2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« うれしいこと | トップページ | アスペと定型問題の多様性 »

2011年2月 8日 (火)

コミュニケーションの共有基盤は?

 このところみなさんのコメントの中の議論を見ながら、少しずつ頭の中を整理してみていることの一つが、定型とアスペのコミュニケーションで共有されている土台はなんなんだろう?ということです。

 私自身も含め、定型の人間から見ると、アスペルガーの人は「他人を傷つけることを平気で言う」と感じてしまうことがあり、実際自分たち自身もそういう経験を繰り返してきているわけです。だからそこから単純に考えれば「アスペルガーの人は思いやりがない」とか、場合によっては「冷酷だ」とかいう評価が出てきたりもするし、その理由として「感情を理解できない」という話が出てきたり、それがミラーニューロンの話に強引に結びつけられたりもする。

 ただ、カナータイプの自閉の子どもたちとはわりと付き合いがあった私としては、アスペルガーのみなさんとこんな風に対話が成立すること自体、驚異的だと思えたりするところがあります。カナータイプの自閉の人と、言葉を越えたところで、あるいは言葉以前の形である種の「対話」的な関係を持つことは、もしかすると不可能ではないかも知れない、とも思いますが、アスペルガーのみなさんとは、文字通りの言葉を用いたレベルでの対話が可能なわけです。

 もちろんその言葉の使い方について、定型との間に実は大きなズレがあって、そのズレが大変な摩擦を生み続けるわけですけれども、でも「言葉を使ったコミュニケーションが成立しない関係」との差に比べたら、問題にならないくらいに近い関係だという気がします。

 むしろかなり近いからこそ、お互いに「一緒だ」という思いこみから抜け出しにくくて、大事な部分での違いに気がつきにくくなり、その結果として逆に双方の傷が深まっていくということなんだろうと思えるのです。以前にもちょっと問題にした(アスペと境界例)、境界性人格障がいの人と人格障がいではない人(ってなんていうんだろう?)の関係も、この点についてだけ言えば結構似ている部分があると感じます。お互いの違いに気がつきにくくて傷がどんどん深まるんですね。

 逆に言えば今ななさんのコメントとカレンさんのコメントで続いている対話のように、その違いに気がついた夫婦の間では、「言葉による調整」=「翻訳」がずいぶん可能になり始めるし、しかもお二人の間で「ああ、そうなんだ」という理解が共有されるみたいに、結構その「翻訳」の仕方にも共通性がある感じです。その点で後輩の私の所はまだこれから学ばせていただくことだらけの感じがします。

 だからそういう「翻訳」作業を積み重ねていくことで、いずれ「アスペ語文法」と「定型語文法」というようなものがある程度整理できるかも知れないと、私は結構まじめに思ったりします。(言葉の専門家の人、頑張ってやってくれないかなあ)

 で、そういうことを考えるときに大事になることがあると思えます。たとえば英語と日本語の間に翻訳が可能だというのは、お互いに全く違う言葉で、知らなければお互いにちんぷんかんぷんであるにもかかわらず、そこに翻訳を可能にする「言葉」としての共通した働きがあるからです。それを手がかりに翻訳が成り立つということです。

 昔、中学校くらいの国語の教科書かなんかで読んだ気がするんですが、金田一京助という有名な言語学者が、言葉を全く知らない状態でアイヌの人たちの中に入って、なんとかアイヌ語を習得しようとしたとき、思いついてやったことは、好奇心旺盛な子どもたちにメチャクチャ書きかなんかを見せたのかな?で、子どもたちがそれを見て「何だ何だ」という感じで騒ぎ出した。

 で、子どもたちは金田一になにかを尋ねる感じで言葉を言った。その言葉を金田一がまねをして、いろいろなものを指さしてその言葉を繰り返した。そうすると案の定、それは「これ何?」という意味の言葉だったらしく、子どもたちは指さされたものの名前を次々に答えてくれた。それを記録・記憶していくことから始めたというエピソードです。

 このエピソードの中にも、言語の違いにかかわらず、「言葉を話す」ということに必要な、人間に共通する力が利用されているのがわかります。その一番基本的なものはここでは「指さして相手と注意を共有する」ということです。そして単語というのは、その指の代わりをするものと言えるわけです。(私、文法は全然苦手なので、品詞の区別とか、そういうややこしい話はとりあえず勘弁していただくことにして (^ ^;)ゞ ) 指で注意を共有する代わりに「犬!」と叫べば相手の人と一緒に犬に注目することができる。

