたけれど、なんかそのちょうど裏版というか、理屈にはあってますよね (^ ^;)ゞ

 もちろんなんでもかんでもこちらが「悪意」でやれば向こうは「善意」で受け止める、ということはあり得ないわけですけれど、まあ「自分としては悪意になってしまう」んだけど、「向こうのやり方に合わせる」という方法でしょうか。

 これ、やっぱり異文化間のコミュニケーションでも時々そういう場面に出会う気がします。

 KSさんの場合は以前はたしか自分の意見や要求が、ものすごく簡単な内容のものであっても「理解されない」というふうなことを訴えられていたように思いますけれど、今回教えてくださったことから考えると、「理解されない」ということのほかに、「理解したとしても行動に移せない」という問題があるのかもしれない。

 小さな子どもが言葉を学んでいくときに、自分に対して自分で命令するような、そんな言葉遣いをすることがあることに気づきます。まあ、大人でも「よし、これをこういう風にやるんだぞ!落ち着いてやれよ!」とか自分に言い聞かせたりすることがありますけど、そういうのがもっとはっきりとしている感じかな。

 で、KSさんの夫さんももしかすれば、自分の行動をすべて「命令調(上から目線)」でコントロールしている人なのかも知れないという可能性を感じました。だから他人に対しても同じようなコミュニケーションが中心になる。で、「お願い調」で言われるとコントロールができないのかもしれない。

 いや、もちろんちょっとしたエピソードからの勝手な推理に過ぎませんけれど、そういうタイプの人ももしかしたらあるのかも知れませんね。

 善意と悪意、何が善意で何が悪意なのか、ということを「当人の気持ち」で考える場合と「相手の受け取り方」で考える場合にズレがあって、「思い」で考える場合と「結果」で判断する場合にもズレがある。ほんとに難しいです。でもちょっと考えると面白くもある……

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コメント

その後、さらに、「夫の言い方に対応する表現」というのを「実験」しています。これまた「悪意」に基づいてのこと。

「え~、こんな言い方されて怒るどころか、張り切っちゃう訳?」と、心底ビックリしたので、「じゃあ、これは?」とやってみたところ、夫はなんだか気を良くして、さらに張り切っています。

私の中にもジェンダーの構造があるのか、「男に対して乱暴な言葉で命令する」というのがなじまない・・・というのもあると思いますが、まぁ、相手が女であっても、子どもであっても、やっぱりこの言い方はないよなぁ・・・というような表現なんですけどねぇ。

こうやって色々試すのも、なんだか人間をおもちゃにしているようなうしろめたさがあります。が、夫はハッピーみたいです。「そのとおりだと思う。元気が出た」とか言ってます。

「どうやったら上手くコミュニケート出来るか?」と思って実験してるならいいんだろうけど、私、ハッキリ言って意地悪な気持ちで実験してるのに、こんなに受けちゃうって、どういうこと?とさらにとまどってます。

KSさん

 ほんとうに驚きの展開ですね。戸惑われるのも当然という気がします。
 また、後ろめたさを感じられるのもわかります。
 
 こういうときはどうすべきなのか、悩ましいところです。
 お互いに「そうか、こういうズレがあったんだね」というような認識を
 共にできるような関係であれば、関係調整へのひとつの
 大事なステップになりそうに思います。
 
 そうではなく、「相互理解を深めるため」という目的が設定できないときには、
 やはり事務的に必要な際に、そのために不可欠な手段として、
 ある意味一種の必要悪として使うにとどめるということの方が、
 結局はこちらの精神衛生上もよいような気はしました。

 もちろん相手の方にはその方がいいわけですから、
 「必要悪」と言っても、こちら側の気持ちの問題なんですよね。
 

パンダさん

>KSさんの夫さんももしかすれば、自分の行動をすべて「命令調(上から目線)」でコントロールしている人なのかも知れないという可能性を感じました。だから他人に対しても同じようなコミュニケーションが中心になる。で、「お願い調」で言われるとコントロールができないのかもしれない。

