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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年2月 3日 (木)

対話と翻訳と解釈と

 昨日の「大発見」に続いて、またななさんのコメント後半部分から考えさせていただいたことを書きたいと思います。

 ななさんはまずこう書かれています。

> 「翻訳」なしに夫との「対話」はありえません。ただ、かつてやっていた「翻訳」と、対話が可能になった今やっている「翻訳」は別物だなあ、とパンダさんの記事を読みながら思いました。

 ななさんのパートナーの「アスペ語」をななさんの「定型語」へ「翻訳」する仕方に二種類ある。しかもその違いは「対話」の中で行われるかどうか、という点が決定的に違う。もう、これ読んでよだれが出そうでした……すみません、根がお下品なもので (^ ^;)ゞ 

> どう説明したらいいのか・・・かつてはたぶん、わたしが夫のAS語を習得しようとしたんだと思います。その結果は、洗濯機に落ち込んだハツカネズミみたいなことに・・・。水におぼれ、振り回され、もみくちゃにされ、脱水されて、かろうじて生きてはいたけれどもうぼろぼろで、死んでもおかしくなかった。

 なんでハツカネズミでハムスターじゃないんだ? という突っ込みは無しにして……、 

 これはむちゃくちゃ良くわかります。もう、とにかく振り回されて振り回されて、自分の足場がまるで失われてしまう。相手を理解しようと頑張れば頑張るほど、自分の足場が崩壊していってしまうわけですね。しかもそのことの深刻さに気づいてわら一本投げてくれる人もいない。ただただひとりでもがき、死にそうになる。

 いや、もしかするとかまぼこ板くらい、投げ込んでくれる人はあって、それにしがみついてぎりぎり息は出来たかも知れないけれど、でもそれも含めてぐるぐる回されるばかりで、かまぼこ板が足場になるわけでもない。

> 今やっている「翻訳」は、まえにAS同士のご夫婦の方が(すみません、どなただったか覚えてなくて)おっしゃっていたのに近いんじゃないかと思うのですが、それぞれが自分の言語をもち、対話するときにはどちらとも違う第三の言語を使っている。そんな気がします。

 Rosamondeさんのコメントですね。第三の言語、ということはおっしゃるように「どちらとも違う」とうことが重要で、つまり、お互い立場は一緒ということになります。どちらも「自分の言語(足場)」をしっかり確保した上で、お互いの間に橋渡しとして「第三の言語」を架けるわけですね。だから振り回されることはない。

 ということで、

> 今の「翻訳」には、慣れてみると、あまり違和感を感じないんです。それは、AS・定型それぞれの立場からの気遣いであり、思いやりであり・・・なんてというと、その意味をめぐってまた混乱が生じそうですね・・・相手を尊重すること(でどうでしょう?)じゃないかなと。

 「それぞれの立場から」「相手を尊重する」という事になるわけです。

 要するに対話前の「翻訳」は、ななさんが一方的に相手を理解しようとする関係で、それは自分を捨てることにつながり、一種の「従属」的な関係になってしまいます。それに対して対話成立後の「翻訳」はお互いがお互いを違う人格として認め合った上で模索される関係になるわけです。

 で、以前「解釈」と「翻訳」の違いがコメントで問題になったことがありましたが、この二つの言葉をここにあてはめてみてはどうでしょうか。ここでAさんとBさんの間のコミュニケーションということで考えてみます。

 まずBさんの言動についてのAさんの解釈というのはAさんの一方的な作業と考えます。その解釈に相手のBさんが納得するかどうかは大きな問題ではなく、Aさん自身が納得できればそれでいいわけです。だからこれは「対話が成立する前の翻訳」です。

 ところが本当の「翻訳」の場合(通訳でも良いですが)、その翻訳にAさんもBさんもお互いが納得できなければ翻訳が翻訳としての役割を果たせないことになります。たとえば村上春樹の小説が英語に翻訳されたら、内容がまるっきり違う別の小説になってしまっていたとすれば、それは翻訳とは言えません。

