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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年3月 2日 (水)

気持ちの共有と共感の微妙な関係

 「何が共有されるんだろう」から「共有が共感になるとき」のテーマを巡っていくつかのコメントを頂きましたが、そこからまたちょっと考えを進めてみたい気持ちになっています。

 話のポイントを改めて簡単に整理すると、「共感」が困難ということが問題になるアスペと定型の間のコミュニケーションですが、でも当然のことながら、何も通じ合わないと言うことではないわけです。もし全く通じ合わないのなら、最初からそもそもカップルが成立すること自体、ほとんど無理でしょう。どんなカップルだって、結婚に至るには多かれ少なかれ「おつきあい」の期間があって、そこですでに多少は「あれ?」っと思うようなことがあったとしても、基本的には通じ合っていると思って(または通じ合わないという状態をまるで想像もできないまま)ゴールインするわけです。

 だから、アスペと定型のカップルの難しさは、「通じ合わない」ことにあるというよりも、むしろ「通じ合う」んだけど「通じ合わない」という、ある意味で中途半端でよく意味の分からない状態に置かれてしまうことにあるのではないかと思います。で、多分定型の側に多い感じ方としては、「通じ合う筈なのに、通じ合わなくなった」とか「通じ合うべき所なのに、通じようとしてくれない」というような受け取り方になって、どんどんしんどくなっていき、ますます「共感」に飢える状態になって、しかしそれが得られず、絶望的な気持ちになっていく場合が多いような気がします。

 そこで、改めてこの「通じ合う」んだけど「通じ合わない」というこの「微妙さ」のところに立ち戻って、どういうところは通じ合って、どういうところは通じ合わないのか、ということを素朴な体験から考えてみようとしています。

 そこでひとつ考えてみたことは「共有」と「共感」を分けてみるということでした。定型の方からすると、「共有できた」ということと「共感しあった」ということはかなり重なっていることのように感じ、そこをあえて区別することは普通ないのではないでしょうか。ところがアスペの方の話を聞いたり読んだりしていると、どうも「共有」はあってもそれが「共感」にはそのまま結びつく感じがしなかったりするわけで、定型の方からすると、そこがわかりにくい感じがあるんだけど、とにかく「共有」と「共感」を一端分けて考える必要を感じることになります。

 もうすこし具体的な話で説明してみると、たとえば私が出した例で、幼児が自分の体験したこと、嬉しかったこと、悲しかったことを一生懸命大人に語りかけ、それを認めてもらいたがる、ということがあります。これは自分の体験を「共有」して、そしてそこで感じたことを「共感」して欲しい訳です。そして「共感」されることによって、うれしさは倍増し、逆に悲しさは半減し、そうやって「次への元気」が出てくる。逆にそこが得られないと、自分が支えられない気持ちになり、自分自身の価値が失われていくような感じになり、極端な状態になれば「精神的に遺棄された子ども」のようになって、心身に大きな問題を抱えてしまうことも起こり得ます。

 一方、アスペの人の場合、私のパートナーもそうですし、繭さんも「人からほめて頂くようなことがあると、どこからともなく「あんたなんかが、そんな訳ある筈がない」という心の声が聞こえて、それに対する強い葛藤がありました」と書かれているように、自己の評価が驚くほど低い方が結構いらっしゃるようです。多分そこには育ちの問題が大きく関わってくるのでしょうが、それが非常に強く出る感じがする。とはいえ「大人に認めてもらえないことで、自己の評価が低くなってしまう」というわけですから、この点は定型も基本的には同じでしょう。

 ああ、すみません。まだ私も混乱してよくわかんなくなってしまいます。「人に認めてもらえるかどうかはとても大事な意味を持つ」という点では、アスペも定型もきっと同じなんです。にもかかわらず、この「相手を認める」ということについて、アスペと定型のカップルや、あるいは親子の間でものすごい大きな、深刻な問題が起こる。だとすれば「認め方」とか「受け入れ方」とか、そして「共感の仕方」みたいなことにズレがあって、お互いに必要としているものをお互いが与えられない状態になっているのでしょうか。ここはまた皆さんからのコメントなども頂きながら、少しずつ考えていきたいです。

 
 もう一つ、今回初めてコメントを下さったいなぞさんが、定型とアスペの間に「共有」を足場にして「共感的世界」が拡がっていく可能性について、「すでに(芸術・音楽)で存在してます」と書かれた後、アスペのミュージシャンのそういう活動では定型の聴衆と「感性の共有になってる、それが生業になってる事で世界とつながって生きてる」とおっしゃっています。この話と、繭さんがコメントで書かれている「私はこういう時は、ほとんど無心で、対象と一体化しているような感覚になっています。自分がいることを忘れてしまって、空や木や鳥や虫や砂粒になっているような感じです。対話という、自分と対象がそれぞれ存在するような感覚は、あまり感じられないような気がします。」という話が、私の中でなにか大事なつながりがありそうな気がしてきています。