 ところがカナータイプの子どもの場合、これがなかなか成り立たない。指さしで伝え合うということがなかなかできないわけです。それ以前に、目が合うということはさらに基本的な力になるんですが、そこから難しいわけですし、当然と言えば当然なわけですけれど。

 もうわざわざそんな話するのもばからしく思えるほど、アスペルガーの方の場合はこんなのなんのこともなくクリアできるわけですよね。「注意の対象を共有する」という基本的な仕組みは、もう完全に定型とそれこそ共有されている。ズレるのはその言葉や身振りや表情で共有しようとしている対象がなんなのか、ということについての理解の仕方、注意の向け方なわけです。で、そのズレ方の問題は、それがはっきりわかれば上に書いたような「文法」が完成することになるような大きな問題なので、そこはとりあえずスルーすることにして……

 次にカナータイプの子どもとは共有が困難で、でもアスペルガーの人とは完全に共有されている言葉の力として、「お互いの立場を取り替えて理解する」という力があります。たとえば、私が「あなたは」と言えば、それはあなたにとっては「私」のことだし、あなたが「あなたは」と言えばそれは私にとっては「私」のことになります。なんかややこしいですが (^ ^;)ゞ、とにかく同じ「私」とか「あなた」という言葉が、それを誰が言っているか、あなたが言っているのか私がいっているのかによって、誰を指しているのかがひっくり返ってしまう。「視点の転換」とかも言ったりしますけど、これが言葉をなんとか学び始めたカナータイプの自閉の子にはものすごく難しい。

 子育てをされたことのある方はお気づきかも知れませんが、実は定型の子でも言葉を学んでいく途中、一時期そこが混乱することがあるんですが、わりとすぐにそこは通過してしまいます。ところがカナータイプの人はここが難しくて、ずっとその混乱を引きずる。それでたとえば相手の人にコーヒーを飲んでもらいたいときに「○○さん、コーヒー飲みたい」というような言い方をしたりする。

 これもまたアスペルガーの人は何の問題もなくこなされています。この「視点の転換」みたいなことができるということは、たとえば本を広げて読んでいる人には本の中味が見えているけど、その向かい側でこっちを見ている人には本の表紙が見えている、というふうに「自分が見ているものと相手が見ているものは違う」という、そういう理解ができないといけない。そこが曖昧だと、自分が見てるものを相手も見ているような話になってしまって、自分と相手が混同され、混乱してしまうわけです。

 この点について言うと、むしろアスペルガーの人は「私は相手とは違う」という意識が定型よりもよっぽどはっきりしていたりしますよね。そういう点では定型の人間よりよほど「自他の区別」が明確にできていて、発達が進んでいる、と言えないこともない……w(゚o゚)w

 でもそういうと、「アスペルガーの人は相手の立場に立って考えられない」んじゃないか?だから「思いやりのないことを言ったりする」んじゃないか?という疑問が生じるかも知れません。定型はちゃんと自分ではなく、相手の立場に立って考えられるから、思いやりのある行動をとれて、関係がうまくいくんだと。

 ところがこの理解が落とし穴であるわけです。たしかにアスペルガーの人は自分の理解の仕方で定型のことを理解するので、定型の人間は傷ついたりする。たとえば子どもが風邪を引いて苦しんでいるとき、優しい言葉をかけるでもなく、一人で「放って」おいたりする。ところがアスペルガーの人に聞くと、それは「病気は自分で直すもの。薬を飲んで大人しくしていればいい」とか「自分も静かに放っておいてもらったほうがいい」から当然そうするのだといったりします(つらいときにどうしてほしいのか)。私の所も同じようなことがありました。

 けれども、今度はアスペルガーの人の立場から見れば、定型の人間こそ、訳のわからない自分の常識を勝手に押しつけてくる、自己中心的な人であることになります。で、そのことに定型は気がつかない。その点では全くお互い様なわけです。

 しかも、「アスペと定型」というズレがそこにあるんだ、ということを両者が納得するようになれば、本当の意味で「相手の立場に立って考える」という試みをお互いにできるようになります。もちろんなかなか難しくて、相手の感じ方や見方がわかりにくいのだけれど、けれども「相手は自分とは違う感じ方をしているから、自分と同じ理屈ではコミュニケーションが成り立たないんだ」ということ、「だから何か工夫が必要なんだ」ということは、お互いにしんどくても向き合う気持ち持てる関係が成り立てば、ちゃんと理解し合えるわけです。これは「相手の視点に立つ」という力をお互いに共有していることの証拠です。

