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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年3月

2011年3月26日 (土)

善意と悪意、思いと結果

 KSさんがコメント

「「悪意をもって」夫と同じような言い方でメールしてみたら、話がすぅすぅ通ってビックリ! 夫の言い方があまりにも「上から目線」で腹立ったので、「だったらこっちも同じ言い方してやる!」と夫の言い方をマネしてみたんです。そしたら、腹を立てるどころか、なんか嬉々とした感じで頼んだことやってくれてるのです。ちょっととまどってます。」

と教えてくださいました。いや、こう言うと申し訳ないけど、でもほんとに面白いですね!

 以前、「つらいときどうして欲しいのか」で書いたのは、「相手が望むやり方をすると、こちらが悪いことをしているような気になってしまう」し「相手が望んでいるやり方でやられると、こちらは悪意を感じてしまう」というようなことを書きましたけれど、なんかそのちょうど裏版というか、理屈にはあってますよね (^ ^;)ゞ

 もちろんなんでもかんでもこちらが「悪意」でやれば向こうは「善意」で受け止める、ということはあり得ないわけですけれど、まあ「自分としては悪意になってしまう」んだけど、「向こうのやり方に合わせる」という方法でしょうか。

 これ、やっぱり異文化間のコミュニケーションでも時々そういう場面に出会う気がします。

 KSさんの場合は以前はたしか自分の意見や要求が、ものすごく簡単な内容のものであっても「理解されない」というふうなことを訴えられていたように思いますけれど、今回教えてくださったことから考えると、「理解されない」ということのほかに、「理解したとしても行動に移せない」という問題があるのかもしれない。

 小さな子どもが言葉を学んでいくときに、自分に対して自分で命令するような、そんな言葉遣いをすることがあることに気づきます。まあ、大人でも「よし、これをこういう風にやるんだぞ!落ち着いてやれよ!」とか自分に言い聞かせたりすることがありますけど、そういうのがもっとはっきりとしている感じかな。

 で、KSさんの夫さんももしかすれば、自分の行動をすべて「命令調(上から目線)」でコントロールしている人なのかも知れないという可能性を感じました。だから他人に対しても同じようなコミュニケーションが中心になる。で、「お願い調」で言われるとコントロールができないのかもしれない。

 いや、もちろんちょっとしたエピソードからの勝手な推理に過ぎませんけれど、そういうタイプの人ももしかしたらあるのかも知れませんね。

 善意と悪意、何が善意で何が悪意なのか、ということを「当人の気持ち」で考える場合と「相手の受け取り方」で考える場合にズレがあって、「思い」で考える場合と「結果」で判断する場合にもズレがある。ほんとに難しいです。でもちょっと考えると面白くもある……

2011年3月23日 (水)

すれ違う「自己評価」

 昔、心理学の本で、「自己評価」とか「自尊心」とかに関係する話を読んだことがあります。その中に「自己評価維持モデル」というのがあって、結構おもしろくてよく覚えています。

 まず、人間ていうのは、「自分に価値がない」と思うのは辛いですよね。これは「自己評価が低い」という状態になります。逆に「自分って結構いけてるじゃない!」とか思えると、身体も心もうきうき元気になる。免疫力だって高まるかも知れません。だから、人間の心の仕組みで、できるだけ自己評価を下げず、あげるような工夫をいろいろやるんだ、という話です。

 じゃあ何によって自己評価って決まるのか?と考えてみると、たとえば何かに成功したとき、「やった!」と思って自己評価は上がります。逆に失敗すると自己評価は下がる。まあ、この辺はわかりやすいと思います。今のシーズンなら、受験に失敗して「しょぼーん」としている状態は、自己評価が下がってる状態で、見事志望校合格!となれば自己評価が上がる。

 そうすると、素朴に考えれば、「失敗しないように沢山勉強する」ことによって自己評価を上げればいい、ということになりそうですが、実はそれにはちょっとまずいことがあります。というのは、「沢山勉強したのに失敗した」ということになると、「俺ってなんて馬鹿なんだ!」とその落ち込みはひどくなってしまい、つまり自己評価がものすごく下がってしまう危険があるんです。ところが仮に成功したとしても「まああれだけやれば当然だわ」となって、それほど自己評価が上がらない。

 そうすると逆に「勉強しない」というのが結構良い方法だったりするんです。なぜかというと、もし勉強しなくて失敗しても「まあ、勉強しなかったしな、当然だよな。(=でも勉強すれば俺だって)」という風に思うことで、ショックを最低限にすることができる。逆に成功したら「勉強もしないで合格しちゃった俺って天才!」とか思ってものすごく自己評価が上がる。どっちに転んでも傷は小さく済むか、大きいものを得られるというある意味でとっても「カシコイ」やりかたなのです。ずるいですけどね。(もちろんそんなことばかりしていたら、実力は伸びませんから、長い目で見れば駄目なんですけど、ま、人間目先のことが「大事」ですから (^ ^;)ゞ)

 この成功とか失敗とかは、多くの場合「競争」がからんでいます。受験競争ももちろんそうですし、スポーツ競技もそうですね。で、勝った者はみんなから賞賛されて自己評価が上がる。負けたら下がる。つまり「他人と比べてみて、自分の価値を判断する」ということを人間はよくやるというわけです。

 そうするとここでまたずるい方法で「自己評価を上げる」やり方が出てきます。それは「自分よりちょっと弱い人と自分を比べる」とか、「下と比べる」という方法です。たとえばテニスとかをやるときに、自分よりちょっと弱い人とやって勝利する。「ちょっと弱い」というのは、あんまり実力に差がありすぎると、勝っても嬉しくないからです。大人が小学生と試合して勝っても、普通はそれで自己評価は上がりませんからね。

 なにか落ち込むようなことがあったときに「でも自分よりももっと悲惨な人がいる」というふうに思うこと、これも同じようなやりかたということになります。「あの人よりは自分はまだましだ」と考えることで、自己評価を守ろうとしているわけです。このあたりも努力しないで自己評価を守ったり、あげたりしようとする方法の一つですね。

