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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年2月 4日 (金)

対話を支える「私たち」

(予めの言い訳: 以下に書いたこと、読み返してみると、特に後半の方は定型語にもなっていないパンダ語の連続かも知れません (^ ^;)ゞ  で、こういう議論の仕方が「アスペと定型」のコミュニケーションに相応しいのかどうかも全く自信がありません。 弱視の方には書き方に非弱視者とは異なる配慮が必要なように、定型と異なる理解パターンをもたれているアスペの方にもわかりやすい書き方、わかりにくい書き方とか、そういうのがあるのかなとも思いますし、そのあたりはまた遠慮無くびしばしとご指摘下さい m(_ _)m )


 joさんからいただいたコメント、私にはちょっと難しくて、ゆっくり読み直して「ああ、こういうことだろうか」と勝手に解釈(改釈?)させていただくと、なんだかすごい重要な問題を提起して下っている感じがしました。

 次はその頂いたコメントの最後の部分です。


> しかも、ウツになっちゃた後は、すでに「健全」に機能できなくなってるし。……こうなったら「おかしいのは私の方??」という言明すら『現実』にすごく近づいていたりします。もう地獄絵ですけど。ほんとにスパイラルでもがいているのって、そういう感じじゃないですか。そういう状況下で、「おかしいのは自分の方かもしれない」という可能性を担保しないで進むことは、どこか理性的じゃないと私には思えてしまいます。その「自分に何かが見えていない」可能性を担保することは、「ええっ、なんだ、そうだったのか!」という感動と理解に到達できる可能性を確保することだと思いますが。


 この文章より前の方で書かれている(と私が思う)ことは、定型の人間がアスペルガーの配偶者と生活していると、お互いの常識がすごく違ったりするものだから、それまで当たり前と思っていた自分の「現実」の世界が、なんだか怪しくなっていってしまう、ということが起こるということ。

 そして自分のそれまでの「当たり前(常識)」に不安を抱いて、周囲の人に配偶者との間で抱える自分の悩みを話してもなかなか理解してもらえない、ということがあって、そうすると、「常識外れなのはもしかして自分の方?」という思いが出てきて、ますます不安になっていくということ。(カサンドラ状態ということです)

……えっと、ちょっと注釈ですが、ここで周囲の人がなかなか信じてくれないのは多分無理無いところがあって、このブログの始めに関連する問題を少し書かせていただきましたが(家でほっとできるってどういうことなんだろうか)、特にアスペルガーの人は外では頑張って他の人に合わせるようものすごく苦労して努力しているけれど、親しい人との間で素の自分に戻るから、外で無理に頑張っているその人の姿だけを見ている人にはすぐには信じられないということも起こりうるのだと思います。……

 つまり、足下がどんどん揺らいでいってしまうわけですね。それは昨日の記事(対話と翻訳と解釈)で紹介したななさんの「対話が成立する前の翻訳」の状態と同じようなものなのではないかと想像します。「もう、何が正しくて、何が間違っているだか、全然わかんなくなってしまう!」というような混乱状態。

 さらにASとかADHDとかの障がいのことを考えてみると、スペクトラムという言い方があるみたいに、「正常」と「障がい」の間に明確な線引きがあるわけでもなくて、極端な話、ASの人が正常の人を見るとADHDっぽく見えるし、ADHDの人が正常の人を見ると逆にASっぽく見える、みたいな「相対的な判断」にすぎないかもしれない。だとすれば自分が「正常」と思っていたのは、別に確かな根拠なんて何もないかもしれないじゃないかと思えてくる。

 そんなこんなで自分の足下が崩れ去って、「自分は正しいんだ!」という自信もなくなり、それどころか「自分が悪いのではないか」という思いにさいなまれるようになって、最後には鬱になってしまう。
 
 で、上に引用させていただいた文章になりますが、そうやって鬱になると、ますます自分がかつて思っていた「正常」の状態からさえも実際に自分が離れていってしまうわけだし、「現実を見失っておかしいのは自分の方だ」という考え方がますます説得力を持ってきてしまう。

 そういうのは「地獄絵」のような状態だということですよね。


 もしここまでに書いてみた私の理解が的外れでないのだとすれば、私もjoさんのおっしゃるとおりだと思います。ななさんの話で言えば洗濯機の中のハツカネズミ状態ということでしょうか。

