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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2011年2月

2011年2月28日 (月)

共有が共感になるとき

 繭さんの写真ブログを巡るやりとりの中で、引き続きいろいろと考えさせられています。

 私自身はご紹介いただいて写真を拝見したときに、ほんとにある種の驚きとともに、その写真の世界に引き込まれていったのですけれど、それは私だけではないようですね。知り合いに紹介したら、その人も思わず引き込まれる、というようなことを言われていたし、私の定型の子どもは、ムーミン谷に住みたい!と言うような子なんですが、やっぱり写真にとても惹かれたようです。繭さんの書かれるには最初にその魅力に気づいたのはみみさんだったようですし、カレンさんもご自分の深い自然体験とのつながりを感じられています。

 「繭さんって、才能のある方なのね」と言ってしまえばそれであっさりおしまいなのかも知れないですが、でも何かそういうありきたりの言葉ですませてしまってはもったいないような大切な問題、つまりアスペと定型の間の「世界の共有の可能性」とでも言えるような問題がそこにあるような気がします。

 コメントにも書いたかも知れませんが、私はその写真を見ながら、なんだかそこに写っているものたちが、それぞれに自分のことを無言で、だけどとても雄弁に、そしてとても個性的に語っているような気がしました。それで、繭さんが以前書かれていたムーミン谷の世界をそこから思い起こしたんですね。「ああ、ムーミン谷ってこういうところなんだろうか」という感じがふとしたわけです。

 そして今日のコメントで、こんなことを書かれています。「私の興味の対象は、幼稚園児のころからあまり変わっていないような気がします…。写真に写っているようなものたちを、いつまでも凝視している子供でした。石や木の葉や羽根などを持ち帰ると、親にいやがられましたが、大人になった今は、それを止める人もなく(夫は面白がっています)、宝物は増える一方です(^^)」

 これは私の定型的な(?)勝手な解釈なんですが、「石や木や葉や羽など」をいつまでも凝視しているというとき、そこにはそういうものたちと、黙って対話し続けている、そんな世界が成り立っているんじゃないだろうか、という気がしたんです。その対話の世界を残念ながら親は共有してくれなかった。でもパートナーの方はおもしろがる、と言う形でそれを受け入れてくれるわけですね。

 「共感と共有の違い」のところで少し考えてみたことにつながっていくわけですけれど、「私にとって大事な世界」というものは、アスペの人にとって、まずは他人と関わることのない、自分と対象の間で成り立ち、そして幸運な場合はそれを「共有」してくれる人がそこに現れることがある、という感じで他人に拡がっていくこともある。

 定型の子どもの場合、もちろん個人差、個性の差が大きいので、どこまで一般化できるかちょっとわかりませんけれど、おおざっぱな印象としてはそのあたりすごく違う感じがします。何か面白いものを見つけたり、自分が上手になにかできるようになったり、あるいは昨日怪我した傷口があったり、きれいなティッシュがあったり、そんなときに、すぐに「ほらほら、これ見て!」と大人にアピールしてきます。そして「わあ、そうなんだ」と大人に認めてもらうことで満足して去っていく。それがないとなんだか自分の発見の喜びなどもすーっとしぼんでしまうような感じがある。

 でも「石や木や葉や羽など」を大事に拾って帰る繭さんの場合、親がそれを認めてくれなかったとしても、それは大人になってすらずっと大切な宝物であり続けるわけですね。

 もちろんその宝物を、他の人が認めてくれることは繭さんには決して嫌なことではなく、逆にとても嬉しいことと書かれています。「私が撮っただけでは、ただの独り言ですが、それを共有してくれる人がいることが分かって、ほんとうに嬉しいです。」でも、これは私の想像ですが、それを共有してくれる人がたとえ誰一人いなかったとしても、その宝物が宝物でなくなると言うことは多分無いんじゃないでしょうか。

 
 というようなことを書いていて、また自分の古い記憶がよみがえってくることがあります。パートナーとつきあい始めて間もない頃のことですが、彼女が私を小さな池に連れて行ってくれるんです。そこは仕事の休み時間とか、ちょっとした時間を見つけて彼女が散策していた小さな雑木林のような所なんですが、その池に蓮の花が一つ、静かに、そしてちょっとなまめかしく、そっと咲いたんです。そしてそれを私に見せてくれたんですね。

 一人で見つけ、一人でそれと対話し、大切にしている小さな世界。それをふと人にも見せてあげたくなり、そしてそこで相手がそれを共有してくれることでうれしくなる。定型的には「それこそ共感的な関係」とさっと言ってしまいたくなるところだと思うし、ある意味実際そう言っても良いのかも知れないんだけど、そこになにか微妙だけど大切な違いもあるような気がするんです。

 それが何かをまだうまく言葉にできないんですが、その微妙な違いが状況によって積み重なったり拡大されてしまうと、お互いの共感的世界は一挙に見失われてしまい、けれどもその微妙な違いを大切にしながら「共有」をしていくと、逆に「共感的世界」がむしろ拡がっていく。なにかそういう、とてもナイーブな問題がそこにあるんじゃないだろうか、そんな感覚が今私の中でちょっとずつ拡がってきています。(もちろん、これはごく限られた事例での話ですので、定型とアスペ一般の関係にどこまで広げられるかは全く分かりません)

2011年2月26日 (土)

共感と共有の違い

 前に「コミュニケーションの共有基盤は?」でも少し考えてみたんですが、「共有する」ということと「共感する」ということとの違いが気になっています。
 
 うーんと、「共有する」っていうのはとりあえずこの場合、同じ物を見つめるとか、同じことを楽しむというような話です。そういえばアストンさんが「恋するアスペルガー(たち)」で書いていらしたけど、アスペルガーの方はデートとかの場所としてコンサートや演劇や美術館や、そういうところが好きな人が多いと言うんですね。なぜかというと、「同じ物をみつける」「同じことを楽しむ」というような感じになって、「それについていろいろ話し合う」ということは(少なくともその場では)してはいけない事な訳です。黙ってそれぞれの人が楽しんで、それがデートになる。身体の向きで言うと、お互いに同じ方向を向いて横に座っている、という感じになりますよね。

 で、「共感」っていうのは、見つめ合ってでも良いし、手を取り合ってでも良いし、抱き合ってでも良いし、まあだいたい向き合うことが多いと思うんだけど、「良かったね!」とか「面白かったね!」とか、あるいはマイナスの感情の場合には「悲しいね!」とか「腹立つね!」とか、そんな感情をお互いに言い合うような、そんな状況を思い浮かべます。もちろん言わずにただ一緒に笑いあったり涙する、みたいなことでもいいんでしょうけど。

 というふうに区別をしてみると、昨日の「何が共有されるんだろう?」でも少し考えたように、私の個人的な経験から考えても、やっぱり「共有」の方は定型とアスペルガーの人との間でかなりできるような気がします。ところがじゃあそれが「共感」にそのままつながるかというと、そこが切れてしまうように定型の側は感じるのでしょう。で、そういう体験が積み重なって「この人とは共感が成り立たない」という見方が定型の人に定着すると、今度は「共有」ということについても成り立たないような気分になってくるし、下手をすると「そもそもアスペルガーの人には豊かな感情世界なんて無いんじゃないか」というような思いにもなっていく。

 つまり、定型の人間にとって、「共感」と「共有」ってかなり近い関係で、実はほとんど区別していなかったりするんじゃないかという気がしてきます。そうなると、アスペルガーの人の「豊かな感情世界」を、たとえば写真とか音楽とか、そういうもので体験することで、昨日私も「一体これって何なんだろう?」という疑問で終わっちゃうみたいに、定型の人間は「共有」と「共感」の関係で混乱しちゃうのかも知れません。

 この「共感が成り立たない」という感覚には定型の側はほんとに苦しむ訳なんだけど、もし「共感」という言葉を、「同じ体験や同じ対象を共有することで、同じような感情体験を共有すること」というような意味で使うとすれば、実はアスペと定型の間では「共感的なできごと」は結構普通に成り立っているのではないか、ということになりそうな気がするんです。

 いや、もちろん定型の側はそれを「共感」として実感することが難しいわけですけれど。なぜならやっぱり「事実として同じような感情体験を共有している」ことだけではなく、「それをお互いに確認し、確認し合うことでさらにその感情をふくらませていく」というプラスアルファみたいなことが定型的にはかなり重要で、アスペルガーの人との関係ではそこんところがあっさりスルーされてしまうように感じるからです。そこは定型に独特の性質なんでしょうね。

 というふうに考えてみると、定型とアスペのコミュニケーションを豊かにするには、「共感」にこだわり続けるよりも「共有」の方により注意を向けていくこと、「共有される世界」をできるだけ豊かにしていくこと、そういう視点の転換がなんか意味があるかも知れないと、そんな気がしてきました。もしそれが豊かになっていけば、もしかすると定型の側でも「実質的な共感」が成り立ってきたと感じられるようになるの<かもしれない>し、アスペの側でも「これが共感ということの基盤か」とか感じるようになって、ちょっと「共感」の感じを「共有」できるようになる<かもしれない>。

 ま、捕らぬ狸の皮算用で、なんとも分かりませんけど (^ ^;)ゞ


 

2011年2月25日 (金)

何が共有されるんだろう?

 しつこい風邪でご心配を頂いた皆さん、どうもありがとうございました。おかげさまでようやく7割方戻ってきたようです。ちょっと疲れがたまったことも影響したのかと思います。

 久しぶりに記事を書く気分ですが、まだ、あんまりまとまって何かを書けるという感じではありません。ちょっと気楽にという感じで書き出しています。

 とはいえ、記事作成にお休みを頂いてから今まで、見に来て下さる方の数は、むしろ明らかに増えていましたので、とても驚きましたし、結局この問題について深刻に悩んだり、いろいろ考えたりされている方がそれだけ多いということなのだろうと言うことを改めて実感しました。

 これから、この記事もどんな感じで続いていくのか、今の私にはっきりしたイメージがあるわけではありません。今まで通り、なんとなくそのときに気になったことを書き連ねていくのかな、とも思いますし、その中でみなさんからいただくコメントなどもまた大きな手がかりになるでしょう。

 最近頂いたコメントの中で、とりわけ何か考えさせられていることの一つは、アスペと定型の人の間で「共有」されるものって何だろうか、ということです。具体的に例を挙げて言えば繭さんからご紹介いただいた写真ブログ「羽化」を拝見して、ほんとに驚いています。

 私が下手な文章で紹介するより、一度直にご覧頂くのが一番良いと思うのですが、素人目に見てですけれど、一枚一枚にほんとに驚かされる感じなんですね。「え?こんな色があるの?」「こんな光があるの?」「こんな影があるの?」「こんな広がりがあるの?」「こんな奥行きがあるの?」「こんな命があるの?」……という感じで、小さな一枚一枚の写真に何かそれぞれの世界が感じられるんです。それぞれの物語が感じられると言えるかも。

 で、それってきっと撮影者の繭さんが感じ取った何かがそこに表現されているわけだし、そうやって写真に切り取られて示されたその世界に私の心が揺り動かされるわけですよね。

 撮影者がそこで感じ取ったものと、それを見た人が感じ取るものが全く同じかどうか、それはもちろん分かりません。というか、完全に同じなんて言うことは理屈上はあり得ないでしょう。でも、たとえば「わあ、これ、すごい!」とか、「ふーん、ため息」とか、なんかそういう「感慨」というか「思い」というか、そんなおおざっぱな話で言えば、そこでは撮影者とそれを見る人の間で確かに何かの世界が共有されているわけですよね。

 しかも、そこで見る側が感じる思いは決して浅いものではなくて、一種とても大切な感動を与えられる感じがするわけです。そうすると、アスペルガーの人は定型の気持ちが理解できないとか、共感する力がないとか、そんな風によく言われるけど、一体それって何のことなの?って改めて全然わかんなくなっちゃう、そんな感じがするんですね。だってこんなふうにある種の感動を与えてくれる世界(写真)が共有されたりするわけですから。

 そういう芸術関係って、人の心を振るわせるような力を持っているし、とても深い精神の世界の共有に関わることだと思うんですよね。

 もちろんそういう写真とか、芸術関係のことは相当の部分は持って生まれた才能の問題だし、こればっかりはどんなに努力したってその努力で追いつける部分なんてたかが知れている。私なんか逆立ちしたって他の人を感動させるようなものを生み出す力はありません。 その辺は多少なりとも芸術関係を身近に体験された方なら嫌と言うほどご存じでしょうけれど、とにかく非情なものです。

 そしてその才能というのはアスペだから得られないと言うことは全くないし、定型だからあるなんていうものとも全く違う。アスペだろうが定型だろうが、ある人にはあるし、ない人にはない。

 そうそう、随分前にご紹介したドラマーの金田ゆうじさんだって、音楽という形でそんな世界を作り上げる方なわけですよね。

 うーん、だからアスペルガーの人は感情の共有が下手だとか、なんかそういう単純な話とは全然違う問題がそこにあるんだと思えます。金田さんだって繭さんだって、定型とも共有される深い世界を作りながら、同時にアスペルガーでもあるわけですしね。

 一体これって何なんだろう?