 でも、もっと楽ちんなやり方があります。それは「他の人の高い評価のお裾分けをただでもらっちゃう」というやり方です。たとえば、もしみなさんの知り合いに有名人とかいたら、「実は○○とは親しくてね」とか、ついつい人に言いたくならないでしょうか?先祖に歴史的な有名人とかがいても「家の家系はね、先祖に○○がいてね」とか言ったり。さらには「私の高校のうんと先輩にあの○○がいるんだよ」とか、自分には全然面識がないけど、なんか「同じ学校の出身」というだけで自慢したくなったりする。

 そうすると面白いもので、それを聞いた相手も「え?ほんと!すごいじゃん」とか、場合によってはその相手も興奮し出したりする。そのときに「すごい」と言われるのはその有名人とつながってる人な訳です。ところが冷静に考えれば、その人自身が有名人な訳でも何でもない。それなのにその人の「株が上がる」わけです。

 つまりこれが「他の人の高い評価のお裾分けをただでもらう」ことで自己評価を上げる、という方法な訳です。栄光浴とか、変な名前がついていましたけど。人の栄光を浴びると言うことでしょう。人が有名人とお近づきになりたがるのもそういうことで説明されるわけですね。

 で、自己評価維持モデル、というのは、そんないろんな方法を人間がどんな風に組み合わせて使うのか、ということを説明するための理論なんですけど、ま、そこはめんどくさいので省きます (^ ^;)ゞ


 さて、これからがようやく本題なんですが(前置き長くて済みません m(_ _)m)、私個人の経験です。定型の私は、自分に何か嬉しいことがあったりすると(まあだいたい自己評価も高まっています)、それをやっぱりパートナーに話したくなるんですね。仕事がうまく行って評価されたとかでも良いし、自分がそれまでできなくて苦労していたことができるようになった(能力が上がった)、とかでもいいし。で、「よかったね!」と一緒に喜んで欲しいわけです。いや、そんなこと考える前にまず言ってしまう。

 ところがこれが転けるんですね。「あ、そうなの」とか「ふーん」とかで終わってしまう。冷たい風がすーっと当たりを吹き抜けていきます。あれ?なんで喜んでくれないんだろう?といぶかり、なんだか自分が一人で自慢話をたらたらしているつまんない人間にさえ思えてきたりする。あるいは「この人にとって僕の喜びなんて関係ないんだろうか。僕の事なんてどうでもいいんだろうか」と思えてきて落ち込んでいく。

 なんでそうなってしまうのか、相手を「冷たい人間だ」と理解することくらいしかできなくて、ずっとしんどかったんですね。それが昨日くらい、ふと気がついたんです。あ、これ自己評価の栄光浴の話だ、と。

 つまり、定型の私は、自分が成功したり誉められたりした、というのは自己評価が高まっている状態ですから、それをパートナーにもお裾分けして、一緒に自己評価を高めたいわけです。言ってみれば「こんな人と一緒でうれしい!」という感じを持ってもらって、絆を深めたいわけです(今思えば、ですが)。だから別に自慢でも何でもなくて、喜びを共有し、一緒に自己評価を高め、絆を深めようとする。ところがその思惑が全く外れるわけですね。つまり定型的に言えば「あんたとの絆なんて存在しないんだよ」と言われているに均しいことになります。

 ところが、ここでアスペ的な視点にちょっと切り替えて考えてみました。そうすると、成功したのは私であって、パートナーではないんですから、それはパートナーの問題ではなくて、あくまで私の問題なのです。だから、もちろん私が嬉しがっている、ということについては、それを「困ったことだ」とも思わないでしょうし、まあよかったね、位には思うでしょう。でもそれがパートナー自身の喜びになるわけではない。なぜなら、そのことで別に自分の価値が上がるとは感じないからです。つまり「栄光浴」という感覚がないか、とても薄いのではないか。

 それで今日パートナーに聞いてみました。やっぱりそうでした。上に書いたような「知り合いに有名人がいる」と言って自慢する人の気持ちが理解できないし、それで自分の評価を上げようとするなんて言うのは、言ってみれば人を利用すること何じゃないか。とてもいやらしいことではないか。そんなようなことを彼女は言うわけです。

 それで今まで積み重ねてきたズレがすごく分かった気がしたんです。私は自己評価の低さにしんどそうなパートナーに対して、自分がなにかうまく行ったときに、「栄光浴」でその評価を少しでも高めてあげたいと無意識に思っていた。ところがパートナーにしてみればそれは低い自己評価の自分と、さらに自己評価を高めた私との距離がますます開いてしまうことを意味してしまうのです。これでは全く逆効果で、喜ぶどころか、しんどそうに聞いているということの理由も分かる気がしたのですね。

 ま、これは「共感が成り立たない」という話の一部になると思うんですが、なんで共感が成り立たないのか、ということを自己評価に絡んで「栄光浴」みたいな、定型的な心の動きについて説明する言葉で整理してみると、この場合はとてもよく分かる感じがした、ということになります。ちょっとした発見でした。

 この話、どの程度他のアスペの方にも通用するのかはかなり興味があります。うんと俗っぽい例で言えば、たとえば「亭主が出世して(あるいは神さんが何かで高い評価を受けて)、自分も鼻が高い」みたいな感覚って、アスペの方にどの程度あるのかないのか。アスペの人の自己評価を高める方法ってどういうものなのか。そのあたりのことですね。

 

2011年3月21日 (月)

適度な距離

 今日は関東の方は雨模様みたいで、この雨でまた空中を漂う放射能が地面に落ちてくるでしょう。それが水源地の山々にしみこんで、やがて一定の時間すると川となって集まって、わずかながらも今も検出され、値が上昇し始めている水道水の放射能はさらに上昇する可能性があるし、またある程度の期間そういう状態が続くのでしょう。農作物への被害もより広範囲になっていくことだろうと思います。

 もっと悲惨な展開になって、みんな西へと避難、という悲劇にならない限りは、とにかく今はもう、そういう状態に「上手に慣れる」しかないわけで、「健康のために放射能のとりすぎに注意しましょう」みたいな生活を心がけるしかない。みんながちょっとずつでも被曝線量を減らせば、それだけ将来ガンになる人の数が確実に減るわけですから、そんなちょっとした心がけがとても大事だと思います。