 かといって、村上春樹(でなくても誰でも良いんですが (^ ^;)ゞ)の小説の、あの日本語の雰囲気をそのまま正確に英語に直すことは絶対に不可能です。日本語の世界と英語の世界は、完全には置き換えることができない。そのことを大前提として、英語の世界の理屈を保ちながら、なんとか通じるように村上春樹の日本語の世界を写し取ろうとする努力が翻訳ということになります。そういう翻訳という作業は、お互いの世界(日本語と英語の)に橋渡しはされながらも、それぞれの世界は、どちらも否定されることなく存在し続けることになります。

 まあもうすこしつっこんで言えば、翻訳は元版があって、それを一方的に相手の言語に移し替える作業なので、もしかすると双方向に「翻訳」しあう作業である「通訳」と言った方が、この場合はよりわかりやすくなるかも知れませんけれど。

 そうすると、ななさんが「今の「翻訳」には、慣れてみると、あまり違和感を感じないんです」ということの意味がとてもよくわかる気がします。そしてそれが「対話」が成立するようになったあとにそうなったということも。

 さて、ここでこれまで何度か問題としてきた、「アスペルガーという認識が共有されるかどうかで関係が全く変わる」ということについて、なぜそういうことが生じるのかのとても大きな理由が見えてくることになります。それは「お互いが違う世界を生きている」ということを、お互いが認め合うための大きな一歩になるからです。

 もし同じ世界に生きているのであれば、翻訳も何も必要ありません。ただ自分の感覚のまま、相手とコミュニケートすればいい。自分がおかしいと思うことは相手もおかしいと思うだろうし、自分がこうすべきと思うことは相手もそう思うだろうし、だから当然のこととして自分と同じ基準で相手も動くべきだということになる。

 ところが「アスペと定型」という形でお互いの世界に大きなズレがあるのだ、ということが理解されるようになると、その違いを前提としてどう改めてお互いの通じ合いを作れるのか、という作業に、共同して取り組む可能性が出てくることになります。

 お互いの世界が完全に一致することは永遠にありえません。これは厳密に考えれば、定型同士の夫婦だって同じ事です。けれども、違いを理解し合う姿勢を持つことで、自分自身の世界は保ちながらも、そこに橋を架けるという、翻訳の作業に取り組むことが可能になる。それは異質な者同士の「共同作業」になるわけです。同じ世界を共有するのではなく、橋を架ける作業を共有する、そういう「仲間」あるいは「同志」になれるかどうか。その前提に「アスペと定型」というズレの認識を共有できるかどうかの違いが決定的に効いてくるのだと思います。

(ただし、そういう共有が無いところで関係が一切成り立たないということを主張したいわけではありません。それについてはまたいずれ考えてみたいところです)

 

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コメント

>「アスペと定型」という形でお互いの世界に大きなズレがあるのだ、ということが理解されるようになると、その違いを前提としてどう改めてお互いの通じ合いを作れるのか、という作業に、共同して取り組む可能性が出てくることになります。

そうです、そうです!2年前のちょうど今頃、この共同作業に、やっと私たちは取り組むことができ始めたわけです。

>お互いの世界が完全に一致することは永遠にありえません。これは厳密に考えれば、定型同士の夫婦だって同じ事です。けれども、違いを理解し合う姿勢を持つことで、自分自身の世界は保ちながらも、そこに橋を架けるという、翻訳の作業に取り組むことが可能になる。

昨夜、夫と一杯やりながら(笑)、このへんの話をしていました。

例えば、夫は一貫して「自分にとっては本意ではなくても、それが結果的に自分にとっても得になると納得すれば実行する」と言っているのですが、昨日、夫がふと言ったんです、「これは、『情は人のためならず』のようなものかな?」と。

私が「『情けは人のためならず』をAS語にすると『不本意は人のためならず』ってことか(笑)」と言うと、夫は「たぶんそんなものだろうね(笑)」。

「不本意」とか言うと、とてもきついイメージの言葉になるので、それが以前は私にはさっぱりわからなかったのですが、今では、上のような会話が日常的にできるようになりました。