2011年2月17日 (木)

【資料】受診増「大人の発達障害」

特集ワイド:ご存じですか? 20~30代で受診増「大人の発達障害」


 大人の発達障害が注目されている。これまでは子どもの障害とされていたが、大人になっても症状が残る人がいる。特に20~30代で発達障害を疑って受診する人が増えているという。大人の発達障害とはどのようなものなのか。【山寺香】

 ◇「人と違う」自分、だから苦しい、だけど個性
 ◇社会的認知進み顕在化 就職機に社会性、協調性で壁 周囲の理解と自己肯定重要
 「真剣な相づちの打ち方から誠実さが伝わってきた」

 「自分の話だけでなく、相手の話を聞き出そうと質問したのが良かった」

 「話題の切り口が豊富で面白い」

 東京都板橋区で13日、大人の発達障害を抱える当事者の会「イイトコサガシ」のコミュニケーション能力向上ワークショップが開かれた。この日は15人が参加、2グループに分かれて会話をする。……

 詳細はこちら


==============

 ◇「特集ワイド」へご意見、ご感想を
 t.yukan@mainichi.co.jp

2011年2月13日 (日)

もくじ

           も く じ

   タイトルをクリックすると、直接記事に飛びます

2011年2月

02/12  一息
02/11  alonaさんにお伝えしたいこと
02/10  アスペのパートナーを選ぶ理由
02/09  アスペと定型問題の多様性
02/08  コミュニケーションの共有基盤は?
02/07  うれしいこと
02/06  アスペの人はなぜ個性的?
02/05  他人の気持ちは本当にわかる?
02/04  対話を支える「私たち」
02/03  対話と翻訳と解釈と
02/02  本日の大発見!?
02/01  「翻訳」の可能性:joさんとの対話


2011年1月

01/31  共感ではなく否定が持つ対話の力
01/30  言葉を話すということ
01/29  対話というギブアンドテイクの模索
01/28  限られたエネルギーの配分
01/27  困難さのパターン
01/26  障がいと個性
01/25  耳かき並の度量をどう確保するか?
01/24  アスペの人のブログを見ることの効果
01/23  アスペルガーの人の「傷」について
01/22  社会の宝物
01/21  いい人って?
01/20  カップルの解消と持続を分けるもの
01/19  iroriaさんの例:「理解の共有」とジェンダー
01/18  個性的な現実と一般的なパターン
01/17  当事者としてかっこわるく考える
01/16  「翻訳」に果たす「文法」の意味
01/15  理解の共有を可能にする条件って?
01/14  アスペルガーという理解の共有について
01/13  当事者のつぶやき
01/12  アスペと定型のギブアンドテイクの意味(6) 「仮完結」編
01/12  アスペと定型のギブアンドテイクの意味(5) 「翻訳」編
01/12  アスペと定型のギブアンドテイクの意味(4) 「子育て」編
01/12  アスペと定型のギブアンドテイクの意味(3) 「奉仕」編
01/12  アスペと定型のギブアンドテイクの意味(2) 「気持ち」編
01/12  アスペと定型のギブアンドテイクの意味(1)「現物」と「会話」編
01/11  アスペと定型のギブアンドテイク?
01/10  定型の自助グループ
01/09  「お互い様」ということ
01/08  アスペ当事者からの解決の模索
01/07  アスペルガーの人にとっての「仲間」と「孤独」
01/06  アスペと境界性
01/05  カレンさんの夫とのつながりの例
01/04  頭で理解することと気持ちで納得すること
01/04  悪意のないということの難しさ
01/03  アスペルガーの妻の夫という立場
01/03  アスペルガーという自己理解と他者理解の不思議な例

2010年12月

12/31 定型が共感を求める理由
12/24 「砂漠に水を撒く」という感覚について
12/22 アスペと定型の連帯ということ
12/22 雑談の難しさ
12/21 つらいときにどうしてほしいのか
12/21 家でほっとできるってどういうことなんだろうか

2011年2月12日 (土)

一息

 昨年12月末から、自分のリハビリのためにと始めたこのブログも、気がついてみると記事の数はもう54になります。特に1月3日からは一日の休みもなく、多い時には日に6件の記事をアップして今日まで来ました。みなさんからいただいたコメント、みなさんの間でやりとりされたコメントも250件を越えるまでになっています。カウンターももう7000を越えてしまいました。
 
 みなさんからいただいたコメント、そこに寄せられた貴重な皆さんの体験を鏡としながら、自分自身のこれまでを振り返り、またずっともやもや抱え続けてきた考えを、少しずつ書きながら整理させていただいてきました。そこで私が大切にしてきたことは、「アスペルガー問題評論集」を作ることではなく、自らが当事者の一人として、自らの経験と自らの悩みにリンクさせながら、アスペと定型のコミュニケーションの可能性を模索することでした。

 ただし、ただ自分の思いを書き連ねることは避けました。私の経験は、沢山の皆さんの壮絶で貴重な経験の中のほんの一つに過ぎません。その小さな私の経験の中に、何か意味があるとすれば、それは少しでも多くの皆さんの経験とリンクし、その中で多くの場合に共通するもの、逆に私の経験に個性的なものを見いだしていくことでしょう。そうやって多くの皆さんの経験をつなげながら、一人のひとつの視点からみた「アスペと定型」ではなく、多様でふくらみのある、ゆたかな多彩な視点から「アスペと定型」像を探っていくことを心がけてきました。

 私一人の小さな体験は、そのような多くの方達の貴重な体験の中で、始めてその豊かな意味を見いだせてくるものだと思っていましたし、そして今、それは間違いではなかったことを実感しています。

 多彩な視点ということを大切にする思いにとって、本当に得難い財産となったのは、やはりアスペルガー当事者の方が対話に加わって下さったことだと感じています。定型の人間の目からは、どうしても自分の常識に合わない、自分の正義に合わない、そういうアスペの方の姿ばかりが見えてきてしまいます。そしてそれに苦しみ、精神も身体もぼろぼろになり、社会的立場や、経済的な力、時には生命を失うまでの事態に至る。

 定型の人間からは自分が被害者である、という像しかなかなか見えてきません。それは決しておかしいことでも、悪いことでもなく、ただ、人間というのは、どうしても自分の視点からしかものを見ることができないという、そういう運命を背負っているからに過ぎないと、私は思っています。それは私が私である、あるいは私が私でしかないという、決して乗り越えられない絶対的な限界なのです。

 けれども、実を言うと人間は、そしてほぼ人間のみが、その限界を超える方法を生み出し、その力を縦横無尽に使うことによって、ここまで複雑な社会を作ってきました。それこそがコミュニケーションの力です。コミュニケーションというのは、別に口先で相手にお追従を言ったり、表面的に仲良い関係を装うというような、表面的な作業ではありません。それは人との間に大切な思いをやりとりすることであり、また大切な物をやりとりすることでもあります。だから、物の売り買いといった経済活動だって、それは大事なコミュニケーションの一部であり、だからこそ、経済活動はコミュニケ^-ションを豊かに発展させられる人間だけに可能なことなのです。

 人間にとって生きると言うことは、精神的なことも、物的なことも、つまりコミュニケーションをし続けることといっても言いすぎではないように思います。だからこそ、そのコミュニケーションが行き詰まる状況に出会って、私たちは頭を抱え込むのですし、自分自身が崩壊してしまうような危機に陥るのです。

 そういう行き詰まったコミュニケーションを乗り越える力はどこから来るのでしょうか?いやそれ以前に、なぜコミュニケーションは行き詰まるのでしょうか。それは簡単です。お互いの常識がお互いに通用しないからです。お互いのルールが、お互いの思いやりが、お互いの願いが、相手に通じないからです。ではなぜそれが通じないのでしょうか。これも簡単です。上に書いたように、「私は私の見方でしかものを見ることができない」からです。

 ではその限界を私たちはどうやったら乗り越えられるのでしょうか?

 そのことを考えるとき、私たちは再びコミュニケーションということに戻ってくることになります。行き詰まったコミュニケーションを乗り越える力は、やはりコミュニケーションなのです。

 もちろん、行き詰まったままのコミュニケーションのやりかたを、そのまま繰り返していても、どこにも解決は生み出されません。自分の常識にしがみつき、自分のやりかたを押し通し、自分の価値判断だけで相手を断罪する。そういうことを続けている限り、問題は解決するどころか、むしろ現在の自分をさらに凝り固まらせ、小さな枠の中に押し込め、身動きできない状況に陥るだけです。

 自分のやりかたを放棄して相手に合わせ、相手に従うことで、一見問題が解決されるように感じられることもあります。逆に相手を自分に従わせても同じことです。けれどもそのような関係の持続は、オリのように相手への恨みや憎しみを積み重ねていくことでしょう。問題は解決したのではなく、さらに深刻の度合いを深めつつ、ただ持ち越されるに過ぎないと私には思えます。

 では私たちには何が可能なのか。

 他者と対話することです。とりあえずは定型同士、あるいはアスペ同士でも構いません。お互いの経験を語り合う中で、孤立した私は「私たち」になることができる。私の問題は私を越えた私たちの問題になることができる。それはほんとうに大きな支えになることは間違いありません。

 けれどもそのような種類の対話の可能性も、また自ずと限界を持っています。そこでは「私たち」の常識が共有され、「私たち」の正義が生み出されていくでしょう。けれども定型が定型の常識を、アスペがアスペの常識を、それぞれの「私たち」の視点だけで作り上げたとして、それで「定型とアスペ」のコミュニケーションが成り立つでしょうか。もちろん成り立つわけはありません。お互いが「私たち」の中で凝り固まった、偏った見方に閉じこもるだけになるからです。

 だからこそ、定型とアスペの対話が必要なのです。定型には見えない世界をアスペの人は持っている。アスペには見えない世界を定型が持っている。その異質な世界にお互いが触れあうとき、たとえそれを理解することがとても困難だったとしても、それまでに凝り固まって身動きが取れなくなっている見方に、何か新しい可能性が生み出されてくる。それこそが対話という、本当に創造的で、本当に豊かなコミュニケーションだと私は思います。

 ただし、やはり人間は人間です。私は私の限界をどうしても抱え込んで生きています。そして私の生きている生活の現実から離れることもできません。対話的な姿勢を持つと言うことは、それは並大抵のことではない。それまで自分を抹殺しようとするかのように感じられた他者と、改めて正面から向き合うことなのですから。

 そういう対話に比較的向かいやすい条件を持った人も、どうしてもそれが困難な条件に生きる人もあるでしょう。それもまた当然のことだと思います。それならまずは対話に向きやすい条件を持った人たちの間で対話が始まればいい。そしてそこで積み重ねられたノウハウが、少しずつより困難な状況を生きている方達にも届くようなものへと進化していけばいい。どうせ道は長いのです。焦っても意味はないし、焦る必要もない。

 
 ということで、想像もしなかった多くの、いろんな立場の皆さんの参加を得て、私自身予定もしなかったような形でつぎつぎに記事を書き続けてきました。書き始めた頃には想像もできないくらいに私の考えも整理され、また深まってきました。そしてアスペのみなさんとの対話は、私の中にアスペの方達への親しみや尊敬の念を生み出し、それは私と私のパートナーとの関係をも豊かにしてくれました。

 その一方で、同じ定型の中でも、置かれた状況、置かれた立場、そしてそれぞれの方の個性などが合わさって、ある意味ではアスペの人との間の隔たりよりも大きいかも知れないと思えるような多様性も見え、その多様性の中にどういうコミュニけーションを成り立たせることができるのか、という新しい課題もまた見えてきました。