 何がポイントとして感じられるかというと、どちらも「共有」ということが「感性」という、「言葉」にならない世界で成り立つことが言われているように感じることです。繭さんの上のコメントは、私が写真に写っているものたちとの間に繭さんが対話的な関係を持っているのでは、と言う風に書いたことについて、「対話」という、自分と対象が向き合った感じではなくて、一体化した感じなんだということをおっしゃっています。それは言葉を介しない世界ですよね。こんな表現も使われています。「なんというか、風景と気持ちが一体化しているように感じられるのです。だから、その大切な風景が、言葉よりもストレートに気持ちを語ってくれるような、そんな感じです。」

 定型も、もちろんそういう共有もすると思うのですが、でもなんかそこで終わらずにその先に進みたくなるような気がします。あえて言葉にして確認しあったり、語り合うことでまた深めようとしたり。だから私なんか対象との間でもなんか「対話」と書きたくなってしまいますし、カレンさんもコメントで「今でも、6年前に息子が我が家に持ち込んだ2cmほどの小さな透き通るエビを、ひとりで観察したり、時々話しかけたりしているんですよ(笑)。」とやっぱりエビとの「対話」のことを書かれています。そういう「対話」の延長に、その対象について他の人と語り合う世界が成り立ったりするのでしょう。


 うーん、やっぱりまだまだ微妙な問題がたくさんあるような気がして、自分でも全然すっきりしません。ただひとつ言えること、それは「感情の共有の仕方になにか微妙だけど大切なズレがありそう」ということです。それからこれ以前に書いたことからひとつ前進したかなと思うのは、アスペの人が求める「共有」と言うことの中味が、決して単純に「もの」の世界のことではなく、その「もの」についての「感情」の世界も含めてのことだというふうに、私の理解が拡がってきたことです。

 ああ、隔靴掻痒、亀の歩みですが、まあぼちぼちいきましょう。

 

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コメント

夫との生活は20数年になりますが、「共有」は多くても「共感」は果たしてどのくらいあったのか・・・と、考えてみると、以前は、ほとんど「共感」と感じることはなかったような気がします。

夫に対する私の言葉、

例えば「今日は暑いね」というそのひと言が、「なんでいちいち共感を求める必要があるわけ?!」という夫の怒り(と、当時の私には見えた)を引き起こすものとなり、

そして、夫は夫で、

「あー、暑い!」と、まるで目の前の私の存在などないかのように、自分の感覚を自分の世界の中で言い放ち(と、当時の私は感じた)、

というような感じのことが、毎日の生活の中で20年ほども積み重なっていたのですから、
少なくとも定型の側としては、怒り・悲しみ・嘆き・落ち込みの渦の中にだんだん巻き込まれてしまってました、かつては。

でも、不思議もので、私と夫、それぞれにAS・定型の感覚や思考パターンがわかってくると、それぞれ相手に自分と同じようなものを求めなくなってきているのです・・・少なくとも、私たちの場合は。

私は私で「『カレンの夫さん』はそう思うんでしょうね・そう感じるんでしょうね」と思うようになり、夫は夫で「『カレンさん』はそう思うんだろうね・感じるんだろうね」と思うようになり、

(ASのことがわかるのと前後して、うちは、それまでの呼び捨て「カレン」とか、「あなた」という主語を私の提案でやめ、お互いに「さん」づけにしています。)

さらに、私自身が、「私は私でこう思う・感じる」ということが多くなりました。たとえ、それが、夫やその他の人から共感されてもされなくてもべつにかまわない、という感じで。

そして、実は、前のコメントに書いたエビのことも、私は「エビとの対話」のことを語り合う
相手も、生活の中では誰もいないのです(正確に言うと、 エビ とは「対話」しているというより「つながっている」という感じの方が強いです。実際、「話し」かけたりはしていますが・・・笑)

ここでは、たまたま繭さんがご自分の世界のことを教えてくださった、なので、私も自分の生活の中での同じようなことを言ってみた・・・そんな感じです。

実生活の中では、「私がこう感じている・こう思っている」という自己満足のようなもので、でも、それは何か絶対的なもので、誰かに理解してもらいたいとか肯定してもらいとかいう類のものでは全くないのです。

こんな感覚は、4年ほど前まではなかったのですが(それまでは、とにかく人に共感してもらいたいばっかりでした)、

新緑の中での体験以降、そして、夫の感覚が少しずつわかってきて&自分の感覚を夫に求めようと思わなくなって以降、なんだか、自分だけの思いや感覚だけでも、かなり満ち足りている日々です(それはそれで、また別の課題も出てきますが、そういう課題が出てくるから生きるのが面白かったり生きがいがあったりします。)

