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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 気持ちの共有と共感の微妙な関係 | トップページ | 「対等な勝負」を可能にする条件 »

2011年3月 4日 (金)

やっぱり豊かな個性を見ないと……

 「気持ちの共有と共感の微妙な関係」にカレンさんと繭さんという、定型とアスペの二大巨頭(?)から寄せていただいたコメントを拝見していて、そこで語られていることの大切さ、面白さ、そして語られている問題の難しさにちょっとめまいがするくらいの感じがしました (^ ^;)ゞ

 ブログというシステムの限界ですが、もう私が記事を書くよりも、ここでお二人に順番に記事を書いていただいたいて、私もちょっとお相伴させていただく、という感じにしたらすごく面白い展開になりそうな気がします。というか、システム的にそれは無理なので、皆さんの方でこのブログは「コメントが中心で、記事はそのおまけ」という感じで見ていただくといいのかも…… (^_^)


 カレンさんの「私自身が、「私は私でこう思う・感じる」ということが多くなりました。たとえ、それが、夫やその他の人から共感されてもされなくてもべつにかまわない、という感じで。」という風になる変化、これはすごいですね。カレンさんの言われる新緑体験が転換点だったみたいですが、ひたすらカレン夫さんに共感を求め続けてきたカレンさんが、それを求めなくてもいられる自分にバージョンアップ(?)された。でもそれは「カレン夫さんを精神的に切り捨てる」ということとは全然違う結果を生んでいるんですね。ある意味「共感を求めない」という世界を「共有した」とでも言えるような、そんな境地に到達したような……・

 私なんかは今でもやっぱり「共感」を求めたくて仕方ないですものね。だから、「共感」という言葉の意味を、もっと広く理解することで、定型とアスペの間のある意味で新しい、あるいは言い換えればもっと柔軟な「共感」の形を探そうとしているんだと思います。そのあたり、カレンさんはなんかもうすっと抜けて次に進んじゃっている感じもする。

 「エビとの対話」のことについても、前にも少し書いたことがありますが、やっぱりフランクルの「夜と霧」という、ナチスの絶滅収容所を体験したユダヤ人精神分析医の本に紹介されている「樹と対話する女性」の話につながる感じがする。その女性は自分が近く殺されることを予知しているわけで、誰も自分を助けてくれないことを知っているし、誰かと対話したって自分の命が支えられるわけではない。そういう状況で「樹と対話」することで、命の永遠を確信するんです。なんかすごい話ですよね。

 まあ、だからといって私はカレンさんのような才能は持たないし、違う個性の人間ですから、自分のやり方でうじうじやるしかないわけですし、それで悪いとも思わないけど、それにしてもやっぱりすごいなあと思います。

 それでもうひとつ面白いのが、そういう「樹と対話」みたいな深いレベルでの対話的関係をエビと持つような(なんかここの文章だけ読むと、何書いてるんだろう?ちょっとおかしいんじゃない?とか思われそうですが (^ ^;)ゞ)、そういうカレンさんの世界がそのままカレン夫さんと共有されている、ということとも違うという話です。実際カレンさんは「エビを熱心に覗き込んだり植物の世話をしたりする私の姿、夫からは意味不明の行為に見えるようですが・・・笑」と書かれていますしね。やっぱりそのカレンさんの姿勢は、定型的にアスペの夫さんとの世界を共有するもの、というのか、定型の側からのひとつの乗り越え方なんでしょう。

 逆に言えばアスペの側からはどんな形での定型の世界への接近法があるんだろう?というのも新たに興味が出てきます。

 
 それで、繭さんのコメントなんですが、まず非常に素朴な第一印象として、わあ!なんだこのものすごい自己分析力は!という驚きでした。ちょっと頭がぶっ飛びそうに思ったくらい。定型の人間にだって、これだけの自己分析をできる人がどれだけいるでしょう?