上に引用した部分はどうなんでしょうね。ご本人に聞いてみるのが一番なんですが、私は自分とは違うなと思いました。「○○しよう。」と自分で決めるときに、「命令」という感覚はありません。だから他人から何かを「依頼」されるときに、必要以上に「へりくだる」「申し訳なく思う」「気の毒がる」などが伴うと、「それほど思うようなら、頼まずに自分ですれば」と感じるか、「その依頼を断ると思っているのだろうか?断られたらどうしようとビクビクしているのだろうか?」と感じるかのどちらかで、いずれにしても「無用の不愉快さ」があるのです。だから単純に、「○○をお願い(します)!」「了解(しました)。」のようなやりとりがベストなんですね。もちろんこれは家族(夫婦)の間のことであって、職場や地域などでは私も「申し訳ありませんが・・・」「恐れ入りますが・・・」などの「決まり文句」は使いますし、使わないような相手は、軽蔑するか糾弾するかのどちらかです。

KSさん

はじめまして。カレンの夫です。

今、試していらっしゃることはとても有意義だと思います。「遠慮」なさらず、あれこれやってごらんになることをお勧めします。「悪意をもって」と感じていらっしゃるようですが、お書きになったものを拝読する限りにおいては、悪意はないと思います。試してみようとお考えになった瞬間に、フラットな気持ちというか「善悪を超えたもの」が土台にあると思います。

「私の善意は夫にとっての悪意」「夫の善意は私にとっての悪意」・・・そんなことが、かつてはとっても多かったですね。

私の試行錯誤の中には、純粋な(?)実験だけではなく、KSさんと同じように悪意のある(私の感覚としては)実験もありましたが、それで功を奏したことに関しては、

「夫にとってそのやり方がいいなら、夫のやり方に合わせるか・・・!」と感じでやってきています。こちらにとっては、なんだか後ろめたさもあったりすることもありますが、「郷に入っては郷に従え」的な感じです。

でも、そればかりでは正直こちらもやっていられないので、定型的言動もけっこうしています。この頃では夫にも、「今のは定型的な発想だろう」ぐらいに思ってもらえているようです(←一応、夫にも確認してみました。)

KSさんには、あちらの掲示板の方でもちょっとコメントを書いたのですが、ちょうど同じ時刻に夫がこちらでKSさんにコメントを書いていました(笑) 

原発事故の対応では、我家もおもしろかったです。事故直後の週末、子供が前々から楽しみにしていたBBQ大会がありました。申し込んでたのは父子(私と子供)だけでした。主催者である保護者会からも特別の連絡はありませんでした。うちは1,000km以上離れていますし、風向きも悪くはないので、自称定型の私は平常通りでよかろうと思い、ふつうに出かけるつもりでした。お天気も良く暖かかったし何よりずっと楽しみにしていた行事だし、放射能の心配しなければいけない状況が私には見えませんでした。ADD疑いのカミサンには、かなり反対されました。「放射能が、もし飛んできたらどうする気、家の中にいて」と。危機管理では万が一の万が一ぐらい気をつけてて、それでも不幸に見舞われるわけなので、もちろんカミサンの判断もある意味、正解なのですが「複数の要因を整理して『てきとうに』判断する」というのが、カミサンは大の苦手です。自分では決められなくなって、人に命令されると安心したりします。この場合、後の責任を100%人に押し付けるので嫌がられます。逆に、自分なりの安全判断を人に強要して嫌がられたりすることはよくあります。これは、ものごとが進むの(変化)が不安という自閉系の性質のようです。つきあってると何も前へ進まなくなるので、全てが淀んでしまいます。私はこの点が一番つらいです。問題があれば解決して先へ進みたいのに、(そのまま破滅に向かうとわかる場合でも)問題があるままが安心?と思われるフシがあり、つきあい切れないなあ、と、この長期化する重さが耐えられません。

KSさんの実験的コミュニケーションのことですが、、、以前、私もここに、

http://bbs.avi.jp/bbs_th.php?kid=208621&tid=8849364&mode=&br=pc&s=

こんなことを書いたことを思い出しました。
「かみさんもよく卑屈になります。家族が嫌になるぐらい。でも、そうならないときは極端に自己中に見えます。悪意あるわけではないですが私にはそう見えるような言動があります。というか、定型の人がもしそう表現したときは、自己中を押し通そうとしている悪意を抱いているだろう、というような表現でしか自分を表現できないことがあるようです。」