 そこまでたどりついて来たところで、この記事の執筆を、少しお休みさせていただこうかと思います。お休みは1日かも知れないし、2,3日かも知れないし、もう少し長いかも知れません。もともと個人的なリハビリのつもりで始めたことだったこともあり、ここらで一息入れることが必要になってきたかなという思いもあります。ここで無理をしてしまってはちょっと本末転倒になりかねない気もしますので。

 この間みなさんにいただいた多くの宿題を、自分の中でゆっくり発酵させながら、また次を書き出したいと思います。またそのときは、よろしければお読み下さり、コメントなど頂ければ嬉しく思います。

 もちろんみなさんの間で大切な情報交換や意見交換も進んでいるのですから、このブログ自体はいつでも開店していますので、コメント欄などはどうぞご自由にご利用下さい。私も参加させていただくこともあると思います。状況次第では、コメントでの交流用スペース確保のために、形式的に記事を追加するということがあっても良いかと思います。その辺は臨機応変と言うことでこだわらずに行ければと思います。

 なお、お飲み物などはセルフサービスになっておりますので、どうぞご自由におのみ下さい。
 ご利用の節はお志dollarshineを置いていただけばありがたくちょうだいいたします。


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2011年2月11日 (金)

alonaさんにお伝えしたいこと

 alonaさんとのやりとりを経て、なぜ私が耳かき一杯の度量も持てなかったのかが少しずつわかってきました。このブログでのやりとりを通して、いつしか私はアスペルガーの方たちに、大きな親しみを抱いてしまっていたのです。もちろんそれは私の一方的な思いこみによるものかも知れないのですが、でも私の中の現実としては、それはとても大切な意味を持ってきていたのだと気づきました。

 もちろん、アスペルガーの人だから無条件に親しみを持てると言うことではありません。こんなことを言うと、alonaさんに怒られるかも知れませんが、でも正直な思いとして、もしalonaさんが書かれているような夫の方の姿がどうにもならない固定的なものであるとすれば、私はやっぱりその方を好きになれません。いや、はっきり嫌いです。もしそうする条件があるのなら、alonaさんと一緒にその夫と闘いたいと思うくらい、一番嫌なタイプの一人です。もちろん条件があってもalonaさんには「余計なお世話」かもしれませんけれど。

 それはでもやっぱりアスペルガーだから嫌なのではありません。実際には全く存じ上げない方ですので、お書きになられた以上のことは私にはわかりませんが、少なくともそこに書かれた夫の方の人間性は嫌なのです。アスペルガーという条件がその傾向を強くしているとか、そういう作用はあるのかもしれません。でもそれは、たとえて言えば拡声器で大きくして聞いた声が嫌いなものであったとしても、それは拡声器(アスペ)のせいではないし、逆にその声が好きなものであったとしても自分が好きなのは拡声器ではない、というのと同じことでしょう。

 今回のコメントでのやりとりで私も傷つきましたが、当然alonaさんも大きく傷つかれたと思います。もしかするとこの記事ももう読んでいただけないかも知れません。けれども、他に方法もありませんし、ここに書かせていただきます。alonaさんの夫への憎しみを、私はもっと受け止められることが必要であるように思います。同時にalonaさんの「アスペルガーの人だから」という類のまとめ方や、あるいは夫の方と大きく違う方について、ほんとにアスペルガーなのか、と疑問を呈されるようなalonaさんの書き方を、なぜ私が受け入れがたいと感じたか、そのことの理由の一端をやはり理解していただきたいと思うからです。

 繰り返しになりますが、私はalonaさんが、alonaさんの置かれている状況の中で、言葉に尽くせない辛さを背負っていらっしゃること、そしてその結果としての判断について、それを否定する気持ちは全くありませんし、そんな資格もありません。私の書き方でそう理解されてしまったとすれば、それは私の至らなさです。お詫びします。けれども、そのことと、アスペルガーの人が一般にどうかということは、どうか切り離してお考え下さい。そこが切り離されないことで、多くの人が益々傷ついていくと思うからです。
 
******************** 
 
 「もしそうすることであなたが幸せになってくれるなら、私は自分が一人になってしまっても、その方が嬉しい」。

 またプライベートな話でお恥ずかしいですが、ある意味一番厳しい状態に陥ったときに、私のパートナーが二度、三度と言ってくれた言葉がこれでした。彼女が自分をアスペルガーだと理解することで、これまでの自分をとてもよく理解できると感じられ、そしてその話を聞いて、私と彼女の間に「アスペルガーと定型のズレ」の問題が共有されて、それからしばらくしてからのことです。

 問題が共有されてから、なかなかお互いの意図していることを伝え合うことが困難な状況の中で、また短い話し合いそのものを成立させることにも大きなエネルギーを必要とし、そこからわずかに語られる言葉にまた深く傷つくことが繰り返される状況の中で、なんとかお互いのズレを理解し、それを調整する可能性がないかどうかを探ろうとしていました。けれども、話し合えば話し合うほどに、そこで見えてくるズレは私にとっては絶望的な気持ちを抱かせるものでした。
 
 これまでの現状をどう理解していたか、ということについてのズレは強烈で、多分joさんが言われた「膠着状態」と共通のものが、まさにそういうズレによって安定してしまっていたことを思い知らされました。そのことを理解できなかったために、自分が今までどれだけのエネルギーを全く意味無い形で注ぎ込み続けてきたのか、どれだけのしんどさを無駄に耐え続けてきたのかを繰り返し知ることになり、その都度何日も寝込むような状態が続きました。

 私が彼女に対して求め続けていたものが、私が当然のこととして期待するような形では決して得られないのだと言うことを知ったとき、そしてまさにそれこそが、私が自分を支えてもらうために一番必要としているものだと思えたとき、絶望の気持ちをぬぐうことはできませんでした。

 なんのために二人は共に生活をしているのか。彼女にとって私はどうして必要なのか。いくら問いかけても答えは得られません。私が得られるものが無くとも、彼女にとって私が必要であるということが実感できれば、それを支えにしていけるかと、自信は持て無いながらも思ってみたにもかかわらず。

 ただ、彼女は自分がアスペルガーであるという理解を持ってから、自分を責め続けました。今まで回りから自分が痛めつけられ続けてきたというふうに思っていたことが、実は自分に原因があったのだと考え、そして全く意図しない形で私や子どもを苦しめ続けたと思い、自分を責め続けました。「私はいない方がいい人間だ」というその責め方がまた私を苦しめました。

 「これ以上あなたを傷つけたくない」

 そうも彼女は繰り返しました。私が発する問いに対して、なかなか答えてくれないときも、「自分が思ったことを素直に言えば、またあなたを傷つける。だから話せない」とも言いました。何が私を傷つけるのかよくわからない状態に置かれて、彼女はますます言葉を失っていくようにも思えました。

 どれほどの誤解が積み重なっていたのか、そのことを知り、しかしその誤解がどういうものであるのかの正体がよくわからず、どう対処して行けばよいのかもわからない。そういうことがどんどん積み重なっていき、それまで必死で保ってきた自分の形もどんどんと崩れていき、鬱がさらに重くなっていく状態が続きました。そのなかで彼女が言った言葉が「これ以上あなたを傷つけたくない」であり、「もしそうすることであなたが幸せになってくれるなら……」でした。

 こんなに深い「思いやり(定型語)」の言葉をもらいながら、私は自分がどうしたらいいのかわかりませんでした。こんなに苦しみながら私を思いやってくれている彼女が、しかし同時に私が渇望していたものを私が望んだ形では決して与えてくれず、繰り返し彼女の言葉に傷つけられ続け、絶望的な思いをいだき、しかも自分が彼女に対して何をしてあげられるかもわからない。その状態でこの傷を抱え、さらにそれを重ねながら私はなお一緒に暮らしていけるのだろうか。彼女も、そして私自身幸せになれるのだろうか。

 「自分を見捨ててくれていい」と、そんなふうに「思いやって」くれる彼女のことを、建前で「私が我慢して受け入れてあげる」などという言葉を私は決して語ることはできませんでした。それは彼女の彼女なりの「思いやり」に対する不誠実さになると思いました。自分が本当に、改めて彼女を必要と感じるようになるまで、「これからも一緒に」ということは言ってはならないと思いました。

 私は、お互いのズレを何とか調整する道を探しながら、子どもが自立するまでは一緒にやっていこう。と正直に言いました。その結果、どういう方向に決まるかはわからないということを前提として。

 そうやってこのブログを始め、皆さんのコメントを頂きながら、なにか不思議な思いですが、上の二つの言葉が、だんだんと重みを持って、胸に響いて来るようになりました。それは掛け値無しに思いやりの言葉としてだんだん感じられるようになってきたのです。もちろんその言葉を聞いたときに嘘を言われているとは思いませんでした。でも自分が抱え、また折に触れて与えられ続ける傷のせいでしょうか、感情として、感覚として、なぜかその「思いやり」に実感を持てなかったのです。それが今なぜか実感できるようになりつつある。

 一番の大きなことは、おそらくアスペルガーの皆さんとの直接のやりとりであったのではないかと思います。

 アスペルガーだから思いやりがない、ということを、だから今私は信じることができません。ほんとに多様なのです。お互いが変わっていく可能性も私は否定することができません。それはなにかの条件があれば、変わりうる部分はある。ただ、その条件が何か、私には今は少なくともわからないし、条件がないところでそれを期待することが正しいとも思えません。

*********************  
 
 以上、書き連ねてみたことが、もし単に私の「幸運な成功談(?)」のように受け止められてしまったとすれば、この記事は失敗です。「あなたは男だし、パートナーもいい人でよかったね。そんなに良い条件なら、大した苦労でもないね。私の苦労がわからないのも当然だよね」等と他人事として切り離されたとすれば、この記事に意味はありません。

 大切なのは、「アスペと定型」というカップルが抱えた問題について、できるだけいろいろな可能性の幅をお互いに知り合うことだと思います。その幅が拡がれば拡がるほど、深さが深まれば深まるほど、今自分自身が置かれている状況について、すこし違った角度からもう一度見直してみる可能性が大きくなる。そして自分自身を見直してみる可能性が増えていく。

 それはjoさんが動物の例で説明して下さった、「すくんで身動きができなくなった」状態に陥りがちな、「膠着状態」にがんじがらめになりがちな、この問題の当事者にとって、その固く閉ざされた状況を少しでも和らげるために、どうしても必要なことではないかと思います。

 もちろん、他の状況を見ることによって、自分に新しい可能性が見えてくるだけでなく、自分の状況の持つ可能性の限界を見いだしたり、あるいは確信したりすることもあるだろうと思います。それもまたとても大事なことではないでしょうか。それぞれの方が、それぞれの状況の中で、自分自身の生き方を選択していくとき、その判断の素材になることがあれば、それだけ「その後」の生き方に対しても確信が持てるようになる。KSさんが問題にされていた「その後のトラウマの治し方」にも、とても大きな影響を持つのではないかと思います。

 このやりとりから、すこしでも「次」が見えてくることを願いつつ……

2011年2月10日 (木)

アスペのパートナーを選ぶ理由

 ksさんがメールのやりとりをされているという、アストンさんという方がイギリスにいて、彼女はアスペカップルについてのカウンセリングや研究をされているようなんですが、「恋するアスペルガー:カップルの関係と家庭問題」という本を出されています。最近少しずつ読みはじめているんですが、アスペルガーの(主に)男性がどんな女性に魅力を感じるのかについて、以下のようなまとめがありました。

 1.アスペの男性がある女性に惹かれるのは、その女性が彼に魅力を感じているからということがよくある。
 2.アスペルガーの人は男女にかかわらず、相手の性的な魅力より、身体的魅力によってパートナーを選ぶことが多い。
 3.その身体的な選択理由として最も注目され、好まれることが多いのは定型のパートナーの髪や目である。
 4.香りや特定の布地に対して敏感なアスペの男性もいる。
 5.アスペの男性が持っている好き嫌いの基準はとても固い。
 6.アスペの男性は最初は新しいパートナーを気分良く幸せにするために、自分ができることは何でもしたりすることがある。
 7.関係が続いた後、しばしばカップルのどちらもが「すべては誤解だった」という思いにとらわれる。
 8.アスペの男性も女性も、そのパートナーに惹かれて選んだ理由の説明の仕方がとても似ている。