>「アスペと定型」というズレの認識を共有できるかどうかの違いが決定的に効いてくるのだと思います。

共有できると、すごく楽しくなります。

英語でも、手話でも、他の言語でも、互いに理解しようと思って聞く・見る "sympathetic listener(相手をわかろうと思って聞く人)どうしであれば、話も通じますが、最初から相手を非難してやろう・やりこめてやろう・何この人?、と思って聞いて・見ていたのですは、聞こえるものも聞こえない・見えるものも見えない・・・ということになります。

と、ここで、相手を理解しようと思うか思わないか・相手が理解したい相手であるのかないのか・・・という問題に戻る(?)か進む(?)になるのだと思います。

このへんの論議は、またいろいろあると思いますが、

私にとっては、夫が理解したい相手であった・・・ただそれだけのことです(笑&真面目に)。

私は「あなたにとっては、そう(感じられる)なのだね」という言葉がとても好きです。
これを親しい人に言われると、とても安心します。自分の大切な人にも言います。

今日までの記事を読んでいて、上の言葉が浮かびました。
昨日の、ななさんとわたしが反対の立場で同じ経験をしていたこと。考えていて気付いたのは、「違いを認識している」という共通点なのかもしれないということでした。

私は子供の頃、周囲との摩擦が大きかったので、自分と周囲への違和感の自覚は早くからありました。なんというか「自分の見ている世界はおそらく他の人の見ている世界と違うだろう。そして、きっと皆それぞれに違う世界を見ているのだろう」というような。
そんな認識でしたので、私には誰かの考え、感じていることを想像まではしても、確信を持つことは出来ませんでした。

先述の私の好きな言葉は、相手も自分もそれぞれの世界をゆがめることなく一緒にいられるから好きだったのだと思います。

私の夫は「違いを知ると不安になる。それより前に共通点を確認したい」と言います。でも、それは共通点がないと違いを認められないということではなくて、私が上記の言葉で安心するように、彼は彼なりの方法で安心を求めているということなのだと、今はそう思います。

パンダさん(泣)私…漢字読めません(泣)
私のコメントの、下の、女性の方…
携帯からなので、コピー出来ないし、PCのIMEパッド使っても…わかりませんです(泣)
教えて下さい…すみません。

〉下の女性の方へ

こんばんは。はじめまして。
上記の理由で、お名前…入力できませんでした、すみません。宜しければ、読み方、教えて下さい。

私は、定型か非定型か、不明な者です。
理由は、今まで、外見はさほど問題なくやってきたつもりですが、自分の中で、葛藤や違和感は大分、感じていたからです。
ネット上では、いつも、素の私でいます。もしかしたら、私も非定型かも知れないので、宜しくお願いします。

ご主人の、「違いを知ると不安になる。それより前に共通点を確認したい」
これは、奥様がおっしゃってるように、私も凄く良い言葉に受けました。
とても、前向きな言葉だと思います。「否定し合わず、お前と同じ道を歩んでいきたいんだ」と同じ意味に、私は受け取りました。

カレンさん

>共有できると、すごく楽しくなります。

>私にとっては、夫が理解したい相手であった・・・ただそれだけのことです(笑&真面目に)。

カレンさんがご主人と穏やかに語らっている様子が見えるようで、読んでいて、…何といったらいいのか、嬉しいような、泣きたいような、ほっとしたような…そんな気持ちになりました。

私も焦らずに、一番理解したくて、理解されたい人とそうなりたいと思います。

あー、そうそう、それ、ハムスター、そういいたかったんですが、どうしても思い出せなくて。で、モルモットにしようか・・・でもちょっと大きいし、毛が柔らかくないからあまり好きじゃないんだなぁ(そういう問題かって?そういう問題なんです!)。同じ位の大きさだと・・・ねずみかな?でも、溝鼠を思い浮かべられたらいやだなあ。
ということでハツカネズミになりました。ハツカネズミの手触り?それは知りません。