これも類似の現象を見ているのだろうと思います。KSさんの実験で結果をみたように、伝達が通ればそれでよいという実用主義に徹すれば生活はできそうです。実際そうしてますが、何かよくわからない罪悪感のようなものが、心の底に澱のように溜まっていきました。

決まったルーティーンを割り当ててあげると、習慣化に成功すれば驚くほど律儀にやってくれる面があるということもありますよね。そんな場合でも、突発事項や複数の要因を考慮して、私が『臨機応変に』手伝ったりすると不機嫌になったり怒りだしたりして、やっぱり困ることが多い。それで他の大事なことが破綻するときにはほんとうに頭を抱えてしまう。それで、もういいや、と思い、(自分の理想と考えるパートナーのあり方としては)、あてにしないことにして、退屈で失敗しても困らないようなことを割り当てて家事を回そうとする。ここには、自分的には、意地悪をしているような感覚もつきまといます。大事なことは極力やらせないで、単純作業、つまらないこと、失敗しても困らないこと、ばかりを押し付けているという感覚。カミサンは意外と安心して嬉々としてやってくれていたりするんでしょうけど。

するとよけいにイジメをやってるような気持ち。腹が立ったときに、実際に悪意をもって自分が嫌な単純作業をやらせてみたりするんですよね。自分の中のサディスティックな自分がぷわぁっと出現したりします。実用主義的観点からそのようにするのと、行動としては、何ら違いないから、それでいいと言えばいいんですけど、頭ではそうでも、心がついてこれなくなります。そういう自分と向き合わされるのも厳しいなあ。それだって、どこからが、そうなるんだかわからないし、行動したときは、そういう気持ちがなくても、後で考えたら別の気持ちがあったような気がしたりして、、、自分がばらばらになりそうになります。

結局、両者の感じ方の齟齬が大きすぎて、それぞれ、自分の心の中の調整がうまくいかず、鬱病になるんでしょうね。鬱病が2人同居するのは、それはもう、たいへんですわぃ。子供が可愛そう。というのも私が勝手に思うことです。子供にとっては、かけがえのない、お父さんとお母さんなのですから。それでも、しんどいよなぁ。

結局、あの暑い快晴の週末、父と子は、フード付レインコートを着て家を出て、途中ですぐ半袖になりBBQにいきました。そういうのも積もり積もっていく罪悪感の種の一つですよ。

どうせそうなるんだから、最初から何も口出ししてくれなかったら、みんなハッピーで嫌な思いはなかったはず、、、なんて考えてる自分も罪悪感。心でカミサンを抹殺しているのでは?

これって、みなさんが『堂々巡り』と表現している感じと似ていますかね?
カレンの夫さんの言う『無用の不愉快さ』なのかな?

いつだったか、どこだったか、誰だったか(私はどうもこれに弱いんです)、「『悪いけど○○してもらえる?』といわれると、『悪いと思うなら頼むなよ』と思う」と書いていらっしゃる方がいました。きっと、余計な情報を省いて、必要最小限の、意味の取り間違えのないやり取りが、分かりやすくていいのかもしれませんね。

そういえば、夫のASを私が認識したばかりの頃、「いい加減にしないと愛想つかすわよ」という意味を思いっきりこめて短い言葉で皮肉を言ったことがあったのですが(込めた意味は覚えていても、なんていったのかは残念ながら思い出せません)、夫に感謝されて拍子抜けしたことがありました。言葉通りとったんですね。

夫が善意で言ったこと、やったことがこちらを傷つける、こちらがいいと思っていることに夫が不満に思う。そんなことを繰り返したのちに、もうあれこれ推測するのはやめて、「こういう時どうしてほしい?」とお互いに聞きあうようにしてからはそういう意図しない傷つけあいはほとんどなくなりましたが、「本当にそれでいいの?それって、ひどいって思ったりしないの?」なんていうやりとり、よくやっています。そんな違いの発見を最近は面白い、新しいことを発見してうれしい、と思うようになりました。

夫婦二人の間では既成の価値観をお互いに一旦捨てて、ゼロから構築しなおしてみると、新しい世界、新しい相手、そして新しい自分が見えてくるかもしれません。

joさん

初めまして。カレンの夫です。じっくり考えてコメントしようと思ったのですが、そういう問題でもないと思い直して書いています。

>カレンの夫さんの言う『無用の不愉快さ』なのかな?

