すれ違う「自己評価」
昔、心理学の本で、「自己評価」とか「自尊心」とかに関係する話を読んだことがあります。その中に「自己評価維持モデル」というのがあって、結構おもしろくてよく覚えています。
まず、人間ていうのは、「自分に価値がない」と思うのは辛いですよね。これは「自己評価が低い」という状態になります。逆に「自分って結構いけてるじゃない!」とか思えると、身体も心もうきうき元気になる。免疫力だって高まるかも知れません。だから、人間の心の仕組みで、できるだけ自己評価を下げず、あげるような工夫をいろいろやるんだ、という話です。
じゃあ何によって自己評価って決まるのか?と考えてみると、たとえば何かに成功したとき、「やった!」と思って自己評価は上がります。逆に失敗すると自己評価は下がる。まあ、この辺はわかりやすいと思います。今のシーズンなら、受験に失敗して「しょぼーん」としている状態は、自己評価が下がってる状態で、見事志望校合格!となれば自己評価が上がる。
そうすると、素朴に考えれば、「失敗しないように沢山勉強する」ことによって自己評価を上げればいい、ということになりそうですが、実はそれにはちょっとまずいことがあります。というのは、「沢山勉強したのに失敗した」ということになると、「俺ってなんて馬鹿なんだ!」とその落ち込みはひどくなってしまい、つまり自己評価がものすごく下がってしまう危険があるんです。ところが仮に成功したとしても「まああれだけやれば当然だわ」となって、それほど自己評価が上がらない。
そうすると逆に「勉強しない」というのが結構良い方法だったりするんです。なぜかというと、もし勉強しなくて失敗しても「まあ、勉強しなかったしな、当然だよな。(=でも勉強すれば俺だって)」という風に思うことで、ショックを最低限にすることができる。逆に成功したら「勉強もしないで合格しちゃった俺って天才!」とか思ってものすごく自己評価が上がる。どっちに転んでも傷は小さく済むか、大きいものを得られるというある意味でとっても「カシコイ」やりかたなのです。ずるいですけどね。(もちろんそんなことばかりしていたら、実力は伸びませんから、長い目で見れば駄目なんですけど、ま、人間目先のことが「大事」ですから (^ ^;)ゞ)
この成功とか失敗とかは、多くの場合「競争」がからんでいます。受験競争ももちろんそうですし、スポーツ競技もそうですね。で、勝った者はみんなから賞賛されて自己評価が上がる。負けたら下がる。つまり「他人と比べてみて、自分の価値を判断する」ということを人間はよくやるというわけです。
そうするとここでまたずるい方法で「自己評価を上げる」やり方が出てきます。それは「自分よりちょっと弱い人と自分を比べる」とか、「下と比べる」という方法です。たとえばテニスとかをやるときに、自分よりちょっと弱い人とやって勝利する。「ちょっと弱い」というのは、あんまり実力に差がありすぎると、勝っても嬉しくないからです。大人が小学生と試合して勝っても、普通はそれで自己評価は上がりませんからね。
なにか落ち込むようなことがあったときに「でも自分よりももっと悲惨な人がいる」というふうに思うこと、これも同じようなやりかたということになります。「あの人よりは自分はまだましだ」と考えることで、自己評価を守ろうとしているわけです。このあたりも努力しないで自己評価を守ったり、あげたりしようとする方法の一つですね。
でも、もっと楽ちんなやり方があります。それは「他の人の高い評価のお裾分けをただでもらっちゃう」というやり方です。たとえば、もしみなさんの知り合いに有名人とかいたら、「実は○○とは親しくてね」とか、ついつい人に言いたくならないでしょうか?先祖に歴史的な有名人とかがいても「家の家系はね、先祖に○○がいてね」とか言ったり。さらには「私の高校のうんと先輩にあの○○がいるんだよ」とか、自分には全然面識がないけど、なんか「同じ学校の出身」というだけで自慢したくなったりする。