 ただし、joさんはそこでコメントを終えられているのではありません。その先に、そういうふうに自分の「現実(常識)」に確信を持てなくなるような、危うい状態になるのだけれど、でもそうやって自分自身の「常識」を離れてみることで、いつかは「もうひとつ別の見方(アスペルガーの人の見方)」もわかるようになるかもしれない。そういう可能性を手に出来るのではないか。ということを述べられています。


 と、いう風にjoさんのコメントについて怪しげなパンダ理解をしてみたところで、次にこの問題提起が重要だと思えるのは何でなのかを書いてみたいと思います。

 ここでjoさんが地獄絵とかスパイラルとか書かれている状態というのは、みみさんの用語で言えば「ダブルバインド」みたいな状態ではないでしょうか。自分の常識ではうまく安心して生きていくことが出来ないという辛い状態を続けていながら、しかしそこを離れてしまうと問題の解決はないようにも思える。自分の常識を相対化することはとても苦しいことだけれど、相対化しなければパートナーとの新しい関係に進むこともできない。

 これ、異文化間のコミュニケーションでも同じような葛藤で苦しむように思います。相手は自分の常識では推し量れない。常識外れもいいところだったりする。でも、じゃあ自分の方が絶対正しいと言えるのかと考えると、そうも言えない。実際、異文化の人たち同士では、そっちの方が正しいとされている。いや、どちらが正しいとか、そういう問題ではないのかも知れない。そもそも正しさなんて相対的なものに過ぎないのかもしれない。

 でも「なんでもあり」の世界というのはめちゃくちゃ混乱してしまって生きて行かれないし、相手との関係だって結局うまくいかない。相手にも合わせきれず、元の自分にそのまま戻って閉じこもることも出来ず、どっちつかずの状態でどうしていいかわかんない。でもこの場から逃げてしまえば、永遠にその異文化の人と理解し合うことは無理だということは間違いないと思える……


 で、ここまで考えてきたときに、ななさんの「対話的関係が成立した後の翻訳」の話が生きてくるように思えます。どちらの立場もそれぞれに理由があり、それぞれに正当であることを「お互いに」尊重した上で、その間を橋渡しする道を探るという生き方ですね。ただし、ここでは次のことを新たに強調してみたいんです。「それぞれに正当」とは何か、ということです。

 「対話」というと、通常は自立した個人と個人の関係、というイメージがないでしょうか。集団の中に埋没して、回りの顔色ばかりうかがって自分で考えられないような人は、結局相手の人と話をしても集団の常識を引きずっての判断しかできないし、そういう集団に埋没した自分を相対化し、独立した個人として相手と「虚心坦懐、裸になって対話する」ことは出来ない。そんなイメージのことです。

 ところがここに大きな落とし穴があるのだと思います。たとえばカルチャーショック状態になると嫌と言うほど体験するように、自分の確固とした信念、自立した自分の判断と信じて疑わなかったことが、その信念や判断を支えてくれる(共感してくれる)他者がいないところでは、じつに簡単に(?)崩れ去ってしまいそうになると言うことです。joさんがカサンドラ状態という言葉で説明してくださった状態ですね。

 これはその人の信念がもともといい加減だったからだとか、根性がなかったからとか、そういうことではないと私は思います。「正しさ」というのは、それを共有してくれる人(尊敬する人でもいいし、父母でも良いし、親友でも良いし、あるいは「神」のような存在でも良いし)がなければ、そもそも成立しないし支えられないものだと思えるのです(ただし、ここは「定型の人間は特にそうだ」ということなのかも……)。だからこそ、文化が異なれば「正しさ」が異なるということも起こる。

 もちろん、「対話」はその対話する人が、自分の属している集団に埋没して、そこでの発想に単にしがみついているだけでは成立しない。その意味では集団から自立しなければ対話は成り立たない。でも、その対話する自分の「正しさ」を支えている、他者とのつながり(固定した集団である必要はありません)が存在しているのだと言うこと、そのことは否定しようもなくついてくる「事実」だし、そのことは繰り返し自覚しなければならないと思うのです。そうすることで、それまで自分を育て育み、支えてきてくれた人と人とのつながりを支えとして(言葉を話すということ)、「自立した個人」として「対話」に望むことが出来る。

 そうすることは別に自分の「正しさ」を相手に対して強制することではありません。私は私が生まれ育った状況の中で、そこで共に生きてきたいろんな人との関係を足場にして、自分なりの「正しさ」をその人達と作り上げてきた。そのことを認めるということは、違う状況に生まれ、違う関係を足場に生きていた人には、その「正しさ」は通用するとは限らない、ということを認めることでもあるからです。もちろん、生まれながらに定型から「障がい」と名付けられるような条件を持って生きてきた人は、そういう定型とは異なる状況の中での生き方なり「正しさ」が生み出されていくことになります。