大きく異なるのは、自分の方に「罪悪感」がないことです。「無用」と表現したのは、「そういう言い方が採用されなかったら」全く感じずに済む「不愉快さ」を自分が感じたからで、そこに相手の「真意」を探ったり、いわんや「心遣い」のようなものを感じたりはしません。
貴兄が感じておられるような、奥様への申し訳なさとか罪悪感はないのです。
ですからもし私が、貴兄の立場で同じようにBBQに出かけたとしたら、「一点の曇りもなく」BBQを楽しみ、持って出かけたコートを忘れてくるぐらいが関の山でしょう。

ななさん

こんばんは。カレンの夫です。

>いつだったか、どこだったか、誰だったか(私はどうもこれに弱いんです)、「『悪いけど○○してもらえる?』といわれると、『悪いと思うなら頼むなよ』と思う」と書いていらっしゃる方がいました。きっと、余計な情報を省いて、必要最小限の、意味の取り間違えのないやり取りが、分かりやすくていいのかもしれませんね。

私が言いそうなことだったので、笑ってしまいました。ただ、少し補足というか説明させていただくと、私の場合は「意味を取り違えている」つもりはないんですね。ものの本によれば「字義どおりに解釈する」というASの特徴なんでしょうが、「悪いけど」っていう言葉は「頼んではいけない状況だとわかっていて、それでも頼むので本当にごめんなさい」という場合には許せるけど、そうではないときに「決まり文句」のように使うのは口先だけという印象が強いので、使わない方がずっとましです。

ここに書いたようなことを少しずつ、妻と確認し合ってきたし、これからもあれこれ「ズレ」を確かめながらやっていくんだろうなと思います。

私はもしかしたら、かなり気楽にASと定型の世界を行き来しているのかな、という気になってきました。

例えばアメリカのお宅に伺えば、土足でそのお宅に入ることになる。最初は「土足のままで本当にいいの?」なんて思いもするけど、じきに慣れて土足が普通になる。

聴覚障がいのある人と話すときは、「あなた」を意味するときには相手を指さす。健聴者同士の会話の中では相手を指さすのはとても失礼な行為だけれども、聴覚障がいのある方との会話の中ではそんなものと思って、相手を指をさすという手話を使う。

聴覚障がいのあるとのコミュニケーションでも、その方の主なコミュニケーションモードが口話であるならば、「手話と使わなくていいかな?」と最初は思うけど、その相手にとって都合のよいならば口話を使う。

なんか、こういうコミュニケーションモードの切り替えを長いこと常としてきてるせいか、ASモードと定型モードの使い分けも、私にとっては、それらの切り替えの中のひとつ、という感じなんですよね。最初の頃こそ、何がどう違っているのかわからなかったので大混乱も起こりましたが。

私は自分のことを、以前はかなりいろいろ複雑にものを考えるタイプだと思っていましたが、今では実はとてもシンプルに考えているのかもしれません。

>カレンの夫さん
「無用の不愉快さ」というフレーズに「なるほど~」と思いました。私の夫の場合は、依頼の際の過剰な社交辞令的表現に対し、「混乱に陥ってしまう」のかもしれないです。だから、シンプルな命令形だとストンと来るのかもしれません。

どうもまだよく分からないことだらけですけれど、私自身が「試してみよう」という気持ちになれたのは、一歩前進かもしれません。以前は私の方も混乱して途方にくれているだけだったので。

助言、ありがとうございました。

>カレンさん
結局のところ、「もうこの関係壊れてもいい」という「捨て身」のターニングポイントに立ったところから、「危険をかえりみない実験」が出来るようになるんでしょうかね。定型同士だったら、関係修復不可能・・・というような表現が、効を奏する場合がある・・・という、衝撃の事実を身をもって体験しないと、「ズレ」というものを体感をもって認識出来ないのかもしれないですね。