そうすると面白いもので、それを聞いた相手も「え?ほんと!すごいじゃん」とか、場合によってはその相手も興奮し出したりする。そのときに「すごい」と言われるのはその有名人とつながってる人な訳です。ところが冷静に考えれば、その人自身が有名人な訳でも何でもない。それなのにその人の「株が上がる」わけです。
つまりこれが「他の人の高い評価のお裾分けをただでもらう」ことで自己評価を上げる、という方法な訳です。栄光浴とか、変な名前がついていましたけど。人の栄光を浴びると言うことでしょう。人が有名人とお近づきになりたがるのもそういうことで説明されるわけですね。
で、自己評価維持モデル、というのは、そんないろんな方法を人間がどんな風に組み合わせて使うのか、ということを説明するための理論なんですけど、ま、そこはめんどくさいので省きます (^ ^;)ゞ
さて、これからがようやく本題なんですが(前置き長くて済みません m(_ _)m)、私個人の経験です。定型の私は、自分に何か嬉しいことがあったりすると(まあだいたい自己評価も高まっています)、それをやっぱりパートナーに話したくなるんですね。仕事がうまく行って評価されたとかでも良いし、自分がそれまでできなくて苦労していたことができるようになった(能力が上がった)、とかでもいいし。で、「よかったね!」と一緒に喜んで欲しいわけです。いや、そんなこと考える前にまず言ってしまう。
ところがこれが転けるんですね。「あ、そうなの」とか「ふーん」とかで終わってしまう。冷たい風がすーっと当たりを吹き抜けていきます。あれ?なんで喜んでくれないんだろう?といぶかり、なんだか自分が一人で自慢話をたらたらしているつまんない人間にさえ思えてきたりする。あるいは「この人にとって僕の喜びなんて関係ないんだろうか。僕の事なんてどうでもいいんだろうか」と思えてきて落ち込んでいく。
なんでそうなってしまうのか、相手を「冷たい人間だ」と理解することくらいしかできなくて、ずっとしんどかったんですね。それが昨日くらい、ふと気がついたんです。あ、これ自己評価の栄光浴の話だ、と。
つまり、定型の私は、自分が成功したり誉められたりした、というのは自己評価が高まっている状態ですから、それをパートナーにもお裾分けして、一緒に自己評価を高めたいわけです。言ってみれば「こんな人と一緒でうれしい!」という感じを持ってもらって、絆を深めたいわけです(今思えば、ですが)。だから別に自慢でも何でもなくて、喜びを共有し、一緒に自己評価を高め、絆を深めようとする。ところがその思惑が全く外れるわけですね。つまり定型的に言えば「あんたとの絆なんて存在しないんだよ」と言われているに均しいことになります。
ところが、ここでアスペ的な視点にちょっと切り替えて考えてみました。そうすると、成功したのは私であって、パートナーではないんですから、それはパートナーの問題ではなくて、あくまで私の問題なのです。だから、もちろん私が嬉しがっている、ということについては、それを「困ったことだ」とも思わないでしょうし、まあよかったね、位には思うでしょう。でもそれがパートナー自身の喜びになるわけではない。なぜなら、そのことで別に自分の価値が上がるとは感じないからです。つまり「栄光浴」という感覚がないか、とても薄いのではないか。
それで今日パートナーに聞いてみました。やっぱりそうでした。上に書いたような「知り合いに有名人がいる」と言って自慢する人の気持ちが理解できないし、それで自分の評価を上げようとするなんて言うのは、言ってみれば人を利用すること何じゃないか。とてもいやらしいことではないか。そんなようなことを彼女は言うわけです。
それで今まで積み重ねてきたズレがすごく分かった気がしたんです。私は自己評価の低さにしんどそうなパートナーに対して、自分がなにかうまく行ったときに、「栄光浴」でその評価を少しでも高めてあげたいと無意識に思っていた。ところがパートナーにしてみればそれは低い自己評価の自分と、さらに自己評価を高めた私との距離がますます開いてしまうことを意味してしまうのです。これでは全く逆効果で、喜ぶどころか、しんどそうに聞いているということの理由も分かる気がしたのですね。