それはともかく、パンダさん、ありがとうございました。私がぼんやりと感じていて、でもうまく説明できずにいたことを見事にきれいに説明していただいて、すっごくうれしかったです。

>要するに対話前の「翻訳」は、ななさんが一方的に相手を理解しようとする関係で、それは自分を捨てることにつながり、一種の「従属」的な関係になってしまいます。それに対して対話成立後の「翻訳」はお互いがお互いを違う人格として認め合った上で模索される関係になるわけです。

そうなんです!夫と一緒にやっていこうとしたら、私は体は生きていても精神的には死ぬしかない。そうとしか思えなかった数年間は、本当に世界は真っ暗で、生きている意味が分からなかった。ただただ子供のためにだけ命をつないでいるだけでした。
そして、その暗闇を徐々に抜け出すことができたのは、「自分は自分なんだ。誰にも支配されない。誰にも支配させない。」ふとしたきっかけでそう思うようになったことが始まりでした。パンダさんのいう「自分の足場」をしっかりつかむことができたんですね。

> お互いの世界が完全に一致することは永遠にありえません。これは厳密に考えれば、定型同士の夫婦だって同じ事です。

よく、ASの子供が過ごしやすい環境はじつは定型の子供たちにとってもすごしやすいんだといわれますが、夫婦に関しても実はそうなんじゃないかなと思うようになりました。ASと定型ではあまりに違いすぎるのでとてもとても意識しないとお互いを尊重しながら共存できない。でも実は、定型同士であってもまったく同じではないわけで、でも同じ部分が多い分だけ同じと思い込んでしまう。そのために上手にいい関係を築けないことって、けっこうあるんじゃないかなと。

>お互いの発言がお互いの予想を覆して「一緒だ!」ということにいきなり出くわして、
 「なんじゃこりゃ?」と今までの固定観念がぶっ飛んでしまう。
 そして改めてお互いを見つめ直す作業が始まる……

>もう、私、こういうの大好きなんです!
 こういうところからこそ新しい世界が切り開かれていくんだと思うんですね。

>今、ほんとに幸せ~ 

本当ですね。なんだか、感動的です!

みみさん

こんばんは、はじめまして。
すみません、紛らわしい名前を名乗っています。アスペルガー傾向の「まゆ」と申します。
よろしくお願いします。

>とても、前向きな言葉だと思います。「否定し合わず、お前と同じ道を歩んでいきたいんだ」と同じ意味に、私は受け取りました。

そうなのですね、みみさんから見ても良い意味なのですね。
私はずっとこの言葉の意味を間違って捉えていて、一人で不安がっていたのかもしれません。
暖かいコメントをありがとうございます。

私もこちらでは、外でなんとか取り繕っている自分ではなく、素の自分で書かせて頂いています。素を出すには勇気がいりましたが、いいものですね。

みみさんのコメントは拝見していました。
定型・非定型・中間を問わず、どうぞ宜しくお願いします。

〉繭さんへ

ありました!まゆという漢字!見つかって、良かったです。失礼しました。

私の親友、友人の中で、大切な人は、まゆ、まゆみ、まゆみ、と3人居まして、ホントにたまたま偶然で、三人とも「まゆ」がつくんです。
でも、「繭」は読めなかった!

私は繭さんがASかどうかは、まだわかりませんが、もしそうだとすれば…

繭さんからパンダさんが何かを得て、
パンダさんから繭さんが何かを得れば、それは素晴らしい事になりそうな予感がします。

私はいつも、ストレートな言葉の意味の他に、必ず「言葉の裏」まで読み取る癖がどうしても、ついてしまっています。先程の話で言うと、

違いを知ると不安になる。(だから、つまり、もう違いを探るのはやめよう)

それより前に共通点を確認したい(だから、つまり、共感、共有を見つけてそれを大切にしていきたい)

この、()のだから、つまり…というのが、私の言っている言葉の裏です。

私の受け取り方が正しいかは、ご主人に聞いてみないと解らない事ですが、言葉には、いろんな意味や、受け取り方が、含んでいると思います。

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