 でも、外を見ると、その雨の中、何の備えもなくて傘も差さずに雨に濡れながら歩いている人もいる。中学生くらいの女の子も見ました。なんか心が痛くなりました。一回雨に濡れたから、すぐにそれでどうこうなるというものでもないでしょうけれど、でもその繰り返しが小さな危険を少しずつ蓄積していくことになるのに、そんな警戒心が全くないんですよね。

 「社会を不安にさせないために」という「専門家」や「政治家」の「心遣い」がそんな状況を生んでいく。悲しいことです。

 私のパートナーはこういうとき律儀です。とにかく「こういう注意や心がけが必要」ということについては、ほんとに確実に実行していく。それはストレスフルなことではあるようなんだけど、でも面倒だからと放り出すことはない。それは普通の状態では「アスペ的な融通のなさ」と思えていたことなんですが、こういう状況ではある種の「頼もしさ」とも感じられます。やっぱりこの世の中、いろんなタイプの人がいて、初めて成り立つんですね。

 いや、もちろん相性のいいタイプ同士、悪いタイプ同士もあるわけだから、相性が悪いのに無理に一緒にいる必要はないでしょう。なんていうのか、多分人人によって、タイプの組み合わせによって、きっと「適度な距離」みたいのがあるんじゃないでしょうか。その距離をうまく見つけられればいいんですよね。もちろん「離婚」という距離の取り方も含めてのことですが。

 そうやって適度な距離をとることで、その距離でできるコミュニケーションというのがまたあるんだろうと思います。うーんと、考えてみればこれって当たり前のことで、この世の中、もともとそうやってできているわけですよね。「博愛」を目指す方だって、あらゆる人と同じ関係を、同じ距離で持てるわけではない。親しい人もいれば疎遠な人もいる。大好きな人もいれば大嫌いな人もいる。

 でも大好きな人とはすべてのコミュニケーションが可能だけれども、大嫌いな人とはすべてのコミュニケーションが不可能だ、ということはないでしょう。スーパーに買い物に行って、レジの人が大嫌いだとしても、そこで支払いをする、というコミュニケーションまで拒否するということはまあ普通はないですしね。

 そんないろんな形のコミュニケーションと、いろんな距離の取り方と、そういうことがなんとかバランスが取れるように、この世の中いろんな組み合わせができているんじゃないかなと思います。もちろんその時々でそれがうまく行かなくなって、いろんなトラブルが起こるわけだけど、そうやってトラブって、そのあと改めて距離を調整したり、コミュニケーションを調整したりするということをやるのが人間ですよね。

 もちろん、この世の中にはそういう適度な距離の調節とかコミュニケーションの調整を難しくしている原因もまたたくさんある訳なんだけど、やっぱり無理は続かないでしょう。ある範囲の我慢は時に必要だとしても、過度の我慢は自分を殺してしまうことにさえなりかねない。実際問題としては「過度」かどうかの境目の判断はなかなか迷いますけれど、でも探しつづければきっといつか見つかると思う。

 その組み合わせにとって一番心地よい距離と、一番生産的なコミュニケーションを探っていくこと。そこをどう工夫していくかが大きな問題なのかなと思いました。

 

2011年3月20日 (日)

改めて日常に向き合うこと

 昨日「日常」という言葉をキーワードにして記事を書いてみて、なにかこの言葉が意外と自分の中で大きな意味を持っているのかも知れない、という気がしました。

 前にも少し書きましたが、私自身、子どもの頃は家庭が(今思えば)大変なところでした。父親と母親の絶え間ない「戦争」の中にいて、それでもそれぞれの親からそれぞれ全く異なる形で愛情や承認は与えられ、子ども時代からずっと対人関係では苦労しながらも、前向きには生きてこられました。なぜならきっと、対人関係とは「戦争」なのだ、という感覚を骨の髄までしみこまされたからでしょう。だから対人関係の苦労もある意味では当然のことであり、そこで「戦う」自分は親には承認される自分であったわけで、その意味では苦労はあっても矛盾は無かったわけです。

 でも、母親のように境界性でもない自分が、そういう激しい生き方をするというのは、やはり無理を重ねることでもあります。「普通」の世の中との付き合いの中で、いろんなねじれが自分の中にたまっていく。だからきっと、無意識に「戦わない」人を求めていたのかも知れません。私のパートナーはその意味では徹底して「戦えない」人なのです。

 いや、「アスペ語」の特質として、定型の人間から見れば大変に「戦闘的」な言葉や、「挑発的」な言葉は繰り返し出てきます。そうすると、私は「戦場」で育った人間ですから、それに対抗して「戦闘モード」に自然に入ってしまう(もちろん暴力ではなく、言葉の闘いです)。ところがそうやってこちらが「戦闘モード」に入ると、パートナーは混乱し、そして「被害者モード」に入ってしまいます。そうされると私は「弱いものいじめ」というのが一番苦手な人間のようで、相手が「被害者モード」に入ってしまうと、逆に「罪悪感」を抱いてしまう。

 「宣戦布告」されたと思ったから、正々堂々と「戦おう」としたらいきなり「なぜ私をいじめるの?」という態度を示されてこちらが「加害者」になってしまい、そして訳も分からず「罪悪感」を持たされてしまう。ほんとに長い間、その得体の知れないダブルパンチのパターンの繰り返しだったのですね。(そういえばjoさんも同じような感じだと以前コメントされていましたね)

 カレンさんご夫妻や繭さんご夫妻は、激しい闘いの末に、お二人の関係が劇的に変わって行かれた。そのことを以前に「対等な勝負を可能にする条件」のところで少し考えてみました。そのお二組と比較して考えると、我が家の場合、そういう「対等な勝負」は多分いつまでも成立しないだろうという気がします。「戦わない姿勢」、それは私のパートナーが子どもの頃の経験から、徹底してそれこそ骨の髄までしみこませてきた人だからです。(定型的には「挑発的」に聞こえる言葉は、実は本人にとってはそういう意味を持っていないとしか考えられません)