 「アスペルガーという理解を共有することの意味」は、こういう面からも言えることではないでしょうか。もちろんここで「アスペルガーという理解を共有する」というのは、「お前は障がい者で、俺は正常者だ」といったような、差別的な関係をそこに作ることではありません。お互いにアスペと定型という、違う個性を生まれながらに背負って周囲の人たちとの関係を作りながらそれぞれ生きてきた、そのことをお互いに認め合うという意味です。

 

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コメント

はじめまして
AS傾向の強い(?)主人を持つ、妻という立場の者です。
joさんの苦しみが私の今までの苦しみと重なります。
私は今うつ状態です。(自己判断)

今までは、主人の言動を理解することでうまく夫婦を続けることが出来ないかと考えてきました。つまり、私流の好意的な解釈で、自分が傷つかないようにしよう、と努力しましたが、疲れました。
それでもう一つの側面から、このうつ状態から抜け出せないか考えてます。
私は、AS傾向の人に振り回されて心身消耗してしまう人とそうではない人がいると考え
、私は前者であると考えました。

私の自己分析
1、私は育った環境から考えACであると思われます。
2、私は小さいときから、本(文学的文章の方)が好きで、感受性が豊かと通知表にも書か  れていました。感情を言葉にすることが得意で、感情を表現する語彙をたくさん持って  いると考えました。
3、私は、考えにひたりやすい。ああでもないこうでもないと永遠に考えていきます。高校  の時友だちから「考えすぎ」といわれました。

1から、私は自分の結婚・家庭生活にものすごい夢期待を持っていた。
2から、私流の感情の共有できるパートナーを熱望していた。
3から、無い答えまで見つけようとしていた。

これが、私のAS傾向の人に振り回される弱点(?)かなと考えました。

私がこのうつ状態を抜け出すための自分側の出口があれば、そちらも考えていこうと思っています。この状態に真正面から向き合うには疲れました。

パンダさん、ASの人に振り回されてしまう人の共通点みたいな話題で一つ考えてもらえませんか。

〉kameさん

あれまあ!
私今日、何気にブログを書いていて、自分の中で新発見(大したことではないんですが、)したことがあって、それは「感受性」についてだったんです。

パンダさんのとこに来て、びっくり!
kameさんのコメントを読んでびっくり!
「感受性」…結構重要だと思います。

良かったら、一度ブログ、覗いてみて下さい。
(パンダさん、宣伝でごめんなさい)
アドレスは3日位前のコメントに入っています。

>そうすることは別に自分の「正しさ」を相手に対して強制することではありません。
 ~「正しさ」が生み出されていくことになります。

このような意識を持って向かい合えるとしたら、私にとってはとても理想的な状況です。
天動説vs地動説ではなくて、単純にお互いの基点がどこにあるのかを意識しながら、時には自由に移動して理解しあえたら…と少々妄想に走ってしまいました。

定型と思われる方達と話していて、ある種の強さを感じるのは、自らの足元とその存在への信頼感を見たときです。私は物心ついた頃から不安が強く、そういった絶対的信頼感を持ったことはありませんでした。それは私のアスペルガー傾向だけではなく、私の成育歴(機能不全家庭でした)の影響も少なからずあったとは思います。
そんな中で、自分に出来たのは「個人的な価値感」を手放さぬことでした。

夫と話していて、彼の中にあるその揺るがぬ価値感(先日コメントした会話のような)を見ると不思議で、彼に尋ねてみたことがあります。
「自分が見ている世界と他人が見ている世界は同じだと信じているの?」
「同じ色を見て、二人とも青色だと言ったとしても、それが本当に同じ色を感じていることのだろうかという疑問はないの?」
彼は質問に答えることは無く、今回の記事にに書かれている苦しさと同じような事を言っていました。
多分、私は酷いことを言ったのだと思います。