 基本的にはこれらは「定型を基準」にして見たときに、定型のアストンさんからはアスペの男性のことはそう見える、ということでしょうから、これを読んでアスペルガーの皆さんがどの程度自分にぴったりだと感じられるのかは私にはわかりません。逆にアスペルガーの人から見て、定型のパートナーは自分の何に惹かれたと思うのかはちょっとお尋ねしてみたい気がします。

 ということで、kemeさんがコメントしてくださったことにも関係してくる話題になると思うし、カレンさんがコメントで問題にされていることにもつらなると思うのですが、定型の側が相手の人をパートナーに選んだ理由にアスペルガーの人の特徴が関係する、ということがあるんだろうか?ということがちょっと気になり始めました。

 私には一般論は当然無理なので、自分の経験を手がかりに考えるよりないのですが(考えてみればそれは実にお恥ずかしいことですけれど、そこが匿名ブログの恐ろしいところで (^ ^;))、今考えれば、私の場合にはやっぱりとても深い関係があると思えます。というのは、自分の母親とある面で正反対のタイプの人を選び、そしてその「正反対さ」にアスペルガーという「個性」が深くかかわっているように思えるからです。

 私の母親という人は、ある意味で強烈に私に対する愛に満ちた人で、もう物心つく頃には、まるで大人に話しかけるように真剣に私にいろんなことを語りかけてきました。自分の悩みだの、考えだの、およそ子どもの話題でないようなことです(今になって母親が小さいこどもにそんな話を聞かせてしまって申し訳なかったと言っていますが (^ ^;) )。そして逆に私がその時々でつまずいた問題にも、ある意味全身全霊で向き合い、一緒に考えてくれたり、というか自分の思いをがんがんぶつけてきてくれた(?)わけです。

 こちらはまだ純真な子パンダのころなわけですから、今のようにパンダ性(人間性)もひねくれていませんし、そういう母親の必死の訴えはまともに受け止め、理解しようとするわけです。そして母親の言うことは正しいと信じ、外ではそういう信念を持ちながら生きてきたわけです。ただ、常に周囲との違和感には悩みましたけれど、でもそれは「周囲が間違っているからだ」という理解で合理化され、母親の強烈な「愛の支え」で前進し続けたわけです。

 けれども、やっぱり自分は母親とは全くタイプの違う人間なので、潜在的にはそういう関係にだんだん耐えきれなくなり、潰されそうになっていったわけです。で、当時は全く自覚はしませんでしたが、早い内から家庭を離れて自活する方向に進んでいきました。今思えば、もうそうしなければ自分がどうなっていたかわかりません。

 私のパートナーはそれとは全く正反対のタイプだったわけです。私の内面にぐいぐいと入り込んでくることはない。それは私にとってはとても居心地が良く、自分が自分でいられるほっとする空間を作ってくれることでもありました。「さらっとした感じ」というと伝わるでしょうか。それがなんとも言えずに惹かれるところだったわけです。

 それがアスペルガーという「個性」に深く関係していると言うことは、当時は想像もしませんでした。そしてその「居心地の良さ」がそのコインの裏側にどんな孤独感やつながりへの渇望をもたらすものであるのか、ということをその後にだんだんと思い知ることになります。

 その後の長いパートナーとの葛藤を(なんかとてもぴったりする感じのjoさん風表現をお借りすれば「膠着状態」、しかもなすすべもなく悪化するばかりの「膠着状態」を)経て、自己崩壊と言えるような状態を経験し、その後一定の時を経て、今改めて上に書いたようなことが自分の気持ちの中で意味を持ってきています。やっぱりあれは一種の必然だったんだなと思えるんです。そうやって私は母親との関係とバランスをとろうとしたのだと思います。

 もちろん(?)そういう母親とパートナーの関係は非常に厳しいものになります。その板挟みの中でまずは「膠着状態」のパートナーとの関係をなんとか優先して維持しようとしたことは以前にも書かせていただきましたが、今思い返してみれば、ほんとに難しい状況にあったわけです。

 で、そういう私の経験というのは、どうも私だけに特殊というふうにも言えない気がしてきています。それは上に書いたようにkemeさんも親子関係の影響について書かれていますし、そのほかにもそういう問題について述べられている方の文章を読んだことがあります。

 もちろん定型同士のカップルでも、その親子関係というのはパートナー選択にすごく大きな影響力を持っていることは言うまでもないでしょう。典型的なことで言えば親と似た人を選んだり、逆に正反対のタイプを選んだり。そういえば比較的最近の研究で、女性が好む男性の体臭は、自分の父親のそれからとはできるだけ遠く離れたものである、ということ、逆に言えば父親の体臭は最も嫌われるにおいである、というのがありました。そんなレベルでも大きな影響力を持つわけです。

 ですから、アスペルガーという、言ってみれば定型の物差しで言えば強烈な個性を持った人に惹かれる、ということは、親との関係も結構強烈であった場合がそれなりにあると考えても、まあ不思議はないかなと思えます。

2011年2月 9日 (水)

アスペと定型問題の多様性

 昨日joさんとksさんからいただいたコメントを読んで、改めてこの問題を語り合うことについての難しさというのか、微妙さというのか、なんと表現して良いか迷いますが、考えさせられています。

 これまでもほんとに何度も繰り返し書いてきたと思うのですが、現実に困難を抱えているカップル(場合によってはalonaさんが書かれているように、そのどちらか一方だけがその困難に苦しみ、それに耐えているというケースもありますが)の今後を考えるとき、絶対に予め「こうならなければならない」という方向を決めてしまってはいけないと私には思えます。それぞれの抱えている状況も、現在までの経緯も、お互いの個性や価値観も、みんな千差万別なのですから、絶対唯一の正解なんかあるわけがない。

 カップルの抱えている問題にもステップがあることが見えてきます。まずは結婚から子どもが産まれるまでの間。子どもが産まれた後、まだ物心がつく前くらいまでの問題。子どもが思春期に入る前まで位の問題。思春期に入ってから高卒ないし大学入学くらいまでの問題。それ以降、特に子どもが自立するようになる段階以降の問題。

 それぞれの時期で、カップルの問題がどういう展開をし、どういう風に対処されるかについて、たとえば子どもにそのカップルの矛盾が及ぼす影響が子どもの成長段階に応じて異なりますし、また離婚の可能性を考える際にも、子どもの成長の度合いは大きな制約条件になっているようです。「子どものことを考えると……」という言葉を、何人もの方の書かれたものに見い出せます。

 お互いのズレに気づき、なんとかそれを克服しようとするけれどもその努力がまるで酬われず、なぜそうなってしまうのかもわからず、泥沼のような思いに苦しむ段階もあれば、そこに定型とアスペのズレの問題があるということに気づいて、改めてそういう視点を持って問題の解決を試みようとするけれども、そういう姿勢が共有できない段階もあるし、共有できて後の段階もある。

 多分、共有ができれば、かなりそのカップルが持続する可能性は高くなるんだろうと思いますし、そうなると今このブログに参加されている皆さんの間で展開しているような、「翻訳」で改めて関係を深めていくということにも希望が出てくる。それについてこのブログがひとつの交流の場を提供できていることは間違いないと思いますし、ほんとに嬉しいことです。

 でも、そういう共有ができずに苦しんでいる方にとって、本当に必要な交流や議論はそういうこととはまた少し違う訳ですよね。その問題は以前Kemeさんもコメントで関連することを書いていらっしゃいました。みみさんはご自分のブログ「もぐろみみ蔵の・広汎性発達障害の理解と謎・原因を探る」で「愚痴を言う」ことの大切さを書かれていて、それはほんとに大事なことと私も思うし、さらにはやっぱりお互いに「問題の共有」に行けるかどうか、それぞれの人がそれぞれに抱えた状況に足場を置きながら、その見極めをしていくための議論もやっぱりどうしても必要なんだと思えます。

 その結果、カップルを解消して新しい人生にお互いに踏み出していった方がよい、という結論に至ることも当然あるわけですが、そうすると今回ksさんがコメントで書いてくださったような、「その後の癒しの空間」の必要性がまた大きな問題となる。

 同じアスペと定型とのコミュニケーションに関わる問題であっても、それらはそれぞれにずいぶんと性質が異なる部分を持っているわけですし、語り合うべき中味も違いがあるわけですし、そういう多様性を持った問題についての語り合いの場、交流の場をどんな風に作っていったらいいのか。考え物ですね。それぞれに応じたブログや掲示板がそれぞれの個性を持って立ち上がっていくというのも一つでしょうし、実際現状で一部はそうなっているところもあるでしょう。

 けれども、もう少しその多様性が結びつき、刺激しあって何かを生み出すような形も、もしかしたらあり得るのかも知れない。

 今の私にはまだ全然わかりませんけれど、なんだかそんな問題の存在を、改めて考えさせられています。 

 

2011年2月 8日 (火)

コミュニケーションの共有基盤は?

 このところみなさんのコメントの中の議論を見ながら、少しずつ頭の中を整理してみていることの一つが、定型とアスペのコミュニケーションで共有されている土台はなんなんだろう?ということです。

 私自身も含め、定型の人間から見ると、アスペルガーの人は「他人を傷つけることを平気で言う」と感じてしまうことがあり、実際自分たち自身もそういう経験を繰り返してきているわけです。だからそこから単純に考えれば「アスペルガーの人は思いやりがない」とか、場合によっては「冷酷だ」とかいう評価が出てきたりもするし、その理由として「感情を理解できない」という話が出てきたり、それがミラーニューロンの話に強引に結びつけられたりもする。

 ただ、カナータイプの自閉の子どもたちとはわりと付き合いがあった私としては、アスペルガーのみなさんとこんな風に対話が成立すること自体、驚異的だと思えたりするところがあります。カナータイプの自閉の人と、言葉を越えたところで、あるいは言葉以前の形である種の「対話」的な関係を持つことは、もしかすると不可能ではないかも知れない、とも思いますが、アスペルガーのみなさんとは、文字通りの言葉を用いたレベルでの対話が可能なわけです。

 もちろんその言葉の使い方について、定型との間に実は大きなズレがあって、そのズレが大変な摩擦を生み続けるわけですけれども、でも「言葉を使ったコミュニケーションが成立しない関係」との差に比べたら、問題にならないくらいに近い関係だという気がします。

 むしろかなり近いからこそ、お互いに「一緒だ」という思いこみから抜け出しにくくて、大事な部分での違いに気がつきにくくなり、その結果として逆に双方の傷が深まっていくということなんだろうと思えるのです。以前にもちょっと問題にした(アスペと境界例)、境界性人格障がいの人と人格障がいではない人(ってなんていうんだろう?)の関係も、この点についてだけ言えば結構似ている部分があると感じます。お互いの違いに気がつきにくくて傷がどんどん深まるんですね。

 逆に言えば今ななさんのコメントとカレンさんのコメントで続いている対話のように、その違いに気がついた夫婦の間では、「言葉による調整」=「翻訳」がずいぶん可能になり始めるし、しかもお二人の間で「ああ、そうなんだ」という理解が共有されるみたいに、結構その「翻訳」の仕方にも共通性がある感じです。その点で後輩の私の所はまだこれから学ばせていただくことだらけの感じがします。

 だからそういう「翻訳」作業を積み重ねていくことで、いずれ「アスペ語文法」と「定型語文法」というようなものがある程度整理できるかも知れないと、私は結構まじめに思ったりします。(言葉の専門家の人、頑張ってやってくれないかなあ)

 で、そういうことを考えるときに大事になることがあると思えます。たとえば英語と日本語の間に翻訳が可能だというのは、お互いに全く違う言葉で、知らなければお互いにちんぷんかんぷんであるにもかかわらず、そこに翻訳を可能にする「言葉」としての共通した働きがあるからです。それを手がかりに翻訳が成り立つということです。

 昔、中学校くらいの国語の教科書かなんかで読んだ気がするんですが、金田一京助という有名な言語学者が、言葉を全く知らない状態でアイヌの人たちの中に入って、なんとかアイヌ語を習得しようとしたとき、思いついてやったことは、好奇心旺盛な子どもたちにメチャクチャ書きかなんかを見せたのかな?で、子どもたちがそれを見て「何だ何だ」という感じで騒ぎ出した。

 で、子どもたちは金田一になにかを尋ねる感じで言葉を言った。その言葉を金田一がまねをして、いろいろなものを指さしてその言葉を繰り返した。そうすると案の定、それは「これ何?」という意味の言葉だったらしく、子どもたちは指さされたものの名前を次々に答えてくれた。それを記録・記憶していくことから始めたというエピソードです。