 ……という風に自分が驚くと言うことは、逆に言えば「アスペの人は自分のことであれ他人のことであれ、人間を分析する力が弱いはずだ」みたいな思いこみを、無意識のうちに私も抱いていたことの証拠ですよね。「お前、アスペの人を見くびっていたな!」と責められても仕方ないです。率直にお詫び申し上げます m(_ _)m

 いや、もちろん「スペクトラム」とか言われるくらいで、アスペの人だってものすごいいろんな人がいると言うことでもありますよね。定型だってカレンさんのような才能をお持ちの方もいれば、私のようにそういうすごい対話の世界には到底行けない人間もいるし、アスペの人だって繭さんのようなものすごい分析力を持つ人もいれば、そうでもない人もいる……。

 ということは、アスペと定型のコミュニケーションを考えるときに、やっぱりその人その人の個性の組み合わせ、みたいなものを無視してただ一般的にだけ議論しても、結局は単純な決めつけの議論にしかならないと言うことなんだろうと思います。もっともっと「アスペでもある」<その人の個性>、「定型でもある」<その人の個性>に迫って考えていかなければ、本当に問題に迫ることはできないと言うことでしょう。

 で、繭さんの書かれている自己分析の中味についても、これ、すごいことが沢山書かれているように思うんですが、そこはまたおいおい少しずつ考えさせてください。


 ということで、今日は「まあびっくりしたわ!」というほとんど意味のないような内容で失礼しました m(_ _)m

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コメント

アスペルガーが何なのか、わからなくなってきました!

私は、夫に対する不満と夫の個性(聞き間違い、思い込み、こだわりが多い、不器用など)から、夫はアスペルガーに違いない!と思ってました。

けど、繭さんがアスペルガーだとすると…夫は正反対に思えるのです。
私は、夫について、感情が薄い、鈍感、世間体重視で気持ちを重視しない、自分を省みない、というふうに感じてました。
でも、繭さんのコメントや写真も拝見すると、繊細、感情豊か、深い自己観察という真逆の印象を受けます。

私が好む文芸作品(映画や小説)に夫は共感しないことから、それを楽しむ感受性がある私は定型、楽しめない夫はアスペルガーだと思っていました。
けど、繭さんの写真ブログを前にして、自分はつくづく俗人だな…と。

繭さんはとても魅力的な方だと思ってしまうのですが、それでも色々と困難があって
悩まれてきたんですよね。

夫は、たぶん、私と結婚するまでは、そんなに困ったことってなかったみたいなんですよね。
一人でひょうひょうと生きていた感じです。そんなところが魅力だったんですけど。
私と結婚したことで、夫は初めて困難に出会ったんだろうと思います。どっちが被害者かわかりませんね。

個性とアスペルガー、むずかしいです。


さっきコメント投稿しましたが、何言いたいのかよく分かりませんね。

私にとってパンダさんのブログは、小学生が大学の講義を覗いているような感じなんです。
だから、わからなければ黙っていればいいようなものですが、つい、素朴な疑問とか素朴な感想(「わかりません!」みたいな…)を書き込んでしまってしまって、すみません。

今日は、夫のお父さんと不毛な話し合いをしてきたところで、頭が疲れていつも以上にボーっとしてます。

チロさん

 ちょっとお久しぶりです。
 ほんとに何がアスペルガーか分かんなくなる、とおっしゃるの、分かる気がします。

 少なくとも私自身はカナータイプの(知的障がいをともなった)自閉の子どもたちと接する機会は昔多かったので、その「常識的感覚」から言うと、繭さんの話はとにかく驚きの連続なんです。

 私のパートナーについても、自閉的な「性格」がある、とは数年前から思ってはいましたが、ほんとに(?)本格的なアスペルガーだとは思わなかったし、カナータイプの自閉に人に比べて、「え?アスペルガーってこんなにスムーズにコミュニケーションが取れるの?」と信じられないような思いでした。

 でも、パートナーの場合、改めて話を聞いていくと、確実に理解がズレることが分かってきます。それは「性格」のレベルの問題じゃないし、もちろん不注意とかの問題でもないんですね。もう物の見方、感じ方が全然違う、と理解するしかないところに気がついていきます。

 繭さんの場合は、そのパートナーと共通する感じも何度か感じてきました。似たタイプだなあという感じかな。と同時に、ああ、でも随分違う、と感じることもまたいくつもありました。