ま、これは「共感が成り立たない」という話の一部になると思うんですが、なんで共感が成り立たないのか、ということを自己評価に絡んで「栄光浴」みたいな、定型的な心の動きについて説明する言葉で整理してみると、この場合はとてもよく分かる感じがした、ということになります。ちょっとした発見でした。
この話、どの程度他のアスペの方にも通用するのかはかなり興味があります。うんと俗っぽい例で言えば、たとえば「亭主が出世して(あるいは神さんが何かで高い評価を受けて)、自分も鼻が高い」みたいな感覚って、アスペの方にどの程度あるのかないのか。アスペの人の自己評価を高める方法ってどういうものなのか。そのあたりのことですね。
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コメント
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このお話、何度読んでも書きたいことがありすぎて、どこからどうコメントしたものか、という感じです。
パンダさんの言われる「冷たい風」・・・これも今では笑えますが、かつては、バトルの大きな種のひとつでしたねー。
「あなたの気持ちや感覚はあなた自身がわかっていればいいことであって、俺に確認すべきことではないし、俺にはわからない。共感を求められても困る。」・・・そんな夫の言葉に、かつての私は、見渡す限り氷だけの世界にひとりいるような強烈な孤独を感じることもしばしばでした。
今では、夫のそういう言葉は夫の強い自己肯定感から出てきたものだったんだろうなぁ、ということが、自分の感覚からもわかるのですが。
あと、奥様の感覚と夫の感覚はいろんな点でずいぶん違いがある、と私は感じています。夫本人がどう感じているかは、ここで、あるいは実生活の中で、ちょっと聞いてみたいです(笑)
投稿: カレン | 2011年3月25日 (金) 16時02分
追記:
すみません、後で「あ・・・」と思うことが多くて・・・(^^;)
夫の場合は、昔も今も、私が喜んでいることはすごく喜んでくれます。
上のような状況は、私が落ち込んでいる時・悲しんでいる時・迷っている時・困っている時によく起こっていたことです。
「そういう状況の時に、かつてと同じ言動を取るとまずいことになると学習した」とのことで、今では夫の対応はかつてと全然違いますが(^^)
投稿: カレン | 2011年3月25日 (金) 16時20分
書いた後で「あれ・・・?」と思ったのですが、私は夫から「栄光浴」をさせてもらっているのかな??? 実は「栄光浴」の部分では、夫と私の関係はお互いに「栄光浴」をさせている関係???
久々に、ちょっと「あれ・・・?」状態です。考えてみます。
投稿: カレン | 2011年3月25日 (金) 16時38分
>パンダさん
お久しぶりです。「よかれ」と思ってやったことが思うような効果を発揮しない・・・ということもあるけれど、その逆のこともあるのね。配偶者掲示板にも書いたんですが、私、「悪意をもって」夫と同じような言い方でメールしてみたら、話がすぅすぅ通ってビックリ! 夫の言い方があまりにも「上から目線」で腹立ったので、「だったらこっちも同じ言い方してやる!」と夫の言い方をマネしてみたんです。そしたら、腹を立てるどころか、なんか嬉々とした感じで頼んだことやってくれてるのです。ちょっととまどってます。
投稿: KS | 2011年3月26日 (土) 00時35分
カレンさん
「夫の場合は、昔も今も、私が喜んでいることはすごく喜んでくれます。」
これ、うらやましい……
でもそういうのって、一般的にはアスペの人が超苦手と言われる「共感的態度」
ということじゃないんでしょうか?
そのあたり、どういう理屈なのか、カレンの夫さんの見解を伺いたいところです (^_^)
KSさん
いや、とっても刺激的なお話しをありがとうございます。思わず記事を書いてしまいました!