 ま、ずいぶんとおおざっぱな話ですけど、とりあえずその辺は足場として共有されてるのかな、と思いました。

 
 

 

« うれしいこと | トップページ | アスペと定型問題の多様性 »

コメント

おはようございます。

久しぶりの書き込みです。

先週の土曜日から第1弾本の原稿チェック作業に入っています。今週の土曜日に先方さん(出版社)に送る予定です。

自閉さんの方が自己チューと言われているが、私が知っている自閉さんの1人が以下のことを言っています。

「自閉さんはよく自己チューだと定型さんから言われているが、定型さんの方が自己チューである。一生懸命、定型さんに合わせていくのが当然だと思っている。定型さんは、私たち自閉さんの許可なく勝手に予定を変えてくることが多いから、私たちから見て、『定型さんは自己チュー』である」と。

定型さん文化と自閉さん文化は異文化なんですね。

横道それますが、自閉さんは思いやりをもたない、気を遣わないと思われがちだが、彼ら&彼女らなりに思いやりもあるし、気を遣う。ただ、思いやりや気遣いのポイントというかピントがズレているだけを色々な場所で5年以上お話ししています。

少し体調がよくないので、今回はこれくらいにします。

Rosamondeさん

 コメントいつもありがとうございます。
 発刊が決まったら、ぜひこちらでもどんどん宣伝してくださいね。

 教えていただいた自閉さんの発言、やっぱりそうなんですね。
 そういう実際の意見を教えていただいてすごくためになりました。
 
 思いやりや気遣いのポイントの違い、というのも
 また是非教えてください。ご自身のブログでもこちらでも。

 体調がよくないとのことで、どうぞお大事になさってください。
 

前に「そうか、そうだったのか!」という感動と理解の可能性を担保したい、なんて書いてしまいました。あれは、建前でした。(こういうダブルスタンダードに耐えれないですよね、正直な人は。)今までの道程を振り返ると、「ええ!(あなたの頭の中は)そんなことになってたのかい!」という驚きとショックが積み重なってきただけでした。理解すればするほど、本音のところで、しんどいことでした。解明の驚きが次のステージの幕開けを仄めかす明るい感じではなかった。むしろ先の煮詰まって細っていく視野狭窄の世界です。羽根をちぎられ、一本一本足をもぎ取られていく虫になったような気持ちでした。これをウツというのなら、そうでしょう。

今日のお話にからめて。「ローズ家の戦争」で印象に残ってるシーンがあります。夫婦喧嘩が熾烈な戦いになり、財産の取り合いをしてるんですけど、

It's mine!
Yes, it's mine.
No, it's mine.
You say, `It's mine.'
...

視点の転換や代名詞の意味を自己中にひきまわしているのがオモシロイわけですが、そういう戦略が、『攻撃の道具』なんです。定型では、というべきか、追い詰められた人間では、というべきか、わからないですが。「追い詰められた状況」では定型も非定型も動物もないです。あるのは自己中だけです。正当化も含めて。そこまでの論理的ジャンプはたぶん当人は意識してやってるわけではないでしょう。そして後で(弁護士とか)第三者に話すと、"He said it's mine." というような報告を当然のようにやってのけて、そこに悪意のかけらもないから最強です。というか悪意を持って攻撃した方が、結局は勝ち目なくなりますね。見通しがあった方がカサンドラですからね。

和解も決裂も簡単じゃない。この「膠着した状態」(定型語)というのが自閉語では「安定した状態」だったりするわけです。終わりのない極度の緊張です。

>Rosamondeさん

こちらでは、はじめまして。いつも色々教えてくださってありがとうございます。

>自閉さんは思いやりをもたない、気を遣わないと思われがちだが、彼ら&彼女らなり
>に思いやりもあるし、気を遣う。ただ、思いやりや気遣いのポイントというかピントがズ
>レているだけ
→これ、抽象的には分かるんです。でも、実際、私の夫が、私にどのように気をつかったり、思いやってくれてるのか?というのが、私には伝わってこないんです。このあたりが、カレンさんやななさんと私の違いなのかな?と思ったりします。

Rosamondeさんが、定型の人を気遣ったり思いやってくださってるのは、伝わってくるのですけれどもね。たとえば、以前、「配偶者」の方で「共感の部分が少なくてすみません」みたいに書いてくださいましたよね。そういう配慮はビンビンと感じるのですが。