 親に承認されて育った、という意味で精神的な「強者」のスタイルを身につけた私と、親からの承認を受けられずに精神的な「弱者」のスタイルを身につけたパートナーは、その意味で全く正反対なのですが、でもその正反対の位置から、実はともに「日常」というものを心の底で求める人間であったのかもしれない。そんなことをふと思うのです。

 もちろんその「日常」ということの具体的な内容にズレがあるために、お互いの関係がうまく行かなかったのだろうということは昨日も書きました。それはそれとして、でもやはり「日常」を求めるというところでは、すれ違いながら重なっていたのではないだろうか、そんな気がするのです。

 今の日本の社会も、今回の震災や事故というまれに見る「非日常」に叩き込まれ、これから一体どうやって「日常」を作り直していけるのか、ということが巨大な問題になっています。それは別になんだか大きな「社会の問題」というわけではなくて、それこそ「放射能に汚染された水道水をどうしたらいいの?」「福島原発の方から風が吹いてくるときはどうしたらいいの?」「子どもに母乳をあげても大丈夫なの?」「ガソリンをどうやって手に入れたらいいの?」というような、ほんとに日々の行動に関わるレベルの、個人的な問題でもあります。

 というか、そういう個人的な問題がものすごく寄り集まって、複雑に絡まり合って、そして「社会の大きな問題」になっているわけですよね。そういう意味でも、問題は「日常」ということにあるような気がするのです。

 電気を沢山使うようになって、原発がどんどん作られる。石油を沢山使って温暖化が進むからと言って、また原発が沢山作られる。そんな「日常」を私たちが生きてきて、その結果として、少なからぬ人が予測し、また警告していたように地震国日本で原発大事故が起こった。どの程度の規模になるかはまだわかりませんが、多かれ少なかれ放射能汚染を含む、その負の遺産を抱え込みながら、私たちはまた新しい「日常」を作っていかなければならない状況におかれています。

 なんだか、我が家にとっても、世の中にとっても、いろんな意味で改めて「日常」に向き合い、どうやってその「日常」をみんなで共有していけるのか、ということが大きな意味を持ってきているのかなと、そんなことを感じ始めています。

 

 

 

2011年3月19日 (土)

日常ということの大切さ

 戦後最大の、未曾有の事態の中で、かろうじて生き延びられた被災地の方も、その「日常」は大きく破壊されてしまっていますよね。それはものすごいストレスになる事態です。私は津波の被災地にも、原発の避難地域にも住んでいなかったけれども、そういう人だって、どうなるか先がみえない原発の状況や、これからの被災地復興、日本社会の経済の先行きのことなどを考えると、ものすごくストレスの大きい日々であることは同じです。

 「日常」を失うことの大変さ、そのことを「日常」を失って始めて気づくわけですし、そこで改めて「日常」の大切さに気づくことになる。

 で、日常ってなんだろう?っていえば、まあ簡単に言えば「いつも通り」ということになります。いつものように朝起きて、いつものような朝食をたべて、いつものようにバスに乗って、電車に乗って、会社に行って……。そういう「パターン」の繰り返しです。

 その「パターン」が通用しなくなると、ほんとにしんどくなる。パニックにもなる。


 これって、そういう言葉で表すと、普段アスペルガーの方が周囲から言われていることと同じになりますよね。「同じパターンにこだわる」「融通が利かない」とか。

 もちろん、「程度の差が大きな問題だ」という話があるわけでしょうし、まあそれもそうなのだとは思うけれど、でも、「パターンを崩されるとしんどい」という、そこまで一般化した言い方にしてしまうと、「どっちもどっち」「五十歩百歩」と言えなくもない。

 今、子どもがサティーのピアノ曲を流しているんですけど、なんかほっとする。「日常」がちょっと取り戻される感じがして。そしてこれを書いているのもまた日常を取り戻すということの一つでしょう。

 福祉関係の仕事をしている私のパートナーは、何でその仕事をやるのかについて、困難な状況の中で日常生活が難しくなっている人に、日常を少しでも取り戻してあげたいのだ、というような話をしてくれたことがあります。

 もちろん家族として一緒に暮らしていて、お互いの「日常」には大きなズレがあるのは事実です。だからこそほんとにしんどいことにもなる。そのズレが「アスペと定型」というズレの問題だと理解するまでは、私はなぜパートナーが私の生活をそういう彼女の「型」にはめようとするのか、と不思議でしかたがなかったし、またそのことが非常に傲慢な姿勢に感じられ、反発もし続けてきました。

 今も時折そういう思いは持ちながらも、それは「日常」ということの意味のズレなんだ、そんな風にも考えられるようになってきた気がします。

 そしてこういう大変な事態の中でも、やっぱり「日常」を失わずに生きている。繭さんがコメントで書かれていた地震後の過ごし方とも通じる感じがします。

2011年3月17日 (木)

危機状況とアスペルガー

久しぶりに本来の記事を書きます。

改めてみなさん、震災大丈夫でしたでしょうか?

これから放射能汚染との長い闘いの日々になると思いますが、アスペと定型の問題で鍛えられ、たくましくなったみなさんはきっと力強く乗り切って行かれるのでしょうね。

今回、危機的な状況の中で、改めてパートナーの行動をみていてとても納得したことがありました。それはアスペの人(の少なくとも一部)は「危機の中でものすごく冷静に必要な対処を行う」ということです。

私は危機状態になったとき、しばらくじっと考える傾向があります。その間に感情も高まり、次の行動への準備が行われているみたいな感じですが、とにかく少なくとも外目には(そしてもしかすると本当に)ボーッとしているように見えるかも知れません。

それにたいしてパートナーは地震直後に、さっさと荷物をまとめ、職場を早引けし(「隣のビルが地震で倒れそうだと前から思ってたし」と言い、「お先に失礼します」とさっさと帰ってきたそうで、あとから「ちょっと薄情だったかな」と子どもに言っていたそうです)、当面必要な物資を買って帰ってきて、即座に子どもたちに「水の確保」を命じていました。それらが一段落した後、福祉関係の仕事をしているので、担当しているご家庭を一通り見回りに出て行きました。