 このエピソードの中にも、言語の違いにかかわらず、「言葉を話す」ということに必要な、人間に共通する力が利用されているのがわかります。その一番基本的なものはここでは「指さして相手と注意を共有する」ということです。そして単語というのは、その指の代わりをするものと言えるわけです。(私、文法は全然苦手なので、品詞の区別とか、そういうややこしい話はとりあえず勘弁していただくことにして (^ ^;)ゞ ) 指で注意を共有する代わりに「犬!」と叫べば相手の人と一緒に犬に注目することができる。

 ところがカナータイプの子どもの場合、これがなかなか成り立たない。指さしで伝え合うということがなかなかできないわけです。それ以前に、目が合うということはさらに基本的な力になるんですが、そこから難しいわけですし、当然と言えば当然なわけですけれど。

 もうわざわざそんな話するのもばからしく思えるほど、アスペルガーの方の場合はこんなのなんのこともなくクリアできるわけですよね。「注意の対象を共有する」という基本的な仕組みは、もう完全に定型とそれこそ共有されている。ズレるのはその言葉や身振りや表情で共有しようとしている対象がなんなのか、ということについての理解の仕方、注意の向け方なわけです。で、そのズレ方の問題は、それがはっきりわかれば上に書いたような「文法」が完成することになるような大きな問題なので、そこはとりあえずスルーすることにして……

 次にカナータイプの子どもとは共有が困難で、でもアスペルガーの人とは完全に共有されている言葉の力として、「お互いの立場を取り替えて理解する」という力があります。たとえば、私が「あなたは」と言えば、それはあなたにとっては「私」のことだし、あなたが「あなたは」と言えばそれは私にとっては「私」のことになります。なんかややこしいですが (^ ^;)ゞ、とにかく同じ「私」とか「あなた」という言葉が、それを誰が言っているか、あなたが言っているのか私がいっているのかによって、誰を指しているのかがひっくり返ってしまう。「視点の転換」とかも言ったりしますけど、これが言葉をなんとか学び始めたカナータイプの自閉の子にはものすごく難しい。

 子育てをされたことのある方はお気づきかも知れませんが、実は定型の子でも言葉を学んでいく途中、一時期そこが混乱することがあるんですが、わりとすぐにそこは通過してしまいます。ところがカナータイプの人はここが難しくて、ずっとその混乱を引きずる。それでたとえば相手の人にコーヒーを飲んでもらいたいときに「○○さん、コーヒー飲みたい」というような言い方をしたりする。

 これもまたアスペルガーの人は何の問題もなくこなされています。この「視点の転換」みたいなことができるということは、たとえば本を広げて読んでいる人には本の中味が見えているけど、その向かい側でこっちを見ている人には本の表紙が見えている、というふうに「自分が見ているものと相手が見ているものは違う」という、そういう理解ができないといけない。そこが曖昧だと、自分が見てるものを相手も見ているような話になってしまって、自分と相手が混同され、混乱してしまうわけです。

 この点について言うと、むしろアスペルガーの人は「私は相手とは違う」という意識が定型よりもよっぽどはっきりしていたりしますよね。そういう点では定型の人間よりよほど「自他の区別」が明確にできていて、発達が進んでいる、と言えないこともない……w(゚o゚)w

 でもそういうと、「アスペルガーの人は相手の立場に立って考えられない」んじゃないか?だから「思いやりのないことを言ったりする」んじゃないか?という疑問が生じるかも知れません。定型はちゃんと自分ではなく、相手の立場に立って考えられるから、思いやりのある行動をとれて、関係がうまくいくんだと。

 ところがこの理解が落とし穴であるわけです。たしかにアスペルガーの人は自分の理解の仕方で定型のことを理解するので、定型の人間は傷ついたりする。たとえば子どもが風邪を引いて苦しんでいるとき、優しい言葉をかけるでもなく、一人で「放って」おいたりする。ところがアスペルガーの人に聞くと、それは「病気は自分で直すもの。薬を飲んで大人しくしていればいい」とか「自分も静かに放っておいてもらったほうがいい」から当然そうするのだといったりします(つらいときにどうしてほしいのか)。私の所も同じようなことがありました。

 けれども、今度はアスペルガーの人の立場から見れば、定型の人間こそ、訳のわからない自分の常識を勝手に押しつけてくる、自己中心的な人であることになります。で、そのことに定型は気がつかない。その点では全くお互い様なわけです。

 しかも、「アスペと定型」というズレがそこにあるんだ、ということを両者が納得するようになれば、本当の意味で「相手の立場に立って考える」という試みをお互いにできるようになります。もちろんなかなか難しくて、相手の感じ方や見方がわかりにくいのだけれど、けれども「相手は自分とは違う感じ方をしているから、自分と同じ理屈ではコミュニケーションが成り立たないんだ」ということ、「だから何か工夫が必要なんだ」ということは、お互いにしんどくても向き合う気持ち持てる関係が成り立てば、ちゃんと理解し合えるわけです。これは「相手の視点に立つ」という力をお互いに共有していることの証拠です。

 ま、ずいぶんとおおざっぱな話ですけど、とりあえずその辺は足場として共有されてるのかな、と思いました。

 
 

 

2011年2月 7日 (月)

うれしいこと

 コメント欄で繭さんが定型の人間について「私はこれまで、他の人がそんな風に感情をやりとりしているなんて想像もしていませんでした。」という「大発見」をされたり、アスペ同士としてカレンの夫さんのコメントとのすごい共通性に驚かれたり、その中での違いにも気づかれたり……

 定型同士、定型とアスペ、アスペ同士の間でこんな風に対話が進んで、そのたびにお互いにびっくりするような発見があったりする。こういうの、私としてはものすごく嬉しいんです。いや、もともとは自分のリハビリのために、という自己中の理由で始めてるブログなんですけど、もちろんこういう風に展開することは願ってもないことで。

 もうひとつ、何人かの方がコメントで、自分の気持ちを素直に表現していると書いてくださっていますが、これもまたものすごく嬉しいんですね。
 
 特に、定型とアスペのカップルって、だいたいが厳しいじゃないですか。まあ、少なくともネットでこういう関連のページを探して読まれる、という方の場合は相当ですよね。夫に対する絶望を通り越した思いを表明されている方があったり。当然そういう思いに至るには、それだけ壮絶なプロセスがあったわけですし。

 そういう定型とアスペの両方の側の方が、素直に自分の気持ちを表明してくださっている。これはほんとに素晴らしいことだと思えるんですね。

 ネットの持つ匿名性とか、距離とか、よくそのことでネット上ですごいひどいことが言われたり行われる理由としてあげられてますけど、ここではそれがうまい工合に正反対にいい方向に働いているように感じます。だって、日常生活の中で直接お互いに「恨み」とか「怒り」がたまった相手に面と向かって、もういい加減こじれまくっているわけですから、その相手と改めて気持ちを開いて話をする、なんて、そう簡単にはできないだろうと思うんです。

 ところがネット上では知らない人同士だし、自分には直接の利害関係はないわけだから、うまくいけばそういう過去の恨み辛みからちょっと距離を置いて、改めて話を聞いてみようとか、話してみようとか、そういう風になる可能性が出てくるんじゃないでしょうか。もちろん「対話したい」という気持ちをもともと持っている方が参加してくださっていることが大きいと思うし、それはとても大切な要素だと思うんだけれど、そういう気持ちが生きる場ができはじめていると言うことはやっぱり素晴らしいことだと感じます。

 そういう場ができればもう私もブログなんて書く必要もなく、みなさんで自由に展開してくださるのが理想ですが、そうするとこのブログという形式がちょっと不自由ですね。

 ということで、本日は「うれしいなあ」というお気楽お手軽記事で、失礼いたしました m(_ _)m

2011年2月 6日 (日)

アスペの人はなぜ個性的?

 カウンセラーなどをされているSanaさんのブログSilent Voices:Sanaのカウンセラー日記に、「アスペルガー症候群:最も分かりにくい障害」というタイトルの連続記事がありました。その(1)にこんな事が書かれています。

 「カナータイプの自閉症とアスペルガータイプの障害がいくつかの共通点を持ちながらも、アスペルガーの方が言語や知能の発達の遅れが目立たず、しかもコミュニケーションや社会性の障害が多様で、「典型例」を探すのが難しいという特性が、専門家の共通理解を得るのを難しくしている」

 ようするに、アスペルガーと言っても、それぞれの人がすごい個性的で、「これこそアスペルガーの見本だ!(正当派アスペ???)」みたいなものはなかなかないんだよね、ということですよね。

 実際、このブログにコメントを下さるアスペ関係者(?)の皆さんの数は、世界のアスペ関係者の数の中ではごくごく一部の一部の一部の一部の……の一部なわけですけれど、そのみなさんのやりとりの中でも、当然のようにそれぞれの方の個性的な体験や考えが書かれていて、「そこ、私は違うんですけど」みたいな指摘とか、アスペの特徴かと思っていたら、逆に定型の人とアスペの人が「同じ」だったりとか、そういうエピソードがもういくつか出てきています。繭さんの書かれたことに対してカレンの夫さんが下さったコメントもその一つでした。

 で、なんでなんだろうと考えるわけですが、こんなふうに考えてみると、まあ当然なのかなと思えてきます。


 カナータイプ(知的な遅れを伴った)自閉の子どもたちや大人の人の場合、「つきあってみれば」などという以前に、ちょっとやりとりしてみれば、あるいは場合によってちょっと様子を見ただけで、もうすぐにそうわかってしまいます。なぜかというと、会話そのものが極めて成り立ちにくいし、またその話し方も著しい特徴があり、それ以前に定型的な感覚で会話にとって自然な形で身体が向き合うということもむつかしいからです。

 すごく単純化して言ってしまうと、カナータイプの自閉の人との間では、言葉を中心として基本的なコミュニケーションを成り立たせること自体がとても困難になるのに対して、アスペルガーのみなさんは、たとえばこのブログでもある意味とても自然なやりとりをさせていただけるように、そこには困難はほとんど感じられません。ただ、つきあっていくと、そのコミュニケーションの仕方に、何かズレがあることに定型の側は気がついていく、という形になるわけです。

 立場を変えてアスペの人の方から考えてみると、カレンの夫さんも物心ついた頃から違和感は感じていた、と言われています。物心ついた頃、というのは言い換えれば言葉でのやりとりが上手になって、おままごとや○○ごっこ(ヒーローものなど)みたいに、一緒に物語りを作っていくような遊びを他の子どもたちと一緒にやることができたり、コミュニケーションの中でお互いの気持ちや考えていることなどをやりとりしながら、調整しながら遊ぶ力が大事になる頃でしょう。そういうときになんかズレを感じ始められるわけです。

 ただ、そうはいっても全然遊べない訳じゃないし、「ちょっと変わってるね」と言われるくらいで、それなりにみんなの遊びにもついて行くし、これは想像ですが、家庭環境や性格などによっては、特に男の子なんかは一時期リーダーみたいになる子もあるかも知れないなあという気がします。小学校に入ってからも勉強ができたりできなかったりは定型の子もそうなわけですし、アスペの人にはむしろ勉強が出来て、高学歴出世コース、みたいなひともあるわけですよね。

 実際、そうやって違和感を感じながらも、なんとかその中で生き延びていけるように、いろいろな工夫を積み重ねながら定型の社会の中で成長し、定型の人たちとコミュニケーションをとりながら自分の居場所を作っていくことになります。アスペルガーの人のひとりひとりの「生き方」というのは、そういう状況の中で作られていくわけです。

 そうすると、定型にとっても、生まれた場所や時代、家庭の環境などが違えば、それぞれの人の個性が大きく異なっていくわけです。たとえば日本人の子どもであっても、海外で異なる文化の人々とのコミュニケーションを積み重ねながら生まれ育った人は、日本の中で育った人とすごく違って、「帰国子女」という人たちも日本の社会になじむのが大変と言われるくらいに「違う個性」になっていきます。環境というのは本当に大きくその人を変えていく。

 同じようにそのアスペルガーの人がどんな家庭に生まれ、親がどんな人で子どもをどんな風に育て、そこでどういう親子関係が作られ、また地域や学校の中でどのような環境があったか、本人が男の子なのか女の子なのか、勉強は出来る方かできない方か、学校の先生がどんな先生だったか、ちょうど気の合う友だちに恵まれたかどうか、などなど、いろんな条件が変わると、その中でどんな風な生き方を作り上げるかはほんとに千差万別になっていくのは当然ということになります。