 Rosamondeさんやカレン夫さんも、またそれぞれに随分違う雰囲気をお持ちですよね。だから、私もほんとに分かんないんです。

 自分がアスペルガーだということを公言しながら書かれているブログの中には、私から見てとてもアスペルガーとは思えない人のものもあります。仮にAさんと呼びますが、むしろある種の人格障害の人が、「他人の気を引く」ためにアスペルガーと思いこむ、あるいはそういう売り込み方をしているだけ、と思えるようなもので、読んでいて正直気持ちが悪くなったりもします。そういう人の書いている世界は、どういうのか、もう人に自分が認められないことへの不満と自己愛の世界に満ちている感じだったりします。どこが「自閉」なんだと思う。

 でもたとえば繭さんはたしかにコメントの中で幼児の時に「承認」(認められたい)欲求が強かったと書かれているけど(そのことも実は私は驚きでしたが)、少なくともAさんのような自己愛的な承認欲求(って、この書き方もわかりにくいでしょうか)の感じは全然受けないんですね。うーんと、もっと平たく言うとどういったらいいだろう、むつかしいなあ。
 
 写真のことでもそうですけど、他人は関係なしに、まずほんとに自分一人がその写真に写そうとしているものと一体になるような感じがあると書かれていましたけど、そういう「自分だけの世界」みたいなものがあって、それを人が認めてくれるときは安心するけど、否定されるとどうしていいかわかんなくなると書かれていますよね。それは「何で自分の世界のすばらしさを認めないんだ!」というような怒りとは全然違う。否定されなければそれで別に不安になることもない。Aさんは否定じゃなくて、認められない事への怒りに満ちています。

 うーんと、だから繭さんの場合は「自分の世界は自分の中で一応安定してしまう」ということが基本にあって、その上でそれを他の人に否定されたら困るけど、認められれば安心できる、ということが付け加わる感じがします。それに対してAさんの場合は、「人に認めてもらわなければならない」ということがまずあって、「人が認めなくても自分は自分の世界を保てる」という感じではないんですね。そういう違いかなあ。そういうのを思うわけです。

 もちろん何がアスペルガーかなんて、専門家でも意見が分かれるという話は聞きますし、繭さんが自分をアスペルガーと判断したからと言って、あるいは私が私のパートナーとの共通性とか、上に書いたようなことからアスペルガー的なものを感じ取ったからと言って、もしかすれば、アスペルガーに似た要素を持っているけど、でもちょっと違うタイプの問題だ、とかいう考え方も成り立つかも知れません。そこはなんとも言えないですね。

 ただ、少なくとも、アスペルガー的な部分を持った人には、こんな繭さんのような人もいらっしゃる、という風には理解していて、そういう意味で「個性」を見ることの大事さを改めて思うんですね。

 なんか、ごちゃごちゃと分かりにくい話ですみません。私自身、いろいろまだ整理できないことが多いもので…… (^ ^;)ゞ

 「小学生が大学の講義」というお話し、私自身が考え考え書いていて、読む方にわかりやすいようにというところまでなかなか私の説明力が追いつかないんだと思います。是非「ここがわからん」とか、「ここをもっと説明しろ」とか、遠慮無く教えてください。聞いていただければ、そこから工夫ができるようになるかも知れません。

 よく思うことですが、なんだか難しいことを書く人って、ほんとに難しいことを書いていることもあるけど、実は書いている本人がもうひとつ整理できていないっていうことの方が多いと思うんですね。だからチロさんが読んで「わかりにくい」と思われたら、それは私が整理が十分できていないからだと思って、お尋ねいただけると、私自身の整理にもなりますし、パンダを成長させてやるためだと思ってそうしていただけると助かります。

 

アスペルガーの人であれ、定型の人であれ、趣味や関心はさまざま。

繭さんのように、絵や写真、その他の芸術鑑賞がお好きで、こよなく自然の生き物たちを愛する方もいらっしゃる、

私の夫のように、ランニングや水泳が好きで、太陽の光や夏の暑さをこよなく愛する人もいる、

ここまで書いた中で考えると、繭さんと夫の趣味は全く違い、そして、私の趣味がどちらと合うかと言えば、言うまでもなく繭さん(笑)

でも、たぶん繭さんはとても本がとてもお好きで、夫も本が大好きで、私も本が大好きで・・・となると、ここで「本を読むのって楽しい・面白い」という気持ちを共有でき、そして「楽しいよね」と共感することができる・・・ですよね。

