2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 他人の気持ちは本当にわかる? | トップページ | うれしいこと »

2011年2月 6日 (日)

アスペの人はなぜ個性的?

 カウンセラーなどをされているSanaさんのブログSilent Voices:Sanaのカウンセラー日記に、「アスペルガー症候群:最も分かりにくい障害」というタイトルの連続記事がありました。その(1)にこんな事が書かれています。

 「カナータイプの自閉症とアスペルガータイプの障害がいくつかの共通点を持ちながらも、アスペルガーの方が言語や知能の発達の遅れが目立たず、しかもコミュニケーションや社会性の障害が多様で、「典型例」を探すのが難しいという特性が、専門家の共通理解を得るのを難しくしている」

 ようするに、アスペルガーと言っても、それぞれの人がすごい個性的で、「これこそアスペルガーの見本だ!(正当派アスペ???)」みたいなものはなかなかないんだよね、ということですよね。

 実際、このブログにコメントを下さるアスペ関係者(?)の皆さんの数は、世界のアスペ関係者の数の中ではごくごく一部の一部の一部の一部の……の一部なわけですけれど、そのみなさんのやりとりの中でも、当然のようにそれぞれの方の個性的な体験や考えが書かれていて、「そこ、私は違うんですけど」みたいな指摘とか、アスペの特徴かと思っていたら、逆に定型の人とアスペの人が「同じ」だったりとか、そういうエピソードがもういくつか出てきています。繭さんの書かれたことに対してカレンの夫さんが下さったコメントもその一つでした。

 で、なんでなんだろうと考えるわけですが、こんなふうに考えてみると、まあ当然なのかなと思えてきます。


 カナータイプ(知的な遅れを伴った)自閉の子どもたちや大人の人の場合、「つきあってみれば」などという以前に、ちょっとやりとりしてみれば、あるいは場合によってちょっと様子を見ただけで、もうすぐにそうわかってしまいます。なぜかというと、会話そのものが極めて成り立ちにくいし、またその話し方も著しい特徴があり、それ以前に定型的な感覚で会話にとって自然な形で身体が向き合うということもむつかしいからです。

 すごく単純化して言ってしまうと、カナータイプの自閉の人との間では、言葉を中心として基本的なコミュニケーションを成り立たせること自体がとても困難になるのに対して、アスペルガーのみなさんは、たとえばこのブログでもある意味とても自然なやりとりをさせていただけるように、そこには困難はほとんど感じられません。ただ、つきあっていくと、そのコミュニケーションの仕方に、何かズレがあることに定型の側は気がついていく、という形になるわけです。

 立場を変えてアスペの人の方から考えてみると、カレンの夫さんも物心ついた頃から違和感は感じていた、と言われています。物心ついた頃、というのは言い換えれば言葉でのやりとりが上手になって、おままごとや○○ごっこ(ヒーローものなど)みたいに、一緒に物語りを作っていくような遊びを他の子どもたちと一緒にやることができたり、コミュニケーションの中でお互いの気持ちや考えていることなどをやりとりしながら、調整しながら遊ぶ力が大事になる頃でしょう。そういうときになんかズレを感じ始められるわけです。

 ただ、そうはいっても全然遊べない訳じゃないし、「ちょっと変わってるね」と言われるくらいで、それなりにみんなの遊びにもついて行くし、これは想像ですが、家庭環境や性格などによっては、特に男の子なんかは一時期リーダーみたいになる子もあるかも知れないなあという気がします。小学校に入ってからも勉強ができたりできなかったりは定型の子もそうなわけですし、アスペの人にはむしろ勉強が出来て、高学歴出世コース、みたいなひともあるわけですよね。

 実際、そうやって違和感を感じながらも、なんとかその中で生き延びていけるように、いろいろな工夫を積み重ねながら定型の社会の中で成長し、定型の人たちとコミュニケーションをとりながら自分の居場所を作っていくことになります。アスペルガーの人のひとりひとりの「生き方」というのは、そういう状況の中で作られていくわけです。

 そうすると、定型にとっても、生まれた場所や時代、家庭の環境などが違えば、それぞれの人の個性が大きく異なっていくわけです。たとえば日本人の子どもであっても、海外で異なる文化の人々とのコミュニケーションを積み重ねながら生まれ育った人は、日本の中で育った人とすごく違って、「帰国子女」という人たちも日本の社会になじむのが大変と言われるくらいに「違う個性」になっていきます。環境というのは本当に大きくその人を変えていく。