逆説的なようですが、

夫の感覚や思考が自分と違うとわかってくるにつれて、かつて夫の中に見ていたAS的感覚が自分のものとしてわかるようになってきた、というような気がしています。

他にもいろいろ思うことはありますが、「エビ」についてのみ語ると、こんな感じです。

パンダさん、

パンダさんがネットの向こう側で推測されたエビと私の関係(?)、「パンダさんはそう思われたんだろうなぁ」と思いながら、ネットのこちら側で読ませていただきました。

上のコメントを書き終えて気づいたら、繭さんが前のところにコメントを書かれていました。

繭さんの収集物、見てみたいです。こちら、エビの脱皮は何度も何度も見てきています。「今日も生きているね」「すごいね」「偉いね」・・・私の声かけです。

(エビを熱心に覗き込んだり植物の世話をしたりする私の姿、夫からは意味不明の行為に見えるようですが・・・笑)

連投すみません。

「共有」「共感」「感性の共有」・・・これらの他に、私の中でキーワードになっているのは
は「共鳴」です。

幼児の頃を思い出すと、私の場合は、共感、共有以前の、「承認」欲求が強かったように思います。

嬉しいとき、悲しいときに、大人に「あなたは嬉しいのね(悲しいのね)」と言われると、とても安心して、その感情を味わうことが出来た記憶があります。
逆に、「そんなこと喜ぶような(悲しむような)ことじゃない」などと言われると、自分の中の気持ちの行き場がなくなり、不安になりました。

承認されれば、それで結構満足していましたし、否定されなければ、不安にはなりませんでした。
このような感覚は、今でも変わらずに持っています。

子供が転んだ時によく言われる「いたくない、いたくない」も、私には「痛く感じる自分」をどうしてよいか分からなくなって、混乱したのを覚えています。

自己評価に限らず、私は自分から離れた視点を持つことが出来ていないようです。
私に出来る客観視は、内側からのもので、外から眺めるようなものとは(体験したことがないので分かりませんが)どこか違うような気がします。

子供時代の体験を、他の体験と見合わせながら程良く緩和、調整して取り扱ったり、自分の感情を相手に伝えるために言葉に変換する作業には、自他を同時に意識することが必要だと思うのですが、それを同時進行には、うまく出来ないのです。

相手を意識しているときは、相手のみ。
自分を意識しているときは、自分のみ。
今を考えているときは、今だけ。
過去を考えているときは、過去だけ。
これは、最近、夫に指摘されて気付きました。

「『相手(対象)を意識している自分』を意識する」といったことは概念的に理解していますが、実践的にどうかと考えると、リアルタイムに出来ているとは思えません。
いつも、体験が終わってから考えます。

だからと言って、自分を忘れて相手の感情や世界に没入出来ないのが、我が事ながら不思議です。書きながら思い出しましたが、私が一方的に見ていられる状況では、そういったことが起きます。
映画や読書や道端の人などに感情移入することがあります。

私の写真もそうですが、自分の中の感覚に没頭している状態でも可能な表現方法は、「(言葉などで)表現する自分と相手を意識する」ことなく自分の外に出てくるので、言葉よりも自然で、より近しく、楽に感じるのかもしれません。

としたら、言葉の場合は独り言になるのでしょうか…?
私の「相手に相槌をうたせずに話し続ける」は、考えてみると、そのような気がします。


カレンさん

エビの脱皮、私も見てみたいです。
昆虫の脱皮や羽化は、うまくいくかドキドキしながら見たことがあります。
彼らにとっては、命がけのことですね。

私の収集物、見て戴きたいです(^^)
拾い集めた色々のものと、趣味で集めている鉱石(購入品です)があります。

残念なことに、今、メインPCが故障中で、写真が載せられなくなってしまいました。
今は古いPCに現場復帰をしてもらっています。
PCが治って帰って来たら、写真をブログに載せますので、その時にお知らせします。
それまでに、写真を撮り貯めておきます。

diamondパンダ さま

初めてのコメントとなります。

はじめましてアスペルガールと申します。
とても参考になるブログに感謝です!!

随分と過去のものに返信してしまって申し訳ないなとおもいつつ、
私にとって驚きだったのでコメントさせて頂きました。

---以下引用-------------

>どんなカップルだって、結婚に至るには多かれ少なかれ「おつきあい」の期間があって、
>そこですでに多少は「あれ?」っと思うようなことがあったとしても、
>基本的には通じ合っていると思って
>(または通じ合わないという状態をまるで想像もできないまま)ゴールインするわけです。

-----------------------

これ、私、存じ上げませんでした。
皆さんって、こんな風な理由で相手を選んでいらしゃったんですね。

ルディ・シモンさんの本に、こんな一文があったくらいですから、
私は特に疑問も抱いていなかったのですが・・・。

『アスペルガー女性にはデートもなく結婚することが多々あります。』

そうだったんだぁって感じました。


他にも幾つかの記事にコメントさせて頂きますが、
パンダさんもお忙しいと思いますし、コメントバックはお気になさらずに~

アスペルガールさん

 はじめまして、どうぞよろしくお願いします。

 参考にしていただけてうれしいです。
 もちろん定型の私の目から見てそう感じる、
 ということを書いているだけですので、
 「そんなことないよ」とか
 おかしく感じられることもいろいろあるんじゃないかと思います。
 そういうところはまた教えていただけるとうれしいです。

 ではまたどうぞよろしくお願いします。

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