ここまで書いて来て、ちょっと頭の中がぐるぐるして来ましたので、休憩して来ます。
焦っちゃいけないと分かっているのですが、頭が離れずなかなか難しいです。

kemeさん

 コメントをどうもありがとうございます。
 kemeさんの状況は具体的にはもちろんわかりませんけれども、
 ほんとにしんどい思いを積み重ねてこられたと思います。
 そういうぎりぎりの状況の中でも、joさんのコメントをひとつの手がかりに
 ご自分の状況を改めてご自分なりに整理されたことはよかったですね。
 しんどい状況の渦中にいて、自分自身が見えなくなってしまっているときに、
 同じような状況で苦しんでいる他の人を見ることによって、
 その渦中から少し離れて自分の状況を見つめ直し、
 必要に応じてそれまでと違う道も模索できるようになるとすれば、
 こういうコメントのやりとりはほんとに大事だと思いました。

 子ども時代に大分家庭環境で苦労されたとのことですけれども、
 私もこのブログを始めてから、そういう方がぼちぼちいらっしゃることに
 気がつきましたし、私自身もそこが背景になっています。

 ただ、ウィキペディアでちょっと見てみたのですが、
 アダルトチルドレンという概念はなんだかすごく複雑だったり
 だれもが当てはまりそうな広い定義だったり、
 かなり混乱している見方のようですね。
 
 私自身、アスペルガーについては最近
 当事者のひとりとして考え始めたところで、
 専門的な知識もないし、自分自身の限られた経験をベースに
 他の皆さんの体験などをコメントで教えていただきながら
 自分勝手に考えてみているだけにすぎません。

 ということで、どういう人が振り回されやすいのかとか、
 かなり重要な問題だとは思うのですが、
 それとアダルトチルドレンという概念がどう関係するのかとか、
 そういう問題を一般的な形で書く知識も経験も能力もありませんので、
 その点は申し訳ありません。

 なにかもっと具体的な問題について、
 お互いに情報交換したり、意見を交わしあったりするなかで、
 それぞれの人のそれぞれの状況にあった道が見えてくる、
 そんな展開になるといいなと思います。

 それと、鬱状態と書かれていましたが、
 私の場合は幸い理解のあるお医者さんにお世話になれて、
 またいただいている薬も結構効果があり、手助けになっています。
 (これはいろいろ相性があるみたいです)
 お医者さんにもいろいろあるでしょうし、なんとも言えませんが、
 条件があれば一度行ってみられてもいいかなと思ったりします。


繭さん

 私の書いてみたことが繭さんには「理想状態」として受け止めていただけたことは
 うれしかったし、ある意味では驚きでもありました。
 さらにどの位の方に広がりを持つかはわかりませんけれども、
 とりあえずはアスペルガーの側の繭さんと、定型の側の私の間では
 ひとつの「理想」が共有されたと言うことですよね。
 これは私にとってはとても力づけられることですし、
 そんな共有が成り立つかどうか、全然わからないでブログを始めましたので、
 なんかびっくりという感じでもあります。

 もちろん、joさんも書かれていたように、ネット上でのやりとりのことですから、
 実際の人間関係に比べたらかなり冷静になれる部分もあるわけですし、
 ネット上で「理想」が語れたとしても、それぞれの人が
 現実の世界の中でどこまでそれを実現出来るかは、話は別でしょう。
 そういう限界はあるとしても、それでもやっぱりうれしいことですね。

 明日アップ予定の記事は、ちょうどこの問題にも関係する話でした。
 またよろしければコメントなどよろしくお願いします。

 それと、「自分が見ている世界と……」という議論、
 哲学の方ではある意味一番根本的な難題のひとつのようですね。
 私も門外漢で聞きかじり読みかじりですが、定型の人間ではあっても、
 その問題は学生時代にかなり考え続けましたし、
 今でも折に触れて考えてはいます。

 専門の哲学者でもそこで躓いてその先に行けない人がほとんどみたいですし、
 私も含めて普通に暮らしている人間にしてみれば、
 日常生活の中でその問題にずっとこだわっていては生きていけないし、
 こだわらなくても現実の生活は成り立っていくと言うことで、
 あえてそこはつきつめて見ないようにしていることが多いのかなと思います。

 

 先ほどの私のコメントについて、ふと後から思ったんですが、こうやってすぐに「共有できた!」とか、勝手に思いこんで喜ぶ所なんか、いかにも典型的な定型の人間のすることですね (^ ^;)ゞ

 勝手に共有を押しつけて失礼いたしました m(_ _)m

 ところでみみさんのブログアドレスは以下ですね?

  http://tmgpwa.blog.fc2.com/

パンダさん

>「正しさ」というのは、それを共有してくれる人(尊敬する人でもいいし、父母でも良いし、親友でも良いし、あるいは「神」のような存在でも良いし)がなければ、そもそも成立しないし支えられないものだと思えるのです。