 同じようにそのアスペルガーの人がどんな家庭に生まれ、親がどんな人で子どもをどんな風に育て、そこでどういう親子関係が作られ、また地域や学校の中でどのような環境があったか、本人が男の子なのか女の子なのか、勉強は出来る方かできない方か、学校の先生がどんな先生だったか、ちょうど気の合う友だちに恵まれたかどうか、などなど、いろんな条件が変わると、その中でどんな風な生き方を作り上げるかはほんとに千差万別になっていくのは当然ということになります。

 つまり、カナータイプの自閉の人は、コミュニケーションから学び、コミュニケーションを自分なりに工夫する、ということができる範囲が極端に狭いのに対して、アスペルガーの人はコミュニケーションから学び、親や友だちなど、他の人たちとの関係に大きく影響されながら、自分なりに工夫して生きるということをずっと積み重ねてこられるわけです。当然そこにはその人の「価値観」といったものも千差万別に作り上げられていくことになります。

 定型と比較して、定型の視点からアスペルガーの人を「定義」したりするときには、「コミュニケーションができない」という側面にものすごく焦点が当たりがちですし、実際たしかに定型の側から見れば、定型にとってはごく自然な、当たり前に思えるコミュニケーションがうまく取れず、そこでいろんな葛藤が生じることは間違いありません。だから、カップルでわけのわからない葛藤に苦しんでいる場合、そこに実は定型とアスペのコミュニケーションのズレという問題があることに気づくかどうかは、多くの皆さんの経験でもものすごく大きな意味を持っていることは明かです。それに気づくか気づかないかでほんとに違う。

 けれどもそれに気づいたあと、アスペと定型のカップルがその後うまくいくかどうか、ということを最終的に左右する一番大きな分かれ目は、そのひとがアスペルガーかどうかなのではなく、そのカップルカップルで、「アスペルガーの人が持っている価値観や個性」と「定型の人が持っている価値観や個性」の相性の問題や、その調整の可能性なのだろうと思うわけです。もちろん調整可能性の幅を決めるのは、本人同士だけに限られず、友人や実家、子どもや地域社会等との関係がそこに効いてくるはずですが。

 そうすると「価値観や個性」が作られていくのはコミュニケーションを通してである、という、上に書いたことが改めて大事な問題になります。つまり、「コミュニケーションができない」、正確に言えば「定型的なコミュニケーションは苦手」ということよりも、むしろ「(アスペ的に)コミュニケーションができる」ということの方が、現実のカップルの抱えている問題を考え、お互いの未来をどうしていくのかを考えていくときには、最終的にはずっと大事なポイントになるのだろうと思えてきます。

« 他人の気持ちは本当にわかる? | トップページ | うれしいこと »

コメント

パンダさんの、今日のテーマは、私個人、凄く主張したくて、また、社会に対して、(社会の方から先に)気付いてもらいたかった事でした。定型側のパンダさんが、そこまで考えて下さって、器の広さと、優しさ、嬉しさを感じます。

全てはそうと、限りませんが、カナータイプは、ある意味、「大切に」「優しく」「丁寧に」小さな頃から、受け入れ体制、違う意味での理解、がありますよね?高機能で、辛い人はたくさんいると思います。

それと、昨日のカレンの夫さんのお話、(お久しぶりです!)、とても、興味深いです。兄も同じでした。明るくて、活発で、いたずらガキ、クラスのガキ大将の二番て…みたいな感じだった人が…徐々に、真面目な、がり勉、無口、繊細、カチコチ頭の偏屈に変わってしまったのです(泣)
(←タイプは、カレンさんのご主人とはまた違うと思います、失礼)そこも、私は重要視しているんです。

それと、繭さんと、パンダさんのやりとり(笑顔とミラーニューロン)も、非常に、知りたがりのみみとして、興味深いです。

私もパンダさんと同感で、ミラーニューロンをアスペや自閉に当てはめるには、矛盾が生じる時があります。

だって、繭さんが言ってた笑顔についての解釈と、ご主人が言ってた解釈って、全く同じ意味じゃないでしょうか?
ご主人の、「プラス、本当に自分の中に笑顔が感じる」と、繭さんの「それがわかって、自分も嬉しくなって笑顔になる」は、「全く同じ事」ではないですか?