ほんとにいろんな可能性があるもんですね~。
投稿: パンダ | 2011年3月26日 (土) 12時22分
パンダさん
こんにちは。「ご指名」なので、書かせていただきます。
12:22のパンダさんのコメント以前に妻(=カレン)が、「パンダさんは、コメントを待ってらっしゃると思うから、書いたら?」ということを申しておりまして、「なんでそういうことがわかるわけ?」と不思議に思っておりました。「パンダさんからご指名があったよ。」というと、「ほらね。」と満足気(?)に笑っております。
前置きはこのくらいにして、本題に入ります。。
まず、栄光浴について
私は栄光浴ってよくわかります。気の合う仲間や、心許せる先輩、慕ってくれる若い人たちなどが相手だったら、自分も「親ばか」丸出しで子どもの自慢とかしますし、相手がそういうことをするのを喜んで聞きますし、茶々を入れたりからかったりするのは「上手」だと思います。
ところが、相手がそういう対象ではないときにそういう状態になれば(現実的にはほとんどないのですが)、以前の私だったら面と向かって「なぜそんなことを自慢げに言うのか」とか「その発言に何の意味があるのか」といった趣旨の発言をして、その人の「口を封じ」て場を凍りつかせたことでしょう。今それをしなくなったのはそういう状態になるような相手とつき合っていないということと、「思った通りに口にして、相手を完膚なきまでにやっつけるのは控えるべきだ」と学習したからでしょうか。
パンダさんのパートナーさんが、おっしゃったことは私がここに書いた後半部分と同じことのようにも思いますが、もちろんパンダさんがパートナーさんにとって私の言う「そういう対象」だといっているわけではありませんので。
投稿: カレンの夫 | 2011年3月26日 (土) 14時22分
もう一つ書きたいことがありました。
中島敦の「山月記」という小説があります。高校の教科書でもおなじみです。その中の主人公がある時期まで、パンダさんがお書きになったような生き方をしていて、取り返しのつかない状態になってしまった後で、わが身を振り返るものの時すでに遅し・・・。
誤解を承知で言うと、私にとっては非常に「身につまされる」小説であり、主人公の生き方なんですね。
>そうすると逆に「勉強しない」というのが結構良い方法だったりするんです。なぜかというと、もし勉強しなくて失敗しても「まあ、勉強しなかったしな、当然だよな。(=でも勉強すれば俺だって)」という風に思うことで、ショックを最低限にすることができる。逆に成功したら「勉強もしないで合格しちゃった俺って天才!」とか思ってものすごく自己評価が上がる。どっちに転んでも傷は小さく済むか、大きいものを得られるというある意味でとっても「カシコイ」やりかたなのです。ずるいですけどね。(もちろんそんなことばかりしていたら、実力は伸びませんから、長い目で見れば駄目なんですけど、ま、人間目先のことが「大事」ですから (^ ^;)ゞ)
この部分を拝読して、「まるで自分のことじゃん」と思い、笑いました。私の自己評価の高さは、こういうものに支えられていたのかもしれません。もちろん、ご指摘の通り「実力が伸び」ずに、今があるのですが、まぁ「身から出たさび」というか当然といえば当然ですね。
投稿: カレンの夫 | 2011年3月26日 (土) 15時41分
カレンの夫さん
> 「なんでそういうことがわかるわけ?」と不思議に思っておりました。
面白いですね!
カレンさんは「最強の敵」であるばかりではなく、「最強の予言者」なんですね!
そういう超能力の持ち主とこれまで闘ってこられたとは、
カレンの夫さんも、いろいろ大変でしたでしょう (^ ^;)
……で、冗談はその程度にして、定型語の種明かしをしておきますね。
私の推理では、多分私の次の文章当たりでそう思われたと思います。
「この話、どの程度他のアスペの方にも通用するのかはかなり興味があります。うんと俗っぽい例で言えば、たとえば「亭主が出世して(あるいは神さんが何かで高い評価を受けて)、自分も鼻が高い」みたいな感覚って、アスペの方にどの程度あるのかないのか。アスペの人の自己評価を高める方法ってどういうものなのか。そのあたりのことですね。」
この「他のアスペの方」と言えば、ここでよくコメントを下さるのは繭さんとrosamondeさんと、そしてカレンの夫さんということになります。で、最初のお二人は女性ですから、「(あるいは神さんが何かで……)」という形でわざわざかっこで追加している言葉で指しているのは、残るお一人だけということになりますよね!