そういえばこれまでもそうだったなあと思うのですが、これはとても大きな「生き抜く力」ですよね。定型が危機状態で情緒的に混乱して身動きができなくなっているときに、極めて冷静に必要な行動を淡々とこなしていける。

これまで人間は沢山の災害や戦争など、困難な状況を生き抜いてきたわけですが、そのときにアスペルガーの人たちはある重要な役割を果たしてきたのではないかと、そんなことを思いました。


ところで、家には二匹ネコがいるのですが、計画停電のため、子どもがサラダオイルをガラスのカップに入れて、丸めたティッシュを灯心にして針金で固定し、即席のランプを二つ作ってくれました。これが下手なろうそくより結構明るいし、持ちが良いんです。

で、朝、その残り油をネコが舐めていました (^ ^;)ゞ
夜中に(ではないけど)油をなめるという化けネコの話、本当だったんですね~ 

2011年3月11日 (金)

連動する人間関係の変化

 カレンさんが紹介されている、カレンの夫さんの「繭さんのコメントによると、定型の人相手には少し、"しつこい感じ"でやってみるといいらしい」という解釈には爆笑でしたが(カレンの夫さん、失礼しました (^ ^;)ゞ)、 でもこれが一種の「定型語とアスペ語の翻訳」なんでしょうね。こんな風に定型とアスペの人がお互いにコメントし合いながらやりとりをしていくことで、そういう「翻訳」の工夫も少しずつ積み重なっていくのだと思います。

 あまり面白かったので、子どもにその話をしたら、「カレンの夫さんは<ね>を、強調の<ね>と受け取ったのかもね」と言ってから、「だとすれば、文法も(定型とアスペでは)違うのかも。だとすれば面白いね」と言っていました。たしかに感情の動きについての理解の仕方とか、感情のやりとりの仕方についての理解の仕方とか、定型とアスペでズレがいろいろあると思うので、それに応じて言葉の表現の仕方も違いが出てくるし、そこには「文法」みたいな、理解と表現の骨組みのような部分にまで影響するところがあるのかもしれません。もしそれがほんとにそうで、そういうことをちゃんと整理することができたら、結構「大発見!」ですね。

 今日はこれから家族でものすごく久しぶりに私の実家に行きます。前にも少し書きましたが、境界例の母親とアスペのパートナー(嫁)という、とても困難な関係があって(その困難さをそういう風に理解できたのはほんとに最近ですけれど)、親には申し訳なかったけれど、とにかく私としては自分の子どもや家庭を優先せざるを得なかったので、両者の障壁のような役割をし続けてきました。それで親とは疎遠にならざるを得ず、それもまた大変だったんですが、ここに来てそのあたりの関係もぐっと変わり始めたようです。ほんとにいろんなことが連動しているんだなと実感します。

 あ、今日はここで書きたいことがとりあえず終わってしまいました! ま、いいか。
 じゃ、本日は最短記事ということで、失礼いたします m(_ _)m

 

2011年3月 9日 (水)

「ね」の重み

 カレンさんがコメントでアスペと定型の違いについて、こんな風に書かれています。

*****************************
趣味とか関心とかだけでは、アスペルガーと定型の違いを云々いうことは全くできないのだと思います。私の思う決定的な違いは、例えば、上に書いたような趣味・関心について人に話すとき、
・アスペルガーの人は、「これ、楽しい」と、自分の気持ちや感覚を表現する
・定型の人は「これ、楽しいね」と、自分の気持ちや感覚を表現すると同時に、相手に共感を求める
ということなんですよね。
*****************************

 ある意味ほんとに面白いなあと思うのは、「ね」という一文字があるかないか、言葉にすればたったそれだけの違いと言うことですよね。でもこの「ね」の一文字が持つ重みってどれほどのことだろうと思うわけです。まあ、実際にはその言葉を言うときの顔の向け方とか、表情とか、言葉の調子とか、そういうものも加わってのことではあるわけですけれど、それらも含めて「ね」の一文字に象徴的にお互いのズレが現れているということになります。

 なんか、ちょっと馬鹿みたいな事を考えてみたんですが、たとえば私のパートナーに、「言葉の最後に<ね>をつけてね!」とお願いするとどうなるんだろう、とか。まあ、機械的に付け加えてくれることはできるのかも知れないけど、その場合こちらとしてはなんか共感的な関係ができたような感じがしてうれしくなるんだろうか?それとも「なんか変」とか、かえって不自然でおかしな感じになってしまうんだろうか?

 思い返してみると、私は文章の中に結構「よね」とか「ですね」とか「ね」系の言葉を使うんですね(←ほら、やっぱり!)。で、読み返してみると、「ね」ばっかりで目障りな感じがしてカットすることが少なくありません。それって自分の文章の内容に同意を求める(共感を求める)とか、同意するのが当たり前だよね(←また!)、みたいな感じがあるから、あまり多いと文章が押しつけがましいものになってしまうんですね(←!)。

 で、考えてみると、やっぱり自分が文章を書くときには、基本的に読む人の共感を求めてるんだろうなと思うわけです。だからできるだけわかりやすい文章を書きたいと思ったりもするし(なかなか難しいですが)、できるだけいろんな立場の人からの見方につながるようなものへと自分の考えを深めようとしたり、そういうことを意識的にも無意識的にも心がけているように思います。

 もちろん、自分の書いているものについて、なんでも賛成してちょうだいね、というつもりは全然無くて、「それはこういうところがおかしいんじゃないか」とか、「こういうところがたりないんじゃないだろうか」とか、「そういうことよりもっとこういうことが大事なんじゃないだろうか」とか、そういう反論が真剣に寄せられることは嬉しいし(もちろんたんなるいちゃ文付けとか、揚げ足取りとか、そういう「相手を馬鹿にするだけ」みたいなのは嫌いですが)、「その話からこんな事をさらに考えた」とか、自分の書いたことが刺激になって新しいものが読み手の人に生まれてくれるのはもっと嬉しい。

 そういうこともふくめて、対話的な世界が拡がっていくこと、というちょっと広い意味で今「共感」をイメージしようとしています。まあ、あまり言葉の意味を勝手に広げてしまうのも良くないのかも知れませんけれど、もしそういうのがあまり無理のないことだとすれば、たとえば「やっぱり豊かな個性を見ないと……」へのコメントのやりとりの中では、一種の「共感」的な関係が成り立っていると言えなくもない感じがします。

 うーんと、そうすると、この「共感」は「ね」が必要でない共感と言うことなのかな?(←あ、今度は<ね>じゃなくて<な>だ!)