ご主人の心の中に、デーンと、相手の笑顔という物体が登場するわけではない…と言いますか…

それは、ミラーニューロン機能が働いていないからではなく、繭さんの言葉の解釈の仕方(ストレートに受け取る)に、何か鍵が隠されている気がします。

勝手に分析してすみません(泣)
私は、原因を探っているのですが、パンダさんのテーマの、理解とかズレを無くせば、何だか、アスペとADHDに関しては、治せるのではないか?と、どうしても考えてしまうんです。
もちろん、いろんな知識が入ってきてしまった大人などは、遅いかも知れませんが、未来の子供たちなど、可能性は、大きく持ちたいんです。私たちの子供の、その子供の…そのまた子供の為に…

>正確に言えば「定型的なコミュニケーションは苦手」ということよりも、むしろ「(アスペ的に)コミュニケーションができる」ということの方が、現実のカップルの抱えている問題を考え、お互いの未来をどうしていくのかを考えていくときには、最終的にはずっと大事なポイントになるのだろうと思えてきます。

このあたり、とても大きいです。夫のやり方での(AS的な)コミュニケーションがあると知らなかったから、そして、夫も私のやり方での(定型的な)コミュニケーションがあると知らなかったから、ずっともめていたのですから。

「ASの人はコミュニケーションが苦手」とひとくくりにしてしまうのは、全く違うと思います。

また、聴覚障害のある方たちの話になりますが、彼らは聴覚障害のある人どうしの集団にあっては、障害者でもなんでもありません。耳の聞こえもまちまちで、手話中心・口話中心・書記言語中心と、いろいろなコミュニケーションモードを持っていて、それぞれのモードを相手に合わせて使い分けたり工夫したりしながら、コミュニケーションを取っています。

(もちろん、誤解が生じたり、うまく相手に伝わらなかったり、いろいろありますが、それは健聴者の中でも同じことですよね。実際、今ここでの論議は、たぶん健聴者であることを前提にしてのコミュニケーションのズレでしょうし。)

私自身、今でも、聴覚障害のある方たちの中に自分ひとりで入ったときにはそうなのですが、聴覚障害のある方たちの集団の中に入って行くと、おそらく、ここに来られている方の大多数は、強烈に、ご自分がマイノリティーになっていることを体験されると思います。


みみさんへ(お久しぶりです!)

なんでASの人・ADHDの人が差別されなければならないのか、ということをどこかで書いていらっしゃいましたが、そのお気持ちもっともだと思います。

多数対少数になってしまうから、というだけのことであって、ASとかADHDが悪いということでは全然ないのだと思います。私たちみんな、誰だって、カテゴリーのくくり方によっては、簡単に少数派になりうるんですよね。そして、その少数派が悪いのか、と言えば、その人やその集団そのものは全然悪くない・・・そんなことを、20代の頃からよく考えていました。

>繭さんが言ってた笑顔についての解釈と、ご主人が言ってた解釈って、全く同じ意味じゃないでしょうか?
ご主人の、「プラス、本当に自分の中に笑顔が感じる」と、繭さんの「それがわかって、自分も嬉しくなって笑顔になる」は、「全く同じ事」ではないですか?

このあたり、夫の話やアストン博士の本の中に書かれていること等を総合すると、たぶん、笑顔に対して瞬時に(直観的に)その意味がわかって即座に対応するのが定型の人・少し時間がかかって(論理的に分析して)解釈して自分の対応を考えるのがASの人かな、と私は思っています。

私は以前、夫には人の表情がどう見えているのかを知りたくて夫に尋ねたことがあるのですが、「表情は見えるけど、意味はわからない」と言っていました。あと、ついでですが、音楽でも、「歌詞のある曲は意味を感じるけど、歌詞のない音楽は自分にとって何も意味がない」とも。

こんにちは。
アスペルガー症候群は本当に見つけにくいでしょうし、理解しにくい、理解されにくい障がいですよね。息子が診断を受けた後(10年近く前です)、クリニックで何か相談しても、「こんなにできるんだから、いいじゃないですか。」といわれ、困ったり傷ついたりしました。カナータイプと比べられても・・・ASにはASだからこその困難があるのに、と。でも、当時は医者でさえそう言う時代でした。今はずいぶんましになりましたが、専門家にとってもまだまだ難しいんですね。

夫について気づいたことがあります。有名な、サリーとアンのテストですが、これ、大人である夫はもちろん簡単にできるでしょう。
「サリーとアン」ならできるんです。
ところが、「サリーと自分(夫)」だと、なぜかできないんですね。サリーの戸惑いや、実際の場面では当然生じる「どうしてもとの場所に戻してくれなかったの」「何で勝手に動かしたのよ」という思い、それが理解できない。そして、非難された、とパニックになる。