なので、趣味とか関心とかだけでは、アスペルガーと定型の違いを云々いうことは全くできないのだと思います。

私の思う決定的な違いは、例えば、上に書いたような趣味・関心について人に話すとき、

・アスペルガーの人は、「これ、楽しい」と、自分の気持ちや感覚を表現する
・定型の人は「これ、楽しいね」と、自分の気持ちや感覚を表現すると同時に、相手に共感を求める

ということなんですよね。

実際、夫は、自分の趣味について「楽しい・気持ちいい」と表現するけれども、私に自分の趣味そのものについて、たとえばランニングについて、「ランニングって楽しいよね」と私に共感を求めることはありません。

そして今の私は(昔はともかく・・・笑)、ランニングの楽しさについては共感はできないけれども、「カレンの夫さんは、ランニングが楽しいんだね」と認めている。

もし、夫から、「ランニングって楽しいよね」と、共感を求められるとしたら、今の私はかなり苦しいでしょう(苦笑)

掲示板の方で、チロさんの「やっと、わかったこと」へのコメントでも書きましたが、今の私は、人から否定もされず、無理に共感を求められることもない今の生活が、とても楽で幸せなのです。

特にこの日本の中での定型の世界は「あなたも~よね」「あなたも~でしょ」「普通~だよね」「普通~でしょ」みたいなことを強く求められるので、定型であっても、私自身なんだかなじめないところがずいぶんとあります。

「それぞれの感覚や気持ちを否定せず、そういう感覚や気持ちを持っていることを認め合う今の生活」・・・それは、少なくとも私 ― かつては自己評価がとても低かった私 ― にとっては、自分の感覚・気持ち・感情を持つことを許される、そして、それを表現することを許される、とても心安らぐ場となっています。

夫と私の場合は、お互いにアスペルガーと定型の違いがあることを知ったからこそ得られたものがとても大きかった・・・ということです。

追記:

社会の価値観や人の立場などというものは瞬時に変わるものであって絶対的なものなどありませんから、そこだけを足場にしていた昔の私は常にグラグラゆらゆら(苦笑)
だから、よけいに一番身近な夫に共感を求め(アスペルガーというものを知らずに)、どうしようもない悪循環に陥っていたのでしょう。

それから、夫への話しかけの中でも、経験上ここは共感できるとわかっている事柄については「~よね」という言葉を使います。

どんな人間関係の中においても、個々の関係の中で「共感できること」と「共感できないこと」があり、その比重や内容がその人たちの関係や生活を左右するのかな、と考えたりするこの頃です。

同じコメント2つ送ってすみません。消し方がわかりません。

パンダさん 
お返事ありがとうございます!
私がすぐ分からなくなるのは経験が少ないからだと思います。夫との関わりも少ないし、教育や医療現場からも遠いところにずっといたので。パンダ先生の講義は、もっと知りたいという意欲を高めてくれるし、落ちこぼれ生徒の補習もやってくれて感謝です。

承認欲求の話は分かる気がします。ちょっと違うんだけど、思い当たることがあります。
4歳の子供が微妙なキャラクター(ヘンなご当地キティとか)を見たときに、不安そうな顔で「これ、カワイイ?」と聞くんですけど、そんな感じ?普段、母親はティちゃんをカワイイというけど、このキティちゃんは何か変なかぶりものをしていていつもと違う。カワイイと思えないけど、この感覚でいいのかな?と戸惑っているように見えます。カワイイという言葉の使い方に迷っているだけかもしれませんが。そういうときは、「お母さんはカワイイと思う」とか「う~ん、あんまりかわいくないかなぁ?」とか答えて、子供自身の感覚をつぶさないようにしようとは気を付けてます。自分が確かに感じていることがあるのに、「無い」と言われると、ものすごく不安になりますもんね。(←あ、これはカサンドラですね!)