 本日の結論: よく分かりません (^ ^;)ゞ
 

2011年3月 8日 (火)

「対等な勝負」を可能にする条件

 なんか今日はちょっと楽しい気分です。
 「やっぱり豊かな個性を見ないと……」にお寄せいただいたみなさんのコメント・議論がなんだかとても豊かなものに感じられて。ついにカレンさんから繭さんへの「愛の告白」もありましたしね。ということは私は仲人でしょうか?お二人の末永いお幸せをお祈り申し上げます m(_ _)m ……にしても、カレンさんはやっぱりアスペの人がタイプなんですね、きっと (^_^)v

 ま、冗談(?)はさておき、チロさんのコメントにある

 「私はこれまで、コミュニケーションについて他人の感情を創造したり立場を置き換えて考える能力の問題だと考えてたけど、意志とか志向の問題でもありますね。」

 というところ、「そうそう!そうなんだよなあ!」と、なんかかゆいところに手が届くというか、「我が意を得たり」というか、そんな気がしました。(ところで「他人の感情を創造したり」は「他人の感情を想像したり」ですよね?)

 アスペの人にはアスペの人なりに、他人の感情を想像したりすることはされるわけですよね。ただ、その想像の仕方が定型のそれとずれちゃうことが多いから、周囲から「お前は人の気持ちが分からない」と言われ続けたりすれば、だんだん「私は他者の感情を理解する能力はないのだ」と本人も思うかも知れないし、周囲もそう思うわけでしょうけれど。

 そうすると、本人にも苦手意識が生じたりすれば、自然と他者の感情を理解しようとする気持ちも薄らいでいくだろうし、そうなればますます「定型的他者感情理解のテクニック」みたいなものが(元々難しいところに加えてさらに)難しくなってしまうという、悪循環みたいにもなるでしょう。

 チロさんのお子さんが自分の感覚にちょっと自信を持てないような感じでチロさんに確認をしたくなったりするような、そういう展開は、きっとそのあたりの「定型的世界とのズレ」を感じ始めて不安になり始めたところがあるのかもしれないと思いました。だから、チロさんがそういうところを大事に対応されようとしていることは、上のような「悪循環」を避けるためにもとても大きな意味を持つように思います。

 で、一般的には日本の社会では女の子はとりわけ「人の気持ちが理解できる」ということを強烈に求められたりしますから、その理解の仕方にズレがあったりすると、少数派であるアスペの女性はどんどんしんどい状況に追い込まれていく可能性がある。それに対して男性の方は「口べた」というのはむしろ「男らしい」と思われたりもするし、私のように「無口」な人間は「信頼できる」とか「クールだ」とか思われる (あ、アスペの方、最後のとこ、冗談です……念のため(^ ^;)ゞ)。

 ということで、特に男性の場合は比較的アスペ的な性格であることについて、決定的なダメージを周囲から与えられることなく、学力の高い方だったりすれば、家庭環境によってはむしろ肯定的な自己イメージを持って成長し、社会に出られる可能性も出てきますよね。

 で、社会に出ればそれなりにまた困難にも出会うけれど、職種などによってはそれは決定的に深刻な事態には至らずに回避され、それなりの社会的地位を獲得され、自分の生き方に自信を持てる状況を与えられたりすることもある。(ただし、潜在的には周囲とうまくいかない経験が積み重なるので、多分どこか不安に思われることも続くのではないかと想像しますけれど)これもまた男性の方がそうなりやすそうな気がします。

 そうなると、仮に定型のパートナーの方との間で問題が生じたとしても、「自分のやり方を考え直してみる」といいうふうにはなりにくいのではないかと想像します。それには二つ理由があって、ひとつはそれまでの経験から、自分の生き方は基本的に肯定されていて、そこになにか問題になることがあるとは思いにくいこと。もう一つはアスペルガー的な性格として自分のやり方には断固としてこだわる、という傾向があることです。

 うーんと、そう考えてくると面白いことを思い出します。というのは、アスペと定型のカップルで、その「違い」をお互いに認めて、その上で改めて関係を作り直してこられているカレン夫妻と繭夫妻のお話しでは、どちらも共通してアスペの側の方(カレンの夫さんと繭さん)がそのパートナーの方について「最強の敵(相手)」とか「手強い相手」みたいな表現をされているということです。つまり、「アスペルガー的に自分の世界の理屈でおさまる」ことをどうしても許さないで、ある意味「対等な勝負」を常に挑んでこられるという過程がそこにあったわけですよね。

 で、そういうのが可能な状況ってどういうのだろうと考えてみると、まずは定型の側の方がそういう「ど根性」というか、「しつこさ」というか (^ ^;)ゞ、「必死な思い」というか、そういうものをかなり強く持っている方だと言うこと。それからアスペの側の方がそういう相手に対して、馬鹿にしたり避けたりしないで、ちゃんと「対等な勝負」をしようとされる方であること。そして周囲の環境として、そういう「対等な勝負」を認める状況があること(つまり、たとえばアスペの夫について、その実家の人が一方的に加勢して、「悪いのは全部嫁だ」みたいな形になってしまうとそれは無理になる)。まだあるかもしれませんが、とりあえずそんなことが思いつきます。

 そういう「有利」な状況があっても、お互いのズレを認識してそこを共に乗り越えようとする努力に至るまでには、文字どおり命がけの葛藤を経過したりするわけですから、それらの条件のどれかが欠けたりすると、その困難さはさらに想像を超えるようなものになるかもしれません。それこそ「スーパーマン(ウーマン)」でもない限り、そりゃあ無理だよ、という風になるのかも知れない。

 でも、逆にこうやって何がそれを乗り越えるのに有利な条件なのか、ということがさらに分かってくれば、そのための何らかの新しい工夫が切り開かれてくる可能性もありますね。