 つまり、カナータイプの自閉の人は、コミュニケーションから学び、コミュニケーションを自分なりに工夫する、ということができる範囲が極端に狭いのに対して、アスペルガーの人はコミュニケーションから学び、親や友だちなど、他の人たちとの関係に大きく影響されながら、自分なりに工夫して生きるということをずっと積み重ねてこられるわけです。当然そこにはその人の「価値観」といったものも千差万別に作り上げられていくことになります。

 定型と比較して、定型の視点からアスペルガーの人を「定義」したりするときには、「コミュニケーションができない」という側面にものすごく焦点が当たりがちですし、実際たしかに定型の側から見れば、定型にとってはごく自然な、当たり前に思えるコミュニケーションがうまく取れず、そこでいろんな葛藤が生じることは間違いありません。だから、カップルでわけのわからない葛藤に苦しんでいる場合、そこに実は定型とアスペのコミュニケーションのズレという問題があることに気づくかどうかは、多くの皆さんの経験でもものすごく大きな意味を持っていることは明かです。それに気づくか気づかないかでほんとに違う。

 けれどもそれに気づいたあと、アスペと定型のカップルがその後うまくいくかどうか、ということを最終的に左右する一番大きな分かれ目は、そのひとがアスペルガーかどうかなのではなく、そのカップルカップルで、「アスペルガーの人が持っている価値観や個性」と「定型の人が持っている価値観や個性」の相性の問題や、その調整の可能性なのだろうと思うわけです。もちろん調整可能性の幅を決めるのは、本人同士だけに限られず、友人や実家、子どもや地域社会等との関係がそこに効いてくるはずですが。

 そうすると「価値観や個性」が作られていくのはコミュニケーションを通してである、という、上に書いたことが改めて大事な問題になります。つまり、「コミュニケーションができない」、正確に言えば「定型的なコミュニケーションは苦手」ということよりも、むしろ「(アスペ的に)コミュニケーションができる」ということの方が、現実のカップルの抱えている問題を考え、お互いの未来をどうしていくのかを考えていくときには、最終的にはずっと大事なポイントになるのだろうと思えてきます。

2011年2月 5日 (土)

他人の気持ちは本当にわかる?

 「対話と翻訳と解釈と」に対して、アスペルガー傾向と言われる繭さんから頂いたコメントに、何か触発されるところが多くて、今日はちょっとそこから考えさせていただきたいなと思います。

 以下、頂いたコメントをそのまま順に見ていきたいと思います。

> 私は「あなたにとっては、そう(感じられる)なのだね」という言葉がとても好きです。
> これを親しい人に言われると、とても安心します。自分の大切な人にも言います。

 この言葉、学生時代にちょっと興味があって、よその学部に潜り込んで臨床心理関係の授業を聞いたとき、カウンセリングをやっている講師の人が「こういうふうな言い方をするといい」と言っていたのですが、なるほど、とすごく印象に残った言葉なんです。その意味はこんなことでした。

 その講師は「相手の話を受容的に聞く」ということを一番強調する、ロジャース派というやり方があるんですが、その派の人で、「受容的に聞く」とか「共感的に聞く」というのはどういうことか、ということをわりと丁寧に話してくれたんです。で、日本人って「受容」とか「共感」が大好きなので、ロジャース派はウケが良いし、その他のカウンセラーも基本的には「受容」とか「共感」をすごく大事にしてるみたいです。

 ただ、その講師が言うのには、日本で言われている「受容」とか「共感」というのは、ロジャースの言うのとはちょっと違って、すごく日本流だと言うんですね。(これは私の喩えですが)言ってみれば「男はつらいよ」の世界で「なんでも受け入れてあげる」「私はあなたのことは何でもわかってあげる」みたいな、そして違いを言うと「それを言っちゃおしまいよ」と言われそうな……ちょっと乱暴な喩えですが、そんな感覚で理解されている。

 でも、カウンセラーだってひとりの人間で、相手の人が話すことを心の底から受け入れるなんてできるわけないし、何でもわかっちゃうなんていうこともあり得ない。極端な話、「私、何をやっても駄目で、もう死にたいんです。」とか言われて、「ああ、わかります。そうですね。もう死ぬしかないですね」とか、「共感」して「受容」は出来いないわけですよね。それとか「もう憎くて憎くて、殺してやりたいんです」と言われて「その気持ち、よくわかります。もう殺すしかないですよね」とも言えない。もちろん「共感」して「私もお手伝いします」なんてあり得ない。

 でも「あなた何を言ってるんですか!そんな弱気なことでは駄目じゃないですか!みんな苦しみながら頑張ってるんです!あなたももっと頑張らなければ!」とか、そういう言い方はこれもまた最悪の受け答えになります。全然相手の人の死ぬほどの、あるいは殺したいほどの苦しみを受容せず、一方的に否定しているわけですから。

 で、受け入れることも出来ないし、否定も出来ない、という時に「理解」を示す言葉、それが「なるほど、あなたはそう感じるんですね」という言い方になるわけです。これは「私は必ずしもそう思わないけれど」という意味を含みながら、でも「あなたの立場に立てばそういう気持ちになることは理解できる」という態度を示していることになるからです。それは「私とあなたは違う人間なんですよ」ということを前提とした言葉です。

 だから、場合によって「あなたの言うことは私にはよくわからない」と伝えることも、ロジャースの共感的な受容的な聞き方では重要になるわけです。よくわからないのに「ああそうですね」とは言ってはいけない。それは本当の共感ではないことになります。わからないときにはわからないと伝えた上で、それで拒否するのではなく、さらにわかろうと努力する態度を維持することが受容的ということだろうと思います。

 まあ、聞いた話なので、この理解でどこまであってるのかわかんないんですが (^ ^;)ゞ 、私の場合、そう理解して面白いなあと思ったし、大事なことだなと思ったんですね。

 ですから、繭さんが

> 今日までの記事を読んでいて、上の言葉が浮かびました。

 と書いてくださったことは私にはとても嬉しいことでした。ひとりひとりみんな生まれも育ちも感じ方も考え方も違って、相手を完全に理解するとか受け入れるなんていうことは逆立ちしても不可能で、でもそういうそれぞれに個性を持った人が、自分を否定するのでもなく、相手を否定するのでもなく、かといって適当になれ合うのでもなく、お互いに自分と相手を大事にしながら少しずつでも理解を深めていくという姿勢を維持していく場。このブログもそんな場になってくれればなというのが私のささやかな願いなので。

 さて、そういう私にとってはとても意味を感じる「なるほど、あなたはそう感じるんですね」という言葉ですが、実際の生活の場でこの言葉を使うときはやっぱり難しさもあるように思います。これは特に「全面的に受け入れてもらう」ことをすごく重視する日本の人間関係ではそうだと思うのですが(欧米や中国などでは言ったことにばんばん反論が来ますしね)、言い方によっては「あなたはそう感じる、私はそうでない。だからあなたと私は合わない」と、突き放され、拒否されたように感じられてしまうことがあるからです。

 「突き放してる」のではなくて、「もっと理解したいと願っている」ということがうまく伝わるかどうか。もしかすると特に日本の人間関係では、そのことをさらに付け加えて態度や言葉で表現することが必要なのかも知れません。「今はまだわからないところがどうしても残るけど、また考えてみるし、教えてね」など。そういう態度がお互いに取れるようになれば、多分関係はずいぶんと変わると思えます。ここでもやっぱり「お互いに」ということが大事だと思うのですけれど。そうでないと、たんに「なんてお前は物わかりが悪いんだ!」と一方的に決めつけられておしまい、ということにもなりかねません。

 もうひとつ、次の文章

> 私は子供の頃、周囲との摩擦が大きかったので、自分と周囲への違和感の自覚は早くからありました。なんというか「自分の見ている世界はおそらく他の人の見ている世界と違うだろう。そして、きっと皆それぞれに違う世界を見ているのだろう」というような。
> そんな認識でしたので、私には誰かの考え、感じていることを想像まではしても、確信を持つことは出来ませんでした。

 パートナーと話していても良く言われることなんですが、「他の人がどう考えているかはわからない」ということをアスペルガーの人はかなり強調することが多いように感じるんです。で、それは「アスペルガーの人は他者の気持ちを理解する能力がない」というふうに解釈されることが結構あるように思えます。でも、このブログでも何度か考えてみましたし、よく話を聞いていると、定型とは違いがあるかも知れないけれど、実際はアスペの人なりに他者の気持ちを理解したり、共感したり、あるいは「思いやったり(定型語)」しているように私には思えるのす。

 だから私にはなんだか「他の人の気持ちはわかるはずがない」ということを、アスペルガーの人はある意味「過度に強調している」ように感じられたりしたんですね。で、なんでなんだろう?と考えていて、最近感じ始めていたことが、ちょうどここで繭さんが書いてくださったことのような話だったんです。

 定型の人間だって、「私はあの人の考えがよくわかる」とか「あの人の気持ちがよく伝わってくる」と言うことはままありますが、もし面と向かって「本当にわかるんですか?それはあなたが想像したに過ぎないんじゃないですか?どうしてそう言い切れるんですか?なにか証拠があるんですか?」とかしつこく聞かれ続けたとすると、多分ほとんどの人は、「まあ、絶対とは言えないですけどね。多分そうだと思うんですが」みたいな言い方になっていかないでしょうか。

 実際、理屈から言えば、私と他人は違う人な訳ですから、「完全に同じ」ということはあり得ない。だから「完全にわかる」ということもあり得ないわけですね。でも定型同士の関係では多少のズレがあったとしても、そこにはあまりこだわらずに「同じだ!」と感じたり、言ったりするわけです。逆にそこにこだわりはじめると、「まあ絶対とは言えないですけどね」の話になっていく。そうするとある意味ではアスペルガーの人と同じ言い方になるわけです。ただそこまでこだわらないことで定型の日常生活が作られている、とういうにすぎないとも言える。

 つまり、アスペと定型の間では、どちらも感情の理解や共有ということがあるのだけれど、その仕方になにかズレがあるために、少数派のアスペの人は回りとうまく共有できない体験を子どもの内からいやというほど繰り返し、逆に共有できた体験はとても限定的なものになって無視されてしまう。そういうことの結果、「理解できない」「共有できない」ということが基本である、という感覚になるのではないでしょうか。で、逆に定型に「わかる」と簡単に言われると、「そんなことあり得ないじゃないか。なんていい加減な」という気持ちにもなる。

 もしそうだとすれば、「アスペルガーの人は感情理解が出来ない」という決めつけ的な見方を少しほぐして、理解の仕方が定型とズレる、という観点から、もう一度お互いの理解の仕方を考え直してみる必要があるように思えるのです。

2011年2月 4日 (金)

対話を支える「私たち」

(予めの言い訳: 以下に書いたこと、読み返してみると、特に後半の方は定型語にもなっていないパンダ語の連続かも知れません (^ ^;)ゞ  で、こういう議論の仕方が「アスペと定型」のコミュニケーションに相応しいのかどうかも全く自信がありません。 弱視の方には書き方に非弱視者とは異なる配慮が必要なように、定型と異なる理解パターンをもたれているアスペの方にもわかりやすい書き方、わかりにくい書き方とか、そういうのがあるのかなとも思いますし、そのあたりはまた遠慮無くびしばしとご指摘下さい m(_ _)m )


 joさんからいただいたコメント、私にはちょっと難しくて、ゆっくり読み直して「ああ、こういうことだろうか」と勝手に解釈(改釈?)させていただくと、なんだかすごい重要な問題を提起して下っている感じがしました。

 次はその頂いたコメントの最後の部分です。


> しかも、ウツになっちゃた後は、すでに「健全」に機能できなくなってるし。……こうなったら「おかしいのは私の方??」という言明すら『現実』にすごく近づいていたりします。もう地獄絵ですけど。ほんとにスパイラルでもがいているのって、そういう感じじゃないですか。そういう状況下で、「おかしいのは自分の方かもしれない」という可能性を担保しないで進むことは、どこか理性的じゃないと私には思えてしまいます。その「自分に何かが見えていない」可能性を担保することは、「ええっ、なんだ、そうだったのか!」という感動と理解に到達できる可能性を確保することだと思いますが。