Aさんの承認欲求というのは、自分が他の人より優れている、優れていなければならないという根拠のない思いからですよね。中学生くらいのときは、私もちょっとそんな感覚がありました。自己肯定感の無さと自信の無さの裏返しで。

あと、ちょっと思ったのが、私はこれまで、コミュニケーションについて他人の感情を創造したり立場を置き換えて考える能力の問題だと考えてたけど、意志とか志向の問題でもありますね。たとえば、ここでの繭さんやRosamondさんのコメントを見ていると、他人の感情や感覚を創造することが能力的に苦手だとしても、人に優しくありたい、人に嫌な思いをさせたくない、さらに言えば人の役に立ちたい、という意志が感じられます。
夫の場合は、もちろん悪気はないし、人に嫌な思いをさせたくはないでしょうが、あまり気にしていないように感じます。男社会で真面目に仕事して稼いでいればいいという環境のせいもあると思いますが。
定型だって、人の顔色を読むのは得意だけど人に嫌な思いをさせるのはわりと平気という
タイプもいるし、役に立とうと色々考えるんだけど的が外れてるタイプ(あれ、これはアスぺなのかな?)もいるし、いろいろなんだから当り前なんですけどね。アスぺと言えば、他人のことはお構いなしなんだと決めつけていました。

理解のズレ、というのは確実にあるように思います。アスペルガーというとコミュニケーションの問題が表に出ているけど、理解や認識においての定型とのズレというのが本質なんでしょうね。

カレン先輩
そうですね。最近、身内にも指摘されたことですが、私自身がぶれているから色々な意見に振り回されてしまってるんだと思いました。独身のときは、もっと「自分は自分。自分はこれが好きなんだ。」という確固たる気持ちがあったのですが、子育てをするようになってから育児書に振り回され、夫や夫の実家との価値観の違いに悩み、両親そろってないと子供によくない、とかいろんな意見に振り回されてました。

「私が選んだ」夫の価値観や趣味が自分とまったく合わないことを知って落ち込んでいた時期もありましたが、それは、別居している今は切り離して考えられるようになりました。

あとの問題は、夫が私や子供を別人格として扱ってくれるようになること。
夫は、私の「寒いね」に答えないばかりか、「寒いから中に入りたい。」と言っても「オレは寒くない。寒いなんてウソだよ。」と言う人なので。今の私は学習して「あなたは寒くなくても、私は寒いから中に入る。」と言えるようになりましたが、子供はまだ言えないですからね。

夫自身に自覚してもらうしかないのでしょうが、その地ならしができてない状態です。

また長々と書いてしまいました。

チロさん、パンダさん、こんにちは。

頭がぶっ飛んだり、混乱したり、お騒がせしてすみません。

私がアスペルガーかどうかにつきましては、診断を受けたものではなく、あくまでも「自称アスペルガー傾向」です。
診断を受けたいとは思っていますが、医師に相談したところ、「診断が下りたところで、何も治療は出来ないので勧められない」とのことで、住んでいる地域に専門の病院もなく、今のところ見合わせています。

自覚症状は沢山あるのですが、一番最初に気付いたきっかけは「過集中と時間感覚の欠如」です。これは幼少時から顕著で、親からは随分気味悪がられました。
振り返って見ると、幼児~学生時代にあった症状は「積極的にグループに入らない&問題が起きる、一人遊びを好む(友達の家に遊びに行って、一人で本を読んでいたり)、こだわりが強い、感覚過敏、教室にいるだけでストレスがあった、教科ごとの成績の差が激しい等」。
あと、幼稚園児代の絵は、動物や植物ばかりで、人の絵は課題の時のみでした。初めて人(お母さん)を描く課題が出た時に「どうやって描こう…」と困ったのを覚えています。

社会人になってから、まず困ったのが「過集中(音が聞こえなくなる)、二つのことが同時に出来ない、物事の優先順位が付けられない」これらが原因で、仕事がスムーズに出来なかったり、職場の人とうまく行かなくなったりしました。

それから、雑談も苦手です。
こちらのブログのような説明的な文でしたら、文章でも口頭でもそれほど不便は感じませんが、口語的な文章は難しくて、読んでもなかなか理解出来ません。更にそれが口頭になると、考えている間に話題は変わっていて、ついて行くことが難しいです。
それも一因なのか、実生活では、新しい知り合いや友人を作ることに消極的です。夫は心配しますが、私はそれをさみしいとは感じないのです。

