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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年2月28日 (月)

共有が共感になるとき

 繭さんの写真ブログを巡るやりとりの中で、引き続きいろいろと考えさせられています。

 私自身はご紹介いただいて写真を拝見したときに、ほんとにある種の驚きとともに、その写真の世界に引き込まれていったのですけれど、それは私だけではないようですね。知り合いに紹介したら、その人も思わず引き込まれる、というようなことを言われていたし、私の定型の子どもは、ムーミン谷に住みたい!と言うような子なんですが、やっぱり写真にとても惹かれたようです。繭さんの書かれるには最初にその魅力に気づいたのはみみさんだったようですし、カレンさんもご自分の深い自然体験とのつながりを感じられています。

 「繭さんって、才能のある方なのね」と言ってしまえばそれであっさりおしまいなのかも知れないですが、でも何かそういうありきたりの言葉ですませてしまってはもったいないような大切な問題、つまりアスペと定型の間の「世界の共有の可能性」とでも言えるような問題がそこにあるような気がします。

 コメントにも書いたかも知れませんが、私はその写真を見ながら、なんだかそこに写っているものたちが、それぞれに自分のことを無言で、だけどとても雄弁に、そしてとても個性的に語っているような気がしました。それで、繭さんが以前書かれていたムーミン谷の世界をそこから思い起こしたんですね。「ああ、ムーミン谷ってこういうところなんだろうか」という感じがふとしたわけです。

 そして今日のコメントで、こんなことを書かれています。「私の興味の対象は、幼稚園児のころからあまり変わっていないような気がします…。写真に写っているようなものたちを、いつまでも凝視している子供でした。石や木の葉や羽根などを持ち帰ると、親にいやがられましたが、大人になった今は、それを止める人もなく(夫は面白がっています)、宝物は増える一方です(^^)」

 これは私の定型的な(?)勝手な解釈なんですが、「石や木や葉や羽など」をいつまでも凝視しているというとき、そこにはそういうものたちと、黙って対話し続けている、そんな世界が成り立っているんじゃないだろうか、という気がしたんです。その対話の世界を残念ながら親は共有してくれなかった。でもパートナーの方はおもしろがる、と言う形でそれを受け入れてくれるわけですね。

 「共感と共有の違い」のところで少し考えてみたことにつながっていくわけですけれど、「私にとって大事な世界」というものは、アスペの人にとって、まずは他人と関わることのない、自分と対象の間で成り立ち、そして幸運な場合はそれを「共有」してくれる人がそこに現れることがある、という感じで他人に拡がっていくこともある。

 定型の子どもの場合、もちろん個人差、個性の差が大きいので、どこまで一般化できるかちょっとわかりませんけれど、おおざっぱな印象としてはそのあたりすごく違う感じがします。何か面白いものを見つけたり、自分が上手になにかできるようになったり、あるいは昨日怪我した傷口があったり、きれいなティッシュがあったり、そんなときに、すぐに「ほらほら、これ見て!」と大人にアピールしてきます。そして「わあ、そうなんだ」と大人に認めてもらうことで満足して去っていく。それがないとなんだか自分の発見の喜びなどもすーっとしぼんでしまうような感じがある。

 でも「石や木や葉や羽など」を大事に拾って帰る繭さんの場合、親がそれを認めてくれなかったとしても、それは大人になってすらずっと大切な宝物であり続けるわけですね。

 もちろんその宝物を、他の人が認めてくれることは繭さんには決して嫌なことではなく、逆にとても嬉しいことと書かれています。「私が撮っただけでは、ただの独り言ですが、それを共有してくれる人がいることが分かって、ほんとうに嬉しいです。」でも、これは私の想像ですが、それを共有してくれる人がたとえ誰一人いなかったとしても、その宝物が宝物でなくなると言うことは多分無いんじゃないでしょうか。

 
 というようなことを書いていて、また自分の古い記憶がよみがえってくることがあります。パートナーとつきあい始めて間もない頃のことですが、彼女が私を小さな池に連れて行ってくれるんです。そこは仕事の休み時間とか、ちょっとした時間を見つけて彼女が散策していた小さな雑木林のような所なんですが、その池に蓮の花が一つ、静かに、そしてちょっとなまめかしく、そっと咲いたんです。そしてそれを私に見せてくれたんですね。