ご本のお仕事頑張ってくださいね。でも、お疲れの出ませんように、お身体お大切に休み休みやってくださいね。

>パンダさん

こちらでは、はじめまして。せっかく「対話の成立」についてみなさんで熱く語ってるのに盛り下げてはいけない・・・と、カキコミはせずにいました。

定型と非定型は、イギリス人と日本人みたいなもんなのかしらね。

お互いに「違う言葉を話している」ということを認識しなければ、出発点に立てない。そして、日本語なり英語なりの共通言語を両方あるいは双方が学ぶ。片方だけが学んだ場合も、その言葉が相手にとってはセカンドランゲージだということをよく認識しながらコミュニケートする。

「英語勉強してまでイギリス人と知り合いになりたくないや」という人、「日本が一番!」という人は、無理して英語勉強する必要もないし、イギリスに旅行に行く必要もない。でも、イギリス人を軽蔑したり、貶めたりする必要はない。逆もまた真。

好奇心旺盛で、イギリスを見てみたい!と思う日本人は英語勉強してどんどんイギリス人と付き合えばいい。逆もまた真。

言葉がある程度出来るにこしたことないけど、お互い言葉は多少不自由でも、「なんか好き!」と恋愛したり結婚したり・・・というのもアリ。

日常のもろもろを進めて行く時点で不便は生じるだろうけど、その時点で、お互いに相手の言葉をもっと学ぼうとか、こんな風に習慣が違うのだね、とか、面白がりながら進んでいけるなら、それはとてもステキ。

でも、「なんか好き!」の力が弱かったり、その他もろもろの条件で、「やっぱ国際結婚はムリ」となるのもアリ。

友達ならOKだったり楽しい交際でも、夫婦となるとムリというケースもあるでしょう。

カップルの場合、一番苦しく大変なのは「出発点」に立つ前なのでしょうね。Aston博士の本は「出発点に立つためのヒント」もいっぱいかかれてはいるけど、「出発点後」を前提に書かれている。「出発点まで」の本を書いて欲しい。

また、「別れる決意をしたら後悔しないこと」というのは書かれてるけど、その後のトラウマの治し方には触れられてない。

私は、出発点に立ててないケース、また、出発点に立つことを選ばなかったケースとして、今後、どんな風に自分の傷を癒していくか考えて行くつもりです。
(Aston博士にも、ずうずうしく、そういう本も書いてね!とメールでお願いしちゃいました。Aston博士からは"stay strong"と言ってもらいました。無料でカウンセリングしてもらっちゃった気分。らっきぃ!)

いずれ、イギリスに行って、Aston博士のワークショップ(カサンドラの人向け)に参加してみるつもりです。どうせだから、カウンセリングも受けてくるつもり。1回のカウンセリングじゃ、あまり効果ないかもしれないですけれど。

joさん

> 前に「そうか、そうだったのか!」という感動と理解の可能性を担保したい、なんて書いてしまいました。あれは、建前でした

 そうでしたか。コメントを拝見していてここの部分がなにかとてもご無理をされているのではないかという印象がぬぐえず、痛みを感じるようでした。

 みなさんのコメントなどを拝見していて、「関係が変わった」と言われる方の多くが、実は一端「もうこれですべてが終わりだ(場合によっては命さえも)」という決定的な状況になっていらっしゃることを知りました。実は私もそうです。そこから改めてお互いに関係をどうするのか、ということを考える方向に進むか、そこでそのまま関係が終了する方向に行くのか、その分かれ目が始めて見えてくるのかも知れないです。

 そして「膠着した状態」が「安定した状態」となる状況は、私も同じでした。もちろんその安定はパートナーにとっても苦しい状況ではありましたけれど。

 定型同士のカップルでも危機やその乗り越えまたは関係解消というのはあるわけですけれど、定型とアスペの関係でのそれは、ちょっと展開の仕方の質が違うのかも知れません。ほんとに壮絶な状態にまで行って、初めて分かれ目が来るような。そうですね、「膠着」という言葉がその特徴をよく現しているのかも知れません。

 お身体大丈夫でしょうか。

ksさん (?小文字になりました?)