あと思い出せるのは、運転中に信号などが目に入らなくなることがあるので、夫から車の運転は止められていることと、友人から「宇宙人、天然サド(自覚なくひどいことを言う)」と呼ばれたことがあることです。

理解のずれに関しては、夫から指摘を受けていますが、自ら認識できるものではないと思いますので、割愛します。

私の幼少時の承認欲求は、「認められたい」というものもありましたが、どちらかというと「自分を否定されたくない」という方がより強かったです。
先日のコメントでも書いたような、私が好んでしたがった事は母にとっては無意味・無駄なことが多く、拾い集めた宝物は捨てなければいけませんでしたし、学校で読書や図画工作でほめられても、母は受け入れ難く思っていたようで、ぶつぶつ言っていました。
洋服一枚選ぶのにも、母の許可を受けられなければ、好きなものを選べなかった私にとっては、そういった自由を確保するための「承認」を求める気持ちが強くありました。


私の自己分析がどの程度現実に沿っているのかは、自分では分かりません。
何故自分のことをこのように考えるのかについては、いくつか思い当たることがあります。

一つは、私が子供時代、自分に取り込んだ価値観「大切なのは心よりも行為の善悪や是非」。
結果的に、私は理屈っぽい子供になり、この価値観を振りかざして対人関係で問題を起こしてしまい、後に色々と修正が加えられることになりました。
今は心もとても大切だと思っています。

次は、考えることが苦にならず、どちらかというと好きなこと。
これは、子供時代からの読書好きから、問題が起きた時、それから夫との関係まで及びます。
中学生の頃に「客観視出来るってかっこいい…」と思って以来、そういったことも意識していたと思います。

夫と出会って十年程経ちますが、最初の頃は、お互いに「何故???」の連続でしたので、長い長いお話し合い(笑)という地雷除去作業が週に何度もありました。
そして、お互いに受ける質問に対して「何故そんなことを聞くの???」と思っていましたので、深く考えざるを得ない状況が長く続きました。
夫も私も納得しないと納まらない質でしたし、彼はそういったところで手強い相手でしたので、結果的に、自己分析的なことを考える機会は増えました。

最後は、私が自分のトラウマから自由になる為にしていたセルフケアです。
これは、自分を見つめることに他なりませんでした。

夫と出会って、結婚していなければ、私はおそらく今でも一人で、ここまでトラウマを直視することも、アスペルガーの可能性を考えることもなく、それはそれで満足して暮らしていただろうと思います。
勿論、彼と一緒にいることは、大変なこともありますが、満足で、幸せです。

考え考え書いていたら、他の方達のコメントが次々とアップされていました。
なんだか私のコメントは少しずれているかもしれませんが、折角書いたので、ひとまず投稿してしまいます(^ ^)

カレンさん

はい、私も本が大好きです(^ ^)
気に入った本は、何度も繰り返し読んでいます。

カレンさんのコメントを読んでいて、食事の味付けのことを思い出しました。
私は料理を楽しんで作りますが、夫が自分の器に味を足しても、全く気になりません。
「好みの味に仕上げて、満足して食べているのだな」と、和やかな気持ちになります。

そういった、同じでないことに満足できることは多くて、
「これは、私の共感力の薄さが良い方に出ているのかも」
などと、良いように解釈しています(笑)
「同じ」も楽しいし、「違う(限界はありますが)」も楽しめるって、我ながら、お得に出来ている…と思います。


チロさん

かつての私は、人の迷いや後悔に理解をしようともせず、切り捨てていました。
そういうことをしたくないと思うようになって来ましたが、今でもそういうところは残ってしまっていると思います。

「見えない」ということは、それに気付く機会が少ないということでもあり、やはり不自由を感じます。

自分のことを省みると、順調なときは気付きませんでしたので、チロさんのご主人との地ならしは大変と思います。
無理をなさらないよう、ご自愛ください。

繭さん
子供時代のことなどていねいに教えてくれて、ありがとうございます。
なんとなくイメージができました。
過集中、優先順位がつけられない、など私の夫と同じところもあるんですね。