またまた話が唐突かもしれませんが、これを共有してくれる人は、最終的に深いレベルでは、具体的な人ではなく、やはり「神のようなもの」だと感じています。これまでの私の言葉では「命」とか「魂」とか「コア」になるのかもしれません。

なので、この深いレベルにおいては、文化が異なっても「正しさ」は異ならない・・・私はそう感じています。

この話はここで語るには長くなるので、また別の機会にしますが。


繭さん

>定型と思われる方達と話していて、ある種の強さを感じるのは、自らの足元とその存在への信頼感を見たときです。

この部分、驚きました。これは、私が夫を見ていて結婚前からずっと感じてきたことで、足元がおぼつかない・居場所がないと感じていたのは、ある時期まで、むしろ私の方だったからです。

夫の場合は、家庭の中で「この子はこんなふう」とありのままを受容され、とても可愛がられて育ったようなので、そのあたりの成育歴によるのだろう、と最近よく思います。

ASであれ定型であれ「どんな環境の中で育つか」は、とても大きな違いを生むのでしょうね。

カレンさん

> またまた話が唐突かもしれませんが、これを共有してくれる人は、最終的に深いレベルでは、具体的な人ではなく、やはり「神のようなもの」だと感じています。これまでの私の言葉では「命」とか「魂」とか「コア」になるのかもしれません。なので、この深いレベルにおいては、文化が異なっても「正しさ」は異ならない・・・私はそう感じています。

 はい。この話、私なりにわかる感じはあります。
 というか、大学時代の大事な友人と、この議論をかなりやりました (^ ^;)ゞ

 で、未だに私は「聖なる次元」には入れないんです……
 その友人の彼女は私のことをとても宗教的な人と評しましたが、
 やっぱり俗世間で生きていくのが運命みたいですね (^ ^;)ゞ
 それはそれで大事かなと思っています。
 そんなこんなで、宗教者の中では愚禿さんにわりに惹かれるんでしょうね。

パンダさん

>とりあえずはアスペルガーの側の繭さんと、定型の側の私の間では
 ひとつの「理想」が共有されたと言うことですよね。

そうですね、私も驚き、そして嬉しいです。私は感情的共感は不得手ですが、共有は嬉しいです。はじめは、定型語の成り立ちを学びたいと思ってこちらにお邪魔したのですが、このような「理想状態」が見出されるとは考えていませんでした。

先日の記事で、お互いの言語にずれがあることを自覚するのが大切といったことを書かれていましたが、同じように、例え現実世界でつまづき続けたとしても、理想的なスタンスをイメージし、模索を続けることは、様々な所で変化をもたらす可能性につながると思います。

それに私にとっては、結果的にその瞬間にしていることが同じだったとしても、見えない状況で行うのと、視界の開けた状況で行うのとでは、心持ちに雲泥の差があります。

先程は、嬉しい!と思って書いているうちに、夫にこの話をしたくなってしまい、
「いやいや、彼にはお休みが必要なんだから、私がまたアスペルガーにまつわる話を一方的に延々と話してしまったらいけない(今の状態では彼に相槌すら打たせないこと必至です)」
「けど話したい。早く理解し合いたい」
「いやいや…(以下繰り返し)」
と、ぐるぐるしてしまいましたが、少し落ち着きました。どんなに良い発見だとしても、押し付けてしまってはいけませんし。
幸いなことに彼は今日は遅く帰るので、被害に合わせずに済みそうです(^^)

>それと、「自分が見ている世界と……」という議論、
 哲学の方ではある意味一番根本的な難題のひとつのようですね。

そうだったのですか、ぼんやりとしか知りませんでした。
そういえば、私にはそういう話を好んで付き合ってくれる大切な友人が一人いて、その人は哲学を専攻した人でした…。ううむ。
パンダさんもそういったことを考えて来られたのですね。なんだか嬉しいです。
今更ながら、哲学も面白そうと脱線してしまいそうです。

> 日常生活の中でその問題にずっとこだわっていては生きていけないし、
 こだわらなくても現実の生活は成り立っていくと言うことで、
 あえてそこはつきつめて見ないようにしていることが多いのかなと思います。

そうかもしれませんね。私の持つ不安感は殆どこの問題で表せると思って尋ねてみたのですが、軽々しく口に出すと、相手を不安にさせることがあると知りました。


カレンさん(でしょうか?)

