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アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年3月20日 (日)

改めて日常に向き合うこと

 昨日「日常」という言葉をキーワードにして記事を書いてみて、なにかこの言葉が意外と自分の中で大きな意味を持っているのかも知れない、という気がしました。

 前にも少し書きましたが、私自身、子どもの頃は家庭が(今思えば)大変なところでした。父親と母親の絶え間ない「戦争」の中にいて、それでもそれぞれの親からそれぞれ全く異なる形で愛情や承認は与えられ、子ども時代からずっと対人関係では苦労しながらも、前向きには生きてこられました。なぜならきっと、対人関係とは「戦争」なのだ、という感覚を骨の髄までしみこまされたからでしょう。だから対人関係の苦労もある意味では当然のことであり、そこで「戦う」自分は親には承認される自分であったわけで、その意味では苦労はあっても矛盾は無かったわけです。

 でも、母親のように境界性でもない自分が、そういう激しい生き方をするというのは、やはり無理を重ねることでもあります。「普通」の世の中との付き合いの中で、いろんなねじれが自分の中にたまっていく。だからきっと、無意識に「戦わない」人を求めていたのかも知れません。私のパートナーはその意味では徹底して「戦えない」人なのです。

 いや、「アスペ語」の特質として、定型の人間から見れば大変に「戦闘的」な言葉や、「挑発的」な言葉は繰り返し出てきます。そうすると、私は「戦場」で育った人間ですから、それに対抗して「戦闘モード」に自然に入ってしまう(もちろん暴力ではなく、言葉の闘いです)。ところがそうやってこちらが「戦闘モード」に入ると、パートナーは混乱し、そして「被害者モード」に入ってしまいます。そうされると私は「弱いものいじめ」というのが一番苦手な人間のようで、相手が「被害者モード」に入ってしまうと、逆に「罪悪感」を抱いてしまう。

 「宣戦布告」されたと思ったから、正々堂々と「戦おう」としたらいきなり「なぜ私をいじめるの?」という態度を示されてこちらが「加害者」になってしまい、そして訳も分からず「罪悪感」を持たされてしまう。ほんとに長い間、その得体の知れないダブルパンチのパターンの繰り返しだったのですね。(そういえばjoさんも同じような感じだと以前コメントされていましたね)

 カレンさんご夫妻や繭さんご夫妻は、激しい闘いの末に、お二人の関係が劇的に変わって行かれた。そのことを以前に「対等な勝負を可能にする条件」のところで少し考えてみました。そのお二組と比較して考えると、我が家の場合、そういう「対等な勝負」は多分いつまでも成立しないだろうという気がします。「戦わない姿勢」、それは私のパートナーが子どもの頃の経験から、徹底してそれこそ骨の髄までしみこませてきた人だからです。(定型的には「挑発的」に聞こえる言葉は、実は本人にとってはそういう意味を持っていないとしか考えられません)

 親に承認されて育った、という意味で精神的な「強者」のスタイルを身につけた私と、親からの承認を受けられずに精神的な「弱者」のスタイルを身につけたパートナーは、その意味で全く正反対なのですが、でもその正反対の位置から、実はともに「日常」というものを心の底で求める人間であったのかもしれない。そんなことをふと思うのです。

 もちろんその「日常」ということの具体的な内容にズレがあるために、お互いの関係がうまく行かなかったのだろうということは昨日も書きました。それはそれとして、でもやはり「日常」を求めるというところでは、すれ違いながら重なっていたのではないだろうか、そんな気がするのです。

 今の日本の社会も、今回の震災や事故というまれに見る「非日常」に叩き込まれ、これから一体どうやって「日常」を作り直していけるのか、ということが巨大な問題になっています。それは別になんだか大きな「社会の問題」というわけではなくて、それこそ「放射能に汚染された水道水をどうしたらいいの?」「福島原発の方から風が吹いてくるときはどうしたらいいの?」「子どもに母乳をあげても大丈夫なの?」「ガソリンをどうやって手に入れたらいいの?」というような、ほんとに日々の行動に関わるレベルの、個人的な問題でもあります。

 というか、そういう個人的な問題がものすごく寄り集まって、複雑に絡まり合って、そして「社会の大きな問題」になっているわけですよね。そういう意味でも、問題は「日常」ということにあるような気がするのです。

 電気を沢山使うようになって、原発がどんどん作られる。石油を沢山使って温暖化が進むからと言って、また原発が沢山作られる。そんな「日常」を私たちが生きてきて、その結果として、少なからぬ人が予測し、また警告していたように地震国日本で原発大事故が起こった。どの程度の規模になるかはまだわかりませんが、多かれ少なかれ放射能汚染を含む、その負の遺産を抱え込みながら、私たちはまた新しい「日常」を作っていかなければならない状況におかれています。

 なんだか、我が家にとっても、世の中にとっても、いろんな意味で改めて「日常」に向き合い、どうやってその「日常」をみんなで共有していけるのか、ということが大きな意味を持ってきているのかなと、そんなことを感じ始めています。

 

 

 

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