 お久しぶりです。「盛り下げる」などとおっしゃらずにいろいろコメントをしていただきたかったと思いますけれども、でも、書きにくい状況があったというのは、私なりに想像はします。ほんとはそうならないような場であって欲しいんですが、実際じゃあどういう感じになればそこが乗り越えられるのか、今はまだ私にも見えてきません。

 日英の文化の違いという比喩でのお話し、ほとんどそのまま賛成という感じで読ませていただきました。アスペと定型の関係は、異文化間の関係の比喩で理解できる部分が本当に多いと思います。

 アストンさんには日本のアスペのカップルで女性がアスペの場合、男は定型である例が結構あるみたい、とお伝え下さい。このブログに関係するケースでもすでに四例がそうで、両方がアスペという例はRosamondeさんのところの一ケースだけですよね。なんか文化的な違いがあるのかしら?そしてやっぱり女性がアスペの場合と男性がアスペの場合では、抱える問題の質が結構違うところが出てくるみたいだと言うことも。

 その後の傷の癒し方について、もしこの場も活用できそうなことがあれば、どうぞ是非ご活用下さい。私もその問題を常に頭に置きながら、いろいろ考えていきたいと思います。

結婚前のことを思い出し、「お互いの何に惹かれたのか」ということを」再び考えてみているます。

いつか掲示板の方にも書きましたが、私と夫はもともと全くの同業者。学歴・仕事内容・、立場も対等。なので、もともと、そこの職場の方々はお互いに皆さん共通のものをたくさん持っていらしゃった。

でも、そんな中にあって、夫が私を選んだ理由は「自分とは違う世界を持っていると思うから」・私が夫を選んだ理由もまた「この人となら、(ありきたりではない)自分たちオリジナルの家庭を一緒に作っていけると思ったから」

つまり、同じような条件の人たちが多くいる中で、私たち2人は、多くの共有できる世界を持ちつつも、お互いに自分とは異質のものを感じ、それを魅力と感じていた。でも、結婚の中で、その違いが想定外に大きく、かつ、予想だにできないような違いであったから、もう本当にグチャグチャの危機的状況に。このままではいけないと、そこで、その違いが何かを全くの手探りから模索し始め、違いの原因を最終的には共有し、実態に合ったコミュニケーション手段を徐々に修得してきている・・・ということでしょうか。

その人の何に惹かれ、どんな関係をよしとしてつき合っていたのか、どんなふうにコミュニケーションを取っていたのか、そのとき相手と自分が気持ちよくコミュニケーションを取っていたときのはどんな状況下でのものだったか・・・現在の、「うまく続く」「うまく続かせたい」「うまく別れたい」等々の関係を考えるヒントは、「それぞれのカップルのオリジナルの関係性」の中に、たくさんあるのではないかという気がします。

ところで、以前からお尋ねしてみたいと思っていたのですが、ここや掲示板の方々は、相手の方の何に惹かれて結婚を決められたのでしょうか?

いつかどこかで、「好きではなくなった」ではなく「好きになれない」という表現を見て、結婚していろいろあって「好きではなくなった」ならわかるけれども、「好きになれない」というのは、どういうことなのかなぁ、と、なんとなくずっと疑問に思っていました。

それこそ、これは誰かを責めるとかいう気持ちからではなく、素朴な疑問です。

今日、自閉さん&線維筋痛症さんの診察&注射(注射は線維筋痛症さんの方です)を受けてきました。

ここ最近(2カ所お話が終えてから)、調子が悪くて寝込んでいることが多かったです。

関係のないコメントネタからですが、私もダブルスタンダードに混乱します。どっちが正しいのか!と1つだけが正しいと混乱しないのだが、●●は正しくて、別の場所に行ったら△△が正しくて●●は違っている(使わない)は、自分のマニュアル脳(別名:コンピューター脳)と相談し翻訳作業して答えを出したら、話などが先に進んでいて、進んでしまった話の内容も相談・検証作業することの繰り返しです。ウンザリすることが多くて、混乱という爆発を起こしてしまって自己嫌悪もしくは他人攻撃してスッキリしないと自分が壊れてしまうんじゃないのかなと私は思います。

>パンダさん

お気遣いありがとうございます。

最近、自分のブログよりはTwitterで書いていることが多いです。Twitterで自分の状態などを記録しています。診察時に持っていっていることがあります。たいていはA4用紙1枚(長くて2ページ分)におさまるように箇条書きにしています。2人とも(主治医のこと)、Twitterでもミクシィの日記でも何でもいいから記録していきなさいと言われています。

>ksさん

配偶者掲示板で「共感が少なくてすみません」と書いたのは、自分自身が自閉さん度最重度の人で、定型さんみたいに共感すると言う気持ちが少ないと言う意味です。定型さんみたいに上手でかつ程いい『共感できる気持ち』を出すのが今でも難しいです。『共感する』と言うことを今でも学習している訳なのですから。