>私が夫を見ていて結婚前からずっと感じてきたことで、足元がおぼつかない・居場所がないと感じていたのは、ある時期まで、むしろ私の方だったからです。

カレンさんにそんな時代があったとは、驚きました。
私は今、少しづつ、自分と周囲を肯定する方法を試みている最中です。もう大人になってしまったので、自分で自分を受容して可愛がっていますが、それはそれで効果が出るものですね。

パンダさん

やさしい言葉ありがとうございます。
今、パンダさんのコメントを読んで、一人で泣いています。

私が、この数十年求めていたのは、この思いやりの言葉だったと。
「たった一人でいい、この世界の中で自分を大事に思ってくれる人がほしい。私は誰にも愛されず、このまま人生を終わっていくのか」と心の中で血を流していました。

アスペルガー配偶者の会♪井戸端掲示板でずいぶん救われ、パンダさんの言葉で、また違った感じで救われました。
たぶん、アスペルガーの夫を持つ私は、男の人の広い包み込みで、自分を救ってほしかったんだと思います。

私には、アスペルガー配偶者の会♪井戸端掲示板での妻同士の共感・苦しみの共有で救われる傷と、
アスペルガーの夫を持つ妻である自分が、アスペルガーの妻を持つ夫(男性)からの共感・いたわりで救われる傷があったように思います。

パンダさんのブログの内容は私にはとても難しくて、何回も何回も読んで、自分の経験や気持ちにあてはめて理解しようとがんばっています。
私のような感情的なコメントは、幼稚ではずかしいのですが、勇気を出して書いてみてよかったです。
本当にありがとうございます。

うつ状態のことも、お医者さんにお世話になるということも考えていこうと思います。

繭さん

> そうですね、私も驚き、そして嬉しいです。私は感情的共感は不得手ですが、共有は嬉しいです。

 ああ、よかった。「共有」は成り立ったのですね! とりあえずまだ限られた関係の中での限られた「共有」ですけれども、こういうことがアスペと定型の人々の間で、少しずつ少しずつ積み重なり、また拡がっていくことがあればいいなあと夢想します。

 「現実の生活」を抱えたもっと重たい状況があるでしょうし、いろいろ紆余曲折はあるでしょうけれど、繭さんとパートナーとの間でも、そういう「共有」が少しずつでも進むとほんとにいいですね。

 それにしても「私<も>驚き、そして嬉しいです。」というのは、定型語で翻訳すると「すごく共感しました!」となりそうなのですが、「感情的共感は不得手ですが、共有は嬉しいです」と、そこに明確な区別をされている、というところがまた興味深いなと思いました。
 
> そうかもしれませんね。私の持つ不安感は殆どこの問題で表せると思って尋ねてみたのですが、軽々しく口に出すと、相手を不安にさせることがあると知りました。

 繭さんにとって、ご自分が抱え込んでこられた不安を象徴的に表現する言葉だとすれば、それを理解すると言うことは、不安の状態に自分も入り込んでいく、ということになるでしょうから、無意識のうちに抵抗してしまう部分が出てくるのだと思います。「そこを見ないことで自分の精神的な安定を保つ」ということを、多くの人はしているだろうと思うのです。大部分の人は見ないですませている部分を見ずにはおれないかもしれない、という状況に立たされて、パートナーの人も悩んでいらっしゃるのかも知れないですね。

kemeさん

 コメントを拝見して、一般的には「良かったですね」と言うべき所なのかなと思うし、そうも思うのですが、それよりもまず「痛み」が胸に来ました。そういうしんどさの中を必死で生きてこられたんだなと言うことが、やっぱり自分自身が抱えてきた傷の部分にも響いてくるんでしょうね。kemeさんのコメントを頂いて、改めてまた自分の傷を見ることが出来たような気がします。

> パンダさんのブログの内容は私にはとても難しくて、

 ですよね……。
 これ、わかりにくくてどうもすみません。m(_ _)m
 
 そうかな、とも思ってたんですが、どうしても普段の自分の考えていることに引き寄せて、自分の思考パターンで、自分勝手な書き方で書き進めてしまいますので、「もしかしてわかりにくいかな」とも思いながら、でも「どういうところがどういう風にわかりにくいか」が自分ではなかなかわからなくて、直し方もすぐにはわからないんですね。

 ですから、ご遠慮なく「ここは意味がわかりにくい」とか、具体的に教えていただければと思います。少しずつでも工夫を積み重ねていければと思いますので。

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