ここで、「どうしてもとの場所に戻してくれなかったのよ!」という、定型的に当然の気持ちをそのままぶつけるとトラブルになるので「使ったら元の場所に戻してね。」と「翻訳」して言えればいいのですが、いつもそううまくは行かないのが人間です。

さらに問題なのは、そういわれて相手があっさり「そうか、分かったよ」といってくれるとは限らないこと。「何でだよ?」といわれて、うまく説明ができる・伝わる事柄ばかりではないということ。さらには、それを説明すること自体が、どんなに言葉を選んで話しても、相手にとっては「あなたはここが欠けているのよ。この能力がないのよ」と言われている事になること。言われるほうもいやだし、言うほうだって本当は言いたくない。
そんな風にして、両方とも傷つく。
・・・難しいです。
まだまだ修行が足りない、って事かな?なんかいい方法ないでしょうか?

昨夜はその手のことでやり取りをしていて、二人ともなんだか落ち込みました。
あ、愚痴になっちゃいましたね。ごめんなさい。

えっと、昨日のコメント欄に書くべきかもしれないのですが・・・
繭さんとご主人の「笑顔」のお話、我が家でも話題になりました。
繭さんのご主人、すごく上手に表現されましたね!(誰かが自分の思っていること・感じていることを的確に言葉に表現してくれるとなぜか無性にうれしくなる私です。)
私は相手の気持ちをそのまま自動的に、「気持ち」のまま感じるんですが、夫は「自動的」にはいかないといいます。たとえば自分が何かしたときに相手が笑顔になった場合。「相手が笑ってくれた→ということは、自分のしたことを喜んでくれた→良かった、喜んでもらって自分もうれしい→自分も笑顔になる」という過程が必要なんだそうです。すべていったん言語化して認識するのだそうです。
ASの方は、脳のなかの論理を扱う部分を使って感情も扱っているそうですが、それがこういう違いになって現れるのでしょうか。

「相手がうれしいと自分もうれしい」と思うこと自体は、繭さんも繭さんのご主人も、私も私の夫も、みみさんの仰るとおり、まったく同じですよね!これ、とっても大事なことだし、うれしいことだと思います。
一方で、「相手がうれしい」と「自分もうれしい」がどんな過程を経てつながるのか、という部分に違いが見られる。これもまた私にはとても興味深いことです。

あ、これを書いている途中でカレンさんのコメントが投稿されたみたいです。
娘が音楽に興味を持つようになって、一緒に音楽番組など見ることが増えたのですが、夫も同じ事言っています。自分にとっては音楽は歌詞がすべてだと。言葉にならないものは分からないそうです。

ちょっと付け足しを・・・
さっきのコメントで、サリーとアンのテストを例に出しましたが、もともとのテストでは、おはじき(でしたっけ?)は別にサリーのものとかそこにあるべきものってわけではないですよね。だから、まったくニュートラルな心の理論の問題で。
でもその後の夫の例ではサリーのものもしくはそこにあるべきものっていう前提で書いてしまいました。実際の生活の中では、ものには何らかのそういった位置づけがありますものね(たぶんですが)。
ということでご理解ください。

ななさんへ

ななさんご夫妻とうちの2人は、本当に、とってもよく似ていますね!以前から感じていたことですが、ここまで似ている関係も珍しいのでは、と思います。夫も、「ななさんのところは、うちとよく似ている」と、かねがね言っていますよ。

>ここで、「どうしてもとの場所に戻してくれなかったのよ!」という、定型的に当然の気持ちをそのままぶつけるとトラブルになるので「使ったら元の場所に戻してね。」と「翻訳」して言えればいいのですが、いつもそううまくは行かないのが人間です。~・・・難しいです。まだまだ修行が足りない、って事かな?なんかいい方法ないでしょうか?

このやり取り、うちもしょちゅうでした。特に緊急時、例えば子どもの診察券を探している時に、ななさんのお宅と全く同じ状況に陥って電話とメールで大喧嘩をしたことがあります。(これはもう4年前・・・今では笑い話ですが)

ななさんの問いで、うちはどうしているかと今あらためて考えると、

少なくとも目に見える範囲での置き場所の違いであれば、私の方が「ま、いいか」とおおらかに考える、上記の診察券のようなものであれば「決めた場所に置く・使ったら元の場所に置く、をしておいた方が、いざ使うときに無駄な時間を使わずにすむと思うよ」という言い方をする。