 一人で見つけ、一人でそれと対話し、大切にしている小さな世界。それをふと人にも見せてあげたくなり、そしてそこで相手がそれを共有してくれることでうれしくなる。定型的には「それこそ共感的な関係」とさっと言ってしまいたくなるところだと思うし、ある意味実際そう言っても良いのかも知れないんだけど、そこになにか微妙だけど大切な違いもあるような気がするんです。

 それが何かをまだうまく言葉にできないんですが、その微妙な違いが状況によって積み重なったり拡大されてしまうと、お互いの共感的世界は一挙に見失われてしまい、けれどもその微妙な違いを大切にしながら「共有」をしていくと、逆に「共感的世界」がむしろ拡がっていく。なにかそういう、とてもナイーブな問題がそこにあるんじゃないだろうか、そんな感覚が今私の中でちょっとずつ拡がってきています。(もちろん、これはごく限られた事例での話ですので、定型とアスペ一般の関係にどこまで広げられるかは全く分かりません)

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コメント

パンダさん

私の写真を気に入って下さって、ありがとうございます。
こんな風に言って頂くことに、とても嬉しい気持ちと、戸惑う気持ちと、両方が合わさっています。
でも、やっぱり嬉しいです(^^)

とても個人的なことですが、以前は人からほめて頂くようなことがあると、どこからともなく「あんたなんかが、そんな訳ある筈がない」という心の声が聞こえて、それに対する強い葛藤がありました。
実際、子供の頃に、親から言われ続けた言葉ではありますが、それが大人になっても抜けなくて、私にとって、その「声」からの離脱は一つの目標でした。

パンダさんのブログに辿り着く頃には、ほぼ抜け出しかかっていたのですが、ここに来て、「声」の聞こえない、聞こえても影響を受けない自分を改めて認識して、そのことも、とても嬉しいです。


>、「石や木や葉や羽など」をいつまでも凝視しているというとき、そこにはそういうものたちと、黙って対話し続けている、そんな世界が成り立っているんじゃないだろうか

私はこういう時は、ほとんど無心で、対象と一体化しているような感覚になっています。
自分がいることを忘れてしまって、空や木や鳥や虫や砂粒になっているような感じです。
対話という、自分と対象がそれぞれ存在するような感覚は、あまり感じられないような気がします。

>それを共有してくれる人がたとえ誰一人いなかったとしても、その宝物が宝物でなくなると言うことは多分無いんじゃないでしょうか。

パンダさんの仰る通り、私の場合は、誰にも共有して貰えなかったとしても、宝物は宝物のままです。誰かと共有出来たとしたら、それは嬉しいことですが、共有出来ないことが即、さみしいことには繋がりません。
さみしいのは、私がそれを宝物と思うことを許されないことです。

>定型の子どもの場合、~「ほらほら、これ見て!」と大人にアピールしてきます。そして「わあ、そうなんだ」と大人に認めてもらうことで満足して去っていく。それがないとなんだか自分の発見の喜びなどもすーっとしぼんでしまうような感じがある。

共感や価値観の調整のようなことを、子供の頃から自然にしているのですね。
これが社会性や安定した価値観に繋がるのでしょうか。

私にも似たような欲求があって、今は夫が主な被害者になっています、でも、もし認められなくても、一人でご満悦なままのところが少し違いますね。
…自分が頑固と言われる理由が分かったような気がします。

パートナーさんとの蓮の花のエピソード、素敵だなぁと思いました。
こういうことは、本当に大切な人に、自分の心の内を見せることと同じこと。という風に、私は思います。
なんというか、風景と気持ちが一体化しているように感じられるのです。
だから、その大切な風景が、言葉よりもストレートに気持ちを語ってくれるような、そんな感じです。

>逆に「共感的世界」がむしろ拡がっていく。なにかそういう、とてもナイーブな問題がそこにあるんじゃないだろうか

ええ、すでに(芸術・音楽で)存在してますやん。

奈良美智・・・アート
草野マサムネ・・・音楽
VINESクレイグ

海外でも写真家のASチラホラいますし、

感性の共有になってる、それが生業になってる事で
世界と繋がって生きてるっていうか

数字になると学者とかの狭い世界にとどまるけど。

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