「宇宙人、天然サド」と呼ばれてしまった繭さん、もし同じクラスにいたら、私とはすごく仲良しにはならないだろうけど、ちょっと憧れを感じてしまったかもしれないです。群れずに自分の世界がある女性。みんなが思ってても言えないことをアッサリ言ってしまう人。無責任な言い方すると、カッコいいと感じました。
でも、実際、女子グループや職場など協調性や暗黙の了解が要求される場面では、苦労しますよね。プライドの高い男性との付き合いなんかも大変そうです。

それにしても、「宇宙人」ってアスペルガーのテキストどおりの呼び名ですよね。
私は、繭さんがアスペルガーではないと疑ってたわけではなく、夫がアスペルガーだということに確信が揺らいでました。
でも、やっぱり、それぞれ個性も違うわけだし、親の接し方、性別、仕事などによって本人が自覚するかどうかも違ってきますよね。
夫がアスペでないとすると、またアスぺを知る以前の悩みに戻ってしまうのが不安だったけど、繭さんが体験を話してくれたおかげで、アスぺにもいろいろあるというのが具体的なイメージを伴ってわかり、気持ちが落ち着きました。

もし、私のコメントで繭さんに不快な思いをさせてしまったら申し訳ないです。私はアスペのこと誤解してる部分もあったし、トラウマを思い出させてしまったし。私は、アスペルガーの夫が無神経だと非難するわりに、自分自身がぶしつけな性格で思ったことをすぐ言ってしまうんです。もし失礼があったら、ごめんなさい。

夫といて満足で幸せという繭さんの言葉、いいですね。素敵です。

アスぺにいろいろあるのは分かったけど、やっぱりまだまだアスぺは分からないことだらけなので、気長にやっていこうと思います。

チロさん

私はチロさんの書かれたことで、不快や不安を感じることはありませんでした。
トラウマの話も含めて、私が書いていることは、自分で書いても大丈夫と感じたこと、書きたいと思ったことを書いていますので、基本的にダメージはありません。
優しいお気遣い、ありがとうございます。

私のコメントでチロさんがご不快に感じることがあったら、申し訳ありません。
「天然サド」は、自覚がないのが問題ですので、ご指摘いただけると助かります。

カッコいいなんて言っていただくと、単純な私は嬉しくなってしいます。
実際の私は、空気が読めないので、いつもドキドキしながら人と話しています(笑)

アスペルガーの傾向に「宇宙人」を見付けたときはびっくりしました。
それまで「宇宙人」と呼ばれる傾向があるなんて、考えたこともありませんでした。
私をそう呼んだ友人は、今でも付き合いのある大切な人ですが、何故そう呼んだのかは「宇宙人だから」としか言わず、私も特に気にしていませんでした。

宇宙は広いですから、沢山の星(傾向)の宇宙人が地球上に共生しているのかもしれませんね。
地球人も宇宙人ですし(^ ^)

チロさん

「カレン先輩」を読んだ瞬間、ちょっとくすぐったく感じつつ、なんだか嬉しく思いました。「様」づけで呼ばれるのはとても苦手なのですが、「先輩」だと、なんとなく甘えてもらっているようで嬉しいのかもしれませんね。

いつかもチロさんにはお伝えしましたが、私がチロさんの年齢のときには、アスペルガーという言葉すら聞いたことがありませんでした(勝手に私がかなり年上だと思っています・・・実際そうだと思いますけど・・・笑)。

チロさんは私がチロさんの年齢のときよりもずっと先を歩かれているので、まずはご自分が元気を最優先していかれたら、きっと、何か道が開けますよ。


繭さん

私は、雑談・車の運転・口語的文章などで困ることはないのですが、繭さんと似ているところがとても多く、その共通点の多さに驚きです。自然に対する思いもそうですが、

例えば、今回ここに書かれているような、

感覚過敏・過集中(音が聞こえなくなる)・二つのことが同時に出来ない・「自分を否定されたくない」という方がより強かった・自由を確保するための「承認」を求める気持ちが強くあった・・・というあたり、思わず「えっ、私のこと?」と思ってしまいました。

アスペルガー同士でも、定型同士でも、アスペルガーと定型でも、

共通点もあれば違う点もある、共感できるところもあれば共感できないところもある、似た者同士であることもあればそうでないこともある・・・

そんなことを、またつくづくと考えています。


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