それから、「ないない、と探すのは時間の無駄でもあるし、争いの元にもなってお互いのためによくない。だから決めた場所に置いておく方が合理的」という言い方もしたことがあります。これには、夫も「それは確かにそうだと学習した」と合意。

・・・なんて言っていますが、私もこの頃けっこうよくいろんなことを忘れるので、お互いに「これはここに置くから覚えておいて!」などと、声かけをすることが多くなっています(笑)

それから、夫にとっては「目から入る言葉」「耳から入る言葉」「相手の心のトーン」がとても大事なのだとわかるようになるにつれ、2年ぐらい前までの私の対応はハチャメチャだった、と苦笑です。

カレンさん、アドバイスありがとうございます。
本当に、私のほうも、カレンさんやカレンの夫さんの書き込みを読むたびにほんとにもうびっくりするくらい「似ているなあ」と思うことがいっぱいです。

なんとなく分かってきました。
うちの場合、家の中でくつろいでいるときとか、静かに話をしているときとかなら今ではほとんど問題なくうまく行っているのですが、何かをするとき、になるとなかなかそうはいかないのはなぜだろう?と思っていました。

ちょっと説明が必要だと思います。
よくASの人はほかの人より疲れやすいという話を聞きますが、うちの2人のASさんに限っては違います。二人とも疲れるということを知らないのではないかと思うくらい人並みはずれた体力・回復力の持ち主です。ただ、息子とってもゆっくりのんびりとマイペースな子。一方夫は「気持ち」の理解は苦手だけれど、「事柄」の理解ならたいていの人よりも優れている。しかも、行動力がすごい。「これだ」と目標が決まれば、たちまちわき目も振らずその目標に向かって一人で猛突進(いろいろな意味で)していってしまうんですね。しかも、ひとつの目標を達成するとすぐにまた次の目標に向かって一目散。こちらが「あっ」と思う間もありません。私や娘はただあたふたと、見失いそうになる夫の背中を必死になって追いかけまくる羽目になります。

かつてはそれを「なんてひどいの」と思っていましたが、いまは私が「ひどい」と思っていたようなことではないのは分かります。だから、たいていは「あはは、まただ~」ですむのですが、あまり度重なったりこちらの気持ちが弱っているときだとなんだか惨めな気分になる。そんなことを昨日は夫に訴えていたのでした。

なぜ「静」の時にはうまく行くのに「動」ではダメなのか。
「静」の場面では、今まで夫が取っていたイニシアチブを私が取ることを覚えたのですが(という風に認識したのは今日が初めてですが)、もともと性格的に「静」の私は、「動」の場面でイニシアチブをとれずにいるからなんだ、と気づきました。

昨日夫は私の話を聞いて、「どうしていいかわからない。そっちが主導権とって。それに従うから。そうでないと、たぶん俺が何やっても同じ類のことが起こって、ななは落ち込むし、俺はまたなんだか分からないけど失敗したとへこむ羽目になる」というようなことを言ったのでした。
ただ、それが何だか 「やってらんない。面倒だからそっちで勝手に決めてくれ、従うからさ。それでいいだろ。」みたいに聞こえて(「投げやりな意味で言っているんじゃなくて」と夫が言ったにもかかわらず)うまく飲み込めなかった。

でも、やっと分かりました。夫の言うとおりですね。一緒に行動するときは、夫の希望を聞いてそれに配慮したうえで私が主導権をとる。夫のほうはそれに協力してくれるといってくれているのですから。
それでももし「どうして?」といわれたら、カレンさんの仰るようにその利点と、そうしてもらえると私や娘がうれしいから、ということ伝えればきっといいのですよね。
あとは、夫が好きなように走り回れる(?)時間も確保しておく。時には私も一緒に走り回ってみる。
これでうまく行くかな?

なんだか昨日は夫にちょっと申し訳ないことをしてしまった気がしてきました。
また話し合ってみますね。

みみさん

先程気が付いたのですが、先日の私のコメントでみみさんのお名前を間違えてカタカナにしているものがありました。申し訳ないです。

>ご主人の心の中に、デーンと、相手の笑顔という物体が登場するわけではない…と言いますか…

このイメージ、最初に夫の話を聞いた時に、私も受けた印象でした。
「???…自分の中に笑顔が生まれる???」と思って、質問攻めにした後の彼の答えが最後の「笑顔を感じる」だったのですが、やはり今でも本当に不思議です。