「よかれ」と思ったことが逆効果・・・というのはイヤになるほど体験している訳ですが、「悪意」の言動は、「もうどうなってもいい」と思わないとなかなか出来ないので、「悪かれ」と思ったことが良い効果を持ってしまう(これも逆効果?)という体験は簡単には出来ないのかも・・・。

>ななさん
結局のところ、「こういう時はどうして欲しい?」と聞きあえる関係に立てるかどうか、というのがきっとポイントですよね。

>joさん
そうなんですよね。「これなら上手く行く!」という方法を一方的に取ることに対し、なんだか相手をコントロールしているような罪悪感をどうしても払拭できない。もちろん、相手はハッピーで自分もトラブルが少ないという点ではハッピーなのだけれど、「分かり合った」感覚が持てない点でアンハッピーでもあり、相手があまりに満足な感じに改めて距離を感じてアンハッピー。

カレンさんのところやななさんのところみたいに「こういう言い方するとどんな感じ?」とお互いに話し合えれば、関係は全く変わってくると思うのですが。

>パンダさん
わがまま姫さんのところの「助け合い掲示板」でUCさんというご自分はアスペかも?と思っている男性とやり取りしてます。ななさんやカレンさんがお相手とコミュニケーションのズレを発見していかれる過程っていうのは、こんな感じなのかな?と思ってやり取りを楽しんでいます。
http://bbs.avi.jp/bbs_th.php?kid=208621&tid=8856604&mode=&br=pc&s=

夫の「張り切り」はまだ続いています。そのことによって、離婚話が進行中なのを忘れたいのかなぁ・・と、その点でもとまどいがあります。

今回の記事の内容だけを読むと、定型の方が書いたのか、アスペルガーの方が書いたのか、どちらとも読めて、面白いです。
夫婦の関係の中で、多数派も少数派もないのだなぁと、しみじみ思います。

自分がしたい、されたいことと、相手のそれとが食い違うことの多い者としては、言動における目的と手段とを切り離して考えることは、日常です。

相手に伝える為に言うのか、自分が言いたいから言うのか、この二つの使い分けは、夫に対しての時でも意識しています。
自分のしたいことを、相手にも同じように喜ばれる機会は、多くはないですから。

だからなのでしょうか、状況や、事柄そのものの意味や価値は、私にとってどうであるかだけが定まっている状態で、他の人にとっての意味は白紙のことが多いです。
そこに何が入るのかは、相手次第。そういう受身の意味では、許容範囲が広い方だと思います。


KSさん

はじめまして。配偶者の会・井戸端掲示板にて拝見しています。
兎にも角にも、ご主人に通じる言葉が見つかって良かった…と思っています。


ななさん、お久しぶりです。
カレンの夫さん、こんばんは。

>『悪いけど○○してもらえる?』といわれると、『悪いと思うなら頼むなよ』と思う

これ、私も思って(実行して)いたので、驚きつつ、笑ってしまいました(^ ^)
理由はカレンの夫さんとまったく同じです。

私の夫は「悪いけど」は、本当に申し訳ない気持ちの時しか使わないので、問題にはなりませんでしたが、以前、職場で気軽に「悪いけど」を多用する人がいた時は、
「(繭)さん~、悪いんだけど…」「悪いのなら、いやです」などと言ってました。
一応、直後に「良いのならやりますよ(笑)」とフォローはしていました。

こういう言葉の解釈の仕方は、頭で分かっても感覚的に反応してしまうので、私達夫婦も確認し合いながら、夫婦語を増やして来ています。

繭さん

はじめまして。
>兎にも角にも、ご主人に通じる言葉が見つかって良かった…と思っています。
→ありがとうございます。「とにかく簡潔に。一番伝えたいこと以外は省く」という方針でやってます。夫以外の人に対しても、「一番伝えたいことは何か?」と考えるクセがつき、前より分かりやすく書いたり、話したり出来るようになってきた気がします。定型の人には「夫仕様」のままだと「失礼」になってしまうので、少し「デコ」しますけど。
 

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