 この文章より前の方で書かれている(と私が思う)ことは、定型の人間がアスペルガーの配偶者と生活していると、お互いの常識がすごく違ったりするものだから、それまで当たり前と思っていた自分の「現実」の世界が、なんだか怪しくなっていってしまう、ということが起こるということ。

 そして自分のそれまでの「当たり前(常識)」に不安を抱いて、周囲の人に配偶者との間で抱える自分の悩みを話してもなかなか理解してもらえない、ということがあって、そうすると、「常識外れなのはもしかして自分の方?」という思いが出てきて、ますます不安になっていくということ。(カサンドラ状態ということです)

……えっと、ちょっと注釈ですが、ここで周囲の人がなかなか信じてくれないのは多分無理無いところがあって、このブログの始めに関連する問題を少し書かせていただきましたが(家でほっとできるってどういうことなんだろうか)、特にアスペルガーの人は外では頑張って他の人に合わせるようものすごく苦労して努力しているけれど、親しい人との間で素の自分に戻るから、外で無理に頑張っているその人の姿だけを見ている人にはすぐには信じられないということも起こりうるのだと思います。……

 つまり、足下がどんどん揺らいでいってしまうわけですね。それは昨日の記事(対話と翻訳と解釈)で紹介したななさんの「対話が成立する前の翻訳」の状態と同じようなものなのではないかと想像します。「もう、何が正しくて、何が間違っているだか、全然わかんなくなってしまう!」というような混乱状態。

 さらにASとかADHDとかの障がいのことを考えてみると、スペクトラムという言い方があるみたいに、「正常」と「障がい」の間に明確な線引きがあるわけでもなくて、極端な話、ASの人が正常の人を見るとADHDっぽく見えるし、ADHDの人が正常の人を見ると逆にASっぽく見える、みたいな「相対的な判断」にすぎないかもしれない。だとすれば自分が「正常」と思っていたのは、別に確かな根拠なんて何もないかもしれないじゃないかと思えてくる。

 そんなこんなで自分の足下が崩れ去って、「自分は正しいんだ!」という自信もなくなり、それどころか「自分が悪いのではないか」という思いにさいなまれるようになって、最後には鬱になってしまう。
 
 で、上に引用させていただいた文章になりますが、そうやって鬱になると、ますます自分がかつて思っていた「正常」の状態からさえも実際に自分が離れていってしまうわけだし、「現実を見失っておかしいのは自分の方だ」という考え方がますます説得力を持ってきてしまう。

 そういうのは「地獄絵」のような状態だということですよね。


 もしここまでに書いてみた私の理解が的外れでないのだとすれば、私もjoさんのおっしゃるとおりだと思います。ななさんの話で言えば洗濯機の中のハツカネズミ状態ということでしょうか。

 ただし、joさんはそこでコメントを終えられているのではありません。その先に、そういうふうに自分の「現実(常識)」に確信を持てなくなるような、危うい状態になるのだけれど、でもそうやって自分自身の「常識」を離れてみることで、いつかは「もうひとつ別の見方(アスペルガーの人の見方)」もわかるようになるかもしれない。そういう可能性を手に出来るのではないか。ということを述べられています。


 と、いう風にjoさんのコメントについて怪しげなパンダ理解をしてみたところで、次にこの問題提起が重要だと思えるのは何でなのかを書いてみたいと思います。

 ここでjoさんが地獄絵とかスパイラルとか書かれている状態というのは、みみさんの用語で言えば「ダブルバインド」みたいな状態ではないでしょうか。自分の常識ではうまく安心して生きていくことが出来ないという辛い状態を続けていながら、しかしそこを離れてしまうと問題の解決はないようにも思える。自分の常識を相対化することはとても苦しいことだけれど、相対化しなければパートナーとの新しい関係に進むこともできない。

 これ、異文化間のコミュニケーションでも同じような葛藤で苦しむように思います。相手は自分の常識では推し量れない。常識外れもいいところだったりする。でも、じゃあ自分の方が絶対正しいと言えるのかと考えると、そうも言えない。実際、異文化の人たち同士では、そっちの方が正しいとされている。いや、どちらが正しいとか、そういう問題ではないのかも知れない。そもそも正しさなんて相対的なものに過ぎないのかもしれない。

 でも「なんでもあり」の世界というのはめちゃくちゃ混乱してしまって生きて行かれないし、相手との関係だって結局うまくいかない。相手にも合わせきれず、元の自分にそのまま戻って閉じこもることも出来ず、どっちつかずの状態でどうしていいかわかんない。でもこの場から逃げてしまえば、永遠にその異文化の人と理解し合うことは無理だということは間違いないと思える……


 で、ここまで考えてきたときに、ななさんの「対話的関係が成立した後の翻訳」の話が生きてくるように思えます。どちらの立場もそれぞれに理由があり、それぞれに正当であることを「お互いに」尊重した上で、その間を橋渡しする道を探るという生き方ですね。ただし、ここでは次のことを新たに強調してみたいんです。「それぞれに正当」とは何か、ということです。

 「対話」というと、通常は自立した個人と個人の関係、というイメージがないでしょうか。集団の中に埋没して、回りの顔色ばかりうかがって自分で考えられないような人は、結局相手の人と話をしても集団の常識を引きずっての判断しかできないし、そういう集団に埋没した自分を相対化し、独立した個人として相手と「虚心坦懐、裸になって対話する」ことは出来ない。そんなイメージのことです。

 ところがここに大きな落とし穴があるのだと思います。たとえばカルチャーショック状態になると嫌と言うほど体験するように、自分の確固とした信念、自立した自分の判断と信じて疑わなかったことが、その信念や判断を支えてくれる(共感してくれる)他者がいないところでは、じつに簡単に(?)崩れ去ってしまいそうになると言うことです。joさんがカサンドラ状態という言葉で説明してくださった状態ですね。

 これはその人の信念がもともといい加減だったからだとか、根性がなかったからとか、そういうことではないと私は思います。「正しさ」というのは、それを共有してくれる人(尊敬する人でもいいし、父母でも良いし、親友でも良いし、あるいは「神」のような存在でも良いし)がなければ、そもそも成立しないし支えられないものだと思えるのです(ただし、ここは「定型の人間は特にそうだ」ということなのかも……)。だからこそ、文化が異なれば「正しさ」が異なるということも起こる。

 もちろん、「対話」はその対話する人が、自分の属している集団に埋没して、そこでの発想に単にしがみついているだけでは成立しない。その意味では集団から自立しなければ対話は成り立たない。でも、その対話する自分の「正しさ」を支えている、他者とのつながり(固定した集団である必要はありません)が存在しているのだと言うこと、そのことは否定しようもなくついてくる「事実」だし、そのことは繰り返し自覚しなければならないと思うのです。そうすることで、それまで自分を育て育み、支えてきてくれた人と人とのつながりを支えとして(言葉を話すということ)、「自立した個人」として「対話」に望むことが出来る。

 そうすることは別に自分の「正しさ」を相手に対して強制することではありません。私は私が生まれ育った状況の中で、そこで共に生きてきたいろんな人との関係を足場にして、自分なりの「正しさ」をその人達と作り上げてきた。そのことを認めるということは、違う状況に生まれ、違う関係を足場に生きていた人には、その「正しさ」は通用するとは限らない、ということを認めることでもあるからです。もちろん、生まれながらに定型から「障がい」と名付けられるような条件を持って生きてきた人は、そういう定型とは異なる状況の中での生き方なり「正しさ」が生み出されていくことになります。

 「アスペルガーという理解を共有することの意味」は、こういう面からも言えることではないでしょうか。もちろんここで「アスペルガーという理解を共有する」というのは、「お前は障がい者で、俺は正常者だ」といったような、差別的な関係をそこに作ることではありません。お互いにアスペと定型という、違う個性を生まれながらに背負って周囲の人たちとの関係を作りながらそれぞれ生きてきた、そのことをお互いに認め合うという意味です。

 

2011年2月 3日 (木)

対話と翻訳と解釈と

 昨日の「大発見」に続いて、またななさんのコメント後半部分から考えさせていただいたことを書きたいと思います。

 ななさんはまずこう書かれています。

> 「翻訳」なしに夫との「対話」はありえません。ただ、かつてやっていた「翻訳」と、対話が可能になった今やっている「翻訳」は別物だなあ、とパンダさんの記事を読みながら思いました。

 ななさんのパートナーの「アスペ語」をななさんの「定型語」へ「翻訳」する仕方に二種類ある。しかもその違いは「対話」の中で行われるかどうか、という点が決定的に違う。もう、これ読んでよだれが出そうでした……すみません、根がお下品なもので (^ ^;)ゞ 

> どう説明したらいいのか・・・かつてはたぶん、わたしが夫のAS語を習得しようとしたんだと思います。その結果は、洗濯機に落ち込んだハツカネズミみたいなことに・・・。水におぼれ、振り回され、もみくちゃにされ、脱水されて、かろうじて生きてはいたけれどもうぼろぼろで、死んでもおかしくなかった。

 なんでハツカネズミでハムスターじゃないんだ? という突っ込みは無しにして……、 

 これはむちゃくちゃ良くわかります。もう、とにかく振り回されて振り回されて、自分の足場がまるで失われてしまう。相手を理解しようと頑張れば頑張るほど、自分の足場が崩壊していってしまうわけですね。しかもそのことの深刻さに気づいてわら一本投げてくれる人もいない。ただただひとりでもがき、死にそうになる。

 いや、もしかするとかまぼこ板くらい、投げ込んでくれる人はあって、それにしがみついてぎりぎり息は出来たかも知れないけれど、でもそれも含めてぐるぐる回されるばかりで、かまぼこ板が足場になるわけでもない。

> 今やっている「翻訳」は、まえにAS同士のご夫婦の方が(すみません、どなただったか覚えてなくて)おっしゃっていたのに近いんじゃないかと思うのですが、それぞれが自分の言語をもち、対話するときにはどちらとも違う第三の言語を使っている。そんな気がします。

 Rosamondeさんのコメントですね。第三の言語、ということはおっしゃるように「どちらとも違う」とうことが重要で、つまり、お互い立場は一緒ということになります。どちらも「自分の言語(足場)」をしっかり確保した上で、お互いの間に橋渡しとして「第三の言語」を架けるわけですね。だから振り回されることはない。

 ということで、

> 今の「翻訳」には、慣れてみると、あまり違和感を感じないんです。それは、AS・定型それぞれの立場からの気遣いであり、思いやりであり・・・なんてというと、その意味をめぐってまた混乱が生じそうですね・・・相手を尊重すること(でどうでしょう?)じゃないかなと。

 「それぞれの立場から」「相手を尊重する」という事になるわけです。

 要するに対話前の「翻訳」は、ななさんが一方的に相手を理解しようとする関係で、それは自分を捨てることにつながり、一種の「従属」的な関係になってしまいます。それに対して対話成立後の「翻訳」はお互いがお互いを違う人格として認め合った上で模索される関係になるわけです。

 で、以前「解釈」と「翻訳」の違いがコメントで問題になったことがありましたが、この二つの言葉をここにあてはめてみてはどうでしょうか。ここでAさんとBさんの間のコミュニケーションということで考えてみます。

 まずBさんの言動についてのAさんの解釈というのはAさんの一方的な作業と考えます。その解釈に相手のBさんが納得するかどうかは大きな問題ではなく、Aさん自身が納得できればそれでいいわけです。だからこれは「対話が成立する前の翻訳」です。

 ところが本当の「翻訳」の場合(通訳でも良いですが)、その翻訳にAさんもBさんもお互いが納得できなければ翻訳が翻訳としての役割を果たせないことになります。たとえば村上春樹の小説が英語に翻訳されたら、内容がまるっきり違う別の小説になってしまっていたとすれば、それは翻訳とは言えません。

 かといって、村上春樹(でなくても誰でも良いんですが (^ ^;)ゞ)の小説の、あの日本語の雰囲気をそのまま正確に英語に直すことは絶対に不可能です。日本語の世界と英語の世界は、完全には置き換えることができない。そのことを大前提として、英語の世界の理屈を保ちながら、なんとか通じるように村上春樹の日本語の世界を写し取ろうとする努力が翻訳ということになります。そういう翻訳という作業は、お互いの世界(日本語と英語の)に橋渡しはされながらも、それぞれの世界は、どちらも否定されることなく存在し続けることになります。