 あ、もちろん、それだって大変な努力がいるわけだから、そういう努力をしてでも「この人と関係を続けたい」といいう思いがどっかに続かないと無理でしょうけどね。それはもう相手との相性とか、ご縁の問題という気がします。

  

2011年3月 4日 (金)

やっぱり豊かな個性を見ないと……

 「気持ちの共有と共感の微妙な関係」にカレンさんと繭さんという、定型とアスペの二大巨頭(?)から寄せていただいたコメントを拝見していて、そこで語られていることの大切さ、面白さ、そして語られている問題の難しさにちょっとめまいがするくらいの感じがしました (^ ^;)ゞ

 ブログというシステムの限界ですが、もう私が記事を書くよりも、ここでお二人に順番に記事を書いていただいたいて、私もちょっとお相伴させていただく、という感じにしたらすごく面白い展開になりそうな気がします。というか、システム的にそれは無理なので、皆さんの方でこのブログは「コメントが中心で、記事はそのおまけ」という感じで見ていただくといいのかも…… (^_^)


 カレンさんの「私自身が、「私は私でこう思う・感じる」ということが多くなりました。たとえ、それが、夫やその他の人から共感されてもされなくてもべつにかまわない、という感じで。」という風になる変化、これはすごいですね。カレンさんの言われる新緑体験が転換点だったみたいですが、ひたすらカレン夫さんに共感を求め続けてきたカレンさんが、それを求めなくてもいられる自分にバージョンアップ(?)された。でもそれは「カレン夫さんを精神的に切り捨てる」ということとは全然違う結果を生んでいるんですね。ある意味「共感を求めない」という世界を「共有した」とでも言えるような、そんな境地に到達したような……・

 私なんかは今でもやっぱり「共感」を求めたくて仕方ないですものね。だから、「共感」という言葉の意味を、もっと広く理解することで、定型とアスペの間のある意味で新しい、あるいは言い換えればもっと柔軟な「共感」の形を探そうとしているんだと思います。そのあたり、カレンさんはなんかもうすっと抜けて次に進んじゃっている感じもする。

 「エビとの対話」のことについても、前にも少し書いたことがありますが、やっぱりフランクルの「夜と霧」という、ナチスの絶滅収容所を体験したユダヤ人精神分析医の本に紹介されている「樹と対話する女性」の話につながる感じがする。その女性は自分が近く殺されることを予知しているわけで、誰も自分を助けてくれないことを知っているし、誰かと対話したって自分の命が支えられるわけではない。そういう状況で「樹と対話」することで、命の永遠を確信するんです。なんかすごい話ですよね。

 まあ、だからといって私はカレンさんのような才能は持たないし、違う個性の人間ですから、自分のやり方でうじうじやるしかないわけですし、それで悪いとも思わないけど、それにしてもやっぱりすごいなあと思います。

 それでもうひとつ面白いのが、そういう「樹と対話」みたいな深いレベルでの対話的関係をエビと持つような(なんかここの文章だけ読むと、何書いてるんだろう?ちょっとおかしいんじゃない?とか思われそうですが (^ ^;)ゞ)、そういうカレンさんの世界がそのままカレン夫さんと共有されている、ということとも違うという話です。実際カレンさんは「エビを熱心に覗き込んだり植物の世話をしたりする私の姿、夫からは意味不明の行為に見えるようですが・・・笑」と書かれていますしね。やっぱりそのカレンさんの姿勢は、定型的にアスペの夫さんとの世界を共有するもの、というのか、定型の側からのひとつの乗り越え方なんでしょう。

 逆に言えばアスペの側からはどんな形での定型の世界への接近法があるんだろう?というのも新たに興味が出てきます。

 
 それで、繭さんのコメントなんですが、まず非常に素朴な第一印象として、わあ!なんだこのものすごい自己分析力は!という驚きでした。ちょっと頭がぶっ飛びそうに思ったくらい。定型の人間にだって、これだけの自己分析をできる人がどれだけいるでしょう?

 ……という風に自分が驚くと言うことは、逆に言えば「アスペの人は自分のことであれ他人のことであれ、人間を分析する力が弱いはずだ」みたいな思いこみを、無意識のうちに私も抱いていたことの証拠ですよね。「お前、アスペの人を見くびっていたな!」と責められても仕方ないです。率直にお詫び申し上げます m(_ _)m

 いや、もちろん「スペクトラム」とか言われるくらいで、アスペの人だってものすごいいろんな人がいると言うことでもありますよね。定型だってカレンさんのような才能をお持ちの方もいれば、私のようにそういうすごい対話の世界には到底行けない人間もいるし、アスペの人だって繭さんのようなものすごい分析力を持つ人もいれば、そうでもない人もいる……。

 ということは、アスペと定型のコミュニケーションを考えるときに、やっぱりその人その人の個性の組み合わせ、みたいなものを無視してただ一般的にだけ議論しても、結局は単純な決めつけの議論にしかならないと言うことなんだろうと思います。もっともっと「アスペでもある」<その人の個性>、「定型でもある」<その人の個性>に迫って考えていかなければ、本当に問題に迫ることはできないと言うことでしょう。

 で、繭さんの書かれている自己分析の中味についても、これ、すごいことが沢山書かれているように思うんですが、そこはまたおいおい少しずつ考えさせてください。


 ということで、今日は「まあびっくりしたわ!」というほとんど意味のないような内容で失礼しました m(_ _)m

2011年3月 2日 (水)

気持ちの共有と共感の微妙な関係

 「何が共有されるんだろう」から「共有が共感になるとき」のテーマを巡っていくつかのコメントを頂きましたが、そこからまたちょっと考えを進めてみたい気持ちになっています。

 話のポイントを改めて簡単に整理すると、「共感」が困難ということが問題になるアスペと定型の間のコミュニケーションですが、でも当然のことながら、何も通じ合わないと言うことではないわけです。もし全く通じ合わないのなら、最初からそもそもカップルが成立すること自体、ほとんど無理でしょう。どんなカップルだって、結婚に至るには多かれ少なかれ「おつきあい」の期間があって、そこですでに多少は「あれ?」っと思うようなことがあったとしても、基本的には通じ合っていると思って(または通じ合わないという状態をまるで想像もできないまま)ゴールインするわけです。