定型語魔術の種明かしはこれでおわかりになりましたでしょうか? (^_^)
栄光浴の話については、「気の合う仲間や……」というのはなんかうらやましかったです。やっぱり私の場合、「信頼している」とは言ってもらっていますけれども、なにかある面では気を許してもらえないのかも知れません。なんでなのかな……
投稿: パンダ | 2011年3月26日 (土) 18時47分
いつものことですが、お久しぶりです^^。
今回の記事は、実は、読んでビックリしました。
私、「栄光浴」って感覚、皆無だなあって。
亭主が出世したとして、どう思うだろう?夫のために「よかったね」と心から思うでしょうけれど、その夫の妻である事で鼻が高いかというと、たぶん全然それはないでしょう。夫のあげた成果は夫のもの。私とは関係ないです。まあ、その成果を上げるにあたって私の存在が役に立ったとしたら、それはもちろんうれしく思うでしょうけれど…。
同様に、子供がいい成績をとったり、賞をもらったり、いい学校に受かったりすること(しないこと)で自分の評価がいささかでも影響を受けるか?・・・そういえばやたらそういうことを気にしているママ友もいますが、私には全く関係ないです。子供が喜んでいれば、「子供が喜んでいる」ということをとてもうれしく思いますが、それと自分の評価は全く無関係。
で、よく夫に「俺のことは無関心なの?どうでもいいの?」と聞かれていました。
別に、そういうわけじゃないんですけどね…。
相手に共感しないわけでもないし。でも、それと自分の評価とは別。
私、変わり者なのかな?
人との距離が遠いのか、人への関心がほかの人よりも薄いのか。
自分にそんなところがあることには以前から気づいてもいて、私の身内にAS診断が出た時、もしかして私も?と思ったのですが、私の診断はASに関してはシロ、と出ました。グレーですらなかった。
それなら、ASのほうが多い家族の中で、外部との接触が少ない状態で育った影響?それとも私の個性?
あれこれ考えちゃいました。
勉強しないことで自己評価を上げる、これもないだろうなあ。よく、やればできる、実力はある、問題はやらないことだけ、っていわれる、あれですよね。私も昔よく言われましが・・・。でも、潜在能力があっても、それを引き出す能力(つまり「やる」能力)も実力のうちだから、引き出す能力がない(つまり「やらない」)のであればそれが自分の実力だ、と考えているタイプです。はっきりそう思うようになったのは大人になってからだったかもしれませんが。
夫と理解し合おうとする中で、なにがASで何が個性なのかを考えていた時に陥ったのと同じように「私って何者?」「個性って何?」みたいなことを考え込んでしまいます。
投稿: なな | 2011年3月28日 (月) 18時10分
ななさん
夫が、「ななさんが、カレンさんがいつも言っているようなことを書いてらっしゃるよ」と言うので、今PC開けて読んでみました。
そしてビックリ!
「亭主が出世したとして、どう思うだろう? ~ 「子供が喜んでいる」ということをとてもうれしく思いますが、それと自分の評価は全く無関係」
のあたりなんて「あれ?私が書いた?」と思うくらい、そっくりです。私の場合そういう感覚が全くないとは言いませんが、すごく薄いです。
ななさんと同じように「私って変わっているのかな」なんて思うこともよくありますが、夫や子どもたちのことで自分の評価が変わることもないので、なんだか得な性格のような気もしています(^^)
投稿: カレン | 2011年3月28日 (月) 21時54分
私は栄光浴は、あまりないような気がします。
ななさんやカレンさんと同じような感覚です。
夫が出世したとしたら。
彼がそれを望んでいて、その結果でしたら、それはとても嬉しいですし、努力した彼をすごいなぁと思います。でも、私自身の自己評価は上がりも下がりもせず、関係がありません。
もし、出世を彼が嫌がっていたら、それは私も嬉しくありません。
結果が私にとってどうであるかよりも、彼(当事者)にとって、それがどうであるかの方が、ずっと大切です。
基本的に、ひとのことに関しても、自分のことに関しても、そんな感覚です。
話がずれてしまいますが、夫にこの感覚のことで、注意をしたほうがいいと言われたことがあります。
「普通、嬉しいことを話すときには、それが一般的にどういう評価をされるのかと、自分の気持ちとのバランスを考えながら、相手の気持ちを害さないように話し方を変える。
繭さんは、時々すごく自慢しているように聞こえる話し方をしている時がある。