 まあもうすこしつっこんで言えば、翻訳は元版があって、それを一方的に相手の言語に移し替える作業なので、もしかすると双方向に「翻訳」しあう作業である「通訳」と言った方が、この場合はよりわかりやすくなるかも知れませんけれど。

 そうすると、ななさんが「今の「翻訳」には、慣れてみると、あまり違和感を感じないんです」ということの意味がとてもよくわかる気がします。そしてそれが「対話」が成立するようになったあとにそうなったということも。

 さて、ここでこれまで何度か問題としてきた、「アスペルガーという認識が共有されるかどうかで関係が全く変わる」ということについて、なぜそういうことが生じるのかのとても大きな理由が見えてくることになります。それは「お互いが違う世界を生きている」ということを、お互いが認め合うための大きな一歩になるからです。

 もし同じ世界に生きているのであれば、翻訳も何も必要ありません。ただ自分の感覚のまま、相手とコミュニケートすればいい。自分がおかしいと思うことは相手もおかしいと思うだろうし、自分がこうすべきと思うことは相手もそう思うだろうし、だから当然のこととして自分と同じ基準で相手も動くべきだということになる。

 ところが「アスペと定型」という形でお互いの世界に大きなズレがあるのだ、ということが理解されるようになると、その違いを前提としてどう改めてお互いの通じ合いを作れるのか、という作業に、共同して取り組む可能性が出てくることになります。

 お互いの世界が完全に一致することは永遠にありえません。これは厳密に考えれば、定型同士の夫婦だって同じ事です。けれども、違いを理解し合う姿勢を持つことで、自分自身の世界は保ちながらも、そこに橋を架けるという、翻訳の作業に取り組むことが可能になる。それは異質な者同士の「共同作業」になるわけです。同じ世界を共有するのではなく、橋を架ける作業を共有する、そういう「仲間」あるいは「同志」になれるかどうか。その前提に「アスペと定型」というズレの認識を共有できるかどうかの違いが決定的に効いてくるのだと思います。

(ただし、そういう共有が無いところで関係が一切成り立たないということを主張したいわけではありません。それについてはまたいずれ考えてみたいところです)

 

2011年2月 2日 (水)

本日の大発見!?

 きょう、ななさんからいただいたコメントを読ませていただいて、「やっぱりそうか!」と思ったパンダ版大発見がありました。まずはそのコメントの「やっぱりそうか!」の部分をご覧下さい。

ななさんのコメント

 「そして、わたしも、「夫が見ているのは実際の私ではなく、自分の頭の中に『こうである筈だ』と作り上げた幻の私だ」、と思いました。夫の見ている世界そのものが、現実の世界ではなく「夫の頭」というコンピューター上に作られた、現実にとても忠実に作られた仮想世界、その中で彼はあらゆることをシミュレーションしている。そのシミュレーションを現実であるはずだと思っている。そして、当然生じる本当の現実との差に「なぜだ(怒)?こうなるはずなのになぜならない!?」といつも怒っている。そんな印象を受けていました。」

 ななさんはご自身が定型で、パートナーの方がアスペルガーというご夫婦です。パートナーの方は結局定型の世界で生きているななさんの姿をありのままに見てくれることなく、アスペルガーであるご自身の理解の仕方に無理矢理当てはめてななさんを見ていて、そしてその姿からズレると言って怒る(当惑する)、ということですよね。

 定型同士の間でも、相手が実は無意識に自分の中に初恋の人の像を重ねていたとか、あるいは母親(または父親)を重ねていて、「本当の私を見てくれていない」と苦しむという話にはときどき出会います。手塚治虫の「シュリ」という大河漫画でも、終わりの方にそういう構図を下敷きにした感動的なシーンが出てきます。

 そういうところでななさんは苦しまれていたわけですよね。

 では、次にご自身がアスペルガーで、パートナーが定型という逆パターンの繭さんのコメントを見てください。


繭さんのコメント

 「自分としては、気持ちも行動の理由も説明しているのに、相手にはそのように伝わらない。夫が見て聞いているのは私なのだろうか?それとも彼の中にある得体の知れない誰かなのだろうか?と混乱しました。」

 実に、全く同じパターンではないでしょうか。

 一方は定型の視点からアスペルガーのパートナーの方について感じたこと、そして他方はアスペルガーの視点から定型のパートナーの方について感じたことと、その構図は正反対ですし、もちろん相手も全く別の人であるにもかかわらず、そこで感じる困惑の形(パターン)は全く同じなわけです。

 定型の側からはなぜアスペルガーの人が自分についてそういう見方をするのかがよく理解できない。アスペルガーの側からは定型の人が自分をどうしてそういうふうに見るのかが理解できない。その理解できない具体的な内容はそれぞれ違うものです。ところがこんなふうに「相手は自分の中に別の人を見ている」と感じて戸惑う、その悩み方はほとんど一緒と言えることになります。

 これはアスペと定型のコミュニケーションを考えるときに、すごく大きな手がかりにならないでしょうか?お互いほんとに理解し難いくらいにずれていて違うんです。でもそのズレを受け止める受け止め方、悩み方にお互いにすごく通じる部分が見えてくる。

 いや、実は私がこのブログを始めるに当たって、何よりもまず見つけたかったのは、実はこういう種類のポイント、こういう種類の手がかりなんですね。ということで、他にもななさんのコメントですごい大事なことを感じたんですが、今日の所はこれでもう十分と言うことでおしまいにさせていただきます m(_ _)m

2011年2月 1日 (火)

「翻訳」の可能性:joさんとの対話

 joさんからいただいたコメントに、私が今考えていきたい大事なポイントが沢山問題として提起されているように思い、こちらの方で応答させていただきますね。

>私自身が、「定型」というものをある種の幻想、物理の理想状態みたいなもんだと捉えています。うちの場合、私の方が「定型」と称されているものに、たぶん近いだろうという認識です。(標準知能検査をすればプロファイルの凸凹が、より少ないだろうな、程度のこと)。その上で「定型」「非定形」みたいな表現をさせてもらいます。

 知能検査というのは、作り方を調べてみると、要するに沢山の人に問題をやってみてもらって、おおざっぱな言い方ですが平均すれば何点とれるのか(正確に言うとめんどくさくなるので (^ ^;)ゞ )、みたいなところで「標準」を決めてるようですね。だからプロファイルの凸凹がないというのは、要するにめちゃくちゃ平均的、というわけだけど、考えてみると全部の問題で平均点の人ってほとんどいないわけだから、なんだか変な話と言えば変な話なんだろうと言う気がします。「理想状態」という喩えをされているのもそんなことなのでしょうか。ただし人々の「平均」が物理でいう「理想」かどうか、というのはちょっと微妙な感じもします。(物理わかんないんで、すみません (^ ^;)ゞ)

 それはさておき、「定型」か「非定型」かということについていうと、私はやっぱり単に点数の違い、みたいなことではなくて、なんかもうちょっといろんなことが関連してくる「性質の違い」なのかなと思えるんですね。だから、そのお互いの「性質」を理解することに意味が出てくるんだろうなと思います。


>「定型」側に、ある種の耐性が強く備わっているほど、問題がより深みにはまってしまうんではないかと感じています。好意的に解釈して問題を先送りにできる能力みたいな。異文化とか異なる思想、考え方に一時的に共鳴する、深読み能力みたいな。これは「定型語」では「共感」だと思うのですが。「定型×定型」の場合には、小さな誤解は先送りすると霧消することが多いので、これが有効な平和的戦略になり得るはずですが、そこに非定型の「純粋定型批判」みたいな無邪気な論理と、フラッシュ記憶みたいな強力な原始的感覚が介入してきて、先送りしたはずの小さな誤解が、ものすごい破壊力で爆発してしまう。そんな感じってありませんか?

 以前、joさんの経験されていることと、私が経験してきたことに、大きな共通性がある一方で、なにかまだ言葉に出来ない違いも感じる、と書いたことがありますけれど、このあたりはそこに関係しそうな気がします。

 たしかに「純粋定型批判」と書かれているようなこと、つまり、とてもシンプルな割り切り方で事態を理解し、定型がよくやるような「曖昧さ」を含んだ判断が共有されにくい、ということはあると思います。これはアスペルガーの方のブログとか読んでいてもしばしば感じます。

 そこで思い出すことは、一部のアスペルガーの方は、そこに「確率」というような考え方を入れて、理屈でその「曖昧さ」の部分を理解されようとしていることがあるように思えるということです。繭さんのコメントでも「高確率で」というような表現があって、ああなるほど、という感じがしましたし、以前にちょっとだけご紹介したことのあるnonono12345さんのブログでも、定型の曖昧さを含んだ判断の仕方をどう理解したらいいのかということで、物理学の議論とかも参考にしながら、いろんな議論を試みられたりしています。

 で、そういうのを読ませていただいている限りでは、「ものすごい破壊力で爆発」という印象にはつながりにくい感じがするんですね。nonono12345さんなんかはどっちかというとひたすら迫害され、いじめられて反撃も出来ずにブログで怒りをはき出しながら独り言を言っているという感じですし。私のパートナーの場合はそういう「確率」とかの話で論理的に問題状況を理解しようというタイプではないのですが、やっぱり「ものすごい破壊力で爆発」というよりは、内にこもるほうかも知れません。そのあたり、その人その人の性格とか、生活歴とかが効いて、同じアスペルガーの人でもだいぶ個性の違いがあるのではないかという、漠然とした印象を持っています。

>定型が好意的に解釈するための包容力も、負担ゼロで発揮しているわけではなく、先の見通しに支えられて、かなりの精神的負担をしながら先へ進むので、「定型」の側でも耐性の余裕部分がすでに損なわれています。借金状態で自転車操業してる。これは「究極の打算」というように翻訳されるかもしれないものですよね。

 カレンの夫さんがおっしゃっていた「思いやり」についての議論からすれば、たしかに「究極の打算」という翻訳も成り立つのかなと思います。そして、この状態は私の考えではやっぱりギブアンドテイクが成立していない、ということだと思うんですね。だから何らかの形でそれが成立することがどうしても必要に思えます。

 たとえば何がギブで何がテイクかについての視点を変えて、今までテイクと感じられなかったものがテイクと感じられるようになるとか(その一つの究極の形は、以前にも書かせていただいたような宗教的な「無償の愛」を成り立たせるギブアンドテイクだと思います)、お互いにとって現時点でのギブとテイクの理解が違っているから、そこを調整していくように二人でもう一度関係を考え直すとか、そういうことが行われない限り、いずれは関係か、あるいは自分自身が維持できなくなると思えます。

 私にはiroriaさんの超人的な努力と、その裏に隠された自分の命を切り刻んでいくような壮絶な痛み、そしてその先に力尽きたかのようにネットから消えてしまわれた過程というのは、そういうギブアンドテイクが成立しなかったことの結果のように思えてなりません。そこをなんとか乗り越える道を、多くの方のそれこそ命を削るような貴重な経験から考えていきたいんですね。もちろん個々にはその関係を「あきらめる」という選択肢を確実に確保しながら。

>言葉だけでなく、表情とか行動様式とか、服装やらヘアースタイル、それに仕事の出来栄え、結果みたいなものまでも、ともすれば心的態度として捉えられてしまう「定型的」日本社会の文脈の中で、うまく表現しきれませんが、「翻訳」に期待しすぎるのは、どうかな、という危うさを感じますけど。

 これはおっしゃるとおりだと思います。逆に言えば「翻訳」に期待できる関係とはどういう関係なのか、ということを考えていくこと、それから現時点でそれが無理であれば、何がそのような関係を拒んでいるのかを探っていくこと、そこが大事になるのだと思います。

 それからもうひとつ、「翻訳」しあう関係作りにある程度成功してきている方達の経験、カレンさんご夫妻などに学び、また繭さんやRosamondeさんのようにアスペルガーの方から対話的にこの問題に向き合ってくださる方との関係を大事にして、みみさんのように「両方がわかる」とおっしゃる方の見方も参考にしながら、比較的「条件がよい(?)」ところで道を発見し、だんだんより難しさを伴う関係に進んでいく、というやり方もあるかなと思います。

>「翻訳」は、結局、「翻訳」でしかないことを心せよ、ということを、パンダさんも言ってるのかな。

 それはそうだと思います。そして実を言うと、定型同士のコミュニケーションも、広い意味ではそういう「翻訳」で成り立っているんだ、とも考えているんですが……

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