 だから、アスペと定型のカップルの難しさは、「通じ合わない」ことにあるというよりも、むしろ「通じ合う」んだけど「通じ合わない」という、ある意味で中途半端でよく意味の分からない状態に置かれてしまうことにあるのではないかと思います。で、多分定型の側に多い感じ方としては、「通じ合う筈なのに、通じ合わなくなった」とか「通じ合うべき所なのに、通じようとしてくれない」というような受け取り方になって、どんどんしんどくなっていき、ますます「共感」に飢える状態になって、しかしそれが得られず、絶望的な気持ちになっていく場合が多いような気がします。

 そこで、改めてこの「通じ合う」んだけど「通じ合わない」というこの「微妙さ」のところに立ち戻って、どういうところは通じ合って、どういうところは通じ合わないのか、ということを素朴な体験から考えてみようとしています。

 そこでひとつ考えてみたことは「共有」と「共感」を分けてみるということでした。定型の方からすると、「共有できた」ということと「共感しあった」ということはかなり重なっていることのように感じ、そこをあえて区別することは普通ないのではないでしょうか。ところがアスペの方の話を聞いたり読んだりしていると、どうも「共有」はあってもそれが「共感」にはそのまま結びつく感じがしなかったりするわけで、定型の方からすると、そこがわかりにくい感じがあるんだけど、とにかく「共有」と「共感」を一端分けて考える必要を感じることになります。

 もうすこし具体的な話で説明してみると、たとえば私が出した例で、幼児が自分の体験したこと、嬉しかったこと、悲しかったことを一生懸命大人に語りかけ、それを認めてもらいたがる、ということがあります。これは自分の体験を「共有」して、そしてそこで感じたことを「共感」して欲しい訳です。そして「共感」されることによって、うれしさは倍増し、逆に悲しさは半減し、そうやって「次への元気」が出てくる。逆にそこが得られないと、自分が支えられない気持ちになり、自分自身の価値が失われていくような感じになり、極端な状態になれば「精神的に遺棄された子ども」のようになって、心身に大きな問題を抱えてしまうことも起こり得ます。

 一方、アスペの人の場合、私のパートナーもそうですし、繭さんも「人からほめて頂くようなことがあると、どこからともなく「あんたなんかが、そんな訳ある筈がない」という心の声が聞こえて、それに対する強い葛藤がありました」と書かれているように、自己の評価が驚くほど低い方が結構いらっしゃるようです。多分そこには育ちの問題が大きく関わってくるのでしょうが、それが非常に強く出る感じがする。とはいえ「大人に認めてもらえないことで、自己の評価が低くなってしまう」というわけですから、この点は定型も基本的には同じでしょう。

 ああ、すみません。まだ私も混乱してよくわかんなくなってしまいます。「人に認めてもらえるかどうかはとても大事な意味を持つ」という点では、アスペも定型もきっと同じなんです。にもかかわらず、この「相手を認める」ということについて、アスペと定型のカップルや、あるいは親子の間でものすごい大きな、深刻な問題が起こる。だとすれば「認め方」とか「受け入れ方」とか、そして「共感の仕方」みたいなことにズレがあって、お互いに必要としているものをお互いが与えられない状態になっているのでしょうか。ここはまた皆さんからのコメントなども頂きながら、少しずつ考えていきたいです。

 
 もう一つ、今回初めてコメントを下さったいなぞさんが、定型とアスペの間に「共有」を足場にして「共感的世界」が拡がっていく可能性について、「すでに(芸術・音楽)で存在してます」と書かれた後、アスペのミュージシャンのそういう活動では定型の聴衆と「感性の共有になってる、それが生業になってる事で世界とつながって生きてる」とおっしゃっています。この話と、繭さんがコメントで書かれている「私はこういう時は、ほとんど無心で、対象と一体化しているような感覚になっています。自分がいることを忘れてしまって、空や木や鳥や虫や砂粒になっているような感じです。対話という、自分と対象がそれぞれ存在するような感覚は、あまり感じられないような気がします。」という話が、私の中でなにか大事なつながりがありそうな気がしてきています。

 何がポイントとして感じられるかというと、どちらも「共有」ということが「感性」という、「言葉」にならない世界で成り立つことが言われているように感じることです。繭さんの上のコメントは、私が写真に写っているものたちとの間に繭さんが対話的な関係を持っているのでは、と言う風に書いたことについて、「対話」という、自分と対象が向き合った感じではなくて、一体化した感じなんだということをおっしゃっています。それは言葉を介しない世界ですよね。こんな表現も使われています。「なんというか、風景と気持ちが一体化しているように感じられるのです。だから、その大切な風景が、言葉よりもストレートに気持ちを語ってくれるような、そんな感じです。」

 定型も、もちろんそういう共有もすると思うのですが、でもなんかそこで終わらずにその先に進みたくなるような気がします。あえて言葉にして確認しあったり、語り合うことでまた深めようとしたり。だから私なんか対象との間でもなんか「対話」と書きたくなってしまいますし、カレンさんもコメントで「今でも、6年前に息子が我が家に持ち込んだ2cmほどの小さな透き通るエビを、ひとりで観察したり、時々話しかけたりしているんですよ(笑)。」とやっぱりエビとの「対話」のことを書かれています。そういう「対話」の延長に、その対象について他の人と語り合う世界が成り立ったりするのでしょう。


 うーん、やっぱりまだまだ微妙な問題がたくさんあるような気がして、自分でも全然すっきりしません。ただひとつ言えること、それは「感情の共有の仕方になにか微妙だけど大切なズレがありそう」ということです。それからこれ以前に書いたことからひとつ前進したかなと思うのは、アスペの人が求める「共有」と言うことの中味が、決して単純に「もの」の世界のことではなく、その「もの」についての「感情」の世界も含めてのことだというふうに、私の理解が拡がってきたことです。

 ああ、隔靴掻痒、亀の歩みですが、まあぼちぼちいきましょう。

 

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