あなたにとっては、ただ嬉しかったことを話しているつもりらしいけれど、それは内容によっては相手が嫌な思いをする時もある。気を付けた方がいい」と。
私としては、気をつけていたつもりでしたが、何か違っていたらしいです。
この後、どういったことが人から見て自慢になったり、ならなかったりするのかを彼に確認しましたが、ややこしかったです。
私が冬虫夏草を見付けて、大喜びで、自慢げに彼に見せびらかしに行くのはOK。
私が幼稚園の頃に、遠くのものがどうして小さいのか不思議で、後に小学生中頃になってから、自分の視角による歪みにやっと気付いて、すごく嬉しかった話はNG。
(もともとこの思い出話を彼にしていて出た話でした。小学生の他愛無い大発見のつもりでした)
後は…忘れました。覚えているのは、私の嬉しさの度合いや、個人的な価値観とは関係ないことが多かったということです。
私の感覚では、冬虫夏草は探しても簡単には見つからないですし、遠近法に関しては、皆知っていることなので、冬虫夏草の方が自慢になるのではないかと思うのですが、夫からは逆と言われました。謎です。
色々と「それじゃ、これは?」と出して行くうちに、夫から「諦めた方が早い気がする…」と言われ、なんだかよく分からないまま終わりました。
最終的な夫からのアドバイスは、
「話した後に相手をよく見て、変な顔をしていたら、それはよっぽど変な話だから、次からは、気を付ければいいと思う。
それから、社会性がマニュアル的に身に付いている分、天真爛漫に自慢されるよりも、むっと来るときがあるから、そういう嬉しい話の時は、そのままの気持ちで話した方がいい」
と言われました。
気を使ったほうが良いのか、良くないのか…。
投稿: 繭 | 2011年3月30日 (水) 17時33分
繭さん
繭さんのコメント、なんとなく私の予想通りでした(^^)
たぶん、このへんの私の感覚は上にも書いたように「私って変わってるのかな?」というような感覚で、少なくとも定型の中では少数派なのではないかと思っています。
少なくとも大学生の頃までは、いわゆる「いい大学」とか「社会的地位」とかいうものに相当こだわっていたので、それ以降の経験によって自分の考え方とか価値観が変わってきたのだと思います。でも、ひょっとしたら「親の価値観」から「自分自身の価値観」に移行しただけで、私本来の感覚は、今の方が本物なのかもしれないなぁ、という気もしています。はっきりとはわかりませんが。
繭さんのご主人からの繭さんへのアドバイス、面白いですね。それから、繭さんがされているようなこと、私も時々しているかもしれません。
どこかにも書きましたが、人間の作った価値観は時代や場所によって異なるし、相対的に常に変化するものなので、そこに足場を求めることに今の私はあまり意義を感じません。
でも、実際の社会生活の中ではそういう価値観に足場を求めている人も多いので、相手によっては言動を考えないと、と思うこともしばしばです。
投稿: カレン | 2011年3月30日 (水) 21時14分
カレンさん、予想的中でした(^ ^)
私も二十代前半頃までは、もう少し違った価値観でした。
自分自身の価値観にこだわり過ぎていて、懐疑的で、人と同じになることを避けたりしていました(^ ^;
そうすると、好きなことが流行り出したりすると、窮屈な気がして、おかしなことになったり…。でも、人から認められたくない訳でもなく、結局、人の価値観に振り回されていたのだと思います。
自分の人生を真剣に考えるようになった頃から、徐々に余計な力が抜けるようになり、「好きなことは、単純に好き。結果的に人と同じもまた楽しい」と思うようになりました。
ここ最近は、カレンさんの「私本来の感覚は、今の方が本物なのかもしれないなぁ」というお気持ちと似た感覚があります。
私自身の芯の部分は幼い頃と何も変わらないまま、外側がどんどん削ぎ落とされて、よりシンプルに、本来の自分に近付いて行くような。
子供っぽい私も、大人の私も、良かったり悪かったりも、どれも同じくらい私らしくて、愛おしいと思い、自由になった気がしています。
社会的な価値観も、それを大切にする人の気持ちも、以前より素直に受け入れられるようになって来ました。
ただ、そのあたりの感度が低いのは相変わらずなので、気付かずにひとの地雷を踏むのは避けたいなぁと思っています。少数派なのでしたら、尚更ですね。
今、書き終わってから気付いて、過去の記事を見直して来ましたが、今の私の「本来の自分に近付いて行く」感覚、カレンさんが以前コメントされていた「コア」のお話そのままですね!