気遣いのポイントというかピントのズレの話ですが、ある有名な専門家の方が言っていたことをたとえとして書きますね。

ある自閉っ子のお父さんが具合を悪くして家で休んでいました。その子(自閉っ子)が心配になってバタバタと大きな音を出して階段を下りました。

「お父さん、大丈夫?」と心配して、お父さんのところに駆け込んだと言うことです。

この場合の気遣いって、具合の悪くなったお父さんに気を遣って静かにして階段を下りたり大声を出しにくくすると言うことだそうです。

その子の気遣いは、階段の音をバタバタと大きく響いてでも素早く駆けつけて「お父さん、大丈夫?」と言う気遣い。

その子なりに気を遣っているのだが、気遣いのポイントがズレていたと言うことです。

その場にあった気遣いがズレていたたとえの1つです。

まだ、本調子ではないので、今回はここまででお許しを。

>パンダさん
すみません。うっかり小文字にしちゃいました。
あと、私が以前序文を紹介した本はThe Other Half of Asperger Sydromeです。
ご存知かもしれませんが、Aston博士のサイトは以下。
http://www.maxineaston.co.uk/cassandra/

>Rosamondeさん
体調悪いのに返信ありがとうございます。

ご自分で「共感が少ない」ということを自覚されておられて、で、私に対して「共感が少ない言い方でKSさんは、この文章をそっけなく感じてしまうかもしれない」と気づかってくれた・・・ということなんだと思います。そのお気持ちが嬉しく感じられました。(>ひょっとして定型的反応で、Rosamondeさんの意図と違ってます?)

ピントのズレの話、ありがとうございました。これ、ズレというよりも、気づかうポイントの「数」の問題かもしれない・・・と思いました。

定型の場合:
1.お父さんが心配。
2.様子を見に行きたい。
3.お父さんはもしかしたら眠ってるかも。
4.大きな音をたてたら、起こしちゃうかも。
5.もし、起きてたとしても、体調悪いんだから、うるさい音は体調にさわる。
6.静かにそっと見に行こうかな。
7.でも、寝てたら起こしちゃうかもしれないから、今はよそうかな。

などと、いっぱい色々なことを考えて、その結果としての「判断」があり、その判断の結果としての「行動」があるんだと思います。そして、「見に行く」を選んだ場合は「静かに行く」という「行動」になるんだと思います。

もちろん、「お父さんが心配! 見に行かなきゃ!」というのは純粋な気持ちであるし、これも気づかいであることは間違いないんだと思うけれども・・・。

こういう事例を紹介していただくと、分かりやすいです。私、「理論」だけだと、どうもよく理解出来ないのよね。

体調が悪いとのこと、どうぞお大事に。執筆やその後の作業のお疲れが出たんでしょうね。

>カレンさん
私の場合は、「好きではなくなった」というより、色々な変化の中で(子どもが産まれるなど)それまで知らなかった「好きになれない」夫の顔が表面化したってことかな?と思います。

>Rosamondeさん

同じ行動でも、相手がどういう人かということによって、それが「気づかい」になるか、「気がきかない」になるかが違ってきますよね。だから、まずは、「相手が何を喜ぶか」ということを考えるっていうのが一番の「気づかい」かもしれないと思います。相手あっての「気づかい」だから。

ドタドタ音を立てて急いでお父さんのところに行く子どもを、目を細めて、「お父さんのこと、そんなに心配してくれたんだね。ありがとう」と言う父親もいれば、「調子悪くて寝てるのにうるさい!」と怒鳴る父親もいるでしょう。

「お父さん寝てるみたいだからそっとしとこう」と父親を見にいかなかった場合、「なんて薄情な!」と思う父親もあれば、「気をつかって寝かせておいてくれたんだな。ゆっくり休めて良かったよ」と思う父親もあるでしょう。

「気づかい」って難しいですね。

定型の気づかいがうまく機能する場合もあれば、非定型の気づかいがうまく機能する場合もある訳で、場合によっては、定型の方が「気がきかない!」と思われる場合もあるということですよね。

一番いいのは、「相手に合わせた」気づかいが出来ることなのでしょうね。そのためには、まずは、相手を知るということなのでしょうね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/38778484

この記事へのトラックバック一覧です: コミュニケーションの共有基盤は?:

« うれしいこと | トップページ | アスペと定型問題の多様性 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