ななさん

>「どうしてもとの場所に戻してくれなかったの」「何で勝手に動かしたのよ」という思い、それが理解できない。そして、非難された、とパニックになる。

もう解決されたようですが、なにか参考になればと思って書いてみました。
これは私が夫に「どうして□□しないの!?」と言われた時に、一番理解し易い説明順です。うまく伝わらなかったら、すみません。

 (心境説明)私は困っている。
→(理由説明)何故ならば、○○を使おうとしたら、あると思っていた場所に無かったから。
→(状況説明)○○は貴方も私も使う。(放置しておくと危険など)
→(解決策提案)二人どちらが使う時にでも、同じ所にあることは「私は」良い事だと思う(嬉しい・安心するなど)
→(要望説明)だから、○○を使った後は同じ場所に戻すことに協力して欲しい(気をつけて欲しいなど)。

書いていて気付いたのですが、ななさんのご主人が笑顔を理解する時の順番と似ていますね。
私は上記と逆の順で説明されると、最後まで事の要(困る人がいるということ)が見えないので、理解が難しくなってしまうことがあります。

追記のご主人の言葉を私から見ると、こうなりました。

ななさんを落ち込ませたくないし、自分もなんだか分からないけど失敗したと凹むのはつらい。だけど、どうしたらいい(二人とも安心出来る)のかが分からなくて困っている。
たぶん自分が何をやっても同じ類のことが起こってしまうと思う。
だから、ななさんに主導権をとって貰えたら、それがいい(解決策)と思うから、自分はそれに従おうと思う。

>繭さんのご主人、すごく上手に表現されましたね!(誰かが自分の思っていること・感じていることを的確に言葉に表現してくれるとなぜか無性にうれしくなる私です。)

ありがとうございます。嬉しくて、夫に報告してきました。
彼は驚き、照れていました。

「相手がうれしいと自分もうれしい=幸せ」は一緒ですね。目的が共有できると、手段の違いによる不安が減らせそうな気がします。

繭さん、ありがとうございます!すっごくよくわかりました。

そうかぁ。そうなんですね。やっぱり、そうだったんだ!

少し時間がかかってしまったけれど、ほぼちゃんと翻訳できていたみたいです。それが分かってすごく安心しました。それに、うれしいです。だって、一時は一緒には生きられないと思ったほど理解できなかった人を、少し時間がかかっても、「翻訳」という作業を通してでも、少しずつ理解できるようになったんですもの。わくわくします。
あ~、いつか、今の「翻訳」からさらに進歩して「同時通訳」ができるようになりたいなあ。

>ななさんを落ち込ませたくないし、自分もなんだか分からないけど失敗したと凹むのはつらい。だけど、どうしたらいい(二人とも安心出来る)のかが分からなくて困っている。

これ、私も反対の立場から同じことを思っていたんです。
「夫を傷つけたくはない。でも、自分がさびしいのもつらい。二人とも安心できて、うれしいと思えるようにするにはどうしたらいいんだろう?」
一昨日夫にいいたかったのは、これだったんです。でも、これをストレートに夫に言っても、夫にとっては自分にできないことを突きつけられたことになってしまうんですよね。もう少し自分の中で自分の気持ちを整理して、何をどうしてほしいのかはっきりしてから話すべきだったんだなあ、と思いました。

説明する場合も、内容だけでなく順番も大切なんですね!これはとても重要なことを教えていただきました。覚えておきますね!

昨日は夫の帰りが遅かったのでちょっとしか話ができなかったのですが、夫は夫で私の言葉を翻訳してくれていました。
「ななは俺を責めたんじゃないんだ、さびしいんだって伝えただけなんだね(その通りです)。それを俺が「責められた」ってとるから、聞きたくないことをいろいろ聞く羽目になるんだね。」
夫の側から翻訳するとそうなるんだぁ、と思いました。
いろいろ書くとまた長くなるので・・・とにかく、「やったことないから心配だけど、私が主導権とるの、やってみるよ」といったら喜んでくれました、とご報告しておきますね。

ななさん

ご主人と気持ちを確認されたのですね、よかったです。

私は、ななさんとは反対の立場で行き違うことが多いです。ななさんのご主人と同じく「責められてる」と受け取ってしまうのですが、その問題が夫にどのような影響を与えているのか(悲しんでいる)が分かると、一気に理解できることが多いです。
理解できたから改善できるとは限りませんが、二人で原因や解決策を探すことができます。

主導権を持つのは慣れるまで大変そうですが、うまく行くといいですね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/38759865

この記事へのトラックバック一覧です: アスペの人はなぜ個性的?:

« 他人の気持ちは本当にわかる? | トップページ | うれしいこと »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