書かれた当時に拝読して、美しいイメージを抱いていましたが、今は、より自分の実感として感じながら再読させていただきました。
とても、感慨深いです。
投稿: 繭 | 2011年4月 1日 (金) 09時31分
繭さん
夫と私も、どこかよく似た部分があって、その「コア」の部分ですごく惹かれあうものがあるような感じしているのですが(すみません、これって、一般的に言うと「のろけ」ということになるのかもしれませんね)、
繭さんと私も、どこか「コア」の部分がすごく似ているのでしょう。
>今、書き終わってから気付いて、過去の記事を見直して来ましたが、今の私の「本来の自分に近付いて行く」感覚、カレンさんが以前コメントされていた「コア」のお話そのままですね!
書かれた当時に拝読して、美しいイメージを抱いていましたが、今は、より自分の実感として感じながら再読させていただきました。
とても、感慨深いです。
この数行を読んだ瞬間、胸の奥で何かがドーッと動きました。頭でわかるのではなく、心とかその奥で感じるときの感覚です。
繭さんにとって「言葉」はひとつの完結した世界そのものというようなことをいつか書いていらっしゃいましたが、繭さんの「言葉」は、私の頭にではなく心に響いてくる波動のようなものがあるのかもしれません。
自分ではいつかの「コア」のことをあまり意識せずに書いていたのですが、繭さんに言われて「そうか、同じことを書いていたのか」と気づきました(笑)
投稿: カレン | 2011年4月 1日 (金) 17時22分
カレンさん
私はのろけ話を聞くのが好きです。幸せそうな人を見ているだけで楽しいです(^^)
カレンさんとお話をさせていただいていると、なにか、すっと通るような感覚があります。
先日の、新緑の命のお話の時も、読む言葉の端から緑の光が見えるようで、文の意味といった感じ方とは違ったものでした。
静かな、しーんとした、この感覚ってなんだろうか…。と昨日から考えていて、あぁ、私は感動しているのだなと、今朝、分かりました。
投稿: 繭 | 2011年4月 3日 (日) 09時41分
繭さん
今頃になっての返信ですが、新緑のことを、私が実際感じたのと同じように感じてくださっていることに驚きです。
どこかで繭さんが書かれていたように、私の中に届いた新緑の光は、徐々に私の体の中で振動として広がって行き、その光が今度は外の光とつながったような感覚を持ちました。外の命と自分と命、自分の命と外の命とつながっていることを初めて実感した瞬間です。(少なくとも大人になってからは)
ところで、どこかに書かれていたオオイヌノフグリの写真撮影の際のエピソード(繭さんの横を歩いて行った犬よりも低い目線で写真を撮られた話)が、とても印象に残っています。
数年前、河畔公園でオオイヌノフグリの撮影を試みたのですが、写真のできあがりが、どうも子ども時代に見ていたオオイヌノフグリとは全然違う・・・その時は、なぜかわからなかったのですが、きっと目線が高すぎたんですよね。子どものときには、私、縁側の下にあったオオイヌノフグリを這いつくばるようにして見ていたのですから。
撮影の際のエピソードをお伺いして、納得すると同時に、あの写真がとても懐かしいものに思えた理由がわかりました(^^)
すみません、オオイヌノフグリの話をどこでしていたか忘れたので、新緑の話のついでにここに書かせていただきました。
投稿: カレン | 2011年4月11日 (月) 22時30分